思想、生き方、考え方」カテゴリーアーカイブ

なぜ努力すべきなのか?

なぜ努力すべきなのか?その答えに回答できる権利があるほど僕は努力をしていない。努力をしようと思っても、なかなか努力が続かない。しかし努力しようという気持ちは常に持ち続けているし、自分のできる限りの努力はしているつもりだ。

努力したからと言って、必ず成功するとは限らない。努力が報われるとは限らない。しかしそれは努力をしないことの理由にはならない。どうしても努力をしたくない人、常に楽して生きようと考えている人に対して努力を強制しようとは思わない。まあ、そういう生き方もあるのだなと思っている。

しかし僕は努力をしたいのだ。非常に努力をしたいのだ。しかし努力をしたくてもできない時がしばしばある。そういう時には非常に悔しいし、ふがいない自分が情けない。

もちろん努力する理由は、自分の目標としていることを達成するため、そして自分が目標としている人間になるためである。

繰り返し言うが、努力したからと言って必ず成功するとは限らない。しかしその逆、つまり成功した人は絶対に努力した人だと思っている。もちろん例外もいるだろうが、そんな努力をしないで成功した人のような例外を見て、どうこうしようとは思わない。

努力というものは苦しいものと思っている人が多いかもしれない。確かにほぼ例外なく苦しい。しかし努力は苦しいだけではない。努力にやりがいを感じたり、達成感を感じたり、喜びを感じたりすることもしばしばあるのだ。だから努力にはまればやめられないのである。

しかし何の分野にしてもプロとしてやっていくためには結果を出さなければいけない。プロの世界は結果が100%なのだ。結果を出した人に対して努力が評価される。結果を出していない人の努力など、プロの世界では何の評価もされないのだ。

しかし努力をする価値は非常に大きい。一人でも多くの人たちに努力の快感を味わってほしい。努力は絶対にするに値するものだ。

危ない、宗教に対する盲目

フィリピンで行われたキリスト教カトリック教徒の祭りで、大量に信者が押し寄せ、死者が出たという。そこまで信者が押し寄せた原因は、奇跡を起こすと信じられている黒いキリスト像が原因らしい。おそらく想像するには、黒いキリスト像に奇跡を求めて、信者が盲目状態になったものと考えられる。

宗教はしばしば人間を盲目にさせる。普段は論理的に考える人間でも、いったん盲目になると理性を失う。過去には盲目になった信者が起こした社会問題が無数に存在する。

近代日本で一番問題になった宗教問題は間違いなくオウム真理教事件であろう。オウムの幹部信者の中には、東大理系卒の学歴エリートが何人もいたという。もちろん東大卒の人間が全て理性的に物事を判断できる人間ばかりではない。しかしそのような、まともで高度な教育を受けてきたエリートが、何人も麻原のとりこになり、盲目に殺人行為に手を染めていった。このことに対して、これはオウムが特殊だったという人がいるかもしれないが、このことはオウムに限らずあらゆる宗教でみられる現象だ。現在まっとうな宗教と見られているキリスト教でさえ、昔は魔女裁判などで虐殺を行い、科学的主張をした科学者ガリレオ・ガリレイは宗教裁判にかけられた。

宗教に対して一番大切なのは、宗教に対する距離の置き方だ。宗教に対して全てをゆだねると、考えることを放棄してしまう。これはプチ・オウム状態とも言える。しかし宗教は多くの人にとって生きていくうえで必要なものだ。宗教が心の支えになっている人も多いだろう。しかし宗教に対する距離感を間違えると、人生の破滅につながることも多々ある。

僕が言いたいのは宗教に対する批判ではない。問題は宗教を信じる人間の方にある。どんな時も相手に丸投げせずに、考えることを放棄せずに、常に自分の頭で考えることを心がけることが大事なのである。

サウジアラビアによるイラン大使館空爆。「目には目を」少し勘違いしてはいないか?

現在、サウジアラビアとイランの対立が激化している。6日夜、サウジアラビア軍はイエメンにあるイランの大使館を空爆した。この空爆は、イランのサウジアラビア大使館が焼き打ちにあったことによる報復だ。サウジアラビアはイラン大使館の空爆に対して、「目には目を」と主張しているらしい。この主張は完全に間違っているわけではないが、この言葉の意味を少し勘違いしているのではないかと思う。

もともと、「目には目を、歯には歯を」という言葉は、やられたらやり返すという積極的な報復の意味ではなく、目をやられたら相手の目を傷つける以上の刑をしてはいけないという自制の念という意味合いが強い。言わば戒めの言葉なのである。ところが現在は、この言葉の意味を積極的な報復の意味としてとらえている人が多い。

日本の裁判では、一人の人間を殺した犯罪者に死刑を言い渡されることはほとんどない。ほとんどの場合は犯した罪よりも軽い量刑を言い渡される。そのような判決に不満を持つ国民は多いと思うが、このような量刑も本来の「目には目を」の原則に則ったものではないかと思う。

時の権力者は、犯罪者に対して犯した犯罪の大きさを大きく超える刑罰を与えてきた事例が非常に多い。目には目をは、そのような権力者に対しての戒めでもある。犯罪者の犯罪を大きく超える刑罰を与えることは感情的であり、思想の後進性を明白に示すものである。目には目をという言葉と対照的な言葉に「右の頬を打たれたら、左の頬を出しなさい」というものがある。この言葉に対しての是非は僕自身は何とも言えないが、思想の豊かさを発展させていくにはこのような言葉の意味を受け入れることが必要なのかもしれない。

「役に立つかどうか」ということ以外の物差しを持つことの大切さ

物事が重要であるかどうかを判断するとき、多くの場合「役に立つかどうか」という物差しで判断されることがほとんどだ。しかし、「役に立つか」ということと「重要か」ということは同じではない。

20世紀初め、科学の世界で最も重要だと言われる理論が出された。「相対性理論」と「量子力学」だ。しかしこの二つの理論の科学的重要性は言うまでもなく大きいが、その一方全く役に立たないものであった。一般相対性理論などは理論から出る結論は従来のニュートンの重力理論とほとんど変わらず(しかし後にはブラックホールの存在など独自の結果を出していったが)「大山鳴動鼠一匹型の理論」とバカにする人もいたようだ。もちろん後談として、20世紀終わりには両理論とも社会に役立つ技術となり、特に量子力学に関しては社会の根幹に位置すると言っても過言ではないくらいである。しかし後に役に立ったからという理由から重要であると判断するのではなく、理論の科学的価値を判断して重要性を判断できるようにならなければいけない。

去年ノーベル賞を取られた物理学の梶田隆章さん、梶田さんの研究は「ニュートリノ振動の存在を確認することによって、ニュートリノに質量があることを示した」というものだ。この研究などは100年後にも社会に全く役に立たないに違いない。しかし非常に重要な結果である。その理由は二つある。一つは梶田さんの結果が従来の理論(素粒子標準模型)に反する結果であり、従来の理論を超える理論の存在を示唆するものであるということ、もう一つは素粒子物理学という分野が全ての科学理論の一番根本的な所に位置することである。

純粋科学というものは純文学に似ているのかもしれない。どちらも役に立つとは限らない(もちろん役に立つ科学もたくさんある)。しかしそれらの価値は役に立つかどうかというところから超えたところにある。そのような価値の重要性を見極めるためには真理を見極める目、そして感受性が必要だ。そのような真理を見極めるためには「役に立つか」ということ以外の物差しが必要なのである。

 

君が代を起立斉唱しなかった公立教員に対する処分に関する問題

21日、大阪府の公立学校教員が卒業式で国歌を起立斉唱しなかったことに対して処分が下った問題で、教員の訴えが棄却され、処分が正式に認められた。このことには賛否両論、様々な意見があるであろう。日本人として簡単に下せる判断ではない。なのでこれは僕個人の独断であることをはじめに言っておくことにする。

この問題は、日本国民としての国家への忠誠と思想・行動の自由、このどちらを重視するかによって判断が分かれる。初めに僕の意見を言うと、今回の処分は適正であったと思う。確かに思想・行動の自由は非常に重要であり、社会に害を与えるような過激思想でもない限りこの自由は認められる。

しかし今回の教員の問題は二つの点を考慮する必要がある。一つは子供を教育する「学校」であること。そしてその学校が「公立」であること。この二つに当てはまらなければ今回の処分は完全になかったであろう。しかし日本の教育機関(養護学校なので、義務教育かどうかは定かではないが)として、日本の国の何たるかを伝える必要がある。国歌は国の象徴でもあるわけで、その象徴を否定すれば日本の教育自体が正常に伝わらない。今回訴えを起こした教員はキリスト教信者であるから国家起立斉唱しなかったと言うが、日本は宗教の自由を認めている。もちろん日本国民がキリスト教を信心することに何の問題もない。国民がキリスト教を信心するかどうかということは、日本国の在り方に何の関係もない。全く別問題なのである。この教員はフランスにでも行けば、フランス国家を起立斉唱するとでもいうのであろうか。

それから「公立」であることだが、公立である以上、国家の(地域の)一機関である。公立教員は国家の(地域の)「運営」に関わる一員なのである。その国家の(地域の)運営者が自国を否定するようなことをすれば、運営側として全く統制が取れなくなる。ましてや子供を教育する機関であり、国家の根幹である「教育」を崩壊させるようなことにもなりかねない。

この教員が国家起立斉唱を絶対にしたくなければ、私立の、いや私立でも日本の教育機関である限り適切ではないので、インターナショナルスクールの教員にでもなるべきである。インターナショナルスクールで日本の国家を起立斉唱させられる可能性は低いであろう。

理想主義は大切だ

理想を掲げることに、現実的ではないと言う人は多い。確かに現実を直視して、現実に沿ったことを実行することは非常に大切だ。しかしそれと理想を掲げることはまた別の話だ。理想を掲げる事、それは100%を目指すことだ。確かに100%は無理な話かもしれない。しかし初めから80%を目指していれば、たいてい60%も達成できない。100%を目指して1%ずつ上乗せしていく姿勢が大切なのではないか。

平和主義の象徴、憲法第九条は理想主義の典型である。しかし世界の現状を考えると集団的自衛権の問題など憲法第九条の趣旨からそれることをしていかなければならないかもしれない。しかしそれは憲法第九条を無くすことを容認するものではない。憲法第九条は日本が世界へ発する平和の象徴であって、理念である。軍事行動は一地域の紛争しか変えれないが、憲法第九条の思想は世界を変えることができる。集団的自衛権も大事である。憲法第九条も大事である。どちらを取ってどちらを捨てなければならないというものではない。この二つは日本の平和への貢献の両輪なのである。

そういえば、下町ロケット最終回で、小泉孝太郎演ずる悪役・椎名社長がこんな事を言っていた。「60%を助けるために40%を犠牲にすることも必要だ」しかし初めから60%を助けて40%を犠牲にするというような思想では絶対に60%は助けられない。理想である100%、所詮理想と吐き捨てる人がいるかもしれないが、その100%を目指す理想が大切なのである。それでやっと60%を助けられるかもしれない。

理想主義をバカにするやつに理想はかなえられない。理想を目指す姿の中に、向上への道筋があるのである。

覚悟とプライドのない奴に未来はない

20日、TBSドラマ「下町ロケット」の最終回があった。佃航平(阿部寛)と椎名直之(小泉幸太郎)の白熱した演技、財前道生(吉川晃司)の覚悟を決めた決断は非常にしっかり描かれており、非常に面白いドラマであった。ドラマではいろいろな背景が描かれていたが、その中でも佃航平と財前部長の覚悟とプライドにはドラマとは言え非常に感銘を受けた。

ドラマ中にも出てきた「技術者としてのプライド」、本気で仕事に取り組んでいる人間、何かに人生をかけている人間にとっては非常に感銘を受けてのではないかと思う。プライドは人間を高めるものには必須なものだ。とはいえ、覚悟のないプライドなんかはいらない。「覚悟」のあるプライドが本当に重要なのだ。

プライドは何も仕事に関してだけではない。「人間としてのプライド」、これは全ての人間が持つべきだと思う。人間としてのプライドのない奴に未来はない。苦しい時にはプライドを捨ててでもという時もあるであろう。生きるためには時にはプライドを捨てなければならない時もあるかもしれない。しかし楽をするためにプライドを捨てるようなことがあってはならない。

また難しいことには、プライドに凝り固まってもいけない。とあるシンガーソングライターの歌に「握りこぶしの中にしまっておいた勇気と、わずかなプライド」というものがある。それを持ってこそ、人間として輝いていけるのだ。

僕も非常にプライドの高い人間だ。早くそのプライドに見合うだけの人間にならなければと常々思っている。

 

「論語」読み始め

最近、孔子の論語を読み始めた。論語入門者である。これまでニーチェ、ショーペンハウアーなどのドイツ哲学、西田幾多郎などの京都学派などに興味を持って触れていたが、中国哲学の金字塔「論語」にも触れ始めた。

論語の原著は1巻から10巻まであり(岩波文庫版では全て一冊にまとまっている)、僕が読んでいるのは岩波文庫版で、原文(漢文)・書き下し文・日本語訳の三つがまとまって書かれている。初めは原文に何とか目を通して、書き下し文で感じをつかんで、日本語訳で内容を知るという感じだ。

入門者が言うのもなんだが、論語の凄いところは、解釈の自由度が非常に高いところだ。であるから日本語訳だけ読んでも論語の真意は全く伝わらない。原文(漢文)を苦労して解釈してこそ意義のある書物なのである。

大学入試の国語では漢文が出題される。センター試験の国語では漢文の配点は200点満点中50点だ。しかし大学受験生当時、好きな数学・物理ばかりに没頭し、漢文対策など全くしなかった僕の漢文の成績はご想像の通りだ。ですから、今論語の原文を読んでいると言っても完全な我流であり、非常に苦労している。大学受験生時代、漢文を勉強しなかったことを非常に後悔している。

しかしこんな漢文初心者でも、論語を読み進めるにつれ、平易な日常生活を描く中に深い本質を織り込んでいる論語という書物は、ヨーロッパ哲学にもギリシャ哲学にもない独自の世界観・学問が切り開かれていることが感じ取られる。

もちろん、論語の真意など、まだ読み始めた僕のような初心者にはわからないかもしれない。論語というものが偉大なものであるという一般的評価を信じて入り込むしかない。論語の中に深い真意があると信じて自分流の解釈を導き出す。この繰り返しで中国哲学の何たるかが1%ほどはわかったかもしれない。残りの99%を導き出すためには何度も読み込み、自分の頭の中に解釈に解釈を重ね、自分流の論語を作り出さなければいけない。

論語の真意は書物に書かれているのではなく、読む人間の頭に構築されると僕は信じている。

システム化された現在のF1レースをめぐって。強者メルセデスAMGと野村ID野球

とある記事で、今年のF1レースがつまらないという論を読んだ。その理由はこうだ。現在のF1はチーム外の情報解析戦略者が数人いて、その人たちが情報を瞬時に解析し、衛星回線を通じてチームに指令を出し、チームはそれを実行するのみだというのが面白くないというものだ。現在のF1にドライバーの判断権利はほとんどないらしい。そのような情報至上主義なレースがどうやら不評なようだ。ファンはドライバーの人間ドラマが見たいらしい。

思えば昔、プロ野球でも同じような革命が起こった。ヤクルト野村克也監督のID野球だ。その当時、情報至上主義の野村ID野球を批判する人は多かったように思える。その理由は今回のF1と同じものだ。「人間ドラマが見たい」

当時、野村監督と古田敦也捕手が中心になってID野球を実行するヤクルトは非常に強かった。ID野球への批判はその強さに対するひがみもあったのかもしれない。強すぎるものは、すなわち出る杭は日本ではいつの時代でも打たれる。しかしその批判こそ野村ID野球の素晴らしさを物語っているのではないか。

プロ野球もF1も、プロ中のプロたちが戦う場だ。負ければ容赦なく切り捨てられる。ルール内でいかに効率的な勝ち方をするのか、競技が洗練されてくれば自然とたどり着くところではないか。ましてやF1には桁違いのお金がかかっている。レースの結果は本業の車作り・販売に直接影響が出る。遊びの要素など一つもない。

現在、プロ野球でID野球という言葉はなくなった。しかしそれはID野球が無くなったのではなくて、ID野球が常識になったのであえてその言葉を口にする人がいなくなっただけである。しかし現在のプロ野球も非常に面白いものである。いかに情報を上手く利用するか、そのような面白味も出てきた。

F1も今はID野球が通ってきたような過渡期なのだろう。数年すれば、情報戦略ドラマを見るような面白味を見出すファンも増えるに違いない。

IS(イスラム国)が3500人以上を処刑。命っていったい何だ

ISで昨年の6月から1年ほどで3500人以上の人が処刑されたという記事を見た。彼らにとって命とはいったい何なんだろうか。

人の命は世界中のどこでも、いつの時代でも同じだ。そう思っている人は僕も含めて多いはずだ。しかし現実は違うようだ。IS支配地域では人の命は虫けらのように扱われている。そして北朝鮮でもそのようなことがされている話はよく聞かれる。そして我々も無意識のうちに人の命を差別化しているのかもしれない。アラブでのテロは一言で済ますのに対して、パリでのテロは何週間にわたって話題になる。

そして場所だけでなく、時代によっても命の重さは変わる。日本においても太平洋戦争中に特攻隊が結成され、自爆攻撃がされた話は有名だ。その時代、日本人は自国民の命を虫けらのように思っていたのかもしれない。

学校では「命は尊いものだ」と教えられる。しかし、なぜ命は尊いか、それを説明できる教師は少ないだろう。これは簡単に一言で説明できる話ではない。学校で生徒の自殺が起きた時、教師は「命は尊いから大切にしなければならない」と発言する。しかし僕にはそれが呪文、あるいは教師の免罪符にしか聞こえない。命の尊さは、何年・何十年とかけて認識していき、人間は成長していくのである。それを教師が一言で説明できると思うのは勘違いも甚だしい。

ISの話に戻るが、ISは殺りくを繰り返している。その現実は必ず断たねばならない。しかしその主な手段は現時点では空爆となっている。その空爆で欧米は無数のイスラム住民を殺りくしている。もちろんISの首謀者を攻撃しているという言い分はわからなくもない。しかしこの空爆という大量殺りくはどうかならないものかと多くの人は悩んでいるはずだ。空爆は善なのか、悪なのか、それとも必要悪なのか、答えは簡単に出せそうにない。