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ピンチをチャンスに変える!

ピンチをチャンスに変えるとは、ネガティブ思考をポジティブ思考に変えるということだ。「ピンチの後にチャンスあり」とはよく言う言葉だが、同じことが起こっても、それをピンチのままで終わらす人とチャンスに変える人がいる。それは全てものの捉え方、思考の仕方の違いから来るものである。

ピンチになった時は、しばらく悩み苦しむことが多い。そしてそのような時に、その事ばかりを考えていれば、永久にピンチから脱することができない。ピンチの時に一度他の苦境のことに思考の対象を移すのである。すると、その苦境がなんてことないことのように思える。そのように他の苦境が解決すると、現在起きているピンチの事も自然に解決することがある。ピンチの時にそのピンチを脱する思考のルーティーンを確立することができると、精神を一段と強くすることができる。

こんな事を言いながらも、僕はかなり苦境に陥ることが多い。そしてそのような時にはネガティブになり悩むことが多い。しかしピンチを脱する思考のルーティーンが大分出来上がっているので、意外と早期にピンチを脱することができる。

確かに思考のルーティーンを確立するのは簡単な事ではないかもしれない。しかし試行錯誤してそのようなルーティーンを確立するための努力をすることは決して無駄ではない。そして思考のルーティーンを確立することができれば、ピンチが起こった時に「これはむしろチャンスだ」と思えるようになる。

数学は文明の根幹か?道楽か?

数学に対する認識ほど、人によって大きく異なるものはない。数学の本質は科学の根幹であり、文明の根幹であるということだ。確かに最先端の数学がどのように社会の役に立っているかということは分かりにくい。しかし現代社会は応用科学抜きでは語ることはできず、応用科学は基礎科学抜きでは語れない。そしてそれらの基礎科学は数学抜きでは語れない。従って数学は現代文明の最も根幹に位置するところにあり、人間の文明レベルは基礎科学、そして数学に対する認識に由来するものであると言っても過言ではない。

しかしその一方、数学や基礎科学に対する研究を「道楽だ」と言い放つ人もそれなりにいる。日本においてそのような風潮が顕著に表れているのか?それとも世界的にそのような風潮なのか?どちらにしても日本においてそのような風潮があることは事実である。

日本におけるそのような風潮は、江戸時代にまでさかのぼることができる。江戸時代の日本の数学である和算は、世界的に見てもかなりレベルの高いものであった。しかし和算は世界の主流になることはなかった。その理由はいくつかある。一番大きな理由は、和算が個別の特殊性を帯び、体系的に構築されることがなかったということである。それに対してヨーロッパの数学は非常に体系的に構築され、高い継続性を帯びていた。和算の体系性のなさの多くは日本の和算家に責任があるのかもしれない。

しかし和算の継続性のなさにはもう一つの理由があると僕は考えている。それは日本市民が和算や数学に対して役に立つもの、あるいは意義のあるものだという認識に乏しく、大きく社会や産業界に広がっていかなかったからではないのかと考えている。もちろんそのような数学に対する認識は、ヨーロッパにおいても大きく言えることなのかもしれない。しかしそれが社会の中で体系的に共有されることはなかったのではないだろうか?そのような認識が日本の中で(あるいはヨーロッパでも?)数学に対して道楽という位置づけをするということに結び付いたのではないだろうか?

数学が文明の中でどのように共有されているかということを、明白に捉えることは非常に難しい。数学を専門に扱っている数学者でさえ、数学の文明の中での位置づけを明確に主張できる人は多くないのではないかと思う。しかし古くはギリシャ時代から、数学が文明の根幹を担っていたということは紛れもない事実である。数学に対する認識一つで文明のあり方が大きく変わってくるのではないだろうか?

手段が目的になってはダメだ!

僕自身は何かをしようとする時に、かなり手段にこだわる方だ。手段を選ぶか選ばないかということにはいろいろ意見はあるとは思うが、どのような手段を使って目的に到達するかということは非常に大事な事だと思っている。しかし手段をにこだわるとしても、手段自体が目的になってはいけない。あくまで目標を達成することが目的であって、手段は目的ではない。

目標に向かうに当たって、途中の道筋は柔軟に選ぶべきである。目標に向かう道筋をどのように選ぶかということは、その人の腕の見せ所である。目標に到達する前でも、道筋を見ればその人の考え方や力量がある程度見えるものである。とは言え、結果が全てという側面もあるので、結果を出した後になってその人の取った道筋や手段が評価の対象になる。

道筋を柔軟に変えることが大事と言ったが、時には目標自体を柔軟に変えることも大事である。しかし間違ってはならないのは、目標を変えるということと妥協をするということは全く違うということだ。科学研究においても、一つの目標に対して行き詰った時は、一度目標を変えることによってそのような状況を打開するのも一つの手だ。そして変えた目標を解決した後にまた元の目標に戻れば良い。そのような道を取ることによって、意外と視界が開けてくることがあるものだ。

人生の中では、大きな目標、中くらいの目標、小さな目標と、それぞれ階層分けされていると思う。大きな目標とは人生を懸けるに値する目標だ。しかし多くの人は、現実を目の当たりにして目標を小さくしていく傾向にある。しかし少数の人は、一つ一つの目標を達成して行き、さらに大きな目標へとステップアップして行く。そのような人は、人生とは挑戦の繰り返しであると捉えているのだと思う。

僕自身がこれまでどれだけの目標を達成してきたかと言われると甚だ疑問だが、少数の要所要所では曲がりなりにも最低限の目標を達成してきたつもりである。とは言っても、そのような過去の結果に対しては全く満足も納得もしていない。幸い僕の目標は時を経つごとに大きくなってきている。そして最近は手応えも感じている。後は自分が納得できる結果を出すだけである。

根っこと先端の両方から攻めて行く。

学問というものは、基礎の積み重ねが大事である。従って学問の知恵というものは一朝一夕では築き上げることはできない。しかし、下からの積み重ねばかりではいつまで経っても最先端の現場にはたどり着けないこともある。そのような時はいきなり先端に飛び出るのも一つの手である。

とは言え、先端に出るためにはある程度の積み重ねが必要であることは言うまでもない。いきなり初心者がプロの中に入り込むことはできない。なので、先端に出るという手はセミプロ以上のレベルになって使える手であると言える。

以上は主に学問に対する話であるが、社会では初めて行うことにおいてもいきなり現場に飛び出ることが要求されることがある。また、「思ったら、考えたら、即実行」という精神が多くの場合大きな成功を生むことになる。そういう意味で、いきなり最前線に飛び出るということは非常に重要である。

学問の話に戻るが、近年のネットの発達によって、最前線の知識を得ることは容易になった。素人でも最新の論文を入手できる。数学や物理においては、最新の論文がarXivというサイトで全て公開されている。数学者や物理学者は論文雑誌に投稿する前にまずarXivにアップすることが通例になっている。時にはポアンカレ予想(幾何化予想)を解決したペレルマンの論文のように、論文雑誌には投稿せずにarXivだけにアップするということもある。arXivは誰でも家庭のパソコンですぐに見れる。非常に便利な世の中である。

基本的文献で根っこから攻め、arXivで先端を攻める。数学や物理ではこのような攻略法が行われているが、このような双方からの攻めはあらゆる分野に適用できることだろう。

苦しみも、乗り越えれば財産になる。

人生は山あり谷あり。楽しい時があれば苦しい時もある。苦しい時は本当に死にたいと思ったりもするが、そのような本当に苦しい時を乗り超えた後ではその苦しみは財産になる。

苦しみを乗り越えるためにはどうすればいいか?その一つの解決法は、「今を見すぎず、未来を見る」ということである。今を楽しむことも大事だが、将来のもっと大きい楽しみは自分に莫大なエネルギーをもたらす。過去にこだわる人に現在はない。そして今を生きる人よりも将来を生きる人の方がエネルギーに満ち溢れている。

僕にはそんなに大した過去はないし、過去を考えたところで何の解決にもならない。しかし僕の未来には大きな自信がある。そして常に未来を生きる人間になることを心がけている。未来に生きると言っても、長生きをするということではない。僕が長生きをするかどうかなんて全くわからない。もし自分の命が長くないのならば、それまでの人生をどう輝かせるかが大事だ。そしてもし長生きをするのならば、その輝きを少しでも長く続けることが大事だ。

人生80年時代と言われているが、その80年が長いのか短いのか?人それぞれだろう。僕は80年は長いと思っている。しかし時間というのは過ぎ去るのは一瞬だ。80年は長いが、長いからと言って何もしないわけにはいかない。なので、未来を生きるとは言っても、まずは今を全力で生きる事がそのための一歩になる。

重要な古典的論文を読む。

研究者の多くは、最新の論文をチェックすることに労力をかけている。もちろん最先端の研究を推し進めるには、最先端の論文から新しい知識を得て、その先を築いていかなければならない。しかしそれは、枝葉の継ぎ足しであって、根幹となる部分の改革にはほとんどつながらないことが多い。

基礎を書き換えるためにはどうすればいいか?そのためには最新の論文ばかりに注目するのではなく、重要な古典的論文を読むことが必要になる。また、少し離れた分野の古典的論文を読むことも時には大きな力になる。最新の論文と重要な古典的論文をバランスよく修得することが必要だ。

僕は最近、重要な古典的論文を読むことを重視している。20世紀には様々な重要な論文が出されてきた。そのような革命的論文を一つ一つ習得していくのは非常に面白い。しかし忘れてはいけないのは、ただ習得するだけではなく次への研究へと生かさなければならない。

僕は最近、全く専門外の論文も読み始めた。例えば、山中伸弥教授のiPS細胞関連の論文などは非常に面白い。ただ専門外の論文には、わからない専門用語が多数出てきたり、その分野での英語の言い回しが分かり辛かったるする。しかしそのような困難も読み続けて行けばわかるようになるのだろう。専門外の人間が生物の実験をするなどということは全く持って無理だ。だからiPS細胞の論文を読むことは趣味の域を全く出ないのが悔しいが、その分数学や物理の専門の分野で力を発揮すればよい。

大型書店に行けば、日本語で書かれた専門書が多数置いてある。さらにAmazonを使えば、洋書も自由に手に入る。論文もネットで入手できるものが多い。そういう意味では、知識を修得するには非常に自由な時代になってきている。多くの知識を習得し、そこから自分の頭を使うことによって“知恵”へと昇華させることができれば、目的のものを構築して行く助けになるに違いない。

専門の王者、総合の王者。

専門の王者と総合の王者のどちらが偉いか?それは人それぞれかもしれないが、体操競技においては床のスペシャリストの白井健三選手よりも、総合の王者である内村航平の方が格が上のようだ。

学問においても、専門に細分化された分野でアクロバチックに凄技を繰り出す人がいる。その一方、物事を大局的に捉え大きな枠組みの中で理論を構成し、時にはその枠組みさえも越えてしまう人がいる。学問の世界でも、前者のような専門のスペシャリストよりも後者のような総合の王者の方がほとんどの場合格が上のようだ。

プロを目指す人は、まずは打ち込む分野において専門家になることが要求される。これは当然の事である。まずはそこに精通して理解を深めることによって、その周辺の知見も広がってくる。軸足を持たないことには全ての事においてブレが生じてしまう。専門を極めることが総合の王者になる第一歩なのである。

「広く浅く」では何も生み出すことができない。広い知識というものは、専門を極めてこそ威力を発揮するのである。「専門はとことん深く、そしてそれ以外の事にも広くそしてある程度深く」ということが大事なのである。そういう意味で、専門の王者と総合の王者はある程度同意語なのかもしれない。

問題を総合的、戦略的に考える重要性。

世の中にはあらゆる問題が溢れ返っている。社会問題、教育問題、国際問題など分野は様々だが、それらに対して場当たり的に対処していてはその場しのぎにしかならず、総合的、戦略的に取り組んでいかなければならない。

それは科学に対する問題でも同じだ。ある問題点が出て、そこだけを計算して数値を出しても、それはただの数値以上のものではない。その部分が全体の中でどういう位置づけか?そしてその問題を解決するためにはどのような道筋を立てるべきか?そのように問題を総合的、戦略的に考えていかないと永遠に穴の中で留まってしまうことになる。

近年の日本の政策を見ていると、何だかその場しのぎで済ましていることが多いように感じる。少なくとも、以前はある程度一貫した主張があったように思えるが、その時代は日本には経済的な余裕もあり、そういう意味では金銭的な基盤がしっかりとしていたから主張もある程度しっかりとしていたのかもしれない。とは言え、海外を眺めてみると、必ずしも金銭だけが物を言うようには思えない。お金が少なくてもしっかりとした主張をする国は存在する。

戦略のない対処は博打でしかない。上手くいけば運が良かった、上手くいかなければ運がなかったというようでは全く話にならない。確かに目標地点へ到達するまではかなりの失敗をするかもしれない。しかし重要なのは最終地点で成功するかということである。そのためには戦略的に物事を進め、途中では戦略的に失敗をし、最後で目標へ到達する。途中結果だけを見て物事を早計するようなことだけはあってはならない。

人間としてのメンテナンス。

車や電気製品のメンテナンスが重要であるように、人間もメンテナンスは必要である。中には屈強で全く病院にも縁がなく精神も肉体も常に万全であるという人もいるかもしれないが、多くの人は何かしらのメンテナンスをすることが必要になる。

女性なら美容などのメンテナンスを定期的に受けている人も多いかもしれないが、男性にとっても外見、内面のメンテナンスをすることを忘れてはいけない。ではなぜメンテナンスが必要なのか?それは日々の努力を最大限に発揮するためだ。日々努力している人にこそ、メンテナンスが重要になるのである。

例えば、好きな人と何とか付き合いたいと努力している人は、外見に対してのメンテナンスにも気を配るだろう。また、学問において何とか成果を挙げようと努力している人にとっては、まずは健康であることが重要であるし、精神面でも高いレベルで保たなければならない。

人間としてのメンテナンスはお金が必要であることもあるし、日々の意識の持ちようが大きく影響することもある。何か目標があり、それを成し遂げようと思えば、最終地点だけを見るのではなく、それまでの道のりを考えることも重要である。そしてその道のりの途中の各地点でメンテナンスを施すことによって、道のりを進むスピードも速くなることであろう。

広中平祐の“電話帳”。

広中平祐とは、1970年にフィールズ賞(数学のノーベル賞と言われている)を受賞した日本の大数学者だ。広中博士の専門は代数幾何学。その広中博士のフィールズ賞受賞対象となった論文は特異点解消の大論文と言われているが、あまりにも分厚いので通称“電話帳”と呼ばれている。

僕は最近、過去の重要論文を読むことも大事だと考えているので、広中博士の特異点解消の大論文も僕の専門外ではあるが一読してみようと思い、プリントアウトした。やはり電話帳と言われているだけあって、一つの論文としては異例の200ページ越えだ!広中博士の論文は専門家にとっても難解だと言われておりどこまで僕が読み切れるかわからないが、挑戦してみようと思う。ちょうど代数幾何をマスターしたいと思っていたところなので、広中博士の論文を理解することを目指すことはちょうど良い目標になる。しかし何年かかるだろうか・・・。

広中博士の論文は大部であり、非常に重要な論文であるが、論文の良し悪しは量で決まるわけではない。たった数行の論文でも重要な論文はある。例えば今僕の手元にある「ワード・高橋恒等式」が書かれたワード博士の論文は、たった半ページだ。しかし重要な論文であることには間違いない。近年は内容よりも書いた論文の本数で評価されるきらいがあるが、僕は重要な論文が一本ある方がはるかに価値があると思う。大数学者、岡潔は、生涯で数本しか論文を書かなかったと言われているが、岡に対する評価は絶大だ。

専門の論文を読むことは普通であるが、専門外の重要論文を読むことによって得られる知見を大切にすることも非常に重要である。そのような重要論文を手当たり次第に読むことができればよいが、僕の英語力のなさもあってなかなかそうもいかない。ましてやフランス語で書かれた論文となれば、もうお手上げ状態だ。(数学の昔の論文は、フランス語で書かれたものが多々ある。)しかし論文が論文を呼ぶように、着実に手を広げていければと思っている。