思想、生き方、考え方」カテゴリーアーカイブ

本当に良い物はシンプルだ。

「シンプル・イズ・ベスト」という言葉があるように、本当に良い物はシンプルである。例えば時計なども(もちろん好みにもよるが)シンプルな物の方が飽きが来なくて使い勝手が良い。

そして科学も例外ではない。大理論と呼ばれるものは、その芯は必ずシンプルだ。量子力学はシュレーディンガー方程式が全てだと言えるし、一般相対性理論はアインシュタイン方程式が全てだ。古典的進化論は自然淘汰が全てだと言えるし、iPS細胞は山中ファクターと呼ばれる4つの遺伝子が全てだと言える。

将棋や囲碁のルールは非常にシンプルだが、非常に奥が深いゲームでもある。スポーツで言えば、サッカーは非常にシンプルであるが故に、世界で最も広く親しまれている。世界一速い人間を決める100m走は、最もシンプルで最も注目を浴びるスポーツだと言えよう。

何かを極めようとするとき、二つの道がある。単純化と複雑化である。しかしより後世へ残るのは単純化されたものだと思う。ただしシンプルだからと言って簡単であるわけではない。シンプルな結果を出すまでの過程は、非常に難しく複雑である。その複雑で泥臭い過程を乗り越えてこそ、シンプルで良い物が構築される。

毎日が勝負!

特別な日を勝負の日だと意気込むことはよくあるが、逆に言えば普段は勝負の日ではないということになる。毎日勝負の日が続いていると疲れる気もするが、できる事なら普段の日も気を抜かずに全力投球で勝負したいものである。

現在、メジャーリーガーの大谷翔平選手の活躍が話題になっているが、大谷選手のような先発投手はリリーフ投手と違って、いかに長いイニングを投げて試合を作るかということが重要になる。だから初めから100%の力で投げるということはできない。力を抜くところと力を入れるところの使い分けが重要になる。

野球の先発投手のように、人生もいかにコンスタントに成果を挙げるかということが重要である。そう考えると、勝負する時とそうでない時を使い分けないといけないのかもしれない。しかし全力で勝負して行けるところまで行くという生き方もありだと思う。

そんな全力で出し切る生き方が現在できているとは到底思えないが、とにかく今を全力で毎日勝負するという生き方を目指してみたい。

自分の専門について語るとき、慎重にならなければならない。

自分の専門の事について語るとき、つい冗長になってしまう。専門外の事なら少々間違ったことを言っても言い訳が通じるが、専門の事に関してはそんな言い訳も通じない。

科学を語るとき、意外と真実は一つではない。見る角度によって解釈は異なるし、定義の仕方によっても結論は変わる。答えが一つではないからこそ、自分の解釈が明白に現れ、自分がどのような人物かということが相手に伝わる。だからこそ科学を専門にしている者が科学を語るとき、慎重にならなくてはいけない。

即結果を出す大谷翔平。

今、二刀流・大谷翔平が熱い。メジャーリーグが開幕し、初先発初勝利後、3試合連続の本塁打。もちろん活躍の内容も素晴らしいが、即戦力として求められ、即結果を出すことには頭が下がる。

僕自身は何に対しても意外と粘り強くこなすのだが、大体想定よりもはるかに長い時間がかかっている。時間が決められると時間内にはできない。即結果を出すということができないのだ。

時間がかかっても、それに見合うだけの成果を出せればよいと思っている。しかし人生は有限だ。いくら長くなっても寿命が来るまでに達成しなければならない。

大谷翔平のように大きな結果を即出すという離れ業はできないが、大きな結果を出すべく粘り強く前に進んでみよう。

知識の奥深さ。

科学や医学の事を取り上げるメディアは非常に多いが、それらのメディアで取り上げられている知識にどれくらいの深さを求めるかということは難しい問題である。あまりにも深く専門的になると見る人も離れてしまうので、どうしても表面的・実用的な知識の紹介になってしまう。それらの代表的な例がクイズ番組であろう。

実用的知識や雑学などは非常に面白く、知らないよりも知っていたほうが良いが、その一方で専門的見識を軽視することは非常に危険である。全ての分野において専門的見識を持つことは不可能であるが、自分の専門分野を持ち、その専門分野において深い見識を持つことは非常に重要である。

自分の専門分野を究めることは、その専門分野だけでなく、日常的な知識に対しても思考の深さを与える。表面的な実用的雑学的知識を習得すると同時に、知識を深く掘り下げる作業が人間の幅を広げることになるだろう。

健康であることは、最高の実力だ。

才能と言えば、頭の回転、あるいは行動力など様々思い浮かぶが、それらの才能をたどると、すべて心身の健康に行き着く。

僕の大学時代の恩師である数学者は、自転車で大学まで通い、毎日ハードな筋トレをされていた。あまりにもハードな筋トレをしていたため、くいしばった歯が弱くなってしまったそうだ。その恩師のまねをしているわけではないが、僕自身もこの5年くらいの間、毎日筋トレを欠かさずに行っている。筋トレをして引き締まった体になると、不思議なことに自分に対して自信が溢れ、物事に対して積極的な姿勢が取れるようになる。

余談であるが、筋トレは言い換えると体のメンテナンスと言えるが、体のメンテナンスに気を配ると、自分の持ち物などに対してもメンテナンスに気が配れるようになる。僕自身、靴磨きや鞄のメンテナンスにかなり気を配るようになった。

生きる姿勢として、ある程度健康マニアでいるくらいがちょうどいいのかもしれない。経営者には健康マニアが多いともよく聞く。度を越した健康マニアはさすがに問題があるかもしれないが、健康は最大の実力であると肝に銘じて、健康に気を配るべきなのかもしれない。

自分が自分であるために。

「自分らしくある」とはよく言うが、そもそも自分らしさとは何か?どの自分が本当の自分か?その答えはなかなか出ない。

“自分らしさ”の一つの答えは、現在のそのままの自分が本当の自分であると言える。そして本当の自分とは、時間が経つにつれて変化し続ける。常に本当の自分が同じである続けるということはありえない。

もちろん、本当の自分ということの他に、“理想の自分”というものもある。本当の自分と理想の自分は異なるが、理想の自分へ近づこうと努力することによって、本当の自分を理想の自分に近づけることができる。

ただ、自分は他人ではないのだから、自分が自分らしくあることは非常に重要である。理想の自分でもダメな自分でも、それが本当の自分ならそれでいいのではないか。

企業の研究に、独創性はいらないのか?

タイトルをこのように書いたが、もちろん企業における研究でも独創的な研究はいくらでもある。しかし僕が最近感じているのは「独創的なテーマの選定」の必要性だ。

最近、大手企業をはじめ、AI研究所なるものが続々でき、AI研究に対して巨額の予算が投じられている。もちろんそれだけの予算が投じられる背景には、将来ビジネスとしてそれを上回る利益を回収できる見込みがあるからだろう。

企業は大原則として利益追求のためにあるのだから、儲かる研究に資金を投じるのは当然である。しかし大手企業が新しい独創的テーマを選定できないことに、多少危機感を覚える。それで次世代ビジネスの世界で戦っていけるのかと。

分野が違うと、意外と本質は見えないものなのかもしれない。しかし本質の中には分野を問わず共通基盤的なものもある。そのような共通基盤的な本質を把握することは、どのような対象を専攻するにあたっても必要だと思うのだが。

リスクを取らない人間に魅力はない。

人生とはリスクを取り続けることだと思っている。リスクを取ることを止めた時、人生は意味をなさなくなる。なぜなら人生の活力源はいつの時代でもリスクによってもたらされるからだ。

物事を前に進めようとするとき、最も手っ取り早いのはリスクを取ることである。しかしリスクを取ると言っても金銭的なリスクではない。人生のリスクである。とは言え、リスクという名の通り、リスクをとれば必ず成功するとは限らない。失敗の可能性もあり得るからリスクと言うのである。

安全地帯に居ながら利益だけを享受しようという考えももちろんある。それができれば最も効果が高いと一見感じる。しかしそれは、長い人生をトータルで考えると最も非生産的な考えである。

人生が上手くいけば、何も魅力的な人間になる必要はないのかもしれない。どのような生き方を選択するかは人それぞれだ。しかし、リスクを取るべきところでリスクを取って、人生に意味を持たせたいと考えてしまう。

批判を恐れてはいけない。

最近何かと批判・炎上が話題になるが、批判に対して過敏になりすぎている世論・メディアに疑問を感じる。

例えば、批判が100件あったと言ったら単純に多いようにも思えるが、日本人口を単純に1億人と考えれば100人はたった0.0001%に過ぎない。100万人でやっと1%なのである。もちろん批判的な人たちが皆、批判的行動を起こすとは限らないので何とも言えないが、メディアが十人・百人の批判に過敏になるのは行き過ぎだと思う。

一般論に変わるが、どんなことに対しても批判的な勢力は一定の割合で存在する。だから100%支持されようと考えるのはナンセンスだ。確かに批判の割合が多ければそれは考え直すべきなのかもしれないが、一つ一つの批判に対して過敏になる必要はない。

それに新しいこと、革新的な事を行う場合は、ある程度の批判は付きものだ。これらの批判を気にしすぎていては革新は生まれない。批判を覆すほどの結果を出せば、何も問題はないのである。

不幸にも、科学は人間の役に立ってしまった。

このタイトルは書き間違いではない。“不幸”にも科学は人間の役に立ってしまったのである。

ある物事が人間の役に立つことは悪いことではない。ほとんどの人は、いかに人間の役に立てるかということを考えて物事に取り組んでいるのであろう。

ではなぜ、人間の役に立つことが不幸なのか?

現代において、科学はあまりにも人間の役に立ってしまったので、科学は人間の役に立てるものと誤解している人が多い。いや、ほとんどの人はそう思っているであろう。しかし、ニュートンが物理学を打ち立てたのは役に立てるためではないし、アインシュタインだってそうである。20世紀初めに、相対性理論を人間の役に立てるなどと言ったら、ほとんどの人は鼻で笑っていたであろう。

科学は人類の知見であり、人間のレベルを指し示すものと言ってもいいだろう。人間が人間らしく生きる知恵であり。極端に言えば人間そのものと言える。そのような思想の絶頂期はギリシャ時代であった。アリストテレスもアルキメデスも、人類の知見と思想を高めるために数学や科学の研究に打ち込んでいた。また、それがギリシャ時代の知識人の常識であった。

この様な考えは現代人にはとうてい受け入れられるものではないかもしれない。しかしそれはギリシャ人より現代人が進化した結果だとは言えない。むしろ思想的には大きく退化している。

確かに現代では科学的知識は大きく進歩した。しかし人間の本質的部分では、現代人がギリシャ人から学ぶところは決して少なくない。

目的とするところから逆算して取り組む。

勉強に取り組むとき、多くの人は基礎的な所から順番に積み上げていくという方法を取るであろう。そのやり方は全く間違ってはいない。そもそも基礎ができていないと先には進めない。基礎から順番に取り組んでいくのは、勉強段階では非常に効率的だと言える。

しかし実戦として取り組む、あるいは即戦力として求められている時、基礎から順番に取り組んでいくのは非効率である。まず最終目標となる所に当たり、何をすべきなのかを理解し、そこから逆算して取り組んでいくのが非常に有効的である。もちろんこの手法で取り組むときは、すでにある程度の基礎事項は習得していることが求められる。逆算して取り組むことによって、非効率な重複も避けることができる。

効率だけが全てではないが、効率を求められている時には逆算的手法が非常に威力を発揮するであろう。

先入観を排除せよ!

先入観とは、良く言えば“経験”であるが、悪く言えば“思い込み”である。経験をもとに先入観を構築していくことによって知識は体系化されていくが、壁にぶつかり飛躍が必要になった時には先入観を排除する必要がある。

物理学の歴史で言えば、一番大きな先入観の排除につながったのは、アインシュタインが特殊相対性理論を打ち立てた時であろう。アインシュタインは、それまでの経験的常識であった“ガリレイの相対性原理”を否定することによって、既存の理論を大きく変えることになった。

20世紀の科学における二大発見は、“相対性理論”と“量子力学”である。しかしその成り立ちは大きく違う。量子力学が時間をかけて多くの研究者が構築していったのに対し、相対性理論はアインシュタインが突然世に出した。量子力学の成り立ちが“連続的”ならば、相対性理論は“断層”である。しかし双方に共通するのは、先入観の排除だと言えよう。

科学を例に取り上げたが、これらの教訓はあらゆることに対して言える。既存の事柄の継続を行うのなら先入観によって進めるのが手っ取り早いが、飛躍を望むのならば先入観を排除しなければならない。

一度染みついた先入観を排除するのは容易いことではないが、それを乗り越えた時、その先にはエキサイティングな世界が広がっている。

違う道を通らなければならない。

過去に多くの人を退けた難問に取り組むならば、過去に取り組んだ人間と同じ道を歩んではならない。同じ道を歩めば、同じ壁にぶつかることは分かっている。同じく壁にぶつかるならば、違う壁にぶつからなければならない。

一億円の懸賞金が懸けられた数学のミレニアム問題であったポアンカレ予想の解決への道筋は、まさしく良い例だ。ポアンカレ予想は長くトポロジー(位相幾何学)の問題だと考えられ、ほとんどの数学者はトポロジー的手法によってポアンカレ予想に取り組んでいた。しかしペレルマンは分野違いの微分幾何学的手法によって解決した。

学問でもビジネスでも、大きな問題に取り組むのは良いことだが、それよりも理想的なのは自分で問題を大きくすることだ。さらに言えば、自分で問題を発見するのが最高である。世間では問題を解くことだけがクローズアップされがちであるが、問題を見つけることはそれ以上に重要である。

理想がないと、実現はない。

理想論をバカにする人がいるが、理想論は非常に重要である。理想を掲げることによって、理想に一歩でも近付けるように努力できる。

では、理想はどのくらいの高さに設定するのが良いか?それは自分が最高に達成できるであろう高さ、あるいはそれよりも少し高い所に設定するのが良い。社会に対する理想は完璧を求めがちであるが、そこに穴を作っておくことも非常に重要だ。穴を作ることによって逃げ場を作る。逃げ場のない理想論は非常に危険である。

そして他人に対してはあまり理想を求めないほうが良い。もちろんある程度の理想を求めるのは良いが、ある程度の寛容さも必要である。

全てにおいて完璧な人間はいない。そして理想を求めることは、完璧を求めることとは違う。完璧でないことが理想でありうる場合もあるからだ。厳しさと寛容さを持ち合わせた理想主義者になることが理想なのかもしれない。

経験ではない。

技術・スキルの中には、経験がものを言うものが多い。例えば伝統工芸などは十年以上の経験がいるものは多いし、その他様々なものにおいて経験は非常に重要だ。

しかし、経験が全てではない。生まれながらの才能がものを言うものもあるし、性格が関係してくるものもある。そして、それらの資質と経験の双方が必要になるものもある。そのようなことに関して、経験が全てだというのはナンセンスだ。

まずは自分の資質を見極めなければならない。そのうえで自分にとって最も適切な方向に対して経験を磨くことが必要だ。その方向性を誤れば、経験も水の泡だ。

最後に一つ言いたい。多くの事に関して、何も考えずに経験をだけを積むのは無駄だ。常にどうすればより良くなるか?そのようなことを自分の頭で考えながら経験を積むことが必要だ。頭で深く考えながら行うことによって、何倍もの技術・スキルを身に付けることができる。

資質を見極め、自分の頭で考え、そして経験を積む。その三点を押さえなければならない。

安藤美姫のHW(ハードワーク)。

テレビ番組で、プロスケーターの安藤美姫さんがインドネシアのジュニアスケーターにレッスンをするという企画があった。やはりプロが教えるとこうも変わるものかとびっくりしたが、その安藤美姫の教えを見ていて、自分に対する厳しさとHW(ハードワーク)は相当なものだと感じた。

もちろんどの分野でも、世界でトップになる人物は例外なくHWをこなしている。もちろんそれに加えてビジョンも欠かせない。iPS細胞の山中伸弥流に言えば、VW(ビジョン&ハードワーク)ということである。

自分には何が欠けているのか?ビジョンか?ハードワークか?それとも両方か?まずは自分を知ることが大事である。自分を知れば後は自分に欠けていることを補強する。そして自分の長所を伸ばす。それの繰り返しである。

努力をしないでくだらないことで悩む暇があれば、少しでも前に進むことを考えなければならない。安藤美姫の姿を見てそんなことを感じさせられた。

周りの目を気にする?気にしない?

「周りの目を気にするな!」とはよく言われるが、多くの人はどうしても周りの目が気になってしまう。しかし周りの目を気にすることは悪いことばかりではない。周りの目、世間の目を気にすることは、周りとの協調、社会との協調について欠かせないことであるし、全く周りの目を気にしなかったらその先にあるのは単なる暴走だ。

しかし周りの目を過度に気にするのはよくない。周りの目を気にせずに自我を守るということも大切である。もし何かで一番を目指すのなら、周りを気にせずに自分を信じるということは必須である。周りを気にしすぎるとどうしても二番煎じ、三番煎じになってしまう。

自分を信じることと暴走的なわがままは紙一重である。もし結果的に成功すれば自分を信じる人と言われるし、失敗すればわがままであると言われる。しかし現在の自分の展望に自信があるのなら、わがままと言われることを覚悟で自分を信じてもいいのではないだろうか。

それは原因か?結果か?

こちらは原因を聞いているのに、その答えとして結果を言う人が非常に多い。そうなったのはなぜか?と聞いているのに、それが全然答えになっていないのだ。

これは日常の人付き合いにおいてもよく起こりえることだが、驚くべきことに科学者であっても原因と結果の区別がつかない人がいる。それは特に、生物学・生命分野関係の専門家に多い。

例えば、ダーウィンの進化論などはその最たる例だ。ダーウィンの進化論を履き違えている人は非常に多い。ダーウィンは、何かを(自然が)欲求すればそのようになってくると言いたいのではない。ダーウィンの本質は自然淘汰である。しかし多くの人はそれを理解できていない。ダーウィンの進化論において、自然淘汰を遺伝子レベルで厳密に解明することは大きな課題であろう。

原因と結果の違いを理解できないということは、非常に危機的状況である。そのような点をしっかりと見抜かなければ、疑似科学・エセ科学に騙されることになる。そういう意味では小さいころから科学的素養を身に付けることは非常に重要である。

心と体は連動する。

人間というものは、心と体の双方が存在することによって成り立っている。心だけの人間なんていないし、体だけの人間もいない。心の調子が不安定の時は体の調子にも影響する。だから体の健康を保つためにはまず心を健全にしないといけない。

ただ、強靭な精神力で思い通りにいかない体を維持する人間もいる。先日亡くなった物理学者のホーキング博士だ。ホーキング博士は手足などの体がほとんど動かない。そのような状況でどのように研究を行い、どのように書物を執筆していたか想像できないが、それらの大きなハンデも強靭な精神力があれば乗り切れるのであろうか。

ホーキング博士の生き方を見ていると、小さなことでくじけそうになる自分が恥ずかしい。くだらないことで悩む自分が恥ずかしい。「大丈夫なのか?」ではなく「何とかなる!」という思考が大事なのだろう。保険より挑戦が大事だ。

人間は誰しも寿命がある。百数十年後には現在生きている人間は確実に死んでおり、人類は全て入れ替わっている。その世代に受け継がれるのは体ではなく精神である。そのような精神を打ち立てるためにも、今生きている体を健全に保つことを心がけなければならない。

心の容量。

心の容量(キャパシティー)に余裕がないと、寛容な判断ができなくなる。そのように余裕がない時、その理由は二つある。一つは元々の容量が少ない場合。もう一つはいろいろ詰め込まれて空きがない場合だ。

心はパソコンのストレージと同じで、いかに空き容量を確保するかが重要だ。しかし簡単に容量を増やすことができない一方、油断すればすぐに容量は少なくなってしまう。

ストレスフルな現代社会において、寛容に振る舞うことができないこともよくある。人に対してストレスを感じるとき、その原因はその人にあるのではなく、自分の心に余裕がないことが原因であることに気付く。人に対して寛容になれないことは、自分に対して大きな制限にもなってしまう。

容量を少しでも大きくし、無駄なものは抱え込まずに心に余裕を持たせる。それはなかなか簡単な事ではないが、日常においてそのようなことを意識しつつ寛容に、そしてさらに心臓に毛を生やすことができれば、人生がより明るく、そして軽やかになるであろう。

人生で、社会で、暴れまくる!

普通、暴れまくると言えば迷惑な話に聞こえそうだが、人生において、そして社会において暴れまくることは、究極であり重要だ。自分のテリトリーで、そして自分の専門分野で、日本国内だけでなく世界の舞台で暴れまくることは重要である。

ただ、多くの人はおとなしすぎる。遠慮をしすぎる。何かで前に出ようとするとき、厚かましいくらいがちょうどいいのである。

最近は良くも悪くもオンリーワンということが重視され、競争とは距離を置く風潮がある。なぜか競争というものが悪者にされているが、社会の本質は競争であると言っても過言ではない。山に籠って仙人にでもならない限り、競争は避けられない。

ただ競争だけに明け暮れるのではなく、自分のオリジナリティーをじっくり発酵させることももちろん重要である。発酵という言葉の通り、これは非常に時間のかかることであるし、我慢がいることでもある。

自分が自分でいるためにどうすればいいか?競争の中にいながらも、自分の独自性というものを見極め温めなければならない。そしておとなしくいるだけでなく、それぞれの世界で暴れまくらなければならない。

弱さを見せれる人になれ!

弱さを見せられるのは、強さの裏返しである。本当に弱い人は、弱さをひた隠しにしようとする。いかに弱さを見せられる人間になれるか、そこに人間としての器が試されている。

弱さを見せて、それが相手に受け入れられるようになれば、もう十分に強い。自信を持って見せる弱さには、強さがにじみ出ているからだ。逆に弱さを隠すために見せる強さは虚勢でしかない。虚勢を張っても、見る人によってはすぐに見抜かれる。自分がそこまで強くなくても、少しずつ弱さを見せいていけばいい。弱さを見せることによって本当の自分を自覚し、自分がどの方向に進めばいいのかが見えてくる。

弱さを見せて強くなる。そんなことが自然にできれば、意識しなくても一歩ずつ理想への階段を昇って行けるであろう。

もはや震災後ではない?

太平洋戦争後、1950年代だろうか?「もはや戦後ではない」という言葉が流行ったらしい。これは戦後のネガティブな意識から脱却して、次の時代へ向かおうという未来志向な意識の表れだと思う。戦後ではないとは言っても、必ずしも戦争を忘れるということではない。

3.11、東日本大震災から7年経った。震災を風化させてはいけないが、「もはや震災後ではない」という意識も大事なのではないだろうか。もちろん東北の現地の住民は十分に未来志向の意識を持ち、次へ進もうとしているのだと思う。いつまでも震災後ではいられない。

歴史も人生も、過去を教訓にしながら未来を見据えて進むものだと感じる。過去を忘れてはならないが、過去を引きずってはならない。人生で言えば「もはや過去の自分ではない」という未来志向の意識が大事なのだと思う。

歴史も社会も人生も、常に過去を乗り越え、そして未来の自分を構築するために時には過去の自分を捨てないといけない時もあるのかもしれない。今重要なのは、過去ではなく未来なのだから。

健康であるということは、最大の実力だ。

人間一生、常に健康であるということはありえないだろう。誰しも調子を崩したり病気になったりすることはある。しかし健康をいかにして維持するかということは非常に大事である。

健康を崩して思い通りにいかなかったということはよくあることだ。しかし、「実力はあるけど調子を崩して上手くいかなかった」という言い訳は極力するべきではない。なぜなら、健康を維持できるかということも、非常に大きな実力の一部であるからだ。健康であることは、大きな才能である。

そんな僕も過去に大きく調子を崩したことがある。それが故に思い通りにいかなかったことも多々ある。しかしそれも人生の重要な一部分であり、調子を崩して上手くいかなかったのは実力が足りなかったからだと思っている。

しかしそのように上手くいかなかった過去を覆して挽回できれば、それも大きな実力である。全ての事は実力だと僕は思っている。

過去は変えられない。だから過去を悔やんでも仕方がない。しかし未来は思い通りに変えられると僕は思っている。あるいは、未来を思い通りに変えられるかということも実力に大きく関わってくるのかもしれない。一番重要な実力は、自分の未来を変える力であると言えよう。

睡眠は善か?悪か?

僕は自他共に認める超ロングスリーパーだ。しかし日常においてロングスリーパーであることによるメリットはほとんどなく、デメリットでしかない。しかも睡眠リズムは非常に不規則だ。

ところで睡眠は善なのか?悪なのか?よく「寝ているのは死んでいるのと同じだ」と言われる。確かに寝ている間は社会生活を何もしていないので、そういう意味では死んでいるのと同じと言えるかもしれない。しかし当たり前の話だが、睡眠を取らずに生活を送っていれば、生活や社会活動の質は圧倒的に落ちてしまう。そういう意味では起きている時の質を上げるためにも睡眠は欠かせない。

タレントの武井壮さんは1時間しか寝ないらしい。実際テレビ番組で武井さんの睡眠の検証をしていたが、(真実は分からないが)本当であるらしい。僕には考えられないことだが、社会には3時間ほどしか寝ない超ショートスリーパーがいる。かのナポレオンも3時間しか寝なかったという話は有名だ。社会生活において、取り組む時間の長さが鍵を握る仕事をしている人にとってはショートスリーパーであることは非常に重要だ。

その一方、圧倒的に質が重要な仕事も存在する。もしかしたら学問の研究もそうかもしれない。相対性理論で有名な物理学者・アインシュタインもロングスリーパーであり、一日10時間寝ていたという話は有名だ。

通常の日常生活・社会生活を送る上では適切な睡眠時間、あるいは適度に短い睡眠時間で規則正しく生活することが一番理想的でメリットが多いかもしれないが、特殊な例では睡眠の多さが鍵を握る活動を行っている人もいる。ただしこれらの人は社会的には非常に厳しい立場に置かれることが多いようだ。

裏は見せるべきではない。

人間はいろいろなことに対して裏も知りたいという欲求があるが、多くの事に関して裏はあまり知らないほうが良い。特にエンターテイメントにおいては、それを仕事にしない限り裏の事は知らないほうが良い。

19世紀に活躍した大数学者ガウスは、社会に結果を公表するときには完成した建造物(数学理論)だけを見せるべきであって、建造物を構築する際に作った足場(理論構築の過程)は見せるべきではないと言い、そのことを自身の美学としていたという。それは理論としては洗練しているが、他の数学者からすればガウスがどのように考えていたかがつかみにくいところである。

しかしただ単に楽しみたい時には、数学にしてもエンターテイメントにしても、表面的な事をなぞるだけの方が面白いことが多々ある。裏にある現実を見ると、あまりにも生々しく冷めてしまう危険性があるからだ。

仕事に関しては徹底的に裏を知る必要があるが、日常生活を普通に楽しみたいのならあまり裏に深入りしないほうが良いだろう。

必要なことではあるが、重要なことではない。

必要な事をするのは意義がある。それに必要な事は誰かがやらなくてはいけない。ただし、必要な事と重要な事は違う。必要とされている事は、調査をするなりして把握することは可能だ。しかし重要な事は何かということは、物事の本質を理解しないと把握できない。

社会では、役に立つかどうかという物差しで判断されることが多いが、突破口となる一撃を撃つためには根っこがどこにあるかということを把握して、そこを狙い撃ちしなければならない。

重要な事を攻めることができる一部の人間になれるか?それとも小さいが必要なことをするのか?どちらが良くてどちらが悪いという問題ではないが、どちらにしても自分がどこに意義を感じて何を取り組むべきかということを熟考することが求められる。その際、物事の全体の構造を把握しないと的確な判断からずれてしまうことになる。

自分で自分の事を語れるか?

意外と自分の事を語れる人間は少ない。周りにいる人、あるいは有名な人で凄い人の事を語る人は多いが、自分に関してはそこまで語れるところまでたどり着いていないのかもしれない。

自分を語るうえで重要なのが、過去の自分を語るのではなく、未来の自分を語ることだ。過去の栄光にいつまでも浸ってはいけない。そして過去の「もしも」に取りつかれてもいけない。未来に対するビジョンを明確に持ち、それを実行したうえでたどり着く未来の自分について語らなければならない。

自分の事を語れる自分になるためには、今何をすればいいか?それに対する自問自答を繰り返しながら少しでも前進することが重要である。

お風呂でアイデア。

ノーベル賞物理学者の益川敏英博士は、ノーベル賞につながった理論のアイデアを入浴中に思いついたという話を以前耳にしたことがある。それが本当かどうかは分からないが、お風呂では何かとアイデアが思い付くものだ。

僕自身も、その日のブログに書くテーマはお風呂で考えることが多い。お風呂はリラックスできるので、いろいろとアイデアが浮かぶのかもしれない。

昔、「風呂単」というものが流行った。文字通り、お風呂で覚える英単語帳のことだ。お風呂で覚えるということ以上に、水に濡れても大丈夫という紙の方に興味が行ってしまうが、お風呂を利用して商機を見つけようという風呂単製作者のアイデアには脱帽だ。

細部を詰めるのは机の上でしかできないかもしれないが、その突破口となるアイデアを見つけたい時には、お風呂の時間を利用するのが非常に有効かもしれない。

最近、僕が評論をしなくなった理由。

最近の僕のブログを見て、気付かれた方もいるかもしれない。それは、最近あまり評論を書かなくなったことだ。なぜ評論を書かなくなったかと言うと、それは実行者への敬意を表するためだ。

はっきり言って、評論をするだけなら何とでも言える。誰でも好き勝手に言える。しかし本当に必要なのは評論者ではなく実行者なのである。政治で言えば、政治評論家ではなく政治家であると言えよう。

もちろん、政治に関して言えば評論者・評価者の存在は非常に重要である。それが無ければ政治家は暴走してしまう可能性がある。しかし評論家以上に政治家が重要なのは当然であろう。重要であるからこそ、大きな責任を背負い、その対価として権力が授与されていると言えなくもない。

政治の話はひとまず置いておくとして、何に関しても実行者の存在が一番重要である。だからこそ僕自身も、評論者ではなく実行者でいたいと思っている。そして実行者として実績を残そうと何とかもがいている。

評論をしている暇があれば、少しでも実行して当事者になる心構えが非常に重要である。