思想、生き方、考え方」カテゴリーアーカイブ

失敗はしても、挫折はするな!

僕はこれまで数えきれないくらいの失敗を経験してきた。失敗の数は、人の何十倍も何百倍もあるだろう。正直言って、成功なんてほとんどないと言ってもよい。しかし、これまで挫折したことは一度もない。

僕が挫折したことがないと言えば、周りの人からクレームが来るかもしれない。数々の挫折をしてきただろうと。では、そもそも失敗と挫折の違いは何だろうか?

失敗は客観的事実である。それに対して、挫折は主観的なものであり、周りが何と言おうと、自分が挫折していないと言えば、それは挫折していないのである。すなわち、僕が挫折していないというのは、僕が挫折していないと思っているだけであるとも言える。

僕は案外粘り強く鈍感だ。鈍感というとイメージは悪いかもしれないが、敏感ですぐに挫折感を味わいあきらめるよりかははるかにいい。最近流行の”何とか力”という命名をすると、”鈍感力”とでも言うべきか。

鈍感で挫折を認識しないくらいの図太い人間の方が、目標に向かって進むにはちょうどいいのかもしれない。

学ぶより、考えろ!

日本人は、なぜここまで学ぶことが好きなのか?子供から大人まで学習漬けで、最近では生涯学習というものが非常に盛んである。

しかし、「学ぶ」という行為は一方通行である。学ぶだけでやめてしまえば、なぜ学んだのかがあやふやになる。学ぶ行為は「考える」行為に結び付けてこそ有用になる。

しかし日本では、自分勝手に考えることを良しとしない風潮がある。無駄なことを考えるなということであろうか。しかしその「無駄なことを考える」という行為は非常に重要である。無駄な事の中から有用なことが生まれ、創造へつながる。

近年は、効率化が非常に重視されている。もちろん、仕事などで効率化を図ることは避けて通れない道かもしれない。しかしその一方で、多少の余裕も持ち合わせなければいけない。適度な効率化と、発想を生み出す余裕。これらのバランスを取りながら物事を進めていかないと、新たなるブレークスルーは生まれない。

社会と人間は、いつも偏っている。

報道、あるいはメディア記事は、常に偏っていると思った方がよい。もちろん、現在は中立な報道を心がけるようメディアも気を付けているようだが、むしろ偏っている方が普通なのだと思う。

一般科学雑誌も例外ではない。”科学”と言うと、多くの人は、科学=真実、と思いがちかもしれないが、一般科学雑誌はとてつもなく偏っている。専門家から見るとかなり信憑性のない話でも、読者にインパクトを与えそうな記事は妄信的に載せている。そう、科学記事は”真実”ではなく”インパクト”なのである。

そもそも、偏っていない人間などというものはまずいない。偏っていない意見というものは、多くの意見の平均でしかない。多くの意見の平均と、平均的な考えの人間とは、全く別概念である。

もちろん、偏り方がかなり危険な場合は問題があるが、人間の偏りというものは「個性」なのである。そして偏りのない社会というのは同調社会であって、それは偏っている社会より非常に危険な社会である。

お洒落ってなんだ!

僕の毎日の気分転換は、本屋での立ち読みだ。街の大型の書店に行くと専門書などもチェックするけれど、普段は近くの本屋さんで雑誌を読むことが多い。特にファッション雑誌は何誌もチェック。今はファッションにはお金をかけていないけど、いざ買う時のシュミレーションとしても念入りにチェックする。

ところでお洒落と言うと、つい外見に目が行きがちだけど、ファッションってそれを着ている人間が一番大事だと最近は痛感している。内面、そして肉体、それからその人がどれだけ実績を挙げ、どれだけ挑戦しているか。

どれだけ高価なものを着ていても、着ている人間がチープだとあまりにも格好悪い。逆にシンプルな服装でも挑戦し続けている人間は様になる。

お洒落をしようと思うと、まずは自分自身を上げていかなければならない。大きな実績を挙げるため日々努力し、肉体は毎日の筋トレで鍛える。僕が毎日心がけていることだ。

将来は様になる人間になれるよう、心・体を鍛えて、そして今取り組んでいることで実績を挙げれるよう頑張ってみよう。

聖戦なんてものは断じて存在しない。

もう、IS(イスラム国)が戦闘を起こしてどれだけ経つだろうか。最近はかなり制圧されて、ISの規模もだいぶん小さくなったようだが、先日もISが人間の盾で卑劣な戦闘を行っているという報道がされていた。

ISやイスラム原理主義に限らず、歴史をたどれば昔のキリスト教など、ヨーロッパを含む世界中で「聖戦」という言葉が使われてきた。聖戦という言葉は、戦争を起こす人たちの、そして人間を殺す人たちの”免罪符”として使われてきた。

しかし、多くの人たちは、こう思っているだろう。

「聖戦なんてものは存在しない!」

当たり前である。人を殺すことに”聖なるもの”などは存在するはずはない。現在、ISを壊滅させようと戦闘を行っている西側諸国をはじめとする国々も、”必要悪”として、やむを得ず戦っているのだと思う。

聖戦なんて言葉を掲げて、戦争を美化する集団の存在など、断じて認められない。

人間はグレーゾーンで生きている。

グレーゾーンの真っただ中と言えば、トランプ大統領だろう。ただトランプ大統領ほどではなくても、人間は大なり小なり、グレーゾーンで生きている。

グレーゾーンを上手く白へ持っていけば成功と言えるし、黒になれば失敗と言える。

日本人は白黒をはっきりとつけたがる。グレーが気持ち悪いのである。特に100%白でないと気が済まない人も多い。1%でもグレーが混じっていると、それを徹底的に取り省こうとするのである。

しかし、グレーをグレーのままで物事を進める余裕も必要である。100%白でないといけないとすると、物事が全く進まなくなることがある。グレーを容認することは、心の余裕、そして社会の余裕なのである。そしてその余裕が新しい創造へとつながる。

グレーが気持ち悪いという人も、少しグレーを受け入れると良い。そうすれば心の許容範囲が少し広くなるのを感じるだろう。

風を切る。

某大臣は、「総理の後ろにいれば、風に当たらない」と言ったという。マラソンでも、トップの選手の後ろについて、風の抵抗を避けるのは重要な戦術だ。

風を避けるのも一つの生き方だが、風を切りながら走る生き方も爽快でいい。ただし、風を切り続けるのにはリスクも伴う。成果は自分のものになるが、失敗の責任も自分が背負わなければならない。

「風を切る」ことは、「道を切り開く」ことにもつながる。そこには開拓者精神が宿る。まだ誰も踏み込んだことのない世界へ踏み込むことは、大きな希望とそれなりの不安がある。しかし希望の先にはそんな不安を消し去ってしまうくらいの輝きが待っている。

もちろん開拓者が全て成功するわけではない。途中で野垂れ死にする人もいるだろう。それが不安な人は先行者の陰に隠れていればいい。

評価の定まった事柄ではなく、まだ誰も成し遂げていない事柄へ、風を切りながら走って進んでみよう。

最多敗を記録するのは、最大の勲章だ。

最近、プロ棋士を引退した加藤一二三九段には、数々の偉大な記録がある。その中で最も偉大な記録は”最多敗記録”だ。つまり、一二三九段は最もたくさん負けた棋士なのである。

負けと言えばイメージは良くないかもしれないが、負けるためには対戦しないといけない。対戦をしなければ負けることもできないのだ。最多敗の記録は、挑戦し続けてきた男の勲章だ。

この考えはあらゆるものに通じるところがある。ほとんどの人は失敗を恐れる。そして挑戦することを避けるのである。しかし、挑戦しなければ勝つ可能性は0%なのである。そして失敗を重ねることによって成功は生まれる。失敗は挑戦の証であり勲章でもある。

失敗どんと来い!というくらいの気持ちで当たるくらいがちょうどいい。失敗に自分から向かっていくのである。すると稀に光が見えてくる。視界が開けてくる。それによって成功へ一歩近づく。

失敗に向かっていけるのは、それは大きな力である。そんないつまでも挑戦し続けれる人間でありたい。

迷ったら、厳しい方へ進め!

僕はどちらに進むか迷った時は、できるだけ厳しい方へ進むことにしている。厳しい方へ進めば、まず間違いない。もちろん物事に100%ということはないが、99%間違いないと思ってよい。

とはいえ、できない方に進む必要はない。できないのと厳しいのは全く違う。できる範囲で、少しでも可能性のあることには挑戦すればよいのである。

下の上になるか、上の下になるか?これも迷う人は多いと思うが、僕は迷わず「上の下」になることを選ぶ。下の上になればそれ以上、上はないが、上の下に進めば、上は限りなく広がっている。そこから上の中、上の上へと狙うことも可能である。

厳しい方へ進む開拓者精神を、常に持ち続けていたいものである。

目先の利益に惑わされない!

なかなか結果が出ない状態が続くと、どうしても目先の利益を得ようかと惑わされる。僕自身、そんな誘惑にぶれないと言えば嘘になる。

しかし、目先の利益を取り続けることを継続するということも、決して間違った生き方だとは思わない。目先の利益を取り続けることによって、それが大きな利益に発展することもあるからだ。

西川きよしの言う「小さなことからコツコツと」ということであろう。

しかし、不器用な人間にとって、小さな利益を上げつつ、大きな利益に変化させることは並大抵のことではない。

そこでつい、初めから大物を狙おうとなってしまう。非常に危険な賭けであるが、そうせざる負えない。しかし、ほとんどの人は、その大物を得られずに敗退していく運命にある。

ただ、ほんの一握りの人には、大物を得られるチャンスが与えられる。正確に言うと、チャンスは全ての人に平等に巡ってくるのかもしれない。しかし、ほとんどの人はその巡ってきたチャンスに気づかないだけなのかもしれない。目の前に巡ってきたチャンスをつかみとれる人間が、才能があると言われるのかもしれない。

目先の利益に惑わされない生き方は、かなりきつい。しかし、それを貫くことによって、一つの人生哲学が生まれるのかもしれない。