思想、生き方、考え方」カテゴリーアーカイブ

本質を見抜いているから、本質的でない所をスルーできる。

当たり前のことだが、物事の本質を見抜くと言うことは非常に重要だ。世の中には物・事があふれている。もし自分一人でそれらの物・事を全て理解しようと思っても、とてもではないが人生千年あっても不可能だ。だからこそ自分にとって必要なもの、重要な事をピックアップして取り組むことが必用だ。

しかし、それらをピックアップする時に、もしかしたら重要ではない事を選んでしまうかもしれない。そのような事を防ぐためにも、物事の本質を見抜き重要な事を定めることが必用だ。そして本質を見抜くことができれば、本質的でないことをスルーすることができる。重要な事に取り組み、重要でないことをスルーすることは、気力と体力を効率的に発揮するためにも必要である。

もし人間の命が無限にあるのならば、手あたり次第何でもかんでも取り組めばよいが、残念ながら(と言うより僕は幸運な事だと思っているが)人間の命は有限である。そして人間は自分一人ではない。周りに沢山の人がいるからこそ、適材適所で自分のできない事苦手な事を周りの人に任せればよい。(僕はそのような事が苦手なので、何とか自分でしようとしてしまう。)

学問に取り組むと言うことは、本質を見抜く目を養うのに絶好だ。数学とは数的世界の本質を見抜く研究であるし、物理は自然(宇宙)の本質を見抜く研究である。経済学は社会の本質を見抜くものだと言えるし、哲学は人間の精神の本質を見つめる。おそらく、本質を見抜いている人と見抜けない人では、見えている世界が全く違うはずだ。人間としての視野を広げるためにも、本質を見抜く目を養うことは非常に重要である。

最近、他分野に取り組んでいる理由。

僕は最近、専門の数理物理を軸としながらも、他分野にも積極的に取り組んでいる。例えば分子生物学や量子化学、数理脳科学などだ。さらに経済学、法学などにも取り組もうと考えている。なぜそのような他分野に取り組もうとしているのかと言えば、単にやみくもに手あたり次第手を付けているわけではない。僕はどの分野に関しても、理論的な範囲で研究結果を出せるくらい、あるいはそれ以上の結果を出そうと取り組んでいる。そして例えば、分子生物学や量子化学で言えば、それは基礎物理と階層をなして繋がっているわけであって、自然科学を総合的に理解しようと思えば、物理を基礎としながらも、化学や分子生物学を理解することは避けて通れない道だ。

そして人間が生きるうえでは、哲学的な視点を持つことは必要だ。哲学とは人間が生きるうえで道しるべとなる、言わば「指針」である。僕は少し前まで哲学に対して興味を持って取り組んでいたが、最近は学問的な哲学に対して興味は薄れた。その理由は、ドイツ哲学を中心とする学問的哲学がほとんど机上の空論、一言で言えば言葉遊びでしかないと感じたからだ。そのことが決定的となったのが、ショーペンハウアーの著書だ。もちろん、今でも哲学は非常に重要であると思っている。しかしそれは、学問的な哲学とは全く違うものである。

物理学や化学、生物学などのサイエンスは、自分たちが生きているこの宇宙の本質を知らせてくれる。そして経済学や法学は、自分たちが生きているこの社会の本質と精神を知らせてくれる。人間は宇宙に存在しているのであり、同時に社会に存在しているのである。だからその両方を知ることが必用だ。そして現在それに付け加えるのなら、コンピューターサイエンスを理解することも必要だ。AIと言うものは、利用するものではなく理解するものである。例えば、AIを理解するためにディープラーンニングを理解することが必用だ。決してコンピューターの奴隷になってはいけない。

改めて、なぜ他分野に取り組んでいるのかと言えば、理由はいくつかある。以上に書いたようなことが大きな理由だが、それと同時に総合的な視点を身に付けると言うことも重要だ。総合的視点は一夜で身につくものではない。しかしあらゆる分野を有機的に(網羅的ではなく)取り組んでいけば、必ずそれらの関連性が見えてき、そして総合的視点が身につくはずだ。専門の一分野を狭い範囲の中で結果を出すことばかり考えていれば、それは全く井の中の蛙である。そのような事では、自然の本質、科学の本質は全く見えてこない。生きる意味は何か?と問われたとき、その理由は人それぞれ様々であろう。そして一つではないはずだ。「本質を理解し見抜く」と言うことは、僕が生きる理由のうち非常に(最も?)大きな理由なのである。

体系的に構築することの大切さ。

物事を体系的に構築していくか、それとも単発的にこなしていくかによって、その後の発展が大きく変わっていく。結論から言うと、継続性を付けるためには体系的に構築していくことが不可欠だ。それは数学の歴史を見ればよく分かる。

江戸時代の日本の数学、すなわち和算は非常に高度なものであり、問題によっては西洋の数学をしのぐものであった。しかし現代の数学において、和算の系譜は途絶えていると言ってよい。現在世界で行われている数学のほとんどは、起源をたどると西洋の数学にたどり着く。ではなぜ日本の和算が途絶え、西洋の数学が脈々と受け継がれているのか?それは体系的に構築しているかどうかと言うことに限る。

和算は一言で言えば、単発の問題の集まりである。もちろんそう言い切れないものもあるが、和算の主流は高度な難問を単発的に解いていくというものだ。それに対して、西洋の数学はほぼ一貫して体系的に構築していくことを主眼に置いている。西洋の数学は理論であり、日本の和算は解法だと言える。

大学受験の数学に慣れた学生が、大学での数学に戸惑うことが多いという話はよく聞く。それは受験数学が単発問題の解法であり、大学数学が体系的な理論構築であるからだと言える。確かに問題が解けた時はうれしい。しかし問題はその後である。小さな問題でも、それを解いた後どのようにつなげるか?そのような事の繰り返しが体系的な構築につながるのである。

もし物事に継続性を付けたいのなら、体系的に構築するという視点が必用である。そして大問題を解く場合にも、そのための足場として理論体系を構築する必要がある。「継続は力なり」と言う言葉があるが、その前に「体系性は継続なり」と言う言葉を付け加えなければならない。

解くことと、構築すること。

数学の問題は「解く」と言うが、理論は「構築する」と言う。では数学者は解くために打ち込んでいるのか?構築するために打ち込んでいるのか?

問題を解くことと理論を構築することは表裏一体である。問題を解くためには、理論を構築しなければならない。受験問題なら解くと言う意識だけでもできるが、未解決問題を解くためには、時には何年もかけて理論を構築して、それを基に問題を解決することになる。

21世紀初め、ペレルマン博士がポアンカレ予想を解いた。問題を‘‘解いた’’わけだが、ペレルマンの解決の道筋は「ペレルマン理論」とも呼ばれる。ペレルマンはリッチフロー理論を基に独自の理論を構築し、実に技巧的に問題を解決している。

解くことは目標であり、理論の構築はある意味手段だと言える。しかし理論の構築は目標でもある。しかし、目標か?手段か?と言うのははっきり言ってどうでもいい。最終的には理論を構築し問題を解決することによって、自分の、そして人類の知と思想のレベルを上げることが重要なのである。従って、自分と人類の底上げにならない問題解決はあまり意味がない。しかし、そのようなほとんど意味のない問題を解いて実績を作っている数学者が実に多い。確かにそうでもしないとポストにありつけないのだろう。でも僕は、そうではない自分自身の目的意識をもって理論を構築していきたいと考えている。

あえて実用性から遠い所を行く。

近年、社会の価値観が実用一辺倒になって来ているように思える。もちろん生きていくためにはお金を稼がないといけないし、役に立つことを発明することによって世の中は便利になって行く。そのためには、実用的な事を進めて行くことは絶対に必要であるし、実用性と言うものは大きな価値を持つ。

では世の中の人すべてが実用性を追求すれば良いのか?と問われれば、僕は違うと考えている。実用性を向上させて便利な社会を築いていく人が9割必要ならば、あえて実用性から離れた所を行く人が1割必要だと思っている。例えばプロスポーツなどは実用性とは遠い位置にあるし、科学においても実用性とは関係ないところに位置する基礎的学問が存在する。しかし人類の長いスパンで考えた時、僕は今すぐ役に立つ実用性の高い取り組みよりも、あえて実用性から遠い所にある基礎的取り組みの方が圧倒的に重要な役割を担っていると僕は考えている。

その理由はいくつかある。一つは、今役に立たなくても、将来大きく役に立つ可能性が高いということだ。二つ目は、実用性がなくても価値のあると思われることは、本質的な価値があると考えられることだ。本質的な価値とは、人類の思想や本能的知的行動、そして人類の本質的なレベルに関することだ。この二つ目の価値は、なかなか万人には理解され難い。しかし、基礎的学問の本質的価値とはそこに集約されているのである。そうでなければ、だれも純粋数学などやらないはずだ。しかしこのような事を理解してもらうために、一つ目の理由、すなわち将来役に立つかもしれないという理由を持ち出さなければならないことは、非常に悲しいことだ。

実用的な事は、実用性のないことに支えられている。僕はそう考えている。そして世の中の9割の人が、いや、99%の人が役に立つことに取り組んでいるからこそ、僕は残りの1%になってあえて実用性から遠い所を進もうと思う。実用性はないが本質的な価値があること、そのような事は万人には理解されないが、一人でも多くの人が理解し、人類の基礎の底上げをより良い環境で取り組めて行ける世の中になって欲しいと強く願うものである。

守りのためのシミュレーションは止める。

物事を想定してシミュレーションをすることはよくある。個人的にも将来の状況を想定してシミュレーションをすることはよくあるし、ビジネスにおいてはあらゆることを想定して対応するためにシミュレーションをするとこは必須だ。シミュレーションをすることによってリスクを低減することができる。そして企業を、あるいは自分を守ることができる。

もちろん僕だってシミュレーションすることを否定するわけではないし、日常においてもシミュレーションすることはよくある。しかしその一方、シミュレーションばかりしていれば、リスク対策一辺倒になって防御一辺倒になってしまうことがある。もちろん、攻めのためのシミュレーションもある。もしシミュレーションをするのなら、守りのためではなく攻めのためのシミュレーションをしなくてはならないと強く思っている。

とは言え、攻めと防御は全く別々のことではなく表裏一体である。攻めるために守らなければならない時もあるし、攻めは最大の防御とも言われる。僕自身最近常々思っているのは、「自分を守らない」と言うことだ。何も自分を守らないからと言って、自分が自滅するわけではない。むしろ攻めて行くことによってそれが守りにもなると考えている。しかし自分を守ることに意識が言っているせいか、守りのためのシミュレーションをすることが最近多かったように感じる。そのような守りのためのシミュレーションを止めなければならないと最近強く思っている。

これからの人生をどう生きていくか?と言うことを考えた時、僕に残された選択肢は「攻め」しかない。そしてそのような攻めの人生を進めるために、攻めのためのシミュレーションを積極的に行っていこうと思う。もう守りのためのシミュレーションは止めよう。

勉強と学問は違う!

勉強とは総じて面白くないものである。なぜなら、勉強とは大概学校や他人が決めたことをやるからだ。僕は大学に入って以降、勉強をしたという意識はないし、受験生時代もそんなにした意識はない。

しかし、学問には誰よりもたくさん打ち込んできた自負はある。勉強はしていないが、数学や物理は常に真剣に取り組んできた。僕にとって数学や物理は勉強ではなく学問なのである。そして勉強と学問は(少なくとも僕にとっては)全く違うものだと思っている。さらに最近は興味の幅が極度に広がり、生物学、化学、経済学などのうち、理論で出来る範囲(すなわち実験以外)のあらゆることに取り組んでいる。そしてコンピューターにも興味がある。今は学問が面白くてしかたがないのだ。

本来、学問は非常に面白いものである。だから嫌々学問に取り組むなんてことはあり得ない。嫌々やっているのはおそらく勉強であって学問ではない。だから、面白いなと思ったときに学問をすべきだ。それが30代や40代になってからでも良いと思う。あるいは老人になってからでも良い。老人になって義務的に行う生涯学習なんかより、楽しんで取り組む学問の方がよほど意義がある。学問に年齢は関係ないのだ。若い学生も、うかうかしていると学問老人に先を越されてしまうぞ!

無限大と無限小。

「100と1000とは何が違うか?」と問われれば、明らかに数の大きさ、すなわち量が違うと言うだろう。では「無限大と有限の数は何が違うか?」と言われれば、単に量が違うと言うだけでは済まされない。無限と有限では、量が違うという以前に、質が違うのだ。

数学が無限を扱いだしてから300年以上経つ。その起源は、ニュートンとライプニッツが独立に考案した微分法にまで遡る。ニュートンは物理学の問題を定式化するために微分法を考案し、ライプニッツは純数学的に微分法を考案した。今や無限を扱わない数学は数学とは言えないという状態である。昔ある数学者は、「数学とは無限を扱う学問である」と言ったという。確かに解析学は無限大・無限小を厳密に扱うことを基礎に置いているし、19世紀末にカントールによって考案された集合論は、無限を数えるということを目標に置いている。

ある意味、数学ができるかどうかは、無限を扱えるかどうかだと言える。有限的対象は無限的対象の中に含まれるが、では有限的対象が無限的対象の何%を占領しているかと言えば0%である。すなわち、有限の世界だけしか理解していなければ、それは全く理解していないと言うことなのである。

とは言え数学の中にも、有限にターゲットを絞った分野も数多く存在する。例えば代数学の有限群論や、あるいは幾何学で言えば3次元や4次元などにターゲットを絞った低次元幾何学がある。しかしそのような「有限」と表題を打った分野であっても、それらの分野の構築には無限を扱うテクニックなしでは全く進めることはできない。

無限の世界を知ることは、何も数学者だけに必要な事ではない。一般市民にとっても、無限の世界の一片を知ることはそれぞれの世界観に大きな広がりをもたらし、物事をより論理的に捉えることができるようになる。意外と無限は自分の身近にも存在するのである。例えば自動車メーターに表示される速度を理解するのにも、微分(すなわち無限小)を理解することなしには理解できない。人生を有限の中で終わらせるのか?それとも無限の世界に広げるのか?これは質的に大きな違いがある。そして無限を正確に理解するツールが数学と言うものなのである。

自由がなぜ大事なのか?

日本を含む西側民主主義国家を「自由主義陣営」と呼ぶことがある。そして西側陣営に住む民衆は、自由と言うことを最も大事な事と捉えている。しかし残念なことに全員ではない。西側陣営に住んでいても、自由の重要性を認識していない人もいる。便利になれば、お金があれば、自由はそんなに大した問題ではない。そう考えている人も少なくないように思える。

自由には二つあると僕は考えている。一つは行動の自由。もう一つは精神の自由だ。行動の自由は分かりやすい。どこにでも自由に行けて、好きな事ができる。もちろん“何でも”と言う訳ではなく、人に危害を加えることは絶対にやってはいけないし、その辺は我々の一般常識に照らし合わせれば分かる。一般常識に照らし合わせた上でやってもいい事、と言う意味である。

しかし問題は、精神の自由である。これがなかなか理解されない。しかし僕からすると、これは行動の自由以上に重要な事である。精神の自由がなければ、独創的・創造的な営みはできない。しかし厄介なのは、精神の自由がなくても、何不自由なく生活ができることだ。少なくとも精神の自由の重要性を理解していない人たちはそう思っている。しかし人生を極め何かを生み出そうとしている人にとっては、精神の自由は死活問題である。そして西側陣営の言う自由とは、半分以上は精神の自由である。

今、香港の人達が立ち上がっている。彼ら彼女らは自由を死守しようとしているのだ。中国は皆が知るように一国二制度を取り入れている。そして香港はイギリス時代からの流れで民主的制度を取り入れている。しかし今それが壊れようとしている。この問題を考えるとき、中国本土の状態も同時に考えなければならない。本土側は共産主義国家体制である。そして高度な監視社会である。従って、市民の行動はほぼ全て監視されている。しかし中国市民からはあまり不満の声は聞かれない。それは彼ら彼女らが、自由よりも便利さ、そしてお金を受け入れているからだ。現在の中国はかなり便利だ。スマホ一台あれば何でもできる。高度なキャッシュレス社会なので、スマホがあれば何でも買える。自由よりも便利さやお金が勝ってしまうのか?このことを我々は笑ってはいけない。我々も便利さとお金を目の前にすれば、自由を放棄してしまうかもしれないからだ。特に精神の自由の重要性を理解していない人たちは、その可能性が高い。しかし一回自由を放棄してしまうと、それを取り戻すのは至難の業だ。それを知っているからこそ、香港市民は立ち上がっているのだ。

お金によって手に入れられる自由がある。確かにお金がなければそれらの自由は手に入れられない。しかし頑張ってお金を手に入れることができれば、そのような自由を手に入れることができる。このようなお金で手に入れられる自由が現在ないことはかなりつらいことであるが、それは同時に現在取り組んでいることで成功して手に入れるぞと言う原動力になる。しかし一回失くした精神の自由を取り返すことはそう簡単ではない。現在は高度な精神の自由を維持しつつ、頑張ってお金で手に入れられる自由も手に入れようと常に前向きに進んで行こうと強く思う。

合理的判断は、本当に合理的なのだろうか?

世の中の人は、合理的判断を求めている。しかしそのような合理的判断は、本当に合理的結果をもたらしているのだろうか?

人物を合理的に判断する基準として、IQや学歴が用いられることが多い。しかしそのような判断は本当に合理的なのであろうか?確かに学歴は90%の人を合理的に判断できるであろう。しかし問題は残りの10%の人達である。学歴で評価した90%の人達の中には、秀才が多く含まれているかもしれない。しかし異才や奇才は残りの10%の中にいる可能性が高い。通常の物差しで測れない才能だからこそ、異才や奇才だと言われるのである。

アインシュタインが秀才だと言う人はいない。ほとんどの人は天才だと言うが、アインシュタインはある意味奇才である。よく世間では、アインシュタインのIQがいくら(かなり高い)だとか言って天才だと言うが、そのような話(数値)は後の人が勝手に決めたことである。もしアインシュタインがIQ的天才ならば、アインシュタインは普通の人でしかなかったということになる。IQ的天才とは所詮、IQで測れる程度の才能でしかないということである。

合理的判断には、そこから外れる10%(いや、1%か?)の人が必ず存在する。もしかしたら、90%の人を正しく評価できているのだから合理的ではないかと思うかもしれないが、実はそこから10%の人を除外していることが社会的にも大きな損失であり、究極的に非効率なのである。判断に必要な事は「多様的評価」なのである。一つの判断基準に固執すると才能が偏ってしまうし、本当に威力を発揮する人を見逃してしまう。もちろん、学歴などは一つの物差しとして使うのは悪くないかもしれない。しかし物差しは何種類も使うべきである。僕はこれまで‘‘通常’’の物差しから外れてきた才能ある人を何人か見てきた。おそらく皆の周りにもそのような人はいるはずだ。もしいないと言うのならば、通常の物差しに固執するあまり気づいていないだけである可能性が高い。昨今の「多様性」と言う潮流は物事の本質を突いており、本質的合理性を高めるのもだと僕は考えている。