思想、生き方、考え方」カテゴリーアーカイブ

自己精神マネジメント。

自分の目標とすることを達成するためには、専門の知識・技術を高めると同時に自分の精神をコントロールすることが必要だ。しかしこのような自己精神マネジメントにはあらゆる側面があるし、また高いレベルでマネジメントをする必要がある。

僕は自己精神マネジメントには大きく二種類あると考えている。一つは攻めの自己マネジメント。もう一つは逃げの自己マネジメント。僕は現在、攻めの自己マネジメントを徹底的に追求している。なぜ攻めの自己マネジメントが必要かというと、それは自分の行動の自由、及び精神の自由に直結するからだ。

あらゆる面で自由でないと創造的な取り組みをすることはできない。そのためには身体と精神が高いレベルで健康であることが求められる。もちろん先日亡くなったホーキング博士のように、身体的に不自由でも徹底的に高度な精神を持って創造的な仕事をする人もいる。しかし普通の人にはとてもまねはできない。

高度に自由な思考で生き、非常に高度な目標を達成するためには、精神と身体のマネジメントを徹底的に追求することが必要だ。

知は受け継がれる。

最近、ソリトン理論関連のことを調べることがあり、その中でも戸田格子理論で有名な戸田盛和さんのことを調べた。戸田さんはもうお歳だろうとは思っていたが、1917年生まれで、2010年に93歳で亡くなっているらしい。戸田盛和さんはもうこの世にはいないが、戸田理論はこれからも長く残っていくだろう。

当たり前の事だが、科学者と言えども人間であるから、いつかはこの世からいなくなる。しかし科学者が残した理論はこれからも長く残っていく。いや、長く残る理論を作らなければならない。

いつの時代も同じだと思うが、多くの科学者は流行の理論に飛びつき、流行に乗った確実に結果が出る問題に取り組む。それ自体は間違っていないのかもしれないが、なんだか納得できない。しかし納得できないのなら自分が行動で示さなければならない。

多くの受け継がれない知ではなく、価値ある受け継がれる知を構築することが重要である。そのような意味のある研究に取り組んでいる科学者がどれだけいるのか?残念ながら多くはいないように感じている。

目の前の勝負より、その先の勝利!

サッカー日本代表・ポーランド戦の試合は、「目の前の勝負よりその先の勝利」とブログでも書いた。今でもポーランド戦での戦術には納得いかないが、自分自身の事に対して振り返れば、それはまさに「目の前の勝負よりその先の勝利」を目指していることと再確認した。

この信念で進めた場合、その先で勝利を挙げることができれば大きな評価を得ることができるが、もし勝利できなかったら笑いの的だ。もちろん、僕もその覚悟で進んでいることは言うまでもないが、サッカー日本代表の西野監督も同じ覚悟かも知れない。

もちろん、小さなことを積み重ねていくことは大事であるし、そこで小さな結果を出し続けることも大事である。サッカー日本代表も小さな結果から大きな結果まで出し続けてきた。僕自身も結果を出す必要性は痛感している。

小さな積み重ねなしに、その先の大きな結果はありえない。僕自身もこれまでの人生の中で小さなことを積み重ねてきた自負がある。

小さなことを何年、何十年も積み重ねると、人には見えない世界が見えてくる。サッカー日本代表にもそのような世界が見えているのだろう。

将棋の羽生善治さんは、才能とは継続することだと言っている。何時間集中して打ち込むことは多くの人にも経験があるだろうが、30年以上当たり前のことを継続することは容易ではない。しかしそれができる人には、そのことが才能があるということなのだろう。

当たり前のことを30年以上続けることができていれば、少し胸を張っていいのかもしれない。僕も少し胸を張ろうかな?

なぜ大学教育では真理探究に重きを置くのか。

大学、学部、学科によって学ぶ目的は様々だが、大学教育というものは基本的に真理探究に重きを置いている。いや、正確にはそれに重きを置くべきだということかもしれない。

なぜ真理探究に重きを置くべきか?それは大学を出た後に大きく関係する。人間として、あるいは社会人として上を目指していくためには、常に勉強を続け、技術を身に付けることが必要になる。そのためには基盤が必要になる。その基盤こそが大学での真理探究なのである。

最近は大学での実学志向が甚だしい。すぐに役に立つ知識、すぐに役に立つ技術を学生が求め、大学側もそれに応えようとしている。しかしすぐに役に立つものは、枯れるのも早い。言い方を変えれば小手先の知識・技術であると言うことである。

また、すぐに役に立つものばかりを追い求めると、選択肢も狭まり、将来性を縮小させることにもなる。基盤知識・技術を身に付ければ、一生学び続けることができ、社会の変化にも柔軟に対応できる。

真理探究というものは、知識を追い求めることではない。思考を追い求めることである。現在の情報社会では、知識などというものはコンピューターで検索すれば瞬時にいくらでも出てくる。そこで必要になるのが人間の知恵である。

これからの情報社会、コンピューター社会で生き残る鍵は、人間らしさと人間の思考であるはずだ。

身体と精神がますます健康になっていく!

タイトルに相反するようだが、ここ二日間くらい少し体調を崩した。と言っても微熱があり、だるいくらいなので、ちょっとした不調と言った方が正しいかもしれない。

しかしもう少し長い目で見ると、僕の身体と精神はますます健康になってきている。ブログで何度も書いたように、健康は最大の実力であると考えているので、僕の身体と精神の健康は胸を張って誇れるものかもしれない。

何らかの不良がある時、多くの人は薬に頼ることだろう。風邪をひいたときには風邪薬をというふうに。もちろん、薬に頼らないに越したことはない。薬を飲まずに元気でいられることは、非常に素晴らしいことだ。しかし、不調である時に薬を飲んで元気になれば、それはそれで良いことだ。しかし薬に溺れてはいけない。

僕はここ五年くらい、ほぼ毎日筋トレをしている。おかげで身体は若い頃以上にたくましくなってきているように思える。数学や物理の研究においても、研究者は「一に体力、二に体力、三四がなくて、五に知力」とはよく言ったものだ。体力と精神の健康は何よりも大事である。

しかし、この健康を無駄にしてはいけないと強く思っている。健康であることを最大限に生かし、前に進むことが大事である。

「俺は、俺は」を考え直す時。

自分に余裕がない時、一番に考えるのは自分の事だ。「俺は、俺は」の思考で考えれば自分の事が前進するように錯覚するが、実は自分の事というのは他人と、あるいは社会と結びついているので、相手の事を一番に考えることが周り巡って自分の事にプラスに働くことがよくある。そのことに気付くことが大事である。

とは言え、「俺は、俺は」と考え、自分が最前線に出て行くことも時には重要である。

現在、サッカーのワールドカップが開催されているが、日本のサッカーは基本的に組織的プレーである。それに対してアフリカ勢のサッカーなどは個人技が大きくものを言っているように思える。確かにどちらが優れているという訳ではないかもしれないが、組織的プレーを重要視する日本にも「俺が、俺が」と自分が出て行き決めることも大事なように思える。

僕はと言うと、基本的に「俺は、俺は」という人間である。個人技で勝負するという人生を信条としている。しかし当たり前の事だが、自分一人で生きているわけではない。従って周りの人の事を考えることも大事である。その部分の加減は難しい。しかし自分にしかできないことがあるなら、そこでは「俺が」と自分が出て行くべきである。

とは言え、何事も組織的に進め協調性を重要視する日本においては、個人技で勝負する人間に対しては風当たりが強いものである。

出来る気しかしない!

「出来る気しかしない!」と言ったら自信過剰だろうか?いや、本当に自信過剰である。しかし僕には出来る気しかしないのである。

僕には非常に大きな目標がある。そのための明確なビジョンもある。足りないのは細部を詰めることである。ただ、細部を詰めるには高度な技術がいる。その技術の習得に励んでいる。

もしこれで出来なかったら、単なる自信過剰である。その意識が本物か偽物か?それは結果が答えてくれる。

ただこれまで、かなりの時間がかかっている。それは僕の悪い癖である。これまでいくつかの事を成し遂げてきたけど、時間がかかりすぎている。現在の目標を達成するのにも時間がかかるかもしれない。

自信過剰で出来なかったら単なるほら吹きであるが、今は単なるほら吹きではなく、大ぼら吹きになろうと思っている。そしてその大ぼらを吹いたことを実現させる。ただそれだけで、それ以上でも以下でもない。

今は大ぼらを吹いて、自分を追い詰めようと思う。

草書のような理論。

書道には楷書と草書が存在する。楷書とは律義でしっかりと書かれた書体で、草書とは流れるように書き崩した書体と言える。僕のような書道の素養のない者にとっては楷書の方が分かりやすいが、書道のプロは草書を流暢に書き上げる。

ところで物理理論や数学理論は厳密にしっかりと構成されているので、書道で言うと完全に楷書の世界のように思える。しかし物理理論や数学理論にも草書のような世界があるのではないかと感じるところがある。しかしそれがどのようなものか、明確には出すことができない。

しかし一つの見解として、楷書は論理そのものであり、草書は論理の中にある感覚ではないかと思う。物理学者や数学者は、数式や理論を見ただけで数式を計算して解かなくてもある程度の世界が見えてくる。数式を眺めるだけで相互作用がどのように働いているかということが視覚的に見てとれる。そのような感覚が草書ではないかと思う。

書道のプロは、草書を流暢に書くことができるが、基本である楷書を書いても一流である。物理学者も楷書をしっかりと書くことは基礎として当たり前にできるが、いかに科学における草書を流暢に書き科学的世界観を表現できるかということが一流の成すべきことではないだろうか。

専門外の事から、スキルを修得する。

物事は意外と一見関係のないようなところから結びつくものである。それは勉強や研究であったり、人付き合いであったり、あるいはITスキルであったりする。

普段の生活において、専門の事だけをして過ごせるということはまずありえない。したがって多くの専門外の事、あるいは雑用をすることになる。しかしそのような雑用の中に意外なヒントが隠されている。またそのような専門外の事を学ぶことによって、人間の広がりというものが生まれてくる。

ノーベル賞物理学者の南部陽一郎氏は、ノーベル賞受賞の対象となった自発的対称性の破れの理論を、超電導理論(BCS理論)から導いたという。もちろん南部氏は超電導理論の専門家ではなく素粒子論の専門家である。

近年、数学と物理の垣根がきわめて低くなってきた。数学者は物理理論からヒントを得て、物理学者は数学者が顔負けするくらい高度な数学を駆使する。数学と物理学の双方にまたがる数理物理学という区分も、かなりメジャーになってきている。

視野を広げることが大事なのは万人が認めることだが、なぜ視野を広げることが大事かと聞かれるとそれに答えられない人も多いのではないだろうか?しかしその答えは考えて導かれるものではなく、実践して導かれることであることを忘れてはならない。

上手くいかない時こそ考える。

物事が上手くいっている時は、何も考えていなくても次々と順調に進むが、上手くいかない時は何をやっても上手くいかないことが続く。しかし上手くいかないからと言ってネガティブにとらえるのではなく、そのような時は熟考するチャンスだととらえ、徹底的に考えるのが良い。

考えるというのは主体的な行為だ。だから周りから情報を集めるだけでは何も考える事にはなっていない。考えるという行為は情報を集めることではなく、自分の中で物事を構築していく作業である。

ただ、考えたことが結果として表れるまでにはタイムラグが現れる。そのタイムラグの間、どこまで耐えられるかということも行方を左右する。

考える事には、直接的なお金も情報もいらない。いや、多少なりともヒントとなる情報と、それを入手するためのお金は必要かもしれないが。しかし情報の沼にはまってしまえば、考察の楽園にはいつまでたってもたどり着けない。