思想、生き方、考え方」カテゴリーアーカイブ

アリバイを作らない。

白洲次郎は決してアリバイを作ろうとはしなかったという。アリバイは時には大事だが、多くの場合保身でもある。結果的にアリバイはあればいいが、決してアリバイを作ろうとは思わない方がいい。

現在の政治家問題に関しても、あるいは日大問題に関しても、大人たちは大人のアリバイ作りに必死になっているように思える。もちろんそれが正しいアリバイならまだいいかもしれない。しかし現在のアリバイの応酬は偽りのアリバイに思えてならない。偽りのアリバイなら、まだ何もない方がましだ。

アリバイを作らないということは、考えようによっては非常に危険に思えるかもしれない。しかしアリバイを作らないという姿勢で一貫すれば、長い目で見れば信頼度も増し、決して悪いことではない。目先の事ばかり見て判断するのではなく、長い目で見て判断することが大事である。

危険に危険を重ねれば、ある意味感覚も麻痺してくるが、判断基準になるラインが変わり高い所を目指すことができるようになる。そのように意図的に自分の感覚を麻痺させることも、非常に重要な人生戦略である。

アリバイ作りに精を出し、コソコソと生きるような真似だけはしたくはない。とは言え、現段階でそれが完全にできているかといえばまだそこまではいっていない。

アリバイを作らないという行為も、自分の生き方の自由度を上げるための重要な戦略だ。そのような自分の目指す生き方をするためにも、今は一歩一歩自分のラインを上げていくしかない。

「学ぶ」のではなく、「落とし込む」。

人生において学ぶことは非常に重要だが、ただ無目的に学べばいいという訳ではない。重要なのはフレームをしっかりと構築したうえで、その枠組みに「落とし込む」ことだ。

「学ぶ」と「落とし込む」は何が違うのか?学ぶことに対してはスタイルはあまり関係ないが、落とし込むためには自分のスタイルを確立していなければならない。自分がどのような人間か?そして何を目的に生きているか?そのように、自分という人間をしっかりと認識していなければ落とし込むことはできない。

もちろん落とし込むという作業の前段階には、学ぶという作業が必要だ。何かを学んだうえでそれを落とし込むか、排除するか、そのような判断力を身に付けていなければならない。

落とし込むという技術を身に付けるためには、それなりの訓練が必要だ。あるいは経験が必要かも知れない。しかし落とし込む技術を身に付ければ、学ぶという行為に対する効率が飛躍的に向上する。

学ぶときには、落とし込むことを想定して先読みしなければならない。

継続は力なり!

「継続は力なり」とはよく言う言葉だが、なかなかそれができない人が多いのかもしれない。結果が出ないと、他の事に変えようかと迷うことも多いだろう。取り組んでいることに思い入れがなければなおさらだ。

では、継続へと突き進む原動力は何か?それは「好きだ」という気持ちであったり、「面白い」という気持ちである。それがなければ継続することは難しい。

もちろん、好きでもないことをやらざるを得ないこともあるだろう。しかしそこも考えようだ。好きでもないことも、周り巡って本当にやりたいことにつなげることもできる。意外と全ての事はつながっているものだ。そのように考えるためには、思考をコントロールすることが必要だ。しかしそのような思考のコントロールは他人から導かれるものではない。自分自身で導くほかはないのだ。

思考のコントロールをするためには、自分の環境を整えることも必要だ。そしてお金の使い道も考えなければいけない。本当に必要なものにお金を投資できているか?目先の事ばかり考えていないか?自分の知性・知識を高め、行動の自由を獲得するためにお金を投資しなければならない。

話しは戻るが、継続を力に変えるために、それを促進させるために環境を整え、お金を投資し、人間関係を構築していくことが必要だ。僕自身、そのために非常に重要視しているのが書物への投資だ。本は大切にしなければならない。しかしそれは本の「紙(ペーパー)」を大切にするのではない。本の中身の「情報・知識」を大切にするべきなのである。

また今から書物との格闘が続く。そのような格闘の継続が力になると信じている。

自分の精神力と勝負だ!

突然だが、雑誌で白洲次郎の記事を見た。終戦直後、GHQは白洲を評して「従順ならざる唯一の日本人」と言ったという話は有名だが、白洲次郎の姿に一つの目標とする人間の姿を見た。

人生常に勝負であると言えるが、勝負といえば他人との戦いを思う人は多いと思う。いや、ほとんどの人にとっては勝負とは他人との勝負であろう。もしかしたら、スポーツにおける勝負、受験における勝負、仕事上での勝負を想像するかもしれない。しかし、白洲次郎の姿を見ると、他人との勝負などちっぽけな事のように思える。最大の勝負は「自分との勝負」である。

自分の何と勝負するのか?それは自分の「精神力」である。ある高レベルのラインを超えると、他人よりも自分の中身・精神の方が最大の味方であり、最大の敵であることに気付く。他人と勝負している間はたかが知れている。自分の精神力との勝負に勝利すれば、自分の全てを手に入れることができる。

今自分はどのレベルにいるのか?まだ他人との勝負に明け暮れているレベルかもしれない。しかしそのレベルであっても自分の精神力と勝負することはできる。

自分がたどり着くことができる最高のレベルに向かって、自分の精神力との勝負に真剣に向き合う。そのような姿勢を取ることができれば、これまでの世界は非常にちっぽけなもののように思える。

日本にはいない才能。

世界でナンバーワンの才能は日本にいるのか?日本には錦織圭はいるが、ナダルはいない。湯川秀樹はいたが、アインシュタインはいなかった。中田英寿はいたが、メッシはいない。世界トップクラスの日本人は少なからずいるが、世界で圧倒的なトップに君臨する日本人はいただろうか?

僕の尊敬する山中伸弥教授は世界トップの研究者と言える。山中教授が日本に拠点を置いているのは奇跡だ。しかし現在の山中教授は研究よりもマネジメントに翻弄されている。もちろん世界のiPS細胞研究界をマネジメントしてリードできるのは山中教授しかいないのだが。

これから日本に必要なのは、世界トップクラスの日本人ではなく、圧倒的にインパクトのある世界トップの日本人だ。研究者でもスポーツ選手でもなんでもいい。とにかく圧倒的にインパクトのある世界トップの人材が一人欲しい。もしそのような日本人が出てくれば、日本人の思考から文化まで大きく変えることができる。

繰り返し言う。世界トップクラスではなく、圧倒的な世界トップだ!

行動の自由度を高める。

自分の行動の自由度は、大きく二つのものに由来する。一つは物理的なものから来る自由度。もう一つは精神的なものから来る自由度だ。

物理的な自由度は非常に分かりやすい。例えば自動車を手に入れることによって自由度を高めることができるし、さらにはお金を手に入れることによってできる事が増える。また社会的地位なども一種の物理的な自由度と言えるかもしれない。

問題は精神的な事から来る自由度だ。これは一見わかりにくいが、誰もが非常に左右されるものだと思う。自分の考え方、行動指針によって、行動の自由度は大きく変わる。また周囲をどれだけ気にするかということにも影響されるだろう。

当たり前の事だが、精神的なものから来る自由度は、お金ではなかなか解決できない。そのため、自分で自分の精神をコントロールするしかない。そのためには、自分が自分の精神・自分の考え方にどれだけ束縛されているかを知る必要がある。普段はあまり意識することはないが、意外と自分の考え方によって行動が束縛されていることが分かる。

行動の自由度を高めると、世界観が変わる。物理的にも精神的にも世界の大きさが変わる。もしかしたら自分の度量も大きくなるかもしれない。自分を新しいステージに進めるためにも、まずは行動の自由度を高めることを意識してみよう。

なぜ哲学を修得すべきか?

「哲学は古い」とか「哲学は科学的ではなく間違っている」と言って、哲学を学ぶのは全く無駄だと言う人が多い。特に日本では哲学を軽視する風潮が強いように思える。

確かに哲学の絶頂期であったギリシャ哲学などは、科学的に見ればほとんどの事が間違いである。それどころか近代哲学の金字塔であるカントやニーチェなどのドイツ哲学だって正しいとは言えず、とても役に立つとは思えない。

しかし僕は声を大にして言いたい。

「哲学は極めて重要であり、習得すべき学問である」

ではなぜ哲学を修得すべきか?もちろん哲学の内容自体も意味があると思うが、それ以上に大事なのは「哲学の構造とメソッド」だ。

哲学を構築していく作業というのは、生きていく全ての事に応用が利く。哲学を構築できるかどうかということは、人生を構築できるかどうかということにつながるのである。もちろんあらゆる学問やビジネスへの応用にも非常に威力を発揮するであろう。

そして哲学的手法、すなわちメソッドは、あらゆることに対するアプローチの原型になっている。これは「いかにして生きるべきか?」という問いにつながってくる。またこれもあらゆる学問やビジネスへの応用に威力を発揮する。

哲学は役に立たないどころか、生きること全てに対して関わってくるのである。極論を言えば、哲学をせずに生きることはできない。「いかにして生きるべきか?」と問いかけながら生きていくには、哲学は必要不可欠だ。

哲学は決して難しい学問ではない。まずは身の回りの事に対して「なぜ?」という問いかけを始めればいい。その「なぜ?」という問い自体が哲学的行為そのものである。そうして小さな哲学を積み重ねていけば、徐々に体系的な哲学を構築していくことができるであろう。

まずは目次を理解する。

本を読む時、何をもってその内容を理解したと言うのか?その一つの目安は目次を理解できたかどうかということだ。

目次を理解するというのは、一つは目次に書かれている見出しの内容を理解するということだが、その他にも、なぜそのような見出しがその順番、その流れで書かれているかということを掴むということでもある。内容を理解していないと、その流れの意味が掴めない。逆にポイントをしっかり掴めば、目次を見るだけで本の内容のほとんどを理解できる。

本を読む時、まずは目次にしっかりと目を通してみよう。読む前はおそらく目次に書かれている必然性を理解できない。しかし本のおおよそを理解した後には、目次の必然性を理解できるだろう。

目次を理解するということは、本の内容を理解することとニアリーイコールである。逆に本を読んだ後になっても目次を理解できないのならば、それは本の内容を理解していないということである。

自分で自分をコントロールする。

自分を目標へと近づけるために、自分の精神と行動をコントロールすることは重要だ。

目標がはっきりしているのならば、その目標へたどり着くためにはどの道を、どのような手法で、どれだけやればいいかを計算し、適切な手法を取る必要がある。しかし、いつも思い通りにいくとは限らない。アクシデントが起こることは日常茶飯事である。そこで重要なのは、そのアクシデントにどう対応するかである。アクシデントや失敗は決してマイナスではない。それに上手く対処することによって自分を一段高め、その結果目標への近道へと変化する可能性もある。

昔から「急がば回れ」という言葉があるように、回り道が結果的に近道になることがよくあるのである。そして回り道はそれだけ経験の豊富さにもつながってくる。

少し話が逸れたが、アクシデントや失敗が起きた時こそ自分に対するコントロールが威力を発揮する。それは学問に取り組んでいる時もそうであり、また人付き合いにおいてもそうである。

自分をコントロールできる人間は総じて強い。自分をコントロールすることによって、自分の人間性を、そして社会的地位を高め、もしかしたら金銭的な面でも優位に立てるかもしれない。マインドコントロールという言葉は日本ではネガティブな意味で使われることが多いが、自分に対してマインドコントロールできる人間は逆境に遭っても決して倒れないであろう。

危険じゃないと意味がない!

もし人生の岐路に立った時、どちらを選ぶか?僕は危険な方を選ぶことにしている。もちろん、危険な方を選ぶことに不安がないわけではない。しかし危険な方がより大きな可能性が潜んでいると思うし、より大きな自由度が存在していると思う。もちろん、危険な方を選んで失敗した場合、最悪は死という可能性もある。

とは言っても、まだそれを100%実行できる状態ではない。精神的にもそこまで強くなり切れてはいない。そこはこれからの課題である。

なぜそこまで危険な方にこだわるのか?それは危険性よりも、自分の身動きが取れなくなることの方が恐ろしいからである。そしてこれからいろいろと実行したいことがある。そのためには危険に飛び込むことが必要であるからだ。

危険は裏を返せばエキサイティングということである。エキサイティングに生き、とてつもなく大きな成果と実績を挙げ、目標とすることを達成するためにも、これからどんどん危険に飛び込める人間になろうと思う。