思想、生き方、考え方」カテゴリーアーカイブ

集団の力、個の力。

日本人は何かと「力を合わせて」と言う言葉が好きだ。皆で力を合わせることが美徳のようにも捉えられている。確かに力を合わせて何かに取り組むのはそれはそれで良い。しかしその反面、一人で何かに取り組んでいる人に対して冷たい目線を感じないこともない。数学や理論物理のような理論的学問は、基本的には個人プレーだと言ってよい。もちろん共同研究によってグループで取り組むこともある。しかし数学や理論物理のこれまでの重要な結果、ブレークスルーとなるような理論はほとんど個人で成し遂げられているように感じる。

日本におけるグループ主義に偏重した風土は何をもたらすのか?それは協調性によってグループでしかできないことを成し遂げることを可能にする。例えば、生物学などの実験科学ではチームプレーが必須である。しかし人数が集まれば何でも良い結果が出せるかと言うとそうではない。むしろ人数が集まることによって質が低下することもよくある。対象によっては、個の圧倒的な力が必要な事もある。そのような事に対しては、協調性を押し付けることはむしろ害悪でしかない。

協調性がないと言うことは、日本では全てにおいてネガティブに捉えられるが、僕はむしろ協調性を無視することも物事によっては重要であると考えている。協調性を求めると言うことは、個の自由を束縛すると言うことである。しかし数学や理論物理においては、研究者の個の自由は圧倒的に重要である。個の自由(それはわがままと言われることも多いが)は思考の自由度をもたらす。思考の自由無くして創造的な結果を出すことはできない。

協調性は時には横並び主義をもたらす。これは言い換えると、「出る杭を打つ」と言い換えることもできる。並んでいる人には優しいが、飛び抜けようとする人の足を引っ張るという側面もある。そのような日本の環境の中で生き抜こうと思えば、目立たぬように並んで過ごすか、圧倒的に出る杭にならなければならない。圧倒的に出てしまえば、もう打つことも不可能である。圧倒的な存在、すなわち野球で言うとイチローのような、あるいは研究者で言うと山中伸弥教授のような存在にならなければならない。どれだけの人にそのような覚悟があるだろうか?そこを目指している人にとっては、「良くできる」と言うレベルは死と同じである。イチローや山中伸弥教授をテレビや本で見ることはあるが、そのようなレベルの人間を僕はこの目で見たことがない。それは僕の人脈のなさから来るものかもしれないが、見たことがなければ自分がそのような存在になればいいと考えられる身軽さも必用だと僕は感じている。

人間の感覚って、意外と当てにならない。

普段の行動を論理的に考えるか、感覚的に捉えるか、人によってその配分は様々であると思うが、普段の生活上のことや人間付き合いをあまりにも理詰めで考えると逆に上手くいかないこともある。問題はそこに心がこもっているか、と言うことである。感覚的に捉えつつも要所要所で論理的に判断するのが良いのではないかと僕は考えている。

しかしそれが数学のこととなると話は別だ。数学は100%論理的でなければならない。もちろん、理論の概要や方向性を感覚的に捉えることは不可欠であるが、それを基に理論を構築するときにはそれが100%論理的であることが求められる。ではなぜ数学においては100%の論理が必用なのか?

もしかしたら10%くらい感覚で記述しても良いのではと思うかもしれない。しかし数学においてはそうは言えないのである。例えば、99%論理で構築しているから1%くらいは感覚で記述しても良いとするとどうなるのか?数学はその1%から全てが崩壊するのである。あるいは、その感覚で記述した1%が実は全く見当違いであることもよくある。感覚的に当たり前であるように思えることが実は当たり前ではなく、そこに想像もしないような真実・真理が潜んでいることがよくあるのである。だから数学者は時には重箱の隅を突くようなことにこだわることがよくある。それは重箱の隅に大きな真理が潜んでいる可能性があるからである。そして理論の流れに論理でないところがあれば、それはまだ数学としては完成していないことになる。

数学を突き詰めていくと、人間の感覚と言うものが全く当てにならないと感じることがよくある。もちろん数学においても“数学的”感覚や意志を基に進めることはよくある。しかしそこから導き出される結果は100%論理的でなければならない。世の中には論理に真実や真理が潜んでいることがよくあるのである。そして数学においては、そのような論理こそが本質なのである。

研究者とビジネス。

研究者とは、はたして儲かる職業なのか?普段目にする研究者のお金に関するニュースと言えば、ノーベル賞の賞金(約一億円)であろう。そして最近では、研究結果を応用して、それを事業化するというニュースもよく聞く。確かにそのような事に成功すればかなりの儲けになるだろうし、ビジネスにもなる。それだけを見ると、一見儲かる職業のようにも思える。しかし、ノーベル賞を受賞できるのは年に数人であるし、研究結果のビジネス化に成功している例と言うのもそんなに多くはないようにも思える。

もし本気で大金を稼ごうと思えば、絶対に研究者になってはならない。僕の個人的な見解としては、研究者はお金儲けの手段としては最も割の合わない職業だ。平均で言っても低いと思うし、トップに上り詰めてもビジネスの勝者には大きく及ばない。はっきり言って、研究者になって大金を稼ごうと思う人はバカである。

しかしそのような金銭的に割に合わない立場であっても、研究者になってやろうと強い意志を持っている人はそれなりにいる。もちろん研究者になってお金を儲けようと思うことは悪いことではないが、それだけではとてもじゃないけど研究者はやって行けない。ほとんどの研究者は、研究自体に魅力を感じているし、研究が人生最大の生きがいだと思っている人も少なくないだろう。僕もそんなバカな人間のうちの一人である。

しかし、研究で沢山稼ぐことは不可能な事ではない。実際少ない人数でありながらも、大きく稼いでいる人はいる。ならばその少数の人間のうちの一人になればよいのだ。とは言え、やはり研究の一番の魅力はその研究内容にある。研究が面白いからやって行ける。そう考えると研究者とは天国にいるような(そして地獄にいるような)人間であると僕は思っている。

カフェインレスコーヒー。

最近、コーヒーを飲むと頭の回転が鈍ったりして調子を崩すことが多かったので、家で飲んでいるインスタントコーヒーをカフェインレスコーヒーに変えた。カフェインレスコーヒーに変えてからいろいろとかなり好調で、カフェインレスの力は僕に関してはいかんなく発揮されているようだ。

しかし、ネガティブな面も二つある。それは価格とカフェインがないことだ。カフェインレスなのでカフェインがないことは当たり前だが、やはりカフェインを摂取してシャキっと頭を冴えわたりたいときには普通のカフェイン入りのコーヒーを飲みたいものだ。だから今でも一日一杯くらいは普通のコーヒーを飲んでいる。価格に関しては、普通に高い!高すぎる!普通のコーヒーの三倍くらいするのだ。なので財布には非常に痛いが、それで調子を維持できるのなら逆に安いと考えられないこともない。

調子の面以外で良い面と言えば、寝る前でも思う存分飲めると言うことだ。寝る前に一杯、ということもできる。味の面では、僕が飲んでいるネスカフェのカフェインレスインスタントコーヒーは意外とおいしい。はっきり言って味にはあまり期待していなかったが、これは想定外のうれしさだ。これからはカフェインレスコーヒーをたしなみながら、全ての物事を前に進めて行きたいと思っている。

世界旅行!

皆様は世界旅行に興味はおありでしょうか?世界旅行とはつまり、地球上をくまなく周る海外旅行と言える。僕はそのような旅行にほとんど興味がない。国内であろうが海外であろうが、これまで旅行をしたいとはほとんど思ったことがない。(しかしこれからは、そのような旅行も積極的にしようと思っている。)

しかし今僕は、ある世界旅行に躍起になっている。それは科学の世界の旅行だ。これまで僕は、数学と物理の世界を旅行することに打ち込んでいた。しかしそれはある意味‘‘国内旅行’’だと言える。世界旅行をするためには、化学、生物学、地学などのあらゆる分野を周らなければならない。科学の世界は美しく、そして豊富で面白い。数式を介して見る世界は非常に明確だ。海外旅行に行くお金があれば、そのお金で専門書の一冊でも買い、それに取り組む方が圧倒的に面白い。

僕は軸足を数学と物理に置いている。そのことは科学の世界の旅行をするにあたって非常に幸運だった。なぜなら、物理と数学を軸足にして、化学や生物学などに遠征をすることは十分可能だからだ。しかしその逆は基本的には難しい。そして数学に打ち込むことは、さらなる幸運をもたらす。それは、この自然(宇宙)だけでなく、数的宇宙までも理解することができるからだ。数的宇宙とは、ギリシャ哲学で言うところのイデアにあたるであろうか。すなわち、目で現実世界を見て、科学で自然(宇宙)を見て、数式で数的世界を見るのである。

僕は専門外の分野に取り組む時も、解説書ではなくできるだけ専門書を読むことにしている。確かに専門外の専門書を読むことは最初は骨が折れるが、慣れればむしろ数学や物理より簡単である。やはり一般解説だけで真理を理解するには限界がある。百冊の解説書を読むより、一冊の専門書を読む方がはるかに意義があるのである。まずは座右の専門書を定めるのが良い。専門書と格闘すれば、さらに奥に潜む真理が見えてくるに違いない。

人生50年!

現代では、人生100年とも言われるようになった。もし人生100年生きるとすると、僕はまだその半分も生きていないことになる。社会では、「人生100年に備えて」と言う合言葉的な事も言われている。もちろん、その100年間を有意義に発展的に生きて行ければ最高であろう。そこでもし僕がこれから人生100年に備えて今から準備するとどうなるのか?僕はどうしても守りに入ってしまうのではないかと思えてならない。だから僕は人生50年と意識して生きるようにしている。もしかしたら60年、70年生きるかもしれない。もしそうなればそれはそれで良い。しかし人生50年と言うことを肝に銘じて、その残り少ない時間に全力を挙げるべきではないかと僕は強く思っている。

僕自身、人生50年だと肝に銘じることによって得られるメリットは非常に大きい。これからの人生がまだまだ長いと思ってしまうと、どうしてもだらだらと時間を先延ばししてしまう。そして生物学的に生きることに気をとらわれ過ぎて、全てが守りに入り、時には保身につながってしまうのではないかと思うのである。もし人生があと数年ならば、全てを攻めることができる。もしダメだったらそれはその時である。僕が成し遂げようと思っていることは、守りに入ってはできない。超攻撃的人生を進めることが最低条件になる。

医療が発達して寿命が延びること自体は悪ではない。しかし一部の人にとっては、それは決して善でもないように思える。重要なのは長生きすることではなく「どう生きるか」である。そのためには、「自分は何のために生きるのか?」と言うことを強く意識しなければならない。そして、その自分の生きる意義を最大限に高めなければならない。そのような事を考えた結果、僕は人生50年と言う結論を導き出した。そのためには、毎年毎日が勝負であるという意識を持たなければならない。「今日も勝負、明日も勝負」と思って生きていきたいが、どうしても心と体がそこまでついていかない。筋トレして筋力を鍛えるのも良いが、基礎的体力をつけ、心に毛を生やし、強靭な精神力を付けていきたいものである。そしてそれは可能であると強く思っている。

ルールを守ればそれで良いのか?

先日、スノーボードの国母選手が大麻の密輸で逮捕された。このことについては言語道断であり、弁解の余地は一切ない。守るべきルール(法)は守ると言うのが、法治国家に住む人間としては基本的には厳守となる。日本人は法やルールを確実に守るというのが世界的な認識になっているように僕は感じる。日本人は礼儀正しく律儀だ。それは非常に良いことだと思うが、僕はこのことを手放しには喜べないと思っている。

日本人はルールをしっかりと守る。では、もしルールがなかったらどうであろうか?日本人はルールがない所では意外とやりたい放題で羽目を外しているように感じる。例えば、外国人技能実習生の問題などはその最たる例であろう。日本人相手なら礼儀正しく約束を守るが、外国人技能実習生に対しては同じ人間として扱っていないような企業も多々ある。それは、「ルールがなければ何をやっても良い」と言う思考に通ずるものがある。ルールがなければ何をやっても良いのか?もちろん、法的には合法(脱法)であるかもしれない。しかしそこは規則を守ると言う次元のことではなく、モラルの問題である。もちろん、モラル意識が高い日本人もたくさんいるが、ルールがないところ、人が見ていないことろではモラルのかけらもないような日本人も多くいるように感じる。

そしてもう一つ問題になるのが、ルールの無批判な適用だ。これは特に学校の校則などでよく見られることであるが、意味のないルール、あるいはさらに害悪とさえ思えるようなルール、そして人間の自由な思考を妨げるようなルール、そのようなルールを無批判に適用し人を縛るような行為が見られる。これは思考力の欠如からくるものである。確かに法やルールは守るためにあるのかもしれないが、そのようなルールがあるからには明確な根拠がなければならない。しかし実際は何の根拠もなしに惰性や思い込みだけで作られているルールも存在する。そのようなルールに対しては、それはおかしいと手を上げて声を出すべきである。

法やルールには、明確な根拠、そして合理性があるべきだ。なのでそれらの法を打ち立てる政治家には良識と論理的思考力が強く求められる。校則ならば、そのような素養は教師や教育組織に求められる。そして我々は、ルールを守ればそれで良いと考えるのではなく、ルールを守りつつもその意義を考え直し、そしてさらに根本にあるモラルを身に付けることが必要ではないだろうか。

ホンゲル係数。

小学生か中学生のころ、社会科の授業でエンゲル係数と言うものを習った。家計の支出における食費の割合を表す数字だ。それにもじって、僕は「ホンゲル係数」と言う言葉を使っている。ホンゲル係数とは、支出における書籍代の割合だ。僕が勝手に作った言葉なので、おそらく世間では全く通用しない。しかし僕自身は、これはなかなか便利な言葉だと思っているので、最近たまに使っている。

ホンゲル係数は何を表現しているのか?それは知への投資の割合である。もちろん漫画を何百冊も買う人もいるので何とも言えないが、基本的には学問書などへの投資を想定している。僕自身のホンゲル係数は極端に高い。おそらく日本国民の上位0.01%には確実に入っている。書籍代が高いのか、支出が少ないのか、それは想像にお任せする。

しかし学問書・専門書は非常に高いものである。一冊一万円ほどする本は山ほどある。そのような高額書籍を毎月せっせと買っている僕も何とかしているが。しかしこれは将来を見越した確実性のある投資である。金融投資などはバカみたいなので一切やらないが、学問に対する知への投資はこれからも続けるつもりだ。

本を買っていくと、当たり前だが本がたまっていく。全ての本が役に立てばよいが、そのような事はあり得ない。一冊の本でも、その中の数ページでも役に立てば儲けもんなのである。数年後には高額な書籍代を維持しつつも、ホンゲル係数は下げていきたいものである。(つまり、収入・支出を上げる。)しかし、結果を出す前にホンゲル係数が高止まりすることは僕にとっては必要不可欠であると考えている。結果を出すまでもう少し、極高ホンゲル係数に耐えて行こう。

時短。

最近、時短筋トレを始めた。これまで筋トレをするとき、一時間くらいかけてじっくりとするのが僕の筋トレスタイルだったが、よくよく考えてみると、この一時間は長すぎて非常に無駄が多い。そこで腹筋と腕立て伏せの間に休みを挟まないとかして、全ての筋トレメニューを一気に行うことにした。すると、これまで一時間かかっていたメニューが15分以内でこなすことができたのだ。何と効率的なことか!一週間毎日こなしても、合計で一時間半ほどだ。これからはこのような時短筋トレで進めようと思う。

ところで、何のために時短をするのか?それは時間をつぎ込むべきところで思いっきり時間をかけるためだ。一日を振り返ってみると、時短をすべきところは意外とたくさんある。例えば、ネットで無駄なものを見過ぎないとか、風呂の時間を短縮するとかだ。ところで僕は超ロングスリーパーなので、どうしても睡眠時間をもっと短縮したいと思ってしまう。しかし、睡眠時間を削ると結局起きている時間のパフォーマンスが劇的に低下し、結果的には非常に効率が悪くなってしまう。もちろん人によって体質は違うし、3時間睡眠でもピンピンして活動的な人もいるので何とも言えないが、僕個人にとってはどうしても睡眠時間は削れないようだ。

今、僕が必要としていることは、最高の調子(パフォーマンス)と有効な時間だ。それを手に入れるためには、適度な睡眠時間と時短生活をすることが必用だ。時短を意識すると、普段の動きもキビキビとなる。一石二鳥(三鳥?)だ!いろいろと時間が限られている僕にとって、時短生活は未来の成功をもたらしてくれるものだと感じている。もともと時間の使い方が下手な僕にとっては時短生活は簡単な事ではないが、いろいろと工夫してこれから時短生活を強化していこうと思う。

知能を持つ事と、意志を持つ事。

数学の研究をするうえで、何が必用だろうか?高度な知能か?もちろん、知能は非常に重要である。しかし数学は、あるいは更に広く学問は、知能と同時に明確な意思を持つ事が非常に重要になる。例えば目の前の計算をするだけなら、そこそこの知能があればできるだろう。そして複雑な計算ならば高度な知能があればできるかもしれない。それこそスーパーコンピューター京ならばどんな計算でもできるかもしれない。しかし数学の本質は計算だけではない。数学の研究を進めるためにはビジョンを持たなければならないし、そのビジョンに基づいてどのような方向へ進むかと言う判断は、計算以上にどのような意思を持っているかが重要になる。

最近、毎日のようにAIが話題になる。そこでAIを理解するためには、AIには何ができないか(できるかではなく)と言うことを理解することが大事である。AIは人工知能と言う言葉からも、まぎれもなく知能である。知能であるからには計算ができる。しかしAIは知能は持っているが、意志は持ち合わせていない。最近のAIを見ると一見意志のようなものを感じることがあるが、実際は膨大な計算による最適化である。AIは意志を持っていないので、ビジョンを持つ事ができないと僕は考えている。従って、計算に基づく判断はできても、ビジョンに基づく判断はできない。

これから何がわかるか?つまりこれからの人間において重要になるのは、計算ではなくビジョンである。少なくとも現在は人間にしかビジョンは持てない。しかし計算だけなら既に何十年前からコンピューターは人間を凌駕している。従って、計算力を武器にしようと思っても、100%勝ち目はない。そして‘‘単なる’’知能だけなら、コンピューターはかなり高度なレベルのものを持っている。

では、これからの人間は何を持つべきか?それは‘‘意志に基づく’’知能である。意思に基づく知能ならば、これからまだまだ人間は勝ち目はあるし、意義がある。もしかしたら、意志と言うのは究極の知能なのかもしれない。意思に基づく知能によってビジョンを築き、それに基づいて未来を開拓していく。それがこれからの人間の進む道ではないだろうか。