思想、生き方、考え方」カテゴリーアーカイブ

SE(システムエンジニア)たちの仕事について

今日の主題はSE(システムエンジニア)。なぜいきなりこんなお題を立てたかというと、ここ数日僕はパソコンと格闘している。TeX(テフ)で数式文章を書いたり、ホームページビルダーで仕事のホームページを立ち上げたり。SEてこんなことをしているのかとちょっと思ったりしたが、実はSEの仕事は一言では表されないくらい多彩だ。SE一人ひとり仕事内容は全く違う。

営業寄りのSEから、プログラミング言語開発などの研究者ともいえるSEまで様々である。僕がパソコンでやってることなどはプログラミング研究からはほど遠い内容で、はっきり言って独創性のかけらもないような作業だ。人が作ったフォーマットを使って作るという感じだが、あまりにも頭を使わない作業の割には、息詰まるとウンウンうなりながら一向に進む気配がない。数理物理の勉強・研究が非常に恋しくなる。それどころか普段仕事で扱っている大学入試問題でさえ独創的に思えてきてしまう。

僕の名古屋の大学院時代の友人に、プログラミングを研究している人がいた。関数型プログラミング言語という、僕にはよくわからないことをやっていたが、彼などはSEというよりほとんど研究者だ。そのような彼を僕は尊敬している。

一方、ほとんどのSEの作業はかなりの単純作業ではないかと思う。最近はSEの人が足りていないので、文系の学部からSEになる人も多いみたいだ。プログラミングとは何かを知らずSEをやっている人たちもいる。

僕がパソコンを使っていて個人的に思うことだが、パソコンで作業をするのは頭に、具体的には知的に良くないように感じる。もちろん前出の彼のようにプログラミングを研究しているような高度に知的なSEはまた全然別なのだが。コンピューターが賢くなっていくのに反比例して、それを使う人間はバカになっていくように思う。もちろんスマホも然りだ。やはりパソコンやスマホから離れる時間は絶対に必要だと思う。コンピューターから離れて自然と戯れる。あるいは僕だったらウィンドウショッピングがひと時の楽しみだ。

コンピューター全盛期の今、コンピューターに依存しない生活というものがより価値があり、重要になってきているのではないかと思う。

二足のわらじ

4月19日、とある記事を見た。二足のわらじを履く女性に関する記事だ。その女性の名前は小川理子さん(52歳)。一つの顔はパナソニック役員だ。パナソニック社員20万人以上いる中、役員は48人、全体の0.02%だ。パナソニック史上二人目の役員だそうだ。

もう一つの顔はジャズピアニストだ。そちらの方でもプロ級で、今までにCDを14枚も出しているそうだ。二足のわらじを履こうとすると、それらに優先順位をつけ、どれに重点を置くか迷うところだ。しかし彼女は仕事とピアノの両方を全力で取り組むことを決めたそうだ。

そこで一番悩むのが「時間のとり方」だ。二つのことを同時にするのだから、単純に考えると一つに使える時間は半分になる。その分それらを取り組んでいるときは集中力を倍にして取り組まないと成り立たない。

僕は今、五つのことに取り組んでいる。その五つのことに明確に順位をつけている。一番重要なことには命をかけてでも。そして順位に低いことは余った時間で。というふうに考えているが、この時間の使い方がとてつもなく難しい。そうでなくてもロングスリーパーなので使える時間が少なく、常に睡眠と時間の使い方で悩んでいる状態だ。

もちろん五つのこと全部で成功するつもりで取り組んでいる。とはいうものの、一番重要なことで成功すればいいと思うこともある。むしろそう考えているからこそ、それ以外のこともできるのかもしれない。

小川さんの二足は二つともとてつもなくレベルが高く、二つのプロの顔を持つ女性とでも言うべきかもしてないが、僕は一番重要なことは何が何でもプロに(本当は世界一を目指している)と思っている。いろいろな顔を持っている人は、人間としても非常に面白味のある人だと思うので、そのような面白味のある人間になることも目指していきたいと思う。

命の選別

新型出生前診断で胎児に異常の見つかった妊婦のうち、83%の妊婦が中絶を選んだらしい。この出生前診断はいろいろな問題・課題を抱えている。一言でそれがいいとか悪いとか言えない。

出生前に診断で産むか中絶するかを決めるのは、いわゆる「命の選別」にあたる。遺伝子に異常のある胎児は生まれる資格がないのか?現在、社会で障がい者を健常者と同じように接しようという流れの中で、この命の選別はそれに逆らうものではないのか?しかし育てる自信のない親に対して強制的に産めとは言えない。

ではそもそも異常のある新生児を育てるのは不可能なのか?まずこの問題に取り組むには社会がこの問題に対して積極的関心を持たなければならない。ダウン症の人たちには症状の重い人から健常者に近い人まで様々いる。しかしそれは健常者でも同じで健常者でも育てるのは難しい人はいるし、健常者もいつ重病にかかるかわからない。

ダウン症の人たちに一つの光を当てる人がいる。金澤翔子さんだ。今では有名なので知っている人も多いとは思うが、彼女はダウン症でありながら書道家として書道の道を極め、2年前のNHK大河ドラマ「平清盛」の題字を書かれた人だ。確かに見かけや話し方などの外見はダウン症を感じさせるが、書道に対しては日本を代表する書家になるなど輝くものもあるし、話す内容も非常にしっかりした信念を持って話されている。

確かにすべての障がい者がこのように輝けるとは思わない。健常者でも輝いている人は少ないのだから。

しかしきついことを言うようだが、中絶は殺人行為である。生まれる前だから殺人ではないなどとは決して言えない。ただ法的に殺人ではないだけであって、倫理的には殺人だ。しかしだからといって中絶者を一方的を責めることはできない。おそらく中絶する妊婦さんも非常につらく苦しいのだと思う。

これは答えのない問題と思う。したがってどれだけ時間がたっても結論は出せない。しかし命の選別行為は決してよくないことは確かだ。

「聖戦」という名の虐殺

戦争を起こすにあたって「聖戦」という言葉を掲げる国、および過激派組織がある。この聖戦という名の下の虐殺は今に始まったものではない。宗教が存在する時代のどこかに聖戦が勃発する。

現在で言えばイスラム国(ISIL)がそうであろうか。

聖戦という言葉を掲げることによって、殺りくを美化するということはあってはならない。美化されるような殺りくなんて存在しない。

聖戦の一番怖いところは、殺りくを美化することによって精神的な歯止めが利かなくなることである。聖戦は無制限な殺りくを助長する。人を殺すことに達成感さえ与えてしまうのである。

聖戦といえば最近はイスラム過激派組織の専売特許みたいになっているが、歴史を紐解くと決してイスラムだけでなく、キリストも、あるいは他の宗教もやっていたことである。

そういえば、3月20日はオウム真理教の地下鉄サリン20年目であった。このオウムのテロも聖戦的な要素を帯びている。人を殺すことによって救済されるという、一般市民には理解しがたい教義がまかり通り、オウム周辺では日常的に殺人行為が行われていたのである。

宗教組織は社会の中で独立した色彩を帯びており、公権力の介入は極力控えられている。しかしその独立された影の中で危険な色彩を帯びていく宗教団体はいつの時代にも存在する。

聖戦、それは人類平和の完全なる敵である。聖戦で救われるものは何一つない。非人道的な集団がある限り、必要最低限の戦争は必要悪かもしれない。しかし聖戦だけは決して許してはいけない。

 

日本人らしくない日本人

僕のことだ。日本人なんだけど、日本にいると何か息苦しい気がする。とは言っても海外にいたことはないので、海外にいても息苦しく感じるのかもしれないが。

でも日本という国は大好きだ。日本は綺麗だし、誠実さでも一番かもしれない。海も山もあり、街も田舎もある。ではどこが息苦しいのか。

大学に入学して、混声合唱団に入団した。歌が大好きで、音楽が大好きだったからだ。しかし合唱というものが僕の性に合わなかった。当たり前のことだが、合唱は集団で歌う。基本集団行動だし、周りに合わせなければいけない。僕にはその集団に合わせるということが苦痛なのだ。自然、合唱団の内部では僕は不良団員の烙印を押される。

練習が始まっても図書館で物理や数学の勉強を続け、わざと遅れて練習に参加する。始まりからきちっと練習に出るのが悔しかったのだ。歌うのは好きだ。しかし僕にとって合唱より物理・数学の方が何百倍も大切だったから、物理・数学の方が大事だということを合唱に遅れるという行為をもって表現したかったのかもしれない。

物理や数学、特に理論系は自分一人でもできるので、自分でペースが作れる。個人プレーというスタイルが僕にすごく合っていたのかもしれない。もちろん物理・数学そのものが大好きということが一番であるが。死ぬまで物理・数学にかかわっていたいと思っている。物理の研究でお金を稼ぐということはできてないので、そういう意味ではアマチュアかもしれないが、プロ意識を持って取り組んでいる。そしてのちには研究で稼いで正真正銘のプロになってやろうと思っている。

全体の空気を読んで集団に合わせるというのは日本の美徳だが、空気を読んでもそれに反抗してしまう僕は日本的ではないと思う。でも日本という国は大好きなのだ。

学問に対する意欲

150年前の江戸時代まで、学問を志す者は藩校、あるいは私塾に志願し学問に打ち込んでいた。しかし家の事情、または身分の問題で学問に打ち込みたくても打ち込めない人がたくさんいた。学問は贅沢な取り組みであったのかもしれない。

今はどうか。勉強が嫌いだからと言って学問を避けている人はかなり多い。そのような人にとって学問は苦痛なのであろう。今は学問に打ち込みたい青年がいれば、打ち込める環境はかなり整っている。しかしこのように学問を自ら避けている人が多い。

なぜ学問を苦痛に思う人が多いのか。理由の一つは義務教育にあるのではないかと思う。本来は学問は自らが志し、自ら志願して取り組むべきものだ。しかし現在は義務教育のもと、6歳になれば嫌でも学校に入れられ、学問を受けることが「義務」になっている。はたしてそれでいいのか。学問が義務になっていることが学問嫌いの大量生産のもとになってはいないだろうか。学問に取り組む「自由」は必要だ。しかしそれを義務にするのは違うように思う。

もちろん義務教育を行うことによって、国民の教育レベルは非常に高いものになっている。読み書き計算など、日常生活において必要なものはやはり義務教育で身に付けるべきであろう。大学全入時代というのも、考えようによっては学問を志す者は誰でも学問に取り組めるということでいいことかもしれない。しかしその全入の実態と言えば、学問嫌いが大卒という肩書をつけるためだけに入学し、4年間遊んで卒業するというものである。もちろん皆が皆そうではない。真剣に学問に取り組んでいる学生の方が多いかもしれない。大学は最高学府に見合うような存在であらなければならない。

意欲あふれる若者が一人でも多く学問を志し、自ら動いて学問に取り組んでくれることを望むばかりである。

逆境でも負けない

失敗しても、挫折は絶対にしない。

逆境にも耐え、最後には成功に導く、そんな覚悟と粘り強さが大切です。

できます。あきらめません。

物書きのスランプ

このブログを書き始めてから約一か月半、一日一記事を目標に書き続けてきた。そしていま、今年に入ってから経た日数とブログの記事は同じだ。

毎日コンスタントに書けるといいが、たまには書けない時もある。そういう時のために、余裕のある時にストック記事を書いて用意して、書けない時にはストック記事をアップすることにしている。

しかし昨日ストック記事をアップし、今日もなかなか文章が続かない。そこで今日はいっその事、そんなスランプな状態を逆手にとって記事にしてやろうと思いこのタイトルで書くことにした。

少し振り返ってみると、今まで社会・時事ネタが圧倒的に多くなってしまった。タイトルが「考える部屋」とあるように、初めは思想・哲学的な記事が多くなるかなと想定していたのだが。専門のサイエンスに関する話題は一つだけだ。

以前、ある文豪の話として、文章を書けるときはすらすら書けるのだが、書けない時にはどうあがいても筆が進まない、そういう時があると何かで読んだことがある。文豪でもそんなスランプがあるのだから、僕にもあって当たり前かもしれない。でも当たり前と開き直ってしまっては何も書けないので、そんなスランプもネタにしてみようと今日の記事を書いている。

そこで風呂に入りシャワーを浴びながら、書く内容を簡単に構想する。風呂というのは温まって血の巡りが良くなるせいか、考えていることが整理されたりアイデアを思いついたりすることがある。数年前にノーベル物理学賞を取られた益川博士も、受賞対象になった小林・益川理論のアイデアは風呂の中で思いついたと言われていた。やはり風呂に入ると頭が活性化されるのだろうか。

頭の調子が常に高いレベルで一定に保たれているといいのだが、調子の良い時と悪い時の波というものがどうしても出てくる。そこで調子の良い時は数理物理の研究・勉強を、そして疲れたら物書きを、悪い時はネットを眺めて情報収集を、というふうに使い分けることにしている。

かの有名な哲学者バートランド・ラッセルは、調子の良い時は数学・論理学を、普通の時は哲学を、悪い時は社会科学をやっていたと何かの本で読んだことがある。

調子の良い時は思いっきり、悪い時は悪いなりにと時間を有効利用するのは、いい戦略である。でも悪い時はいっその事寝て過ごせとなり、だらけてしまうのは意志の弱さなのか。

何はともあれ、勢いに乗っている時の充実感を少しでも長く感じたいものである。

 

動の学問、静の学問

いま大河ドラマ「花燃ゆ」で吉田松陰をやっているが、彼の学問を一言で言うと、「動の学問」と言えるのではないか。彼は部屋で勉強し、講義室で講義するだけでなく、その学問の精神を行動に移し実践した。黒船密航に然り、あるいは日本各地を自分の目で見て確かめること然り。動きに動きまくっている。これほど学問の精神を行動に移した人もいないのではないかと言えるくらいだ。

数学、物理学というものは、基本机の上で研究し、行動と言えば講義室で講義するくらいだ。もちろん世界を飛び回っている人もいるが、それは研究発表のためであり、研究の精神が直接行動し、事を起こすというわけではない。

吉田松陰の学問が「動の学問」とすれば、数学、物理は「静の学問」と言えるのではないか。

幕末など動乱の時期には、事を起こすにはまず動かなければならなかった。動いて動いて事をなすのである。学問ではないが、坂本龍馬などを見ればそれはよくわかる。学問も、徳川時代約250年間に机上で蓄えた知識を、国を動かすために動いて実践に移す時期であった。

静の学問も素晴らしいが、少し体が鈍ってしまう。そんな時、動の学問にかかわれたらと思ったりする。しかし今の日本は動乱の時代ではない。動乱を求めて海外に行くのも変な話である。

国にかかわるなどといきなり大きなことを言わず、まず身近な世界から行動に移すのが、大きな動への一歩となるのかもしれない。

安易に目立つな

最近、ネット上での安易な悪ふざけ動画が問題になっている。中には犯罪行為に当たるものなど、法に触れるものも少なくない。その悪ふざけ映像アップの一番の原因は、単に目立ちたいからというものらしい。

世間で有名になるのは、難しいと言えばかなり難しいと言えるし、簡単と言えばかなり簡単ともいえる。

なぜ難しいか。有名になりたいと言って真っ先に思いつくのは、芸能人、一流スポーツ選手、最近ではノーベル賞学者であろうか。彼ら彼女らは才能を持ち合わせた上に半端ない努力を重ね、コツコツと実績を上げ、名をあげて有名になっている。普通の人が普通にやっていてはまず無理なことだ。だからこそ彼ら彼女らの存在は価値があるし、大きなリターンもまわってくる。また相当なリスクをとって挑戦していることも多く、その覚悟という者は半端ないことも多い。

では次に、なぜ簡単か。それは最近起こった爪楊枝混入事件でも明らかだ。大きな犯罪を犯せば簡単にテレビニュース番組に顔写真が実名入りで流される。有名になりたくて犯罪、あるいは犯罪まがいのことを犯す人が最近後を絶たない。彼らは明らかに勘違いしている。有名になったことで得意気になっているようだが、普通の人間は、皆できないのではなくて、しないだけなのである。そんなことをして有名になったって何の価値もないどころか低レベルなこと極まりないだけである。

有名には、名誉ある有名と、不名誉な有名があるのである。悪ふざけ動画で有名になろうという人は、その二つの区別が全然つかないのだ。

コツコツと努力して名をあげることは素晴らしいことだ。実績を上げて、名誉ある有名人になろう。もちろんそれは容易なことではないし膨大な時間もかかるだろう。しかしそれが有名人になるための正しい道だ。