思想、生き方、考え方」カテゴリーアーカイブ

リスクとチャンスの大きさを比較して、行動する。

僕自身、人生において非常に大きなリスクを取って行動していると自分では感じている。なぜこのような大きなリスクを取るのか?それは成功した時の大きさもとてつもなく大きなものになると考えているからだ。もちろん、成功する自信があるからだとも言える。

しかし、普段の日常において、非常にちっぽけなリスクを恐れている自分もいる。リスクしか見えなくなる時があるのだ。しかし、リスクばかりにこだわっていれば、物事は何も進まない。

何事においても、ノーリスクということはありえない。大なり小なりリスクは付き物だ。大事なのはリスクに対して成功の大きさ、メリットがそれを上回るかどうか、チャンスが大きいかどうかである。リスクとチャンスはセットで考えなければならない。リスクとチャンスの大きさを比較するためには、意識的にそのような思考をするように向けなければならない。

時には夢を現実化させるために大きなリスクを取ることもあるが、そんなリスク度外視の行動をとることも人生の醍醐味でもある。

モチベーションを上げるために。

本業でのモチベーションを上げることは、非常に大事である。モチベーションを上げるきっかけが、百貨店で服や時計を見ることであったり、お酒を飲むことであったり、人それぞれであろう。

百貨店で服や時計を見て、「絶対に成功して、こんな服や時計を買うぞ!」と気分が上がるのなら、それは素晴らしいことだと思う。

もちろん、物を買うことが目的で本業に打ち込んでいる訳ではないが、「自分にとって何がモチベーションを上げるきっかけになるか?」ということは把握する必要がある。

もともと気分が乗りやすい僕であるが、何とかモチベーションを上げ、それを持続しようと試行錯誤し、実行に移す今日この頃である。

憧れの人物は、・・・いない。

子供の頃の憧れの人物というのは重要である。憧れの人物がいるからこそその道に進もうと思い、憧れの人物に一歩でも近付こうとまい進していける。僕自身も小学生の頃は、長岡半太郎やアインシュタインといった物理学者に憧れていた。

しかし本格的にその道に取り組む大人には、僕は憧れの人物などはいらないと思っている。もちろんどのレベルを目指しているかによるが、最高を目指す人に憧れはいらない。

普通の結果をコンスタントに出していくか、大きなものを一発狙うか。もちろんコンスタントに結果を出せない者が大きな結果を出すことは非常に難しいと思うが、人それぞれスタイルがある。アインシュタインは重要な結果を非常にたくさん発表している。

偉大な先人のようになることはできないかもしれないが、それは必ずしも偉大な先人を越せないという意味ではない。方向性が違えば、同じような人物になるはずがないからだ。またそこが面白いところでもある。

誰になるのでもない。自分という一人の人間になることが重要なのである。

人生を費用対効果で測る愚かさ。

べつに費用対効果で物事を考えることを否定しようとは全く思わない。ビジネスにおいては費用対効果は最も重要な要素になるし、日常において物事に取り組むにしても、費用対効果という視点で物事を判断することは非常に有用だ。

しかし人生となると話は別だ。当たり前の話だが、人生はビジネスではない。もちろん人生においてお金は非常に重要だが、お金では体験できない経験、そして感情、健康、生きがいなど、お金ではどうにもならないことはたくさんある。逆に言えば、人生においてもお金で解決できることもたくさんあるのだが。

日常を本当に楽しむことができているか?日常は充実しているか?やりがいを感じているか?人生において打ち込むべきことは見つかっているか?

それらの前提があってから、初めて費用対効果という視点に移るべきではないか。全てにおいて最初から費用対効果で考えるのは明らかに間違っている。

大事なのは、費用対効果で測るべきことと、そのようなことでは測れないことを、しっかりと区別し判断することではないだろうか。

頭が働かない時は。

体の好不調があるように、頭脳の好不調ももちろんある。頭が働く時は高度な思考を要することに取り組み、頭が働かない時はその分体を動かせばいい。

20世紀のある偉大な哲学者は、「頭が冴えている時は論理学に取り組み、普通の時は哲学に取り組み、働かない時は社会学に取り組む」と言ったという。それぞれの人間に対して適材適所な役割があるように、自分のコンディションにも適材適所がある。

「その時何に取り組むべきか?」という問いに対して適切な判断を下せるかどうかということも、人間としての実力の一部である。そのような適切な判断を下し、その時出しうる最高のパフォーマンスを発揮することが求められる。

型を知り、型を破る。

「型破り」とは、物事の究極である。型を破るためには、型を知り抜き、型を空気のように実行できるレベルにならなければいけない。型を知らなければ、単なる「型知らず」にしか過ぎない。

昔、僕の大学時代の知り合いがよく言っていた、「指揮法を知らない指揮者と、指揮法を無視する指揮者は違う」とは、はまさしくツボを言い当てている。

もちろん、型破りなレベルには並大抵の事では達することはできない。型破りの境地を目指すためにも、自分の専門を極め、かつ専門外の分野に対しても幅広い視野を持ち知り抜くことが要求される。

打ち込むべきことに没頭して、苦しい時を乗り越える。

苦しい時、ストレスを感じている時、気分発散して乗り越えるということが多いであろう。確かに気分発散して乗り越えるというのも一つの手だ。しかし、気分発散だけが乗り越える手段であると、常に気分発散をせざる負えない状況に陥る。

しかし苦しい時を乗り越える手段は気分発散だけではない。打ち込むべきことに没頭して乗り越えるというのも手だ。頭を使って没頭していると、余計なことに頭を使わずに済むので、意外と精神的にも落ち着いてくる。ストレスも劇的に軽減されることもある。

しかも、打ち込むべきことに没頭するので、物事が、あるいは人生がより良い方向へと前に進みだす。ある意味、打ち込むべきことに打ち込むというのも気分発散であると言えるのかもしれない。

もちろん、適度にお酒を飲んだりして気分発散するのも悪くはないが、精神的に苦しい時を乗り越えるのには、何かに没頭するのが効果的で前向きな解決の手段だ。

努力を押し付けるのは時代に合わないけれど。

努力が手放しで称賛される時代は終わり、現代はある程度ゆとりを持った多様な生き方が求められている。努力を押し付けるということもほとんどなくなり、皆リラックスして生きているようにも思える。

確かに努力を押し付けるのは時代に合わず、努力のごり押しは間違った考えかも知れないが、自分で努力することに関してはまた話は別だ。努力は苦しいもので、できる事なら努力なんてしたくないと思う人も多いのかもしれないが、自ら努力に突っ込んでいく人も少なからずいる。

自分には目指すところがあり、それを成し遂げるためには努力することは必須だ。他人に努力を押し付けようとは全く思わないが、自分は限りなく努力をもって追求していきたいと思う。

情報過多の時代、いかに必要な情報だけを抜き取るか。

情報過多な現代では、必要な情報だけではなく、無駄な情報、または悪意のある情報が氾濫している。ネットを使えばほとんどの情報はいくらでも入手できるが、問題なのは見ないほうが良い情報までごり押しのように飛び込んでくることだ。

ところが、必要な情報だけを手に入れ、不必要な情報を全てシャットアウトするのは不可能だ。必要な情報と不必要な情報はセットでやってくる。いかにして情報に対するフィルターを作るか、なかなか難しいところである。

そして現在のビックデータを駆使したネットシステムでは、自分に都合の良い情報しか流れてこないという欠点もある。無駄な情報は必要ないが、広い視点から見つめた多角的な情報は必要である。

それらの解決方法の一つとして、ネット中心の生活ではなく、活字中心の生活に重点を置くということが有効かもしれない。活字を中心とした紙媒体では、幅広く質の高い情報を手に入れつつ、かなり取捨選択もできる。

ネット社会と言えども、紙媒体の存在は無視できない。ネットに重心が移りつつある現在でも、紙媒体からの入手源を常に確保することは重要である。

今日を生きる。

人間誰しも、必ず明日を生きれるという保証はない。もちろん、ほとんどの人は99.9%明日を無事過ごすことができるであろう。しかし100%ではない。明日の事は明日にならなければわからない。だから、今日を真剣に思いっきり生きなければならない。

そう考えると、悩みの先取りなんかしている場合ではない。十年後・二十年後、どのように生きるかということを考えることも、もちろん重要だ。しかし今日・明日を生きなければ十年後はない。

未来を自分らしく生きるためにも、まずは今日を真剣に生きることに全力を出そう。