思想、生き方、考え方」カテゴリーアーカイブ

「どちらが良いか」ではなく、「どちらがより悪くないか」という判断も大切だ。

最近、高速増殖炉「もんじゅ」を廃炉にするという方向性が決まったようだ。もんじゅについては既に一兆円以上のお金がつぎ込まれており、今まで引くに引けない状態だったのではということは容易に想像つく。しかし、大金をつぎ込んだからやめるのはもったいないという考えでズルズル引きずれば、損失は大きくなるばかりだ。

このもんじゅについての判断で欠けていたのは、「どちらがより悪くないか」という判断ではないか。「どちらが良いか」という判断は、精神的にも比較的判断しやすい。しかし窮地に立ち判断を迫られたとき、どちらがより悪くないかという思考をするのには勇気がいる。どうしてもそれまで取り組んできたことを引きずりがちになってしまうからだ。

この様な判断は、もんじゅについてだけではない。一般によく言われていることでもあるが、選挙でも同じことである。どの候補に投票しようかと考えた時、まずどの候補がより良いかという判断をしようとする。しかし多くの場合、良いと思える候補が一人もいない。そこで「どの候補もいいと思わないから投票しない」ということではなく、「より悪くない候補に投票しよう」と思うことが大事だ。そのほうがはるかに積極的で建設的な行動である。

現在、若者の投票離れ、政治離れが問題になっている。政治に関する関心は、教育と密接に関係している。学校では政治の仕組みについては詳しく学ぶであろう。そして「良いと思う候補者に投票しなさい」と。しかしなぜ一言「良いと思える候補者がいない場合は、より悪くない候補者に投票しよう」と言えないのか。このような思考の欠如が巡り巡って、もんじゅに対する対処判断にまで影響している。

もったいないとかいう感情的判断ではなく、何より建設的論理的判断をすることが必要である。そしてそれを行動に移して意思表示をする。そのようなことをしっかりすれば、権力をもった老人が若者を見下す態度も少しはましになるであろう。

努力することは素晴らしく、何かを成し遂げるためには必須だが、美化されるものではない。

何かで成功を収めるためには、何かで勝つためには、努力は避けて通れない道だ。多くの分野において、努力は必須のものである。もちろん個人差はあるが、努力は成功の出発点だ。

とは言え、努力をしたからといって、必ず成功するとは限らない。しかしその逆は言える。つまり「成功した人は必ず努力をしている。」

もうずいぶん前の話になるが、当時中学生だった岩崎恭子さんがバルセロナオリンピック競泳で金メダルを取った時は衝撃的だった。しかし岩崎さんに大人から浴びせられた言葉は冷たかったという。「努力をしないで金を取っても価値がない」「苦労もしないで」というような類の言葉を浴びせられたという。少し考えれば、岩崎さんが「努力をしないで」なんてことはありえないということくらいはわかるはずである。なんと愚かな大人たちであろうか。努力というものは、人に見せるものではない。人の見ていないところでコツコツとすることが努力である。

努力したからと言って、必ず結果がついてくるとは限らない。そこが単純ではないところであるが、しかし努力をしないと出発点にも立てないのである。

岩崎さんに冷たい言葉を浴びせた愚かな大人たちは、おそらく努力を本気でしたことはないのではないかと疑ってしまう。それとも「苦労」を努力と勘違いしているのか。愚かな大人たちには、努力の大部分は他人には見えないと言うことくらいはわかって欲しいものである。とは言え、努力そのものは美化されるべきものではない。成功者に対して後から勝手に美化されているだけなのである。

それから最後に一言、

「努力をバカにするな!」

捨てなければいけないプライドと、持ち続けなければいけないプライド

よく、「プライドを捨てなければいけない」という人がいる。では、プライドとはいったい何なのだろうか?

僕はプライドには2種類あると思っている。

一つは、過去の栄光に対するプライド。

もう一つは、「これから絶対に結果を出して活躍してやる」というプライド。

一つ目の、過去の栄光に対するプライドは捨てた方がいいのかもしれない。しかし過去の栄光も次へのステップのきっかけになることがあるので、すべてを捨て去る必要はない。しか余計なものは捨てて、身軽になった方がいいのかもしれない。

そして二つ目の「これから何が何でもやってやる」というプライドは、絶対に捨ててはならない。自分は誰にも負けないんだというプライドは、トップを目指す者にとっては必要不可欠なプライドだ。

「握りこぶしの中に しまっておいた勇気と わずかなプライド握りしめたら」

という歌詞を歌ったシンガーソングライターがいる。僕はこの歌詞を常に胸の中に秘めている。

プライドの塊ではダメだけど、努力やビジョンに基づいたプライドは絶対に持ち続けなければならない。

勝負に立派な負けなど存在しない。吉田沙保里選手の論

こんな記事を見つけました。

「よく、試合後に負けはしたけれど強敵相手に善戦できて満足みたいなコメントをする人がいますが、冗談じゃありません。勝負は勝たなければダメ。」

(プレジデントオンライン、吉田沙保里の言葉より引用)

そうです。勝負に立派な負けなど本来は存在しないのです。

僕もオリンピックを見ていて、日本人選手が銀や銅メダルを取ると正直うれしい気持ちはあります。しかし銀は敗者なのです。銀や銅の選手に対しても「頑張った」と褒め称えるのは優しさかもしれません。しかしその一方、これは吉田沙保里選手のように勝つことが全てとストイックに戦っている選手に対する侮辱ではないかとも思うのです。

吉田沙保里選手のような論を、なにもサラリーマンに対しても当てはめろとは全く思いません。しかし何かしら「勝負」の世界で生きている人間にとっては、吉田沙保里選手の言っていることが一番の正論だと思います。

吉田選手は「勝負に優しさは邪魔」とも言っています。

普段の生活で吉田選手の言っているようなことを言うと、非常に冷酷な人間ととらえられるかもしれません。しかし勝負の世界は別、吉田選手は勝負の世界の何たるかを教えてくれているのです。

このような論に、吉田選手の並外れた強さの秘訣が隠れているのかもしれません。

とは言え、日本人が銀メダルも銅メダルを取るとうれしいけど・・・

 

批判されてナンボ

最近、世の中全体が批判の恐怖におびえているように思う。有名人のネット炎上から、一般市民の周りからのバッシング。そんな僕も一時期批判されることに臆病になっていたことがあった。

しかし、ネットが発達したコミュニケーション社会では、むしろ、誰にも非難されないことの方が珍しいのかもしれない。もし誰にも何も批判されないのならば、それは自分が何もやっていない証拠、あるいは何も行動を起こしていない証拠。批判されないことはむしろ恥ずべきことなのかもしれな。

批判されることが普通であると考えれば、少しは気分が楽になるのかもしれない。しかし間違った批判・誤解には誠心誠意対応しなければならない。しかし低レベルな批判まで対応する必要はない。相手が対応すべき誠実な人か、論理が通じる人かを見分けなければならない。

いっその事、批判大歓迎・バッシング大歓迎くらいの割り切った気持ちを持つことができればいいが、自分を含めてそこまで心が広い人はなかなかいない。心が広くない自分が恥ずかしい。しかし、批判されることが普通で、誰からも批判されないことなどまずないと心に銘ずることは、生きていくうえで大事なことだ。

「批判されてナンボ」これくらいの気持ちで生きていけば、オリンピックに出ても動揺しないような?強い心を持てる(かもしれない)。

勝負の世界では、ただ一人の勝者のみが全てをつかみ取るべきだ

間もなく、リオデジャネイロオリンピックが始まる。われわれ一般人にとってはスポーツの祭典であり、テレビで楽しむくらいだが、出場するアスリートにとっては4年に一度の大舞台であり、最大・最高の勝負の舞台である。

オリンピックには上位3人にメダルが授与される。2位や3位に入って銀メダル・銅メダルを獲得して喜んでいる選手も多い。もちろん2位も3位もすごいことなのかもしれない。しかし僕はその喜びに違和感を感じる。なぜなら、勝者は1位のみだと思っているからである。2位は敗者なのである。そして勝者のみが全てを手に入れるべきなのである。銀メダルを取って喜んでいるうちは(もちろん非常にレベルの高い選手であることはわかるが)そのレベルの選手なのだということである。本当に勝ちを狙っている選手は、2位では絶対に喜ばないはずだ。

分野は変わるが、物理や数学などの学問の世界は勝負の世界ではないのかもしれない。それに単純に1位2位を付けられない。(もちろん、学校のテストの点数などのような次元の話をしているわけではない。)しかし、僕は学問の世界でも世界一の成果を出すことが重要だと考えている。あえて物理や数学の世界も勝負の世界だと考えている。だから学問の世界でも勝者のみが全てをつかみ取るべきだ。

学問の世界を含めて、オンリーワンであることが大切だと言われることが多い。しかしオンリーワンであることなどは当たり前のことであって、わざわざオンリーワンであることを強調するほどのことではない。ナンバー1はオンリー1でもある。しかしオンリー1は必ずしもナンバー1ではない。だから、ナンバー1を目指すべきなのである。ナンバー1になれば、オンリー1は必然的についてくる。

僕は現在は、数理物理の世界でも完全に敗者の方にいる。立ち位置としては底辺にいるといってよい。しかし、僕が目指しているのは学問の世界で食っていくことではない。ナンバー1の成果を出すことである。だから、まだ全然結果の出していない現在は、何一つ要求することはない。今は無でもいい。しかしナンバー1の結果を出すことに成功すれば、すべてをつかみ取ろうと思っている。

もちろん、何かを取るために研究しているのではない。数理物理の研究は生きがいであり、ライフワーク、人生におけるミッションである。そして、解決を目指しているテーマも、明確に定めている。しかし人生をかけて取り組むからには、絶対にナンバー1になるというくらいの覚悟は必要だ。

勝者は一人だけなのである。間もなく始まるオリンピックの選手も2位ではなく、「勝つ」ことを目指してほしい。

日本にとって忘れられない、71年前の8月。いかに核兵器廃絶の道を作っていくか。

今年もいよいよ夏本番、8月に入った。8月と言えば、日本では終戦関連の行事がたて続く。6日の広島原爆投下、9日の長崎原爆投下、15日の終戦だ。唯一の被爆国としての世界平和に対する日本の役割は重要だ。

今年の5月には、オバマ氏が現職の大統領として初めて広島を訪問した。その心には何としても核兵器を廃絶したいという思いがあったに違いない。しかし、核兵器廃絶はアメリカだけが行えばいいというものではない。アメリカ単独の核兵器廃絶は世界のパワーバランスを大きく乱し、さらに危険な状況に陥ると考えることは容易だ。和平を保ちながら廃絶するには、世界同時に徐々に廃絶に向かっていくしか方法はない。一昔ならその主な対象はアメリカ・ソ連(ロシア)であったが、いま一番問題なのは中国であることは間違いない。中国の覇権主義をどう牽制し、どのように世界の和平を保ちながら軍縮に進むか、世界が抱えるこれからの課題だ。

一部の近隣諸国を省いて、日本が放つ反核兵器メッセージはインパクトのあるものである。日本には委縮せずに核兵器廃絶を訴えることが求められている。そしてこの役割をリードするのは、世界でも日本にしかできない。

とは言え、先ほど書いたように、単に何も考えずに核兵器廃絶・軍縮を行えばいいというものではない。これらの作業は非常に慎重・繊細かつ計算が必要な困難な作業である。

自国から軍(日本なら自衛隊)を無くせば平和になるという、単純平和主義者がいる。先日の都知事選の主要候補者にもそのような人がいた。それらの人は、自衛隊機がどれくらいスクランブル発進(緊急発進)をしているか把握しているのだろうか?平成26年の自衛隊機のスクランブル発進の回数は、943回である(統合幕僚監部・報道発表資料による)。その内訳は、中国とロシアに対するものが半々、すなわちこの二国は毎日隙あらば日本を狙おうとしているのである。自衛隊は他国が攻撃してきたときに守るためだけにあるのではない。その存在だけでも大きな抑止力になっているのである。さらにこれらのスクランブル発進などによる抜け目ない警戒活動によって日本は守られている。しかし残念ながら、このような実態を認識していない日本人も多いらしく、自衛隊の存在意義が正確に認識されていない。

改めて日本の8月の話に戻るが、8月は日本人にとって戦争というものに対して再考する時期である。将来は核兵器は世界から廃絶しなければならない。少なくとも理想論としてはそうあるべきである。原爆投下から71年経ち、広島・長崎での惨劇の記憶が遠くなる中で、オバマ氏が広島を訪問してくれたことは、非常に感謝しなければいけない。これをきっかけに、日本一国だけの核廃絶論ではなく、日米二国を起点として、世界全体に核兵器廃絶の風を巻き起こさなければいけない。

魂が宿る本を読め

普段、地下鉄に乗ることが多く、だいたい地下鉄の中で約30分間、本を読んでいる。今日は、マルクス・アウレーリウスの「自省録」を読んでいた。神谷美恵子さんが訳した岩波文庫版である。

マルクス・アウレーリウスはローマ帝国時代の皇帝であり、哲学者でもある。もちろん遠い過去に亡くなっている。しかし、自省録を読んでいると、マルクス・アウレーリウスが目の前に生きているような錯覚に陥る。なぜそのように感じるのかというと、この自省録という300ページばかりの紙の本の中に、マルクス・アウレーリウスという人物の魂が所狭しと宿っているからだと思う。僕はマルクス・アウレーリウスの肉体ではなく、魂を感じて、その人物となりを感じていたのである。

概して名著と言われる書物には、著者の魂が宿っている。魂が宿っている本を見つけるのは簡単ではないかもしれないが、もしわからなければ岩波文庫を選べばいい。岩波文庫には、過去の名著と言われた古典本がずらりとそろっている。岩波文庫であれば、まずはずれはない。

それから、たくさんの本を速読するより、魂の宿る良本をじっくりと繰り返し読む方がいいと僕は思っている。僕が最近繰り返し読んだ本と言えば、これも岩波文庫であるが、新渡戸稲造の「武士道」である。この本は薄い本であるが、非常に深くて濃い本である。新渡戸稲造と言えば、前の五千円札に描かれた人物として有名だが、非常に志高き思想家・教育家である。

ちなみに、武士道の原著は「BUSHIDO  THE SOUL OF JAPAN」という英文で書かれた本である。新渡戸はアメリカで日本の精神を伝えるためにこの本を書かれた。つまり、日本語版「武士道」は英文からの翻訳本である。

岩波書店は非常に保守的な出版社で、最新の革命的な本が出ることはほぼないが、古典的名著に関しては右に出るものはいない。今一度「魂の宿る本」を繰り返し読むことの重要性を主張したい。

普通の人の生活向上も大切だが、はたして創造的異端者が暴れまわれる環境は日本にあるのだろうか

最近、政治家たちがこぞって「普通の人がより良い生活をできるような社会にする」ということを叫んでいる。もちろんそれはもっともな話であり、国民の大部分が普通の人である限り、それを政策の目玉にするのはもっともなことである。

しかし、日本では昔から「出る杭は打たれる」という格言があるように、異端者に対する風当たりが厳しい。もちろんそれで結果が出た後はまだ良いが、結果が出るまでの過程上は非常に厳しいものがある。

日本は異端者、特に「創造的異端者」をあまりにも冷遇しすぎているのではないか。創造的異端者には限りない可能性が秘められている。しかし判断が難しいのは、異端者が本当に結果を出せるところまでいけるのかということ。普通でない限り、普通の人と同じようにコンスタントに結果が出せるとは限らない。

アメリカでは、多くの人が「いかに出る杭になるか」ということを考えているらしい。しかし日本では「いかに目立たずに無難に過ごすか」ということが美化されている節がある。この様な風潮の中で、異端者が暴れまくるのは物理的にも精神的にも苦しいものがある。

しかしそれでも多くの異端者は暴れることをあきらめようとしないだろう。なぜならそれが異端者であるが所以だからである。

現在の発展した社会は、多くの普通の人の地道な努力と、「異端者の爆発的飛躍」によって築き上げられてきた。そして現在、中国・インドなど新興国が猛烈な勢いで発展してきている。その一方、超大国アメリカはなんだかんだと言われながらもあらゆる分野で世界ナンバー1を維持している。

では日本はどうだろうか。最近はどうも芳しい話はあまり聞かない。いかに発展するかということより、いかに後退を防ぐかということに力がそそがれているように感じる。この様なときにこそ、創造的異端者の爆発力が求められているのではないだろうか。

異端者が異端であり続けられる国にすることこそ、これからの日本の飛躍の原動力になるのではないだろうか。

最高の技術と、最高の人格

つい先日、イチロー選手が日米通算4257安打を記録し、ピート・ローズのもつ世界記録を超えたことは記憶に新しい。イチローは言わずと知れた「世界最高の技術を持ったヒットメーカー」だ。それと同時にイチローは人格者としても知れ渡っている。

今回、イチローが世界記録を樹立した際、元記録保持者のピート・ローズ氏が全く認めなかったことを、大人げないという人は多い。とは言え、別にピート・ローズ氏の人格が低いわけではない。ピート・ローズ氏の反応の方が普通なのだと言える。

しかし、ピート・ローズ氏とは比べ物にならない「最低の人格」と言われた偉大な大リーガーが20世紀初頭に存在した。野球好きなら一度は聞いたことのある名前かもしれない。「球聖」タイ・カッブだ。彼の通算安打数は現在ではイチロー、ピートに次ぐ三位だ。彼は間違いなく最高の野球選手であった。しかし彼の悪行は有名で、野手の顔に目がけてスライディングしていたことは有名だ。まさしく「最高の技術と、最低の人格」を持った人物だ。

イチローが、最高の技術と同時に、「最高の人格」を持っていることは、同じ日本人として誇らしい。まさしく、日本を象徴する人物だと言ってもいいだろう。それから野球に対するストイックな姿勢もイチローの大きな魅力だ。

人間の寿命は有限である。その短い人生の中でどのように自分を表現するか、すなわち「いかにして生きるべきか」という問いを全ての人は持つべきだと思う。おそらくイチローもそのような問いに常に向き合っているのだと思う。

イチローは記録を樹立した時、「ジーターのような人格者に記録を抜いてもらえればうれしい」と語った。このことからも、人間としてどのようにふるまうかということを重要視していることがわかる。

「最高の技術と、最高の人格」を持つためにどうすればいいのか。今の僕には遠い言葉かもしれないが、一歩でもその言葉に近づくために、常に人生に対して問い続けなければならない。