思想、生き方、考え方」カテゴリーアーカイブ

世界!

僕はこれまで、特に世界と言うものを意識しなかった。数学や物理の研究などは個人プレーなので、海外で行おうが日本で行おうが同じだと思っていたし、特に海外でやることが優れているとも思っていなかった。それどころか、海外に出ないとできない人など、逆にダメなのではないかとも思っていた。もちろん、野球においては、海外・メジャーリーグに行かないと高レベルのプレーはできないし、海外でしか磨けないこともたくさんある。しかし僕自身の事に関しては、数年前まで特に海外を意識することはなかった。

しかし、そのような思いはここ数年激変している。今は日本にいてはダメなのではないかと強く思うようになり、一刻も早く結果を出して世界に出なければいけないと追い詰めている。日本の何がダメなのか?その理由は一つだけではない。保守的すぎる社会性であったり、法的に縛られ過ぎであったりと、言い出したらきりがない。少なくとも、僕にとって自由に研究ができる環境が日本にはないのだ。もちろん、海外に行けばそれが解決するという保証はない。結果も出さずに海外に行けば、状況はさらに厳しくなるのはわかっている。だからこそ、明白なる結果を示して海外に行かなければと思っている。

しかし、何に関しても海外の方が良いと言う訳ではない。治安に関しては銃弾が飛び交っている国は少なくないし、日本の飯は世界一おいしい。しかしそれを差し引いても僕にとっては海外に行くべきだと思っている。日本で野垂れ死にするくらいなら、海外で銃弾に当たる方がマシだ。それくらいの覚悟はできている。

もちろん、日本に住む方が圧倒的に合っている人も少なくない。いや、むしろそのような人の方がはるかに多い。日本は良い国だ。僕も日本は大好きである。サッカーやラグビーのワールドカップが開催されれば日本代表を全力で応援するし、日本の文化に対しても素晴らしいものは沢山あると思っている。そして何より、平和であることが素晴らしい。日本は素晴らしい国なのだ。しかしそれとこれとは違う。自分が日本の社会に合っているかとは別問題だ。僕はもう限界だ。一刻も早く結果を出して世界に出なければ!

リアル人生ゲーム。

人生とは非常に貴重なものだし、時には非常に重いものでもある。しかしいつもそのような重さを抱えていては、進むものも進まなくなってしまう。なので時には気楽に、そして時には人生をゲームのように捉えて進むことも非常に重要だ。

人生においてピンチになったとき、そのような時こそゲームのように捉えて物事を進めることが威力を発揮する。ピンチの時にはどうしてもネガティブに考えがちだ。なのでゲームを一歩一歩遂行していき、詰むか詰まれるかという攻防を行っていくことは非常に有効である。そして何より、ゲームと捉えることによりネガティブな事がポジティブに考えられる。従って人生が面白くなる。面白くなれば物事がどんどん前に進みだす。そして成功へ近づく。人生というものは、深刻に捉えればよいというものではない。

とは言え、このようにピンチを楽観的にゲームのように捉えることは簡単ではない。しかし明らかに楽観的な方が物事は成功しやすい。少なくとも僕はそう考えている。慎重に考えすぎて前に進めないくらいなら、とにかく前に進んだ方が良い。学問でも、あれこれ考える暇があれば、とりあえず問題や理論に取り組んで少しでも前に進めることが重要だ。

人生とは結果も大事だが、過程も大事である。そしてそのような過程の一つとして、リアル人生ゲームと捉えることも一つの重要な手である。ゲームと捉えることにより、手段が一つ増えるわけだから、それは人生の豊かさにもつながる。選択肢は多数持っていた方が良い。そしてそれと同時に、それらの選択肢からどれが一番適切かという判断力も必要だ。過程も結果も重要だが、最終的にはどれだけ人生を豊かにできるかということであると僕は強く思っている。

コーヒーの調節が意外と難しい。

最近、コーヒーの調節に四苦八苦している。コーヒーを飲むことによって、調子が大きく変化することがあるからだ。特に頭の働きに大きく影響していると強く感じている。数理物理の研究をしている僕にとっては死活問題だ。もちろん、全ての人がコーヒーによって影響を受けるとは思わないが、コーヒーの摂取量は自分でコントロールすることが必要だと強く感じている。

コーヒーを飲むことによって、ストレス調整ホルモンであるコルチゾールという物質の分泌に影響してくると言われている。もちろん、僕はそのような事の専門家ではないので軽く言うべきではないのかもしれないが、ただ色々な情報を入手すると、もしかしたらこのコルチゾールというホルモンに調子が影響されているのかもと考えている。僕自身、ストレス耐性は非常に低い方だと感じている。これまでコーヒーを半無限的に飲みまくっていたので、もしかしたらこれが影響しているのかもしれない。なので最近は、飲んでも一日に三杯までに止めている。

ただ、コーヒーが大好きな僕にとってはこれはかなりきつい。朝起きるとどうしてもコーヒー一杯飲みたくなる。しかしここを我慢して、起床一時間半後まではできるだけ飲まないようにしている。この起床直後がコルチゾールの分泌に一番影響するそうだ。

コーヒーを飲み過ぎても全く影響のない人は何も考えずに飲み続ければ良いが、僕のようにコーヒーを飲むとパフォーマンスに影響するのなら、自分でコントロールすることが必用だ。僕自身、様々な欲求をコントロールすることはかなりできる人間だと思っているが、これまでコーヒー中毒を自称していた僕にとっては、コーヒーのコントロールはかなり厳しいものである。ただ、コーヒーのコントロール一つでパフォーマンスが上がるのなら、徹底的にコントロールしていく覚悟はできている。

独創とは、先端よりも意外と根っこにあるものだ。

どの分野でも独創性は大事であるし、大きな変革は独創から生まれる。では、独創はどこから生まれるのか?もちろん、最先端の物事から生まれることもあるだろうが、僕はむしろ根っこから生まれると感じている。最先端の物事においては、どうしても継ぎ足しを繰り返すということが多くなる。もちろん継ぎ足しにより発展はしていくが、大きな変革は見込めないのではと思う。それに対して、根っこと言うものはある意味基盤であり核心である。そのような核心を極めながら、ある時核心を覆す。それでもさらに核心的な事は維持されるかもしれないが、そのような変えるべき核心を変革し、維持すべき核心を守り抜く。そのような事によって独創的な革命は起こるのだと感じている。

日本は独創性に欠けると言われることが多い。いや、日本でも世界に誇る独創は存在する。近年はノーベル賞受賞者も多数出てきているし、文化的な事柄に対しても独創は多く存在する。しかし、近年のノーベル賞の対象となった研究内容の多くは二昔前の結果であるし、今世界で注目を浴びている日本文化も古くからあるものだ。では、現在進行形の独創は存在するのか?と考えた時、僕はアニメを思い出した。現代日本アニメは世界に誇る大きな独創である。アニメの映像を見ると、日本のアニメはアメリカなどの海外のアニメとは何段もレベルが違う。それは素人目にも明らかである。しかし、日本のアニメの世界において独創を求めようとはあまり聞かない。もし手軽い独創を求めていたら、確実に現代の日本のアニメは存在していないだろう。

では、他分野ではどうだろうか?例えばビジネスにおいて、さらにはITにおいて、日本の状況を見ていると、至る所で独創性が重要だと言われている。しかしアニメとは反して、ビジネス・ITで独創はあまり存在しないように思える。その原因は、手軽い独創を求めようとしているからではないだろうか。具体的には先端を継ぎ足していくこと。それを独創と勘違いしている。さらに言えば、そのような事が最先端であるかどうかも怪しい。最先端を求める方向性で行くならば、徹底的に最先端を極めなければならない。しかし今の日本の状況を見ると、それができているとは言えない。

なぜ、現在の日本は独創も出せずに、さらに最先端も出せないのか?(もちろん、全てがそうであるわけではないが。)それはあまりにも周りを見過ぎているからではないだろうか。何をするにも周りの状況を見て判断する、そのような姿勢が染みついている。他の人が最先端の結果を出してからそれを追おうとする。それは明らかに二番煎じでしかない。しかしそれが今の日本の現状である。

しかし、日本の中にも大きな独創性を持った人は確実にいる。心配なのは、そのような大きな独創性を持った人が、日本で潰されないかどうかだ。そう考えると、潰されないうちに日本を出た方が良い。そうなればやはり日本から一つの独創が消えることになる。しかし大きな独創人は、まずは大きな結果を一つ出して世界に打って出るのが賢明かもしれない。

最近、あらゆる学問が面白い!

最近、あらゆる学問に対して面白いと感じている。以前はサイエンス、特に物理・数学に対してだけというところがあったが、今、あらゆる学問が面白く感じ、あらゆる学問に取り組み始めている。

なぜ、以前は他の学問に興味を持てなかったのか?その理由を考えると、一つ目は学問と言えば受験勉強を意味していたこと、もう一つは時期的なものであると僕は考えている。受験勉強というものは非常に小さいものである。そして表面的なものである。なので、なかなか面白さの核心に迫れない。そのような中、本当の面白さを伝えようとすると、自然、受験勉強の範囲を超えてしまう。しかし学校ではなかなか受験勉強を超えるようなことを教えようとしない。僕が大学受験生だったころ、自分が取り組んでいた数学や物理学は、高木貞治の解析概論であり、ファインマン物理学であった。しかし受験にこだわていると、なかなかそのレベルの事まで取り組もうとは思えない。このような事を解決するためには、学生と学校の教師の双方の意識を変えなければならない。

とは言え、大学に入れば自由に学問に取り組むことができる。しかし一般教養の授業の中には、どうしてもやりたくない授業も存在する。僕ならば第二外国語のフランス語の授業がそうだった。しかし今、あらゆる学問が面白く、フランス語にも興味を持っている。要はやりたくなった時にやればよいのである。学生時代にやりたくなければ無理してやる必要はない。しかし面白く感じた時には思いっきり取り組めばよい。それでいいのである。

科学(サイエンス)と言うものは、層構造をなしている。一番土台になるのは物理であって、その上に化学(バケガク)、生物学・地学と重なっている。なので、生物学に取り組むためにはその土台にある化学を理解しなければならない。もちろん、さらに基をたどれば化学は物理を土台にして成り立っている。今、専門の数理物理の研究の合間に、生物学の勉強に取り組んでいる。しかしその土台にある化学が完全に理解できていない。なので化学も真剣に取り組む必要がある。そのような事を考えると、学問というものは全て有機的に繋がっており、全ての学問に対して(強弱はあれ)取り組む必要があるのかもしれない。

学問に取り組むうえで大切なのは、受験勉強ではなく楽しさの本質に迫れるレベルまで取り組むこと、そして面白いと思ったときに思いっきり取り組むことである。学問とは本質的に楽しいものである。(そして時には苦しいものでもある。)そこに学問の本質が存在していると僕は思っている。

調子の悪い時の過ごし方。

誰もが多少の調子の波はあるのかもしれないが、僕はかなり波がある。調子の悪い時は、数式がなかなか頭に入らない。そのような時にどう過ごすかは、僕の大きな課題である。

数式が頭に入らないので、そのような時は数学・物理以外のことに取り組むことにしている。例えば生物学や社会学、歴史学などである。それらは専門外(そのような区別は自分の中ではあまりしていないが)なので、少しはリラックスして取り組める。学問以外にも、例えば普通の読書であったり、あるいはYouTubeを見て過ごすことが多い。ただ、そのような過ごし方をしていると頭がなまりそうで怖いが、調子が悪いので仕方がない。

最近、生物学にはまっている。大学で使うような生物学の教科書を読んだり、時にはiPS細胞などの論文を読んだりするが、これがなかなか面白い。ただ英語はかなり苦手なので、英語論文を読むときには苦労する。少し前、経済学の論文を読んでみたが、他分野の英語論文はやはり苦労する。数学や物理の英語論文は読みなれているので、ある程度スラスラと読めるのだが(と僕は勝手に思っている)、山中伸弥教授のiPS細胞の論文はなかなか読み進められない。

調子の悪い時は悪いなりの過ごし方があると思うが、なかなかそれを見出せずにいる。何かに取り組み目標を達成しようと進んでいる人にとっては努力することが必須であるが、その努力ができない状態と言うのはかなりつらい。しかし明日になったらまた調子が戻っているであろうと楽観することも大切かもしれない。まあ実際、明日になったら数理物理に没頭しているだろう。いや、そうしよう。

他人からの評価ではなく、自分の信念に基づく。

最近、自分が自分らしくないように感じることがよくあった。そこで何が自分らしくないのか?そしてその原因は何なのか?と問い詰めたところ、その原因が、他人からの評価を気にし過ぎていることであることに気が付いた。自分の独創性にこだわっているのに、他人の評価を気にしすぎるとは全くおかしな話である。

科学とは真理への追究である。もちろん、研究結果に対して周りや社会からの評価は気になるところではある。しかし、そのような評価はあくまでも付加的な要素でしかない。もちろん、工学系の技術分野では社会の評価は非常に重要な要素である。しかし理学的ないわゆる純粋科学では、そのような周りからの評価ではなくどこまで真理に迫れているかということが最も重要な要素である。だからこそ、宗教裁判で裁かれ社会から滅多打ちにされたガリレオ・ガリレイが、現在では最も大きな評価をされているのである。

他人からの評価の中で生きるとは、ある意味楽な生き方である。誤解のないように付け加えるが、もちろんそれは簡単であるという意味ではない。責任があらゆる範囲に分散されるという意味である。自分の信念に基づいて生きるとは、全ての責任を自分が負うということである。その重圧は非常に大きいように思えるが、自分が正しいと思う方向へ進んでいる時は、意外と重圧を感じないものだ。しかし冷静にリスクを考えると恐ろしくて進めなくなってしまう。

なぜ他人からの評価を気にし過ぎていたのかはよくわからない。しかしいつの間にか周りの評価を気にしていた自分がいた。しかしそのような状況は自分が望むことではないことは明らかだ。だから軌道修正、いや、大きく変換して元に戻す必要がある。しかしそれはそんなに難しくはないと自分では感じている。なぜなら自分で問題点に気づいており、意識をそちらへ向ければ良いだけだからだ。意外と明日には元に戻っているかもしれない。また自分が強くなりそうでワクワクしてきたぞ!

挑戦!

いつからだろうか?僕は挑戦というものに強いこだわりを持つようになった。学問における挑戦、私生活における挑戦、社会における挑戦、そしてお金に対する挑戦。今の自分は挑戦なしに語れない。するか?しないか?と問われればほとんどの事に挑戦するつもりだが、もちろん無駄な挑戦までする必要はない。しかし挑戦は僕の人生における原動力だ。挑戦抜きに今の僕の人生は語れない。

僕の挑戦において一番重要なのは、言うまでもなく学問における挑戦だ。専門は数理物理だが、最近はあらゆる学問が面白い。だから様々な学問に取り組んでいる。そしてそれらの学問が、専門分野にも有機的な好影響をもたらすと考えている。

学問、私生活、社会、お金。これらに対する挑戦は全てつながっていると考えている。もちろん優先順位を付けることは重要だが、それらの有機的なつながりを忘れてはいけない。

今、これらに対する結果が出ようとしている。この「今」が今年になるか?来年になるか?その先になるか?まだはっきりしないが、少なくとも近い将来総合的な結果が出ると手ごたえを感じている。結果は勝手に出るのもではなく、自分で出しに行くものである。だから挑戦なしに結果は出ないと思っている。

今、人生が非常に充実している。人生で三番目に苦しい時ではあるが、挑戦し続けることによって大きな充実感を感じている。一年後が楽しみである。そして一年後、本当に楽しんでいられるように、全ての挑戦すべき物事に全力で取り組んでいこうと思う。

世の中ってのは。。。

世の中というのは、強い者の味方だ。それは社会においてもそうだし、スポーツの世界においてもそうだ。別に味方になってもらうために強くなるわけではないが、ただ自分の実力を向上させて強くなることは重要だと思う。

しかしどんな人間にも、強い側面があれば弱い側面もある。100%強い人間なんていないのかもしれない。だから強い人間は弱い人間を助ける必要がある。それは社会的に権力があり強い存在である政治家が、一般市民を助ける必要があるように。しかし現実には、強い政治家が強い者の味方になっていることが散見される。

人間として強くありたいと願うことは普通だと思う。誰も弱くなりたくて弱くなっている人間はいない。弱い側面を強くすることが重要か?それとも強い側面をより強くすることが重要か?どうやら日本社会では前者の方が重視される傾向がある。それはそちらの方が社会的に大きなメリットがあると考えられているからかもしれない。一昔前までならそれでよかったかもしれない。しかし現在は、社会も学問の世界もあまりにも大きくなりすぎている。だからすべての事において力を発揮するということはほとんど不可能である。だから自分の得意分野を徹底的に伸ばし、不得意分野をそれが得意な人に任せるという体制が必用ではないか。

社会において、全てをそつなくこなす人もそれなりにいる。しかしそのような人の多くは、全ての事において「可もなく不可もなく」という無難な人間になってはいないだろうか。しかし、一つの事にこだわり、タコツボ化するのも良いとは言えない。一つの事だけしかできない人より、二つの事ができる人の方が良い。専門は複数持つべきだと思う。例えば、数学とファッションでもよい。いやむしろこのように大きくかけ離れたことを同時にかけ持つ方がより良いのかもしれない。

意外とすべての事は有機的につながっている。このような有機的なつながりを強さに変えて、そして弱い人を助けられる人間になりたいものであるが、そこまで精神的な余裕を持つことは簡単ではない。しかしいつかはそのような事ができる大きな器を持った人間になりたいものである。

スランプの克服。

先日、大スランプだという記事を書いたばかりだが、ここ数日、大スランプ脱出のヒントを得られた(かもしれない)。スランプ脱出の一番難しいところは、そのスランプの原因がはっきりしていないことだ。だから何を改善すれば良くなるのかということがなかなか絞り込めない。しかし場合によっては、数個の要因まで絞り込めることがある。もしそこまで絞り込めたのなら、とにかく試行錯誤して探っていくことが必用だ。

僕もここ数か月、様々な試みを行って改善を図ってきた。しかしなかなか改善の糸口が見つからない。そのうち、状況は少しづつ悪化してきている。しかし、あきらめずに試行錯誤を続けることによって、一つの原因を突き止めた(と思っている)。その原因はあまりにも身近にあり、また長年抱えていた悩みでもあった。しかし、その改善を行うことは普通の人なら簡単な事であるが、僕にとっては究極的に難しいことである。しかしその点を改善することにより、状況は確実に良くなってきている。

スランプを克服するために必要なことは、一つは「実行力」、そしてもう一つは「思考力」である。僕は徹底的に考えた。スランプの原因は何なのか?時間は少しかかったが、その原因を突き詰めることができたようだ。それができたら、次は実行である。思考と実行は物事を成し遂げるための両輪であり、それはスランプ脱出においても例外ではない。プロ野球選手がスランプに陥るという話はよく聞く。そこから脱出できるかどうかは、その両輪を機能させることができるかどうかだと思う。プロ野球選手だから、実行力はずば抜けてあるだろう。なので後は頭を使うことができるかどうかだ。イチローがスランプに陥ったと言う話はほとんど聞かなかった。それはイチローが極度に頭を使って野球に取り組んでいたからではないだろうか。

僕もスランプの原因にもっと早く気づき実行していたのならば、一年早く結果を出せていたかもしれない。しかしそんな過ぎ去ったことを言っても仕方がない。これからスパートをかけて、一刻も早く結果を出すことが求められている。しかし妥協は絶対にしない。これからが非常に楽しみである。