思想、生き方、考え方」カテゴリーアーカイブ

情報耐性。

近年の社会は情報の嵐である。もちろん有用な情報も多いが、中には無駄な情報やフェイクニュースなどもたくさんある。そのような情報社会に対してどのように向き合っていくか?そして無駄な情報やフェイクニュースからどのように自分を守るか?そのような情報耐性を身に付けることが求められている。

情報耐性は、無駄な情報やフェイクニュースに対してだけではない。役に立つ情報や必要な情報に対しても、それらに過度に振り回されれば自分というものが確立できない。必要な情報に対してもその情報にどのように対処していくかということは重要である。

情報耐性を身に付ける第一歩として、情報の質を見極めるというスキルを身に付けることが必要だ。その情報の情報源はどこなのか?その情報は信頼できるか?そのような事を判定してから情報の有用性を判断しなければならない。また情報氾濫時代においては、ネットなどの情報をダダ流ししているだけでは知識人とは言えない。情報氾濫社会だからこそ自分独自の知見というものが重要になる。もう、一つ一つの情報自体にほとんど価値はない。

情報耐性を身に付けていないと、人間は社会の操り人形になってしまう。人間というものは、社会に属していると同時に一個人としての独立性も確立していなければならない。しかし現代人はますます社会やネットに対する属性を深めてきている。その証拠にスマホや携帯なしに生きることはできるかと考えると、精神的なネット依存の度合いを容易に感じられるだろう。今一度情報社会との向き合い方を真剣に考える必要があるだろう。

誰のために頑張るのか?

自分は誰のために頑張るのか?自分のためか?誰かのためか?どちらにしても何かを頑張るためには誰かのために頑張ることが必要だ。

最近の僕は、「自分のため」ということに対する比重が大きすぎていた。そのため、過度に自分を守ったり慎重になりすぎることがよくあった。そのような状況を脱出するためにはどうすればよいかと考えると、誰かのために頑張ることが必要だという結論になった。誰かのためとは誰のためなのかと言うと、身の回りの人であったり、もしかしたら世界で苦しんでいる人かもしれない。とにかく他人のために頑張るということが必要なのである。

誰かのために頑張る事と自分のために頑張ることは、異なることではない。自分のために頑張って成功することにより、他人を助けることが出来る。なので他人の事を考える前に自分の事を考えなければならない。そして他人を助けることが出来る人間になれるように精進しなければならない。

誰かのために頑張ることが自分のためになり、そしてそれによって自分が成功することによって他人を助けることが出来る。そのためには心もお金も必要であるが、誰かのために頑張って自分のすべきことを進めて行こう。

「過去に戻る」のではなく、「未来に進む」。

人生40年も生きていれば、過去の良かった時、悪かった時の事を振り返って、「あの頃に戻りたいな」とか「あの頃には絶対に戻りたくない」と思うことも多々ある。しかし現実として過去には絶対に戻れない訳だし、過去に戻るということはある意味「退化」と言える。もし過去に戻ることが「進化」なら、それは逆に言うと現在は退化している訳であるので、問題はかなり深刻だ。

それにしても世の中の進展は速すぎる。スマホなんて数年前の機種はすでに時代遅れだし、社会のシステムもすごい速さで変わっていく。そのような社会システムの進展について行くべきなのか?それともそんなことは気にするべきではないのか?悩むところだが、社会システムを気にしなければあっという間に仙人状態になってしまう。まあ、自分の人間としての軸をしっかりと持っていれば問題ないと思うが、ハイテク社会を素直に楽しめない自分がいる事には自分でも少し腹が立ってしまう。もっと世の中をエンジョイしたいものだ。

そんな僕にも、日常生活の中でエンジョイしているのがファッションだ。とは言っても現在はそんなに余裕があるわけではないので本屋でファッション雑誌立ち読みして色々と妄想するくらいだが、いろいろな面で余裕が出来たらその時は思いっきりファッションをエンジョイしたいと思っている。

社会の流れに身を任せるか?それともその流れに抗うか?そこには人の生き方や思想が大きく表れるとこだと思うが、僕自身はもう少し楽に考えればよいのではないかと反省してしまう。やはり何に関してもエンジョイできる事に越したことはない。しかし時にはストイックに追究することも必要だ。エンジョイすることとストイックに追求することをいかに両立するか?そのような二刀流の達人になることを目指して進んでみよう。

前例と挑戦。

日本は何かと前例にこだわるとよく言われる。前例主義に対しては批判的な意見が多いが、なぜか自分の事となると前例にこだわる人が多い。前例がないから無理だと諦めたり、人のやっていることに対してそんな事は前例がないからやらないほうが良いと助言したりする。とは言え、裁判においては公平性と法律の厳格性から前例を厳守することは言うまでもない。しかし自分の生き方を前例と照らし合わせて決めていれば、それは自分の人生ではなく他人の人生のコピーになってしまう。

前例主義と対比を成す言葉は「挑戦」だと僕は考えている。すなわち挑戦とは前例を打ち破ることから始まる。人生において挑戦を繰り返すことによって、自分の人生に個性というものが現れる。前例にこだわり挑戦ができない人は、自分の軸を確立していないからだ。前例に軸を置くなんてことは裁判の判決でない限りありえない。自分の軸を確立してこそ、その軸が示す指針により挑戦という手段に出ることが出来るのだ。

研究においても、確実な結果を出そうという意識が高い人ほど前例にこだわることが多い。確実な結果を出そうという意識には二種類ある。一つは挑戦のその先にある革新的な結果を出すために確実性を高める事。もう一つは失敗しないための確実性を高める事。前例にこだわるのは後者の方だ。確かに小さいながらも結果を出さないことにはポストにも就けないし、ポストに就けないということは研究ができないということにもつながる。特に生命科学や化学などの実験系では、ポストに就いて実験施設を確保しないと何もできない。しかし幸いなことに、数学や理論物理の研究はせいぜい専門書や論文を入手する資金を確保できれば何とか研究を実行できる。

前例を踏襲するのではなく、良き前例を作っていかなければならない。これを研究の言葉で言い換えると、新たなる流行を作るということになる。流行は追うのではなく作らなければならない。そのためには前例主義から脱却して挑戦を繰り返していくしかない。そしてどれだけ失敗を繰り返してきたか?失敗の数は恥ではなく勲章の数である。多くの失敗を繰り返さないと大きな成功はありえない。失敗ドンと来いだ!

二刀流!

最近は二刀流が何かと話題だ。二刀流と言えば真っ先にメジャーリーグの大谷翔平選手の名前が挙がる。大谷選手は、投手に専念すれば大リーグ一の投手になれる可能性があるし、打者に専念すれば大リーグ一の打者になれる可能性がある。そのようにあまりにも才能豊かな選手であるが故に、一本に絞るべきだと言う人が多い。しかし大谷選手の一番の魅力は、一番の打者、一番の投手と言う以前に、前代未聞の二刀流選手だということである。僕自身も大谷選手の二刀流を見続けたい気持ちは非常に大きい。一番であるという以上に「唯一」の二刀流大リーガー、大谷翔平を見たいのである。

大谷選手の価値は二刀流の大リーガーというだけではない。大谷選手の二刀流の成功によって、様々な分野で二刀流に挑戦する人が出ており、二刀流が注目を浴びている。日本には二刀流という言葉があると同時に、「二兎追うものは一兎も得ず」という言葉もある。これまでは二つの事を同時にするというと、そういう意見をされることが多かったのではないかと思う。しかし大谷翔平選手の成功により、二刀流が肯定的に捉えられるようになってきた。しかし二刀流には一兎も得ずという危険性は常に付きまとう。二刀流に挑戦するに当たっては、そのようなリスクにさらされることは覚悟しないといけない。

学問を追究するにおいては専門を定め、一兎を追うことに専念することが要求される。それ故、学者は「専門家」とも呼ばれる。しかし研究者にも二刀流がいても良いのではないかと思う。何なら三刀流、四刀流でもいい。特に人生においては何刀流にでもなるくらいの気構えが必要である。細分化された専門にこだわり重箱の隅を突くようなことは避けたい。重要な事を成し遂げるには、しばしばいくつにもわたる知識と知恵が必要になる。すなわち一つの刀では核心に迫れない。本質に迫るような仕事を成し遂げる人は、いくつもの刀を持っている。

大谷翔平はとてつもなく凄い人間になってしまったが、大谷翔平のように二刀流に挑むバカな人間が何人も現れれば、その中の一人や二人くらいは大谷選手に迫るくらい凄い人間になるのかもしれない。歴史を変える人間とは、そのようなバカな人間から出てくるものである。

僕は僕にしかできない生き方をすべきだ。

人の幸せな姿を見て、自分もそのように幸せになりたいと思う人は多いかもしれない。しかし僕はそうは全く思わない。人の幸せがあるなら、僕には僕なりの幸せがある。僕は僕にしかできない生き方をすべきだと常々思っている。

僕は良い意味でも悪い意味でも普通ではない。普通ではないから、人が普通にできる事が出来なかったりする。逆に普通ではないからこそ、人には出来ないことが出来る。人に幸せを与えることが出来ているかなどと大逸れたことは言えないかもしれないが、僕は僕なりのやり方で人に幸せを与えるべきだと思っている。そのように周りの人や多くの人に幸せを与えることが出来れば、僕自身も幸せである。

そしてそのように人に幸せを与えるためには、今は努力をしなければならないと思っている。努力とは一言で簡単に言えるが、もちろん簡単に努力ができるものではない。しかし簡単に努力ができるくらいにならねばと思っている。

僕には研究において非常に大きな目標がある。そのような大きな目標を言うと、人にはバカにされるかもしれない。しかし僕にとってはそのような目標に向かうことは体の一部となっており、普通のことである。非常にチャレンジングでエキサイティングな挑戦であり、それに向かって進むことは非常にわくわくさせてくれることである。

僕に数理物理という目標を与えてくれたことに感謝、そして人とは違う生き方をできる事に感謝。よし、頑張ろう!

スタンダードで自己表現をする。

自己表現をする時に、奇をてらう人は多い。例えばファッションにおいて個性を出すと言えば、大概の人は奇抜な物を身に付けることによって個性を出そうとする。確かに奇抜なものは目立ちやすいしわかりやすい。しかし奇抜なものによって安易に個性を出そうとするのは、僕は個性でも自己表現でも何でもないと思っている。奇をてらわないと表現できないのは、人間性のなさだ。

男性の基本的な服装はスーツだと思うが、スーツにおいて奇をてらうことは一番ナンセンスだと思う。スーツはネイビーかグレーのスタンダードスーツでいい。しかし不思議なことに同じネイビースーツを着ても様になる人とならない人がいる。ネイビースーツを着こなすためには自分の体というものを熟知していなければいけないし、長年着こなして様になるものである。

ファッションだけでなく、普段の振る舞い、そして学問に対する姿勢も同じである。スタンダードという基本を身に付け、それによって表現しなければならない。学問においては人のやらないことが大事だとよく言われる。それはもっともなことであり、人のやらないところからスタンダードを作っていかなければならない。人のやっていることはスタンダードではなく流行である。

スタンダードとは日本語で言うと「標準」ということであるが、実はスタンダードを極めることは非常に難しい。スタンダードを極め、次世代のスタンダードを作らなければならない。そしてスタンダードにおいて自己表現をするということは非常に難しいものである。そのような深い自己表現ができない人はすぐに奇をてらおうとする。人のやらない事、人のやらない手法で取り組むときは、それが後々スタンダードになりえるかということを考えなければならない。

表層と深層。

物事にも人間にも、表層と深層がある。表層とは主に第一印象で決まることであり、真相とは時間をかけて感じられるものである。人間の奥深さ、つまり深層が大事なのは誰もが思っていることであるが、だからと言って表層が全くいらないかと言えばそうではない。車を買う時に、性能が良ければ塗装はボロボロでいいと言う人はほとんどいない。人間においても奥深さを持つということは非常に重要な事であるが、人間性という深層を深めればその余力で表層にも気を使いたいものである。

学問にもファッションにも表層と深層がある。学問とファッションにおける表層とは、流行に乗ることである。学問に対して流行があるとはなかなかイメージできない人も多いかもしれないが、学問においてもその時々の流行はある。そして流行を追い続けている研究者は非常に多い。しかし学問においてもファッションにおいても、重要なのは自分のスタイルを確立することである。流行の理論、流行のファッションと言う以前に自分のものでなければならない。

もちろん、ファッションにおいても学問においても流行を徹底的に追うというのは一つの手ではある。それに長けている人はその手を徹底的に追究すればよい。しかし意外と本質とは流行とは発想を180度転換させたところにある事が多い。その典型的な例がアインシュタインの相対性理論であろう。

表層と深層は多くの場合補完し合うものである。しかし多くの場合は深層が本質的であり表層が枝葉となる。そして流行から流行は生まれず、流行は本質から生まれる。流行を作ることは並大抵の事ではないが、深層を掘り下げることにより、次世代の本質の尻尾を掴めるのではないかと常々考えている。

才能、努力、運。

大きなことを成し遂げようと思えば、才能、努力、運の全てが揃っていなければならない。しかしこの三つは独立したものではなく、全てが連動している。才能とは努力ができる力であり、努力をすることによって運が巡ってくる。そして運を掴む才能が必要である。

先日、フィギュアスケートのグランプリファイナルがあり、女子シングルでは紀平梨花さんが優勝した。紀平梨花さんのスケーティングの才能は誰もが認めるところだが、その才能はおそらく努力の賜物であろう。そしてそのような努力と才能によって、グランプリシリーズ三戦全勝という運を掴み取ったのだと思う。

繰り返し言うようだが、運とは偶然ではない。努力ができない人間には200%運は巡ってこない。しかし努力ができるという才能を持った人には70%くらい運が巡ってくる。100%ではなく70%であるところが「運」という所以なのだ。そして自分の努力次第ではこれを80%、90%へと高めることができる。

人生は一筋縄ではいかない。そこが苦しく面白いところである。「努力は嘘をつかない」とよく言われる。これが100%本当かどうかは僕にはまだわからない。ただそれが本当であろうと嘘であろうと、今自分にできる事は努力しかない。努力が必ず報われるとは限らないから努力をしないというのは最もナンセンスな行為だ。少なくとも努力をした後には努力が残る。あとは自分を信じることができるかどうかだ。努力をしない人間は、自分を信じ抜くことができないのであろう。自分を信じ抜くことができるというのは大きな才能だと思う。

紀平梨花さんの活躍に刺激を受けて、自分の取り組んでいる事、自分の進むべき道を自信を持って進める事ができれば、それも自分という人間の大きな力だと思う。

自分は面白い人間か?

僕は常に面白い人間でありたいと思っている。では僕の言う面白い人間とはどのような人間か?それはお笑いのような面白さもあり、面白い生き方をしていることでもあり、また研究で重要な結果を出せる人間でもある。それ以外にも、お洒落な人間であることや挑戦し続けていることなど、言い出したらきりがない。

面白い人間は総じてリスキーである。なので無難な生き方をしたい人には、面白い生き方を薦めることはできない。面白い生き方をするためにはそれなりの覚悟がいる。僕はお金のギャンブルは一切しないが、人生のギャンブルは常にし続けている。お金のギャンブルをする人間ほど面白くない人間はいない。面白さとは先の見えない未来を開拓して行くことによって感じられるものなのである。

今僕は非常に面白い問題に取り組んでいる。その問題の解決に成功できれば、非常に面白い事になると思っている。そして面白さが面白さを呼ぶように、さらに面白い人間になれるのではないかと思う。ある意味、面白さを追求することは、人生を掘り下げる事でもある。別にお笑い芸人のような面白さがある必要はない。ただ人間としては非常に面白い人間であるべきだと思っている。

面白い人間になり切る前夜、どのように人生を模索して行くか?面白い人間の度合いは、それまでどのように人生を送って来たかにかかっている。