思想、生き方、考え方」カテゴリーアーカイブ

ビジネスにも品がある

その人の人間性を評価するときに、品は重要な要素だ。品がなければ人間性の評価も低くなる。それと同じように、ビジネスにも品がある。しかしビジネスにおいて品のことを考える人は少ないかもしれない。ビジネスではとにかくお金をたくさん儲けた人が勝ちだという風潮がはびこっている。人間を、持っているお金で判断する人も多い。しかし僕はこれに異議を唱えたい。

正直言って現在の僕はお金がない。それを理由に僕の意見が説得力がないと言う人はこの記事を読むのをやめても全然かまわない。

僕のビジネスは始まったばかりである。今まで数理物理のことばかり考えてきた。そしてこれからも数理物理の研究のことを第一に、大切に考えていきたいと思っている。数理物理の研究で妥協をする気は全然ない。今までは研究を大切にするあまりお金のことを常に後回しにし、軽視してきた。しかしこれからは研究もビジネスも全力で取り組もうと思う。

そこでビジネスをするにあたり、品というものを大切にしたいと思っている。ただやみくもに数字だけですべてを判断するようなビジネスはしない。もちろんビジネスでは数字は一番大切かもしれない。しかし僕はビジネスはあらゆる要素の集合体であると思う。お金儲けというものを中心にいろいろなプロジェクトを進めていく。お金を単にお金で終わらせずに数字以上のもっと価値あるものにしたい。

そして僕がビジネスを進めていくうえで一番重視しているのは「アイデア」だ。ぼくの個人的な考えだが、アイデアのあるビジネスは品がある。アイデアのないビジネスは品がない。そう思っている。そういう意味では品のあるビジネスの方が圧倒的に成功する率は高いし、利益も大きい。

僕の個人的な目標として、2020年にあるものを購入することを一つの目標にしている。研究で成功し、その品物が買えているか、5年後が楽しみだ。

練習はウソをつかない

いきなりだが、僕はプロ野球の阪神タイガースファンだ。はっきり言って巨人は嫌いだ。しかしここでは好き嫌いは横に置いて、プロ野球選手の言葉に触れたい。

プロ野球ニュースで7月7日の試合のダイジェストを見ていた。そこで巨人戦のニュースで、不振だった阿部選手がかなり活躍したという話題が出たのだが、そこで阿部選手のインタビューで「練習はウソをつかない」という発言が出た。まさか阿部選手ほどの天才打者からそのような言葉が出るとは思わなかった。それと同時に僕の胸にもこみ上げるものがあった。

僕は努力したからと言って必ず成功するとは思っていない。しかし努力せずに成功することもないと思っている。すなわち努力した人の中から成功者が生まれるということだ。この様なことを言うと、絶対成功するという保証のないことに打ち込むのは無駄だと思う人がいるかもしれない。そのような人は努力する必要はない。そのかわり成功はしないだろう。僕の考え方は一部の人間には夢がないと思われるかもしれない。しかし努力をしないで成功することが夢だなんて僕は全く思わない。そんなものは夢でもなんでもなくて単なる博打である。

しかし阿部選手の言葉は本当に励みになる。やはりトップリーグの最前線の選手が言う言葉は一言一言が重い。僕も阿部選手の言葉を胸の片隅に置いて努力していきたいと思う。

怒りのコントロール

とある記事で、「自滅しないための怒りのコントロール」というものを見た。確かに怒りをコントロールするのは難しい。人によってはそれが自滅の道へと続くこともある。

正直言って僕は感情の起伏は激しい。喜びも怒りもかなり激しく表現する方だ。しかし暴力などは100%起こさない。赤の他人に対して突っかかることはしない。しかし街を歩いているとちょっとしたことで突っかかってくる人は多い。この様なことをするのは若者が多いイメージがあるが、実際は中年以上の人が多いように感じる。本人は普通の会社に勤めていて社会人であることを自負しているのかもしれないが、僕に言わせれば人間のクズである。

そもそも日本では会社に勤めている人間を社会人と呼び、社会人であるかどうかで人間を判断する風潮がある。もちろん僕もいろいろな人間を見てきたが、社会人としてどうかなんて人間性にほとんど関係ない。それは会社で立派な肩書を持つ社会人が、不祥事が起きると全力で保身にまわることを見てもよくわかるだろう。社会人かどうかなんて所詮そんなものだ。

怒りの話に戻るが、怒りを我慢するのは体に悪いらしい。しかし怒りを制限しなければいけない時ももちろんある。怒りをコントロールして怒りをうまく表現できるのが「本当の大人」というものかもしれない。しかし実際はそれが非常に難しい。僕は基本的に大人と言う存在が嫌いだ。しかし自分の理想の大人像に近づけるように精進していきたいものである。

人間にとって教養とは

学生にとってそろそろ期末テストが始まるころだ。好きな教科、得意な教科には力が入るが、苦手な教科はどうしても後回しになってしまう。少なくとも学生時代の僕はそうだった。大学1年生の頃は大嫌いなフランス語の授業を出席だけとって後ろの扉から逃げ出していたのが思い出される。逃げ出した足で大学図書館に向かい、数学や物理の勉強に励んでいた。

ところでなぜ僕はフランス語をやらなければいけなかったのだろうか。フランス圏の国など一度も行ったこともないし、大学のフランス語の授業以外でフランス語に触れたことも皆無だ。今覚えている言葉と言えば「ソレイユ(太陽)」という言葉くらいだろうか。

大学の1、2年生の時期を教養課程と言う。もちろんフランス語の授業も教養課程の一環だ。専門を極めようと大学に入っても、初めの二年間は教養をしっかり叩き込まれる。なぜそこまで教養にこだわるのか。それはひとえに大学を出た者は専門知識と同時に大卒生にふさわしい人間の格としての教養を身に付けてほしいからだ。

教養はその人の人間の格・人間性をもっともよく表す。見る人が見れば30秒も話すとその人の教養のレベルはわかるものである。いくら専門知識があっても、いくら仕事ができても、教養のない者は最終的には軽んじられる。教養を身に付けることは大事だが、それ以前に教養の重要性を理解することはもっと大事だ。教養の重要性を理解していない人間は総じて薄っぺらい。

教養と言っても嫌なことを嫌々することは苦しい。まずは興味の幅を広げてあらゆる分野に挑戦する、それが教養の幅を広げる一歩ではないかと思う。

インプットとアウトプット

インプットとアウトプット、自分はどちらに重きを置いているだろうか。

インプットとは具体的には何か。例えば読書、勉強などは代表的なインプット作業だ。しかしインプットだけで終わってしまえば非常にもったいない。なぜなら本当に重要なのはインプットではなくアウトプットだからである。インプットをいくらしてもお金はもらえない。東大生がどれだけ高度な勉強をしてもそれにお金を払う人は一人もいない。なぜなら仕事とはアウトプットだからである。

何もインプットを否定するつもりは全然ない。しかしインプットをアウトプットの布石にしなければそれは単なる自己満足で終わってしまう。

本を読むのもいいが、本当に重要なのは本を書くこと、あるいはそこまでいかなくても文章を書くことではないかと思う。研究者ならば理論を勉強することではなく、新しい発見を論文に書くことである。

今まで自分がインプットで満足していたならば、そろそろアウトプットに軸足を移すのもいいのではないかと思う。

尊厳死問題について

欧州人権裁判所が、7年間植物状態で意識が戻らない男性の生命維持装置を外すことを認めた。本題に入る前に、欧州人権裁判所なるものが存在することに少し驚いた。さすが人権問題で世界をリードする欧州ならではである。

尊厳死を認めるかどうかの判断にはあらゆるファクターが入り込んでくる。医学的判断、科学的判断、人権判断、宗教的判断から親族の感情まであらゆる要素が入り込んできて、すべてを納得させることができる結論は皆無に等しい。しかしどこかで結論を出さなければいけない。

稀少な例であるが、数年後に意識が戻ったという例も聞いたことがある。さらに意思表示はできなくても本人には意識がある可能性もある。しかし医学的・科学的に言えば脳死状態の場合は意識が戻る可能性はゼロであって、生命的死亡と判断せざる負えない。

尊厳死に関する問題は負の側面だけではなく正の側面も多々ある。脳死移植に関する問題がそれだ。脳死によって一人の死が確定するわけだが、脳死者からの移植によって助かるいくつかの命がある。親族にはもちろんつらいが、その一方生を手に入れられる喜びをかみしめることができる人がいるのである。このように植物状態の本人とその親族だけではなく、社会全体に与える影響も複眼的に考えなければいけない。

死の定義は時代により、また地域により変わり続けている。今の時代に合った「死」の定義は何か。常に最新の医学と知見、世論を考慮しながら判断しなければいけない問題である。

SE(システムエンジニア)たちの仕事について

今日の主題はSE(システムエンジニア)。なぜいきなりこんなお題を立てたかというと、ここ数日僕はパソコンと格闘している。TeX(テフ)で数式文章を書いたり、ホームページビルダーで仕事のホームページを立ち上げたり。SEてこんなことをしているのかとちょっと思ったりしたが、実はSEの仕事は一言では表されないくらい多彩だ。SE一人ひとり仕事内容は全く違う。

営業寄りのSEから、プログラミング言語開発などの研究者ともいえるSEまで様々である。僕がパソコンでやってることなどはプログラミング研究からはほど遠い内容で、はっきり言って独創性のかけらもないような作業だ。人が作ったフォーマットを使って作るという感じだが、あまりにも頭を使わない作業の割には、息詰まるとウンウンうなりながら一向に進む気配がない。数理物理の勉強・研究が非常に恋しくなる。それどころか普段仕事で扱っている大学入試問題でさえ独創的に思えてきてしまう。

僕の名古屋の大学院時代の友人に、プログラミングを研究している人がいた。関数型プログラミング言語という、僕にはよくわからないことをやっていたが、彼などはSEというよりほとんど研究者だ。そのような彼を僕は尊敬している。

一方、ほとんどのSEの作業はかなりの単純作業ではないかと思う。最近はSEの人が足りていないので、文系の学部からSEになる人も多いみたいだ。プログラミングとは何かを知らずSEをやっている人たちもいる。

僕がパソコンを使っていて個人的に思うことだが、パソコンで作業をするのは頭に、具体的には知的に良くないように感じる。もちろん前出の彼のようにプログラミングを研究しているような高度に知的なSEはまた全然別なのだが。コンピューターが賢くなっていくのに反比例して、それを使う人間はバカになっていくように思う。もちろんスマホも然りだ。やはりパソコンやスマホから離れる時間は絶対に必要だと思う。コンピューターから離れて自然と戯れる。あるいは僕だったらウィンドウショッピングがひと時の楽しみだ。

コンピューター全盛期の今、コンピューターに依存しない生活というものがより価値があり、重要になってきているのではないかと思う。

二足のわらじ

4月19日、とある記事を見た。二足のわらじを履く女性に関する記事だ。その女性の名前は小川理子さん(52歳)。一つの顔はパナソニック役員だ。パナソニック社員20万人以上いる中、役員は48人、全体の0.02%だ。パナソニック史上二人目の役員だそうだ。

もう一つの顔はジャズピアニストだ。そちらの方でもプロ級で、今までにCDを14枚も出しているそうだ。二足のわらじを履こうとすると、それらに優先順位をつけ、どれに重点を置くか迷うところだ。しかし彼女は仕事とピアノの両方を全力で取り組むことを決めたそうだ。

そこで一番悩むのが「時間のとり方」だ。二つのことを同時にするのだから、単純に考えると一つに使える時間は半分になる。その分それらを取り組んでいるときは集中力を倍にして取り組まないと成り立たない。

僕は今、五つのことに取り組んでいる。その五つのことに明確に順位をつけている。一番重要なことには命をかけてでも。そして順位に低いことは余った時間で。というふうに考えているが、この時間の使い方がとてつもなく難しい。そうでなくてもロングスリーパーなので使える時間が少なく、常に睡眠と時間の使い方で悩んでいる状態だ。

もちろん五つのこと全部で成功するつもりで取り組んでいる。とはいうものの、一番重要なことで成功すればいいと思うこともある。むしろそう考えているからこそ、それ以外のこともできるのかもしれない。

小川さんの二足は二つともとてつもなくレベルが高く、二つのプロの顔を持つ女性とでも言うべきかもしてないが、僕は一番重要なことは何が何でもプロに(本当は世界一を目指している)と思っている。いろいろな顔を持っている人は、人間としても非常に面白味のある人だと思うので、そのような面白味のある人間になることも目指していきたいと思う。

命の選別

新型出生前診断で胎児に異常の見つかった妊婦のうち、83%の妊婦が中絶を選んだらしい。この出生前診断はいろいろな問題・課題を抱えている。一言でそれがいいとか悪いとか言えない。

出生前に診断で産むか中絶するかを決めるのは、いわゆる「命の選別」にあたる。遺伝子に異常のある胎児は生まれる資格がないのか?現在、社会で障がい者を健常者と同じように接しようという流れの中で、この命の選別はそれに逆らうものではないのか?しかし育てる自信のない親に対して強制的に産めとは言えない。

ではそもそも異常のある新生児を育てるのは不可能なのか?まずこの問題に取り組むには社会がこの問題に対して積極的関心を持たなければならない。ダウン症の人たちには症状の重い人から健常者に近い人まで様々いる。しかしそれは健常者でも同じで健常者でも育てるのは難しい人はいるし、健常者もいつ重病にかかるかわからない。

ダウン症の人たちに一つの光を当てる人がいる。金澤翔子さんだ。今では有名なので知っている人も多いとは思うが、彼女はダウン症でありながら書道家として書道の道を極め、2年前のNHK大河ドラマ「平清盛」の題字を書かれた人だ。確かに見かけや話し方などの外見はダウン症を感じさせるが、書道に対しては日本を代表する書家になるなど輝くものもあるし、話す内容も非常にしっかりした信念を持って話されている。

確かにすべての障がい者がこのように輝けるとは思わない。健常者でも輝いている人は少ないのだから。

しかしきついことを言うようだが、中絶は殺人行為である。生まれる前だから殺人ではないなどとは決して言えない。ただ法的に殺人ではないだけであって、倫理的には殺人だ。しかしだからといって中絶者を一方的を責めることはできない。おそらく中絶する妊婦さんも非常につらく苦しいのだと思う。

これは答えのない問題と思う。したがってどれだけ時間がたっても結論は出せない。しかし命の選別行為は決してよくないことは確かだ。

「聖戦」という名の虐殺

戦争を起こすにあたって「聖戦」という言葉を掲げる国、および過激派組織がある。この聖戦という名の下の虐殺は今に始まったものではない。宗教が存在する時代のどこかに聖戦が勃発する。

現在で言えばイスラム国(ISIL)がそうであろうか。

聖戦という言葉を掲げることによって、殺りくを美化するということはあってはならない。美化されるような殺りくなんて存在しない。

聖戦の一番怖いところは、殺りくを美化することによって精神的な歯止めが利かなくなることである。聖戦は無制限な殺りくを助長する。人を殺すことに達成感さえ与えてしまうのである。

聖戦といえば最近はイスラム過激派組織の専売特許みたいになっているが、歴史を紐解くと決してイスラムだけでなく、キリストも、あるいは他の宗教もやっていたことである。

そういえば、3月20日はオウム真理教の地下鉄サリン20年目であった。このオウムのテロも聖戦的な要素を帯びている。人を殺すことによって救済されるという、一般市民には理解しがたい教義がまかり通り、オウム周辺では日常的に殺人行為が行われていたのである。

宗教組織は社会の中で独立した色彩を帯びており、公権力の介入は極力控えられている。しかしその独立された影の中で危険な色彩を帯びていく宗教団体はいつの時代にも存在する。

聖戦、それは人類平和の完全なる敵である。聖戦で救われるものは何一つない。非人道的な集団がある限り、必要最低限の戦争は必要悪かもしれない。しかし聖戦だけは決して許してはいけない。