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転んで三割増し!

人生はスムーズに行っているだろうか?おそらくほとんどの人は、「全然スムーズじゃない」と言うことであろう。僕自身も例外に漏れずそうである。いや、例外に漏れないどころか、スムーズに行っていない上位1%に入る自信はある。まあ、自信にすることでも何でもないのだが。

そんな人生の中では、度々転ぶこともあるだろう。誰だって転ぶのである。しかしその後どうなるかは人それぞれ全く違うと思っている。転んでズルズルと転落する人、転んで何とか留まる人、そして転んでもただでは起きないと以前より上がっていく人。僕は常に最後の人になろうと心がけている。言わば「転んで三割増し!」と言うことである。

では、どうすれば転ぶ以前の三割増しを目指せるのか?それは過去にこだわらないことである。転ぶ前の状態に戻ろうと言うことは悪くはないが、僕は転んだ時に考えうる最上の状態にまで立ち上がろうと思っている。そうすれば少なくとも転ぶ前以上の状態に、そして転ぶ以前の三割増し以上の状態を目指すことができる。そのための努力と徹底的な思考は惜しまないようにしている。

今、コロナ問題が非常に深刻である。以前のブログでも述べたように、窮地に立たされて自殺者が出て来ることも予想される。置かれた立場は皆違うので何とも言えないが、生きていれば何とか立ち直るチャンスが巡ってくるかもしれない。そんなことあるわけないと否定的な言葉を述べる人もいるかもしれないが、良い意味でも悪い意味でも一寸先は闇なのである。なので誰も新型コロナ流行を予測できなかった。そして将来どうなるかも誰も予測できないのである。予測できない(保証されていない)からやらないと言う人も多いが、予測できないからこそ頑張って良い方向へと向けるべきだと僕は思う。予測の不可能性は言い換えると、将来の大きな可能性なのでもあるのだから。

本物の本。

よく高額なものを購入する理由を、「本物を知るために購入するのだ」と言う人がいる。確かに僕だって偽物などは買いたくないし、可能な限り本物を手に入れようとするだろう。しかし必ずしも「本物=高額品」と言う訳ではない。そもそも高額だからと言って本物を買う人達は、なぜそれが本物なのかと言うことを理解していないのではないだろうか。あるいは、聞いた話をそのままスピーカーのように喋って、本物感を力説するかだ。

ピカソの絵画を見て、それが瞬時に素晴らしいものだと理解できるだろうか?あるいはピカソの本物作品と贋作を瞬時に見破れるだろうか?そしてなぜピカソの描いた本物作品と偽物が見た目はほとんど同じなのに、価値が大幅に違うことを説明できるだろうか?これらの事は全て先入観によって左右されることである。そして高級だから本物に違いないと言う根拠のない意識から来るものである。

本物を知るのに一番良い方法を伝えよう。それは「本物の本」を読むことである。例えばアインシュタインの原論文を読むとか、マルクスの資本論を読破すると言うことである。そしてこれらは基本的に多額の現金はいらない。せいぜい書物を購入する費用くらいである。なので高く見積もっても数千円もあれば手に入れることができる。多額の現金を支払って本物にしか興味がないと言う人には、これはぜひとも伝えたいことである。少なくとも絵画や高級ブランド品よりかははるかに得るものがあるはずである。

もちろん、どうしても手に入れたい一作の絵画があって、それを手に入れるために必死に稼いで購入することは非常に意義があるだろう。それはその人にとって本当に価値のあるものに違いない。しかし本物にこだわって多額の現金を支払う人にとっては、はっきり言って豚に真珠である。それを購入する前に資本論でも読破した方が良い。

本物の本と言うものは本屋や図書館に行けば山のように積まれている。そこからどの本物書物を選ぶかは自分次第だ。くだらない自己啓発本ではなく、価値ある原著を選べるか?さらには愚作があふれる新刊本・論文の中から本当に価値のあるものを選べるか?それらのセンスはこれまで生きてきた自分の人生がどのように濃いものだったのかが顕著に表れるものである。

慎重と楽観。

僕は最近、慎重になりすぎることが多い。慎重になることは良いことだと思っている人も多いが、過度に慎重になってしまうと行動力が落ち、やるべきこともできなくなってしまう。なので、最近は意識をできるだけ楽観的な方に持っていこうとコントロールすることが多い。

しかし現在のコロナ対策を見ていると、世の中の人々は楽観的である以上に甘く考え過ぎているのではと感じることが多い。特にマスクもせずに外出することは、自分の感染だけでなく周りの感染も誘発してしまうので、自分の自由だと言う話では済まされない。それは殺人行為であり、殺人の自由など誰もないのだから。

コロナ問題もそうだが、重要なのは過度に恐れることではなく、「正しく恐れる」ことである。例えば細菌は自己増殖していくが、ウイルスは宿主(例えば人間の細胞内)でしか生きて行くことはできないし、もちろん増殖することもできない。人間の体内に侵入したコロナウイルスはかなりの速さで増殖していくであろうが、例えば段ボールに付着したコロナウイルスは24時間で感染力がなくなると言う。プラスチックやステンレスの表面であればもう少し長くなるが、それでも数日で感染力がなくなると言う。もちろんそのような時間を測定するのは専門機関でないとできないが、ウイルスの特性(宿主内でないと生きていけない)などは、生物学の基礎的知識があればかなり理解できることである。このコロナ禍において、正しくコロナの怖さを理解して生きて行くためには、やはりそのような教養が圧倒的に重要であることがわかる。もしそのような事を理解していなければ、いくら慎重になっても気が済まないであろう。

正しく理解して、正しく恐れることができれば、正しく楽観的にもなれる。そしてそのような正しい楽観に基づくことによって正確な判断を下せるようになり、自分の道を進んで行くことができる。現在はコロナ禍と言う非常時であるが、平時であれば8割楽観的に、2割慎重にと言うくらいがちょうどいいのではないだろうか。コロナにかかれば死のリスクもかなり高くなる。なので慎重になりすぎることはある程度理解できるが、平時であれば楽観的になって例え失敗しもまず死ぬことはなかろう。今は石橋を叩いて渡るべきだが、コロナ禍が去った後はまた楽観的に進んで行きたいものである。

緊急事態宣言。こんな時こそ!

4月7日、安倍首相が緊急事態宣言を発令した。宣言が発令されるか否かに関わらず国難であることに変わらず、日々の活動、及び様々な自粛、そしてマスクの着用などの自己努力が強く求められる。コロナ鬱と言う言葉も言われるように、全ての国民が精神的にも行動的にもかなりまいっているように思う。確かに自粛自粛と自粛の嵐だが、かといって全ての事に対して自粛しなければならないかと言えば決してそうではない。コロナの感染防止、そして周りの人への感染防止、そして社会全体への感染防止のために必要な自粛は絶対的に必要だが、それとは関係のないことはむしろ積極的に発奮した方が良いと僕は考えている。

そう、こんな時だからこそ、ただ単に控える一辺倒ではなく思いっきり攻めて行かなければならない。そのように攻めることが、コロナで傷ついている日本の回復を早めることにもなる。確かに今は経済も半崩壊している。そしてそれぞれの個人も金銭的に窮地に陥っている人は多いと思う。そういう状況では、確かに出費を抑えるなどしてやりたいことを我慢する必要にも迫られる。しかし全ての行動に対してお金がかかるわけではない。例えば、本を読んだり勉強したりすることには基本的にはお金はかからない。本を買うお金を節約したければ本を借りたり、あるいは家にある本を引っ張り出して読むことができる。勉強するためには必ずしも教室に通う必要はない。独学で勉強することもできるし、今ではネットを利用して格安レッスンを受けることもできる。例えば、英会話をしたければスマホアプリでAI英会話と言う面白いものがある。もちろん無料ではなく月1980円かかるが、英会話教室に比べると圧倒的に格安だと言える。英会話に自信がない僕も、今そのAI英会話を始めようと思っている。

緊急事態だから出来ないのではなく、今だからできることもあるのである。確かにここ一年程は厳しい状況になることは予想されるが、そこから社会が立ち直ろうと始めた時に自分も攻める体制を整える準備をするべきだ。そのためには視野を広く持つ事が圧倒的に重要である。視野が狭ければ、窮地に陥ったから何もできなくてダメになると思ってしまう。しかし視野を広く持てば、意外とできることはあるはずだ。別に給料が下がっても良いではないか。少なくとも今は最低限の生活ができるだけのお金があればよい。もちろん今、その最低限の生活もできないくらいの窮地に立たされている人も非常に多い。幸い政府はそのような人のための支援策を打ち出している。今は一時的にそのような支援に頼って何とか乗り切ろう。

今はこういう時だが、だからこそこういう時しかできないことに発奮して打ち込むべきだ。それがコロナから社会が回復したときに攻めるきっかけになるはずだ。そして国もおそらくそのような事を期待しているはずだ。もちろん、国が期待しているからそういうことをするわけでは決してない。自分自身のためにも今この時に大きく発奮する時であると僕は強く感じている。

ネガティブな環境を逆手に取る。

今の社会状況は、明らかにネガティブだ。おそらく99%の人にとって、今のコロナ禍は自身を苦しい立場に陥れていると思う。それは金銭的な事や、社会不安などから来る精神的な事や、あるいは行動範囲が圧倒的に狭くなることなど、少なくとも我々には良い傾向はほとんど表れてこない。では、100%ネガティブなのか?もし99%ネガティブなら、残りの1%は何なのか?おそらくそのような事は1%もないと言う人も多いだろう。もし仕事が全くなくなって、家にずっといることになったとしよう。もちろんお金は全く入らない。それこそ窮地である。しかし、家族がいる人なら、家族とコミュニケーションを取るきっかけになるかもしれない。そして学生なら、自習に打ち込むいい機会になる。このように、99%ネガティブな状況なら、それを100%ネガティブにするのではなく、1%のポジティブを見つけて、それを5%、10%と増加させていくべきではないだろうか。

僕は数理物理の研究を続けている。しかし普段なら、なんやかんやと雑用が多く、そして少なくとも稼いでいかなければならないので、ここのところ落ち着いて研究に打ち込めないこともあった。しかし今は家にこもることが非常に多い。これは考えようによってはチャンスである。こもって研究に打ち込む大きなチャンスである。もちろん、色々とピンチ的な状況ではあるが、それを逆手にとってチャンスにするかどうかは自分の考えよう、そして自分の行動次第である。

同じことが起こっても、それをピンチにしたままの人と、それをチャンスに変える人の二通りいる。ピンチにしたままの人は、それを100%外的要因、あるいは環境のせいにする。しかしチャンスに変える人は、結構いろんなことが起きてもめげないものだ。それはもう外的要因・環境がどうかと言うよりも、むしろ人間性の問題だと思う。

僕は現在のネガティブな状況をどうポジティブに変えて行くかと言うことを必死に考えている。そしてそのための手段・選択肢はいくつか考えている。お金がないと言って生きていけないと騒いでいる人も多いが、はっきり言って僕の置かれた状況よりいろいろとかなりマシな人が多いと僕は思っている。なぜ僕より状況が良い人たちが騒いで、窮地に立たされている僕がポジティブにめげずに前向きに進んで行けるのか?これは決して環境のせいではないことはお分かりであろう。人生は頭を使って生きていかなければならない。そして強い覚悟が必要である。そのような強い覚悟を持って生きていれば、かなりの窮地に立たされても何とか乗り切れると僕は思っている。少なくとも自分に関してはそうである。今のコロナ禍を乗り切れるのは、決して環境の良い人ではなく、窮地を逆手にとってポジティブな方向へと変えられる人だと思う。僕もそのような方向へと進んで行く体制は整っている。

若くして結果を出すこと?

今、京大数理研の望月新一教授によるabc予想解決が話題になっているが、望月教授と言えば16歳でプリンストン大学に入学したことが有名だ。しかしこのこと(飛び級入学)がことさら話題になるのは、望月教授にとっても心外ではないだろうか?なぜなら、数学の難問を解決することと学歴は次元と問題が違いすぎることであり、学歴がすごいなどと言うことは、はっきり言って一流数学者に対して非常に失礼な話だ。そんなことを言うくらいなら、abc予想の定義一つでも理解した方がはるかに望月教授に対する敬意になる。

そもそも、なぜ多くの人は大学に行くのか?それは学歴を付けるためなのか?もちろん多くの人にとってはそうかもしれない。学歴を付けて就職を有利に進めることが目的かもしれない。ならば、大学の勉強は単位が取れればそれでよいのか?優をいくつもそろえることが目的なのか?もちろん、頑張って優を獲得することは非常に素晴らしいことである。しかし、大学は就職予備校ではない。いや、現実問題として就職予備校化している大学は沢山あるし、大学でも就職支援に対して非常に力を入れているところは多い。それは社会的に見れば道理に合ったことであり、むしろ歓迎されるべきことなのかもしれない。しかし僕はそのような現状に非常に悲しくなるのである。

僕自身、大学時代の生活はとても自慢できたものではなかった。学生時代に調子を崩し、思うように勉強・研究ができなかった。それは大学院に入ってからもそうである。だから成績も全然良くはなかった。しかし数学と物理に対する意欲は人一倍持ち続けてきた。学生時代は、調子が悪くても休日も学生室・院生室に通い続け、研究に取り組んできた。若くして結果を出すことには憧れてはいたが、とてもじゃないがそういう状態ではなかった。

しかしだからと言って、今全ての事に対してあきらめるなんてことは全くあり得ない。若くして出した結果も年老いて出した結果も、出した時の年齢による優劣などは全くない。もちろん将来性などを考える人もいるが、人間は意欲を持ち続ける限り、死ぬまで成長・発展し続けることができると僕は考えている。おそらく多くの人はそのような考えに反対するかもしれない。だから僕自身がそれを実行して、成し遂げて示さなければならないと思っている。

完成された人間と言うものは、死ぬ直前でなければならない。いや、死に床にあっても発展し続け未完成なのかもしれない。ピークが20代の頃だったなどと言う人の言っている意味が僕には全く理解できない。そういう僕は、とんでもない変人なのだろうか?

経験か?才能か?人間性か?

日本の政治の世界は経験が一番にものをいう。特に何年経験したかが最も重要視される。とは言え、これは何も日本に限ったことではないが、フランスにおいてはマクロン氏が39歳で大統領に就任したように、必ずしも経験だけがものをいうと言う訳ではないようだ。

しかし、ここで一つ注意しなければならない。僕が今、「フランスでは年齢に関係なく若くして大統領になっているから、日本も経験・年齢重視を見直さなければならない」と言うとする。この論理が没落を招くのである。では何が危険なのか?それは「他国がこうだから、そうしなければならない」という論調が危険なのである。他国がどうであるかに関わらず、日本は日本で自分たちで論理的に結論を導かなければならない。問題は、日本の極度の前例主義にある。フランスがどうであるかに関わらず、小泉進次郎氏が首相になっても問題ないのである。何なら有望な人がいれば、小泉氏より若い人がなってもいい。

僕自身、経験と言うものを全否定するつもりはない。しかし経験自体を評価するのではなく、経験によって身に付けられた技術・素養を評価すべきなのである。一番ダメなのは、経験しかないと言う人なのである。逆に、経験がなくても才能がある人もいる。そしてさらに人間性も素晴らしければその人がトップになることに何の問題もない。「経験がないから心配だ」と言う人もいるかもしれないが、経験があっても問題のある人は山ほどいる。経験自体が問題ではないのだ。

そして、才能は必ずしも外から見えるものだけではない。まだ結果が出ていなくても、現在進行的に物事を積み重ねている人もいる。そのような人は結果が出た時に一気に花開くのであるが、それまでは全く評価されないのかもしれない。とは言え、人間性をもっと評価しても良いのではと強く感じる。果たして日本人は人間性をよく見ているのか?これに関しては僕は日本人は過信しているように思えてならない。日本人と言えば、「絆」「協調性」などきれいな言葉が並べられることが多い。しかしこれの危険なところは、外国人ではなく日本人自身がこれらの言葉を綺麗に飾り付けていることである。昨今の「日本人はすごい」的なテレビ番組もそうだし、昔の東京五輪女子バレーの「東洋の魔女」などと言う言葉を海外の人が言っているところなど聞いたことがない。日本人は謙虚だとよく言われるが、僕には全くそうは思えない。グローバル化の中、ますます日本人はおごり高ぶっているように思える。

日本人の美的感覚はどうなっているのか?たまたま表面化された美談だけをつまみ出して日本人全体が美しいように論調を方向付けてはいないだろうか?別に綺麗でなくてもいいのである。そもそも人間は、綺麗なところもあれば汚いところもある。そのような両極端な側面を持ち合わせながら、自分が理想とする方向へと進むべきなのである。果たして自分はそのような方向へと進むことができているのか?僕自身を含め、全ての人が一度自分に問いかけるべきなのではないだろうか?

勝てば官軍?

世の中は強い者の味方である。そして自分の身の安全を守るためにも、人々は勝った側に回ろうとする。それが一番顕著に表れるのが政治家の選挙時であろう。例えこれまで現役の政治家、つまり「先生」であっても、一度選挙に負ければ「無職」でしかない。そこまで露骨な世界はどうかとも思うが、このような事は別に政治の世界だけに限ったものではない。多くの世界では、「勝てば官軍、負ければ賊軍」である。

とは言え、物事において勝つことは非常に重要である。勝つために努力し、頑張ろうと言う気になる。はっきり言って、負けた者より勝った者の方が平均的にはるかに努力している。だから勝った者が評価されるのは当然のことだと言える。だから僕は、競馬で負け続けたハルウララを称えるような世界は大嫌いだ。

しかし、必ずしも勝った者が正しいとは言えない。勝った負けたと正しいか間違っているかと言うのは別問題だ。しかし政治の世界では、野党議員が言ったことより首相が言ったことの方が正しいとされる。確かに現在の野党は情けない。与党議員の上げ足を取ろうと言うことばかりに力を入れている。その一方、現在の安倍首相と言えば、言っていることがどんどん低レベルになって来ている。やはり総理総裁任期三期九年と言うのは明らかに無理がある。やはり以前のように二期六年と言うのが最も適切であったように思える。安倍首相は三期目の任期を全うできるのであろうか?

自分の考えを実現しようと思えば、官軍側に付くことが必用であろう。それは野党議員である限り何もできない政治の世界を見れば明らかだ。しかし学問の世界は違う。特に数学や理論物理などの理論系は、例え単独でもいくらでも理論を示すことができる。勝った者と言うより、正しいことを示したものが官軍なのである。そういう意味では政治家の世界とは全く違う。年齢も立場も関係ない。そのような事を示すために、日々努力していこうと思うのである。

日本は自由が曖昧だ!

日本は果たして自由な国なのか?世界的に見ればどちらかと言うと自由な国であろう。ではなぜ日本は自由な方なのか?それは戦後、日本がアメリカ陣営に組み込まれたからに他ならない。なのでどちらかと言うと、受動的に自由主義国家になったと言える。そのような受動的自由化を進んできたせいか、日本は自由の扱い方が非常に下手であると僕は常々感じている。

他国が、はたまたアメリカがどれだけ自由か?と言う問いに関してはいろいろと議論があるだろう。アメリカだっておかしな自由がある。その代表が銃所持の自由であろう。そんな自由ははっきり言って百害あって一利なしと言えるし、銃所持の自由は実質犯罪者の暴力の自由となっている。その点、日本においては一般人の銃所持など考えられず、それが高度な治安の良さにつながっている。そのような点だけ見ても、日本はアメリカよりも優れていると言える。

しかし思想的に見た時に、日本の自由と言うものはやはり受動的であり、一応自由ですよと言う感がプンプンする。自由が大事だから自由を守ると言うよりかは、世界的に見て、あるいは西側諸国の制度から見て自由は必要だから、仕方なく自由にしていると言う感がする。だから自由と規制に関する施策がちんぷんかんぷんな事もしばしば出て来る。そして学校においても、自由について考えると言う教育はほとんどなく、規則は守りましょう的な、半ば共産主義的な教育を押し進めると言うことになっている。何も規則、規制が悪いのではない。なぜそのような規則、規制が必用なのか?と言うことを全く考えないことが悪いのである。そのような土壌に自由を根付かせようとしても無理な話である。

ではそのような現状を変えるためにはどうすれば良いか?それはもう教育しかない。学校とは学問を教えるところだと思っている人が多いが、それは全く的外れだ。学校とは「考える」ことを実践する所なのである。すなわち教育の全ての根っこは考えることにある。学問の授業などはその手段であり本質ではない。自由な社会には必然的に、全ての人がそれぞれ自分の頭で考えると言うことが必要になる。すなわち、何も考えずに受動的にしか動かない人間しかいない社会に自由などありえない。自由と能動的思考は両輪であり、自由を社会に根付かせるためにもそれぞれの人間があらゆることに思考を巡らせる必要がある。

有料サービスを駆使する。

無料サービスを駆使すると言う人は多いのではないだろうか?確かに現在では様々な無料サービスが展開され、特にネットを駆使すれば無料サービスだけでも十分事足りる。スマホアプリでも、無料アプリの中にはかなり便利なものも少なくない。しかしそこを一歩踏み出して少しのお金を投資すれば、無料サービスに比べてかなり質の良いものを得られることが多い。何も多額のお金をつぎ込む必要はない。例えばネットサービスで言えば、月に数百円支払うだけで格別なサービスを受けられることも少なくない。

では、無料サービスの欠点は何なのか?はっきり言って量的な部分では無料でも十分なくらいのサービスを受けることができる。問題は質だ。例えばネット情報と新聞情報では信頼性(つまり質)が圧倒的に違う。そのように良質なサービスを受けようと思えば、多少の金額の投資をすることは非常にメリットが大きい。費用対効果の面で言っても、少量の金額を投資することによって圧倒的に効果が上がることが多い。

確かに現在では、無料サービスだけでもかなり事足りるのは事実であろう。しかし無料サービスでは確実に限界がある。その限界内で活動しようと思っている人にとっては無料サービスの範囲内で済ませばよいが、生活や人生においてとことん質の向上を志す人にとってはある程度の金銭投資は必要不可欠である。

現実に0円サービスと500円サービスでは天と地の違いがあることが多い。しかも数百円くらいなら懐もそんなに痛くない。肝は少額サービスを多数受けることだと思う。とは言え、時にはそれなりの投資も必要な事もある。僕であれば毎月一万円ほどの書籍代は投資している。これからは、いかにして有料サービスを駆使するかと言うことが人生の質の分かれ道になるのだと思う。有料サービスを駆使して限界を突破すれば、それは数万倍以上になって帰ってくると僕は強く感じている。