思想、生き方、考え方」カテゴリーアーカイブ

完璧ではなく95%を求める

ついついあらゆることで100%完璧な対策を求めがちだが、100%を求めるのは莫大な労力や精神力が必要で、100%を求めた途端、極端にコストパフォーマンスが悪くなる。もちろん100%を求めなければならないことはある。例えば車、そして飛行機の安全性などはその最たる例だろう。飛行機では1%のミスが何百人という命に直結してしまう。わずかなミスも許されないのだ。

100%を求めるのはコストパフォーマンスが悪くなると書いたが、正確にはその労力は99%から1%上げるのにほとんどを費やされる。車・飛行機にはそれが必要だが、僕らが普段生きている中では100%を求めることはメリットよりもデメリットの方が圧倒的に高い。普段生活している分では、常に95%ぐらいの出来を求めるくらいが精神的にも最も良い効果が表れるのではないかと思う。

この5%を捨てる余裕、これが人生の余裕につながってくる。もし対策していない5%の方に入ってしまったら仕様がない。その時はあきらめればいいのである。

命に関わることは100%求めなければいけないと思うが、それでも外出して道端を歩いていれば、事故に巻き込まれる可能性も十分考えられる。だからと言って外出しなければ自由がなくなる。昔のCMではないが、家にいても隕石が落ちてこないとは限らない。100%というのは非常に割に合わないのである。

なぜこんなことを書いたのか。それは僕が非常に心配性なところがあるからである。つい99%からの残りの1%に気がとらわれてしまう。数学の証明は100%でなければならない。しかし生きていくうえで100%を求めることは全くないのである。95%ぐらいでリラックスして生きていければちょうどいい。

切腹精神と背水の陣

江戸時代の長い鎖国時代を抜けて、明治時代に日本は飛躍的な成功を遂げ、富国強兵政策のもと世界の列強の一因となった。「強国」、これは軍事面だけではなく経済面・産業面も含めてのことだ。その一方、鎌倉・室町から繋がる「わびさび文化」を受け継ぎ、日本固有の文化も継承していった。

その日本固有の文化、あるいは精神というべきであろうか、その一つに「切腹」がある。これはもちろん明治以降はなくなったが、その精神は明治以降も根底に居座っているのではないかと思う。そして切腹の覚悟は「背水の陣」でもある。

なぜいきなりこんなことを書いたかというと、現在の日本人には背水の陣で物事を取り組むことのできる人が少なくなったのではないかと感じるからだ。背水の陣で臨むには極端な場合、命をかけることになる。江戸時代で言う切腹だ。そこまで要求しなくても、現在の日本には、背水の陣の精神があまりにも乏しくなっている。その一つが、「長寿至上主義」ではないだろうか。長く生きることはいいことだと言われ、敬老なんて言葉もある。しかし本当に大切なのは長く生きることによって生まれる「時間」だ。その時間をどれだけ意義のあるものにできるか、それによって人生の濃さが変わってくる。その意義深くする一つの手法が背水の陣だ。背水の陣の精神では、意義のない時間など意味を持たない。今、一刻にどれだけ成果を上げ、次につなげるか。もし失敗をすれば待っているのは「死」である。

僕はこれから、背水の陣で臨むことに決めた。そこで、それらの精神について考えたことを今日は書かしていただいた。さあ、結果を出すのが先か、死ぬのが先か。

「科学的根拠」にだまされるな!

迷信・超能力など明らかに非科学的なことを信じる人は現在でももちろんいるが、数としては少なくなってきたように思う。その理由としては、当たり前のことであるが「科学的ではない」ということである。ところが最近はその「科学的根拠」に騙される人が多いように感じる。

科学的根拠があるかどうかの判断として、話を訴えている人が「これは科学的根拠がありますよ」と言っているかどうかだけに対して反応している人が多いように思う。あるいはその科学的根拠を論理的に説明されると無条件に科学的だと信じてしまう人が多い。

科学的素養がある人から見れば、その論理は明らかに飛躍が合ったり、科学的でないことが含められていたりしてすぐにデタラメだと気付くのだが、科学的思考に慣れていない人にとってはそれだけでも十分に信じるに堅い科学的根拠となる。

例えば以前、「某占いは科学的だから正しい」と主張してきた人がいる。しかし科学的素養のある人からみればそれは二つの点で明らかにおかしいと判断できる。

まず、占い自体科学的でもなんでもないしデタラメだといことである。もしかしたら占いにも正しいものがあるという人はいるかもしれない。しかしこの占い自体を間違っていると判断するセンスは、物理学でいう「熱力学の第二法則」的な論理に似ている。熱力学第二法則ではあるもの(永久機関)はどんなに努力しても絶対に作ることはできないという主張だ。この法則は目的が間違っていることを科学的論理をする以前に否定する。しかしこの法則が認知されるまでには約100年の時間がかかった。

もう一つは、前に述べたように説明が論理的でないということだ。

最近、この「科学的根拠」というものを逆手にとって商売をしている似非科学者たちがいる。その一つに以前ブームになった脳科学ばあちゃんがいる。彼女の言うことは全て科学的だ、科学的に証明されている、ということを前面に押し出している。しかし科学的に冷静に思考できる人間から見ると疑問に感じることが多々ある。しかもたちが悪いことに一部に本当に科学的な事も混ぜられているのだ。だからその一部の科学的部分だけを見て全てが科学的だと信じ込む人が大勢いる。

なにも日常の全てを科学的に考えなければいけないなんていう考えは毛頭ない。常にそんなことを考えていたら逆に頭が凝り固まってしまう。しかし重要な判断が必要なときは、しっかりと科学的判断を下さないと間違った情報に振り回されてしまうということを言いたい。

「何もかも男女平等」は本当に正しいのか?

某ネットサイトでこんな記事を読んだ。

元グラビアアイドル「一番後悔していることは子供を産まなかったこと。2億年前から人類が受け継いできたバトンを放棄してしまった。」

女子アナウンサー「出産適齢期は仕事が一番面白くなってくる時期にあたる。」

このやり取りを見て一番思ったのは、全て何もかも男女平等にするのは本当に正しいのか、ということである。最近は男女平等が極度に強調され、男女の違いを発言するだけでバッシングされるのをよく見かける。しかし男女の違いというものは存在する。その決定的な違いは体のつくりだ。出産は女性にしかできない。このことについては男女平等にすることは100%無理なことだ。しかしそのことに言及せずに女性の仕事・社会進出について男女平等を叫ぶことは危険だ。

前出のアナウンサーが言うように、出産適齢期と仕事が面白くなる時期が重なることがある。そうなった場合に男女で違いをつけるべきではないか。しかし違いをつけるといっても男女を差別するわけではない。「配慮する」と言った方が適切かもしれない。何しろ先ほど言ったように男女には動かしがたい決定的な違いが存在するのだから。それを無視して男女平等ばかり唱えていると、前出の元グラビアアイドルのように後悔してしまうことになるかもしれない。

「全てを平等にする」ということは実は全く平等ではないのだ。本当の平等は全ての人にそれぞれにあった最も適切な配慮をすることだ。今盛んに叫ばれている男女平等は表面的な平等に過ぎない。体のつくりが違えば働き方もおのずと変わってくるだろう。もちろん男女に昇進の差をつけろとか、そんなことを言っているのではない。もうそろそろ「平等」という言葉に異常に反応するのは止めて、「適切な配慮」ということに目を配るべきではないかと思う。

日本人の才能・技能に対しての価値観について

最近、確か韓国の俳優イ・ビョンホンさんについてだったと思うが、彼に大きなスキャンダルが出た。それに対して韓国国内ではバッシングの嵐で、永久にそれを許さないという風潮らしい。それに対して日本人ファンたちは、確かにスキャンダルは良くないが、それと彼の俳優としての演技の上手さは別であって、彼の演技(もちろん彼がイケメンだということもあるだろうが)は好きだからこれからも応援するという人が多いらしい。

確かにスキャンダルはネガティブであるし、ないに越したことはないが、その人の才能とはまた別の話だ。もちろん芸能人は見栄え・普段のイメージまで売りにしているので全く別なわけではないが、例えばスポーツ選手などの場合は仕事の能力とスキャンダルは全く関係ない。スキャンダルが起きたから仕事の能力まで否定するのは間違っている。上述の日本人ファンたちはその点は心得ているのかもしれない。

もちろん犯罪を犯すなどの行為をしたのならば話は別である。しかし日本人の才能・技術を高く尊重する価値観は非常に素晴らしいものだと思うし、分野は全く変わるが、日本人のそのような尊重の心が日本人のノーベル賞レベルの科学者の輩出につながっているのかもしれない。

世界で一番貧しい大統領、ウルグアイのムヒカ氏(フジテレビ・Mr.サンデーより)

10月11日、フジテレビの「Mr.サンデー」で、ウルグアイの大統領を5年務め、2015年2月に退任した、ホセ・ムヒカ氏の特集をやっていた。ムヒカ氏は「世界で一番貧しい大統領」と言われた男だ。彼のインタビューを観た日本人の中には、彼の考えに共感した人は多かったのではないかと思う。一番「貧しい」という言葉は彼に失礼かもしれない。確かに貧乏ではあるが、彼の心は決して貧しくはなく、温かく輝いていた。

ムヒカ氏はなぜ貧乏なのか。もちろん大統領にまでなった男だ。お金を得ようと思えば得られたはずだ。しかし彼はそれを選ばなかった。大統領時代の給料の9割を寄付していたのだ。なぜ彼はそのような行動をとったのか。それは「大統領は多数派に選ばれた者だから、生活水準も多数派の平均の生活をしなければいけない」という信念からである。ウルグアイは決して経済的に豊かな国ではない。したがって彼の信念に従えば豊かな生活はできなかったのである。

彼は日本に関して非常に深い理解を持った人物だ。そして彼は、江戸末期の開国前の日本を非常に称賛し、現在の日本を批判している。なぜ彼は現在の日本を批判しているのか。彼はもともと「消費社会」そして「西洋文化」を否定している。お金があれば欲しいものが買えるが、それよりもっと大切なのは豊かな心だ。そして心は生き物からしか得られない。生き物とは人間、犬、そして草花も例外ではない。彼はそのようなあらゆる生き物を大切にする。物質などは必要最小限あればいいのだと彼は言う。

彼の言葉に日本人は非常に反省する。本当に大切なものは何なのか。高級な車、立派な家、豪華な家具、そしてあらゆる物質的豊かさ。今の日本人はそのようなものを追いかけているのではないだろうか。もちろんムヒカ氏の思想がすべてではない。物質的豊かさに満足するのもそれはそれでいいのかもしれない。しかし物質と心がどちらが大切かと問うた時に、もし物質を選んでしまったら少し心が病んでいるのかもしれない。

最近の僕も何かしら物質的なものを追い求めていたかもしれない。お金は天使でもあり魔物でもある。お金を得た人間の人間性によって姿を変える。お金に、そして物質に飲み込まれてはいけない。ムヒカ氏はそのようなことも訴えたかったのかもしれないと僕は感じた。

僕にとって大事なのは何か。心も物質も大事だ。しかし僕にとって一番大事なのは物理・数学の研究だ。それが心も満たしてくれる。それはムヒカ氏が大事だと主張しているものとは少し違うかもしれない。しかし僕にとってそれが一番大事で生きる原動力になっているのである。数学・物理の心とでも言うべきだろうか。

ノーベル「政治学」賞

最近に始まったことではないが、多くの人がノーベル平和賞、そしてノーベル文学賞が「政治化」していると感じているのではないだろうか。平和賞が政治的色彩を帯びるのはまだ理解できるが、最近は文学賞がさながら「政治学賞」となっている状態に反発を覚える人も多いのではないだろうか。

今年のノーベル文学賞受賞者も非常に政治色が濃い人物だ。そして日本で毎年注目を浴びている村上春樹氏も、作品自体が政治色のあるものだとは言わないが、赴いた場所で、そして賞の授賞式で政治的発言をする。以前ノーベル文学賞を受賞した大江健三郎氏の受賞の決定となった作品は、広島の原爆の悲惨さを書いた「広島ノート」だ。べつに大江健三郎氏の書いていることを否定しようという思いは毛頭ない。しかし大江氏の文学的価値があまり注目されない中での受賞は疑問に思う。もういっそうの事「ノーベル政治学賞」でも作ったらどうだという気持ちになる。

大江氏の前の日本人ノーベル文学賞となると、日本人なら誰もが知る川端康成氏だ。川端氏は純文学的要素・日本的な繊細な文学的表現が評価され受賞された。最近は政治色の濃い文学賞に世界の人々ももう飽きているのではないだろうか。そろそろ純文学的に評価されたノーベル文学賞の報を聞きたいところである。

人生勝ち負けに非ず

数日前のブログで「プロスポーツは勝ち負けが一番大事だ」というようなことを書いたが、それはあくまでプロスポーツに限ったことである。もちろん勝ち負けが重要なことはたくさんある。しかしこと人生に関しては決して勝ち負けだけで評価されるものではないし、そんな単純なものではない。

こんなことを書いたのは、最近いたるところで「勝ち組負け組」ということにこだわる風潮があることに疑問を感じているからだ。仕事で出世して順調に結婚したものが勝ち組と叫び、周りの者もそういう者を勝ち組と持ち上げうらやましがる。そして正社員になれず結婚ができなかったものは自分を卑下し負け組だと落ち込む。しかし僕に言わせれば、そのような卑下するような気持ちを持つこと自体が負け組であって、正社員でないことなど負け組でもなんでもない。それでも周りの者はそういう人間を負け組と呼ぶかもしれない。しかしそこで周りの人間の言うことに同調して負け組だと自覚することが負け組なのである。

しかし人生何も勝つために生きているのではない。もちろん勝つことを命じられるときもある。その時は勝負であり、勝ち負けが重要である。しかし勝ち組だ負け組だなんて気にする前にとにかく行動を起こさなければいけない。行動を起こさずして、信念を持たざるして負け組だと言うなら、それは負けるべくして負けたと言うべきであろう。

人間の命は有限である。どうあがいても150年生きることは100%無理なのである。しかし人生は有限であるからこそ非常に価値あるものなのである。子供の頃は人生は永遠に続くのではないかという錯覚に陥る。しかしある程度歳を取ると人生の有限性を自覚するようになる。そこでその限られた時間の中で自分はこれからどう生きるべきか、自問自答を繰り返す。人生の有限性を自覚した時、人間はより深みのあるものへと変わるのである。

自分の人生が勝ち組だ負け組だなんていうくだらないことを考える前に、これからどう生き、どう人生を深くしていくか、何度も繰り返し問い詰め、中身の詰まった深い人間にならなければならない。

専念と雑念

今の僕がこれから人生を続けるためには、とにもかくにも数理物理の研究で博士号を取得しなければはじまらないと感じている。こんな歳になって何が博士だ、と言う声も聞こえそうだが(実際に周りからはそんな目で見られている)、僕にとって数理物理の研究は命の次というより命より大切と言っても過言ではない。

もちろんこんな状況になっても続けているのには、単に数理物理が一番大事だと言う以外にも理由はある。数学的物理学的構想が僕の頭の中でははっきりしているからだ。結果が出ていないのにこんなことを言うのはバカかもしれないが、自信はある。とにかく後は、頭の中の構想を形として表すだけなのだが、最後の一手がなかなか出ない。

もちろん今、博士号を取得したからと言ってどうなるわけではない。しかしこれから僕が人生を続けるためには博士号は必須だ。今は研究に専念すべきなのはわかっている。しかし金銭的な面などを考えると雑念がしばしば頭の中を支配する。そしてハッと我に返る。

回り道はいいけど、回り道ばかりしてしまった。もちろんしようと思ってしたわけではなく、回り道をせざる負えなかったのである。アクシデントの連続である。アクシデントばかりで苦しいが、悲観に思ったことはない。いろいろ考え込むわりにはかなり前向きである。自分に自信があるからかもしれない。もちろんこれで結果を出せなければ単なる勘違い人間と思われるだけだ。

周りの目を気にしていては生きていけない。そして人が指示する道ではなく、自分で考えた道を進んでいく。自分の人生は自分のものだ。自分の進むべき道に専念しながら、たまにいろいろ他の面白い、やりがいのあることもやってみよう。あっ、これは雑念か。

グレーゾーンを上手く使う

物事を判断するとき、白か黒かはっきりつけることが重要だと思っている人が多い。灰色(グレーゾーン)のままにしておくのは気持ちが悪く、良くないことだと思いがちだ。それが多くの日本人の本音だろう。しかしグレーゾーンというのは白と黒の中間に位置し、白にも黒にも移行することができる。言わばグレーゾーンには柔軟性があるのだ。しかし一度黒と判断してしまえば後から白に変えることは非常に困難だ。それが顕著に表れているのが裁判であろう。

裁判官の仕事は白黒をはっきりつけて量刑を決めることだ。だからグレーゾーンの判決などはほとんどありえない。しかし一度有罪が確定してしまうと無罪に変えることはほとんど不可能だ。冤罪を無罪に変えるには90%の証拠ではダメだ。99%、あるいは100%覆す証拠がなければ無罪には変えられない。それは何万とある判決の中で冤罪が認められた例が数えるほどしかないことからもわかる。

政治の世界ではグレーゾーンと呼ばずに「玉虫色」と表現する。非常に上手い表現だと僕は思う。何色ともとれるわけだ。しかし国民にはこの玉虫色と言う表現のイメージは良くない。どうしても白黒をはっきりせよということだろう。しかし玉虫色で柔軟性を残すべきことは政治の世界では多いはずだ。

このグレーゾーンの利点を一度大きく議論することが必要だと僕は思っている。