思想、生き方、考え方」カテゴリーアーカイブ

知行合一

今、考える集団・知の集団をつくって何ができるだろうかと考えた。

今は戦国でも幕末ではない。国内は経済の大きな動きはあれ、特に混乱はなく平穏な社会が保たれている。それに考えるだけ、知だけなら、大学でいくらでも議論はされているし、トップレベルの大学には優秀な人もそれなりにいるだろう。

では、今足りないのは何だろうと考えたとき、「知行合一」ではないかと思った。考えるだけなら大学や論壇雑誌、討論番組でいくらでもされている。しかし、この「知」を行動に移す人はどれだけいるだろうか。もちろんいないわけではないが、そんなに多くないのではないかと感じる。哲学を極める人はいるが、それを行動で示す人は限られている。他人の意見の評論をしっぱなしという人も多い。

これから「考える」という活動をしていくうえで、知行合一という言葉は一つの指針になるかもしれない。

継続は力なり

「継続は力なり」

何を今さら、という感じですが。時々感じさせられることがあります。

ピアノを上手に弾いている人を見てると、いつも思います。十本の指を思うがままに操り、複雑な楽譜を見るだけでどんな技巧的な曲を弾いてしまう。これこそ「継続は力なり」なんでしょうね。僕には本当に理解不能です。

逆に僕が継続していることと言えば、数式を操ることでしょうか。専門論文や専門書を読むことが多いですが、他人が見ると、複雑な数式の羅列は理解不能みたいです。でも十年二十年と続けて真面目に取り組んでいると、物理や数学の複雑な数式も直感的にどんなことを表しているか読み取れるようになります。

最近僕が継続していることは、筋トレです。もう三年以上続けているでしょうか。やはり筋トレも年単位で続けていると、体のつくりも変わります。引き締まります。そして嬉しくなります。一時的に集中して筋トレする人もいますが、地道に長期間続けた方がバランスよく引き締まるのではないでしょうか。(僕の勝手な見解ですが・・・)

「継続できる」というのは、一つの才能だと思います。「やればできるんだけど・・・」というのは、才能がないのと同じです。やはり西川きよしさんのセリフ「小さなことからコツコツと」というのが何事にも言えるのではないでしょうか。派手な結果も地味な作業の積み重ねの賜物なんですよね。

経験だけではいけない

経験はお金では買えない。経験をすることは貴重である。しかし経験だけの人間にはなってはいけない。

よく勘違いしている人がいる。俺には経験があるとでかい顔をしている人だ。実は評価すべきなのは経験そのものではない。経験によって身に付けた技術・スキル・考え・思想を評価すべきなのだ。しかしそのような技術などを見る前に、経験だけを見て評価をする人が多い。

実際、経験はあるけど何も身に付いていない、あるいは素人の域を脱していないという人が多い。経験はあるけど、経験しかないという人だ。

では、素人の域を脱するためにはどうすればいいか。一番の方法は能動的に取り組むということではないか。何事も受動的にやらされているだけでは素人の域を越えられない。どうすればもっと発展できるかということを自分の頭で常に考え、能動的に取り組まないと、その一線は越えられない。

経験をすれば勝手に身に付くようなことは、所詮その程度のことなのである。プロになるためには、考えるという行為は必須なのである。

他利の心・科学の心

「他利の心」を忘れてはいけない。

これは、京セラの経営者、稲森和夫がいつも繰り返している言葉だ。

ビジネスは一言で言うと、「お金儲け」ということになるかもしれない。しかし儲けることばかり考えて人の役に立てることを忘れては、一時的にはうまく行っても人々に受け入れられないということを、稲森さんは言っているのかもしれない。

ビジネスに関して素人の僕には、そうなのかと納得する一方、なんかありきたりの言葉でもあるような気がする。

最近の若者、いや若者だけでないかもしれないが、「社会貢献」という言葉を頻繁に口にする。社会貢献というのはすごくいいことだし、そのような心がもっと広まればいいと思う。

でも、その社会貢献という言葉によって、何かを隠そうとしているのではないかと感じることがある。自分の負の部分を許す免罪符みたいになってないかと。

それに最近は、みんながみんな「社会貢献」という言葉を口にするが、それが画一的な社会、社会貢献という言葉に賛同しない人への圧力にならないか、心配である。

世の中で、「俺は社会貢献なんかやらない。自分の好きなことに打ち込む」という人がいてもいいし、逆にいなければならない。

これは特に、科学の世界では大事なことだ。去年のノーベル物理学賞で青色発光ダイオードの発明が受賞対象になり、科学は役に立つものほど価値があると思った人も少なくないだろう。

しかし科学において、役に立つことと、科学的価値のあることとは全く別物だ。20世紀初め、相対性理論と量子力学という非常に科学的価値のある大理論が生まれた。しかし、それらは全く世の中に役に立たない(当時は)ものであった。しかし確実に価値はある。

それらの発見から時は100年近く経とうとしている現在、それらの全く役に立たないと思われた二つの理論は、現在の科学技術社会ではなくてはならない、非常に役に立つものとなった。

勘違いしていることがもう一つある。「科学」と「技術(科学技術)」である。科学と技術は別物である。しかし一般には、純粋科学も科学技術の一部と認識され、純粋科学にも役に立つことを求めるという勘違いが起こっている。科学と技術は切っても切れない関係だが、質的意味的には別物だと認識することも必要である。

日本は高い科学・技術によって支えられている。しかしここ二十年ほどは金融関係の行方に多くの関心が行き、科学の重要性に対する認識が薄れている。そしてノーベル賞受賞者が出たときに、一時的なブームのように高まる、というような繰り返しになっている。

科学・技術に対する理解を深めるためにも、科学と技術の役割や価値観の違いを認識し、コンスタントに科学・技術に対する関心を高めていかなければいけないのではないかと思う。

挫折と努力

いきなりだが、僕は今まで一度も挫折したことがない。

と言っても、なにも順風満帆の人生を送ってきたという意味ではない。失敗は幾度もした。何百回、何千回としたかもしれない。失敗した数なら大概の人には負けない。しかし、挫折は一度もしたことないのである。

なぜこんなことを書いたかというと、失敗は時としてはどうしようもなく起こり、自分ではコントロールできないことが多い。でも挫折するかしないかは自分でコントロールできる。なぜなら挫折は自分自身の気持ちの問題だからである。自分が挫折していないと思っていれば挫折していないのである。挫折をすれば、そこで終わる。でも挫折しなければ、次があるのである。

僕自身の人生も、他人から見れば挫折の連続だと言われるかもしれない。でも僕自身は挫折だと思っていないから挫折していないのである。そしてまた次へと挑戦するのである。

しかし、失敗は何度でもしていいと思っている。失敗の数は挑戦した数。それだけ新たなことに挑戦したということであり、失敗の数は誇りでもある。

しかし、努力もしないで失敗するのは何の自慢にもならない。成功を目指して努力するのであるが、失敗するときは失敗してしまう。

努力したからといって必ず成功するとは限らない。では、なぜ努力しようとするのか。努力しなければ0%のものが、努力することによって20%、30%になるのである。ここからが考えようである。20%をどうとらえるか。たった20%しか成功しないととらえるのか。あるいは20%も成功するととらえるのか。

20%も成功するととれえれば、努力してその20%を手に入れようと思う。そしてその努力が30%、あるいは40%となっていくのである。

もし、たった20%しか成功しないじゃないかと思い、80%失敗することが無駄と思う人は努力する必要はない。その人にとって、そんな努力は無駄だ。しかしその人は0%のままだ。可能性はない。

繰り返すが、努力したからといって必ず成功するとは限らない。しかしその逆は言えるのではないか。「成功した人は必ず努力している」と。すなわち、成功した人というのは必ず努力した人の中にいる。努力しないで成功することはほとんどありえないのである。(絶対とは言わないが。)

失敗を続けてなお挑戦し続けるのは格好悪いかもしれない。しかし格好などかまっていれない。もちろん、可能性がないのに挑戦するのは暴挙だ。しかし、少しでも可能性がある、あるいは自分には成功への道筋・構想が見えているのならば、それにかけてみるのも悪くないのではないかと思う。

考えることを放棄してしまう怖さ

二日前、パリの出版社で銃の乱射事件・テロが起きた。もちろん、犠牲者が10人以上も出たことは大変なことだし、僕も追悼したい。

しかし、この事件で僕が一番気になったのは、犯人が叫んだ「神は偉大なり」という言葉。

なぜこの言葉が気になったのかというと、この言葉がイスラムに限らず、あらゆる宗教の怖さを象徴しているように思えたからである。

なぜこの言葉が象徴なのか。

この言葉を発した者は、なぜ神は偉大なのかと考えただろうか?そもそも神とは何なのかと考えただろうか?おそらく何も考えていなかったのではないかと思う。何の疑問も抱かなかったのだろうと思う。

もちろん、神のこと、宗教の役割を真剣に考え、自分には何ができるだろうかと真剣に考えている人は、イスラム信者はもとより、あらゆる宗教の信者の中にもたくさんいると思う。

しかしこの「神は偉大なり」と叫ぶ人は、神のこと、宗教のことを何も考えていない。無条件に、一方的に盲目的に「宗教の上層部」の人の言うことを実行しているだけである。

このような状況は、イスラムだけではない。キリストであろうと、他の宗教であろうと、あらゆる宗教の信者に見られることである。

このような状況に陥った人は、自分で物事を考えなくなる。考えることを放棄しているのである。この「考えることを放棄」してしまうことが、宗教が与える影響の一番怖い側面だと思う。

人間が自己を表現し確立していくうえで、「考えること」は一番重要で不可欠な要素だと思う。ですから、考えることを放棄することは、自分が自分であることを放棄することと同じである。

べつに僕は宗教を否定しようと思わない。イスラムを否定しようとも思わない。しかし、どの宗教の信者であっても、常に考えることを忘れてはいけない。

今回の事件、そして20年前のオウムの事件も、根をたどれば、考えることを放棄していないか、ということに行きつくのではないかと思う。

テーマは後からついてくる

何か研究を始めたり、物事を始めたりするとき、大概初めにすることは「テーマ」を決めることではないだろうか。しかし、初めにテーマを決めると、その後に続くことが限られる。やることを絞るという意味ではテーマを決めることは有用だろうが、その反面、可能性まで狭めてしまう。

理想的なのは、やっているうちに勝手にテーマが定まっていたという状況だと思う。つまり、テーマが後からついてきているということである。

初めにテーマを決めるときによくありがちなのは、他人に決めてもらう、研究なら指導教官に与えられるということではないでしょうか。しかしそれは所詮他人のテーマであり、自分自身の真のテーマではない。

後からついてきたテーマは、自分の身に付いたテーマでもある。自分で見つけ出したに等しい、自分自身の真のテーマである。

もちろん、最初に仮のテーマを設定して、すべきことを見つけるという手もある。

テーマの設定次第で、オリジナリティの大きさに大きくかかわってくる。

自分自身の真のテーマを見つけ、その課題を達成した結果は、オリジナリティのある成果に違いない。

人の物まねではなくオリジナリティにこだわるならば、初めにテーマのとらえ方が大事なのである。

哲学研究者に対しての疑問

昔から疑問というか、おかしいと思っていることがあります。

哲学者に対して、「専門は何ですか?」と聞くと、大概「カントです」みたいな過去の偉大な哲学者の名前をあげる人が多いのです。

そこで、そのような哲学者に聞きたい。

「あなたは、哲学じゃなくて、哲学者を研究しているのですか?」と。

「カントです」あるいは「ヘーゲルです」ていう人は、哲学者ではなくて「哲学者学者」というべきではないか。哲学者を研究している学者ではないかと。

実際、カントの理性批判の本の注釈解釈に力をつぎ込んでいる人が多い。

もしかしたら、哲学の世界では、独自の注釈を加えることが研究結果になるのかもしれない。

自然科学・数理をやっている側にすると、科学の世界では、新しい理論・発明をすることのみが研究結果になるのであって、他人の研究結果を繰り返しても結果にはならない。

現在の哲学の業界のことを知っているわけではないので何とも言えないが、昔の日本にも、「善の研究」の西田幾多郎、「倫理学」の和辻哲郎など、独創的壮大な哲学者がいた。

哲学者ではないが、「武士道」を英語で執筆し、日本の精神を世界に広めた新渡戸稲造などの功績は限りなく大きい。

このような、独創的哲学を構築していくような哲学者が日本から出てこないかと、強く願うばかりである。

考える力、思想を創造する力

今日、NHK大河ドラマ「花燃ゆ」が始まった。幕末の動乱の時期に動き、世の中を変えた人たちを描いている。その中でも特に、知識人、つまり学び、考え、行動した人たちを中心に進行していくみたいな感じだ。

ところでいきなりだが、考えることによって「思想」が生まれる。思想はその人の頭の中の個性そのものである。ですから、人から聞き、本を読んで得た知識をそのまま自分の考えにするのは、本当の個性ではない。それは単なる「借り物の思想」でしかない。きっかけは人の話であり読書で得た知識であっても、そこから自分の頭で考え、そしゃくした考えこそ「真の思想、独自の個性」なのである。

では、なぜ思想を持とうとするのか、思想は何のためにあるのか。

もちろん、自分の思想を確立するだけでは、自分は満足でも普遍的な意味を持たない。思想を実行・行動の「指針」として、小さくは身の回りのこと、大きくは世の中を動かしていかなければならない。

思想を「創造」し、外の世界・世の中へ「アウトプット」しなければならない。そうすることによって、「自分」という存在が世の中の一角をせめるようになるのである。

それから大河ドラマでは、読書することの重要性が強調して描かれていた。もちろん読書することは、知性を創造し思想を形成していくうえで不可欠なものだ。

しかし、幕末と現代では少し事情が違う。幕末は書物一冊自体が貴重な存在であり、世の中にあらゆる書物が流通しているとは言い難い時代だ。それに比べて現在は、世の中にはあふれんばかりの本が流通しており、欲しい本があればどんな本でもすぐに手に入る。その気になれば無限ともいえる本を読むことができ、限りない知識を吸収できる。

幕末にたくさんの基本的書物を読破することは知識の吸収、世界観の形成に必須のものだったかもしれない。

しかし本があふれている現在、事情は少し違うのではないかと思う。ただ読書をするだけでは「インプット」だけで終わってしまう。知識を吸収して満足するだけでは意味がない。重要なのは「アウトプット」すなわち行動・表現である。読書するときにアウトプットを念頭に置いた読書をしなければ、知識の収集だけという事態に陥ってしまう。膨大な量の本が出回っているから、読む本も慎重に選ばなければいけない。最新の書物を読むのもいいが、昔から存在する基本的文献を身に付けることも大事だ。古典をバカにしてはいけない。

最後に、ドイツの哲学者ショウペンハウアーの言葉を付け加えて終わろうと思う。

「読書とは他人にものを考えてもらうことである。多読に費やす勤勉な人間はしだいに自分でものを考える力を失っていく。」

 

実行者と評論者

R1に出場して改めて思ったことがある。

他人の芸を面白いだの、ダメだのと評するのは簡単だし、評する人に何の責任も生じない。もちろんプレッシャーもない。

しかし芸をする側は、自分のしぐさ一つ、喋り一つが、もろに評価の左右の分かれ目になり、後の人生の分かれ目になる。もちろんプレッシャーもすごくあるだろう。

これはべつに芸人に限ったことではない。

政治に対しても、政治評論家は政治家の行動に対して好き勝手に評するが、政治家は一つ一つの些細な行動が信任の判断の対象となる。

評論家は何を言おうが後に責任を問われることはほとんどないが、政治家は一つの行動・言論によって、政治家生命を絶たれるかもしれない。

要するに、評論者というのは、大概好き勝手なことを言うだけ言って、言いっぱなしで、その結果責任を取られることは少ないし、プレッシャーも少ない。

しかし、実行者(今までの話では芸人や政治家のことだが)は、些細な事柄が時によっては命取りになるし、責任はすべて自分にかかってくるし、プレッシャーも莫大な物であろう。

この構図はあらゆる世界に当てはまる。

サイエンティストと科学評論家、あるいは芸術家と芸術評論家、などなど。

しかし、実際に世界を動かせるのは実行者である。

決して評論者ではない。

もし世界を動かしていると思っている評論者がいたら、それは妄想である。

最近テレビで、池上彰さんの解説が大人気である。政治家をバッサバッサと切っていく様子は爽快でもある。

確かに池上彰さんは切れに切れまくっている。もしかしたら、多くのテレビ視聴者は、切られる政治家よりも池上さんの方がはるかに優れていると思っているかもしれない。

確かに池上さんは評論者としては超一流だと僕も思う。

しかし、池上さんは実行者ではない。政治家ではない。

池上さんが優秀な評論者であることは十分に分かった。だからこそ、最後に一度、実行者としての政治家として活動をしてほしいと思う。政治家でなくてもいい。経済を実際に手で動かす人でもいい。

池上さんがすごく優秀な人だと思うからこそ、評論者・解説者で終わるのではなく、実行者として名をあげてほしい。

最後に自分のことだが、私も評者・解説者に終始したくはない。サイエンスの世界に行こうと思っているが、決してサイエンスを理解し評するのではなく、少しでも科学の理論の建設に寄与する実行者になりたいと思っている。

今はまだ実行できてはいないが・・・