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本とは紙ではなく情報を売っている。

最近、電子書籍を積極的に活用し始めた。初めはやはり紙の本にこだわり、電子書籍では頭に入らないのではないかとも強く思っていた。実際、電子書籍を読み始めた頃は、やはりパソコンやスマホ上で本を読むことに少し慣れなかった。しかししばらく電子で読んでみると意外と普通に読めるし、寝る前のベットの中でスマホで読書したり、さらには持ち運びにも非常に便利だ。ただ現在はコロナ禍で外に持ち出す機会はほとんどないが。

そもそも本とは紙自体を売ることが目的ではなく、本の中に書かれている情報が目的だ。もちろん、紙の本を所有することには一種の満足感を覚えるし、紙には紙の良さもある。ただ紙と電子の良さを天秤にかけた時、どちらの方がメリットがあるのかと言う問題だ。だから電子の方が良いと思えば電子を読むし、紙の本が欲しいと思えば紙を買う。

では、紙の本が良いのはどういう時か?僕は専門書に限っては紙の本が良いと思っている。パラパラとめくって全体像を確認できるし、実感としては紙の本の方が集中できる。しかし一般書に関してはこれからは電子で読んでいくことになるだろう。

昔、僕が学生時代だったころ、僕は専門書を買いまくっていた。ある意味「専門書コレクター」と言う感じであった。しかし意外にも、今となってそれらの本が威力を発揮している。数学や物理の専門書は数年数十年で色あせることはない。それどころか、最新の本よりも昔の名著の方がはるかに得る物があることが多い。当時、果たしてコレクターであって良いのか?と悩んでいたが、今となってはそれで良かったと強く思っている。しかし本の本質はその中にある情報である。だから紙の現物にこだわることは的を得ていない。 これからは、今まで集めた本に込められている情報を基に、具体的な結果を出していくために進んで行くだけだ!

ITにできないことは何か?

ここ数年、ITによって何でもできると言う風潮が強くなっていた。ITによって飛躍的に便利になり、極端な話ではAIが全ての仕事を請け負って人間は何もしなくていいと言う話までされることもあった。しかし今回のコロナ禍によって、ITの限界が露呈したように僕は感じる。

ITが発達しようとしまいと、人と人が対面すると言う行為の重要性は全く変わらないし、確かにITによって人と人が連絡する手段は飛躍的に向上したが、人と人の触れ合いそのものはほとんどITとは別の話である。今あらゆる物事をITによって解決しようと言う動きがあるが、それと同時にITではできない事、つまり人間の営みの本質的なところの重要性が認識されつつあるのではないかと僕は強く感じている。

例えば、好きな女の子と会いたいと思ってLINEで連絡を取ることはできるが、ITが男女の深い付き合いを結び付けてくれるわけではない。やはり最終的には人間の、男と女の感情と古典的行動によるものである。そしてビジネスにおいても業種にもよるが、全てがITで完結するわけではない。

現在ITと言うものが非常に重要視され、ビジネスにおいてもその中心に置かれることも多いが、これから数十年スパンで見るとITの価値と言うものは下がっていくのではないかと僕は思っている。それに対して、人と人が直接会うと言う古典的な行為の持つ価値が非常に高くなると僕は考えている。確かに人と人が会う前段階、つまり連絡を取り合うとか大まかな相性を占うと言うことはITでいくらでもできる。しかし最終的な決断は人間の古典的な判断にかかっている。

これから先、ITにできることはどんどんITに任されていくとは思うが、それと同時にITにできない事の価値はどんどん高まっていくはずだ。そしてその結果残ったものが真に価値あるものであると僕は考えている。

大事なものを、一つ決める。

今コロナ禍によって、あらゆるものが壊滅的な被害を被っている。このような中、明らかに自分に関わる全てのものを守ることは不可能だ。平時なら大切な全てのものを手に入れて守ろうと言うことが可能かもしれないが、今はその中から大事なものは何かと優先順位を付けて、本当に大事なものを守ることに全力を挙げなければならない。

自分にとって大事なものは何か?それはお金か?家族か?仕事か?それとも健康か?それは人それぞれであろう。もちろんどれも本当に大事なものばかりである。しかし今は緊急時である。どれかを完全に捨てると言うことはできないが、大切なものから順に守って行かなければならない。そのような時に、自分にとって絶対的に大事なものを一つ決めておくことは非常に重要である。一つに決めたからと言って他のものを捨てると言う訳ではなく、一つを徹底的に守ることによって他のものを守ることにつながるのである。

例えばお金が一番重要だと考えるのならば、お金を死守することによって家族を養うことができるし、そしてそのお金で病気を治療することができる。お金のことを話すことを毛嫌いする人が多いが、お金は大切なもの、大切な人を守る重要なツールなのである。

とは言え、政府の政策において一つだけを特別扱いするわけにはいかない。しかし繰り返すが今は緊急時である。政府の政策にとって最も大事な事は何なのか?それは言うまでもなく国民の命である。しかし国民の命を守るためにも経済は重要である。他国では経済が成り立っていないが故に国民の命を守れていない国がある。日本の治安が世界トップレベルであるのも、高度な経済レベルであるが故ともいえる。しかし現在のアベノミクスにこだわる経済対策には賛同できない。今は国民の命を守るための経済が必用である。アベノミクスから命を守る経済へ転換できるか?今、安倍首相はその手腕を試されている。

本は二度読む。

小説なら一度読んで満足すればよいが、科学書・専門書は基本的に繰り返し読むことを前提に作られている。もちろん読み方は人それぞれ様々だが、例えば僕ならば、一度目は風を切るように猛スピードで読み、二度目はじっくりと手を動かして計算しながら読むことにしている。一度目に風を切るように猛スピードで読むのには理由がある。まずは細部にこだわらず、全体像を掴むためだ。計算もできるだけ頭の中だけで完結させる。これが意外とじっくり読むよりも理解が深まるものである。

現在のコロナ禍の中で家で過ごす人が多いので、今本が非常に売れていると聞く。何冊も手にして数千円分まとめ買いをする人も多いらしい。本はただではないので買うのにはもちろんお金がいるが、そうは言ってもその他の出費に比べたらそんなに高くはない方だと思う。少なくともほとんどの人は、毎月の本代よりもスマホ通信料の方が高いのではないかと思う。もちろん僕のようなホンゲル係数が異常に高い人間もいるが、普通はそんなに本代に出費する必要はない。さらに図書館を利用すると言う手もある。

今、暇で時間をもてあそび、パチンコに入り浸っている人が問題になっている。パチンコ屋はまさしく三密の代表でもあり、自分からコロナにかかりに行くようなものである。そして得る物はほとんどない。たまに運よくお金が入ることがあるようだが、僕には全く理解のできない世界である。家で本を読んだ方がよっぽど得る物はあるのにと、パチンコに行く人たちが可哀そうに思う。おそらく本と言うものの意義が理解できないのだろう。

今のコロナ禍は、読書をするチャンスだ!確かにコロナ禍によって仕事も減り、収入も激減し、さらにコロナ感染の恐怖から憂鬱になるであろう。このように全てがネガティブな方向へ進んで行くように思えるかもしれないが、だからこそこのような中でポジティブな事を考えることが重要なのではないだろうか。そして本はそのようにポジティブになるための大きな手段になる。災い転じて福と為す、そのように簡単にはいかないかもしれないが、しかし何もしないでパチンコなどに行ってしまえば災いがさらに不幸を呼ぶことになる。今このような時だからこそ本を読んで地力をつけ、コロナ禍が去った後に攻勢をかける準備をすべきではないだろうか。

二択ではなく、確率で。

今のコロナ対策でも言えることだが、物事を判断する時に、できるできないの二択ではなく、どうすれば成功する確率が高くなるかと言う視点で考えることは非常に重要である。例えば、どんなにコロナ対策をしていても、100%コロナを防ぐことは不可能である。もし防げるか防げないかと言う二択で考えると、100%防げないのなら対策をしても無駄だと言う考えになってしまう。しかし重要なのは、いかにして感染の確率を低下させるかと言うことだ。例えばマスクは必ずしも効果があるわけではないと言われているが、感染の確率を低下させることは明らかだ。少なくとも飛沫感染の確率をかなり低下させることはできる。完全に防げるからではなく、感染の確率を低下させることができるからマスクをするのだ。いわゆる三密を避けると言うことも、感染の確率を低下させるための手段なのである。

確率とは統計と一緒にして考えられることが多い。数学書でも「確率・統計」と言うタイトルのものが多々ある。確率と統計は切っても切り離されないものだ。現在のコロナ対策においても、特に政府などの判断材料は、感染の数理的モデルを基にして決められていると考えられる。コロナ対策と言うと医学的な知見から決断すべきだと思われるかもしれないが、実は市中でどのようにウイルスが広がっていくかと言う予測は、医学的知見とはある程度独立に数理的モデルによって決めることができる。一人の感染者から何人に感染するのか?そして民衆のうちどれくらいの人が感染して、どれくらいの人が抗体を保持しているのか?そのようなデータを基に感染の時間的予測が立てられる。

それらの数理的モデルによると、パンデミックを終息させるためには二つの手段しかない。一つは民衆の多くの人が抗体を持つまで広がってしまうこと。もう一つはそのような抗体を持つ人をワクチンによって人工的に増やすことだ。すなわちある意味、最善の策はワクチン一択と言える。ワクチンができるまでどのように維持するか?それは医療のキャパシティを超えないように、つまり一時的に激増しないように感染者のカーブを緩やかにコントロールすることだ。

多くの人は物事に白黒をつけたがるが、このように物事を確率的に考察することは非常に重要であり、また非常に効果的でもある。物理学では20世紀初めまで決定論的な見方が支配的であったが、量子論と言う確率的な見方が入り込んできた。そして経済学などでは統計に基づく確率論的思考が重要になることは言うまでもない。一人の人間としても、白黒の判断だけではなく、確率的に物事を捉えることが非常に重要なのではないかと僕は非常に強く感じている。

損得勘定ではない!

ビジネスで一番大事なのは、ある意味損得勘定であると言える。しかし日常生活において常に損得勘定で動いていると、大切なものを見失ってしまうように思える。そして例え損得勘定が大事だとしても、ほとんどの人が考える損得勘定は短期的なもの、つまり目の前の損得勘定であり、長期的に物事を考えるとそのような目の前の損得勘定にこだわることはマイナスになることが多いのではと思う。

では僕は何を考えて動いているのか?それはいかにして大事なものをくみ取るかと言うことである。損か得か?ではなく、大事かどうか?で物事を考えるようにしている。だから金銭的には損することであっても、それが自分にとって大事な事であれば惜しみなくお金を次ぎ込んだりする。そしてそのように大事かどうかと言う目線で物事を判断することが、長期的には得をすることになると僕は考えている。だから僕は周りから見れば、なぜそのような割の合わない損な事をしているのかと思われるかもしれないが、これは僕の長期的な戦略とも言え、僕自身はほとんど気に介していない。

ただやはり、今を切り抜けるためには短期的な損得勘定をすることも非常に重要である。今お金に困っているのならば、節約することに力を入れなければならない。しかし今生き抜けるだけの余裕があるのならば、そこからは短期的な損得ではなく自分の人生全体を見渡して、何が重要なのかと言うことを考えるべきだと思う。

今コロナウイルスが蔓延して、皆いかにして生き延びるかと言うことに必死だと思う。将来の事を考えようにも、今死んでは元も子もない。しかしコロナ対策を真剣に考えた先には、コロナ後を考えることも重要である。今生き延びるために、コロナと言う目先の事を考える。そしてそこをクリアした後にはまた平穏な日常が戻って来るはずだ。それが一年後になるのか、三年後になるのか、それは僕にも分からない。鍵はいつワクチンができるかと言うことにかかっていると言われている。しかしそのような日常が戻って来ることはほぼ確実である。その時、多くの人はコロナ疲れしていることだと思う。そのようなある意味再スタートを切ったとき、どれだけコロナ後を見通していたかと言うことが差になって表れるのだと思う。僕自身のことを言えば、コロナが来ようが来まいが目指す所は変わらない。確かにコロナで苦しくなったことは確かだ。しかしコロナで死なない限り、することは変わらないし、目指す所も変わらない。常に目先の損得勘定で動くのではなく、その先にある目指すところへ行くにはどうすべきかと言うことを考えて、重要だと考えられることをこなしていくだけだ。

知識でなく、真髄を。

僕はこれまで度々述べているように、記憶力が悪い。これはかなり不便な事であり、これによって度々困ることがあり、また勉強したことをすぐに忘れてしまう。知識を習得することが目的ならこれは致命的な事であるが、数学や物理の神髄は決して知識を習得することではない。

記憶力の良い人なら一瞬で知識を習得してしまうのかもしれないが、しかし学問の神髄を理解するのはかなりの時間がかかる。一度習得したことを何年も経ってから見返した時、その時初めて真髄を理解することも度々ある。学問に打ち込んでいる時、突然真髄が理解できる時もある。これは知識とは全く違うと言う訳ではないが、かなりの部分が知識とは別物であるように思える。例えば詳細は一切忘れているが、本質は捉えていると言うこともある。そういう時、知識などは本でも何でも見て確認しなおせばよいだけだ。わざわざ自分が覚えていなくても、ちゃんと本には載っている。本質を捉えていれば、知識などは本で補って前に進むことができる。

とは言え何度も言うが、記憶力が悪いのは非常に不便である。しかし幸運な事に、本質を見抜く力はますます上がっている。これが逆だと致命的である。しかし周りを見渡してみると、記憶力が良くて知識はどんどん習得できるが、本質を掴めない人がたくさんいるように思える。本質とは言わば核なので、核を理解するだけならそんなに知識はいらないものだ。

僕は亀とウサギで言うと、圧倒的に亀である。しかし今は猛烈に走る亀になっている。亀であることには変わりはないが、でもそれでいいのだ。歳を取って衰える人もいれば、歳を取ってますます磨きがかかる人もいる。僕は今ますます磨きがかかっていると思っている。まだある程度時間はかかるであろうが、僕自身にとってのスタート(ゴールではない)まであと一歩のところまで来ていると僕は感じている。

禁欲生活は程々に。

以前のブログで、コロナ対策で外出しないことをきっかけに禁酒生活を始めたと述べた。僕自身、目的のためならかなり自制できる性格だし、(睡眠以外は)かなりコントロールできると思っている、そしてここ半月ほどアルコールを一滴も飲まなかったが、過度の禁欲のせいか調子が全く乗らなかった。そして今日久しぶりにビールを飲んで発散すると、何だかいろいろと調子が良くなったように感じる。やはり適度に飲んで、適度に発散することは非常に重要なのかもしれない。

自分の調子の良い生活のためにも、そしてある意味研究を調子よく進めるためにも、これからは数日(二、三日?)に一度は適度にビールでも飲もうと思う。そして適度にコーヒーも飲もう。禁欲して快調に進むのならいくらでも禁欲するが、ビール飲んで、そしてコーヒーを飲んで調子良く進めるのなら、それに越したことはない。逆に言えば、気分発散は今のところ、適度な飲酒とコーヒーだけでいい。それ以外にしたいことがあれば、結果を出してからやればいいのだ。

先日、テレビで元阪神のプロ野球選手の新庄剛志さんの特集をやっていた。新庄さんが野球をやめてもう13年にもなるそうだ。僕が阪神応援にのめりこんでいた受験生時代、新庄さんは阪神の輝くスターだった。そして「シンジョイ」(新庄並みにエンジョイすること)と言う言葉は、僕のお気に入りの言葉だ。その新庄さんが今再びプロ野球に挑戦すると言う。年齢から考えると、100%、いや200%不可能である。しかし新庄さんならもしかしたらできるかもしれないと思わせるところが不思議な存在だ。新庄さんは憧れであって、僕には到底まねはできない。しかし僕には僕の生き方がある。新庄さんのように心臓に毛をボーボー生やしたいと思うが、現実は心臓に毛を一本でも生やすことに苦労している。

新庄さんは能天気に見えて、実は非常にストイックな人間であると言うことを知って非常に驚いた。やはり成功する人は、人からは見えない所で必死に努力しているものだ。僕自身、かなりストイックな方だとは思うが、まだ新庄さんにはかなわない。ストイックに禁酒しようと思ったが、自分の調子と相談してそれはやめにした。やはり大切な事は、シンジョイすることかもしれない。取り組んでいることを楽しみ、それでいてストイックに努力する。僕がストイックに取り組むことは禁酒ではなく、研究に打ち込むことそのものである。さあ、たま~にビール飲んで思いっきり頑張るぞ!

放置して自由にさせることの大切さ。

現在の学校教育は至れり尽くせりだ。全ての事に対して手取り足取り指導して、大学では就職支援が充実している。そしてそのような事はほとんどの学生にとっては非常に力になっていることだと思う。このように書くとほとんどの人は「良い環境ではないか」と称賛するかもしれないが、僕はこのような至れり尽くせりの環境に危機感を感じている。

十人いれば九人は、手取り足取りの教育の恩恵を受けて大きく力を伸ばせるだろう。しかし十人中一人は、いや、百人中一人かもしれないが、放置され自由にされることによって大きく力を伸ばせる人がいることも事実だ。そして多くの場合、そのような人は社会から見放されている。

この放置されて伸びる人間は、手取り足取り指導されることによって逆に才能を抑え込まれることが多い。そして重要な事は、出る杭になる人間は、ほとんどそのような放置され延びる人間の方だと言うことだ。つまり、手取り足取り指導し社会に合わせることを強要することによって、出る杭は徹底的に打たれることになる。

これは指導的人物の大きな損失である。一昔前の日本は、一億総中流社会だと言われていた。そして今はそれが崩れ、中流でさえなくなってきている。方向性によっては、一億総上流社会にすることもできたはずだ。もちろんそのように物事が簡単に良くなると言うものでは決してない。しかし現在の日本社会の状況は世界的に見れば明らかに負け組だ。それでもある程度のレベルを保っているのは、過去の貯金を食いつぶしているからに他ならない。

では日本はどこで間違ったのか?それは出る杭を伸ばさなかったことである。一億総中流社会を強化しようと、教育を手厚くし過ぎたことによる弊害だと僕は考えている。教育を手厚くしたと言うとよく聞こえるが、手取り足取り指導することによって、放置し自由にされることによって出過ぎた杭になれる人間を押しつぶしたのである。小学校や中学校で面倒見が良いと言うのはまだ十分に理解できるが、最近は大学院でさえ手厚い保護的教育がなされている。これはもう狂気の沙汰である。

放置することも立派な教育であることを多くの人は理解しなければならない。出る杭になろうと言う人は、今は行き場がないのである。大学院で博士号を取得した人が行き場がなくなって自殺すると言う話もよく聞く。これには二つの理由がある。一つはそれまで手取り足取り指導したがゆえに自分で道を切り開くことができなかった人。そしてもう一つは自由にされなくて出る杭を叩かれた人。

今の日本は優等的リーダーはそこそこいるが、破天荒的リーダーがほぼ皆無だ。しかしあらゆる分野で、一人でもこのような破天荒的リーダーを輩出することが今は必要なのではないだろうか。そして破天荒的リーダーは間違いなく放置された出る杭から生まれるはずだ。

コロナ禍の中で。

テレビを見ていると、コロナ関連のニュースばかりが流れている。報道ステーションの富川悠太アナもコロナに感染したと言うニュースが流れている。日本に住む限り、コロナは他人ごとではなくすぐ隣の話、あるいは既に当事者になっているかもしれない。若者がコロナで死ぬ可能性は非常に低いが、自分が感染した場合、それを周りの高齢者にうつしてしまうと取り返しのつかないことになる。僕はそのような事を防ぐことに慎重になっている。

現在はコロナ禍で日本全体が鬱々しているが、何も鬱々しなければならなくて鬱々しているのではない。皆外出して発散したいのだと思う。それは僕だって同じである。しかし現在はできるだけ家にこもり、感染を防ぐことに全力を挙げている。そうなると、いかにしてそのような生活の中でポジティブに意識を向け生活するかと言うことが大事になる。

コロナ禍でネガティブになっている中でも、それを逆手に取ってポジティブに向けなければならない。僕はそのような試みの一つとして禁酒を決行している。買い物にもほとんど行かないので、もちろんビールも買うこともできない。基本的に家にはお酒を置かないで飲みたいときに買いに行くと言う決まりを作っていたので、ここ一週間は一杯もお酒を飲んでいない。初めの数日はお酒を飲まなくて調子が乗らなかったが、一週間たって禁酒生活も板についてきた。お酒飲まない代わりに、コーヒーを何倍も飲んでいる。お酒ゼロ、コーヒー百、と言う生活が軌道に乗り始めたようだ。

なぜ禁酒を断行したのか?コロナ禍がきっかけではあったが、最近お酒を飲まないで調子を上げようといろいろ考えていた。そこにコロナ禍がやってきて、それを上手く実行に移すことができた。些細な事ではあるが、重要な事である。お酒を飲んで今すぐどうなると言うことでもないと思うし、お酒を飲むと言ってもせいぜいビール二本くらいなのですぐに影響が出るわけではないが、長い目で見ると禁酒は絶対に効果的であるはずである。少なくとも、一発目の研究結果が出るまでは禁酒を続けようと思っている。

このように、僕は一つネガティブをポジティブに変えることができた。そしてまた一つ二つとそのような事を作って行きたいと思っている。「災い転じて福と為す」と言う言葉があるが、そのようにするためにもいろいろとポジティブな方向へと実行することが大事だと強く思っている。