思想、生き方、考え方」カテゴリーアーカイブ

自分の頭の中身と考え方。

「今までできなかったから、次もできない」と考えるか、それとも「今までできなかったけど、次はできる」と考えるか。どちらのように考えるかで自分の将来は大きく変わる。

次もできないと考えると、次へのアクションを起こせなくなる。アクションを起こさなければ、できる可能戦はゼロである。次はできると考えてアクションを起こせば、できる可能性は100%でなくてもゼロでは決してない。さらに成功への展望がはっきりとしていれば、可能性はぐっと上がる。

人間の頭の中身は他人には見えない。しかし自分では頭の中身が見えることは多々ある。自分の頭の中身が見えていれば、次への道筋がおのずと見えてくる。従って自分の可能性は自分が一番把握しているはずだ。可能性の判断を、決して他人任せにしてはいけない。

頭脳ゲーム。

先日の五輪カーリングの試合を観ていて、カーリングとは非常に頭脳を使うゲームであると知った。ストーンをどこに置きに行くかを読むことはもちろんだが、コーチは三投先まで読んでいるらしい。カーリングは頭脳スポーツであると言えよう。

頭脳ゲームと言って真っ先に思いつくのは、将棋であろう。先ほどのカーリングと同じで、次の手を読む「短期的展望」、そして試合全般を読む「長期的展望」が必要になる。この二つの展望は、人生についても同じである。“今どう生きるか”という短期的展望と、“どのような人生を歩むか”という長期的展望だ。人生と将棋とのこのような類似点は、人生が将棋と同じ頭脳ゲームであることを示唆しているのかもしれない。

頭脳ゲームと言って絶対に外せないのが数学である。数学は言うまでもなく学問であり、ゲームとは離れたところにあるように思う人もいるかもしれない。もちろん、数学者の数学に対する姿勢も様々かもしれないが、数学をゲーム、あるいは遊びと捉えている数学者も少なくない。そして意外と数学をゲームや遊びと捉えている数学者の方が大きな実績を挙げている。とある偉大な数学者は、数学に対して「この遊びはやめられない」と述べている。

身の周りには頭脳ゲームがあふれている。一時のお遊びのようなものもあれば、人生を懸けるに値する頭脳ゲームもある。人生を共に歩む頭脳ゲームを持つことは、あらゆる側面で人生に刺激を与えてくれるに違いない。

強い人間ほど、己の無力を認められる。

多くの人はなかなか自分の無力を素直に認めようとはしない。そしてその中の一部は虚勢を張ろうとする。自分が弱いからこそ、その弱さを隠そうと虚勢を張るのだ。

逆に強い人間は己の無力を素直に認められる。なぜなら自分の強さに裏打ちされた自信があるから、虚勢を張る必要がないからだ。そして強いからこそバカにもなれる。

自分の強みと弱みを自身で把握しておくことは重要だ。しかし弱みは決して直さなければいけないものではない。弱みを直すのではなく、それを強みに変えるのだ。強みに変えることは直すことよりも圧倒的に威力を発揮する。さらに強みをより強くすることができれば盤石だ。

己の無力を認められない時は、自分が弱くなっている証拠だ。いかに弱みをさらけ出してバカになれるか、それができれば自身はより強くなれる。

ポジティブ!ポジティブ!

はっきり言って、ネガティブに考えていいことは何もない。逆にポジティブに考えて悪いことは何もない。ならば何でもポジティブに考えればいいはずだが、ポジティブになれないこともよくある。

笑っていていいことはたくさんある。笑っていれば切り抜けられることもたくさんある。逆に暗い顔をしていては良いことは起こらない。ならば常に笑っていればいいが、笑顔になれない時もたくさんある。

僕は人よりも何倍も笑っていると感じている。笑っていることは多いが、人以上に悩んでしまうこともよくある。無駄な悩みほど悪いことはない。時には悩むことも必要だが、悩んで気を減らしていてはどうにもならない。

最近、悩んで苦しくなりそうな時は「ポジティブ!ポジティブ!」と口ずさむことにした。「何とかなるさ」と思うことにした。この二つの言葉は非常にいい言葉だ。そのような言葉を日ごろから口ずさむことによって、現実も良い方向に進み、気分も無意識的に明るくなるものかもしれない。楽観的になることは生きる上で非常に重要である。

哲学的原点。

最近は哲学書には全然触れていなかったが、思うところがあって本棚にある西田幾多郎の哲学書を手にとって眺めていた。僕にとって哲学とは人間の学であって、理想を貫く生き方をするためには哲学は欠かせないものだ。

哲学と自然科学との関係については、哲学者、科学者双方に対して融和的な印象は受けない。科学者は哲学者を見下し、哲学者は科学者を支配下に置きたがる。とは言え、僕自身は哲学と科学はそもそも守備範囲が異なるのではないかと感じている。哲学と科学を同じ土俵で闘わせるのには無理がある。

だからと言って、科学者は哲学を無視すればいいのかと言えばそうではなく、科学者にも哲学的素養は非常に重要である。また逆に、哲学者も自然界の真理として科学を熟知することは必要である。

僕にとって、非常に重要な哲学的命題が一つある。それは「いかにして生きるべきか」と言うことだ。哲学的に論じるからには、体系的に解決策を築いていかなければならない。

物理学的命題は解決するときはあるだろうが、哲学的命題は人生が終わるまで追い続けるのかもしれない。

結果が分かっていることに取り組むのではなく、可能性に懸けて取り組む。

確実に結果が出ることに取り組むのではなく、可能性に懸けて取り組むからこそ大きな飛躍が生まれる。確実に結果が出ることに対しては、改めて取り組む重要性は少ない。真に革新的な結果は可能性から生まれるのである。

もちろん安定性という視点から言えば、確実に出ることが分かっていることの方が堅いし無難である。もちろんそれも一つの生き方であろう。もしかしたらほとんどの人はそちらの方を選ぶかもしれない。

可能性に懸けるということは、ある意味ハイリスクかもしれない。そしてハイリスクだからと言ってハイリターンだとは限らない。割に合うか合わないかといえば割に合わないかもしれない。

しかし可能性に懸けて出した結果に対して、無難に過ごしてきた人間が口をはさむ資格はない。可能性に懸けた人物の境遇は、可能性に懸けた人物にしかわからないからだ。

可能性に懸けるか?確実に出ることに取り組み無難に生きるか?それはそれぞれの人生観によるのだろうが、可能性に懸ける方を取る生き方をする人間も世の中には少なからず必要であろう。

周りの目を気にするな!

周りの目を気にしすぎては、自分が本当に打ち込むべきものに真剣に打ち込めない。周りの目は周りの目、自分の目は自分の目としっかり区別することが必要だ。周りの目を全く気にするなとは言わないが、過度に周りの目を気にしすぎると没個性的になってしまう。

人生とは自己表現である。だからこそ自己の意思決定が非常に重要になる。重要な意思決定を他人に任せてはいけない。自分の人生は自分でコントロールしないといけない。

周りの目ではなく、自分の目を徹底的に信じ抜くこと、その先に生きるべき人生が展開するものだと信じている。

好きなことを貫くって、すごく苦しい。

好きなことを貫くっていうことは、決してイコール楽なことではないし、いつもイコール楽しいことであるわけでもない。何に取り組んでいる時も必ず苦しい時はあるが、好きなことに取り組んでいて感じる苦しみは尋常ではない。

好きなことに取り組んでいる限り、言い訳はできないし、逃げることもできない。もちろん言い訳をするつもりはないし、逃げるつもりもないのだが。

好きなことができるということは、非常にやりがいのあることであるし、充実感も半端ない。ただ結果が出るまではそれと比較にならないくらい苦しい。ただ逃げるつもりはさらさらない。なぜなら結果を出す自信はあるし、時間はかかるけど、その先にある成功を想像した時、その興奮からの高揚感はたまらないものがある。

なぜこうなってしまったかは偶然と、時には必然の積み重ねであるが、後悔などは全くしていないし、人生に感謝している。

夢とは?希望とは?

夢とは将来の自分であり、また達成すべき目標である。希望とはそれが達成できる可能性である。夢と希望は人生の原動力であり、どちらが欠けても空虚なものになってしまう。

現代人はどれだけ夢と希望を持っているだろうか?街にはたくさんの人間が行き交っているが、どれだけの夢と希望が溢れているだろうか?

お金は非常に大事である。しかし間違ってはならないのは、お金は夢ではなく手段である。お金があることによって自由度が増え、できる事が増える。もちろんビジネスにおいてはお金は最も重要な要素である。どれだけ稼ぐかは重要な目標である。しかしお金自体は紙切れに過ぎず、あるいは単なる数字に過ぎないので、それをどう活用するかがセンスの問われるところである。

「一円を笑う者は、一円に泣く」とよく言うが、「夢をバカにする者は、人生に泣く」と言えるだろう。なぜこんなことを言うのか?それは夢をバカにする者が一定数いるからだ。

何も動かずにただ待っているだけの「夢見る乙女状態」にはなってはいけない。夢に向かって強引にも着実に前に進むブルドーザーにならなければならない。

自信家であり続けるということ。

自信はある程度過剰なくらいがちょうどいい。さらに自信に根拠があればなおさらいい。しかし、根拠のない自信というのも時には必要なのかもしれない。

根拠のある自信を持つためには、まず展望と構想をじっくり練る必要がある。日本人お得意のハードワークだけでは建設的な進歩はなかなかできない。ビジョンとハードワークは建設の両輪なのである。ビジョンを持ち、ハードワークをこなすことによって自信は深まっていく。

そしてそれらの自信を継続的に持ち続けなければならない。持続的な自信を持ち、その自信を原動力にすることによって、一歩一歩成功へと近づいていく。

中身がない自信は妄想に過ぎない。具体論が伴ってこそ、意味のある自信になる。そのような中身のある自信を持ち、自信家であり続けることは簡単ではないが、“考える”という行為を常に心がければ不可能ではないはずだ。

良かった過去も、苦しかった過去も、自分の人生の一部。

「あんなことがなかったら、今頃は」という話をたまに聞く。確かに苦しいことがなかったら今頃はもっと楽な生活ができているのかもしれない。しかし「もしあの時」などと考えていたらきりがないし、人生は良いことばかりなんてことはありえない。

僕は、良かった過去も、苦しかった過去も、それらのことがあっての現在の自分であり、それらは大切な自分の人生の一部であると考えている。もちろんこれからの人生は良いことが多いことを願うが、これからも苦しいことが現れることもあろうと覚悟はしている。

苦しい過去も、乗り越えた後になってはそれも財産である。ものは考えようで、苦しい過去をネガティブにとらえるか、乗り越えた事実をポジティブにとらえるか、考えようによって未来の人生の状況は大きく違ってくるように思える。

問題を広げるか?絞るか?

問題に取り組んでいて壁にぶつかった時に、取るべき方向性は二つある。一つは条件を一般化して広げること。もう一つは条件をさらに課して絞ること。

問題を広げることによるメリットは、より大きな結果を出せること。より普遍な結果を出せること。逆にデメリットは、解決が圧倒的に困難になることである。

問題を絞ることによるメリットは、解決が容易になる可能性が高まること。逆にデメリットは、小さな結果しか出せない可能性が高まること。

フィールズ賞数学者の広中平祐氏はとある研究会で、条件を絞ることを提唱した数学者に対して、逆に一般化して広げるべきだと主張したという。並の数学者にとっては対象を絞って解決を図るべきなのかもしれない。一般化して広げるという困難に立ち向かえるのは、ずば抜けた才能を持ち合わせた広中氏だからこそできる技なのかもしれない。

問題を広げるにしても絞るにしても、それぞれ一長一短で非常に悩むところであるが、今社会で一番欠けているのは、ハイリスク・ハイリターンを取り、困難をものともせずに立ち向かう挑戦者ではないだろうか。

横一線ではいけない!

平等とは言い換えると、横一線ということである。最近は何でも横一線にしようという力が働く。しかし人間にはそれぞれ個性があり、多様性があるからには、横一線に並べるということは平等にしているようであって平等ではない。

「機会は平等に与えるが結果は平等ではない」ということは以前から言われているが、機会、すなわちチャンスの与え方もそれぞれに合った最適な形で与えるべきである。悪しき平等意識が逆にそれぞれの人の芽を摘んでしまうことになりかねない。

特に日本においては、長く続いた総中流社会のせいか、横一線意識が強い。その一方、多様化に対する対応は大きく後れを取っている。みんなと同じことをしないと不安になる人も多いだろう。しかし今必要なのは、みんなと違うことをしようという意識を持つこと、そして社会が脱横一線の意識を持つことである。

物は同一商品大量生産型から、小生産多品種型へと変わってきた。これは何も物だけではない。人間も皆同じではなく、それぞれが他とは違う独自性、オリジナリティを発揮することが、現代社会を生き抜いていくのには必須である。

個性は内面から出すべきだ。

多様化した現代では、画一性よりも個性が重要視されつつある。ただ個性と言っても様々あり、だからこそどのような側面から個性を出すのかは工夫のしどころである。

個性を大きく二つに分けると、外見の個性と内面の個性に分けられる。外見とは身だしなみや服装、身体の外見である。内面は性格、思想、生き方である。

では外見と内面のどちらから個性を出すべきか?僕は外見にも気を遣いつつ、内面からアピールすべきだと思う。外見は他人に大きく印象付けられる。だから個性というよりどう印象付けるかということを意識すべきだ。

例えば大人の基本的な服装であるスーツは、きっちりと着こなせば好印象を与えることができるが、スーツのディティールにはかなり制約があり、奇抜な個性とは対照的な位置にある。その制約下でいかに整えるか、そこがスーツの深くて面白いところでもある。

外見を整えれば、後は内面の独自性を思いっきり出していこう。当たり前の話であるが、内面はその人の人間そのものである。だから個性は内面から出さなければならない。

とは言え、内面は意外と外面にも表れるものである。仕草一つとっても内面がそのまま外面に表れている。

内面の個性と内面から醸し出される外見。その二つを主張できれば社会の中で“人間”としての存在感を主張でき、一目置かれる存在になるだろう。

“ナンバー1”という名のオンリー1。

「ナンバー1でなくてもオンリー1でいい」ということを歌った歌があるように、最近はオンリー1を目指す人は多い。もちろん周りと同じことをして埋もれるよりかは自分だけのオンリー1を持った方が断然良い。オンリー1になることは非常に大事なことである。しかし、オンリー1が注目を浴びる中、ナンバー1の価値が見過ごされているように感じる。

オンリー1はナンバー1ではないが、ナンバー1はオンリー1でもある。ナンバー1を目指してオンリー1になるということが現在の社会に欠けているのではないだろうか。

オンリー1を突き詰めれば、それはナンバー1にもつながってくる。ナンバー1を目指すということは、人と同じことをして競争することではない。手段は自分独自のものでなければならない。

ナンバー1なんてなれないと初めからあきらめる人も多いが、「我こそは絶対にナンバー1になるぞ!」と名乗りをあげるような頼もしい人がどんどん出て来てほしいものである。

歴史から何を学ぶ?

よく「歴史から学ぶ」という言葉が使われる。歴史を学ぶ理由はいろいろあると思うが、過去の歴史を教訓として現在の状況を考えるというのも一つの理由であろう。とは言え、過去の歴史がそのまま現代に当てはめられるわけではない。

織田信長は現代においても注目の人物であるが、彼はご存じのとおり何万という人間を殺りくしてきた。だからと言って彼を殺人者呼ばわりする人は少ない。それは過去と現代、あるいは歴史と現実を区別して物事を考えているからだろう。

歴史をそのまま捉えるのではなく、現代にマッチするように解釈をアレンジすることが大事だ。歴史からどれだけの事を学べるか?それには深い考察と時代解釈が要求される。

バカな生き方が面白い!

多くの人は、賢い生き方をしたいと思っているのかもしれない。しかし僕は賢い生き方などはしたくないと思っている。常にバカでいられるか?バカを突き通せるか?そんなことを思っている。

賢い生き方は無難かもしれないが、バカな生き方の方が断然面白い。賢い生き方は「賢いね」で終わるが、バカな生き方は笑いが取れる。笑いを取ることにどれだけ意味があるかはわからないが、僕はそっちの方に生きがいと面白さを感じる。

人間らしいバカでいられるかどうか?自分が人間である以上は、そんなことを考えバカな生き方を貫いていきたい。

苦しんでいる人が偉いわけではないけれど。

好きなことを貫いて実行するということは、楽しいことであり、その一方非常に根気のいる苦しいことでもある。好きなことをやっている限り決して言い訳できないし、逃げる道もない。全責任は自分にある。

苦しんでいる人が偉いわけでは決してないが、苦しい状況にいる自分に対して何か解釈を見つけようとしてしまう。本当は楽しく思い切ってぶち当たりたいが、実際は苦しく思い切ってぶち当たるというところだ。

問題は、楽しいか、苦しいか、ということではなく、取り組んでいることの中身とそれに対するアウトプットだ。

苦しければやめてしまえばいい。他人にはそう言える。苦しまずに楽しく生きれば一番いい。しかし苦しさの中にも何か生きがいを見出すことがある。他人から押し付けられる苦しさは避けたいが、自分から進んで飛び込んだ中にある苦しさはドンとこい!

とは言え、やはり限界があるので、早く次のステージに進まなければならない。

人間は考える葦である。

「人間は考える葦である」とはパスカルの有名な言葉であるが、広大な宇宙の中の小さな人間の存在を考えるとき、全くその通りで上手く言い表しているなと感じる。

現代の物理学では、マクロに宇宙を見通し、ミクロに原子よりはるかに小さいスケールを見通している。「見る」と言えば望遠鏡で宇宙のかなたを観測することを想像するかもしれない。あるいは顕微鏡で小さな世界を覗くことを想像するかもしれない。

しかし「見る」とは何も目で観測することだけを意味するのではない。理論的に理解することも、それらの世界を見ていることになる。その際に望遠鏡や顕微鏡に相当するのが数式である。数式は世界を理解する道具としては万能である。人間は宇宙の大きさに比べれば米粒より何十桁も小さな存在であるが、机上の計算によって宇宙を包み込んである。

人間は宇宙スケールの物理を理解し、ミクロの世界の物理も理解しているが、それらの二つのスケールの物理の融合(量子重力理論)はまだ成し遂げられてはいない。

人間の理解には限界はあるのか?それとも宇宙の全てを理解してしまうのか?人間が手にした道具(数式)の威力は非常に強力であり、少なくとも理論的には理解できる可能性を大きく秘めていると感じる。

セルフコントロール。

自分をコントロールするのは半分は自分であるが、半分は周りの環境である。自分の人生を自分の目標とするところへ導くためには、できる限り自分で自分をコントロールしなければならない。

自分の人生を特徴づけるもの、言い方を変えると“個性”と言えるかもしれないが、それらを彩るためには自己思想を構築しなければならない。そのためには外的要因を可能な限りなくすことが重要である。

自分で自分を完全に操るということは、意外に難しいものである。しかしセルフコントロールを完全に実行するということは、自分の人生をものにするということを意味する。

周りに影響され長い物に巻かれるか?それとも自分を完全にコントロールし周りを巻くか?そのどちらを選ぶかはそれぞれのスタンスにもよるが、生産的な人生を構築するためにはどちらを取るべきか?それは言うまでもない。

数値で示して、質を極める。

物事を極めるのには順序がある。まず量、すなわち数値で力量を示して、質を極めていく。とある高級車の歴史を見てそのようなことを感じた。

数値で力量の高さを示すとは、車で言えば最高速度、馬力、あるいは静粛性であろう。それらの事は、技術を高めていくことによって達成は可能である。

しかし技術を高めて数値で示すだけでは熟成はされない。数値を高めた後、次の段階は“質を高める”ことである。車で言うと、質感を高めることにあたる。しかし、この質感というものは物差しで測れるものでなく、客観的評価が難しい。感じる人によって千差万別であるが、質感のレベルというものが存在することはほとんどの人が理解できる。

質の高さは一朝一夕で出来上がるのもではない。時間もかかるし労力もかかる。そしてどこを目指しているかによっても大きく変わる。車を例にとって簡単に述べたが、このような過程は人間にも当てはまる。

自分が何を目指し、どう取り組んでいくか。最高を目指して極めるのなら、数値を高めるだけではなく、質を追求するところまで求められる。

極めること。

物事を見通すうえで、何かを極めることは非常に強力な武器になる。10くらいの事を習得するより、一つの事を極めるという判断の方が賢明だ。

何かを極めるということは、軸足を作るということだ。そして一つの事を極めることによって、見える世界が大きく変わる。

一つの事を極めれば10の事を、二つの事を極めれば30くらいの事に応用が利く。一つの事を極め一つの軸足を作るだけでも非常に大変だが、二つの軸足を作れば進撃の安定感は桁違いに上がる。

僕自身も、数理物理の世界を極めるのは一番の目標だが、釣りを極めるという第二の目標もある。

一つの事を極め、周りの全てを達観することは、人生を意味づけするためにも非常に重要なことである。

絶対に求めてはならないもの、それは「100%の安全」だ!

100%の安全が保障されている状態というのは非常に理想的に思えるかもしれないが、実は100%の安全が保障されている状態というのは非常に危険な状態だ。

何が危険か?それは行動の自由度が全くなくなってしまうということだ。従って奴隷的状態に陥る。生きることはできるかもしれないが、自発的行動が全くとれなくなってしまう。

そして“リスク対効果”という観点からも、少しのリスクを取ることは多大なメリットをもたらす。社会においても、100%の安全を保障するプランは金額的にとんでもなく跳ね上がる。

ではそのような状態に陥らないためにはどうすればいいか?それは1%だけでもリスクを取ることだ。この1%のリスクが行動の自由度を圧倒的に広げてくれる。この少しのリスクは、“リスク対効果”が非常に高い。確かに大きなリスクを取る必要性はないが、少しのリスクを導入することは、ゆとりと自由度をもたらすことになる。

リスクを取る危険性を取るのか?リスクを取らない危険性を取るのか?それは個々の判断にゆだねられるが、100%の安全を求め奴隷的状態になることは絶対に避けなければならない。

人からは学ばない。

通常、社会では、人から学ぶということを要求される。人の成功、失敗から何かを学び、それを自分の糧とするのだろう。人から学ぶことの重要性は、100人いれば99人、いや100人ともが肯定することかもしれない。

しかし、自分自身で、自分の中からゼロから一を生み出さないといけないこともある。それは独創の境地と言えるのかもしれない。もちろん、他人から学んで一を生み出すという手もあるだろう。むしろその手の方が常套手段かもしれない。

しかし、他人から学ばないという手もある。何も学ばないのではない。人から学ばないだけだ。自分自身の内部の考察から実態を生み出す。そんな人間のあり様を教える人間を見たことないが、そんなあり様も僕はありだと思う。もちろん効率は悪い。しかしそんな人間が一人くらいいてもいいのではないだろうか。

自分の生き方と考え方を信じ失敗を繰り返すこと、それを貫いた先に何があるか?自分には見えているが、それを実現することは急務である。

問題を知る事、問題を見つけること。

世の中では問題を解くことばかりが意識されている。学校の定期試験や入試など、何かと問題を解く能力ばかりが注目される。もちろん問題を解く能力は非常に重要である。しかし「問題を見つける能力」はそれと同じか、それ以上重要である。

問題を解く行為は、問題を見つけ、問題を知ることから始まる。入試では問題は勝手に与えられるが、社会では問題は自分で見つけなければいけない。しかし学校においても、問題を見つける訓練は問題を解く訓練に比べ非常に軽視されているのが現状だ。

質の良い問題を見つけることが、大きな成果を挙げるための第一歩であることに気付かなければならない。

ブランディング戦略。

ブランドと言えばエルメスやルイ・ヴィトンのようなファッションブランドが真っ先に思いつくが、何もファッションブランドだけのものではない。トヨタのレクサスやソニーやパナソニックだって立派なブランドである。ではそもそもブランドとは何か?

ブランドとは信用でありイメージである。そしてそれらの特徴として、作り上げるには非常に長い時間と努力、そしてお金が必要だが、崩れ去るのは一瞬であるということである。そこにブランド構築の難しさがある。

ブランド化の大きなメリットは何か?それは大きな付加価値である。ブランド化することによって価値は何倍にもなる。全く同じ商品でもブランド物とそうでない物では値段が桁違いである。ではそこまでしてブランド料を払う価値はあるのか?それは価値があると思う者は払い、価値を感じない者は払わない。ただそれだけである。ただブランド料というものも、全く無意味ではない。ブランド料は信用料であり、満足料である。それで自分が満足できればそれで充分である。

ブランディング戦略は物だけでなく、人にも応用できる。自分をブランド化することによって自分の価値を高め、人付き合い、そして仕事において優位に進めることができる。

iPS細胞の山中伸弥教授が、“VW”、つまり「ヴィジョンandハードワーク」が重要だとよく言われている。ハードワークだけでは量は稼げても質は稼げない。質を稼ぐのに必要なのがヴィジョンだ。そしてヴィジョンを持って質を稼ぐことはブランディング戦略にも通じるものがある。

日本にブランドがなかなか生まれないのは、ハードワークは得意だがヴィジョンをなかなか意識できないというところに原因がある。日本という国が成熟した現在、次に進むにはヴィジョンを持って、人・物・国をブランド化することが必要ではないだろうか。

夜明け前が一番暗い?

「夜明け前が一番暗い」と、ある記事でそんな言葉を見つけた。本当にそうなのか?暗い闇はどんどん暗くなるばかり。とは言っても隙間から一途の光が差し込んではきている。その光に向かって進んでいるところだ。

一番危険なのが「いつまでも夜明け前症候群」。いつかは夜明けを迎えなければいけない。

最近はなぜか努力を否定する論調をしばしば見かけるが、本当にそれは正しいのだろうか?努力するもしないもそれぞれの勝手だ。だから努力をしない自由もある。ただ、努力をしないことを称賛する論調にやすやすと乗せられると、非常に危険であるように思える。夜明けを迎える決定打は、努力のように思えてならない。

副次的なものがあって、主が際立つ。

人生において様々なことに取り組むことになるが、全てのものが平等ではない。自分にとって重要な「主」なものがあり、そして「副次的」なものがある。主なものが非常に重要なことはわかるが、ただ主なものだけをやっていればいいわけではなくて、副次的なものにもしっかりした役割がある。

料理のメインディッシュの前には前菜が出てくる。もちろんメインディッシュが一番の目的なものであるだろうが、前菜があることによって美味しさは倍増する。それは人生でも同じだ。副次的なものがあって、主が際立つのである。

副で気を抜けば、主で輝くことはできない。副は舞台を作ってくれる。その副で作った舞台の上で主がどれだけ演じられるか、主で輝くためにも副に対して頑張って取り組んで行こう。

予定調和をぶち壊す。

昔の日本は予定調和で物事を進めるのが慣例だった。それは学校でも仕事でも私生活でもそうだ。しかし最近は「予定調和をぶち壊す」ことが称賛されることが多くなった。

予定調和とは、言い方を変えると無難だ。したがって予定調和を壊すためには無難な人間でいてはならない。しかし残念ながら、世の中の多くの人は無難である。リスクを極度に恐れる。

何でもリスクを恐れるというのは違うと思うし、また何でもリスクを取る必要もないのかもしれない。重要なのは、自分がどこでリスクを避けて、またどこでリスクを取って前に出るか、そのようなリスクの使い分けを把握することである。

人生を予定調和で終わらせるか、人生を刺激的に創造していくか。それは人それぞれであるが、ただ社会も日常生活も熟成期に入った日本においては、予定調和をぶち壊していくような展開を起こさない限りは前に進むのは難しい。

原理がわかれば怖くない!

何かに対して怖がっている時、その大きな理由は無知から来るものである。世の中不思議なことはたくさんあるが、原理を正確にしっかりと理解すれば、大概の恐怖や悩みは解決する。

例えば「幽霊は存在するか?」という問いにどう答えるか?「そんなことは科学的ではない」と否定する人は多いが、そんな理由は理由にもなっていない。そもそもそんな答えは科学的でも論理的でもない。

僕ならば、原子レベルから論理的に非存在を答える。原子論によって幽霊の存在を論破することができる。

今、科学的社会になりながら非科学的なことが横行しているのは、原理を理解しようとしないで何もかもがブラックボックス化されていることが大きな理由だ。

原理を論理的に理解することは、現代の多様な日常を生きる上では欠かせない要素になっている。

一流、二流の判断は誰が下すのか?

世間は格付けが大好きだ。どの世界にも一流や二流の格付けは存在する。しかしこの一流、二流の格付けの判断は誰が下すべきなのか?

判断の種類を大きく分けると、玄人による判断と素人による判断に分かれる。しかし多くの場合玄人による判断が幅を利かすのだが、素人による判断も決して無視はできない。

料理を例にとると、どの料理が美味しいかという判断を下すとき、ミシュランのようなプロによる判断が絶対的に思われる風潮もあるが、単純に素人が食べて美味しいかどうかということは非常に重要である。なぜなら料理を日常的に食べるのはほとんどが素人であり、先入観のない素人が美味しいと思えないような料理は美味しい料理とは言えない。

このような例はいたるところに存在する。音楽、そして小説などは、素人による素朴な判断が重要になる。音楽も小説も、一般市民に受け入れられ、多く売れたものが良いものだというのは重要な判断基準である。

玄人の判断が世界を極め、素人の判断が世に広める。どちらも次元の違う重要な判断基準である。