思想、生き方、考え方」カテゴリーアーカイブ

理想主義は大切だ

理想を掲げることに、現実的ではないと言う人は多い。確かに現実を直視して、現実に沿ったことを実行することは非常に大切だ。しかしそれと理想を掲げることはまた別の話だ。理想を掲げる事、それは100%を目指すことだ。確かに100%は無理な話かもしれない。しかし初めから80%を目指していれば、たいてい60%も達成できない。100%を目指して1%ずつ上乗せしていく姿勢が大切なのではないか。

平和主義の象徴、憲法第九条は理想主義の典型である。しかし世界の現状を考えると集団的自衛権の問題など憲法第九条の趣旨からそれることをしていかなければならないかもしれない。しかしそれは憲法第九条を無くすことを容認するものではない。憲法第九条は日本が世界へ発する平和の象徴であって、理念である。軍事行動は一地域の紛争しか変えれないが、憲法第九条の思想は世界を変えることができる。集団的自衛権も大事である。憲法第九条も大事である。どちらを取ってどちらを捨てなければならないというものではない。この二つは日本の平和への貢献の両輪なのである。

そういえば、下町ロケット最終回で、小泉孝太郎演ずる悪役・椎名社長がこんな事を言っていた。「60%を助けるために40%を犠牲にすることも必要だ」しかし初めから60%を助けて40%を犠牲にするというような思想では絶対に60%は助けられない。理想である100%、所詮理想と吐き捨てる人がいるかもしれないが、その100%を目指す理想が大切なのである。それでやっと60%を助けられるかもしれない。

理想主義をバカにするやつに理想はかなえられない。理想を目指す姿の中に、向上への道筋があるのである。

覚悟とプライドのない奴に未来はない

20日、TBSドラマ「下町ロケット」の最終回があった。佃航平(阿部寛)と椎名直之(小泉幸太郎)の白熱した演技、財前道生(吉川晃司)の覚悟を決めた決断は非常にしっかり描かれており、非常に面白いドラマであった。ドラマではいろいろな背景が描かれていたが、その中でも佃航平と財前部長の覚悟とプライドにはドラマとは言え非常に感銘を受けた。

ドラマ中にも出てきた「技術者としてのプライド」、本気で仕事に取り組んでいる人間、何かに人生をかけている人間にとっては非常に感銘を受けてのではないかと思う。プライドは人間を高めるものには必須なものだ。とはいえ、覚悟のないプライドなんかはいらない。「覚悟」のあるプライドが本当に重要なのだ。

プライドは何も仕事に関してだけではない。「人間としてのプライド」、これは全ての人間が持つべきだと思う。人間としてのプライドのない奴に未来はない。苦しい時にはプライドを捨ててでもという時もあるであろう。生きるためには時にはプライドを捨てなければならない時もあるかもしれない。しかし楽をするためにプライドを捨てるようなことがあってはならない。

また難しいことには、プライドに凝り固まってもいけない。とあるシンガーソングライターの歌に「握りこぶしの中にしまっておいた勇気と、わずかなプライド」というものがある。それを持ってこそ、人間として輝いていけるのだ。

僕も非常にプライドの高い人間だ。早くそのプライドに見合うだけの人間にならなければと常々思っている。

 

「論語」読み始め

最近、孔子の論語を読み始めた。論語入門者である。これまでニーチェ、ショーペンハウアーなどのドイツ哲学、西田幾多郎などの京都学派などに興味を持って触れていたが、中国哲学の金字塔「論語」にも触れ始めた。

論語の原著は1巻から10巻まであり(岩波文庫版では全て一冊にまとまっている)、僕が読んでいるのは岩波文庫版で、原文(漢文)・書き下し文・日本語訳の三つがまとまって書かれている。初めは原文に何とか目を通して、書き下し文で感じをつかんで、日本語訳で内容を知るという感じだ。

入門者が言うのもなんだが、論語の凄いところは、解釈の自由度が非常に高いところだ。であるから日本語訳だけ読んでも論語の真意は全く伝わらない。原文(漢文)を苦労して解釈してこそ意義のある書物なのである。

大学入試の国語では漢文が出題される。センター試験の国語では漢文の配点は200点満点中50点だ。しかし大学受験生当時、好きな数学・物理ばかりに没頭し、漢文対策など全くしなかった僕の漢文の成績はご想像の通りだ。ですから、今論語の原文を読んでいると言っても完全な我流であり、非常に苦労している。大学受験生時代、漢文を勉強しなかったことを非常に後悔している。

しかしこんな漢文初心者でも、論語を読み進めるにつれ、平易な日常生活を描く中に深い本質を織り込んでいる論語という書物は、ヨーロッパ哲学にもギリシャ哲学にもない独自の世界観・学問が切り開かれていることが感じ取られる。

もちろん、論語の真意など、まだ読み始めた僕のような初心者にはわからないかもしれない。論語というものが偉大なものであるという一般的評価を信じて入り込むしかない。論語の中に深い真意があると信じて自分流の解釈を導き出す。この繰り返しで中国哲学の何たるかが1%ほどはわかったかもしれない。残りの99%を導き出すためには何度も読み込み、自分の頭の中に解釈に解釈を重ね、自分流の論語を作り出さなければいけない。

論語の真意は書物に書かれているのではなく、読む人間の頭に構築されると僕は信じている。

システム化された現在のF1レースをめぐって。強者メルセデスAMGと野村ID野球

とある記事で、今年のF1レースがつまらないという論を読んだ。その理由はこうだ。現在のF1はチーム外の情報解析戦略者が数人いて、その人たちが情報を瞬時に解析し、衛星回線を通じてチームに指令を出し、チームはそれを実行するのみだというのが面白くないというものだ。現在のF1にドライバーの判断権利はほとんどないらしい。そのような情報至上主義なレースがどうやら不評なようだ。ファンはドライバーの人間ドラマが見たいらしい。

思えば昔、プロ野球でも同じような革命が起こった。ヤクルト野村克也監督のID野球だ。その当時、情報至上主義の野村ID野球を批判する人は多かったように思える。その理由は今回のF1と同じものだ。「人間ドラマが見たい」

当時、野村監督と古田敦也捕手が中心になってID野球を実行するヤクルトは非常に強かった。ID野球への批判はその強さに対するひがみもあったのかもしれない。強すぎるものは、すなわち出る杭は日本ではいつの時代でも打たれる。しかしその批判こそ野村ID野球の素晴らしさを物語っているのではないか。

プロ野球もF1も、プロ中のプロたちが戦う場だ。負ければ容赦なく切り捨てられる。ルール内でいかに効率的な勝ち方をするのか、競技が洗練されてくれば自然とたどり着くところではないか。ましてやF1には桁違いのお金がかかっている。レースの結果は本業の車作り・販売に直接影響が出る。遊びの要素など一つもない。

現在、プロ野球でID野球という言葉はなくなった。しかしそれはID野球が無くなったのではなくて、ID野球が常識になったのであえてその言葉を口にする人がいなくなっただけである。しかし現在のプロ野球も非常に面白いものである。いかに情報を上手く利用するか、そのような面白味も出てきた。

F1も今はID野球が通ってきたような過渡期なのだろう。数年すれば、情報戦略ドラマを見るような面白味を見出すファンも増えるに違いない。

IS(イスラム国)が3500人以上を処刑。命っていったい何だ

ISで昨年の6月から1年ほどで3500人以上の人が処刑されたという記事を見た。彼らにとって命とはいったい何なんだろうか。

人の命は世界中のどこでも、いつの時代でも同じだ。そう思っている人は僕も含めて多いはずだ。しかし現実は違うようだ。IS支配地域では人の命は虫けらのように扱われている。そして北朝鮮でもそのようなことがされている話はよく聞かれる。そして我々も無意識のうちに人の命を差別化しているのかもしれない。アラブでのテロは一言で済ますのに対して、パリでのテロは何週間にわたって話題になる。

そして場所だけでなく、時代によっても命の重さは変わる。日本においても太平洋戦争中に特攻隊が結成され、自爆攻撃がされた話は有名だ。その時代、日本人は自国民の命を虫けらのように思っていたのかもしれない。

学校では「命は尊いものだ」と教えられる。しかし、なぜ命は尊いか、それを説明できる教師は少ないだろう。これは簡単に一言で説明できる話ではない。学校で生徒の自殺が起きた時、教師は「命は尊いから大切にしなければならない」と発言する。しかし僕にはそれが呪文、あるいは教師の免罪符にしか聞こえない。命の尊さは、何年・何十年とかけて認識していき、人間は成長していくのである。それを教師が一言で説明できると思うのは勘違いも甚だしい。

ISの話に戻るが、ISは殺りくを繰り返している。その現実は必ず断たねばならない。しかしその主な手段は現時点では空爆となっている。その空爆で欧米は無数のイスラム住民を殺りくしている。もちろんISの首謀者を攻撃しているという言い分はわからなくもない。しかしこの空爆という大量殺りくはどうかならないものかと多くの人は悩んでいるはずだ。空爆は善なのか、悪なのか、それとも必要悪なのか、答えは簡単に出せそうにない。

 

負けて称えられるうちは、トップじゃない。勝って憎まれろ!錦織圭選手と北の湖

数日前にあった、プロテニスのファイナル。そこで錦織圭選手はフェデラーに善戦するも惜しくも負けてしまった。その後の周りの反応を見ていると、「負けたけどよく善戦した。よくやった」という声が多かった。確かに世界トップレベルの戦いで、長年トップレベルに君臨しているフェデラーに善戦するのは素晴らしいのかもしれない。しかしそれを称える声に僕は落胆した。

錦織圭選手は現在世界ランク8位。最高で4位まで上げていた時期があった。それでも確かにとてつもなく凄いことだと思う。しかし一ファンの勝手な思いだが、錦織選手の目指すところはそこではないはずだ。おそらく本人も世界ランク1位を目指しているはず。そして4大大会優勝を。しかしそれを目指すならばフェデラーに負けて称えられるのは本人も屈辱ではないだろうか。錦織選手の目指しているのは、優勝して称えられる、さらに優勝して世界から憎まれる、そういうレベルを本人は目指しているはずだ。

最近、相撲の北の湖理事長が亡くなった。北の湖は現役時代、憎らしいほど強かったという。あまりの強さに観客席からは「負けろ」という声さえ飛び交っていたという。まさしく強すぎて憎まれる、今のテニスで言うと世界ランク1位のジョコビッチのレベルではないかと思う。錦織選手もこのレベルを目指してほしい。そして一ファンの根拠のない思いかもしれないが、錦織選手にはその力を持っていると信じている。

いつか錦織選手が4大大会で優勝して、ヤジを飛ばされる日が来ることを期待している。

指揮法を知らない指揮者ではなく、指揮法を無視した指揮者になれ

僕は大学時代、混声合唱団に所属していたが、そのとき親しかった先輩の学生指揮者がこう言っていた。

「指揮法を知らない指揮者ではなく、指揮法を無視した指揮者にならなければならない」

指揮法とは違う指揮をするにしても、「知らない」と「無視する」では全く違う。指揮法に例えてこう言ったが、これはあらゆることに通じるのではないかと思う。

指揮法通り、つまりマニュアル通りこなすことは理想かもしれない。しかしそれではマニュアルの壁を打ち破れない。そこでマニュアルから逸脱したことを試みるが、その時にはマニュアルを熟知してマニュアルの限界を認識したうえで試みなければならない。マニュアルを理解しないで逸脱するのは単なる暴挙だ。

物事の入り方はいろいろあるかもしれないが、初めは型から入るのも一つの手であろう。そして型を追及するのも極めるうえで一つの手法だ。しかし型の限界を感じ、型を打ち破る、それが新たなる常識を規定する一撃になる。

型を追及するか、型を打ち破るか、どちらが優れているというわけではないかもしれないが、自分がどちらの手法を取るか、熟考して極めたいものである。

完璧ではなく95%を求める

ついついあらゆることで100%完璧な対策を求めがちだが、100%を求めるのは莫大な労力や精神力が必要で、100%を求めた途端、極端にコストパフォーマンスが悪くなる。もちろん100%を求めなければならないことはある。例えば車、そして飛行機の安全性などはその最たる例だろう。飛行機では1%のミスが何百人という命に直結してしまう。わずかなミスも許されないのだ。

100%を求めるのはコストパフォーマンスが悪くなると書いたが、正確にはその労力は99%から1%上げるのにほとんどを費やされる。車・飛行機にはそれが必要だが、僕らが普段生きている中では100%を求めることはメリットよりもデメリットの方が圧倒的に高い。普段生活している分では、常に95%ぐらいの出来を求めるくらいが精神的にも最も良い効果が表れるのではないかと思う。

この5%を捨てる余裕、これが人生の余裕につながってくる。もし対策していない5%の方に入ってしまったら仕様がない。その時はあきらめればいいのである。

命に関わることは100%求めなければいけないと思うが、それでも外出して道端を歩いていれば、事故に巻き込まれる可能性も十分考えられる。だからと言って外出しなければ自由がなくなる。昔のCMではないが、家にいても隕石が落ちてこないとは限らない。100%というのは非常に割に合わないのである。

なぜこんなことを書いたのか。それは僕が非常に心配性なところがあるからである。つい99%からの残りの1%に気がとらわれてしまう。数学の証明は100%でなければならない。しかし生きていくうえで100%を求めることは全くないのである。95%ぐらいでリラックスして生きていければちょうどいい。

切腹精神と背水の陣

江戸時代の長い鎖国時代を抜けて、明治時代に日本は飛躍的な成功を遂げ、富国強兵政策のもと世界の列強の一因となった。「強国」、これは軍事面だけではなく経済面・産業面も含めてのことだ。その一方、鎌倉・室町から繋がる「わびさび文化」を受け継ぎ、日本固有の文化も継承していった。

その日本固有の文化、あるいは精神というべきであろうか、その一つに「切腹」がある。これはもちろん明治以降はなくなったが、その精神は明治以降も根底に居座っているのではないかと思う。そして切腹の覚悟は「背水の陣」でもある。

なぜいきなりこんなことを書いたかというと、現在の日本人には背水の陣で物事を取り組むことのできる人が少なくなったのではないかと感じるからだ。背水の陣で臨むには極端な場合、命をかけることになる。江戸時代で言う切腹だ。そこまで要求しなくても、現在の日本には、背水の陣の精神があまりにも乏しくなっている。その一つが、「長寿至上主義」ではないだろうか。長く生きることはいいことだと言われ、敬老なんて言葉もある。しかし本当に大切なのは長く生きることによって生まれる「時間」だ。その時間をどれだけ意義のあるものにできるか、それによって人生の濃さが変わってくる。その意義深くする一つの手法が背水の陣だ。背水の陣の精神では、意義のない時間など意味を持たない。今、一刻にどれだけ成果を上げ、次につなげるか。もし失敗をすれば待っているのは「死」である。

僕はこれから、背水の陣で臨むことに決めた。そこで、それらの精神について考えたことを今日は書かしていただいた。さあ、結果を出すのが先か、死ぬのが先か。

「科学的根拠」にだまされるな!

迷信・超能力など明らかに非科学的なことを信じる人は現在でももちろんいるが、数としては少なくなってきたように思う。その理由としては、当たり前のことであるが「科学的ではない」ということである。ところが最近はその「科学的根拠」に騙される人が多いように感じる。

科学的根拠があるかどうかの判断として、話を訴えている人が「これは科学的根拠がありますよ」と言っているかどうかだけに対して反応している人が多いように思う。あるいはその科学的根拠を論理的に説明されると無条件に科学的だと信じてしまう人が多い。

科学的素養がある人から見れば、その論理は明らかに飛躍が合ったり、科学的でないことが含められていたりしてすぐにデタラメだと気付くのだが、科学的思考に慣れていない人にとってはそれだけでも十分に信じるに堅い科学的根拠となる。

例えば以前、「某占いは科学的だから正しい」と主張してきた人がいる。しかし科学的素養のある人からみればそれは二つの点で明らかにおかしいと判断できる。

まず、占い自体科学的でもなんでもないしデタラメだといことである。もしかしたら占いにも正しいものがあるという人はいるかもしれない。しかしこの占い自体を間違っていると判断するセンスは、物理学でいう「熱力学の第二法則」的な論理に似ている。熱力学第二法則ではあるもの(永久機関)はどんなに努力しても絶対に作ることはできないという主張だ。この法則は目的が間違っていることを科学的論理をする以前に否定する。しかしこの法則が認知されるまでには約100年の時間がかかった。

もう一つは、前に述べたように説明が論理的でないということだ。

最近、この「科学的根拠」というものを逆手にとって商売をしている似非科学者たちがいる。その一つに以前ブームになった脳科学ばあちゃんがいる。彼女の言うことは全て科学的だ、科学的に証明されている、ということを前面に押し出している。しかし科学的に冷静に思考できる人間から見ると疑問に感じることが多々ある。しかもたちが悪いことに一部に本当に科学的な事も混ぜられているのだ。だからその一部の科学的部分だけを見て全てが科学的だと信じ込む人が大勢いる。

なにも日常の全てを科学的に考えなければいけないなんていう考えは毛頭ない。常にそんなことを考えていたら逆に頭が凝り固まってしまう。しかし重要な判断が必要なときは、しっかりと科学的判断を下さないと間違った情報に振り回されてしまうということを言いたい。