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体のコントロール、頭のコントロール。

自分の調子を把握するのは、意外と難しい。いや、それが簡単にできる人も多いのかもしれないが、僕にとってはかなり難しい。そしてさらに、自分の調子を把握して、それをもとにコントロールしなければならない。これも簡単にできる人は多いのかもしれないが、僕にとっては至難の業だ。

自分の調子と言っても、大きく二つに分かれる。体の調子と頭の調子。体のコントロールは筋トレでもしていくらでも強固にできるが、僕にとって手ごわいのは頭(脳)の調子だ。

頭の調子を整える上で一番重要になってくるのは”睡眠”であろう。僕にとって、この睡眠のコントロールが難しいのだ。コントロール不能と言ってもいいだろう。

上手く睡眠をコントロールできたときは、一日の質と量が違う。睡眠に一日がかかっている。

一日は寝る前に始まっている。睡眠は僕にとって一番の勝負時だ。適切な睡眠が取れるかどうか。本当に普通の人にとってはなんてことのないことかもしれない。しかし僕にとっては一大事なのである。

ちなみに体のコントロールはバッチリである。

体と頭は車の両輪である。双方上手くいってこそ、飛躍的なパフォーマンスを発揮できると考えている。

アマチュアのトップか、プロの端くれか。

アマチュアとプロの違いは何か?という問題は単純ではない。その境目が曖昧なものから、将棋や野球のように明確に規定されているものもある。

とは言え広く一般に、”お金をもらっているのがプロ”という定義もあるが、それならば、給料をもらっているアルバイトもプロになってしまい、明らかに違和感を感じる。

プロとは何か?という定義はさておいて、プロとアマチュアの間には大きな断層が存在する。多くの分野で、アマチュアのトップでもプロの端くれには太刀打ちできないことが多い。その最たるものは、今話題の将棋であろう。

将棋は4段からがプロである。3段まではプロの前段階の奨励会員と言う身分である。言わばセミプロと言う感じかと思うが、完全なアマチュアとは違う感じがする。アマチュアの”4段”が、奨励会の”5級”と同じくらいだと言う話を聞いたことがある。即ちトップアマチュアでも奨励会の一番下にほぼ太刀打ちできないと言うことであろう。

プロとアマチュアのもう一つの大きな違いは”プロ意識”であろう。このプロ意識のあるなしは、その分野で戦っていくうえで大きな違いを生む。取り組む姿勢・時間・こだわりなどによって、プロとアマチュアの間にあった差はますます大きくなっていく。

趣味でやればいいという人はともかく、その分野で戦っていき、トップを目指す者としては、分野を問わず”プロ意識”を持つことは非常に重要だ。そういう意味で僕は、アマチュアのトップを目指すことより、まずはプロの端くれを目指すことの方が計り知れないくらい大きな意義があると感じている。

今までやってこなかった新鮮さに取りつかれる。

最近、コンピューター関連の事が面白い。今まではずっと数理物理(数学と物理)しか眼中になくて、その他のことは余力でという感じだったが、今、コンピューターにはまっている。Python(パイソン)などのプログラミング言語、ディープランニング、LinuxなどのOS、面白いものは手当たり次第に当たっているが、その先のプランも考えている。

とは言え、やはり数理物理はゆずれない。物事に優先順位を付けることは非常に大事だが、最近は面白いことには全て全力で取り組んでみようと思っている。

とは言っても一日は24時間、睡眠を省くとさらに短くなる。全てを全力で取り組むためには一日の計画をしっかりと考えなければならない。睡眠のコントロールが苦手な僕にとっては至難の業だ。

とは言え、この歳になって新鮮さを感じることは幸せだ。今は遊びの範疇を出ないかもしれないが、それを超えようとも思っている。

人生、修行とエンジョイのバランスが大事だ。修行もエンジョイするくらいになれば一人前かもしれない。

昔、阪神タイガースにいた新庄剛志選手は、常にプレーを楽しみ、ファンにも楽しませてくれた。シンジョイ(新庄がエンジョイする)と言う言葉があるくらいだ。いつかはその境地にたどり着きたいものである。

本は財産。本にかけるお金は人生への投資。

世の中を見ていると、本を読む人と読まない人が極端に分かれるような気がする。もちろん本にお金をかけて読まない”積読”は少し良くないかもしれないが、全く本に接しないよりかはかなりましである。特に専門書は、読むのにかなりの時間と労力がいるので、必然的にある程度”積読”になってしまう。しかし、積読状態である専門書は、研究への自由度の広がりになる。

本の価値は読んだ人にしかわからない。価値がわからないから読まないのか、読まないから価値がわからないのか、鶏が先か卵が先かという問題かもしれないが、人生を価値あるものにするためにもある程度の読書は必要だ。

そして読む本の”質”も重要だ。基本的基礎的文献を読まないで、自己啓発本などの表面的な手っ取り早い本ばかり読んでいては薄っぺらい人間になってしまう。何をするのにも、苦しんでこそ得られるものがある。

ただ、苦痛を感じながら読むのもあまり意味がないのかもしれない。やはり読書も楽しんだ方が圧倒的に良い。そのためには「自分の興味は何か?」ということを自分で認識しなければならない。

本への投資は自分への投資。本は財産。

質の良い価値ある人生にするためにも、人生のお供に質の良い価値ある本を。

結果ありきか?過程ありきか?

物事に取り組むときに、まず目標を掲げることが多いだろう。もちろん目標を掲げることは、非常に意義のあることである。

しかしその目標が、中身のあるものか、外見だけのものか、それらによって大きく意味合いは変わる。

外見により目標、例えば起業であれば「何億円稼ぐ」とか「3年で株式上場する」とかであるが、それだけでは物事は全く進まない。まず「何(なに)で」ということを明確にしないとスタートは切れない。

よくビジネスで成功するためには「”何で”にこだわらないことが大切だ」と言われるが、それは「何で」と言う手段(過程)をいくつも思い描いていて、どれで進めるかこだわらないという意味だ。しかしこの「何で」という手段を定めることが一番難しい。

とは言え、手段を一つに絞る必要は何もない。いくつかあれば、それを全て進めるというのも一つのやり方であろう。全てに全力をつぎ込めるのなら、二兎・三兎の獲物を追えばいい。そうすれば中には大谷翔平のごとく、二刀流・三刀流で活躍する者が現れるかもしれない。

思い込みによる、思考の暗示。

僕はかなり自信家だ。と言っても、今までに何か大きなことを成し遂げたわけでも、人生に成功したわけでもない。

しかしそんな”成し遂げた”とか”成功した”ということは、所詮過去の事でしかない。未来のことに過去のことは関係ない(もちろん関係あることもいろいろあるが)。なので、過去の失敗にとらわれて自信をなくすなんてことはアホらしいと思っている。

例え周りから見て根拠のない自信と思われても、自然に湧き出てくる自信には本人にとっては実際は根拠がある。そして根拠のない自信というのは非常に力になる。心も元気になる。未来を肯定的にとらえられるようになる。

この様に根拠のない自信によって自分を暗示させることによって、成功への道筋が見えてくれば、あとはその道を突っ走るだけだ。

みんなと違っててもいいやんか!過度に協調性を求める日本社会に疑問。

初めに言うのも何だが、僕は協調性がない。取り組んでいることに対する目標も、かなりこだわりがある。とは言っても、何らかの障がいがあるとか、そういうわけではない(睡眠に関してはかなりひどいが)。とは言え、いろいろな意味で自分勝手だとみられることが多いので、周りからの風当たりは強く、精神的にもかなり疲れる。

いろいろ悩み症な所はあるが、陽気でゲラゲラ笑っていることも多い。つい最近、お笑い芸人のカズレーサーさんが、この20年間悩んだことがないという話をしているのを聞いて、悩んで得なことなど何にもないことに気づき、かなり心の持ちようが変わった。少し楽にもなった。

自分は普通の人と比べると変かもしれないし、生き方も普通の人とかなり違う。もちろん、”普通の人”とは何かと問われれば、画一的な答えはないのかもしれないが。でもそんな自分に誇りを持っている。

数学と物理に関しては、すごく真面目に取り組んでいる。数学と物理が大好きだ。

僕は普通の人とはかなり違うかもしれないが、

みんなと違っててもいいやんか!

大きな夢、大きな目標に向かって。

逆転的発想の勉強法

勉強とはどう遂行すべきか?ほとんどの人が「基礎的な事から始めて徐々に応用的事柄に進めていく」と考えていると思う。それはそれで真っ当なことで、正統的な勉強法であろう。

しかし(分野にもよるが)「いきなり最先端なことに取り組んでみて、足りないところを基礎的な文献で補う」という勉強法が非常に効果的なことがある。まず現場で手を動かしてみて、何が足りないかを理解する、ということだ。

”分野にもよる”と書いたが、この勉強法が非常に効果的な分野の一つが、コンピューター関係であろう。コンピューター関連の事は、実際に手を動かさなければ何も始まらない。分厚いWindowsの教科書をどれだけ読んでもパソコンを動かせるようにならない。まずは実戦である。

物理や数学などの学問でも、基礎的文献を理解することは大事だが、実際に最先端の論文に触れてみることは非常に重要である。

基礎から始めて、初めの何分の一でいつも挫けてしまう人は、思いっ切って最前線の事に取り組んでみるのも一つの手だと思う。

人間の”教養”としてのプログラミング知識が必要だ。

最近は、身の回りのほとんどのものが何かしらプログラミングされている。従って、現代社会を理解するうえで、プログラミングの知識が重要になる。プログラミングを知ることによって、「何ができて、何ができないのか」ということを知ることが、非常に重要である。

「物事を知る」と言うことは、「何ができないかを知ること」である。コンピューターによって便利になったことは多いが、しかし世の中がコンピューターに取って代わられたわけではない。

そして最近の風潮で一番危険なのが「AI(人工知能)によって何でもできるようになる」という考えである。この「何でもできる」というところが大問題である。なぜなら、”何でもできる”と考える人は、実は”何も理解していない”からである。

これは科学も同じである。科学を理解している人は、「科学には何ができないのか」ということを理解している。科学を理解していない人は「科学によって何でもできる」と考えてしまう。

プログラミングを少しでもかじれば、”コンピューターには何ができないのか”、そして”AIは何でもできるわけではない”ことが理解できるであろう。

実戦的英語力。

最近、グローバル社会化が急伸し、国際コミュニケーション力、とりわけ英語力が非常に重視されている。僕も英語力はつけたいと思い何度も英語の参考書を開くのだが、全然集中力が続かない。ご想像の通り、僕の英語力は最低レベルである。

とは言え、大学院時代から数学・物理関係の洋書・論文は読んできたので、専門の英文はだいたい辞書なしで読める。専門英語は専門用語と初歩的な文法がわかれば読めるのである。と言っても、僕は初歩的な文法力も非常に怪しい。わからない単語もしばしば出てくる。しかし辞書はほとんどひかない。わからないところは前後の文章の関係から推測するのである。

専門洋書は読めても、子供が読むような簡単な英語で書かれた物語は全く読めない。実は文法的には専門洋書よりも、物語の方がかなり高度である。専門の英語は、世界中のどの研究者が読んでも正確に理解できるようにするため、文法的には非常に簡単になっているのである。

教養としての英語も大事だと思うが、研究や仕事といった実戦的な英語力を付けることは教養英語以上に大事である。英語力のない僕が言っても全く説得力がないかもしれないが、実戦英語は英文を完璧に理解することではなく、わからない部分も推測して解釈することが重要だと思う。それができれば、意外とスムーズに読めるようになるものである。