思想、生き方、考え方」カテゴリーアーカイブ

死の谷。

iPS細胞の山中伸弥教授が言ったことであるが、研究結果を事業化しようとすると死の谷というものに直面するという。事業化するにあたって、その過程で資金は莫大にかかるがすぐには利益に結びつかない時期が生じるというものだ。

そのような死の谷は、人生においても直面するのではないだろうか?すぐには結果が出ない。しかし避けては通れない過程。そこが人生の死の谷だと思う。

無難に死の谷を避けて生きるのも一つの手かもしれない。しかし死の谷というものは、リスクでもあり投資でもある。リスクと投資なしでは大きな結果は望めない。

最近は何においても便利さと効率化が重要視されてきている。それと対極的にリスクは出来る限り避ける傾向にある。しかし果たしてリスクは悪なのか?人によっては徹底的に悪と捉えるだろう。しかしリスクは成功への投資でもある。

死の谷の中にいるときは本当に苦しい。しかしその先が少しでも見えているからこそ死の谷の中に飛び込んでいるわけでもある。死の谷はビジョンの中にある。死の谷の中でビジョンを具体化させ、それが成功した時、死の谷から脱出できるのだろう。

死の谷を乗り越えた時、その前に広がる風景は一変するに違いない。

逃げるのは最後でいい!

戦略として、負けそうな試合を早めに切り上げて次に備えるというのはありかも知れない。しかし自分が何かと向き合っている時、ギリギリまで粘ってみることが重要である。形勢というものは一つのポイントで急に変わることがよくある。そのポイントを逃さないためにもギリギリまで粘ってみる必要がある。

逃げるのはいつでもできる。だから逃げるのは最後でいいのである。勝ち癖を付けることが大事であるのと同時に、負け癖は出来る限り付けない方が良い。そして逃げ癖も同様である。しかし“逃げ”と“失敗”は違う。僕は失敗をすることは大事だと考えている。

失敗には継続性がある。失敗は次につながるのである。大きな成功は繰り返してきた失敗から生まれる。失敗をしない人は成功もしないと思っている。なぜなら失敗とは挑戦の証であり、挑戦しないことには成功もない。大きな成功を目指しているのならば、多くの挑戦を繰り返し多くの失敗を積み重ねることが大事である。

失敗とは違って、安易な逃げは次につながらない。逃げるとそこで打ち切られる。安易な逃げは次の逃げを呼ぶだけである。もちろん安易な逃げは失敗でさえもない。

とは言え、どうしても逃げないといけない時もある。絶対的に逃げ出さなければならないと判断した時は、勇気をもって逃げよう。ポジティブに判断した末の逃げは絶対に次につながる。

ギリギリの状況をどう切り抜けるか?そこではこれまでの失敗を次に生かせるかということにかかっている。

僕には大きな夢がある。今からでも遅くはない!

歳を取ると、もう夢を見るのには遅いと言われることが多い。はっきり言うと「夢を“見る”」のには遅い!少年や少女のように夢を“見る”のには確かに遅いのである。しかし「夢を成し遂げる」ことに対しては全く遅くはない。夢は見るものではなく成し遂げるものなのである。

僕も今までいろいろなアクシデントがあった。それがために大きな回り道をすることになって、現在はまだ夢を成し遂げるには至っていない。しかし夢を実現させるための手応えは大きく感じている。

僕の夢は、物理と数学、すなわち数理物理の研究にある。それを成し遂げるビジョンは明確にある。後は細部を詰めて形にするだけだ。もちろんそこが非常に難しいところであることは理解している。

まず一つの大きな結果を出すことが大事である。しかし一つ結果を出したらそれで終わりではない。結果を出したら次の目標へと切り替えなければならない。それの繰り返しである。

iPS細胞の山中伸弥教授の言葉である「VW(ビジョン&ハードワーク)」を常に心がけて、常に挑戦し続けて行こう!何と言おうと僕は「超攻撃的人生」を進むと決めたのだから。

今、目の前は暗い。

今、僕の目の前は暗い。しかし将来が暗い訳ではない。一歩進んだ先には明るい光は見えているし、とてつもなく大きな希望もある。しかし自分の周りの環境、社会、そして広くは日本に関して、明るい状況には見えない。

現在、高度な情報化社会になり非常に便利になる一方、行動の自由が束縛されているようにも思える。非常に自由に感じるかもしれないが、何か社会に誘導されているようにも思える。

僕は今、自分が最高に自由になるためにはどうすればいいかと色々なことを試みている。自由には行動の自由と精神の自由がある。どちらか一方あれば良いというものではなく、この二つは自由の両輪である。

現在の社会に疑問を感じても、後戻りすることはできない。しかし前に進んで変えることはできる。とは言え、社会を変えようとする前に、自分が自由になる必要がある。行動と精神が自由でない人に環境と社会を変えることはできない。

1%ダメだということは、99%大丈夫だ!

ネガティブな思考回路になっている時は、少しのネガティブ材料も過大評価して、1%しか起こりえない最悪の事を99%ダメであるかのように錯覚することが多い。しかし冷静に論理的に考えると、そのようなダメである確率は1%しか起こりえないと結論付けられることが分かる。すなわち99%は大丈夫なのである。

仮に例え49%ダメであっても、51%は大丈夫なのである。ダメな時のことばかり考えて保険を掛け過ぎるよりかは、上手く行った時にはさらにどのように進もうかと考えた方がはるかに建設的である。

人生には危険は付きものである。しかもそのほとんどは予測できない危険なのである。予測できる危険などは少数でしかないので、危険に対する恐れを過度に持つことは意味がないわけではないが、あまり効果的でもない。重要なのは予測できない危険が生じた時の対処と、動じない意志を持つことなのである。

人生とは予測不能な事案の連続である。過度に右往左往するのではなく、どっしりと構えて不測の事態にも覚悟を持って対処することが大事である。

フォワードのさらに前を行く!

超攻撃的人生を実行するためにはどうすればいいか?そのキーワードは「フォワードのさらに前を行く」ということだ。フォワード的位置は、普通の攻撃的ポジションだ。そのため、超攻撃的に物事を進めるためには、フォワードよりさらに前のポジションに位置しなければならない。

「超攻撃的」とは、物事や人生の進め方の姿勢であるが、それと同時に「必ずゴールを決める」という意味合いもある。従ってゴールを決めてなんぼの世界である。

サッカーで最前線のポジションはフォワードである。従ってサッカーの世界ではフォワードのさらに前というポジションは存在しない。しかし必ずゴールを決めるという意味では、メッシやC.ロナウドはフォワードのさらに前を行っていると言える。すなわちフォワードのさらに前を目指すということは、その世界でメッシやC.ロナウドを目指すことを意味する。

誰もが「フォワードのさらに前を行く」ことができるわけではない。これを実行するためには、実力や技術、そして強い意志を持たなければならない。しかし自分にそれだけの実力と意志を持っていると自負できるのなら、そのようなポジションをとって超攻撃的に進めることは非常にエキサイティングな挑戦である。

自己精神マネジメント。

自分の目標とすることを達成するためには、専門の知識・技術を高めると同時に自分の精神をコントロールすることが必要だ。しかしこのような自己精神マネジメントにはあらゆる側面があるし、また高いレベルでマネジメントをする必要がある。

僕は自己精神マネジメントには大きく二種類あると考えている。一つは攻めの自己マネジメント。もう一つは逃げの自己マネジメント。僕は現在、攻めの自己マネジメントを徹底的に追求している。なぜ攻めの自己マネジメントが必要かというと、それは自分の行動の自由、及び精神の自由に直結するからだ。

あらゆる面で自由でないと創造的な取り組みをすることはできない。そのためには身体と精神が高いレベルで健康であることが求められる。もちろん先日亡くなったホーキング博士のように、身体的に不自由でも徹底的に高度な精神を持って創造的な仕事をする人もいる。しかし普通の人にはとてもまねはできない。

高度に自由な思考で生き、非常に高度な目標を達成するためには、精神と身体のマネジメントを徹底的に追求することが必要だ。

知は受け継がれる。

最近、ソリトン理論関連のことを調べることがあり、その中でも戸田格子理論で有名な戸田盛和さんのことを調べた。戸田さんはもうお歳だろうとは思っていたが、1917年生まれで、2010年に93歳で亡くなっているらしい。戸田盛和さんはもうこの世にはいないが、戸田理論はこれからも長く残っていくだろう。

当たり前の事だが、科学者と言えども人間であるから、いつかはこの世からいなくなる。しかし科学者が残した理論はこれからも長く残っていく。いや、長く残る理論を作らなければならない。

いつの時代も同じだと思うが、多くの科学者は流行の理論に飛びつき、流行に乗った確実に結果が出る問題に取り組む。それ自体は間違っていないのかもしれないが、なんだか納得できない。しかし納得できないのなら自分が行動で示さなければならない。

多くの受け継がれない知ではなく、価値ある受け継がれる知を構築することが重要である。そのような意味のある研究に取り組んでいる科学者がどれだけいるのか?残念ながら多くはいないように感じている。

目の前の勝負より、その先の勝利!

サッカー日本代表・ポーランド戦の試合は、「目の前の勝負よりその先の勝利」とブログでも書いた。今でもポーランド戦での戦術には納得いかないが、自分自身の事に対して振り返れば、それはまさに「目の前の勝負よりその先の勝利」を目指していることと再確認した。

この信念で進めた場合、その先で勝利を挙げることができれば大きな評価を得ることができるが、もし勝利できなかったら笑いの的だ。もちろん、僕もその覚悟で進んでいることは言うまでもないが、サッカー日本代表の西野監督も同じ覚悟かも知れない。

もちろん、小さなことを積み重ねていくことは大事であるし、そこで小さな結果を出し続けることも大事である。サッカー日本代表も小さな結果から大きな結果まで出し続けてきた。僕自身も結果を出す必要性は痛感している。

小さな積み重ねなしに、その先の大きな結果はありえない。僕自身もこれまでの人生の中で小さなことを積み重ねてきた自負がある。

小さなことを何年、何十年も積み重ねると、人には見えない世界が見えてくる。サッカー日本代表にもそのような世界が見えているのだろう。

将棋の羽生善治さんは、才能とは継続することだと言っている。何時間集中して打ち込むことは多くの人にも経験があるだろうが、30年以上当たり前のことを継続することは容易ではない。しかしそれができる人には、そのことが才能があるということなのだろう。

当たり前のことを30年以上続けることができていれば、少し胸を張っていいのかもしれない。僕も少し胸を張ろうかな?

なぜ大学教育では真理探究に重きを置くのか。

大学、学部、学科によって学ぶ目的は様々だが、大学教育というものは基本的に真理探究に重きを置いている。いや、正確にはそれに重きを置くべきだということかもしれない。

なぜ真理探究に重きを置くべきか?それは大学を出た後に大きく関係する。人間として、あるいは社会人として上を目指していくためには、常に勉強を続け、技術を身に付けることが必要になる。そのためには基盤が必要になる。その基盤こそが大学での真理探究なのである。

最近は大学での実学志向が甚だしい。すぐに役に立つ知識、すぐに役に立つ技術を学生が求め、大学側もそれに応えようとしている。しかしすぐに役に立つものは、枯れるのも早い。言い方を変えれば小手先の知識・技術であると言うことである。

また、すぐに役に立つものばかりを追い求めると、選択肢も狭まり、将来性を縮小させることにもなる。基盤知識・技術を身に付ければ、一生学び続けることができ、社会の変化にも柔軟に対応できる。

真理探究というものは、知識を追い求めることではない。思考を追い求めることである。現在の情報社会では、知識などというものはコンピューターで検索すれば瞬時にいくらでも出てくる。そこで必要になるのが人間の知恵である。

これからの情報社会、コンピューター社会で生き残る鍵は、人間らしさと人間の思考であるはずだ。