思想、生き方、考え方」カテゴリーアーカイブ

「面白い」という視点。

やはり面白くないことよりも面白いことをやりたい。誰もがそう思うだろう。そしてその「面白い」という感性は、物事を進めるうえで大きな原動力となる。それは数学や物理の研究を進めるうえでも同じだ。面白い方へ進めるのは正しい進め方であることが多いように思う。いや、面白いことを強引にでも正しい方向へ結び付けることが必要なのではないだろうか。

数学は大きく、代数・幾何・解析と分けられることが多い。しかし現在は、学際的な時代だ。そのような区分に固執していれば大きな成果を挙げられない。そもそも数学というものは全てどこかでつながっているはずだ。最近はそのような認識も強固になって来ている。ということは、好きなことに取り組んで、それを自分の専門分野に結び付けるということが可能になる。何がなんでも強引にでも結び付けるという意識があれば、何らかの応用はできるのではないだろうかと僕は思っている。

最近、僕は代数幾何に興味を持っている。初めはグロタンディークのスキーム理論に興味を持っていたが、そこから極小モデルプログラムと言われる森重文博士らが発展させた理論に興味を持っている。面白いと思ったのならば、どんどん取り組むべきだと思っている。森理論が数理物理に応用できるかどうかなんて分からない。でも取り組む価値のある理論だ。誰もやっていないのなら自分がやればいい。そこに価値が生まれる訳である。

皆それぞれ、面白いと感じることは様々である。「飯を食っていかなければならないから、そんなことはできない」という人もいるだろう。そのような人に強引に挑戦的なことに引きずり込むことはできない。そのような人は、飯を食うために日常を過ごせばよいのである。しかし僕は挑戦をしたくてうずうずしている。だから今はかなり苦しくても挑戦という道を進んでしまう。しかし苦しいのは今であって、将来まで苦しいわけではない。いろいろな面で将来に大きな希望を持っている。今が面白いのは「上級」、そして将来が面白いのは「最上級」なのである。

知識と知恵。

知識とはインプットであり、知恵とはアウトプットである。知識と知恵のどちらが重要か?と問われれば、僕は知恵だと答える。しかし、知識と知恵は全く関係のないものではなく、双方が連動して大きなパフォーマンスを発揮する。

勉強の大部分は知識である。しかし勉強によって得られる知識の多くは知恵へとつながる。いや、つなげなければならない。何かを成し遂げられるかどうかは、知識を知恵へとつなげられるかどうかだということである。

学校で行われる勉強は、知識の習得であることが多い。しかし、このような勉強の強要は、知識を知識で終わらしてしまう可能性が高い。無理やり押し付けた勉強が実を結ばないのは、知恵への昇華という視点が欠けているからだ。受験も同じである。受験勉強のためだけの勉強は、ほとんど意味をなさない。大学受験だと、受験は一瞬であるが、大学生活は4年の時間があるのである。さらには、卒業後の時間の方が圧倒的に長い。勉強というものは、このような長期的視点を持って意味を見出すことが重要なのである。

僕は学歴というものは基本的に重要視していない。人間を評価するときには、学歴ではなく人間そのものを見て評価しなければならないと思っているからである。そこでの判断基準の一つが、「知識を知恵へと昇華できているか?」ということである。高度情報化社会の現在、知識を習得するだけならネットを使っていくらでも簡単にできてしまう。しかしそれぞれの人によって知性の差が大きく生まれる。それは知識ではなく知恵の差である。思考の差である。もし知識の収集に明け暮れながらも現状を打開できないのならば、知識から知恵へと軸を移すことを考えなければならないのではないだろうか。

僕はバカな生き方をしたいんだ!

僕は常々バカな生き方をしたいと思っている。しかしこのバカな生き方というものは、簡単にはできない。そしてバカな生き方をするためにも、知性をつけて理性的にならなければいけない。何も考えないで生きるのがバカな生き方ではない。ある意味常識を超える生き方、それがバカな生き方というものだ。

バカにバカな生き方はできない。それはバカがおバカタレントになれないことからも明らかだ。賢い生き方をしようと思う人は多いが、僕は賢い生き方というものに全く価値を感じないし、魅力も感じない。自分の調子が悪い時、少し賢い生き方をしようと思ってしまう。それは余裕がない証拠だ。心に余裕がないと、バカな生き方をしようと思うことはできない。

クイズ番組で立て続けに正解を出すタレントと、面白いおバカ回答を出すタレントのどちらが面白いか?僕はおバカ回答をするタレントの方が圧倒的に面白いと思うし、魅力を感じる。それと同じだ。おバカ人生を生きる人間の方が自分も他人も圧倒的に面白いし、愉快な気持ちになれる。賢い生き方をしている人は、「賢いね」の一言で終わってしまう。ただそれだけである。人生は楽しくないといけない。愉快でないといけない。僕はそう思っている。

今僕は、50%くらいバカな生き方をできているのではないかと思っている。ということは、まだ50%足りない。僕は何でも100%というものは狙わない方が良いと思っている。なのであと45%くらいバカになって、人生をシンジョイしたいと思っている。(シンジョイとは、新庄(元阪神タイガース選手)並みにエンジョイするという言葉である。)

セオリーを破る。ただし結果が全てだ!

セオリーというものは強力だ。セオリーとは言い換えるとマニュアルともいえるが、このようなマニュアルがあるからこそ俊敏に迷わず判断を下すことができる。しかし、セオリー通りに物事を進めるだけだと、誰がやっても同じ結果にたどり着くだけだ。もちろん、それがセオリーというものだが、何かを打破しようとするとき、時にはセオリーを破らなければならない時も出てくる。

セオリーを打破しようとするとき、必要なのは勇気ではない。冷静沈着な判断力と、その先にある展望だ。これを見誤ると、必ずと言っていいほど失敗する。セオリーを破る人の多くは、結果として失敗をすることになる。しかしこのことは、決してセオリーを破るなということではない。時には失敗する確率が高くても挑戦すべき時があるのだ。

なぜ、失敗する確率が高いのに挑戦するのか?と疑問に思う人も多いだろう。そこで、この失敗というものについて考えなければならない。確かに失敗はする。しかし、その失敗は短期的な、単発的な出来事だ。物事は大局的に捉えなければならない。重要なのは、その失敗がこれからの糧になるかどうかだ。発展の見込めない失敗はすべきでない。しかし、栄養になる失敗は積極的に得て行かなければならない。

セオリーを破ることも同じだ。セオリーを破ることによって新しい可能性が見えてくる。新しい戦術が見えてくるのだ。セオリーを破ることは、新しセオリーを作ることに結び付く。新しいセオリーを作ることこそ、挑戦者たちの目標なのである。数学や物理学においても、新しい理論(セオリー)を作ることが最終目標なのである。

セオリーを破ることによる失敗は決して無駄ではない。そしてセオリーを破ることでしかたどり着けないところがある。ただし、現実は結果が全てである。セオリーを破るのなら、その先にある「新しいセオリーを作るところ」まで行かなければならない。

“特殊”な何々。

最近、報道などで気になっている言葉がある。それは事件などが起きた時に、「特殊な何々」によってなされたという言葉だ。例えばある事件が、「コンピューター」によってされたと報道されたとする。すると、「コンピューターでそんなことができるのか?」と驚く。しかし、「“特殊”なコンピューター」でされたと報道されると、「特殊なものだから出来て当然だろう」と何も驚かない。このようなことに僕は危機感を感じている。なぜ危機感を感じるのか?それはここに思考停止がみられるからだ。

「特殊」という言葉はある意味魔法の言葉だ。「特殊」という言葉を差し込むだけで何も疑問を感じなくなる。この「特殊」という言葉が思考停止を招いているのだ。しかし、もしそれが特殊であるのならば、本来はどう特殊なのかを知りたい。原理を知りたい。しかし多くの人は「特殊なのだからできて当然だよね」となってしまう。例えば、iPS細胞によって治療が可能になったと聞けば、「iPS細胞はそんなこともできるのか?」さらには、「iPS細胞によってどのような原理で治療が行われるのか?」と次々と興味がわいてくる。しかし「“特殊”な治療法によって行われた」と聞けば、「そうなんだ」とそれで終わってしまう。

このようなことから、「特殊な」という言葉は極力避けた方が良い。報道する側も、また日常において何かを説明する人も、内容・原理を詳しく説明する方が良い。それができるかどうかは、その人の知識レベルにかかっている。「特殊な」という言葉を使って説明する人は、実は何も分かっていないに等しい。

実はこのような言葉の綾は様々なところに潜んでいる。言葉の綾に惑わされて何も理解しないで過ごすのではなく、さらに疑問を持ち、内容・原理を確実に理解することが重要なのである。

科学技術から距離を置く。

「現代社会を支配するものは何か?」と問われれば、おそらく多くの人は「科学技術」と答えるだろう。その答えは間違っていない。しかし完全に正しいとは言えない。世の中には科学技術では解決できない問題は沢山あり、そのような事を理解するためにも科学技術至上主義にどっぷりと浸かることは避けなければならない。

そのためには、一つのことを理解しなければならない。それは「科学と科学技術は根本的に違うものである」ということである。しかし、このことをしっかりと理解している人は非常に少ない。ほとんどの人は「科学=科学技術」だと思い込んでいるのである。

そもそも、科学と科学技術は目的が違う。科学の目的は「真理への探究」であり、科学技術は「役に立つことを発明すること」である。それに加えるのなら、科学技術は「ビジネスの手段」だとも考えられるのではないだろうか。

iPS細胞の研究を例にとると、山中伸弥教授の第一発見、つまり「山中ファクターと言われる四つの遺伝子を細胞に組み込むと細胞が初期化される」というiPS細胞の原理の発見は、完全に科学である。しかし、網膜再生などのiPS細胞を使った再生医療は科学技術である。それぞれ非常に意義のある大きな研究であるが、そのどちらに大きな価値を見出すかはその人の基本的価値観に大きく左右される。

人間社会は経済なしでは語れない。つまり科学技術によるビジネスがあって、世の中は回るのである。しかし、そのような科学技術の根源は純粋な科学である。もちろん、科学と科学技術の線引きをどこで行うかは難しい問題であり、また明確に分離できるものでもない。しかし、科学技術が社会・経済の根源であるとすれば、科学は人間の思考の根源である。科学技術が人間の生活を支えているとすれば、科学は人間の頭脳を支えているのである。

しかし、科学技術が高度に発達した現代社会においては、純粋な科学が過度に軽視されているように思える。その原因は、科学と科学技術を区別できていないことにある。今一度、科学の本来の意味というものを深く考える必要があるのではないだろうか?「役に立つ」は分かりやすい。「お金になる」も分かりやすい。しかし、「真理を探究する」という心は簡単には分からない。しかし、そのような心を理解できれば、物事の本質を見抜くことができるようになる。そしてそれは、巡りめぐってビジネスにも大きな貢献をするはずだ。iPS細胞のように。

自分に対する言葉なんです。

僕はこのブログで「どうすべきだ!」ということをよく書いている。もちろんそれは自分の主義主張に基づくものであるが、それは誰に対して書いているかと言えば、一番は自分に対して言っている言葉なのである。もちろん、他人に対して言いたいこともたくさんあるが、主義主張や生き方は人それぞれであり、自分の生き方とは反する生き方もあって当然だ。何しろ、現代は多様性が重要な社会なのだから。

最近、僕が自分に課しているテーマがある。それは「心臓に毛を生やせ!自分を守るな!」である。何事にも動じない精神力、そして心に余裕を持った生き方をするためにも、心臓に毛を生やすことは非常に重要だ。そして、何事にも挑戦し続ける生き方をするためにも、自分を守ることは基本的に考えてはいけない。間違っても保身に走るということはあってはならない。

頭が固まっている時というのは、どうしても自分を守ることを考えがちだ。そして身動きが取れなくなる。自由に考えて自由に行動するためにも、自分を守ることではなく自分が前面に出ていく姿勢が重要である。

科学的思想というものは、地球上だけでは収まらない。科学的思想は宇宙をも飲み込むのである。なのでこのような桁違いのスケールの思想を身に着けることができれば、桁違いのスケールの大きな人間になれると僕は考えている。

頭髪は一般的には歳を取るごとに少なくなっていくと言われている。そして多くの人間は心臓の毛も少なくなっていくようだ。しかし心臓の毛を増やすことは不可能ではないと僕は考えている。そしてそのための手段の一つが「自分を守らない」という生き方をすることだと僕は考えている。心臓の毛の豊かさは、人間の器の大きさに比例する。

これからどのような指針に基づいて生きていくか?このような人生の指針を持つことは非常に重要である。そしてそのような指針は、その時々で自分を救ってくれる。自分を守らない生き方が自分を救ってくれるとは意外だが、人生とはこのようなものである。自分を守れば守るほど窮地に陥っていく。なので、自分の身の安全などあまり考えずに徹底的に前に進んで行く方が、人生トータルで考えると圧倒的に多くのものを生み出せるものである。これからもいろいろなものを生み出すために、徹底的に前に進み挑戦し続けようと思っている。

学問の世界を全て制覇する!

学問の世界を制覇するとはなんだかおかしな言葉だが、学問を理解し新しい結果を出して行くとは、学問を制覇して行く道のりだと考えられる。もちろん、学問を制覇したからと言って、学問を意のままに変えられる訳ではない。物理学であれば、自然法則は人間の存在に関わらず存在する訳であって、それらの物理法則を人間が変えられる訳ではない。数学に関しても、数学は人間の創造物だと主張する人もいるが、僕は数学とは一種の実在法則だと思っている。だから人間の存在の有無にかかわらず、数学の定理は存在する。古代ギリシャ時代の数理的哲学者もそのように考えていたようだ。

スペシャリストになることとジェネラリストになることはどちらが重要か?もちろん人によってその答えは変わって来るとは思うが、僕はどちらも大事だと思っている。そしてこの両方を成し遂げる事こそ、学問の世界を制覇すると言う事である。そのためにはやはり専門と言う足場を作らなければならない。そしてその足場を軸に活動の範囲を広げて行かなければならない。決して専門の殻に閉じこもってはならない。

日本では、高校あたりから理系・文系と分けられることが多い。これは日本の悪習だと僕は思っている。なぜ理系・文系に分けられるのかと考えると、それは受験対策を効率的に行うという理由以外にない。従ってその結果、受験至上主義が蔓延する事になる。受験生であれば受験しか目に入らなくなることも理解できない訳ではない。しかしいい歳した大人が学歴だけで人間を判断する事ほど恥ずかしいものはない。そのような人は、物事を多角的に判断するという能力が欠如していると公言しているみたいなものだ。特に日本においては、学歴がその人の知力を表していると勘違いされることが多いが、学歴はあくまで入学時のペーパーテストの成績を表しているだけだ。学校に入学してからどれだけ勉学に打ち込むかと言う事が最も重要なのである。そして卒業してからもその知力を維持し深める事、それが非常に重要である。

人間の人生というものは、多くの人にとっては大人になってからの時間の方が長い。そして知識というものは、学生時代に身に付けた知見を基に大人になってからどれだけ身に付けるかと言う事にかかっている。学問が小学・中学・高校・大学の16年だけで身に付けられると考えるのは大きな間違いである。その16年は学問を身に付ける基盤を固める時代であって、それを基に自分の中でどれだけ学問を昇華させるかと言う事にかかっている。学問と言うものは、学生時代だけで完結するほど浅いものではない。さらに学問を制覇するためには、大学を卒業してからどれだけ深められるかと言う事にかかっている。

コーチは必要か?無用か?

ある記事で、元プロ野球選手の広澤克実氏が、共に高卒プロ二年目の日本ハム・清宮幸太郎選手とヤクルト・村上宗隆選手を評して、「清宮選手はコーチが必要なタイプ、村上選手はコーチが不要なタイプ」と言っていた。確かに共に球界を代表する若手選手だが、タイプとしては全く正反対のタイプの選手のようだ。

野球に限らず、このような事は色々な分野、色々なプレイヤーに当てはまるのではないだろうか?学問においてもこのことは顕著に表れる。大学院生なら指導教官が必要なタイプと不要なタイプ、研究者なら共同研究者のサポートが必要なタイプと一匹狼のタイプ、などだ。昔は大学院生に対しては放置プレイと言われ、好き勝手にやらせることが多かったようだが、現在は指導教官がテーマからゼミまで手取り足取り関わることが多い。そしてそのような「面倒見の良さ」を売りにしている。

しかし先述の村上選手のように、コーチが不要なタイプ、指導教官が不要なタイプのプレーヤーも少なからず存在する。そのようなプレーヤーに対しては、そのようなコーチや指導教官の指導はむしろ害悪でしかない。自分で明確な構想・ビジョンを持ち、それに向けて自力で進もうとしているのに、コーチは「いや、これはこうだ。こうしなさい。」と横やりを入れてくる。そしてそれに従わなければ文句を言ってくる。極めて迷惑な話である。そのようにして、自力で進もうとするプレーヤーの才能を削ごうとする。

僕は完全にコーチのいらないタイプ、指導教官が不要なタイプだ。はっきり言って、教官の指導なんて害悪以外の何物でもない。院生時代は非常に迷惑な思いをしたものだ。大学学部生時代の指導教官は僕の好き勝手にやらせてくれて非常に感謝しているが、院生時代の(一人目の)指導教官に対しては今でも思い出すのが嫌になるほどだ。(二人目の指導教官にはかなり自由にやらせていただいて感謝している。)

何でもかんでも丁寧に指導すればいいというものではない。それは現在の村上選手が示している。そして僕自身もそれを示さなければならないと思っている。今の時代はあまりにも面倒見が良すぎる。しかしそれが裏目に出ることもある事を十分に知っておかなければならない。自由な発想は、自由な環境から生まれるものなのである。

数学の全貌。

一体人類は数学の全貌のうち、何%を理解したのであろうか?50%か?1%か?あるいは0%か?もし数学の世界が無限に広がっているとすれば、いくら人間が頑張ったとしてもそれは有限なので0%と言う事になる。

しかしこればっかりは現在の人間にはわからない。そして将来、それが分かるかどうかも分からない。はたまた「ゲーデルの不完全性定理」という規格外の定理もあり、「数学の全貌」というものが定義できない可能性もある。

19世紀末、物理学は全て出尽くして、もうやる事はほとんどないと言われていたという。しかしそのような認識を打破したのがアインシュタインの相対性理論であった。そして量子力学がそれに続いて行き、相対論と量子論という二本柱が確立し、物理学はとてつもなく深い世界へと入り込んで行く。

では数学はどうか?数学もその時々、革命的な事象を起こしている。書き出したらきりがないが、20世紀に起こされた最大の数学的革命は、グロタンディークのスキーム論ではないだろうか?その他にも、ミルナーの7次元エキゾチック球面の発見、さらに時代をさかのぼればカントールの集合論も革命的であろう。

現在の状況を見てみると、数学はまだまだ終焉を迎えそうにない。もちろん、部分を見ると完成しそうなものはあるが、それをもって数学の完成かもしれないと思っているのならば、それはその数学者の妄想、あるいは大域的知見のなさなのかもしれない。

ただ、ある時、何となく取り組んでいる分野の全貌を垣間見る時がある。もしかしたらそれも妄想かも知れないが、一瞬世界が広がる時があるのである。そして再び闇へと戻る。しかし一度輝く世界を見ると、研究の指針が確立する。そしてその一瞬垣間見た数学的世界へと近づくことが出来る。数学の全貌は見ることはできないが、数学の一分野くらいはその全貌を垣間見ることは不可能ではないのではないだろうか。