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それは受け取る側が決める事だ!

近年、「何とかハラスメント」と言う言葉が度々取り上げられている。セクハラ、パワハラ、スメハラなどいくつものハラスメントが存在する。しかしそのようなハラスメントを加える人間の多くは、それがハラスメントだとは認識していない。逆に認識していないからこそハラスメントが横行するのだとも思う。

しかし近年の社会風土を見ると、このようなハラスメントが行き過ぎではないかと感じることもたまにある。当たり前の事だが、ハラスメントと言う言葉を逆手にとって、他人を陥れるのは論外だが、一部ではそのような事も存在しているようだ。

ではそもそも、何を持ってハラスメントが存在すると言えるのか?それは受けた側が不快に感じているかどうかだ。決めるのはあくまで受け取る側なのである。例え加えた人間がそのような認識が無くても、受けた側が不快であればハラスメントは成立する。「そのようなつもりはなかった」は基本的には通用しない。もちろん、常識的な範囲であれば考える余地はあるが、大抵は周りから見ればハラスメント的な要素は確認できる。

危害を加えて「そのようなつもりはなかった」と言い訳をするのは、人間としてもかなり卑劣である。しかしそのような弁解は社会でかなり横行している。これは普段の冗談にも当てはまる。冗談を言ったつもりでも、それを受け取る人が冗談だと受け取らなければそれは冗談ではないのだ。さらにたちが悪いのは、言った方が「おまえは冗談も通じないのか?」と開き直ることである。相手に通じない冗談を言い、それが通じない責任を相手のせいにする。これは非常に困った人たちである。冗談かどうかは受け取る側が決める事である。冗談だと言いたいのならば、言葉使いのスキルと常識的な知識、そして言う人の人間性を上げなければならない。

評価とは基本的に周りの人が行うことである。もちろん、自分の信念の正しさを自分で確認する分には、自分で評価すればよい。しかし人間のコミュニケーションというものは、基本受け取る側が評価するものである。自分の起こした行動を自分で評価するのは、多くの場合自分のエゴでしかないのだ。

一流とは?

社会では「一流とは何か?」と言う事がしばしば取り上げられる。僕のブログでもたまに一流と言う言葉を取り上げている。ではそもそも一流とは何か?

一流と言う言葉は、大きく二つの対象に使われる。一つは物に対して、もう一つは人間に対してだ。ブランド品に対して、一流ブランドだとか二流ブランドだとか言われることが多い。僕自身、ブランドに対しては全く否定的ではないし、確かに一流ブランドというものは物としても本当に一流であることが多い。しかし勘違いしてはならない事は、一流ブランドを持っている人が必ずしも一流の人間ではないと言う事だ。どのような物を持ち、どのような物を身に付ければ“外見的”に一流なのか?それはその人にふさわしい物を身に付ける事である。だからエルメスを身に付けている婦人より、ユニクロを着ているアクティブな女性の方がはるかに一流で魅力的だと感じることも多い。もちろん、精力的に活動し、それによってお金を稼ぎ、そのお金でエルメスを買って身に付けているのならばその人にふさわしく、一流の物を身に付けた一流の人間だと言える。ある意味、一流ブランドは人を選ぶ。それはお金を持っているかと言う事では全くなく、その人の生き方・人間性が一流か?と言う事である。

では一流の人間になるためにはどうすればいいか?決して一流ブランド品を持っていたり稀有な体験をしているから一流という訳ではなく、一流の人間が一流の物を身付けているから価値があるのである。お金を持っている三流人間が一流ブランドを身に付けている事ほど痛いものはない。

人間が一流かどうかと言う事は、生き方・人間性・思想に由来する。常に人生に対して挑戦し続けているか?人に対して思いやりを持ち、困っている人を助けることが出来るか?深い思考によって物事を考えることが出来るか?一流とはそのような事である。もちろん僕自身がそのように完璧な人間か?と言われれば完璧ではないが、自分が出来る範囲の事だけでもそのような人間に近づきたいと思っている。

生き方を見れば、その人が何流かは大体分かる。見かけだけの張りぼてか?あるいは外見からは想像できないくらいの精力的な生き方をしている立派な人間か?もちろん、人間性も外見も両方立派であれば非常に素敵だ。

一流の人間は大体仕事にこだわっている。二流は趣味にこだわる。一流は趣味さえも仕事にしてしまうたくましさがある。ただ、決していくら稼いでいるかと言う事が問題である訳ではない。趣味と仕事は覚悟が違うと言うことである。覚悟を持って物事に取り組めているかと言うことである。

ゴルフ・全英女子オープンで渋野日向子選手が優勝したが、彼女は常にスマイルを出し続け、考え込んでいる様子は微塵も感じさせなかった。そこに一流を超える“超一流”を感じる。超一流は、生き方でも魅せ、結果でも魅せるのである。もちろん、そのような結果を出せる選手は一大会一人だけに限られる訳だから、そんなにボコボコ出現する訳ではない。しかし人間性は誰でも磨ける。まずは自分自身の人間性で魅せられる人間になることが目指す所ではないだろうか?もちろん人間であるからには、良い所もあれば良くないところもある。良くないところを矯正しても魅せる人間にはなれない。良くないところがあっても、良い所をさらにレベルアップし魅せて行くことが大事ではないだろうか。

英語力で評価されるのは二流だ!

女子ゴルフの渋野日向子選手がゴルフ・全英女子オープンで優勝した。渋野選手のいつでもスマイルが話題になったが、優勝スピーチも見る者を惹きつけた。渋野選手の優勝スピーチの英語はお世辞にも上手いとは言えないし、はっきり言って中学レベルである。しかしそのような中学レベルの英語スピーチを、「英語力が低レベルだからダメだ」と言う人はおそらくいない。なぜなら、本業であるゴルフのプレーでしっかりと世界一と言う結果を残しているからだ。彼女の上手くない英語力がゴルフの評価を下げることは全くないのだ。それどころか、最後に笑顔で放った「サンキュー」と言う一言が彼女の魅力をより一層強いものにした。

しかし世の中では、何かと「英語力が重要だ。英語力を身に付けないといけない。」と言われている。極端な場合では、「英語が出来ないと全てがダメだ」と英語力だけで人間を判断されることもある。しかし英語力は何のために付けるのか?それは、自分が取り組んでいる事をよりスムーズに進めるためだ。言い方を変えると、英語力は補助でしかないと言える。だから本業で圧倒的な力を見せることが出来れば、英語力などはどうでもよいのである。もし英語力で自分の力を評価されているのならば、それは本業で力を出せていない、自分が二流であると言うことである。

以前、ノーベル物理学賞を受賞した益川敏英博士は、英語が大の苦手であったと言う。確かノーベル賞授賞式でのスピーチでも、博士は日本語でスピーチしたはずだ。しかし博士が英語が話せないと言う事によって評価が下がったなどと言う事は聞いたことがない。それは彼の研究力が一流だからである。

渋野選手はこれから世界を転戦すると思われるので、英語力もこれからメキメキと付けて行くであろう。そして彼女の英語力はこれから彼女のプレーを大きく助けて行くと思われる。しかし彼女の評価は英語力でされるのではなく、ゴルフのプレーによってされる。なぜなら彼女は一流のゴルフプレーヤーであり、英語力ではなく、プレーと彼女自身の人間性に魅力があるからである。

「楽しい」の先。

今、何かに真剣に取り組んでいる人は多いだろう。ではなぜ、その対象に真剣に取り組むのか?

「好きこそものの上手なれ」と言う言葉があるように、楽しんで物事に取り組むことは非常に大切だ。そして人によっては、楽しむ事が一番の目的だと言う人も多いだろう。それも非常に素晴らしい事である。物事を極めて行くと、どんどん楽しくなる。その対象を理解し上手くできるようになれば、どんどん楽しくなる。ある意味、楽しさを感じると言う事は一つの到達点だと言えるかもしれない。

しかし物事を極めて行くと、その「楽しい」の先がある事に気が付く。スポーツに関しても学問に関しても、二流と一流の違いは、その先に気付くことではないかと僕は思っている。オリンピックで金メダルを取った選手が「非常に楽しめました」と言う事がよくある。その言葉は本当であろう。しかし、その金メダリストは、確実に「楽しいの先」を見通している。楽しいの先を見通しているからこそ、単に「楽しい」だけでは終わらせず、そのさらに上を目指せるのだ。テレビで金メダリストが言う「楽しめました」と言う言葉を聞いて、頂点に立つためには楽しむ事が全てだと勘違いする人がいるが、楽しむ事は必要条件であって、十分条件ではない。

では、「楽しい」の先とは何か?これは非常に難しい問題である。しかし一つ言えることは、本質を見ることに関係していると言う事である。本質を理解することは最大の喜びであり、また「楽しい」以上の快感である。しかし簡単には本質は理解できない。やはりかなりの修業を積まなければならない。そのような修業は決して楽なものではない。もしかしたら楽しくも何でもないこともあるかもしれない。しかし嫌ではないのだ。進んでそのような状況に身を置こうとしてしまう。なぜそのような状況にわざわざ身を置こうとするのか?それは「楽しい」の先を見ているからだ。「楽しい」の先とは何か?これは誰かが教える事ではなく、自分で気付くことだ。そして自力でそれを見通すしかない。

しかし初めは、楽しむという事が非常に重要だ。スポーツや学問を始めた子供なら、楽しむ事以上に重要な事はない。しかしそれを真剣に究めようと思うのならば、「楽しい」の先に気付くことは避けられないと思う。それに気付けば、あとはそこにたどり着くまでのビジョンを基に細部を詰めて行くだけだ。

心臓に毛を生やす。

僕は人生を積極的に、そして攻撃的に挑戦して行こうと前進している。そのような姿勢と安定は相反するものかもしれない。僕自身も安定を望んでいる訳では全くなく、むしろ人生に安定を求めたら自分の人生は終わりだと思っている。

しかし、そのように挑戦するためには、精神的には圧倒的に安定していることが必要だ。どんなことにも動じない精神力、そして圧倒的な余裕を身に付けなければならない。僕自身、数年前と比べると、かなり精神的な安定と余裕を身に付けて来れたと思う。しかしまだまだ完全ではない。僕の目指す所にはまだまだ達していない。しかしこれから、その目指す所にある精神力まで達する自信はある。そのためにこれからは心臓にどんどん毛を生やしていかなければならない。

心臓に毛を生やすとは面白い表現だと思うが、何なら脳にまで毛を生やして行こうと思っている。もちろん、頭に毛を生やし続けることも非常に重要である。精神は脳に宿る。ならば脳に毛を生やすと最強ではないか!心臓に毛を生やすことが出来れば、脳にも毛を生やすことが出来る。そのような毛だらけの精神を身に付けるために精神力を上げて行こう。

今現時点ではいろいろと苦しい事には間違いないが、ただ非常に充実している。目の前には明るい未来しかない。ただその明るい未来を完全に実現させるためには、まだまだ心臓に毛が足りない。挑戦し続けるために、どんどん精神的余裕を身に付けて行かなければならない。僕がまず実現すべきことはそのような圧倒的な精神力だと非常に感じている。そしてそれは実現可能だと確信している。

本の読み方、「専門書は2回読む」。

僕は平均よりはかなり本を読んでいる方だとは思うが、それらの本を読んで行くうちに自分なりの本の読み方というものを会得してきた。一般書に関してははっきり言ってどうでもよいと思っているので、軽く読む時もあればじっくりと読む時もある。そんなに読み方にこだわりは持っていない。

問題は専門書(論文を含む)の読み方である。僕は専門書をかなり買いためているので、はっきり言って全ての専門書を読破するのは不可能だ。そもそも専門書というものは読破するためにあるのではない。本に書かれている知見を基に、自分の構想を実現するためにある。だから専門書の読破にこだわることは無意味だ。しかしもちろん、じっくりと読破する専門書もある。しかし多くの専門書は、必要な知見を修得すれば、それで十分なのである。必要ない記述の所を読むのに力を入れるのなら、その力を他の専門書の必要な部分に向ける方が良い。

昔、僕の恩師の大学教授が、「本を最初から最後まで読もうとするのは素人だ。」と言っていた。学生のうちはどうしても「読破感」を求めてしまうので、最初から最後まで読もうとする。途中で読むのを止めるのは、必要な所を修得したからではなく、リタイヤが原因であることが多い。まあ、リタイヤすると言う事は、よっぽど無意味で退屈だからなのかもしれない。本当に必要だと思えば、何が何でも読み続けようとするものだ。

専門書を読む時は、一度目はかなり速いスピードで読み飛ばす。そして全体の概観を掴むことを重視する。数式の厳密な計算にもこだわらない。そして二度目はじっくりと細部を詰める。もちろん、計算も全て確認する。一度目の読書で概観を掴んでいれば、二度目は意外とすんなりと入るものだ。一度目の読書で概観を掴んでいるかいないかで、理解は大きく変わる。一度目から熱心に細かい計算をしていれば、それが何のための計算かわからなくなることがある。自分のやっている計算の意味を掴むためにも、一度目の速読は必要だ。

僕の専門書の読み方はこんな感じだ。もちろん、このような僕のスタイルは一夜にして確立された訳ではなく、長い時間をかけて確立されたものだ。そして僕に合っているスタイルが、他の人に対しても合っているとは限らない。時間をかけて、自分独自のスタイルを確立することが重要なのである。

必要なのは技術か?アイデアか?

日本では技術力が過度に高く評価される傾向がある。もちろん高い技術力がある事は素晴らしいが、ただ技術力があるだけでは何も成し遂げられない。技術というものは何かに応用して初めて威力を発揮するのであって、その「どのように応用するか?」というアイデアなしでは何も成し遂げられない。

逆にアイデアだけでも何も成し遂げられないし、学問で言うと、アイデアだけでは単なる素人の妄想でしかない。アイデアは具体的に構成して初めて意味を持つ。その具体化は技術によって成し遂げられる。

すなわち必要なのは、技術とアイデアの双方なのである。この二つは車の両輪である。片方が欠けても前に進まない。ただ、役割分担と言う事は出来る。アイデアを出す人と技術を持っている人が融合すればいい。もちろん、一人でアイデアと技術の両方を持っていれば理想的であるが、なかなかそのような人はいない。企業も同じで、良いアイデアと高い技術力の双方を持ち合わせている企業は少ない。

今日本で問題になっているのは、高い技術力を持ちながらも良いアイデアを出せない事である。日本の技術力は誰が見ても世界トップレベルである。しかし、現在非常に威力のある分野であるスマホ製品を見ても鳴かず飛ばずである。僕自身も日本企業は高い技術力を持っていると思いながらも日本製品に魅力を感じず、アップルのiPhoneを愛用している。日本企業がiPhoneのような素晴らしい製品を作ってくれればどれだけ良いかと思うが、現状を見るとそれは期待できない。日本企業は高い技術力を持ちながらも、アイデアは他国企業の後追いばかりである。

数学においても、計算力が抜群にあろうが豊富な理論的知識があろうが、それをどのように発展させるかと言うビジョンがなければ新しい理論を構成することはできない。もちろん、数学以外の学問においても同様であろう。学生のうちは、熱心に勉強してたくさんの知識を身に付ければ良い。本もたくさん読めば良い。しかし、学生を卒業した後はそれらの知識を基にアウトプットをしていかなければならない。そのためには、読書をして技術を付けるだけでは何の進展も望めない。アウトプットするためには、はっきり言ってビジョンなき読書は無力なのである。アイデアを基に実行しなければ何も生み出せない。今、日本が陥っている「技術バカ」ではなく、また「アイデアのみのド素人」でもなく、「技術とアイデアの双方を兼ね備えた実行家」として遂行することが必要なのである。

本質的には、一人の力だ!

日本では何かと「みんなで力を合わせて」と言う言葉をよく使われる。確かにたくさんの人間の力が必要な事は多いが、そのような場合でも実質的には一人の力が大きくものを言っていることが多い。例えば二人で共同作業を行う時、貢献度が50対50なんてことはありえない。ほとんどの場合90対10、あるいは99対1という割合だ。大体、50体50で行うことは一見公平に見えても、実際は非常に効率が悪い。それぞれの力を最大限に発揮するためには、どうしても90対10にならざるを得ないのだ。

90対10なら、もちろん報酬も90対10にすべきだ。しかし、このような貢献度を正確に測るのは難しい。正確に分かるのは、二人、あるいは何人でやったという人数である。そうなると、この正確に分かる人数という数字で報酬や評価を等分割することになる。この様に、「見かけ平等」という不平等な状況があらゆるところで作られることになる。

それが嫌なら一人でやるしかない。しかし一人で全部やると言うのは、体力的負担以上に精神的負担が大きくのしかかる。しかしそれに耐えられるのならば、一人でやると言うのはなかなか良い選択だ。自分の目指す所へ、自分のやりたいように進めることが出来る。もちろん金銭的制約、そして社会的制約から完全に自由である訳ではない。取り組む対象を乗り越えると同時に、制約を乗り越えるという二つの壁を乗り越えなければならない。

多人数でやる場合、貢献度は決して等分割ではない。自分の力を合わせたからできたのだと言う人もいるが、ほとんどの場合一人の力に乗っているだけだ。そろそろ何でもかんでも「みんなで力を合わせて」という発想を止めたほうが良いかもしれない。社会とは多くの人間の営みの集まりであるが、そこを重視しすぎるあまり、一人で成し遂げるという発想が希薄になりすぎている。人間、「自分一人の力で、出来うる限り成し遂げる」ということも非常に重要である。そのような行為を繰り返すことによって、独力を身に付けなければならない。

人の言う事は真に受け取らない方が良い。

落合博満氏が中日のルーキーの根尾選手に対して、「人の教えを真に受け取らない方が良い」と言ったという。僕はこの意見に対しては非常に同感であり、僕自身もこれまで人の意見にできるだけ頼らずに生きてきた人間だ。野球界ではこれまでコーチの教えを真剣に受け入れ、そして潰れて行った人が山ほどいると言う。これは何を意味しているのか?それは「自分の事は自分が一番良く知っている」ということだ。そして無批判に人の意見を受け入れるのではなく、自分の頭で徹底的に考えて試行錯誤することが重要だと言う事である。

それは学問に対しても同じである。小学生や中学生ならともかく、大学で学問を学び研究するのなら、人の教えなど基本的に聞かない方が良い。そもそも学問と言うものは、自分の頭で思考して身に付けられるものだ。だから人から教えてもらうと言う行為は最終手段にした方が良い。一般的には、「人の意見をよく聞け!」とよく言われるが、それは平均的レベルの人間の話であって、もし頂点を目指すのならばむしろ「人の意見を聞くな!」あるいは「人の意見に左右されるな!」と言う事である。ただしこれはあくまでも、トップを目指す人間に対してのことである。多くの人間にとっては、人の意見を聞く方がはるかにメリットが大きく効率的である。

当たり前の事だが、プロ野球選手というものは野球界の頂点に君臨する者である。さらに根尾選手はドラフト一位という、ルーキー選手の中ではトップレベルの選手である。そのような選手に対しては落合氏が言うように、人の意見は真に受けない方が良いという意見は最もである。しかしそのような意見は、「自分の頭で考えろ!」と言う事でもある。

何もわがままで人の意見を聞かない訳ではない。自分の頭で考えることを重視しているからこそ、あえて人の意見を受け付けないようにしているのである。もちろんそのような姿勢で極めることは、かなり非効率である。しかしトップを目指したり大事業を成し遂げるためには、そのように非効率的ながらも徹底的に自分の頭で考えることが必要になる。現在の世の中は「効率!効率!」と効率性重視一辺倒である。そのような社会では小者しか生まれない。ただ生きて行くだけなら、そのような生き方の方がはるかにメリットが大きいだろう。しかしそのような生き方とは全く違った価値観を持った人間も世の中にはいる。圧倒的な少数派であるが、人の意見を受け付けず徹底的に自分の頭で考える。そのような非効率の極みの先に、自分の目指す世界が存在するのである。

自分を守らない。

生きて行くにあたって、自分を守ることは非常に大事かもしれない。ただ自分を守ることに専念しすぎると自由な身動きが取れなくなってしまう。さらに思考パターンが固まってしまい、頭脳からも自由さを失ってしまうことになる。

そこで僕がたどり着いた結論は「自分を守らない」と言う事だ。何かに取り組もうかどうかと考えた時、まずは自分を自由にする。もしそれをすることによって自分が犠牲になったとしても、それで良いのだ。実際はほとんどの場合自分が犠牲になることはない。大体97%は上手く行くのだ。犠牲になる3%の確率に恐れて動かないのはおかしい。だって97%は成功するのだから。もし残りの3%になれば諦めれば良い。そのような割り切りが重要である。

そもそも3%の失敗を過度に恐れることは、多くの場合ほとんどメリットはない。それどころか97%の成功の確率を信じて動き続ける方が、トータルで見るとはるかに得るのもが大きい。さらに3%の失敗が起こったとしても、大抵の場合人生が終わる訳ではない。まあ、終わったら終わった時の事である。それくらいの楽観性を持って進みたいものである。

もちろん、3%の失敗を恐れて動かないのならば、それはその人の自由である。しかしそれらの人は、97%の成功を目指して行動をする人が得るものを得る権利はない。ただそれだけである。もしかしたら、成功は50%かもしれない。いや、時には成功が3%の時だってある。しかしその可能性に懸けるのも悪くないと思う。とにかく自分を守ることを優先することだけはしたくない。そのためには自分をさらけ出すことが必要だ。

どこまで自分を守らないで進むことが出来るか?そのような挑戦的な人生があってもいいと僕は強く思っている。