思想、生き方、考え方」カテゴリーアーカイブ

学歴は、全肯定するものでも、全否定するものでもない

昔から、学歴を評価すべきか、学歴に関わらず実力を評価すべきかと言う議論は絶えない。そこで問題になるのはいつも、学歴至上主義すなわち学歴を全肯定するのか、学歴を完全無視すなわち全否定するのかの二択になっていることだ。しかしこれらは両方とも適切でないと僕は思う。

言うまでもなく、学歴だけで人を評価するのは間違っている。学歴とはその人の評価の一部なのである。だから、その人物の一側面として学歴を評価するのが正しい。何々大学卒と言うことならば、その人物はその何々大学で学び、卒業要件を満たしたことを示し、卒業研究にも取り組んだことであろう。そのことはしっかり評価しなければならない。もちろんレベルの高い大学なら、レベルの高い要件をこなしてきたことであろう。

就職活動では、学歴フィルターと言うものが話題になる。これも良いか悪いかの二択ではなく、柔軟に利用していけば企業もより質の高い採用が可能になるであろう。

しかしそもそも、学歴を作ることを目的に大学に行くのは完全に間違っている。大学では様々な経験ができ、また自分がその気になれば勉強も研究も思う存分できる。しかし逆もありで、遊び呆けようと思えばいくらでもサボれる。大学を就職予備校のようにとらえている人が多いが、そのような考えで大学生活を送るのは精神的にも非常にもったいない。

周りの大学生・大学院生を見渡すと、研究に没頭している純粋な学生が社会で評価されていないのが非常に残念だ。よく社会ではコミュニケーション力が一番大事だと言う。それが大事なのは確かであろう。ではコミュニケーション力が一番大事とか言いながら、なぜ血眼になって大学に行くのだろうか?僕はコミュニケーション力も人間の一側面として評価すべきだと思う。もちろん職によってはそれが非常に大事なものもあるであろう。

まとめると、人間の評価と言うものは多角的に行わなければいけないと言うことである。一つの側面だけを見て、百かゼロかという判断をするのはほとんどの場合、的外れな結果をもたらす可能性を高くする。

「好きなことをしている」=「楽をしている」ではない!

好きなことをしている、あるいは好きなことを貫いている人を見て、

「好きなことをしている=楽をしている」

と発言する人が多い。しかし、この言葉は現実を全く反映していない。好きなことをするにしろ、何をするにしろ、自分の信念を貫くことは非常に精神力がいるものだ。好きな事だからこそ、ストイックに自分を極度に追い詰めることができる。

僕はテニスの錦織選手が大好きだ。彼は世界の舞台で堂々の成績をたたき出している。しかし好きな理由はそれだけではない。彼のプレーから、彼が本当にテニスが好きだという気持ちを感じるからだ。彼が本当にテニスが大好きか、もしかしたら嫌々やっているのか、本当のところはわからないが、自分を追いつめて世界レベルまでもっていくには好きでないとできないと僕は勝手に思っているから、僕は錦織選手はきっとテニスが大好きだと解釈している。

しかし、自分を追いつめるのは、必ずしも「好きだ」と言う気持ちからではないようだ。プロ野球のヤクルトスワローズの元選手・宮本慎也選手は、引退するときに、野球を楽しいと思ったことがないという発言をしていた。しかし彼は楽しくはないが、徹底的に自分を追いつめ、一流選手として長い間現役を続けてきた。

楽しいことをしている人に対して、

「楽しいことをしている=お金はいらない」

という甚だしい勘違いをしている人がいる。正しくは、

「楽しいことをしている=お金がなくても耐えられる」

ということだ。楽しいことをして、大きな成果をあげた人には、それに相当する対価が支払われるべきだ。僕はその対価が錦織選手の何十億円という賞金、及びスポンサー料だと思っている。

好きなことを貫き、ストイックに自分を追い込み、成果が出るまでは耐え忍び、成果が出ればそれに見合う対価を得る、このような生き方を貫いている人はどれだけいるか僕にはわからない。

現在の僕はまだまだ甘いと思っているが、ストイックに追い詰めるところは徹底的に追い詰める、それに耐えうる精神力と気力を維持し、貫いてみたいと思う。

デジタルが発達しても、紙と鉛筆は絶対に必要だ

最近、何かとデジタル万能主義みたいなものが蔓延して、特に若い人たちにはデジタル、すなわちパソコン・スマホなどのデジタル端末などによって、全てのことができると信じている人が少なくない。そして世の中では、「デジタル的なものが、いかにあらゆることができるか」ということが宣伝されている。

しかし、いま最も認識すべきことは、デジタルはいかにあらゆることができるかではなく、デジタルには「何ができないか」ということである。こう言う僕は、紙と鉛筆主義である。普段の勉強・研究では、紙と万年筆を使ってチマチマと計算している。

ある研究機関の実験によると、デジタル端末で作業するより、手で紙に書く方が頭に残り、集中力も続くという結果が出ているらしい。これには僕も非常に納得している。僕の個人的な感覚なので全ての人に当てはまることではないかもしれないが、デジタル端末を使っているとどうしても集中力が続かない。やはりアイデアは紙の上で生まれる。この様な感覚を受け続けてきたので、僕はどんなにデジタルが発達しても、紙と鉛筆の世界は絶対的に必要だと思っている。

現在の20歳あたりまでの人は「デジタルネイティブ」と言われている。生まれた時からデジタル端末に触れてきた世代だ。紙と鉛筆の世界に優位性を感じるのは、僕が古い人間だからであろうか?デジタルネイティブの人にとってはデジタル端末上の方がクリエイティブな作業ができるのであろうか?こればかりは僕にはどうも判断できないが、少なくともデジタル端末上で数学を考えようなんていう発想は全く起こってこない。今一度、紙と鉛筆の世界の生産性に注目すべきではないかと思う。

必要なのは、アイデアと実践だ

あらゆることに言えることだが、その分野でトップになるためには「アイデア」と「実践」だ。少なくとも「プロ」と言える人たちには、この二つは不可欠だ。どちらが欠けてもプロとは言えない。

昔、相対性理論を発明したアインシュタインに対して、「私は相対主義者だ。だから私に数学的才能があれば相対性理論は私が発見していた」と言った哲学者がいたという。相対性理論のアイデアは相対的主義者などというもので済ませるような単純なものではないが、仮にそれがアイデアだとしてもその哲学者には「実践」ができない。なぜなら数学的才能がないからだ。数学的才能があれば発見できたと言うが、その数学的才能がないことが致命的であり、物理のプロにはなれない決定的な点なのである。

アイデアは先天的才能と経験的才能の両者が必要だ。実践力ももちろん両者が必要かもしれない。先天的才能はどうしようもないが、努力がそれを補うことはしばしばあることだ。もちろん努力で補えないものもたくさんある。したがって、努力をすれば必ず成功すると言うのは嘘だ。しかし努力によって高めることはできる。努力は高めるためにするのだ。その結果として「成功」の二文字がついてくる。

専門にこだわりすぎて、近視眼的になることも危険だ。そのために必要なのが広い知識、すなわち「教養」だ。最近、大学の教養は役に立たないという記事を見たが、それは大嘘だ。教養は生きていくのに最も役に立つものだ。そして教養と専門のバランスも必要だ。人間は仕事をこなすだけの機械ではない。当たり前であるが、人間らしく生きることは人間にしかできない。教養はより豊かな人間らしさを生み出してくれる。そして専門に特化した知識もその人の人間的特徴として豊かさの源になる。

ただ、手軽に、簡単に教養や技術を身に付けようとしてはいけない。自己啓発本に対する警告はこのことへの忠告である。努力という行為自体が教養や技術を身に付けるのである。

いかにして生きるべきか?この問いに対する答えは人それぞれ違うであろうが、一つの答えとして、汗を流して生きることではないかと思う。

科学技術のブラックボックス化が、疑似科学・非科学を信じ込ませている

最近に始まったことではないかもしれないが、UFOや超常現象などの疑似科学・非科学を信じる人が多い。その原因は他でもなく、科学技術の発展ではないかと僕は思う。最近の科学技術はほぼ万能、そして過度にブラックボックス化している。スマホであらゆることができるが、スマホやコンピューターの仕組みを知っている人はほとんどいない。科学者でも自分の専門外のことはほとんどわからないという状態だ。

スマホやコンピューターで何でもできると思い込み、逆にスマホやコンピューターで何ができないかを認識している人は少ない。最近の科学技術は「あまりにも」できる事が多いために、「何でも」できると勘違いしてしまう。そして科学技術のブラックボックス化は科学の仕組みを理解する機会を奪い、一般市民は科学と疑似科学・非科学との区別がますますつかなくなる。

科学は何のためにあるのか?もちろん便利な社会にするため、役に立てるためという意味合いは強いが、それは科学の副産物である。また正確には役に立つのは「科学」ではなく「科学技術」である。科学の本来の目的は、自然の真のしくみを理解するためである。しかし科学技術があまりにも役に立ちすぎるようになったために、科学の本来の意義をほとんどの人が忘れてしまっている。

最先端の科学を理解せよとまでは言わないが、せめて科学の原点にある仕組みを理解することは現代市民には必要ではないか。それが物事の正しい真偽の判断の基盤にもなる。最近は英語教育ばかりが注目を浴びているが、科学は全ての人の教養であることを忘れてはならない。

正断信人

「正断信人」、僕が勝手に作った四字熟語です。

なぜ、こんな熟語を勝手に作ったのか?初めに言葉の意味を述べます。意味はそのまま、「正しい判断をして、人を信じる」

最近何かの記事で、お金は器の大きな人のところに集まる、という記事を見ました。その真偽はさておき、お金のこともさておき、最近の自分が非常に器の小さな人間に成り下がっていることを感じたのです。なぜこんなに器が小さくなったのか、その理由は自分ではわかっているのですが、もう一度自分の器というものを取り戻さなければと思いました。

自分の器を取り戻すためにはどうすればいいのか?今自分に一番足りないものは何か?その原因は何か?それを問い詰めたところ、「人を信じる」ということが最近の自分には欠けていることに気づきました。もともと人を信じる方だったのですが、最近は何かと疑ってばかりで。騙されないようにするにはどうすればいいかとか。しかしこんな事ばかり考えていれば、人間の器が小さくなるのも仕方ありません。

昔の自分は「だますくらいなら、だまされろ!」と思っています。もちろん騙されないにに越したことはないのですが、騙すことはそれ以上に落ちぶれたこと、卑劣な事と考えていました。騙されることはあっても、人を騙したくない、そう思っていました。

そして人を信じる事、信じぬくことの大切さを痛感し、心を入れ替えてこれからは昔のように人を信じようと決心しました。この思いが自分の心の中に定着するまでどれだけの時間がかかるかわからないけど、信じることを心がけるようにします。そう心がけると、不思議と心もおおらかになったような気がします。

信じる事、信じぬくことは非常に大事ですが、ただやみくもに信じるのではなくて、正しい判断の元、信じるべきことを信じることが大事です。そのためには自分の頭で判断することも心がけなければいけません。

「正断信人」勝手にこんな四字熟語を作って恐縮ですが、自分に心の中にはこの言葉を留めたいと思います。

別府市がパチンコ(ギャンブル)で生活保護を停止したことについて

別府市がパチンコや競輪場などに出入りし賭け事をする生活保護受給者に対し、数か月生活保護費の支給を停止することが明らかになった。この別府市の対応について、賛否両論がある。

まず、一般市民感情として、生活保護者が働かずに税金から出た約7万円という現金をもらっていることに対し、批判的な人は多い。確かに感情的にそう考えるのは仕方がない。しかし「生活保護なのに、~~~している」と非難を浴びるせることは、僕は的外れだと思う。生活保護者が図書館に行こうが、旅行に行こうが、それは生活の質を上げる行為であってむしろいいことだと思う。

しかし生活保護費でギャンブルをするとなると、話は全く別だ。生活保護費は基本的人権を尊重し、健康的な最低限の生活を保障するものだ。しかしギャンブルをすることなどは、生活の質を上げるどころか、むしろ下げること以外の何物でもない。さらにギャンブルにつぎ込むことは、それは自らまだ生活保護費を下げられても生活が成り立ちますよと宣言しているようなものである。一般市民が生活保護者のギャンブルのために税金を出していると思うと、憤慨するのも無理はない。

最近は何でも権利権利の時代である。生活保護者にもギャンブルをする権利があると言う声もある。しかしはっきり言って、生活保護者にギャンブルをする権利はない。そもそも基本的人権にパチンコは全く関係ない。と言っても生活保護者の権利を何もかも否定するつもりはない。先ほど言ったように温泉旅行に行きたいのなら温泉で思う存分リラックスしてくればいいと思う。しかしギャンブルなどは百害あって一利なし。生活保護者でなくても問題視されているのに、生活保護費でギャンブルに行くことを納得する国民がどこにいるのか?

知識人は、今回の生活保護費でギャンブルに行くことに、法的観点から意見を述べている。それによると、「生活保護費でお菓子を食べようが、酒を飲もうが、ギャンブルをしようが、一切それを制限されるような法的根拠がない」と述べている。しかし誰がお菓子を食べるなと言ったであろうか?誰が酒を飲むなと言ったであろうか?ほとんどの人はそんなことは何も言っていない。知識人が勝手にそういう文句をいう市民の存在を想定しているだけである。

しかしギャンブルとなると話は全く別である。知識人は法律を持ち出して生活保護者のギャンブルを正当化する。ではそもそもギャンブル自体合法的なものであろうか?パチンコも競輪の賭けも、法的に言えばほとんど黒に近いグレーである。そもそも法的に違法性が強いものに対して、そのことには全く触れずに生活保護者の権利だけに注目して合法だと主張するのは、あまりにも議論が片手落ちではないか。初めは生活保護者のギャンブルについて書き始めたが、このような全く単眼視的な議論しかできない知識人の存在に嘆いてしまう。知恵のない知識人だ。

プロテニスプレーヤーの40%が1ポンドも稼げていない。「プロ」に対する僕の持論

プロテニスプレーヤーの約40パーセントが、1ポンド(167円)も稼げていないらしい。それに対して現在世界ランク7位の錦織圭選手は年間23億円稼げており、錦織選手は非常に恵まれているという声がある。さらに言うと、フェデラーは18年間で115億円稼いでいるという。野球に目を移すと、最近のメジャーリーグ選手の年棒の異常な高騰に賛否両論がある。

これらの状況について僕の結論を先に言うと、これらのプロスポーツ選手の現状に賛同する。

プロスポーツ選手は会社員・サラリーマンではない。彼らは「プロ」なのである。プロであるからには、結果を出してナンボ、結果を出さなければ何のリターンもないのは当然である。そういう意味では非常に高リスクな道を歩いている人たちである。そして高リスクである彼ら・彼女らには、結果を出せば莫大なリターンを得るのも当然である。正直言って、世界ランク何百位というプロテニスプレーヤーに対して、プロとしての価値はほとんどないのである。確かに世界で何百位と言うのは非常にレベルの高いプレーヤーだ。しかしこれは一般アマチュアから見た目であって、プロの世界では彼らの上には何百人ものプレーヤーが存在するのである。

サラリーマンと「プロ」を同じ目で見てはいけない。「プロ」に対していくつかの定義がある。もちろん社会的な定義としては、プロテストに合格して、その競技で飯を食っている人たちと言える。しかし僕はプロとは「プロ意識」を持っていることが必須だと思う。プロたちは高リスクを覚悟の上でその世界に飛び込んでいる。最近、プロテニスの下部のプレーヤーの賞金を上げようという話があるらしいが、プロの世界に何百位というプレーヤーの存続にほとんど意味はない。僕の持論として、プロとは常に世界トップを目指す人たちであるべきである。初めから100位を目指しているプロなんて存在しなくていい。100位を目指して、金もそこそこくれなどと言うのは勘違いも甚だしい。しかし世界でトップのプレーヤーには莫大な賞金(成功報酬)を与えられるべきである。であるから、錦織選手が23億円稼ぐのも、フェデラーが115億稼ぐのも当然のことなのである。なぜなら彼らは「世界トップ」の選手なのだから。

プロはスポーツだけとは限らない。学問の世界でも同じだと思っている。数学のプロならば世界から注目を浴びるレベルの成果をあげなければならないと思っている。そしてそれだけの成果をあげた数学者はトッププロテニスプレーヤーと同じくらいの報酬を与えるべきだ。

ところが現状は、既存の結果にちまちまと継ぎ足して論文を量産している学者があまりにも多い。言うならば、「サラリーマン学者」とでも言うべきであろうか。もちろん彼らの多くは大学などの教育機関で教育に従事している。報酬はそれらの教育に対する対価と見るべきではないかと思う。

最後に僕自身のことであるが、僕自身は研究で稼いである金額はゼロである。しかしそれは当然のことだと思っている。まだ結果を出していないのだから。かと言ってサラリーマン学者を目指そうとは思っていない。なぜならば、僕は数理物理に対して「プロ意識」を持っているから。今は報酬などゼロでいい。しかし大きな結果を出すことに成功した暁には高リターンを求める。プロとはそういう世界だと思っているから。

なぜ努力すべきなのか?

なぜ努力すべきなのか?その答えに回答できる権利があるほど僕は努力をしていない。努力をしようと思っても、なかなか努力が続かない。しかし努力しようという気持ちは常に持ち続けているし、自分のできる限りの努力はしているつもりだ。

努力したからと言って、必ず成功するとは限らない。努力が報われるとは限らない。しかしそれは努力をしないことの理由にはならない。どうしても努力をしたくない人、常に楽して生きようと考えている人に対して努力を強制しようとは思わない。まあ、そういう生き方もあるのだなと思っている。

しかし僕は努力をしたいのだ。非常に努力をしたいのだ。しかし努力をしたくてもできない時がしばしばある。そういう時には非常に悔しいし、ふがいない自分が情けない。

もちろん努力する理由は、自分の目標としていることを達成するため、そして自分が目標としている人間になるためである。

繰り返し言うが、努力したからと言って必ず成功するとは限らない。しかしその逆、つまり成功した人は絶対に努力した人だと思っている。もちろん例外もいるだろうが、そんな努力をしないで成功した人のような例外を見て、どうこうしようとは思わない。

努力というものは苦しいものと思っている人が多いかもしれない。確かにほぼ例外なく苦しい。しかし努力は苦しいだけではない。努力にやりがいを感じたり、達成感を感じたり、喜びを感じたりすることもしばしばあるのだ。だから努力にはまればやめられないのである。

しかし何の分野にしてもプロとしてやっていくためには結果を出さなければいけない。プロの世界は結果が100%なのだ。結果を出した人に対して努力が評価される。結果を出していない人の努力など、プロの世界では何の評価もされないのだ。

しかし努力をする価値は非常に大きい。一人でも多くの人たちに努力の快感を味わってほしい。努力は絶対にするに値するものだ。

危ない、宗教に対する盲目

フィリピンで行われたキリスト教カトリック教徒の祭りで、大量に信者が押し寄せ、死者が出たという。そこまで信者が押し寄せた原因は、奇跡を起こすと信じられている黒いキリスト像が原因らしい。おそらく想像するには、黒いキリスト像に奇跡を求めて、信者が盲目状態になったものと考えられる。

宗教はしばしば人間を盲目にさせる。普段は論理的に考える人間でも、いったん盲目になると理性を失う。過去には盲目になった信者が起こした社会問題が無数に存在する。

近代日本で一番問題になった宗教問題は間違いなくオウム真理教事件であろう。オウムの幹部信者の中には、東大理系卒の学歴エリートが何人もいたという。もちろん東大卒の人間が全て理性的に物事を判断できる人間ばかりではない。しかしそのような、まともで高度な教育を受けてきたエリートが、何人も麻原のとりこになり、盲目に殺人行為に手を染めていった。このことに対して、これはオウムが特殊だったという人がいるかもしれないが、このことはオウムに限らずあらゆる宗教でみられる現象だ。現在まっとうな宗教と見られているキリスト教でさえ、昔は魔女裁判などで虐殺を行い、科学的主張をした科学者ガリレオ・ガリレイは宗教裁判にかけられた。

宗教に対して一番大切なのは、宗教に対する距離の置き方だ。宗教に対して全てをゆだねると、考えることを放棄してしまう。これはプチ・オウム状態とも言える。しかし宗教は多くの人にとって生きていくうえで必要なものだ。宗教が心の支えになっている人も多いだろう。しかし宗教に対する距離感を間違えると、人生の破滅につながることも多々ある。

僕が言いたいのは宗教に対する批判ではない。問題は宗教を信じる人間の方にある。どんな時も相手に丸投げせずに、考えることを放棄せずに、常に自分の頭で考えることを心がけることが大事なのである。