思想、生き方、考え方」カテゴリーアーカイブ

自分のパーソナリティとしてのブランド化。

ブランドと言うものは、そのブランドが示す統一感と言うものが重要になってくる。例えば車で言うなら、レクサスのスピンドルグリル、BMWのキドニーグリルなどが典型である。車の前面のグリルを見ると、何の車か瞬時に判断できる。車以外でも、ブランドのロゴ、形、色など、それぞれに統一感を持たせることが一つの重要な戦略となってくる。

それらの統一感は、人間にも言える。イメージカラーや服のタイプの傾向、そしてもちろんその人の人間性なども、その人自身を瞬時に印象付けるには非常に重要だ。もちろん、人間と物は違う。だからブランド品の戦略をそのまま人間に当てはめることはできないかもしれないが、それでも自分のイメージカラーなどを決めることによって、その人のパーソナリティが生まれてくる。

例えば僕ならば、イメージカラーはネイビーだと決めている。もちろんそれ以外の色の服を着ることも多々あるが、これからは自分に統一感を持たせて行こうと考えている。こんなことを考えていると、「内面は疎かにしていいのか?」と言われそうだが、もちろん内面があっての外見であるので、内面を磨くことは前提条件である。そして内面に自信がある人は、それに加えて外見も整えて行くといいのではないだろうか?

人間をブランドに例えると、それは決して家柄や血筋だとは全く思っていないし、それは違うと思う。自分で自分自身の内面と外見を磨いてこそ、自分のブランドができてくる。間違ってもブランド品を身に付けると自分がブランド化されると言う話ではない。ブランドと言う言葉に拒否反応を示す人もいるかもしれないが、自分をブランド化することは非常に重要である。自分が何に打ち込み、いかに努力しているか?そのような事が自分のブランド化へとつながってくる。そしてそれは自分をどこまで高められるかと言うことへの挑戦でもある。

変化する。

人間は変化すべきか?変化すべきでないか?答えは簡単には出ない。しかし一人の人間として変化すべき所は変化し、変化すべきでない所は不変であるべきである。しかし難しいのは、“どこを”変化すべきかと言うことである。

僕は基本的な信念として、常に変化すべきだと考えている。昨日の僕よりも今日の僕、そして今日の僕よりも明日も僕が必ず発展しているべきであると考えている。人間と言うものは、歳を取るごとに体力も頭脳も衰えて行くと言われている。しかしそれは絶対ではないと僕は考えている。衰える一つの原因は、必ず衰えるものだと言う先入観にあると僕は思っている。そして医学的にも衰えることは証明されているのかもしれない。しかし昨日の自分がまだまだ低いレベルならば、自分の努力次第で明日は昨日よりも発展していることができる。そう考えて僕は毎日過ごしている。

そして常に発展していくためには、常に変化していくことが必用だ。特に表面的な事になるほど、大きく変化することが必用だ。だから日常の行動や思考は常に変化を求めるべきである。しかし、一番芯となる意志や思想はそう簡単には変えるべきでない。もちろん、現在の意志や思想が間違っていると思うのならば、積極的に変えるべきである。そこを変えなければ、単なる無益な頑固者である。そして意志・思想の方向性が固まっているのならば、あとはそれを熟成していくだけだ。もちろん、熟成と言うのも変化の一つである。熟成をさせないと、どんどん腐っていくだけだ。僕は人間は死ぬまで発展することが可能だと考えている。そして僕はそのような事に挑戦して行こうと思っている。

「楽しむ」と言うことと「楽をする」と言うことは全く違う。人生は常に楽しまなければならない。時には「楽しむ=苦しい」という時も多々ある。目先の楽を取るか?将来の輝きを目指すか?僕は100%将来の輝きを目指している。結果が出るまでは非常に苦しいが、自分を本当に信じれるのは自分しかいない。だから自信があるならそれを徹底的に信じて自分を変革していかなければならない。

ミクロとマクロを結ぶ。

ミクロとマクロは対極的な概念であるが、それと同時に一つの事象の表裏でもある。ある側面ではミクロ的な様相を見せ、またある側面ではマクロ的な様相を見せる。なので、ミクロ的な側面とマクロ的な側面の双方を理解することが、本質を掴むためには重要である。

それらのことは、学問に関しても言える。物理学ではミクロの極致は素粒子論であり、マクロの極致は宇宙論である。生物学で言えばミクロの極致は分子生物学であり、マクロの極致は進化論や生態学だと言える。そして、それらの二つの極致は、研究が発展する中で融合へと向かう。例えば、素粒子論的宇宙論などがあり、分子進化学などがある。それらの片方だけを見ていれば何かを見失ってしまう。なぜならマクロはミクロの集合体であるから、マクロを本質的に知ろうと思えばミクロを知ることは不可欠になる。またミクロ的事象はマクロ的世界の中に存在する。

ここでは物理学と生物学を例に取ったが、そのような事は普段の日常においても言えることだ。社会を理解するためにもミクロとマクロの双方を知ることが必要だし、人間付き合いにおいても大局と細部を把握することが必要だ。それはつまり、広い視野を持たなければならないと言うことだ。普段の行動において計算ばかりしていてもやはり空気と言うものを読む必要に迫られる。意外と計算だけに基づいて行動を起こす人は、結果的に上手くはいかないのではないだろうか?そのようなことは、意外にも科学の研究から学び取ることができる。科学と言えば計算・論理一辺倒に思えるが、それを行うのは人間である。最近ではコンピューターが計算を行ったりもするが、それらのコンピューターを制御しているのは人間である。計算と論理を推し進めると同時に、その背後に人間の意志の存在が必用である。

しかし世の中全般を見れば、感性や感情などに傾いているように思える。その割には見当違いのところで計算にこだわったりする。そのような感性と計算の使い分けは、やはりある程度人間のセンスの基づくのではないだろうか。つまり、そのようなセンスがない人が多いと言える。もちろん、徹底的に論理で攻めなければならない場面もある。その時は論理的思考力で徹底的に推し進めなければならない。大局的な視点を持ち。ミクロとマクロ、そして計算と感情を使い分ける柔軟性が必要なのではないだろうか?

体系的知識。

学校の教科書が「つまらなく退屈だ」と言う人は多い。そして面白おかしく知識を断片的に標語的に書かれている本が人気のようだ。そのような本が無意味なわけではなく、入門的な役割もあるので、入口に誘うという価値は大いにあるが、僕はそのような本だけで知識を仕入れることには大きな危険があると考えている。なぜなら、そのような本からは断片的な知識を習得することはできるが、体系的に知識を身に付けることは困難だと感じるからだ。では、体系的知識を身に付けるためにはどのような本を読めば良いか?それは教科書を読むことである。教科書こそ体系的知識の構築においては最強のツールなのである。

確かに教科書を退屈に思うのも分からないではない。教科書は面白おかしく書かれているわけではないし、標語的に書かれているわけでもない。しかし教科書の構成は非常に考え抜かれている。そして著者一覧を見れば分かるように、一流の学者が執筆に参加している。ある意味、初めの一冊として教科書を外すのは非常に大きな損失である。もし面白おかしく書かれた本を読みたければ、それはサブとして読むべきである。僕は教科書が退屈だとは思わないが。

では、なぜ体系的に知識を構築することが重要なのか?それは新たな知を構築するためには、それまでの知識の体系の上に新しい知識を乗せる必要があるからだ。そのような時、断片的知識だけでは使い物にならない。さらに新し知識の関係性も不明になる。そのような事は、数学の歴史を見れば明らかだ。なぜ現代数学が日本や中国などの東洋ではなく、ヨーロッパで発展したのか?それは「体系的に構築したかどうか」の一言に尽きる。江戸時代の和算は、技術的にはヨーロッパの数学をしのぐほど高度なものであったと言われる。しかしそれらの技術が断片的で、体系的な構築がなされなかったのである。それに対して、ヨーロッパの数学は徹底的に体系的である。そのような伝統が、フランスの数学者集団ブルバキのような構造主義を生み出したと考えられる。

もし本気で新しい分野に取り組みたいと思ったら、まずは教科書を読むべきだ。歴史なら高校の日本史・世界史の教科書を読めば良いし、科学ならこれも高校の物理・化学・生物・地学の教科書を読めば良い。そしてさらに先に進みたければ、大学レベルの教科書、そして専門書へと進めばよいのである。さらに先に行きたければ論文を読めば良い。なので、体系的知識習得の原点は高校レベルの教科書にある。僕もこれまで取り組んでこなかった専門外の分野に取り組む時は、まずは高校教科書に目を通す。最近なら、これまでほとんど立ち入ることのなかった世界史の教科書に取り組んだ。僕は教科書と言うものは知的に非常に面白いものだと思うのだが、どうだろうか?

時間は巻き戻せないのだから。

当たり前の事ではあるが、時間を巻き戻すことはできない。なので過去の事を「あの時、もしこうしていたら」と考えることは僕は無意味であると考えている。少なくとも自分の人生に関しては常にそう考えている。ではどう考えればよいか?それは過去の事を考えるのではなく、未来の事を考えるのである。「これからどうすべきか?」と言うことを自問自答しながら人生を歩んで行くことを心がけている。

そうは言っても、僕だって過去の事を考えることもある。そして時にはそれが無意味であることも多々ある。しかし過去の事を考えるときは、それが未来の発展につながるように考えることが重要だ。過去を見直し、それを基に未来へつなげていく。そう考えて行けばかなり明るい未来が描けるのではないか?

現在の自分は、人生で三番目に苦しい時期だと僕は思っている。しかし人生で一番苦しい時期と比べると、今の苦しみなどは屁でもない。しかも現在は苦しくても、明るい未来を描くことができている。もしかしたら僕くらいの年齢の人はこれからどう流していくか?と言うことを考えているのかもしれな。あるいは(僕よりも上の世代で言われていることだが)どう逃げ切るかと言うことを考えている人もいるようだ。しかし、僕の人生はこれからだ。これから結果を出す自信もあるし、人生を徹底的にシンジョイ(元阪神の新庄選手並みにエンジョイすること)できる自信もある。今はその最終準備段階だと思っている。だから今は苦しくても、大きな充実感を感じている。自分の思い通りにいかないことも多々あるが、そこをどう解決するかも自分の腕の見せ所である。今はすごく苦しいけど、すごく楽しい!

過去の栄光がどうだなんて、僕には全く関係ない。(そもそもそんな栄光があるかどうかわからないが。)必要なのは、これからどう輝いていくかだ。これからの僕は、とてつもなく輝いている自信がある。しかしそのためには、大きな努力も必要だし、人間としても強く面白くなければならない。そのレベルは非常に高いことは自分でも自覚している。しかしだからこそ意味のある目標だと考えている。さあ、これからどう登って行こうか!

紙の本と電子書籍。

近年、紙の本の勢いが衰え、電子書籍が勢いをつけてきていると言う。紙の本が良いか?電子書籍が良いか?人によって様々だとは思うけど、どちらも一長一短あるような気がする。僕自身は根っからの紙の本派だけど、最近は電子書籍も良いのではと思ってきている。

特に最近、専門の数学・物理関係以外の本、例えば化学や生物学関係の専門書を買うことが多くなった。するとこれらの分野の専門書の特徴として、とてつもなくページ数が多いのだ。本格的な本になると、千ページ超えは当たり前。こうなると当然持ち運びなどはできるはずがない。ならばiPadなどに電子書籍を入れて、千ページの本を何十冊も持ち運ぶ方が圧倒的にメリットが大きい。とは言え、やはり紙の本によるメリットも無視できない。なので、数学・物理関係の本は(ページ数がそんなに多くないこともあり)、全て紙の本で購入する方針は変わらないと思う。

一番良いのは、紙の本と電子書籍の両方を購入することだ。家では紙の本で読み、外出先では電子書籍で読む。これが最高であるが、当たり前の事ではあるが値段が二倍することになる。しかしそれも投資と考えれば悪くないのではと思う。

少し余裕ができれば、12.9インチの大型iPad Proを買おうかと思っている。大型iPad一つあれば、外出の際も非常に身が軽くなる。それでいて本が何十冊、何百冊と携帯できるのだ。そう考えると、これからの時代は電子書籍へと流れるのも必須である。しかしそうは言っても、僕は紙の本は永久に捨てることはないと思う。紙の本と電子書籍の双方のいいとこ取りをして、時間と能力を最大限有効に活用することが求められる。そのための金銭投資は惜しむべきではない。これでこれからの自己投資の方針の一部が定まった!

お金は必要だよ。でもそれが全てではないんだよ。

あるタレントが「お金が全てだ」と言い張っていたのを見て、いろいろと感じるところがあった。おそらく多くの人は、お金が全てだと言う言葉に対して反論したいであろう。僕だって同じである。しかし、そのように言い切る彼女に対して、ある種のたくましさを感じたりもするのである。確かに反論したいところはいろいろある。しかし人間の本音として間違っていないのではないかと思うところもいろいろあるのである。

生きるためにも遊ぶためにも、お金は絶対に必要である。そしてお金はないよりかはある方が圧倒的に良い。しかしだからと言って、お金が全てではない。お金で買える幸せは、現実問題として沢山あると思う。しかしお金では買えない幸せもあるのも事実である。だから本当の幸せとは、お金によってもたらされる幸せとお金では買えない幸せの両方手に入れることかもしれない。健康もそうである。お金があれば最先端の検診を受けて予防したり、最先端の治療を受けることによって病気を防ぐことができる。しかしお金ではどうにもならない健康もたくさんあるのも事実である。

お金が全てではないことはほとんどの人にとっては明らかだが、お金に対する割合がいくらかと言うことは人それぞれ違うと思う。お金が90%だと言う人もいれば、10%と言う人もいるだろう。前出のタレントにとっては、お金が100%だと思っているのだろう。しかし一度健康を害するようなことがあれば、それが正しくないことがわかると思う。

とは言え、お金を稼ぐことに精を出すことは悪くないし、むしろ仕事に精を出すことによって人生に活力が生まれるものだ。このような活力も幸せのうちの一つである。同じ一億円でも、宝くじで当たった一億円と努力して稼いだ一億円は全く価値が違うものである。このように努力して稼いだ一億円によって人生が活力に満ち溢れ、心身ともに幸せと健康になるものだと思う。なので、お金が全てではないが、お金を最大限有効的に幸せにつなげることが必要なのではないか?そうすれば例え現在は沢山のお金があるわけではなくても、費用対効果として最大限の幸せを手に入れられる。そしてそれが将来の大きなお金にもつながってくるのかもしれない。

セルフブランディング。

ブランドと言うものは、何も鞄や時計などのいわゆるブランド品だけではない。人間自身をブランド化することも非常に重要である。ブランドとは付加価値であるが、そこには長年積み重ねてきた信頼なども含まれる。そして忘れてはならないのは、ブランドを築くことは時間もお金も非常にかかるが、失うのは一瞬だと言うことである。

では、具体的に人間のブランドとは何か?それは外見、内面、そして才能などすべてに関する総合力の評価である。例えば、日本においてその最高峰にあるのは、イチローさんや山中伸弥教授であろう。もちろん、それらの人は自分で自分のことをブランドだなんて全く思っていないだろう。またそこが素晴らしいところであるが、そのように無意識にブランディングできているところがすごい所である。そのように、ブランディングは意識をすればできると言う簡単なものではない。しかし、意識をしてセルフブランディングをすることも、戦略として重要な事である。

ビジネスマンであれば、自分の市場価値と言うものを強く意識するであろう。そしてそのような市場価値を上げるためにセルフブランディングすることは不可欠である。先ほど書いたように、人間のブランディングには内面、外見、才能など多岐にわたって関係してくる。才能などはすぐに身に付けられるものではないが、しかし努力によって向上することはできる。外見に関しては、そこだけ熱心に力を入れても張りぼてだと言われるかもしれないが、しかし何も意識しないよりかははるかにマシである。外見、内面、才能の全てを磨けば、単に三倍になるのではなく、相乗効果で何十倍、何百倍もの魅力になる。なので、もし自分に才能が有り人間としても素晴らしいのならば、そこに外見まで気を配れば百人力である。

ブランディングにおいて外見は非常に鍵となり、またそこを見ればかなり判断をすることができる。それは、外見を磨いてもそれが魅力的に見えなければそれは張りぼてであり、外見の素晴らしさが相乗効果でより一層魅力的に感じることができればそれはその人の価値あるブランドである。なので、自分をブランド化することを目標にすることは、非常に良質な目標である。しかしもちろんそれは簡単な事ではない。しかし努力と戦略によっては決して不可能ではないはずだ。

僕が本を買いまくる理由。

僕は今、いや、昔から本を買いまくっている。とは言え、冊数ベースで言えば僕と同じくらいの数の本を買っている人はそれなりにいるだろう。しかし金額ベースで言えばおそらく日本国民の上位1%に入るだろう。さらに収入からの割合で言えば、完全にホンゲル係数王(エンゲル係数をもじっている)であることに間違いはない。なぜ僕はこれまでに本を買い続けるのか?その理由を書いてみたい。

研究者には二つのスタイルがある。一つは完全に頭の中だけで完結する人。もう一つは多くの専門書を駆使して考える人。前者の人はかなり記憶力が良い人だと考えられるが、僕は記憶力が良くないので後者にならざるを得ない。そのような僕にとって、本は生命線でもある。なので、本にどれだけお金をかけるかが結果にも跳ね返ってくると強く思っている。

そして何より、本が大好きなのである。本屋には毎日のように顔を出しているが、最近は雑誌や一般書はほとんど買わない。それらは全て立ち読みで終わらせる。その分を専門書に回しているが、最近はこれまで僕の専門外だった生物学などの専門書なども積極的に買っている。これが意外と面白いのだ。これまでは数学バカ、物理バカで来たが、生物学や数理脳科学、化学なども取り組んでみると非常に面白く魅力的なのである。そして大事なのは、取り組むからには新しい結果を出さなければならない。単なる趣味では終わらせないと強く心に思っている。

本は財産だと昔から言われているらしいが、この言葉をどれだけの人が理解しているだろうか?本は人間の第二の脳なのである。言わば拡張人体とでも言うべきであろうか?一冊数千円で第二の脳が身に付けられるのならば、これは非常に安いのではないだろうか?稼いだお金で第二の脳を買いまくるのも、意外と悪くないものだ。

科学とゲーム。

科学は大なり小なりゲーム的な要素がある。そして科学をゲームと捉えられている人は絶対に強い。科学者とはある意味、プロゲーマーと言えるだろう。とは言っても、娯楽的に時間を潰すためのゲームでは決してない。人生を懸けたゲームなのである。

ゲームと対照的な位置にあるのが勉強だと言えるだろう。よく小学生などが親から「ゲームばかりしないで勉強をしなさい」と言われるシーンがある。これはある意味、ゲームと勉強を対照的物事と捉えている点で本質をついていると言える。しかし大事なのは、科学を勉強としてやるのではなくゲームとして取り組むことなのである。だから親たちは「勉強ばかりしないでゲーム(科学)をしなさい」と言うべきである。

科学を勉強として取り組んでいる間は、まだまだ四流五流である。科学をゲームと捉えることができれば一流の手前の二流と言えるかもしれない。しかしその先がある。その先(一流)が何なのかと言うことは人それぞれ違うし、僕が言うことでもない。なぜならそれが何なのか?それは自分で考えるべきことだからである。