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哲学無き学問は総じて軽い。

あけましておめでとうございます。新年の挨拶は軽くこれくらいにして、2019年一本目のブログ記事に入ろうと思う。

物事に取り組んでいる人は、大きく二つに分けられる。哲学を持って取り組んでいる人と、哲学無き人。哲学を学問として取り組んでいる人以外は哲学などは無用だと思っている人も多いが、哲学を持って取り組むことは非常に意味のある重要な事である。哲学無き学問は総じて軽いし、学問以外でも哲学のない物事は中身が詰まっていない張りぼてである事が多い。哲学を持って取り組んでいるかどうかによって、出来上がるものが天と地ほど違ってくる。

数学や物理の研究においても、哲学を持って取り組むことは重要だ。哲学がなければ数学は単なる計算に過ぎない。単なる計算ならコンピューターにやらせておけばよい。哲学的な部分があるからこそ人間がやる意義があるのである。数学は誰がやっても同じ結果にたどり着くと思っている人がいるが、それは全く違う。哲学の違いによって右にも左にも行き得るのだ。そこが数学研究の本質である。

ではそもそも哲学とは何か?この答えは一つではないし、答えるのは非常に難しい。ただ一つ確実に言えることは、哲学は人間だけが持ち得るものだと言うことだ。そういう意味で、哲学は人間らしさであると言える。「いかにして生きるべきか?」という問いを突き詰めていけば、自然に哲学へとたどり着く。それと同様に、「いかにして数学の本質を追究していくか?」ということを突き詰めれば、数学的な哲学を構築する必要性に迫られるはずだ。真剣に学問を追究すれば、哲学は自然と出来上がってくるものである。

もし今取り組んでいることに対して深く理解したいとか、本質を突きたいと思えば、一度立ち止まってそのことに対する哲学を立てる必要がある。そして哲学を立てることが出来れば、物事と哲学が相互作用を始め、有機的な構築が出来るはずだ。

年末だからって?

2018年もついに終わり、大晦日だ。そして来年は平成が終わる。年末、そして平成末ということで、何か締めくくりをしたり振り返ったりと色々な所でされているが、よくよく考えてみると年末だから一年を振り返るというのもありきたりであり、予定調和のような気がする。なので今年は予定調和に逆らい、一年を振り返ることはしないことにしようと思う。しかし一年は振り返らないけど、来年の抱負なり目標は明確に定めたいと思う。

常に刺激を求め続け、人生において攻撃的姿勢で臨もうと思っているが、そのように心がけていてもつい守りに入ってしまうことがある。保身だけは絶対にしないぞと常に心がけているが、現在そうなり切れているかは少し疑問だ。守りの自分にオサラバして、飛躍を求め続けたいと思っている。本当に守りに入っている時の自分は凄く嫌いだ。

生きるとは人との関係において、あるいは社会においてどう生きるかということかもしれないが、最近僕が感じているのは自分とどう向き合うかだ。自分と向き合い自分を納得させることが出来る生き方をしないと、人との関係も思うように築けない。強いスポーツ選手ほど「自分との戦いだ」と言うが、人生目標を高い所に掲げていればやはり「自分との戦いだ」ということを強く感じる。

一年は振り返らないが、大晦日には来年一年間、そしてこの先十年間を強く見据えようと思う。自分には厳しく向き合おうと思うが、まだまだ甘い所もたくさんある。研究をする時は真剣に思いっきり打ち込み、遊ぶ時も真剣に思いっきり遊びたい。遊びというのは無駄ではなく、ある意味活力源だと思う。真剣に思いっきり遊べない奴は、本業にも真剣に向き合えないと思う。最強の遊び人であり、最強の研究者である、それが僕の目指すところだ。

法律は武器だ!

僕自身は法律に関してはどちらかと言うと疎い方で、詳しい訳でも何でもない。僕はいろいろな分野の学問に対して興味を持っているが、法学に関してはなかなか乗り気になれない。法文自体に自然法則がある訳でもなく、法文を読むことは現時点では苦痛でもある。

しかし最近は、法律は出来る限り理解すべきだと思っている。法律を知ることは生きる上で武器になる。ビジネスを行っている人にとっては、法律を理解することは必要不可欠であるし、ビジネスの勝者は多くの場合、法律を上手く活用し、時には法律の網を上手く掻い潜った者である。また社会をストレスなく生きるためには、法律を正確に理解し、自分流に解釈することが必要だと思う。

ここ最近、日産のカルロス・ゴーン元会長に対する検察の取り調べが話題になっている。ここで争点になっているのは、当たり前の事であるが違法性があるかどうかだ。一般市民にとってはゴーン氏がけしからんと良い悪いという物差しで見てしまうが、事件の争点は良い悪いではなく、合法か違法かということである。もちろん、悪い事をしないようにするために法律というものが制定されているのだが、必ずしも「良い=合法、悪い=違法」というわけではない。そこに法律の本質がある訳であって、上手く法律を活用できるかということが物事を進める上で重要になる。

法律は非常に膨大である。従って我々のような専門外の人間が法律を全て理解するのは不可能であるが、自分に関係する法律の根幹くらいは理解しなければならないと思う。しかし僕は現在そこまでは法律を理解できていない。それが故に無用な悩みを抱えてしまうこともある。ストレスフリーに生き、自由に自分の打ち込むべきことに集中するためにも、自分に関わる法律の最低限の事くらいは理解したいものである。

評価にさらされる実力世界に飛び込めるか?

1990年代から2000年代初頭の不況が長く続いた影響か、近年の日本人は極度の安定志向だ。好景気だと言われている現在でも公務員は人気だし、何かに取り組む時も保障やリスク回避を最優先に考えているように思える。もちろんそのような現在でも、自分の腕を信じて嵐の中に飛び込もうという人は少なからずいる。

リスクよりも、やりがいや達成感を求めて自分の信じる道へ進み、常にシビアに評価にさらされる世界というのも非常に魅力的であると思うのだが、このことを同感してくれる人はもしかしたら少ないのかもしれない。そのような世界に進んだ人に対しては「素晴らしいね」と声をかけても、いざ自分がそのような世界に飛び込むかということになると躊躇して避けるのではないだろうか。もちろん他人に対してリスクにさらされる世界に進めと言う気は毛頭ない。むしろほとんどの人には安全・安定な道へ進むことを薦めるし、そのように後押しをしたいと常々思っている。とは言え、全てのリスクを避け、常に安全地帯に居座ることが果たして良い選択なのかというと疑問に思うのだが。

結果を出すまでは何も得られない。しかし結果を出せばそれに対する対価を得る。そのようなシンプル極まりない原理の方が最も自然で道理に合っていると思うのだが、現実世界はどうもそうではないようだ。しかし実力世界で勝負しようという人にとっては、世界がおかしかろうがそのような事を過度に気にする必要はない。とにかく自分が成し遂げようとすることに全力を尽くすだけだ。

安全地帯にいるのもいいが、時には嵐の中に飛び込んで人生の勝負をかけるということも必要ではないだろうか?

学問を“道”と捉える。

日本には“道”という概念がある。柔道や剣道などのスポーツから、茶道や書道などの文化まで、日本の隅々まで道の概念は浸透している。外国人にとって道という概念を理解するのは非常に難しいことかもしれない。しかしほとんどの日本人は道という概念のイメージくらいは持っていると思われる。

学問を道と捉えられることはあまりない。その理由は、学問の多くは起源を欧米に持ち、その精神も欧米的に熟成されているからだと思われる。しかし日本人が学問を究める姿はどことなく道の雰囲気が漂っている。僕はそれは一つの極め方としてアリだと思っている。学問を道と捉えて極めるのは、おそらく日本人にしかできない。

その一方、欧米の学問スタイルにも大きな魅力がある。それは“徹底的に自由なスタイル”である。欧米の多くの学問は非常に自由である。自由であるが故に独創的な発想も生まれる。それに対して日本人は“こうあるべきだ”という固定観念を持ちがちである。もちろん“こうあるべきだ”と思っていることを追求するというのも一つの手だが、一つ間違えるとガチガチに固まり学問において最も重要な柔軟性を失ってしまう。

学問に対する取り組み姿勢としては“道”と捉えて精進することは非常に素晴らしいことだし、そのような日本人にしかできない姿勢を貫くべきだと思う。しかし思考の在り方は徹底的に自由でなければならない。そのように学問の“道”と“自由”を徹底的に極めることが、学問を進歩させるうえでの大きな突破口になると感じている。

文献の把握。

現在、取り組んでいるテーマに関しての文献を収集している。中には絶版になっている書物も多く、自然科学書専門古本書店に注文することも多い。先ほど、僕の研究において最も重要な書物を調べると、どうやら最近絶版になったようだが、ジュンク堂の在庫をネットで調べるとわずかに残っていたので、急きょ取り寄せの手続きをした。この書物は実は手元にあるのだが、かなり使い込んでボロボロになっており、さらに紛失すると大変な事になるので、予備として購入することにした。

学問をするにおいて、文献の把握は最も重要だ。実験系の科学だと言うまでもなく実験が最も重要だが、文献の把握はその次に重要だと言える。さらに理論系の学問においては言うまでもない。

論文や専門書を見る時、初めにリファレンス(引用文献や参考文献)をチェックすることが多い。リファレンスの一覧を見てその論文はどのような内容なのかをある程度把握できるし、リファレンスからリファレンスへとたどって行くこともよくある。特にその研究に関するオリジナルな文献に当たることは最も重要な作業である。

学問の研究をしていると、手元には膨大な文献が蓄積されていく。他の人が見たらどこに何の書物が置いているか全くわからないのではと思われるかもしれないが、研究者自身は数百冊ある専門書や論文などの文献の在り処は全て把握しており、瞬時に目当ての文献を手にすることが出来る。どの書物がどこに置いているかわからないというようでは全く話にならない。

研究者の中には書物をほとんど所有せずオリジナリティーの高い研究を行う人もいる。そのような人は相当独創的な人なのだろう。僕にはそのような真似は絶対にできないし、そのような研究者は非常に尊敬している。昔読んだ本に、大数学者である岩澤健吉博士に関する記事が載っていたが、その記事によると岩澤博士の本棚には数冊の書物しかなかったという。まさに驚異的である。

学問を研究するに当たって、研究スタイルは人それぞれだと思う。しかし岩澤博士のような驚異的な例外を除いては文献収集は必要不可欠な作業だ。目当ての文献を入手できるかどうかが結果に直結してくる。まさに「文献を制する者は、研究を制す」と言ってもいいだろう。文献を入手するための金銭と労力は絶対に惜しむべきではない。

権力や政治力ではなく、実力で!

権力者が備えているべき力、それは実力である。しかし現実はどうやらそのようではない。政治力によって権力者になる人も多い。もちろん実力を発揮して上にのし上がる人も多いが、政治力だけによってのし上がれる世界というのは多くの場合歪んでいる。

もちろん政治力が全く悪かと言えばそうではなく、政治力が重要な実力になる世界もある。特に大きな組織では政治力によって組織の調和と調整を行うということが重要であることが多い。しかし例えばスポーツの世界では政治力などはほとんどいらないし、学問の世界でも厳格な実力の世界であるべきだ。しかしどのような世界でも政治力を持つ人が一定の力を得るという構造が見られる。

しかし例え政治力が必要な世界でも、初めは実力を磨くべきだ。技術者なら技術を、そして社会においても社交力や知識などを身に付けて行くべきだ。もちろんそれぞれの世界で必要になる力はそれだけではなく、実際はあらゆる力の総合力が必要になる。

ある一部の分野では世襲というものが根強く続いている。それはそれでいいのかもしれないが、僕はそのような世界とは対極的な位置にいる。そのようなポジションで生きている人間にとっては、付けるべき力は政治力ではなく実力である。実力の世界というものは非常に面白くエキサイティングだ。初めは何も約束がされていない。そのような地点からスタートしどこまで世界の本質に潜り込めるか?全ては自分の力にかかっている。あとは自分の意志をどこまで貫けるかだ!

自分を打破する!

無意識の内に自分で自分を束縛していることがよくある。自分を束縛することは暴走を防ぐというわずかなメリットもあるが、前に進むことを防いでしまうという大きなデメリットがある。これは大きな目標に向かって前進しようとする者にとっては致命的である。そのような束縛を打破することは緊急の課題である。

では自分を打破するためにはどうすればいいか?一つは意識を改革しなければならない。簡単に言うと、守りから攻めへの転換である。日常において自分を守ろうという過度な意識は、結果的には自分の可能性を消滅させてしまう。特に保身をすることは自滅へとつながる。このことは普段のテレビニュースを観ても明らかであろう。過度な守りは自分を守ることもできないのである。

その一方、「攻撃は最大の守りである」という言葉があるように、常に攻め続けないと自分を存続させることもできない。つまり攻めと守りというのは明確に分かれている訳ではなく、お互い常に連動しているものなのである。守りのための守りではなく、攻めのための守りという未来志向の動きに出なければならない。

今の悶々とした現状をどう打破すべきかと常々考えているが、そのためにはあらゆる意味で攻めを意識した行動に出るしかないと思う今日この頃である。

多趣味!

ここ数年、僕の興味の範囲は広がる一方だ。学問から文化、物や事、あらゆることに対して興味を持っている。これらの事に興味を持つことはある意味「多趣味」とも言えるが、ただ多趣味なことが良いのか悪いのかわからない。しかし現実として現在の僕は多趣味であり、このような自分を否定することもないと思うので、多趣味路線を貫こうかと思う。そして多趣味路線で行くのなら、徹底的に多趣味路線を極めようと思う。ただ、専門の数理物理をおろそかにしてはいけない。数理物理の研究を最優先に行い、それ以外の時間をあらゆる趣味につぎ込もうと思う。

趣味にはお金のかからないものからお金がべらぼうにかかるものまで様々ある。つまりお金をかけ出したらきりがないが、お金をかけなくてもできる趣味はたくさんある。特に学問はお金をかけなくてもある程度の所までは行ける。実験系の学問のように莫大な研究費が必要な学問はともかく、理論系の学問はせいぜい書籍代だけを確保すれば何とかなる。ただしとことん極めようとすれば理論系でもそれなりのお金はかかる。ある意味それだけのお金をかける覚悟というものが問われているのかもしれない。

趣味と欲はかなり相関関係があるように思える。欲があるからこそ様々な趣味に興味を持つことが出来るのだ。無欲(というより無気力)では、趣味に取り組もうという意欲も湧かない。欲に対して否定的な意見を持つ人もいるが、僕は欲は様々な事を成し遂げようとする大きな原動力になり得ると思う。欲によって前進できるのなら、いくらでも欲を持てばよい。欲を持ち、その欲をコントロールすることによって、自分という人間を次のステージへと進めることが出来る。

一つの事だけに集中し、それだけを極めるという仙人のような生き方は非常に魅力的であり尊敬に値するが、多趣味という生き方を極め、あらゆる知識やスキルを身に付けることも素晴らしいことだと僕は思う。多趣味というのも一つの人間性であり個性である。あらゆることに興味を持てるのならば、それを武器として自分を高めていくのも一つの意義のある生き方だと思う。

なぜ一喜一憂しないか?

タイトルに反するようだが、僕はかなり一喜一憂するお調子者だ。上手くいくと喜び、失敗するとその時は落胆する。そのように表面的には一喜一憂することは日常茶飯事だが、本質的な部分では一喜一憂しないように心がけている。ではなぜ一喜一憂しないことが大事なのか?それは本当に喜ぶのは一番大事なことが成功した時だけでよく、また物事の成否は長い目で見て判断することが大事だからである。

僕にも様々な欲があり、いろいろな事を成し遂げたいと思っている。しかし上手くいくこともあれば上手くいかないこともある。僕はそのうちの9割は失敗しても良いと思っている。もしかしたら9割9分かもしれない。しかし本当に大事な一つの事、あるいは二つ三つの事だけ上手くいけばよいと思っている。そしてその本当に大事なことを成し遂げることが出来ればその時に思いっきり喜べばよい。

そのように本当に大事な事に対して喜ぶためには、一つ重要な事がある。それは物事の価値を見分けるということだ。あるいは言葉を変えると、優先順位を明確に付けられるかということである。優先順位を付けることが出来ないと、何が本当に重要で何が重要でないかということが判断できない。

一喜一憂しない冷静さと、本当に重要な事を成した時に爆発させる喜びの両方を持ち合わせることが非常に大事なのである。僕自身はいつもゲラゲラ(ヘラヘラ?)と笑っているが、自分にとって最も重要だと考えている事に対しては誰よりも真剣に向き合っているという自負はあるし、今はその最も重要な事を成し遂げる事に全力を尽くしたいと思っている。