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手段を選ぶ?選ばない?

目的の事を達成するためには、手段を選ばないという人は多いかもしれない。もちろん、最終目標が定まっていれば手段を選ばないというのは正しいことかもしれないが、僕はかなり手段を選んでしまう。

ゴール地点にたどり着くことは非常に重要だが、そこまでどのような道をたどって行ったかということも非常に重要な要素だと考えている。ゴールまでどのような道をたどって行ったかということには、その人の人柄や人間性が現れる。お金を稼ぐことは非常に重要だが、どのように稼いだかということにもこだわりたいところである。

どのような道筋をたどったかということは、どのような人生を送ったかということとニアリーイコールだと考えている。もちろん世間は最終的なゴール地点ばかりに目が行きがちであるが、それまでの道筋こそがその人のオリジナリティーの発揮される場所である。

数学や物理の研究においては、逆に手段を選ぶ人は多い。代数が専門だから代数的な手法にこだわるというようなことだ。しかし問題を解決するに当たっては、本来手段を選ばずにやるべきだと思う。その方が学問の大きさが圧倒的に広がる。

ポアンカレ予想(幾何化予想)を解決したペレルマン博士は、本来トポロジー(位相幾何学)の問題だと思われていたポアンカレ予想を微分幾何学の手法で解決した。このような姿勢はどの分野に取り組む人も学ぶべきことだと思う。

道筋をこだわる所ではこだわって、こだわらないところでは雑食的に何でも学び使ってみるという使い分けを上手く行い、人生を豊かにしていくことが必要ではないだろうか?

今の日本に競争心はあるのか?

現在の日本では、競争することはあまりよくないという風潮が見受けられる。「ナンバーワンではなく、オンリーワン」と言う歌も一昔前に流行った。もちろんそのような考え自体悪いことではないし、過度な競争には不毛な点も多々あることは事実だが、逆に現代の日本はあまりにも競争心がなさすぎるようにも感じる。

数学や物理の研究というと、独創性の世界であって競争の世界ではないと思っている人も多いかもしれない。しかし研究の独創性というものは当たり前であって、わざわざ言葉で「独創性が重要」と言っているようなレベルではスタートラインにも立てていない。研究論文では引用数などの数字で表れる評価もあるので、そういう意味では研究の世界でも競争は避けて通れない。

幼稚園の徒競走では、ゴール地点では皆手をつないで一緒にゴールをするという話を何度か聞いたことがある。幼稚園では“仲良く”ということでそれはそれでいいのかもしれない。しかしそれを何十年も引きずっていたのでは話にならない。

日本ではギラギラとしている人を嫌う風潮がある。そのせいか、ギラギラとした人間があまりにも少なすぎるような気がする。積極的にアクションを起こし、大きな成果を挙げることも重要である。そのような人生のギャンブルを懸ける人はどれだけいるのだろうか?

今、日本の学問における研究レベルの低下が叫ばれている。それを改善するためにはまずは競争の重要性を認識することが必要である。しかし受験テクニックを磨いて一時しのぎするという類のものではない。もっと本質的な所で競争しなければならない。

大学受験時に高木貞治の「解析概論」を読破するという強者はこれから現れるのだろうか?

現代の価値観だけで、歴史を語ってはいけない。

価値観というものは、時代によって変化していくものである。従って、現時点で良いと言われていることが、次の時代で悪と言われることは多々ある。すなわち現代の価値観だけで歴史を見てしまえば、歴史の本質を見誤ってしまうことになる。

太平洋戦争時の事に関しては、戦後ほぼすべての事が悪であると教え込まれてきた。その中でもA級戦犯は今でも極悪人だと思っている人がいる。この“A級”とは本来は“一番悪い”という意味では全くないのにもかかわらず。

さすがに戦国時代の事にもなると、現代の価値観を押し付ける人は少ない。もし現代の価値観だけで評価すれば、織田信長は残虐独裁者となってしまう。

日本人は同調圧力に弱いと言われる。そのうえ、日本の同調圧力はかなりひどいレベルである。このような同調圧力の中で独創的な成果を出そうとすれば、かなりの精神力が必要だ。すなわち独創的な才能があるかどうかということとは違う部分に左右されることになる。

歴史に対する評価も、かなり同調圧力がかかっているように思える。A級戦犯を称賛しようものなら、極悪人だと非難されるだろう。もしそう批難する人がいれば、城山三郎著「落日燃ゆ」を読んでもらいたい。

いつの時代も現在の価値観が正しいものだと教え込まれる。もちろんこれはほぼ同調圧力によるものだが。しかし次の時代には次の時代の同調圧力がかかり、違う価値観に変わってしまう。すなわち一時代の価値観だけで歴史を評価すると見誤ってしまうのだ。

価値観が時代により変遷することを考慮すると、歴史は点ではなく線で見ることが必要である。そしてこのような大局的な視点で物事を見ることは、何に対しても非常に重要な事であることがわかる。

機能美でなければならない!

物事がそうあるのには、多くの場合理由がある。もちろん世の中には無意味なものもたくさんあるが、後々まで残るものにはしっかりとした理由がある。

美に関してもそうである。理由のない美は単なる張りぼてでしかない。意味のある美にするためには機能美でなければならない。良いスーツは単に見た目が美しいというだけではなく、着心地や体形補正などの様々な機能美が繰り込まれている。車の内装に関しても、ただお洒落だというだけではなく、なぜそのような配置になっているかという機能美が熟考されている。

物事や出来事に意味を考えることは非常に重要である。科学の実験にしても、想定外の事が起きた時に「なぜそのようなことが起きたのか?」と考えることが次の発見につながる。

もしかしたら人生もそうかもしれない。一人ひとり、生きていることには意味がある。もちろん意味を無理やり押し付ける必要はないが、自然な意味を考えることによって、自分がこの先どのように進むべきかということが見えてくる。

ただ事実を事実だけで終わらせるのではなく、それから何かを学び取りどう次に生かすか?それの繰り返しによって人間は進歩していくのだと思う。

目指すもの。

僕には目指すものがある。それを「成し遂げたい」のではなく、「絶対に成し遂げる」という覚悟を持って取り組んでいる。

ただ、自分の考えや中身の事は、周りの人には見えない。それを口に出したからといって、信じてもらえるわけではない。行動し成し遂げることによって納得させるしかないのである。

自信がないのにただ夢を見ているだけでは、何も生まれないし何の意味もない。しかし自信があることに対しては、かなりのリスクを背負ってでもその道を進むべきだと思っている。ただ、成し遂げる見込みもないのにそれにかけるのは暴挙でしかない。

リスクのない投資というものは存在しない。僕自身は金融の投資とは縁はないが、目指すものに対して最低限のお金はしっかりとつぎ込んでいるし、ここぞと思う時はお金と人生を思いっきりつぎ込んでいる。

では、どのようなものに対してお金と人生を投資すべきか?それは自分でコントロールできるものに対して投資をすべきということである。例えば、宝くじや多くのギャンブルは100%運でしかない。そのような運にお金をつぎ込む価値は全くない。しかし運の中にも自分でコントロールできるものがある。例えば人との出会いとか、あるいは金融投資もかなりコントロールできる運と言える。しかしコントロールできる運は、努力と才能なしには向上できない。

コントロールできる運は、成功した時にそれは実力へと変わる。もちろんそれまでには多くの失敗を経験するであろう。すなわち重要なのは、それまで積み重ねてきた失敗を大きな成功に変え、自分の実力へとすることなのである。

数学の重要性、英語の重要性。

早稲田大学政治経済学部は、2021年度の入試から数学を必ず課すという。これまで私立文系の入試というと、国・英・社の三教科入試が主流であったが、早稲田政経の数学必修化は何を意味するのだろうか?

文系学問に数学は必要ないという考えは根強くある。しかし直接的にせよ間接的にせよ、文系学問でも数学あるいは数学的思考が必要なものは多くある。経済学部では数学は欠かせない道具であり、数学なしでは経済学は成り立たない。そして哲学ではその論理構造は数学そのものと言ってよい。政治においても統計的解釈を必要とすることは多々あり、統計学、すなわち数学は全く無視できない。

数学を無視するということは、有力な武器を自ら捨てるということである。これは海外へ旅行に行くのに英語を無視することと同じである。今や日本国内にいても外国人と接する機会は多々あり、日本人同士の会話においても英語に関する話題は頻繁に出てくる。

英語と同じように、数学も現代社会に広く根付いている。コンピューター社会となった今、それらを制御するプログラミングは数学そのものであるし、日常生活において何か計画を立てるとき、それらに対する論理的思考の原点は数学にある。

2021年の早稲田政経の入試の数学必修化は、社会に対する数学の重要性を訴える一石になるものだと思う。英語の重要性は皆が認識しているのに、数学の重要性に対する認識はまだまだ甘い。これからは数学の重要性を明確に可視化していくことが求められる。

学問の自由。

僕は最近、自由という言葉にこだわっている。まずは徹底的に自由になることが大事だと考えているからだ。

自由には大きく二つあると考えている。一つは行動の自由。そしてもう一つは精神の自由だ。行動の自由については非常に分かりやすい。一方、精神の自由とは非常に分かりにくいかもしれない。なぜなら精神の自由は外から見えるものではないし、明確に言葉にできるものでもないからだ。

しかし学問をするに当たって、精神が自由であることは非常に重要である。特に非常に自由な学問である数学をするにあたっては、精神が自由であることは必須であると言える。精神が凝り固まっている人間には数学をすることはできないし、物理学においても重要な発見はできない。

もちろん、数学や物理学だけではない。哲学などの人文科学でもそうであろうし、学問の垣根を超える学際的な分野を発展させるのにも自由な発想は不可欠だ。

しかし現在の日本の教育システムは凝り固まっている。特にマークシートの穴埋めにより能力を区別する現在のシステムはその最たるものだ。もちろん、30年くらい前と比べると現在のシステムは良くなっているところはあるかもしれない。しかし現在の教育システムは、人間の才能、意欲、行動力、発想力を正確に評価できていない。

日本は何人ものノーベル賞学者を輩出してきた。しかしその多くは日本の教育システムにノーを突きつけた人だ。ノーを突きつけた時は異端者と排除し、実績を出せばそれが最初に評価されるのは海外であり、そのあとにそれは日本の実績だと言い出す。あまりにも都合が良すぎるのではないか?

日本の教育システムの致命的な部分は、自由がないということだ。日本の教育の中で独創性を発揮できるところがあまりにも少なすぎる。しかも、自由や独創性を養うと謳っているところも、現実はシステム化され凝り固まっている。

教育の中での自由もそうであるが、現在の世の中は行動の自由を次々と束縛していき、精神の自由までも脅かしているように思える。一見自由に見えるのは「檻の中の自由」である。

数学のノーベル賞と言われているフィールズ賞は、1990年に森重文博士が受賞してから出ていない。その理由は簡単だ。フィールズ賞には40歳以下という年齢制限があるからだ。すなわち、年齢制限のないノーベル賞よりも早く社会システムの影響を受ける。

もちろん、4年に一回開かれる今年の国際数学者会議で、日本人数学者がフィールズ賞を受賞するかもしれない。しかし受賞者が出たからと言って手放しで喜んでいいとは思わない。これからの日本の科学界に対する僕の展望は決して明るくないし、僕に限らず多くの日本人研究者がそう思っているものだと思われる。

やまゆり園事件から2年、断じて許せないもの。

知的障がい者施設、津久井やまゆり園での殺傷事件から26日で2年が経った。戦後、国内では経験したことのないような殺傷事件は、日本国民に何を問いかけたのだろうか?

まず初めに、言うまでもないがこの事件は断じて許されないものである。犯人の植松被告に対しては厳格な判決が求められる。

しかしその一方、植松被告の主張に賛同する一部の日本人がいるともよく聞く。その理由は次のようなものである。

意志疎通のできない知的障がい者は世の中で生きている意味がない。

と。

植松被告は「心失者」という言葉を使っているらしい。植松被告がどのような意図を持って心失者という言葉を使っているのかわからないが、その字から推測すると、心、すなわち意志がないと言う意味だろうかと思う。しかし本当に知的障がい者には心がないのだろうか?

僕は、意志疎通ができないというのは心がないということとは全く異なると思っている。意思疎通ができないというのは意志を表現できないということであって、意志がないという意味ではない。意思疎通困難者の中には内に秘める心、すなわち意志が必ず存在するのだと思う。

全く話は違うが、先日亡くなった理論物理学者のホーキング博士は、現代のコンピューターによる補助がなければ意思疎通が困難だったと言える。実際はコンピューターを使って縦横無尽にコミュニケーションを取っていたのであるが、そんなホーキング博士を意志がないとは誰も言わない。それどころか健常者以上の意志と思想を持っている。

意志疎通困難とは見かけだけの話であって、それを意志がないということは人間性を正しく判断していない。しかし植松被告の主張は、一般日本人が持つ偏見に対して一石を投じるものであると思う。実際に植松被告の主張に賛同する者は一部とはいえ存在する。さらに表だって賛同するわけではないが、偏見を持っている人はそれ以上いるのかもしれない。

しかしこれ以上そのような偏見を蔓延させることは許してはならない。植松被告の主張を綿密に分析し、それを偏見の解消へと変えることが強く求められていると言えよう。

物事を額面通りに受け取ることも大切だ。

物事を深く考えることは非常に大切だ。しかしそれは、裏を考えることではない。裏を考えることによって知った気分になるのは間違っていることが多く、時には額面通り受け取ることも大事なのだ。

しかしこれがなかなかできるものではない。何か直面すると、すぐにその裏を推測してしまうのだ。額面通り受け取れるかどうかということは、寛容な内面を持っているかどうかということに関わっている。寛容な内面が欠けているとどうしても裏を推測したくなってしまう。

もちろん、裏を推測することも大事なことはよくある。政治に関しては裏の取り合いでもあるし、詐欺に対しての対処は裏を推測することが重要になる。

しかし裏を考えすぎるが故に、物事の本質を見逃すことも多い。額面というものは一次情報である。まずは一次情報を基に物事を深く考えることが重要である。その一次情報に関して矛盾が出てくれば、そこから裏を考えればいいのである。一次情報を無視して初めから裏を考えるのは、全部とまでは言わないまでも多くの場合誤った結論を導いてしまうことになる。

しかし本当に大事なのは、額面か?裏か?ではなく、本質はどこにあるかということである。そのためには得られた情報をフルに活用しなければならない。そして時には仮定も必要であろう。しかし全てに共通するのは、繰り返しになるが「深く考える」ということである。

絶対に人を見下さない。ただ・・・。

僕は絶対に人を見下さないようにしている。例えば学歴で人を見下すなんてことは絶対にしないし、職業で見下すことも絶対にない。むしろ自分の方が見下されているのかもしれない。

ただ・・・、人を見下す人に対しては見下すことはある。人を見下す人は最低な部類の人間だと思っているからだ。

人を見下す人は様々な理由で見下してくる。学歴、職業、収入、あるいは性格などで。学歴によって収入が変わることはあることかもしれないが、学歴によって人間性を判断することはできない。僕はこれまで様々な人間を見てきたが、総じて学歴と人間性とはほとんど関係ないと感じている。

とは言っても、僕も完璧な人間ではない。無意識に失礼な態度を取ってしまっていることはあるかもしれない。そのような所があれば、それは僕の重大な欠点だ。しかし基本的なスタンスとして、人を絶対に見下さないという姿勢を取っている。

学歴、職業、収入に関わらず、面白くて立派な人はたくさんいる。そのような素晴らしく魅力的な人間が注目を浴びるような社会になることを僕は願っている。