思想、生き方、考え方」カテゴリーアーカイブ

物書きのスランプ

このブログを書き始めてから約一か月半、一日一記事を目標に書き続けてきた。そしていま、今年に入ってから経た日数とブログの記事は同じだ。

毎日コンスタントに書けるといいが、たまには書けない時もある。そういう時のために、余裕のある時にストック記事を書いて用意して、書けない時にはストック記事をアップすることにしている。

しかし昨日ストック記事をアップし、今日もなかなか文章が続かない。そこで今日はいっその事、そんなスランプな状態を逆手にとって記事にしてやろうと思いこのタイトルで書くことにした。

少し振り返ってみると、今まで社会・時事ネタが圧倒的に多くなってしまった。タイトルが「考える部屋」とあるように、初めは思想・哲学的な記事が多くなるかなと想定していたのだが。専門のサイエンスに関する話題は一つだけだ。

以前、ある文豪の話として、文章を書けるときはすらすら書けるのだが、書けない時にはどうあがいても筆が進まない、そういう時があると何かで読んだことがある。文豪でもそんなスランプがあるのだから、僕にもあって当たり前かもしれない。でも当たり前と開き直ってしまっては何も書けないので、そんなスランプもネタにしてみようと今日の記事を書いている。

そこで風呂に入りシャワーを浴びながら、書く内容を簡単に構想する。風呂というのは温まって血の巡りが良くなるせいか、考えていることが整理されたりアイデアを思いついたりすることがある。数年前にノーベル物理学賞を取られた益川博士も、受賞対象になった小林・益川理論のアイデアは風呂の中で思いついたと言われていた。やはり風呂に入ると頭が活性化されるのだろうか。

頭の調子が常に高いレベルで一定に保たれているといいのだが、調子の良い時と悪い時の波というものがどうしても出てくる。そこで調子の良い時は数理物理の研究・勉強を、そして疲れたら物書きを、悪い時はネットを眺めて情報収集を、というふうに使い分けることにしている。

かの有名な哲学者バートランド・ラッセルは、調子の良い時は数学・論理学を、普通の時は哲学を、悪い時は社会科学をやっていたと何かの本で読んだことがある。

調子の良い時は思いっきり、悪い時は悪いなりにと時間を有効利用するのは、いい戦略である。でも悪い時はいっその事寝て過ごせとなり、だらけてしまうのは意志の弱さなのか。

何はともあれ、勢いに乗っている時の充実感を少しでも長く感じたいものである。

 

動の学問、静の学問

いま大河ドラマ「花燃ゆ」で吉田松陰をやっているが、彼の学問を一言で言うと、「動の学問」と言えるのではないか。彼は部屋で勉強し、講義室で講義するだけでなく、その学問の精神を行動に移し実践した。黒船密航に然り、あるいは日本各地を自分の目で見て確かめること然り。動きに動きまくっている。これほど学問の精神を行動に移した人もいないのではないかと言えるくらいだ。

数学、物理学というものは、基本机の上で研究し、行動と言えば講義室で講義するくらいだ。もちろん世界を飛び回っている人もいるが、それは研究発表のためであり、研究の精神が直接行動し、事を起こすというわけではない。

吉田松陰の学問が「動の学問」とすれば、数学、物理は「静の学問」と言えるのではないか。

幕末など動乱の時期には、事を起こすにはまず動かなければならなかった。動いて動いて事をなすのである。学問ではないが、坂本龍馬などを見ればそれはよくわかる。学問も、徳川時代約250年間に机上で蓄えた知識を、国を動かすために動いて実践に移す時期であった。

静の学問も素晴らしいが、少し体が鈍ってしまう。そんな時、動の学問にかかわれたらと思ったりする。しかし今の日本は動乱の時代ではない。動乱を求めて海外に行くのも変な話である。

国にかかわるなどといきなり大きなことを言わず、まず身近な世界から行動に移すのが、大きな動への一歩となるのかもしれない。

安易に目立つな

最近、ネット上での安易な悪ふざけ動画が問題になっている。中には犯罪行為に当たるものなど、法に触れるものも少なくない。その悪ふざけ映像アップの一番の原因は、単に目立ちたいからというものらしい。

世間で有名になるのは、難しいと言えばかなり難しいと言えるし、簡単と言えばかなり簡単ともいえる。

なぜ難しいか。有名になりたいと言って真っ先に思いつくのは、芸能人、一流スポーツ選手、最近ではノーベル賞学者であろうか。彼ら彼女らは才能を持ち合わせた上に半端ない努力を重ね、コツコツと実績を上げ、名をあげて有名になっている。普通の人が普通にやっていてはまず無理なことだ。だからこそ彼ら彼女らの存在は価値があるし、大きなリターンもまわってくる。また相当なリスクをとって挑戦していることも多く、その覚悟という者は半端ないことも多い。

では次に、なぜ簡単か。それは最近起こった爪楊枝混入事件でも明らかだ。大きな犯罪を犯せば簡単にテレビニュース番組に顔写真が実名入りで流される。有名になりたくて犯罪、あるいは犯罪まがいのことを犯す人が最近後を絶たない。彼らは明らかに勘違いしている。有名になったことで得意気になっているようだが、普通の人間は、皆できないのではなくて、しないだけなのである。そんなことをして有名になったって何の価値もないどころか低レベルなこと極まりないだけである。

有名には、名誉ある有名と、不名誉な有名があるのである。悪ふざけ動画で有名になろうという人は、その二つの区別が全然つかないのだ。

コツコツと努力して名をあげることは素晴らしいことだ。実績を上げて、名誉ある有名人になろう。もちろんそれは容易なことではないし膨大な時間もかかるだろう。しかしそれが有名人になるための正しい道だ。

不条理を正当化してはいけない

世の中、社会、そして身の回りは不条理なことだらけだ。そしてその中で生きていくためには、不条理であることを前提に、いかに不条理な世界の中で上手く立ち回るかということに重きを置かなくてはならない。

しかしそれは不条理を正当化してもいい理由にはならない。

「不条理なことはなくさなければならない」、それは確かに理想論かもしれない。しかし理想論のないところに平和は訪れない。理想論があるからこそ、理想に一歩でも近づけようと前進する。初めから不条理なことが当たり前だと認めてしまえば、全く良くならない。

これが会社や人好付き合いのレベルの話ならまだいい。世界に目を向けると、純真な子供たちをはじめ、全く罪のない人たちが紛争などで殺されるなど犠牲になっている。これこそ最高の不条理だ。この様な状態を、不条理なのが世の中の摂理だと認めていいはずがない。そういう所にこそ最高の理想を掲げなければならない。純真な子供に、社会が不条理なことを教えてどうする。そんなことをやっても不条理が不条理を生み出すだけだ。

これから先の世界を担っていくのは、現在の子供だ。そしてその子供たちが希望を見出せる世界を作り出すために、大人は今を少しでも理想に近づけなければならない。

人質事件で殺害された後藤健二さんも、おそらくこのようなことを伝えたかったのではないだろうか。彼は私とは違って、自分の目でその不条理な惨状を目の当たりにしてきた。日本国内で平和に生きている我々には感じられないこともたくさん感じてきただろう。だからこそ、後藤さんには生きて帰ってきてほしかった。そしてそれらの現状を、国内でぬくぬくと暮らしている我々に伝えてほしかった。

ビリギャルが気づかせてくれたこと

昨年から、一冊の本が大ベストセラーになっている。

「学年ビリのギャルが1年で偏差値を40上げて慶應大学に現役合格した話」(KADOKAWA)

実は僕も買ってしまった。それもベストセラーになる前の、出版された直後に。

こんな類の本には普段は見向きもしない僕がなぜ買ったか。軽い気持ちで何となく本屋で手に取って立ち読みしたのだが、初めは10秒眺めたら書店の本棚に戻すつもりでいた。しかしパラパラと本をめくっていたら、さやかさん(主人公)の猛烈な努力の様子に圧倒され、10秒のはずが数分も本の中身にのめりこんでいた。

簡単に言うと、学年ビリのダメギャルが勉強に目覚めて、超努力して慶應義塾大学に合格する話だが、それだけなら30分立ち読みして済ましてもよかった。しかしどうしても買いたくなった。本に書かれているさやかさんの努力に比べて、最近の僕の不甲斐なさ。この本に書かれているさやかさんの努力を目に焼き付けて、自分も思いっきり死ぬほど頑張ろうと思い、本を手に入れることにした。

内容もなかなか面白くて、見所満載の本だ。起承転結が見事にうまく構成され、意外にも僕個人的にはなかなかの名著だと思う。

一に努力、二に努力、三四がなくて、五に努力。努力しないことには何も始まらない、そんなことを確認さしてくれた一冊でありました。

道草もそこそこに・・・

これまでの僕の人生、最短距離でゴールしたことなんてほとんどありません。知らず知らずの無意識のうちに道草ばかりして、わざとしているんじゃないかというくらいいつも遠回りして、まだゴールにまでたどり着いてないこともたくさんあります。

もちろん最短距離で効率よくゴールするのが理想的かもしれません。僕も最短距離で行けるものなら行きたいです。

でも実際に道草を食ってみると、その味もなかなか悪くないな~と思うこともよくあります。時には思いもよらない味の存在に気づいたり。

でも最終的にはゴールしないことには、記録に載りません。記録にならないことはほとんどの場合記憶にも残りません。記憶の男、長嶋茂雄もしっかりと記録も残しています。

しかし、ゴールするまでの道程は様々です。時にはゴールの位置さえ変わってしまうこともあります。道程が個性あふれるものならば、ゴールもオリジナリティあふれるものになります。

でもやはりゴールはしないといけないので、道草もそこそこにしないといけないかなとは思うのですが、やはり道草の魅力(魔力?)に負けて、これからも道草を食べ続けていきそうです。

ネットで調べることについて

最近人々、特に子供・学生について心配してしまうことが一つある。わからないことがあるとなんでもネットで調べて済ましてしまうということである。

また、ネット掲示板に載っている情報を鵜呑みにして一次情報を調べない、軽率で愚かな人もいる。

僕らは少年少女時代を紙媒体で育てられた最後の世代かもしれない。今の少年少女は生まれたときからネットが身の回りにあふれている。だからこそ、僕らの世代は後の世代に紙媒体の重要性を伝えなければいけない。

紙媒体情報とネット情報の一番の違いは何か、それは執筆責任じゃないかと思う。紙媒体に記事を載せたとき、執筆した人は書いた記事に対して著作権と責任の両方が伴う。しかしネット記事は基本的に著作権も責任もほとんどなく、際限なく拡散していき、誰が書いたのかさえ分からなく、またそんなことも気にしない。

紙媒体とネット情報は異質なものだと認識したほうがいい。そうでないとネットの末端情報に振り回され、物事の根本を深く考え追求することをおろそかにしてしまい、本質を見抜く目を曇らせてしまうであろう。

知行合一

今、考える集団・知の集団をつくって何ができるだろうかと考えた。

今は戦国でも幕末ではない。国内は経済の大きな動きはあれ、特に混乱はなく平穏な社会が保たれている。それに考えるだけ、知だけなら、大学でいくらでも議論はされているし、トップレベルの大学には優秀な人もそれなりにいるだろう。

では、今足りないのは何だろうと考えたとき、「知行合一」ではないかと思った。考えるだけなら大学や論壇雑誌、討論番組でいくらでもされている。しかし、この「知」を行動に移す人はどれだけいるだろうか。もちろんいないわけではないが、そんなに多くないのではないかと感じる。哲学を極める人はいるが、それを行動で示す人は限られている。他人の意見の評論をしっぱなしという人も多い。

これから「考える」という活動をしていくうえで、知行合一という言葉は一つの指針になるかもしれない。

継続は力なり

「継続は力なり」

何を今さら、という感じですが。時々感じさせられることがあります。

ピアノを上手に弾いている人を見てると、いつも思います。十本の指を思うがままに操り、複雑な楽譜を見るだけでどんな技巧的な曲を弾いてしまう。これこそ「継続は力なり」なんでしょうね。僕には本当に理解不能です。

逆に僕が継続していることと言えば、数式を操ることでしょうか。専門論文や専門書を読むことが多いですが、他人が見ると、複雑な数式の羅列は理解不能みたいです。でも十年二十年と続けて真面目に取り組んでいると、物理や数学の複雑な数式も直感的にどんなことを表しているか読み取れるようになります。

最近僕が継続していることは、筋トレです。もう三年以上続けているでしょうか。やはり筋トレも年単位で続けていると、体のつくりも変わります。引き締まります。そして嬉しくなります。一時的に集中して筋トレする人もいますが、地道に長期間続けた方がバランスよく引き締まるのではないでしょうか。(僕の勝手な見解ですが・・・)

「継続できる」というのは、一つの才能だと思います。「やればできるんだけど・・・」というのは、才能がないのと同じです。やはり西川きよしさんのセリフ「小さなことからコツコツと」というのが何事にも言えるのではないでしょうか。派手な結果も地味な作業の積み重ねの賜物なんですよね。

経験だけではいけない

経験はお金では買えない。経験をすることは貴重である。しかし経験だけの人間にはなってはいけない。

よく勘違いしている人がいる。俺には経験があるとでかい顔をしている人だ。実は評価すべきなのは経験そのものではない。経験によって身に付けた技術・スキル・考え・思想を評価すべきなのだ。しかしそのような技術などを見る前に、経験だけを見て評価をする人が多い。

実際、経験はあるけど何も身に付いていない、あるいは素人の域を脱していないという人が多い。経験はあるけど、経験しかないという人だ。

では、素人の域を脱するためにはどうすればいいか。一番の方法は能動的に取り組むということではないか。何事も受動的にやらされているだけでは素人の域を越えられない。どうすればもっと発展できるかということを自分の頭で常に考え、能動的に取り組まないと、その一線は越えられない。

経験をすれば勝手に身に付くようなことは、所詮その程度のことなのである。プロになるためには、考えるという行為は必須なのである。