思想、生き方、考え方」カテゴリーアーカイブ

妄想力100%!

妄想は活力の源である。

僕はかなりの妄想家(そんな言葉があるのか知らないが)である。特に研究に関しては妄想力全開!ああだこうだと妄想して、構想を練る。ただ、妄想を妄想で終わらせないことが大事だ。そして周りからはいつまで妄想してるんだと言われるかもしれないが、そんなことお構いなし。妄想するのは自由である。

妄想が夢へと広がっていく。そしてその夢を実現するためにさらに妄想を続ける。

人生のギャンブラー。

ギャンブルと言えばお金の賭け事を連想する人が多いと思うが、賭けるのはお金だけではない。人生を賭けるのも一種のギャンブルだ。僕はというと、お金は賭けないが、人生は常に賭けている。いや、自分の信念を貫くためには賭けざる負えないのだ。

平穏より、エキサイティングを求めてしまう。非常に危険なことはわかっているのだが、生きるか死ぬかの瀬戸際で攻防するのはやりがいも非常に大きい。成功しているかと言えば全くそうではないが、自信はある(根拠のない自信?)。根拠があろうとなかろうと、自信は必要だ。自信がないと、人生のギャンブルはできない。

1%の可能性があるとき、1%可能性があるじゃないかと考えるのと、99%失敗してしまうと考えてしまうのでは、結果が全く変わってしまう。さらにその思考が様々な事にも波及する。

可能性がある限り、常にあらゆることに取り組んでみようと思う。間違ってはならないのは、暴挙には出てはいけないということだ。暴挙とは不可能(0%)なことに打って出る事。1%でも可能性があれば、ギャンブルに出るのも悪くない。

IQで才能を測る風潮に、少しあきれる。

IQに関する話題は、定期的に出てくる定番の話題だ。頻繁に耳にするのは「どこどこに、IQ200を超える天才少年が現れた」というものであろう。IQというのは偏差値と同じで、明確に数値で表されるので、非常に分かりやすく、皆がすぐに飛びつきやすいトッピックなのであろう。

別に、IQで人の能力を測ることに対して全否定するつもりはないが、人の能力というものはそんなに単純ではない。数学が得意でも英語が苦手な人もいるだろうし、さらに才能は学問に対するものだけではない。絵画の才能もあれば、音楽の才能もあるだろう。

しかし、数学などに関しては、IQが非常に有効だと考える人は多いかもしれない。確かにある程度の相関関係はあるかもしれないが、既存の問題を解く能力と、新しい理論を創造する能力は必ずしも一致しない。数学業界では”数オリ崩れ”(高校時に数学オリンピックに出るくらいの秀才だったが、研究では結果を出せない)という言葉もあるくらいだ。

最もあきれるのは「誰々はIQでアインシュタインを超える数値であり、アインシュタインを超える天才だ」というものだ。そもそもアインシュタインがIQを測ったことがあるとは考えられないし、実際アインシュタインの方がIQが低いとしても、はっきり言ってそんなことはどうでもいい。一つ言えることは、その高IQ者は所詮IQで測りえる程度の人間だということであり、アインシュタインの創造的才能はIQとは全く別次元のものだということである。

理想論は実行が伴ってこそ価値あるものになる。

理想論は非常に重要である。将来の展望、あるいは希望をより良いものにするためには、常に理想はどうあるべきかというビジョンを持たなければならない。

しかし、実行が伴わない理想論は空論である。理想はそこへ向かおうという実行が前提となって価値あるものになる。

また、理想論をバカにする人もあるが、理想をバカにする人に残されたものは、良くて現状維持、ほとんどは衰退である。

理想をもってそこへ向かって実行する、理想と実行は希望への原動力の両輪である。

物事を立体的に俯瞰する。

最近、雑誌でいけばな(生け花)に関する記事を読んだ。僕はいけばななんて全くやったことないし、何の知識もなかったので、いけばなの世界観を少しだけ垣間見ることができて面白く感じた。

そこで、いけばなの師範が「対象を立体的にとらえることが大事だ」ということを言っておられた。もちろん花(植物)は立体的に成長するものなので、いけばなに奥行き感を出すためには立体感覚は大事だが、あらゆるものに対して立体的にとらえるのは簡単ではないのかもしれない。

数学でも平面図形は図を見てすぐに理解できるが、立体図形を理解するには持前の立体感覚が物を言う。さらに言うと、数学者は4次元以上の図形をも扱う。5次元・6次元、さらに一般のn次元という世界と格闘している。

もちろん、4次元以上の図形を書いてみるわけにはいかない。しかし数学者は高次元を縦横無尽に駆使できなければ使い物にならない。

物事を平面的にしかとらえられないと、どうしても画一的な考えしか出てこない。柔軟に奥行きのある考えを出すには、どうしても物事を立体的に俯瞰することが必要になる。しかし、物事を立体的にとらえる事とはどういうことか、ということを定義するのは非常に難しい。なので、平面的にしかとらえれらない人に、立体的にとらえるとはどういうことかということを教えるのは至難の業だ。

立体的にとらえる技術は、生まれつきの天性がかなり物を言うのかもしれないが、多くの事象をとらえて経験を積み重ねることなしにはこの天性も生かし切れない。才能は努力があって初めて開花するものである。

読書について。

「なぜ読書をするべきなのか?」と言う問いは、いつの時代も答えを模索されているみたいだ。先日もネット上に、一つの答えが書かれていた。

「そんなバカな質問をしないためよ」

何とも的を得た答えのようだが、よくよく考えてみると、はたして答えになっているのかどうかわからない。

なぜ読書をするべきなのか?という問いは、百数十年前、哲学者ショーペンハウアーによってもなされていた。ショーペンハウアーはこの問いに対しての見解を、短編書「読書について」という書物に書いている。

読書とは”インプット”である。しかし生きるとは”アウトプット”することである。従って、読書についても、それをアウトプットに生かすことが求められる。

もちろん、読書によるインプット自体にも意味はあるが、インプットするだけで自己満足しているようでは成長しない。成長とはアウトプットすることによってもたらせられると僕は思う。

考えることも非常に大事だが、考えたら即行動、即アウトプットするために動かなければならない。

全く意味のない、悩みの生産工場。

誰でも悩みを抱えることはしばしばあるとは思うが、まだ起こっていないことで悩むことほど無駄なことはない。悩むのは、事が起こってからでいい。まだ起こっていない悩みの元は、ほとんどの場合起こらない。そんなことで悩んでも、良いことは全然ない。

しかし、悩みだしたらそれが無限ループになって、悩みの生産工場と化してしまうことがある。もちろん、そんなことにならない人も多いとは思うが、僕はしばしばそうなってしまうことがある。僕の非常に悪い癖である。

物事を始める時、最初から完璧を求めてしまうと最初の一歩が踏み出せない。始める時は多少いい加減なくらいがよい。完璧を求めだすと、またそれで悩み出してしまう。

この様に、いい加減な人間というのもしばしば良いことがある。いい加減と言うと何かだらしなくてネガティブなイメージがあるが、言葉を変えると「楽天的」と言うことになるのかもしれない。とは言え、楽天的な人間になろうと思って、楽天的になれるものではない。しかし楽天的になれなくても、起こっていないことで悩むことはやめにしよう。

必要最低限の事をこなせばいいのか?

僕の失敗談。

”ついつい余計なこともしてしまって、大目玉をくらう”

何をやっても、求められていること以上のことをしようと思ってしまう。言い換えれば、余計なことをしてしまうとも言えるが。プラスαのことが余計なことになった時、大目玉をくらってしまう。

よく言えば、サービス精神旺盛ということかもしれないが、多くの人たちにとってそんなことは望んでいないということかもしれない。

必要最低限のことを続けることは、現状維持ということかもしれない。しかしそれ以上の発展を望むならば、プラスαは欠かせない。

必要最低限の事だけをしっかりこなす人を見ると、頭がいいなと思ってしまう。自分はバカなのだ。しかしこの自分のバカさ加減を直そうとは少しも思わない。なぜなら、常に上を目指しているから。

いつまでも自分はバカで居続ける・・・

将来の夢が「病理医」の女の子。

この女の子とは、中学生になったばかりの女優の芦田愛菜さん(12)である。

小学生・中学生に、将来の夢は?と尋ねると、たいてい定番の答えに落ち着く。男の子だと、プロ野球選手など、女の子だと、ケーキ屋さんなどであろうか。そして男女両方の上位に来るのが、医者である。

医者に憧れるのにはいろいろな理由があるだろう。人を助ける仕事がしたいからというのもあれば、高収入だからというのもあるだろう。高収入だからというのは大人の影響を受けすぎなような気もするが、それで立派な医者になってくれるのなら大歓迎だ。

話しは芦田愛菜さんに戻るが、芦田さんの(現在の)夢は、「病理医だ」と言ったらしい。医者と言わずに病理医といったところに視野の広さを感じる。病理医は、患者の組織検査などをして病気の原因を突き詰めることを主とする。大人でも病理医の存在を知らない人は多いだろう。芦田さんは、子供の頃から女優をされており、社会の様々な側面を小さなころから垣間見ることがあったのだろう。その中で、僕もなぜだかわからないが、芦田さんは病理医に魅かれた。

この芦田さんの視野の広さと社会に対する観察力は、大人も見習わねばならない。

現在、医者の人気は過去にないくらい高まっている。子供を医者にしたい親も多いだろう。しかし本当にやりたいこと、面白いことは何かを吟味して、注意深く社会全体を観察し、それでも医者ならば医者のどういう所が魅力で、具体的にどういう行為を行う人たちなのかを知らねばならない。それができているから芦田さんは病理学という具体性のある答えを出せたのだと思う。華のある職業は多いが、我々が見ているのは所詮表面的な部分だけで、いいところしか見えてないのだから。

尾崎豊。

尾崎豊が死去してから、今月でちょうど25年になる。尾崎が死去したのは、僕が中3か高1の時である。

尾崎豊が死去した時は鮮明に覚えている。とは言え、尾崎が死去した時点で僕が知っていた尾崎の曲は、「I LOVE YOU」など数曲に過ぎなかった。すなわち僕は尾崎が死去した後に尾崎を詳しく知ったうちの一人だ。

現在の学生にとって、尾崎の歌詞は非常に古く思えるかもしれない。今の僕が見てもそう思う。しかし、尾崎の歌詞には、人間にとって普遍的な思いも多く含まれる。自分の意志で行動し、「長いものには巻かれろ」という言葉に反骨する精神の持ち主なら、なおさらだと思う。

僕の好きな尾崎の曲の一つに「COOKIE」がある。この曲は、当時の世相に対して疑問に思うことが素直に綴られている。愛しい人が作るクッキーと温かいミルクに心を寄せ、それに対極にある世間・社会の画一さ・おかしさに疑問をぶつけている。その尾崎のCOOKIEに、自分が抱く疑問を重ねたものだ。

最近、音楽業界が盛り上がっていないとよく聞く。もちろん、第二の尾崎が現れたとも聞かない。世相の全く変わった現在では、第二の尾崎は必要ないのかもしれない。大事なのは、第二の尾崎ではなく、第一の何かである。二番煎じでは説得力にも欠ける。

尾崎の歌に学生時代の自分を思い出し、それでも自分にはやっぱり岡村孝子の曲がしっくりくると、繰り返し中学時代から好きな岡村孝子を今でも聴いている。