思想、生き方、考え方」カテゴリーアーカイブ

大スランプ。

年単位で考えれば、調子が良い時と悪い時がどうしてもある。このような調子の波をなくすことは、多くの人の課題であろう。一時的に調子が良いだけではなかなか目標を達成することはできない。一番大事なのは持続である。持続的に取り組み、持続的に成果を挙げていく。それによってさらに上にある目標も達成できる。

僕は現在、大スランプに陥っている。なかなか浮揚策が見出せないでいる。焦りもあるが、ビジョンはしっかりと保持しているので、そこは少し安心している。浮揚策を見出すために、様々な試みをしている。例えば筋トレやジョギングをして体を動かしたり、コーヒーやお酒を飲む量を制限したりとかだ。これとスランプの何が関係あるのか?と思われそうだが、意外とこのようなことが関係していたりする。だから些細な事でも、それが良い方向へとつながると感じれば取り組むことにしている。

もちろん、根拠のない取り組みはしない。では根拠とは何か?一つ目は科学的根拠であり、もう一つは経験的根拠だ。科学的根拠を判断するときには、疑似科学には注意しなければならない。世の中には疑似科学(エセ科学)が蔓延している。僕は数理物理という科学に取り組んでいるので見分けることができるが、本質を見抜くことができないと疑似科学に振り回されることになる。そしてお金も健康も失ってしまう。

現在の大スランプを脱出できるかどうかは、僕の実力にかかっていると思っている。そして常に自力本願を心がけている。険しい関所ではあるが、乗り切れる自信は大いにある。

「記憶」か?「思考」か?

記憶が良くて、思考も深い。これが一番理想かもしれないが、僕は記憶力が悪い。短期的記憶も長期的記憶も、どちらもかなり良くない方だ。しかし、記憶力が悪ければ思考でカバーすればよい。確かに記憶力が悪いことはかなり不便ではあるが、致命的ではない。しかしこの逆に、記憶力は良いが思考ができないとなると、数学や物理においては致命的だ。いや、記憶力が悪いだけでもかなり致命的かもしれない。しかし、思考力で何とかカバーしている。

世の中を見ていると、記憶力でものを言わしている人はかなり多いように見受けられる。しかし思考力でものを言わしている人にはほとんど出会わない。そもそも思考力があれば、ものを言わすという発想自体不必要なのかもしれない。「ものを言わす」という言葉は、自分の実力以上の威厳で押さえつけるという意味合いがある。しかし、思考力自体がその人自身の実力だと言える。だからものを言わす必要がないのだ。

数学を記憶力だけで進めることができるのか?確かに高校数学くらいなら記憶力でかなりカバーできる。いや、大学数学だってカバーできる。いや、既存の理論を理解するくらいなら記憶力で乗り越えられるかもしれない。しかし、新たな理論を作るとなると話は別だ。新しい理論の構築は、99%思考に依存している。だから思考力なしで理論の構築はできない、しかし記憶力があれば非常に便利だ。それは僕もひしひしと感じる。しかし記憶力が悪ければ、それはそれでよい。むしろ、記憶力が悪いからこそ思考の方に頭を使おうと努力できる。

最近、生物学に興味があり、ちょっとした生物学書を読むことが多い。とは言え、生物学の専門家でない僕の取り組みなど大したことはない。しかし生物学の論文くらいは読みたいものである。少し前、山中伸弥教授のiPS細胞の原論文に目を通したが、やはり専門用語などが分かり辛い。特に、遺伝子などの様々な名称が理解できなかったりする。生物学は昔から暗記の割合が大きい学問だと言われている。しかし現在の生物学はかなり論理的、化学的、物理学的になり、思考の割合が増えているように思える。博物学的な側面が強かった時代から見れば隔世的だ。しかし最低限の記憶は必要だ。記憶力の悪い僕が、副々専攻としての生物学をどこまで究められるか?これはある意味一つのちょっとした挑戦だと思っている。

「権力」対「知識」。

世の中には、自分の意見を通そうとするために権力を手に入れようとする人が多い。確かに権力を手に入れれば、自分の思うようになるように思える。しかし、自分の意見を通そうとするためには、もう一つの方法がある。それは「知識」による攻勢だ。これは簡単に言えば、銃で攻撃するか?ペンで攻撃するか?ということである。そして僕は迷わず、ペンを武器にすることを選ぶ。

僕には愛用している一本の万年筆がある。そのペンは僕が大学院に進むときに友人が贈ってくれたペンだ。だからかなりの年月になる。その一本のペンで数学や物理の研究を行い、インクのカートリッジはもう百本以上交換したのではないだろうか。その万年筆はもう僕の手足である。

ペンで理論を重ねれば、その力は国家権力よりも大きなものになると僕は考えている。とは言え、僕は権力を手に入れるために理論を重ねているのではない。ただ真理を見極めたいがためにペンで理論を重ねているのだ。しかしこの先、何らかの権力と対峙することもあるかもしれない。そのような時は迷わずペンを武器にしたい。

銃の威力は誰でも分かる。しかしペンの威力は、ペンを使い倒した人にしかわからない。だからこそ、ペンの威力を認識した人が一人でも必要なのである。この前の内閣改造で、河野太郎氏が外務大臣から防衛大臣へと横滑りした。今、日韓関係は、どうやら銃の威力の方へ傾いているように感じて仕方がない。しかしペンの威力、すなわち正常な外交の力を最大限に利用しなければならない。もちろんこのためには、日本だけでなく相手側にも良識が求められる。これから河野太郎氏が相手側の良識を引き出せるか?河野氏の手腕にかかっている。

まず攻めがあって。

僕は人生をとことん攻めて行くとよく言っているが、だからと言って守りを考えない訳ではない。防御に関しても最強である必要があるが、しかしそれらの防御は攻めがあって成り立つものでなければならない。だからここぞという時は丸腰でも攻めて行くことにしている。一番危険なのは、自分を守ることが第一条件になってしまうことだ。

時には、人を守るために攻めて行かなければならない時がある。「攻撃は最大の防御」という言葉があるように、攻めの姿勢のない防御は崩れ去るのも早い。そして攻めのない防御は、その場しのぎでしかないことが多い。つまり長期的視点に欠けている。長期的視点とは、「今損をして、将来得をする」ということである。そしてそれによって利益を最大化することができる。しかし、その戦法が常に功を奏すとは限らない。つまりリスクがある。ではどう考えればそのようなリスクのある行動に出られるのか?

そのためには、一度損得勘定を抜くことが必用だ。損得勘定以外の事、つまりリスクさえもスリルと考えて楽しむとか、また長期的構想の構築自体を楽しむとか。つまり全ての事を楽しむのである。究極的には苦しみさえも楽しみにすればいい。そしてその苦しみを乗り越えれば、達成感を感じるのもいいと思う。意外と窮地に陥っている時の方が、人生が充実していることも少なくない。今の僕の人生はそのようなものである。

とは言え、僕でもくだらない守りに入ることもよくある。そのような時は、そのような自分に落胆する訳ではあるが、同時にそのような自分をどう変えていくべきかということを徹底的に考える。それによって自分を変えるにはそれなりに長い時間がかかるが、75%くらいのことは変えられているように思える。「本当の自分」とは、今のありのままの自分である必要は全くない。自分を自分の思う方向へと変えることができれば、それも本当の自分なのである。本当の自分を常に変革するためにも、常に人生を攻めて行くことが必要である。

科学を専門にしているからこそ。

科学の研究者は、全ての物事を科学的に考えていると思っている人がいるかもしれない。確かに、全ての物事、日常的な物事を科学的に考えている研究者は多いかもしれな。そしてそれは多くの場合正しいかもしれない。しかし人間が生きるにおいて、科学的な解釈一辺倒ではどうしても乗り越えられないこともある。例えば人間の心だとか、恋愛だとかだ。もちろん現在では、人間の心さえも科学的研究の対象になっている。それは非常に高度な科学であり、非常に面白く意義のあることである。僕が言いたいのは、そのような心の科学研究に対してではなく、日常の人付き合いだとか人生に関してである。

とは言え、もちろん宗教とかそのような事を言っているのではない。僕の中では宗教などは論外である。人の気持ち、心、そして交流、このようなことを全て科学的な判断で動いていれば、多くのものを失ってしまう。もちろん、判断に困ったときに、科学的決断をすることは重要である。しかし、恋愛に科学を持ち出すバカもたまにいる。そしてそういう人に限って、科学を全く理解していない場合が多い。科学を持ち出すべきでない意義を理解するためには、科学的本質を理解することが不可欠だと僕は思っている。

このようなことからも、専門の科学だけでなく、科学全体を見渡せる力を付けることが重要である。科学以外のことを理解するためには、科学を理解することが必要なのである。これは、ジェネラリストになるためには専門を極めることが必用であり、またスペシャリストの道を極めるためにはジェネラリスト的な深い教養が必用だということである。

人の心を深く理解するためには、科学と感性の両方を磨かなければならない。物事を全く違う二つの側面から見るのである。そうすれば、第三の面が見えてくる。そのように多角的に物事を深めていけば、科学の理解も心の理解もさらに深めることができる。人間には物理的には備わっていない第三の眼を、多角的思考によって身に付けることは、決して不可能な事ではない。

図書館“も”利用する。

少し外出したついでに、久しぶりに市の図書館に足を運んだ。僕はこれまでは基本的に、読みたい本は全て買うことにしていたが、やはり読みたい本を全て買っていれば財布の中身が厳しい。図書館に足を運んで新刊本コーナーを眺めていると、少しではあるがなかなか面白そうな本が置いている。そこで面白そうな本をまとめて借りる手続きをすることにした。

面白そうではあるが、一回読めば繰り返し読みそうな本ではない。仮に繰り返し読みたければ、その時その本を買えばよい。とは言え、必要な専門書はこれからも基本全て購入する方針だ。しかし一般書籍はむしろ図書館で積極的に借りる方が良いのかもしれない。それで浮いたお金を専門書の購入に充てることもできる。

「図書館‘‘を’’利用する」ではなく、「図書館‘‘も”利用する」と言った方が正しい。そもそも、市の図書館に専門書が置いているわけではないので、そこは利用しようにもどうにもならない。そして、専門書は手が届くところにあって、手を伸ばせばすぐに取り出せることが重要だ。

これからも、必要だと思われる専門書は湯水のごとく?購入しそうだ。もしかしたら、書籍エンゲル係数だけは誰にも負けないかもしれない。

たまにお酒を飲むのがいい(かも?)。

お酒は体や脳に良いのか?と問われると、現在では99%(100%?)良くないと言われている。昔は少量のお酒ならむしろ健康に良いとも言われていたが、最近の研究の結果によると、少量のお酒でも健康に良くないということが明らかになっている。少量のお酒は薬になるという言葉は、お酒を飲む人が自分を正当化するために言われた言葉かもしれない。

しかし時には、お酒を飲むことは気分転換になる。そのためにお酒を飲むという人も多いだろう。確かに健康には99%(100%?)良くないかもしれないが、たまにお酒を飲んで気分的に調子が良くなるのならばそれもありであろう。特にストレスがたまっている時などは、お酒で気分をやわらげようとしたくなる時もある。それはそれでありだと思う。

しかし「お酒は飲んでも飲まれるな!」とよく言われる。これが非常に重要である。お酒に溺れて依存になれば、100%悪い方向へと進む。だからある程度自制をかけることが必要である。僕自身はお酒はかなり好きな方だが、現在はお酒を飲まない日の方がだいぶん多いし、たまに飲むときも缶ビール一本か二本くらいで抑えている。そのおかげで、体も精神的にも良い状態を維持できている。

体と精神は、自分でコントロールすることが必要である。そのためにはお酒は極力飲まない方が良いかもしれない。しかし人と飲むことは非常に楽しいものだし、それで付き合いが円滑に進むのならば飲まない手はない。ここでもやはりリスク対効果という考えが重要だ。健康面でのデメリットと、それ以外の面でのメリットを比較してみる。そう考えると、たまに飲むのはメリットは大きいのではないか?ということで、一週間に一度(か二度)くらいはお酒を飲むのは悪くないと思うがどうであろうか?

未来はとてつもなく明るい!

明るさの評価には二通りの方法がある。一つは絶対的な明るさ、もう一つは相対的な明るさだ。絶対的な明るさというものは、測定器を使って正確に測ることができる。人間の人生の明るさで言えば、例えばお金だとかであろう。もちろん、お金だけで明るさを測れる訳でなく、あくまで一側面を評価したに過ぎないが、お金は数値で厳密に測ることができる。相対的な明るさは、つまりコントラストである。それは同じ一万円を所持していても、お金持ちが持つ一万円と貧乏な人が持つ一万円では全く価値が変わるということである。

人間の人生を測るとき、どうしても絶対的なものにこだわりがちだ。しかし実際に感じる明るさは、相対的なものの方がより感じやすいように思える。では、絶対的な明るさと相対的な明るさのどちらを重要視すべきか?もしこの質問に迷うのなら両方手に入れればよい。しかしそうは言っても、これは簡単な事ではない。もしかしたら普通に平凡に暮らすことを望む人もいるだろう。そこはそれぞれの人の価値観の違いである。どちらが良くて、どちらが悪いという話ではない。

今僕は、非常に明るい未来が見えている。未来が楽しみで仕方がないのである。しかし現在はまだ光の中にはいない。だから自信はあるが実感は全くない。今の僕を支えているのは明確なビジョンである。このブログでも何度も引用している山中伸弥教授の言葉「VW(ビジョン&ワークハード)」、全てはこの言葉が表している。従って、後はワークハードをするのみである。いや、ビジョンもどんどん更新して進化させていかなければならない。

リスクには目に見えるリスクと目に見えないリスクがある。目に見えないリスクというものは、誰もが無意識に取っているものだ。しかし目に見えるリスクは多くの人は避けようとする。例えばお金に関するリスク、あるいは人生に関するリスクなどだ。しかしこの目に見えるリスクを取れるか取れないかが意外と人生を大きく左右する。リスクを取り続けている時、大概人生はどうしても暗くなりがちだ。しかし未来の人生は非常に明るいように思える。これだけの未来の明るさを感じれるのは、人生において挑戦し続ける者の特権かもしれない。あとはそれを実現するのみである。

最近、僕が社会評論をしていない理由。

僕は最近、ブログで社会評論をほとんどしていない。いや、やり切れていないと言った方が良いかもしれない。その理由は、ポジティブな理由とネガティブな理由がそれぞれある。

ポジティブな理由は、評論者ではなく実行者になることが重要だと思っているからだ。例えば、政治家を批判しようと思えばいくらでもできる。しかし自分自身は政治家ではない。批判するだけして自分は何もしないというのはフェアじゃないと言える。もし政治家を本気で批判しようと思うのならば、自分自身が政治家になろうというくらいの覚悟が必要なのではないか。少なくとも自分が選挙に立候補するというくらいの行動力が必要かもしれな。もちろん政治家に対して国民が審査することは必要だ。そういう意味で、国民が政治家を批判することは非常に重要な意味がある。権力を放置してしまうと、自然独裁化をたどってしまう。しかし矢面に立たされているのは政治家であることも理解しなければならない。

ネガティブな理由は、自分が弱気になっているということである。現在、自分の人生に対しては積極的に強気に出ていることは間違いない。しかし社会の中で自分というものを考えると、なんだか評価を気にしているところがあるように思える。もちろん、社会での評価というものは重要かもしれないが、少なくとも僕自身は周りの評価などに行動を左右されるべきではないと思っている。僕の目指しているところはそういうところにある。その一環として、社会評論、政治評論をもっとすべきであるはずだ。しかし現在、それができていない。もちろん準備はかなりしている。なので、自分の気持ちの整理がつくと、また積極的に評論していきたいと思っている。

他人に対して自分の価値観を押し付けるのはおそらく間違っている。しかし自分の価値感を主張することは必要だと思う。政治や社会に対しても様々な価値観があるはずだ。だからそれぞれの人が様々な価値感に基づいて様々な評論をすることは必要だ。政治に対して、社会に対して、そして科学に対しても様々な価値感をぶつけ合い、正しい道を探っていくことが必要である。

社会は疑っても、人間は信じる。

人生が上手くいかない時などは、どうしても人を疑ってしまうことが多い。いや、人生が上手くいっていても、人を疑うことは多いかもしれない。しかし人を疑ってばかりいると、ますます疑心暗鬼になってしまう。なので、信じるべき人に対しては絶対的に信じるということも非常に大事だ。そのように信じるべき人がいることは、自分にとって非常に大きな財産だ。

しかし社会は明るい部分と暗い部分がある。社会とは疑ってかかることが前提になっているようなところがある。社会や政治、ビジネスなどは慎重に疑ってナンボみたいなものである。しかしその中にあっても、味方は信じなければならない。確かに味方であっても、打算的に味方になっている人も多い。しかしそのような打算的に味方になっている人に対しても、信じて付き合うか、疑って付き合うかによって、これからの展開は大きく変わる。

何だか現代においては、疑って生きる人が騙されにくく、賢い人間だと思われているようである。しかし僕は疑う人が賢いとは全く思わない。もちろん疑うべきところでは疑うことは必要だが、信じるべきところで信じることができる人、そのような人が賢い人間であると思う。確かに信じることによって失敗することもあるだろう。しかしそれ以上の成功を挙げればよいだけの話である。

失敗しないように生きるか?成功を挙げるために生きるか?これは同じことのように思えるが、根底は全く違っている。なぜなら成功を挙げるためには、その十倍の失敗が必要である。大成功を挙げるためには、その百倍の失敗が必要かも知れない。失敗をネガティブに捉えるか?ポジティブに捉えるか?そのような事が人間性であると思う。ポジティブになればなるほど、正しく人を信じることができる。そして正しく疑うこともできる。すなわち、ポジティブな判断を下し続けることによって、正しい判断力が養われるのである。