思想、生き方、考え方」カテゴリーアーカイブ

努力の価値。

僕自身、今努力できているか?と言われれば少し疑問だが、ただ努力しようと努力している(変な表現だが)ことには間違いない。しかし努力の一番難しい所は、その努力が必ず結果に結び付く保証はないと言うことではないだろうか。確実に結果に結び付くと言う保証があれば、今の倍くらいの人が努力をするのではないだろうか。しかし努力をしない多くの人は、努力をしても成功するとは限らないという思考から来るものだと思う。

では、努力そのものに価値はあるのか?これは非常に難しい問題であり、それぞれの価値感に基づくものだと思う。僕自身は、必ずしも結果に結び付かなくても悔いはない(いや、ある程度は悔いがあるだろうが・・・)と思って努力をしているが、そう思って努力するためには努力そのものに価値を見出せないとやって行けない。しかし現実は、努力そのものに価値など見出していない人がほとんどだと思う。もし結果が出なかったらその努力など何の価値もないと言う人々だ。確かにそう言われればそうかもしれない。努力そのものに価値を見出している僕がバカなのか?

しかしこのような観念論を延々と繰り返しても仕方がない。これは結果を出して示すべきだ。努力に価値があると言っている人が結果を出して成功すれば説得力がある。しかし何の結果も出せなければバカであると言われるだけである。だから努力をして結果を出すことが重要である。

もしかしたら、努力は苦しいものだと思っている人が多いのかもしれない。確かに苦しい時も多々ある。しかしやりがいだとか結果を出した時の達成感と言うものは格別である。しかしやはり一番重要な事は、結果を出して成功することかもしれない。しかしそのためには、多くの失敗を経なければならないことは確かである。

挑戦と継続。

最近、何だか新しいことに取り組んでいないような気がする。例えばこのブログを立ち上げたころには、色々と新しい取り組みを考えたりして動き回っていたような気がする。もちろん、このブログを立ち上げたことも新しい挑戦だった。レンタルサーバーを借りたりワードプレスのシステムを使ってブログサイトを構成したりと、何だか挑戦的だったような気がする。確かにその気になれば誰でもできることかもしれないが、おそらくほとんどの人はその気にならないのではと思う。

とは言え、新しいことに挑戦することと同じくらい重要なのが、継続することである。「継続は力なり」と言う言葉があるように、継続と挑戦は一体であるべきだと考えている。例えば数学の研究と言えば、その原点は小学一年生から始まる算数に行きつく。僕はその前の幼稚園のころからいろいろと算数計算をやっていた記憶がある。そう考えると、数学とは大学時点ですでに十数年の継続であり、その後に研究の世界に入ると20年30年と継続していくことになる。そしてそのように継続しながら、時にはその中で挑戦を繰り広げて行くことになる。

継続と惰性はある意味紙一重と言える。しかしその精神は全く異なるものである。継続に伴う挑戦は精神を突き詰めていくことであり、惰性はある意味楽な方に身を任せることである。どうでもいい事は惰性に身を任せればよいとは思うが、時には挑戦すべきこともある。しかし、大人になれば惰性に身を任せて行く人も多いように感じる。例えば、大会社に入ってその後どうすべきか?もちろんその会社の中で挑戦を繰り広げる人も多いだろう。しかし一部の人間は、会社に入るとゴールにたどり着いたように考え、後は惰性に任せて給料をもらうことにのみこだわる人もいるようだ。それは学校に関しても同じだ。志望校に入学すると、そこがゴールなのか?そのような人の余生はあまり明るくないように感じる。

継続と挑戦、その二つが融合したとき大きな力を発生させるのだと僕は考えている。僕は数学と物理に関してはこれまで途切ることなく継続してきた。そしてその時々で挑戦に打ち込んでいる。後は結果を出すだけだが、それも時間の問題だと感じている。確実に言えることは、僕の人生に余生などと言うものはないと言うことだ。なぜなら僕が一番嫌いな生き方は、惰性に任せると言うことだからだ。

知を得るために、リスクを取る。

何かを得ようと思えば、何らかのリスクを取ることは必要だ。例えば好きな女の子と付き合いたいと思えば、告白をしなければならない。しかしそれには振られるリスクもある。それは知を得ることに対しても同じだと言える。知を得るために何のリスクがあるのかと不思議に思うかもしれないが、実は様々なリスクが存在する。例えば金銭的なリスク、時間に対するリスク、自由に対するリスクなど、今考えただけでもこれだけのリスクが浮かび上がる。少なくとも、日本にいればこれらのリスクは受け入れなければならない。

そしてこれらのリスクを受け入れることにもつながるのだが、重要なのはとにかくアクションを取ることだ。アクションを取ることによって、あることに関してはリスクが増えるが、あることに関してはリスクを低減することができる。なのでリスクの大小だけでアクションを起こすかどうかを考えるのはナンセンスだ。しかし確実に言えることは、アクションを起こさなければ総合的に考えれば確実にリスクが増えると言うことだ。

日本人の国民性として、リスクを出来るだけ取らない傾向があるように思える。だから石橋を叩いて、さらに叩いて、そして結局渡らないと言う人もかなりいる。ある雑誌で読んだのだが、イスラエル人のビジネスは、不完全な製品でもとにかく世に出して、そして欠陥があればその都度直していけばいいという考えらしい。つまり日本人とは真逆な思考なのだ。だからこそ、日本企業とイスラエル企業が組めば、相補的な効果があり成功するとも言われている。もちろん、ある程度理想論であると言えるが。

無駄な事にわざわざアクションを起こす必要はないかもしれない。例えば、自分の利益にならないことには一切関わらない人も多い。しかし周りの人はそのような事をよく観察している。なので、利益にならないと言って関わらないことが、結局不利益に繋がることを理解した方が良い。物事は大局的に考えるべきであるし、さらに利益のあるなしに関わらず動くべき時もある。そのような事ができなければ、結局信用を失っていくことになるのだと思う。

環境構築。

環境構築は非常に大事である。しかし自分で作り上げられる環境がある一方、自分ではどうにもならない環境も存在する。なので、自分で何とかできる環境はできる限り良好な環境を作ると同時に、自分ではどうにもならないネガティブな環境をどう克服するかということも大事である。

環境には、お金でどうにかなる環境と、お金ではどうにもならない環境がある。お金でどうにかなるものならある程度のお金を出すべきだが、しかし時には手に入れるためには莫大なお金が必要な事もある。湯水のようにお金がわいている人にとっては莫大なお金を出せばよいが、そこまでお金に余裕がない人にとってはそれはリスクで補うしかない。リスクと言うとネガティブなイメージしかないかもしれないが、意外とリスクを取ることによって新しい発見に気づくこともある。最近の僕も、非常にストレスのかかるリスクが迫りくることによって、便利さにつながる新しい発見があった。とは言っても、ストレスがなくなるわけではないので、人間としていかにストレス耐性を付けるかと言うことも重要である。

僕が最近行っている環境構築は、主に文献とコンピューターに関するものだ。特にパソコンに関しては、色々と工夫すればかなり便利な環境を構築することができる。そのためにはストレージや性能に余裕のあるパソコンにある程度のお金をかけなければならないが、そのようなお金を渋るよりかはお金をかける方が返ってくるメリットは大きい。僕は最近一番上位のiPadを買うべきか迷っていたが、少し前に購入したそこそこ高性能なパソコンがそれを補ってくれることに気づいた。お金を出すべき時には思い切って出すべきである。それは人付き合いでも同じで、大事な人との付き合いにはお金を惜しむべきでない。

ではネガティブな環境を変えるためにはどうすべきか?このような環境はお金で解決できないことも多い。なのでそこは工夫を凝らしてできる限りリスクを低減することが必用である。そして最終的には、そのようなリスクと付き合っていく覚悟も持たなければならない。どうしようもないことはどうしようもないのである。リスクが迫りくる前にいかに結果を出すべきか?そう考えた時、やはり時間を区切ってそれまでに結果を出すことも重要である。人間の寿命は有限であり、社会の流れは自分と関係ない所で進んで行くのだから。

ピンチをどうチャンスに変えるか?

世の中では、運の良い、運の悪い人がいる。少なくとも世間ではそう言われている。もちろん、人それぞれ様々な巡り合わせがあるだろう。しかし運の良い人は本当に良いことばかりが起きていて、悪いことは全く起きていないのか?僕はそれは全く違うと考えている。

悪いことなど、誰でも頻繁に遭遇している。事の大小はあれ、僕なんかはほぼ毎日何かしらのハプニングは起きていると感じている。そしてたまには非常にストレスのかかる悪事に遭遇する。しかしそのようなピンチをピンチのままで終わらせていれば何も成果を挙げることもできない。運の良い人と思われている人は、ピンチをことごとくチャンスに変えている人間だと僕は考えている。

では、どうすればピンチをチャンスに変えられるのか?それは常に目標を達成させようとする意志を固く持つ事だと僕は考えている。常日頃そのような思考と意志を持つ事によって、同じことが起きてもそれをどう目標へとつなげるかと考えることになる。そのような思考こそ、ピンチをチャンスに変える思考なのである。確かに悪事が起こると一時的には非常にストレスを感じることになる。特に僕のようなストレス耐性の低い人間にとってはそれは非常に負担がかかる。しかし、それをポジティブな方向へ向けることができると、ストレスから大きく脱出できることになるし、全てが上手く回ることになる。

無条件なチャンスなどそうそう来ることはない。だからチャンスは自分で作り上げるしかない。そのようなチャンスを作る材料こそピンチなのである。ピンチを料理してどうチャンスを作り上げるか?それは自分の意志と思考にかかっていると僕は強く感じている。

精神と肉体。

スポーツが肉体だけでなく精神力も大事になるように、学問においても精神だけでなく肉体も重要になる。メジャーリーグの大谷翔平選手が精神的にも非常に熟しているように、学問においても強い精神力と同時にどれくらい強い肉体を持っているかが重要になる。そして数学においても「一に体力、二に体力、三四がなくて、五に知力」と言ってよいほど、体力は非常に重要になる。

やはり歳を取るにつれて体力は衰えるものだ。しかし僕のように若いころあまり体力トレーニングをしていなかった者にとっては、今トレーニングすると若いころ以上の体力を付けることも不可能ではない。そう考えて、僕は毎日筋トレ&ジョギングをできる限り欠かさず取り組んでいる。

そしてそれ以上に重要なのは、強い精神力を持つ事だ。これは現在批判を浴びている根性論とは全く違う。根性論と言うものはほとんど根拠がなく、思考停止的であり負の側面を見せることも少なくない。そういう意味で、根性論と言うものは非常に無責任なものであると言える。しかし精神と言うものは徹底的に思考的であり、精神力を付けることは全ての事においてポジティブな影響を与える。そして精神と肉体は連動していると言うことも重要である。精神と言うものは人生にダイレクトに繋がって来るものであり、物理的な体としての肉体、そして物理的な脳としての精神はどちらが欠けても生きて行くことはできない。

そう考えると、精神と肉体は同時に鍛えることが必要な事がわかる。もし学問に取り組みたいのならば、もちろん計算力も必要であるが、そのような計算力、思考力を最大限に活用するためにも、精神と肉体を極限まで高めることが必要だと僕は強く感じている。

なぜ科学を研究するのか?

色々な事に対して、なぜそれをするのか?と言う問いかけがなされる。それに対して様々な答えを出すが、その中のほとんどの答えは後付けである。それは「なぜ科学を研究するのか?」と言う問いに対しても同じだ。科学者はなぜそこまで科学に打ち込むのか?もちろん人に役に立ったりすることもあるであろう。しかしそれもほとんど後付けである。本当は単に「面白いから」である。その一言に尽きる。そしてそれで十分なのである。しかしほとんどの人はそのような答えに納得しない。だから後付けで色々と理由考えるのだ。

しかし、面白くもないことに打ち込める人は少ない。そして面白くないことをしても結果など出せるはずもない。もちろん受験勉強レベルなら嫌いな英語を頑張って点数を上げようとすることも可能であろう。しかし、嫌いだけど英語の研究をしようとする人はおそらくいない。それは数学や物理でも同じだ。

とは言え、面白いと言うことは理由と言うより前提条件と言った方が良い。わざわざ「面白いから研究をする」と言っても当たり前の事だ。そこに真理への探究や数的美しさへの魅了などが加わるのである。もちろん、数学が嫌いな人に数的神秘など見えるはずもない。

好きな事をすればよいと言っても、やはりそれだけではことを進めることはできない。数学の研究をするにも英語論文を読まなければならない。そしてそれ以上に大事な事は、教養を身に付けると言うことである。確かに教養が直接お金儲けにつながることは少ないかもしれない。しかし教養は広い視点を与えてくれる。そのような広い視点、大局的にものを掴むセンスが、仕事に力を与え、日常生活を豊かにするのだと思う。しかしそうは言っても、そのような抽象的な話はなかなか人に伝わらない。しかしもし自分がそのような事を理解できる人間なら、科学の世界に入り込むのも非常に良い選択だと思う。

ストイックが面白い!

ストイックと言うと何だか苦しみながら我慢するというイメージがあるが、僕自身は結構ストイックを楽しむことができる方だ。例えば毎日の筋トレやジョギング、そして毎日の研究まで、常に欠かさず継続することには自信がある。そしてそのように毎日継続することを一つのやりがいとして楽しんでいる。とは言え、興味のないことは全くできない人間だ。

最近、お酒を飲むことを止めることにした。とは言えまだ数日だが、お酒を飲まずに調子が良くなるのなら絶対にその方が良いし、全ては順調に研究を進めることにつながる。特別に人と飲んだり、あるいは極度のストレスを感じた時は気分転換に飲むこともあろうが、基本全く飲まないと言うことを原則に進めて行きたいと思っている。

お酒は飲まなくても大丈夫だが、僕にとってお酒以上に手強いのはコーヒーだ。最近、コーヒーを飲むと調子が悪くなる。(頭の働きが悪くなる。)なのでコーヒーはできるだけ飲まないようにしようと思うのだが、起きてからのコーヒー一杯の誘惑につい負けてしまう。そして昼も夕方もつい一杯二杯と飲んでしまう。しかし結果を出すためには、コーヒーも止めなければならないと感じているので、明日からはコーヒーも止めようと思っている。(と言いながら、朝の一杯の誘惑に負けてしまうかもしれないが・・・。)我慢しようとすると負けてしまうが、ストイックゲームと思えば面白いし達成感もある。ここはゲームとして乗り越えよう。

ストイックが苦しいものだとは誰が決めたのか?我慢と思うから苦しいのだ。事を成し遂げるための一過程と思えば、意外と楽しみも感じる。そしてストイックを実行することによって調子が良くなり事が順調に進めば、達成感も感じてくる。ストイックそのものは、意外と面白いものだと僕は最近感じ始めている。

誰も理解できない生き方。

自分の生き方が理解されないよりかは、理解された方がうれしいし生きるうえでも楽になる。しかし理解されないことがダメな事かと言えばそうでもない。誰も達成したことのないチャレンジングな生き方をしていれば、自然ほとんどの人からは理解されない。理解されると言うことは、多くの前例があるからだ。そして無難な生き方こそ、理解されるための近道だと言える。

人間と言うものは意外と表面だけを見て判断している。例えば、あるサラリーマンが仕事ができるかどうかを稼ぐ収入で判断することが多いだろう。もちろん、稼ぐ収入が多ければ仕事ができる人間である可能性が高い。しかし中には、お金だけを手に入れて全く動こうとしない人もいる。そのような事は今社会で問題になっているそうだ。そして稼ぐ収入が少なければ仕事ができない可能性は高い。しかしチャレンジングであるがゆえに現在は稼げていないだけかもしれない。

人間と言うものは意外と奥深いものだ。しかしすぐに理解され評価されると言うことは、表面的な簡単な人間である可能性も否定できない。理解され評価されることにこだわる人も多いが、それが目的になってはいけない。結果論として評価されれば幸いだが、過程で評価される必要はない。結果で勝負なのである。もしチャレンジングな事に取り組み結果を出そうとする過程にいるのならば、もう少し我慢して頑張ってみるのも悪くない。

飛行機には夢がある。

僕は子供のころから鉄道が大好きで、今でも鉄道に乗ると少しワクワクする。しかし最近、鉄道よりも飛行機の方が気になってしかたがない。そもそもこれまでは飛行機に接することがあまりなく、飛行機に乗ったのも国内で数回程度だ。しかし今、自分の研究の夢に関連していろいろと調べることがあって、そこで飛行機についていろいろと知ったのだが、それに従って飛行機の魅力に徐々に取りつかれてきたのだ。

飛行機の魅力は何か?それはいろいろあるだろうが、やはり一番は地球上のどこまでも数時間で飛んで行くことができることであろう。やはり国内の鉄道と比較するとスケールが違う。とは言え、僕自身そんなに旅行に興味があるわけではない。しかし仕事で世界中を飛び回ることができれば、人間的にも少し大きくなれるのではと強く思う。そういう意味で、飛行機には夢があると感じ始めたのだ。

ソフトバンクの孫正義氏はプライベートジェットで毎日のように世界を飛び回っていると言う。もちろん、研究者がプライベートジェットでとはいかないが、世界を飛び回りながら研究発表して回ると言うのは多くの研究者の目標であろう。

物理を究めればこの宇宙が理解でき、数学を究めれば数的宇宙が理解できる。それだけで十分かもしれないが、実生活においても飛行機で飛び回って地球と言う世界を見て回るのも非常に刺激的ではないかと最近強く思うのである。