思想、生き方、考え方」カテゴリーアーカイブ

自分の頭の中身と考え方。

「今までできなかったから、次もできない」と考えるか、それとも「今までできなかったけど、次はできる」と考えるか。どちらのように考えるかで自分の将来は大きく変わる。

次もできないと考えると、次へのアクションを起こせなくなる。アクションを起こさなければ、できる可能戦はゼロである。次はできると考えてアクションを起こせば、できる可能性は100%でなくてもゼロでは決してない。さらに成功への展望がはっきりとしていれば、可能性はぐっと上がる。

人間の頭の中身は他人には見えない。しかし自分では頭の中身が見えることは多々ある。自分の頭の中身が見えていれば、次への道筋がおのずと見えてくる。従って自分の可能性は自分が一番把握しているはずだ。可能性の判断を、決して他人任せにしてはいけない。

頭脳ゲーム。

先日の五輪カーリングの試合を観ていて、カーリングとは非常に頭脳を使うゲームであると知った。ストーンをどこに置きに行くかを読むことはもちろんだが、コーチは三投先まで読んでいるらしい。カーリングは頭脳スポーツであると言えよう。

頭脳ゲームと言って真っ先に思いつくのは、将棋であろう。先ほどのカーリングと同じで、次の手を読む「短期的展望」、そして試合全般を読む「長期的展望」が必要になる。この二つの展望は、人生についても同じである。“今どう生きるか”という短期的展望と、“どのような人生を歩むか”という長期的展望だ。人生と将棋とのこのような類似点は、人生が将棋と同じ頭脳ゲームであることを示唆しているのかもしれない。

頭脳ゲームと言って絶対に外せないのが数学である。数学は言うまでもなく学問であり、ゲームとは離れたところにあるように思う人もいるかもしれない。もちろん、数学者の数学に対する姿勢も様々かもしれないが、数学をゲーム、あるいは遊びと捉えている数学者も少なくない。そして意外と数学をゲームや遊びと捉えている数学者の方が大きな実績を挙げている。とある偉大な数学者は、数学に対して「この遊びはやめられない」と述べている。

身の周りには頭脳ゲームがあふれている。一時のお遊びのようなものもあれば、人生を懸けるに値する頭脳ゲームもある。人生を共に歩む頭脳ゲームを持つことは、あらゆる側面で人生に刺激を与えてくれるに違いない。

強い人間ほど、己の無力を認められる。

多くの人はなかなか自分の無力を素直に認めようとはしない。そしてその中の一部は虚勢を張ろうとする。自分が弱いからこそ、その弱さを隠そうと虚勢を張るのだ。

逆に強い人間は己の無力を素直に認められる。なぜなら自分の強さに裏打ちされた自信があるから、虚勢を張る必要がないからだ。そして強いからこそバカにもなれる。

自分の強みと弱みを自身で把握しておくことは重要だ。しかし弱みは決して直さなければいけないものではない。弱みを直すのではなく、それを強みに変えるのだ。強みに変えることは直すことよりも圧倒的に威力を発揮する。さらに強みをより強くすることができれば盤石だ。

己の無力を認められない時は、自分が弱くなっている証拠だ。いかに弱みをさらけ出してバカになれるか、それができれば自身はより強くなれる。

ポジティブ!ポジティブ!

はっきり言って、ネガティブに考えていいことは何もない。逆にポジティブに考えて悪いことは何もない。ならば何でもポジティブに考えればいいはずだが、ポジティブになれないこともよくある。

笑っていていいことはたくさんある。笑っていれば切り抜けられることもたくさんある。逆に暗い顔をしていては良いことは起こらない。ならば常に笑っていればいいが、笑顔になれない時もたくさんある。

僕は人よりも何倍も笑っていると感じている。笑っていることは多いが、人以上に悩んでしまうこともよくある。無駄な悩みほど悪いことはない。時には悩むことも必要だが、悩んで気を減らしていてはどうにもならない。

最近、悩んで苦しくなりそうな時は「ポジティブ!ポジティブ!」と口ずさむことにした。「何とかなるさ」と思うことにした。この二つの言葉は非常にいい言葉だ。そのような言葉を日ごろから口ずさむことによって、現実も良い方向に進み、気分も無意識的に明るくなるものかもしれない。楽観的になることは生きる上で非常に重要である。

哲学的原点。

最近は哲学書には全然触れていなかったが、思うところがあって本棚にある西田幾多郎の哲学書を手にとって眺めていた。僕にとって哲学とは人間の学であって、理想を貫く生き方をするためには哲学は欠かせないものだ。

哲学と自然科学との関係については、哲学者、科学者双方に対して融和的な印象は受けない。科学者は哲学者を見下し、哲学者は科学者を支配下に置きたがる。とは言え、僕自身は哲学と科学はそもそも守備範囲が異なるのではないかと感じている。哲学と科学を同じ土俵で闘わせるのには無理がある。

だからと言って、科学者は哲学を無視すればいいのかと言えばそうではなく、科学者にも哲学的素養は非常に重要である。また逆に、哲学者も自然界の真理として科学を熟知することは必要である。

僕にとって、非常に重要な哲学的命題が一つある。それは「いかにして生きるべきか」と言うことだ。哲学的に論じるからには、体系的に解決策を築いていかなければならない。

物理学的命題は解決するときはあるだろうが、哲学的命題は人生が終わるまで追い続けるのかもしれない。

結果が分かっていることに取り組むのではなく、可能性に懸けて取り組む。

確実に結果が出ることに取り組むのではなく、可能性に懸けて取り組むからこそ大きな飛躍が生まれる。確実に結果が出ることに対しては、改めて取り組む重要性は少ない。真に革新的な結果は可能性から生まれるのである。

もちろん安定性という視点から言えば、確実に出ることが分かっていることの方が堅いし無難である。もちろんそれも一つの生き方であろう。もしかしたらほとんどの人はそちらの方を選ぶかもしれない。

可能性に懸けるということは、ある意味ハイリスクかもしれない。そしてハイリスクだからと言ってハイリターンだとは限らない。割に合うか合わないかといえば割に合わないかもしれない。

しかし可能性に懸けて出した結果に対して、無難に過ごしてきた人間が口をはさむ資格はない。可能性に懸けた人物の境遇は、可能性に懸けた人物にしかわからないからだ。

可能性に懸けるか?確実に出ることに取り組み無難に生きるか?それはそれぞれの人生観によるのだろうが、可能性に懸ける方を取る生き方をする人間も世の中には少なからず必要であろう。

周りの目を気にするな!

周りの目を気にしすぎては、自分が本当に打ち込むべきものに真剣に打ち込めない。周りの目は周りの目、自分の目は自分の目としっかり区別することが必要だ。周りの目を全く気にするなとは言わないが、過度に周りの目を気にしすぎると没個性的になってしまう。

人生とは自己表現である。だからこそ自己の意思決定が非常に重要になる。重要な意思決定を他人に任せてはいけない。自分の人生は自分でコントロールしないといけない。

周りの目ではなく、自分の目を徹底的に信じ抜くこと、その先に生きるべき人生が展開するものだと信じている。

好きなことを貫くって、すごく苦しい。

好きなことを貫くっていうことは、決してイコール楽なことではないし、いつもイコール楽しいことであるわけでもない。何に取り組んでいる時も必ず苦しい時はあるが、好きなことに取り組んでいて感じる苦しみは尋常ではない。

好きなことに取り組んでいる限り、言い訳はできないし、逃げることもできない。もちろん言い訳をするつもりはないし、逃げるつもりもないのだが。

好きなことができるということは、非常にやりがいのあることであるし、充実感も半端ない。ただ結果が出るまではそれと比較にならないくらい苦しい。ただ逃げるつもりはさらさらない。なぜなら結果を出す自信はあるし、時間はかかるけど、その先にある成功を想像した時、その興奮からの高揚感はたまらないものがある。

なぜこうなってしまったかは偶然と、時には必然の積み重ねであるが、後悔などは全くしていないし、人生に感謝している。

夢とは?希望とは?

夢とは将来の自分であり、また達成すべき目標である。希望とはそれが達成できる可能性である。夢と希望は人生の原動力であり、どちらが欠けても空虚なものになってしまう。

現代人はどれだけ夢と希望を持っているだろうか?街にはたくさんの人間が行き交っているが、どれだけの夢と希望が溢れているだろうか?

お金は非常に大事である。しかし間違ってはならないのは、お金は夢ではなく手段である。お金があることによって自由度が増え、できる事が増える。もちろんビジネスにおいてはお金は最も重要な要素である。どれだけ稼ぐかは重要な目標である。しかしお金自体は紙切れに過ぎず、あるいは単なる数字に過ぎないので、それをどう活用するかがセンスの問われるところである。

「一円を笑う者は、一円に泣く」とよく言うが、「夢をバカにする者は、人生に泣く」と言えるだろう。なぜこんなことを言うのか?それは夢をバカにする者が一定数いるからだ。

何も動かずにただ待っているだけの「夢見る乙女状態」にはなってはいけない。夢に向かって強引にも着実に前に進むブルドーザーにならなければならない。

自信家であり続けるということ。

自信はある程度過剰なくらいがちょうどいい。さらに自信に根拠があればなおさらいい。しかし、根拠のない自信というのも時には必要なのかもしれない。

根拠のある自信を持つためには、まず展望と構想をじっくり練る必要がある。日本人お得意のハードワークだけでは建設的な進歩はなかなかできない。ビジョンとハードワークは建設の両輪なのである。ビジョンを持ち、ハードワークをこなすことによって自信は深まっていく。

そしてそれらの自信を継続的に持ち続けなければならない。持続的な自信を持ち、その自信を原動力にすることによって、一歩一歩成功へと近づいていく。

中身がない自信は妄想に過ぎない。具体論が伴ってこそ、意味のある自信になる。そのような中身のある自信を持ち、自信家であり続けることは簡単ではないが、“考える”という行為を常に心がければ不可能ではないはずだ。