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肩書と実力。

日本は肩書社会だとよく言われる。だからと言って外国は完全な実力社会かと言えばそうでもないとは思うが、日本国内から見ても海外の方が圧倒的に実力社会であるように思える。

では学問の世界はどうか?学問の世界の肩書の一つに「博士」と言うものがある。実力社会のように思えるアメリカであっても、日本以上に博士と言う肩書が重要視されているようだ。ノーベル賞受賞者の中村修二氏は、若いころアメリカで修業したそうだが、博士号を持っていないがためにほとんど相手にされなかったと言っている。これはアメリカに問題があるのか?学問の世界に問題があるのか?はっきりと断定はできないが、どちらにも問題があるように思える。

肩書重視の弊害は、あらゆるところで見られる。その一番の弊害は、再チャレンジの機会が存在しないと言う事であろう。もしくは例えそのチャンスがあったとしても、既得権益者が行うよりも圧倒的に難しい状況に追われる。しかしそのような事は、どこの国どの社会であっても同じことであると思う。三倍難しければ、五倍の実績を挙げればよい。十倍の結果を出せば誰も文句は言わないだろう。それで文句を言う人は単なるバカである。

歳を取ればとるほど実績を出すのは難しくなる。そして実績を認められるのはそれ以上に難しくなる。しかし前述したように、十倍の実績を出せば誰も文句は言わない。ならば十倍の実績を挙げれば良いだけの話である。これが難しいか?可能か?それは本人次第であるが、僕は十分に可能だと考えている。どう出過ぎた釘になるか?そこを突かないと、実力主義だと言われるアメリカであっても認められるのは難しいと思う。しかし、どう認められるかと考えているようでは、出過ぎた釘にはなれない。なぜなら、出過ぎた釘とは評価をする側に回ると言うことであるからである。

借金と投資。

日本人は借金を過度に恐れ罪悪視する傾向がある。しかし借金とは使いようにもよるが、投資と言う意味合いも強くある。従って、借金を全くしないとは、自分の成長に対する投資を否定することでもある。もちろん、服やカバンに散財するようなことは決して良いとは言えないが、しかし男ならスーツ(とそれに合わせる靴)にはそれなりの投資をすべきである。なぜなら、スーツは仕事の武器にもなるし、人付き合いの武器にもなる。だから無理をしない程度にお金をかけるべきである。そしてその威力を存分に発揮し、何百倍にしてリターンを得ればよいのである。

子供が大学に行こうとするとき、「お金がないから行くな」と言う親もいるらしいが、それは誰が見ても適切でないと感じるだろう。お金がないなら借金をすべきである。学校に行かせたければ、教育ローンや奨学金と言う選択肢がある。それこそ正しい借金の仕方だと言えるであろう。おそらくそれらの借金をして大学に行った子供は、大学で猛勉強をし、将来その何百倍ものリターンを得ることであろう。

日本では子供のころから、貯金の仕方については繰り返し言及されるし、貯金が非常に良いことだと教えられる。しかし、お金の使い方に関してはほとんど教えられることはない。しかし本当に重要なのはお金の使い方の方なのである。なぜなら、ビジネスとはお金を儲けることであるが、お金を儲けるためにはお金を使わなければならない。お金を使い、それ以上のリターンを得るのがビジネスと言うものである。学問をするのにも、書籍にお金をつぎ込むことが必用だ。しかもそれに本気で取り組むとなると結構な額になるものだ。しかしそれは金銭的にも人間的にも何百倍になって帰ってくるはずだ。お金の有効な使い方をする者が勝者であり、無思考にお金を貯める者は敗者であると言える。もちろん、何かの準備のために貯めると言うことはあるが、その場合には結果的にお金を有効に使うと言うことに結び付く。

お金は貯めているだけでは何の効果も発揮しない。せいぜいお金を貯めていると言う、ちょっとした満足感とちょっとした安心感だけである。もちろん、散財したり意味のないものにつぎ込むのは論外であるが、お金を使ったり、時には借金することは決して悪いことではないのである。ビジネスの成功者は例外なく借金の仕方が上手い。そしてビジネス以外でも、人生を上手く運べる人は借金を有効に使う。もし自分に明確なビジョンがあるのなら、それを実現するために思い切って借金という投資をするのも非常に意味のある大きな手であるはずだ。

何が確かで、何が不確かか?

世の中の常識は時代ごとに変わるし、学問の内容も変遷していく。しかし数学において、昔正しかったことがその後になって間違っていたなんてことはほとんど聞かない。もちろん高度にはなって行くが、新しい数学と言うものは、過去の結果を基に積み重ねられて行くものだ。

しかし生物学や医学となると話は全く別だ。医学において、過去の常識が実は間違っていたなどと言うことは日常茶飯事だ。生物学や医学の進歩とは、ある意味過去の結果を否定することによって進んで行くと言える。もちろん全てが間違っていると言う訳ではないが、大部分が間違っていると言えるようである。

そのような事を考えると、「何が確かで、何が不確かか?」と言うことを明確にすることは、多くのことに対して難しく、時には不可能であると言える。確実に言えるのは、今確かだと言われていることは今の“常識”であって、それらの常識が正しいと言う保証は全くないのである。

人生においてもっとも価値があるのは、過去の常識を覆していくことだ。常識を容認することは誰でもできる。なので、常識を知っている人間などは何の価値もないのだ。ただし、非常識が良いと言っているのではない。次の時代の常識を作ることに価値があるのだ。医学や生物学などの科学でさえ間違いが山ほどあるのだから、社会や人間の行動や考えが間違っていることなど膨大にあると言える。なので、今の常識が正しいか?と言うことにとらわれるのではなく、次の時代の常識を開拓していくことが必要なのではないだろうか。

まず、敵を知ること。

物事に取り組む時、味方を集めるだけでなく敵を知ることも大きな力になる。敵を知ることによって問題点がさらけ出され、攻めて行くポイントが明白になる。それは学問においても言えることだ。

例えば数学において、佐藤超関数で攻めて行きたければ、シュワルツの超関数を知ることは重要だ。別にシュワルツの超関数が敵なわけでも何でもないが、その周囲を知ることによって本丸が見えてくる。そして本丸が見えてくれば、それを攻略するためにどのような武器(理論)が必用かと言うことを見定め、武器を集めればよい。ただし武器を集めるにはやはりお金が必用だ。何事にも本気で取り組もうとすると、どうしてもある程度のお金は必要になる。お金をかけずに取り組むと言うことは、ある意味まだ遊びだと言えるのかもしれない。学問においても、専門書を買うのにはある程度のお金がかかる。

そしてお金と同時に時間も必要だ。取り組む対象にそれだけの時間をつぎ込む覚悟はあるのか?本気で取り組むほど、初めはあらゆることを犠牲にする必要がある。お金だって初めはだいたい赤字になる。それが人生投資と言うものだ。しかし明るい将来が見えているこそ、今のあらゆる犠牲に耐えられる。そしてそれを成し遂げた後に気分を解放させればよいのである。

とは言え、現在の僕自身、そのような事が完全に実行できているかと言えばそうではない。完全に実行できていれば、今頃ある程度の結果を出せているはずだ。しかし言い方を変えれば、時間の問題だとも言える。さあ、今苦しんで、明日を思いっきり楽しもう!

ビジョンを持って失敗する。

人間は大きく二つに分けられる。失敗する人と失敗しない人だ。そこで多くの人は失敗しない人になろうと思うかもしれない。しかし失敗しない人と成功する人とは同義ではない。同義ではないどころか全く正反対である。

失敗しないとはどういうことか?それはほとんどの場合挑戦しない人と言うことだ。そして失敗する人こそが成功する人だと言える。しかしそのためには継続性が重要になる。「継続は力なり」とはよく言うが、失敗してもなおも挑戦し続け、そしてさらに失敗を繰り返し続ける。そのことによって大きな成功はもたらせられる。僕はそう考えて全ての物事に取り組んでいる。

そして大事なのが、「ビジョンを持って失敗する」ことである。ただやみくもに「数打てば当たる」と思っていても、実際には一つも当たらない。なぜならそこにビジョンがないからだ。ビジョンを持たずに矢を放っても、本質的なところには一つも当たらない。もちろん実際の弓矢は百本放てば一本くらいあたる確率はある。しかしビジョンなき矢放ちは間違いなく一本も当たらない。「ビジョン+挑戦」が成功へと導くのだと僕は強く考えている。

では、これまで述べてきたことは本当に正しいのか?このような事を述べたからには僕がそれを証明しなければならない。そしてそれを証明する準備は整いつつある。後は細部を埋めて行くだけだ。その結果は近い将来出るはずである。

強さと弱さ。

誰もが強さと弱さの二面性を持っている。もちろん圧倒的に強い人もいれば、圧倒的に弱い人もいる。多くの人は強い人間になりたいとは思っているだろうが、しかし弱さが存在することによって気づくことも多々あるし、大事なのは強さと弱さの相乗効果なのである。

強さには大きく二種類ある。一つは肉体的な強さ、もう一つは精神的な強さである。しかしこの二種類の強さは独立してあるものではなく、肉体的強さが精神的強さをもたらし、そして精神的強さがさらに強い肉体をもたらす。例えば、プロスポーツ選手にとって鋼のような肉体は不可欠であるが、そのような強靭な肉体を手に入れるためには強い精神力によって鍛えなければならない。そして学問とはある意味精神活動の極限だと言えるが、そのような精神活動を推し進めるためには健全な肉体は非常に頼りになるものである。数学とは「一に体力、二に体力、三四がなくて、五に知力」とはよく言ったものである。

僕は最近、かなり強くなっていると自分では感じている。しかしそれと同時に弱い側面もかなり大きくなっている。ある意味、人間性が強烈になって来ていると言える。しかしそれは自分の望むところであり、今僕はかなり自分らしく生きていると感じている。しかし好不調の波はある。そこが僕の一番の課題ではあるが、それを克服するのも時間の問題だと思っている。

自分はどこまで強くなれるのか?そしてそれは現在の弱さを抱えたままでも行けるのか?これは自分自身における挑戦である。しかし他人から見た目と言うものも気にしてしまう。それははっきり言って、現在の自分の弱さだ。自分自身の挑戦は、自分の内部の思考によって推し進めるべきだ。そしてそれ以外の面では他人の目を気にするのも良いと僕は思っている。いや、気にすべきところは気にしなければならない。服装や身だしなみを、そんなものは関係ないと気にしないのは単なる独善である。自分自身の挑戦に打ち込みながらも、意外とそんなところも気にする僕である。

未来的イメージと個性。

最近、車の雑誌を読んでいると、近未来の車として電気自動車や自動運転車のコンセプトモデルが出されているのを見ることが多い。ガソリンの自動車が廃れるのか残るのかは世界の環境政策にかかっていると思うが、ただ電動化、自動化の路線を突き進むことは疑いようのない事実のようだ。

そこで近未来のコンセプトモデルを見ると、もちろんそれぞれデザインは違うものの、何だか方向性が全て同じように感じてならないのだ。時代を先取りした前衛的モデルと言うコンセプトは同じでも仕方がないが、個性を出そうとしているのがそれらの全ての個性が同じように見えるのだ。これは実は個性を出しているようであって個性ではないと言える。それらの個性の源泉が全て画一的なのである。このような事は、あらゆる分野に対して言えるのではないだろうか?

「最先端=個性」では決してない。むしろ最先端は流行であると言うことが非常に多い。そして最先端にこだわるあまり、ただ単に流行に乗っているだけと言うことが少なくないのだ。このような事は学問にも言えることである。学問においても流行があり、一部の(多くの?)研究者たちはいかにして流行に乗り遅れないかと言うことばかり考えているようである。最先端は乗るものでなく作るものなのである。最先端に乗っかっている人に個性が出るはずがない。

車の話に戻るが、僕は最近のマツダのデザインが大好きだ。現在マツダの車に乗っているわけではないが、次車を買うときはマツダの車を買いたいと思っている。現在のマツダの車はデザインが秀逸であり個性的である。しかし前衛的な印象は受けない。車の質的にも非常に良いらしいが、僕は乗っていないので何とも言えない。しかし現在のマツダのスタイルは、あらゆる分野の人間に対して個性の一つの在り方を示しているのかもしれない。前衛性にこだわるあまり全ての人が同じ方向へ進み、結果的に個性を殺している。人々はもう少し、いや深く個性の在り方出し方を考えるべきではないだろうか?

良い問題を設定することの大切さ。

もし学生ならば、教師から出された問題を解くことに全力を尽くすかもしれない。確かに問題を解くことは重要である。社会においても、様々な問題が山積し、それらの問題を一つ一つ解決することが求められている。しかしそれらの問題が存在すると言うことは、誰かがそれらの問題に気付いたと言うことである。問題が設定されなければ解決も何にもない。実は問題を設定すると言うことは問題を解くこと以上に重要な事なのである。

例えば数学を例に挙げると、今から百年ほど前に、ポアンカレ予想と言う問題が設定された。設定者は名の通りポアンカレと言う数学者である。ポアンカレ予想は約百年後の21世紀初め、ロシアのペレルマン博士によって解決された。ペレルマン博士の業績はもちろん偉大なものであるが、現在でも「ペレルマンの定理」と言われることは少なく「ポアンカレ予想」と呼ばれている。これはやはり問題を設定したポアンカレの業績が大きく評価されていることの表れだと考えられる。

研究とはまず問題を設定するところから始まる。問題を与えられて、「はい、解きなさい」と言われるのは学生までだ。もちろん世の中には未解決問題がたくさんあり、それらの問題に取り組むのも一つの手だ。しかし大問題を解く過程では、様々な問題を見つけることが要求される。極論を言えば、研究とは問題を見つける作業だと言える。

良い問題を見つけるためには、ある程度センスがいる。与えられた難しい問題を解く才能と、良い問題を見つける才能は、重なるところはあるが別物だと言える。だから難しい入試問題が解ける人が必ず優秀な研究者になれるとは限らない。もちろん、研究者レベルでなくても身の回りには様々な問題が横たわっている。良い問題を見つけるセンスを身に付けるためには、そのような身の回りの小さな問題を発見するところから始まるのかもしれない。

効率化を目指すべきか?

僕はかなり効率の悪い人間だ。とにかく時間の使い方が下手だと自分では思っている。そこで何とかして時間を上手く使い、効率化を進めて行かなければならないと強く感じている。

物理や数学と言う学問は思考の学問だ。どれだけ時間を使い深く思考するかということにかかっている。だからそこから思考の時間を省くことは自殺行為である。思考には湯水のごとく時間をつぎ込まなければならない。しかし人間の持っている時間は有限である。「この問題に200年かけて取り組もう」と思う人はいない。なので普段の時間の使い方から筋トレの時間まで、できうる限り時間を効率化していかなければならない。

しかし今僕の置かれている環境では全てを効率化することは難しい。もちろん時間の効率化を進める余地は大きくある。だから効率化できるところは徹底的に効率化を図らなければならない。そして現在どうしても効率化できない所は、自分の道を切り開いて効率化できる環境を作らなければならない。それしか方法はない。

僕は超ロングスリーパーであるので、睡眠時間を削ることは難しい。それでも過度に睡眠をとる必要はない。そこにも効率化をする余地はある。時間の効率化は、自分の意識の持ちようにかかっている。油断するとすぐに時間は過ぎて行く。今年もあと少しであるが、来年から取り組もうと言うことではなく、今すぐに始めなければならない習慣であると強く思っている。今できなければ永遠にできない。あとは自分の意志だけである。

成功することだけが目的じゃない。

物事に取り組む時、多くの人は、いや、全ての人は成功することが目的で、成功するために努力しているのかもしれない。それはいたって当然のことであり、成功が目的じゃないと言うのなら何が目的なのか?と皆突っ込むであろう。僕だって例外ではない。成功することは大きな目的であり、成功するために努力をしようと日々精進している。

しかし、成功は大きな目標であっても、唯一の目標ではないと僕は思っている。人間の意志は単純には割り切れない。人間とは地球上で最も複雑な生物であり、複雑極まりない脳を持っている。そしてそのような複雑極まりない脳は、人間の思考・意志に多様性をもたらしている。そして人間の価値感も非常に多様である。ある人はお金こそが全てだと言うかもしれない。もちろん、お金に価値を置くことは悪いことではない。問題はお金“だけ” にしか価値を見出せないことである。お金の価値はほぼ全ての人間に理解できる。千円より一万円の方が価値があることは、数字の大小関係が分かれば瞬時に判断できる。すなわち小学一年レベルの算数ができれば理解できることなのである。大事なのは多様な価値観を持つ事、すなわち複数の物差しを持つ事、そして時には物差しでは測れない物事の価値判断をすることが大事なのである。

人はなぜ成功しようとするのか?それは人間社会で認められるためであったり、お金を得るためだったりする訳である。しかしそれは、他人からの承認欲求と言う意味合いが強い。もちろんそれはそれでいいのである。しかし、自己の中で意志を高め、物事を追究していくと言う欲求もあってよい。他人から遮断された領域で、自分をどこまで高めることができるか?それは何かに成功すると言うことと強く結びついているが、成功そのものが目的ではないように思える。すなわち、成功することは自己を高めるための“手段”でしかないのだ。すなわち、成功と言う目的のさらに高い所に位置する。僕の場合、そのような自己を高めるための領域が、数学や理論物理(数理物理)なのである。

人間の生き方考え方は、大きく二種類に分かれるのではないだろうか。即物的な生き方と徹底的に思考して生きる生き方に。僕は物事を徹底的に考えて生きて行きたいと思っている。その極致が数学と物理にあると考えている。とは言え、そんな難しいことを言わなくても、単純に面白いからやっているだけとも言えるのだが。人間の眼には三次元の空間しか見えない。それに時間一次元を加えた四次元時空しか感じることしかできない。そこまでなら非常に即物的である。しかし数学者は、5次元や6次元、さらには無限次元まで自由に操ってしまう。そこに人間の本質があると僕は考えている。4次元までしか見えない人と、5次元以上の次元を操れる人。そこに徹底的に思考を行えるという人間の人間らしさが表れている。

最後に。無限の世界、無限次元は非常に面白いぞ!無限に興味を持ったら数学をやればいい。