思想、生き方、考え方」カテゴリーアーカイブ

知識の奥深さ。

科学や医学の事を取り上げるメディアは非常に多いが、それらのメディアで取り上げられている知識にどれくらいの深さを求めるかということは難しい問題である。あまりにも深く専門的になると見る人も離れてしまうので、どうしても表面的・実用的な知識の紹介になってしまう。それらの代表的な例がクイズ番組であろう。

実用的知識や雑学などは非常に面白く、知らないよりも知っていたほうが良いが、その一方で専門的見識を軽視することは非常に危険である。全ての分野において専門的見識を持つことは不可能であるが、自分の専門分野を持ち、その専門分野において深い見識を持つことは非常に重要である。

自分の専門分野を究めることは、その専門分野だけでなく、日常的な知識に対しても思考の深さを与える。表面的な実用的雑学的知識を習得すると同時に、知識を深く掘り下げる作業が人間の幅を広げることになるだろう。

健康であることは、最高の実力だ。

才能と言えば、頭の回転、あるいは行動力など様々思い浮かぶが、それらの才能をたどると、すべて心身の健康に行き着く。

僕の大学時代の恩師である数学者は、自転車で大学まで通い、毎日ハードな筋トレをされていた。あまりにもハードな筋トレをしていたため、くいしばった歯が弱くなってしまったそうだ。その恩師のまねをしているわけではないが、僕自身もこの5年くらいの間、毎日筋トレを欠かさずに行っている。筋トレをして引き締まった体になると、不思議なことに自分に対して自信が溢れ、物事に対して積極的な姿勢が取れるようになる。

余談であるが、筋トレは言い換えると体のメンテナンスと言えるが、体のメンテナンスに気を配ると、自分の持ち物などに対してもメンテナンスに気が配れるようになる。僕自身、靴磨きや鞄のメンテナンスにかなり気を配るようになった。

生きる姿勢として、ある程度健康マニアでいるくらいがちょうどいいのかもしれない。経営者には健康マニアが多いともよく聞く。度を越した健康マニアはさすがに問題があるかもしれないが、健康は最大の実力であると肝に銘じて、健康に気を配るべきなのかもしれない。

自分が自分であるために。

「自分らしくある」とはよく言うが、そもそも自分らしさとは何か?どの自分が本当の自分か?その答えはなかなか出ない。

“自分らしさ”の一つの答えは、現在のそのままの自分が本当の自分であると言える。そして本当の自分とは、時間が経つにつれて変化し続ける。常に本当の自分が同じである続けるということはありえない。

もちろん、本当の自分ということの他に、“理想の自分”というものもある。本当の自分と理想の自分は異なるが、理想の自分へ近づこうと努力することによって、本当の自分を理想の自分に近づけることができる。

ただ、自分は他人ではないのだから、自分が自分らしくあることは非常に重要である。理想の自分でもダメな自分でも、それが本当の自分ならそれでいいのではないか。

企業の研究に、独創性はいらないのか?

タイトルをこのように書いたが、もちろん企業における研究でも独創的な研究はいくらでもある。しかし僕が最近感じているのは「独創的なテーマの選定」の必要性だ。

最近、大手企業をはじめ、AI研究所なるものが続々でき、AI研究に対して巨額の予算が投じられている。もちろんそれだけの予算が投じられる背景には、将来ビジネスとしてそれを上回る利益を回収できる見込みがあるからだろう。

企業は大原則として利益追求のためにあるのだから、儲かる研究に資金を投じるのは当然である。しかし大手企業が新しい独創的テーマを選定できないことに、多少危機感を覚える。それで次世代ビジネスの世界で戦っていけるのかと。

分野が違うと、意外と本質は見えないものなのかもしれない。しかし本質の中には分野を問わず共通基盤的なものもある。そのような共通基盤的な本質を把握することは、どのような対象を専攻するにあたっても必要だと思うのだが。

リスクを取らない人間に魅力はない。

人生とはリスクを取り続けることだと思っている。リスクを取ることを止めた時、人生は意味をなさなくなる。なぜなら人生の活力源はいつの時代でもリスクによってもたらされるからだ。

物事を前に進めようとするとき、最も手っ取り早いのはリスクを取ることである。しかしリスクを取ると言っても金銭的なリスクではない。人生のリスクである。とは言え、リスクという名の通り、リスクをとれば必ず成功するとは限らない。失敗の可能性もあり得るからリスクと言うのである。

安全地帯に居ながら利益だけを享受しようという考えももちろんある。それができれば最も効果が高いと一見感じる。しかしそれは、長い人生をトータルで考えると最も非生産的な考えである。

人生が上手くいけば、何も魅力的な人間になる必要はないのかもしれない。どのような生き方を選択するかは人それぞれだ。しかし、リスクを取るべきところでリスクを取って、人生に意味を持たせたいと考えてしまう。

批判を恐れてはいけない。

最近何かと批判・炎上が話題になるが、批判に対して過敏になりすぎている世論・メディアに疑問を感じる。

例えば、批判が100件あったと言ったら単純に多いようにも思えるが、日本人口を単純に1億人と考えれば100人はたった0.0001%に過ぎない。100万人でやっと1%なのである。もちろん批判的な人たちが皆、批判的行動を起こすとは限らないので何とも言えないが、メディアが十人・百人の批判に過敏になるのは行き過ぎだと思う。

一般論に変わるが、どんなことに対しても批判的な勢力は一定の割合で存在する。だから100%支持されようと考えるのはナンセンスだ。確かに批判の割合が多ければそれは考え直すべきなのかもしれないが、一つ一つの批判に対して過敏になる必要はない。

それに新しいこと、革新的な事を行う場合は、ある程度の批判は付きものだ。これらの批判を気にしすぎていては革新は生まれない。批判を覆すほどの結果を出せば、何も問題はないのである。

不幸にも、科学は人間の役に立ってしまった。

このタイトルは書き間違いではない。“不幸”にも科学は人間の役に立ってしまったのである。

ある物事が人間の役に立つことは悪いことではない。ほとんどの人は、いかに人間の役に立てるかということを考えて物事に取り組んでいるのであろう。

ではなぜ、人間の役に立つことが不幸なのか?

現代において、科学はあまりにも人間の役に立ってしまったので、科学は人間の役に立てるものと誤解している人が多い。いや、ほとんどの人はそう思っているであろう。しかし、ニュートンが物理学を打ち立てたのは役に立てるためではないし、アインシュタインだってそうである。20世紀初めに、相対性理論を人間の役に立てるなどと言ったら、ほとんどの人は鼻で笑っていたであろう。

科学は人類の知見であり、人間のレベルを指し示すものと言ってもいいだろう。人間が人間らしく生きる知恵であり。極端に言えば人間そのものと言える。そのような思想の絶頂期はギリシャ時代であった。アリストテレスもアルキメデスも、人類の知見と思想を高めるために数学や科学の研究に打ち込んでいた。また、それがギリシャ時代の知識人の常識であった。

この様な考えは現代人にはとうてい受け入れられるものではないかもしれない。しかしそれはギリシャ人より現代人が進化した結果だとは言えない。むしろ思想的には大きく退化している。

確かに現代では科学的知識は大きく進歩した。しかし人間の本質的部分では、現代人がギリシャ人から学ぶところは決して少なくない。

目的とするところから逆算して取り組む。

勉強に取り組むとき、多くの人は基礎的な所から順番に積み上げていくという方法を取るであろう。そのやり方は全く間違ってはいない。そもそも基礎ができていないと先には進めない。基礎から順番に取り組んでいくのは、勉強段階では非常に効率的だと言える。

しかし実戦として取り組む、あるいは即戦力として求められている時、基礎から順番に取り組んでいくのは非効率である。まず最終目標となる所に当たり、何をすべきなのかを理解し、そこから逆算して取り組んでいくのが非常に有効的である。もちろんこの手法で取り組むときは、すでにある程度の基礎事項は習得していることが求められる。逆算して取り組むことによって、非効率な重複も避けることができる。

効率だけが全てではないが、効率を求められている時には逆算的手法が非常に威力を発揮するであろう。

先入観を排除せよ!

先入観とは、良く言えば“経験”であるが、悪く言えば“思い込み”である。経験をもとに先入観を構築していくことによって知識は体系化されていくが、壁にぶつかり飛躍が必要になった時には先入観を排除する必要がある。

物理学の歴史で言えば、一番大きな先入観の排除につながったのは、アインシュタインが特殊相対性理論を打ち立てた時であろう。アインシュタインは、それまでの経験的常識であった“ガリレイの相対性原理”を否定することによって、既存の理論を大きく変えることになった。

20世紀の科学における二大発見は、“相対性理論”と“量子力学”である。しかしその成り立ちは大きく違う。量子力学が時間をかけて多くの研究者が構築していったのに対し、相対性理論はアインシュタインが突然世に出した。量子力学の成り立ちが“連続的”ならば、相対性理論は“断層”である。しかし双方に共通するのは、先入観の排除だと言えよう。

科学を例に取り上げたが、これらの教訓はあらゆることに対して言える。既存の事柄の継続を行うのなら先入観によって進めるのが手っ取り早いが、飛躍を望むのならば先入観を排除しなければならない。

一度染みついた先入観を排除するのは容易いことではないが、それを乗り越えた時、その先にはエキサイティングな世界が広がっている。

違う道を通らなければならない。

過去に多くの人を退けた難問に取り組むならば、過去に取り組んだ人間と同じ道を歩んではならない。同じ道を歩めば、同じ壁にぶつかることは分かっている。同じく壁にぶつかるならば、違う壁にぶつからなければならない。

一億円の懸賞金が懸けられた数学のミレニアム問題であったポアンカレ予想の解決への道筋は、まさしく良い例だ。ポアンカレ予想は長くトポロジー(位相幾何学)の問題だと考えられ、ほとんどの数学者はトポロジー的手法によってポアンカレ予想に取り組んでいた。しかしペレルマンは分野違いの微分幾何学的手法によって解決した。

学問でもビジネスでも、大きな問題に取り組むのは良いことだが、それよりも理想的なのは自分で問題を大きくすることだ。さらに言えば、自分で問題を発見するのが最高である。世間では問題を解くことだけがクローズアップされがちであるが、問題を見つけることはそれ以上に重要である。