思想、生き方、考え方」カテゴリーアーカイブ

危険じゃないと意味がない!

もし人生の岐路に立った時、どちらを選ぶか?僕は危険な方を選ぶことにしている。もちろん、危険な方を選ぶことに不安がないわけではない。しかし危険な方がより大きな可能性が潜んでいると思うし、より大きな自由度が存在していると思う。もちろん、危険な方を選んで失敗した場合、最悪は死という可能性もある。

とは言っても、まだそれを100%実行できる状態ではない。精神的にもそこまで強くなり切れてはいない。そこはこれからの課題である。

なぜそこまで危険な方にこだわるのか?それは危険性よりも、自分の身動きが取れなくなることの方が恐ろしいからである。そしてこれからいろいろと実行したいことがある。そのためには危険に飛び込むことが必要であるからだ。

危険は裏を返せばエキサイティングということである。エキサイティングに生き、とてつもなく大きな成果と実績を挙げ、目標とすることを達成するためにも、これからどんどん危険に飛び込める人間になろうと思う。

前へ!前へ!

僕の考えることを他人に押し付けることは正しくないとは思っているが、自分の考えに自分が従うことは重要だ。

人それぞれ、自分のスタイル、自分の生き方というものを持っていると思う。もちろん僕にも自分のスタイル、自分の生き方がある。いかにしてそれを貫くか。簡単なようで難しくもある。そこで自分に言い聞かせるためにも、それを自分の口で発し、自分の言葉で書きとめるという行為を心がけている。

自分の生き方を書き連ねると長くはなるが、キーワードを並べると、

「前へ」「保険を掛けない」「動く」「攻める」「守るべきところは守る」

こんなところだろうか。

「前へ」は、常に前進することを試みる事と、後ろを振り返らないということである。

「保険を掛けない」とは、常に危険に飛び込むことを心がけるということである。

「動く」は、考えたら即実行するということである。

「攻める」は、常に超攻撃的人生を進めるということである。

「守るべきところは守る」は、大切なものはしっかりと守るということである。

現在、どこまでこれを実行できているか?おそらく半分もクリアできていない。これらの事を常に念頭に置いておかないと、すぐに後退してしまう。現在できる事は、1%前に進める事。1%の積み重ねが10%、20%となってくる。

例え失敗したとしても、前に進んだ結果の失敗でなければならない。

休憩後に一手も指さずに投了した羽生竜王に、プロフェッショナルの真の姿を見た。

現在、第76期将棋名人戦7番勝負が行われいる。佐藤天彦名人と挑戦者の羽生善治竜王との戦いだ。その第4局が5月19日・20日に行われた。名人戦は持ち時間が各9時間、つまり二人合わせて18時間になるので、2日間に渡る長丁場となる。

その2日目に珍しいことが起きた。羽生竜王が休憩後に一手も指さずに投了したというのだ。羽生竜王は負けることになったが、その羽生竜王の姿にプロフェッショナルの真の姿を見たような気がした。

羽生竜王がどこまで先を読んでいたかわからないが、休憩後に一手も指さずに投了したということは、かなり先まで読んでいたと想像できる。深い考察によって先を読んでいたからこそ、自身の負けを悟ったのであろう。

この羽生竜王の負け方に、羽生竜王の凄さを感じた。ここまで究めないと真のプロフェッショナルと呼べないのであろうか?羽生竜王のこの投了の姿は、あらゆる分野でプロフェッショナルを目指そうとしている人たちにプロフェッショナルとはどうあるべきかということを示している。

強烈な個性の発揮!

以前、服装で個性を出すのは違うということを書いたが、その一方、内面からの個性は強烈に発揮すべきだと思っている。個性とは字の通りその人そのものであり、個性の抑制は自分に対する否定である。

僕自身、個性は強い方だと思うが、それでも満足はしていない。自分のどこかにまだ自分を抑制している自分がいる。その部分を解き放たねばならないと感じている。

最近いろいろな人を観察していると、どこか没個性的なところを感じる。世の中全体が個性を抑圧しているようだ。日本では昔から「出る杭は打たれる」とよく言うが、「個性を出す=出る杭」と考えているのだろうか?

その一方、ブレークスルーというものは強烈な個性から生まれるものでもあるので、個性を否定しながらも個性が作り出した世の中のプラットフォームに乗っているという構図になる。

ただ、強烈な個性が全てブレークスルーを生み出せるわけではない。ブレークスルーを生み出すまでに強烈な個性による多くの失敗の積み重ねがある。

もし最終的に成功することができなければ、その個性は皆の記憶の彼方へと消えることだろう。しかしそれでいいのである。消えることを恐れていれば、挑戦権さえも得られない。そして仮に失敗したとしても、強烈な個性が挑戦した爪痕と事実は消えない。

三段構え。

物事に取り組むにあたっては、三段構えで臨むことが重要だ。初めに最も力を入れるべきことに取り組む。しかしそれが成功するとは限らない。もしそれが成功しなかったら二番目の事に取り組む。それでもだめなら三番目の事に取り組む。このように三段構えで臨めば、何かしら結果を出すことができるであろう。

今僕は、三段構えで物事に取り組もうと考えている。しかし「一番目、二番目、三番目」ではない。「二番目、三番目、四番目」なのである。一番目の事に対しては意地でもあきらめないつもりである。一番目の事に対してはさらに三つの事に細分されるが、そういう意味でも一番目の中で三段構えができているとも言える。

三段構えで「これでもか!」と次々と畳み込んでいくくらいの意気込みを持ちたいものであるが、そこまで積極的に前に出ることは難しい。特に受け身の姿勢で取り組んでいれば、三段構えどころか二番目の事に移ることもできない。

超攻撃的人生を歩むことを決めた今、三段構えの姿勢は必要不可欠であると感じている。

仕事や夢に対するお金の使い道。ヒカキンさんが良い言葉を言っていた。

僕が毎日楽しみにしているのが、YouTube動画「釣りよかでしょう」だ。そして毎日楽しみにしている「釣りよか」動画を観ていた時、「Hikakin TV」の160万円のフルスペックiMacProを買ったという動画のリンクがあった(2018/02/09公開の動画)。以前からiMacProのフルスペックPCには興味があったので、ワクワクしながら観ることにした。

ちなみに、フルスペックiMacProは、CPUが18コアで、メインメモリがなんと128GB(念のために、これはストレージの容量ではない!)。ストレージは4TBのSSDである。

ヒカキンさんの話に戻るが、ヒカキンさんは動画の中で、なぜ160万円もする超高性能パソコンを買ったかということを語っていたが、その中で非常に良い言葉を語っていた。それは、

「自分の夢や仕事に関するものは、その時自分が買える1番良い物を妥協せず買ってきた」

ということだ。さらに、

「本気で目指している夢だったら、全財産はたいても買うべき」

とも言っている。これらのヒカキンさんの言葉には、非常に同感である。僕もそんなに高額なものではないが、今目指していることに必要な専門書などに対しては、どんなに高額でも投資している。専門書は書籍と言っても非常に高いものもあり、一冊数万円するものもある。しかし少しでも必要だと感じた専門書は、即決で投資している。おかげで、専門書エンゲル係数(なんて言葉があるかどうかはわからないが)は非常に高い。

現在の百円は数年後の何千万円に化けると僕は思っている。さらにお金では買えないような経験も得られると思っている。僕が言うより、ヒカキンさんの動画を直接見た方が説得力があるかもしれないので、ヒカキンさんのこの回の動画はぜひ探してみてほしいと思う。この回の動画ではヒカキンさんは色々と良いことを言っている。

思いっきり投資した後は、それを成果へと化けさせるために全力だ!

神は細部に宿る。

「神は細部に宿る」とはよく聞く言葉だ。物事を構築するには、まず概形を定める。そしてその細部を詰めていく。この二段構えが必要になる。

概形とはいろいろ言えるが、骨格を構築するという意味もあるし、アイデアを見つけるという意味もある。しかしアイデアだけでは何も進歩しないし、形にもならない。その次の段階である「細部を詰める」という作業が必要になる。その「細部を詰める」ことに成功した時、そこに神が宿るのである。

細部を詰めて神を宿らせるためには、専門的技術が必要になる。つまりプロでなければできない。しかし、この細部を詰める作業が完成した時のその喜びは非常に大きい。細部を詰める作業は根気のいる厳しい作業でもあるし、楽しい作業でもある。

僕自身は音楽は全くできないが、ピアノを弾ける人には憧れる。なぜあのように指が動くのか?僕には全く理解不能だ。もしかしたら数学の研究もそう思われているのかもしれない。なぜあのような複雑な数式が理解できるのかと。ピアノを弾く、あるいは数式を操るという作業が、細部を詰める作業だと思っている。そしてそこに神を宿らせる作業だと。

あらゆるジャンルに関して、細部に神を宿らせることができて一人前だと思っている。いずれは大きな神を宿らせて、超一流と言われる人間になることを目指そう!

リスクより怖いもの。

物事に取り組むにあたって、リスク評価は重要である。リスクを軽視せず、かつリスクを過剰に評価せず、正確に判断することが大事である。あるいは多少リスクを軽視したほうが賢明かもしれない。

スタートアップするに当たって、眼に見えないリスクは怖い。そのような時にリスクを恐れて取り組むことを控えることもあるだろう。しかしそこにリスクよりもさらに大きな恐怖がある。それはリスクを恐れるあまり身動きが取れなくなってしまうことだ。

そのようなリスクに対する恐怖は負の連鎖を生む。そしてさらに身動きが取れなくなってしまう。リスクと言うものは何においてもゼロということはありえないので、小さなリスクを過剰評価することは理にかなっていない。

リスクの恐怖に対して負の連鎖に陥っている時は、思い切って飛び出すことが大事である。しかしそれは簡単な事ではない。勇気が必要である。しかしそのように飛び出すことができた時、行動範囲が思いっきり広がることを実感するであろう。

近視眼的にリスクしか見えない時、そこにはリスクより大きな恐怖が潜んでいる可能性がある。そのことを正確に評価し、判断しなければいけない。

攻めの人生。

これからの人生を攻めていくか?それともこれまでの人生を守っていくか?どちらが良いとか悪いとかいう話ではないが、僕自身はこれからの人生を攻めていきたいと思っている。それも普通の攻めではなく、超攻撃的に!

もし守りの人生を歩むのならば、これまでの人生で守るに値するものを作り出しているのが前提だ。守るに値するものもないのに、守りの人生を歩むのもおかしな話だ。

僕自身の人生を振り返ると、大切な事はあり、大切な人はもちろんいるが、自分が何か守るに値するものを生み出したかというとそうは思えない。なのでこれからの人生は攻めざるを得ない。まあ、それは望むところだが。

人生が終わるころになって守りの人生に転ずることができれば、それは幸せなのかもしれない。しかしその一方、死ぬ間際まで攻めるのが僕のスタイルではないかとも思う。そうなればもう精神力との勝負だ。

肉体と精神の状態を万全にして、これから進むであろう攻めの人生を謳歌しよう。

究極の動物虐待は家畜だ。

最近は動物愛護団体などというものがあり、何かと動物虐待のニュースが取り上げられている。僕自身、動物を大切にすることは賛成であるし、無駄な動物虐待は無くさなければならないと思っている。

しかし最近は動物愛護の限度が行き過ぎているようにも思える。例えば以前、和歌山のイルカ漁に対して、イルカに対する虐待だと非難する声が海外で上がった。イルカは確かに普通の魚に比べると知能は高いであろう。そもそもイルカは魚類ではなく哺乳類である。

牛も豚も哺乳類である。しかし食肉用の牛や豚は家畜として育てられている。家畜とは極論を言えば飼い殺しである。要は我々、牛肉や豚肉を食べるときは牛や豚の命に感謝しなければならないということである。牛肉・豚肉を食べなくても生きることはできるが、生き物を食べる行為は自然の摂理である。

それと同時に、人間が特定の動物を食べるということは、その国、その地域の文化でもある。ヨーロッパ人がフォアグラを食べるように、日本人がイルカやクジラを食べるということである。考えようによってはフォアグラの方がよっぽど残酷である。

タイトルで「究極の動物虐待は家畜だ」と書いたが、家畜も人間の文化であり、自然な行為なのである。イルカ漁を非難する人たちは、(おそらく)家畜の牛肉を食べている。人間以外の動物だって、他の生き物を食べて生きている。動物は他の命を食べて生きているのである。

普段はあまり意識することはないが、たまに意識した時は、食する命に対して感謝しよう。