思想、生き方、考え方」カテゴリーアーカイブ

全く意味のない、悩みの生産工場。

誰でも悩みを抱えることはしばしばあるとは思うが、まだ起こっていないことで悩むことほど無駄なことはない。悩むのは、事が起こってからでいい。まだ起こっていない悩みの元は、ほとんどの場合起こらない。そんなことで悩んでも、良いことは全然ない。

しかし、悩みだしたらそれが無限ループになって、悩みの生産工場と化してしまうことがある。もちろん、そんなことにならない人も多いとは思うが、僕はしばしばそうなってしまうことがある。僕の非常に悪い癖である。

物事を始める時、最初から完璧を求めてしまうと最初の一歩が踏み出せない。始める時は多少いい加減なくらいがよい。完璧を求めだすと、またそれで悩み出してしまう。

この様に、いい加減な人間というのもしばしば良いことがある。いい加減と言うと何かだらしなくてネガティブなイメージがあるが、言葉を変えると「楽天的」と言うことになるのかもしれない。とは言え、楽天的な人間になろうと思って、楽天的になれるものではない。しかし楽天的になれなくても、起こっていないことで悩むことはやめにしよう。

必要最低限の事をこなせばいいのか?

僕の失敗談。

”ついつい余計なこともしてしまって、大目玉をくらう”

何をやっても、求められていること以上のことをしようと思ってしまう。言い換えれば、余計なことをしてしまうとも言えるが。プラスαのことが余計なことになった時、大目玉をくらってしまう。

よく言えば、サービス精神旺盛ということかもしれないが、多くの人たちにとってそんなことは望んでいないということかもしれない。

必要最低限のことを続けることは、現状維持ということかもしれない。しかしそれ以上の発展を望むならば、プラスαは欠かせない。

必要最低限の事だけをしっかりこなす人を見ると、頭がいいなと思ってしまう。自分はバカなのだ。しかしこの自分のバカさ加減を直そうとは少しも思わない。なぜなら、常に上を目指しているから。

いつまでも自分はバカで居続ける・・・

将来の夢が「病理医」の女の子。

この女の子とは、中学生になったばかりの女優の芦田愛菜さん(12)である。

小学生・中学生に、将来の夢は?と尋ねると、たいてい定番の答えに落ち着く。男の子だと、プロ野球選手など、女の子だと、ケーキ屋さんなどであろうか。そして男女両方の上位に来るのが、医者である。

医者に憧れるのにはいろいろな理由があるだろう。人を助ける仕事がしたいからというのもあれば、高収入だからというのもあるだろう。高収入だからというのは大人の影響を受けすぎなような気もするが、それで立派な医者になってくれるのなら大歓迎だ。

話しは芦田愛菜さんに戻るが、芦田さんの(現在の)夢は、「病理医だ」と言ったらしい。医者と言わずに病理医といったところに視野の広さを感じる。病理医は、患者の組織検査などをして病気の原因を突き詰めることを主とする。大人でも病理医の存在を知らない人は多いだろう。芦田さんは、子供の頃から女優をされており、社会の様々な側面を小さなころから垣間見ることがあったのだろう。その中で、僕もなぜだかわからないが、芦田さんは病理医に魅かれた。

この芦田さんの視野の広さと社会に対する観察力は、大人も見習わねばならない。

現在、医者の人気は過去にないくらい高まっている。子供を医者にしたい親も多いだろう。しかし本当にやりたいこと、面白いことは何かを吟味して、注意深く社会全体を観察し、それでも医者ならば医者のどういう所が魅力で、具体的にどういう行為を行う人たちなのかを知らねばならない。それができているから芦田さんは病理学という具体性のある答えを出せたのだと思う。華のある職業は多いが、我々が見ているのは所詮表面的な部分だけで、いいところしか見えてないのだから。

尾崎豊。

尾崎豊が死去してから、今月でちょうど25年になる。尾崎が死去したのは、僕が中3か高1の時である。

尾崎豊が死去した時は鮮明に覚えている。とは言え、尾崎が死去した時点で僕が知っていた尾崎の曲は、「I LOVE YOU」など数曲に過ぎなかった。すなわち僕は尾崎が死去した後に尾崎を詳しく知ったうちの一人だ。

現在の学生にとって、尾崎の歌詞は非常に古く思えるかもしれない。今の僕が見てもそう思う。しかし、尾崎の歌詞には、人間にとって普遍的な思いも多く含まれる。自分の意志で行動し、「長いものには巻かれろ」という言葉に反骨する精神の持ち主なら、なおさらだと思う。

僕の好きな尾崎の曲の一つに「COOKIE」がある。この曲は、当時の世相に対して疑問に思うことが素直に綴られている。愛しい人が作るクッキーと温かいミルクに心を寄せ、それに対極にある世間・社会の画一さ・おかしさに疑問をぶつけている。その尾崎のCOOKIEに、自分が抱く疑問を重ねたものだ。

最近、音楽業界が盛り上がっていないとよく聞く。もちろん、第二の尾崎が現れたとも聞かない。世相の全く変わった現在では、第二の尾崎は必要ないのかもしれない。大事なのは、第二の尾崎ではなく、第一の何かである。二番煎じでは説得力にも欠ける。

尾崎の歌に学生時代の自分を思い出し、それでも自分にはやっぱり岡村孝子の曲がしっくりくると、繰り返し中学時代から好きな岡村孝子を今でも聴いている。

言い訳。

なんだかんだと書くのをさぼっていたら、あっという間に半月が経った。久しぶりのブログ執筆である。

去年の途中から書きたい時に書こうと思い、毎日執筆するのを投げ出してしまったが、2015年1月途中から2016年途中まで、一年以上、一日も欠かさずにブログを執筆していた期間があった。その時は勝手に手が動くかのように執筆できていたが、毎日書くのを止めてから、少し手が重いように感じるようになっていた。

今月はブログの執筆はなかったが、過去の記事に対するコメントがあり、数往復の熱いやり取りをし、エキサイティングでもあった。

突然だが、思うところがあって、再び毎日の執筆に挑戦しようと思う。このブログの執筆を毎日の習慣とし、毎日お届けしようと思う。毎日執筆するとなると、良い記事もあればくだらない記事も出てくることもある。くだらない記事の時は容赦願いたいが、できるだけ良い記事が書けるように努力するつもりである。

ところで、僕は物事に対して、ついエキサイティングなことを望む癖がある。普通に過ごすのは平和でいいのかもしれないが、つい刺激が欲しくなる。お金の賭け事は全くしないが、人生の博打は常にしている。極端に言えば、「死ぬか生きるか」。ハイリスク・ハイリターンと言いたいところだが、現状はハイリスク・”ロー”リターンになってしまっている。とは言え、いろいろな意味でローリターンで終わるつもりはない。僕はいつもギラギラしている。良くも悪くも常に大きなものを目指している。しかし長い目で見るのもいいが、長く見すぎて結果が出せない。そろそろ結果を出さなければ!

プロ野球の大谷翔平選手ではないが、二刀流するときは、サブのことも全力でしなければならない。そんな当たり前のことに今日気付いたのである。

本業を思いっきりするためにも、サブも思いっきりしなければならない。そうでないと、サブが足かせになり、制約を受けてしまう。

とにかく、今できる事を全て思いっきりやり抜こう。もちろんブログも!

これからも、よろしくお願いします。

なんだかんだと理由を付けて、うだうだする自分が嫌いだ。

昨日(3月9日)もうだうだしたした一日だった。ウダウダ・・・・

理由は、寝違えて首を少し痛めたから。

自分はもしかしたら、100%の状態でないと進めないと思っているのかもしれない。

30%の力しか出せないのなら、30%だけ進めればいいのに・・・

何かと理由を付けてうだうだしている自分が嫌だ!

努力したい!

もっともっと努力したい!

何も常に最高のパフォーマンスを出せなくてもいい。

その時にできる範囲内で、できる事だけをすればいい。

明日は何を理由にウダウダするのだろう?

というふうにならないように、一日一日コツコツと頑張ろう!

想定内を求める世間。予定調和を求める世間。

最近、いや最近に限ったことではないのかもしれないが、世間は予定調和であふれている。メディアも予定調和に呼応する。それを受け取る人間も、予定調和に安心する。

しかし予定調和はしばしば破綻する。それはテレビ上で、ネット上で、あるいは身の回りで。いったん予定調和が崩れると批判の嵐。現代社会で言う「炎上」というやつか。

「予定調和を求める」ということを言いかえると、「レールに乗って走る」ということか。多くの人々は、レールにしがみつき、レールに乗っていることに安心する。そしてレールから外れた、社会で言う「失敗者」を徹底的に批判する。

この様な習慣が日本だけのものかどうか、僕は世界を見渡した訳ではないのではっきりとはわからないが、アメリカ・欧州などではいかに「出る杭になるか」を競い合う。日本はと言えば「出る杭は打たれる」という言葉があることからも言うまでもない。

しかし現在は日本でも、「出すぎた杭」は評価されるようになったのではないかと僕は感じるが、どうだろうか?もちろん、「出すぎた杭」になるためには、途中過程として「出る杭」にならなければならない。つまり出すぎた杭になるためには、それまでの過程で猛烈な向かい風を受けるわけだ。

出すぎた杭になりたいと思う人は、たくさんいると思う。しかし猛烈な向かい風を切り抜ける覚悟はあるか?異端者になるための試練である。

世界で活躍する選手から触発されて、自分をコントロールして意識を高める。

2月18日、フィギュアスケート四大陸選手権女子フリーがあり、三原舞依選手が200点以上の高得点をたたき出し優勝した。これまであまり聞いたことのない名前だったので、どんな子かとネットで調べてみると、僕と同じ神戸出身で、ポートアイランドのリンクで練習している子だと分かった。

俄然親近感が湧き、同じ神戸市民としてこれから応援しようと思うとともに、自分も頑張らないとと自分のお尻を叩く気になった。

僕が取り組んでいるのは数理物理という学問だが、学問とは全く関係ない分野の人たちから精神的な影響を受けることが多い。正確に言うと、自分が影響を受けるように精神的状態をもっていき、世界の一流の舞台で活躍する人物からやる気と自信と向上心をもらうのだ。

これはある意味(良い意味での)マインドコントロールと言えるかもしれない。自分がより高いレベルでのパフォーマンスを発揮するために、自分で精神状態を調整し、”セルフ”マインドコントロールするのだ。

今回の三原舞依選手の活躍も、ただ観て楽しむだけではなく、そのパフォーマンスに自分をも巻き込んでしまうのだ。

とは言え、毎日日本人が何かで優勝しているわけではない。そこでYouTubeを上手く利用する。日本人が活躍する動画で精神状態を高めるのだ。

僕がよく利用する動画は、オリンピックで活躍する日本人選手の動画。特によく観るのが、バルセロナオリンピックの水泳平泳ぎ金メダル・岩崎恭子選手、長野オリンピックのモーグル金メダル・里谷多英選手だ。岩崎選手は弱冠中学生で世界のトップに立った。里谷選手は僕と同じ歳だ。二人に共通するのは、競技前には全く優勝候補ではなかったということ。しかし当たり前のことだが、優勝するための準備と努力を積み重ねていたことは間違いない。

この様に、スポーツ選手の活躍を他人事ととらえずに、その活躍に自分を巻き込み、セルフマインドコントロールすることも、自己管理の一部であり、実力ではないかと思う。

実用指向すぎる思考の社会風潮。

最近、社会が実用指向に偏りすぎているような気がする。確かに不景気で節約し、無駄を省かなければいけないのは十分にわかる。しかし社会の懐も心理も余裕がほとんどないのはどうかと思う。

そのような風潮が最も表れているのは「科学」ではないか。多くの人にとって科学とは、計画を立て、計画通りに進めれば、想定の結果が出るものだと思っているのかもしれない。実用科学ではそれが最も理想的な姿かもしれない。

しかし、特に基礎科学では、想定外の結果から大きな成果が生まれることが多い。言わば「無駄から宝が生まれる」とでも言うべきか。研究を進めるうえでも、心理的にも金銭的にも余裕がないと、独創的な結果は生まれにくい。

しかし、社会はその「余裕」、言い換えれば「無駄」を許さない。その風潮は最近特に強くなってきているように思う。

科学に限らず、日常生活から休日の遊戯まで、ぎっしりと計画を立て、計画を進めることに全力を尽くしてはいないだろうか?

今の日本には、不景気が続いたとは言え、世界的に見ればお金はある。物もある。しかしどれだけ余裕があるだろうか?日本人は余裕の上手い使い方を知らない人が多いような気がする。余裕があってもただ何もしないでボーっとしているだけになるとか。余裕は生産的活動の準備に充てなければならない。そのためにはリラックスして余暇を過ごすという無駄も必要だ。

小学校から大学、そして社会まで、いわゆる「レール」の上を進み、レールにしがみつくという生き方は、それはそれで一つの生き方としてはありなのかもしれない。しかし脱線して、無駄を経験し、失敗を経験し、自分独自の生き方を模索するという生き方が、もう少し試みられてもいいのではないかと僕は思うのだが・・・

情報過多の時代の、情報のコントロール。

「いかに多くの情報を手に入れるか」という時代は過去のものになり、現在は「いかに情報をコントロールするか」という時代になっている。

ここで言う”情報のコントロール”とは、情報を操作するという意味だけではなく、”いかに不必要な情報をシャットダウンするか”ということも含まれる。

ネット社会の今、ネットで検索することによって、誰でも簡単に情報を手に入れることができる。しかしその「情報の質」を気にしたことがあるだろうか?ネットでの情報は玉石入り混じっており、価値ある情報からデマまで様々な情報が飛び回っている。価値ある情報も混じっているものの、非常に質の低い情報が多いのが現実だ。こんな時代こそ、再び「新聞」を重要視すべきではないかと思う。

最近、新聞による情報を否定し、スピードある生のネットの声に注目すべきだという意見が強まっている。その様な意見が出る理由は、ネットでは十ある情報のうち一つ正しいものがあると、その一つが強調されるが、新聞では十ある情報で九つ正しいものがあっても、残りの一つが強調されることにあると思われる。

確かにネットのスピードと生の声を無視することはできないが、鯛と同じで「腐っても新聞」なのである。基本的に情報の基盤は新聞に置くべきという理由はそこにある。

あと、必要な情報かどうかという判断基準に、「その情報は自分のパフォーマンスを上げるか」ということがある。パフォーマンスを下げる情報は入ってくる前に遮断しなければいけない。しかしネットで情報を集めていると、パフォーマンスを下げる情報が多いことに気付く。そういう意味でも新聞は重要だ。

日常で「誰と会うか」にも気を付けなければいけない。自分のパフォーマンスを下げる人、パフォーマンスを下げる情報を垂れ流す人とは、会うのを避けなければいけない。

この様に、「いかに情報をシャットアウトするか」という問題は現代では非常に重要であるが、それがなかなか難しい問題であり、それにどう取り組むかが自分も含めて多くの人にとっての課題であろう。