思想、生き方、考え方」カテゴリーアーカイブ

専門外の事から、スキルを修得する。

物事は意外と一見関係のないようなところから結びつくものである。それは勉強や研究であったり、人付き合いであったり、あるいはITスキルであったりする。

普段の生活において、専門の事だけをして過ごせるということはまずありえない。したがって多くの専門外の事、あるいは雑用をすることになる。しかしそのような雑用の中に意外なヒントが隠されている。またそのような専門外の事を学ぶことによって、人間の広がりというものが生まれてくる。

ノーベル賞物理学者の南部陽一郎氏は、ノーベル賞受賞の対象となった自発的対称性の破れの理論を、超電導理論(BCS理論)から導いたという。もちろん南部氏は超電導理論の専門家ではなく素粒子論の専門家である。

近年、数学と物理の垣根がきわめて低くなってきた。数学者は物理理論からヒントを得て、物理学者は数学者が顔負けするくらい高度な数学を駆使する。数学と物理学の双方にまたがる数理物理学という区分も、かなりメジャーになってきている。

視野を広げることが大事なのは万人が認めることだが、なぜ視野を広げることが大事かと聞かれるとそれに答えられない人も多いのではないだろうか?しかしその答えは考えて導かれるものではなく、実践して導かれることであることを忘れてはならない。

上手くいかない時こそ考える。

物事が上手くいっている時は、何も考えていなくても次々と順調に進むが、上手くいかない時は何をやっても上手くいかないことが続く。しかし上手くいかないからと言ってネガティブにとらえるのではなく、そのような時は熟考するチャンスだととらえ、徹底的に考えるのが良い。

考えるというのは主体的な行為だ。だから周りから情報を集めるだけでは何も考える事にはなっていない。考えるという行為は情報を集めることではなく、自分の中で物事を構築していく作業である。

ただ、考えたことが結果として表れるまでにはタイムラグが現れる。そのタイムラグの間、どこまで耐えられるかということも行方を左右する。

考える事には、直接的なお金も情報もいらない。いや、多少なりともヒントとなる情報と、それを入手するためのお金は必要かもしれないが。しかし情報の沼にはまってしまえば、考察の楽園にはいつまでたってもたどり着けない。

ヒカキンさんの着眼点がすごい!

19日、サッカー日本代表が大金星を挙げて、日本は大盛り上がりだ。例のごとく試合後、渋谷にはたくさんのサポーターが集まりすごい騒ぎだったようだ。

ところで、ワールドカップのスポンサーになってコラボをし、名前をアピールする企業はたくさんある。そしてそれらの企業はおそらく何千万円、もしかしたら何億円のスポンサー料を払っていることだろう。

しかしヒカキンさんは全く違うことを考えていた。試合翌日の6月20日のヒカキンさんのチャンネル「HikakinTV」では、騒ぎが収まった後の早朝の渋谷でゴミ拾いするというものであった。これは一見すごく地味に見えるが、0円でワールドカップとコラボ(?)し、しかも街が綺麗になり、さらにYouTube動画を作るという、一石三鳥の離れ業である。このヒカキンさんの発想と着眼点には脱帽だ。

この動画を観て、多くのユーチューバーがいる中なぜヒカキンさんが絶大な人気を獲得しているか、良くわかった。皆がユーチューバーをやっているわけではないが、ヒカキンさんの発想と着眼点には大きく見習うところがあるはずだ。

自分が取り組んでいる分野で、ヒカキンさんに負けないくらいの自由な発想で力を発揮してみよう!

リスクを取らないことが最大のリスクだ!サッカーW杯・日本代表を観て。

19日、サッカーワールドカップ・日本代表対コロンビア代表の試合があった。日本代表は下馬評を覆す大金星でまずは一勝を挙げ、グループリーグ突破が明確に見えてきた。

前半3分、コロンビア選手のレッドカードで一発退場。そして香川選手のPK。そこで先制点を奪い、さらに日本の数的優位になりこのまま安泰。

と思いきや、

その後コロンビアが同点弾を挙げる。とは言え数的優位に立っているので本来なら日本が有利であるはずだが、前半終了直前の状況を見て僕はかなり悲観的になっていた。日本代表は完全に守りに入っている。パスは全て横パスだ。コロンビアに対して全くプレッシャーをかけることができていない。このままいけば確実に後半で逆転されて負ける。正直そう思った。

しかしハーフタイムが救いだった。ハーフタイムでおそらくその辺の指示が出たのであろう。後半が始まってからの日本代表は見違えるように変わっていた。横パスが全て縦パスに変わり、断続的にコロンビアに対してプレッシャーをかけていた。それを見て今度は、これは勝てると確信した。

結果、日本代表の勝利!日本代表、おめでとう!

この試合を観て思ったのは「リスクを取らないことが最大のリスクだ」ということだ。前半終了間際の日本代表は完全にリスクを避けていた。それがために相手にプレッシャーをかけられずに危機的状況に陥っていた。しかし後半に入りリスクを取る集団に変貌した。この試合の一番の勝因は、後半に入ってリスクを取りに行ったことだと思う。

人間は有利に立つと守りに入るものかもしれない。そこで再びリスクを取れるかどうか?そこがその後の分かれ道であると言えるだろう。

一回立ち止まって、過去を振り返ることも大事。

近年の科学技術の進歩は目覚ましいものがあり、そのスピードになかなかついていけないこともある。しかし最先端の理論、最先端の技術を追い求めるあまり、過去の重要事項を見落としてしまうことも多いのではないだろうか?

進歩があまりにも速いが故、つい二、三年前の事でさえ時代遅れになってしまう。しかし本当に重要で価値のあることは、例え数十年経っても色あせないものである。アインシュタインの相対論は、現在の科学においても根幹として存在感を発揮している。量子力学も然りである。

しかし一部、いや多くの人たちが、過去の重要事項を時代遅れのものだとみなし、無視しているきらいがある。最先端を追い求めることに必死になるあまり、本当に重要な事に気が付いていないのである。

全速力で走ることは重要であるが、時には立ち止まって過去を振り返ることも大事である。そのように立ち止まって過去を振り返ると、重要なヒントに気付く時がある。

最先端の事項はすぐに時代遅れになる。最先端の事より本当に重要な事は、数十年、数百年経っても色あせずに残ってきたものなのである。

数学と物理があるから、生きていける。

人生を懸けるものは見つかっただろうか?僕にとっては数学と物理が人生そのものである。他人からは趣味だとかいろいろと言われるが、僕にとっては生きがいである。

幸運にも、理論系の学問は自分一人でもやっていける。もちろん専門書だとか論文だとかを手に入れるにはそれなりのお金がかかるが、多くの実験科学のように膨大なお金と実験施設がいるわけではない。

僕は数学と物理を趣味でやっているわけでは決してない。趣味と言われるくらいならまだ遊びと言われる方がマシだ。数学者とは数学で遊ぶことを生きがいにしている人である。僕が昔知り合っていた超一流数学者は、数学の事を「この遊びはやめられない」と言っていた。

人生を懸けて打ち込むのなら、世界でトップを目指すべきだ。科学は順位を争うものではないと言う人もいるが、科学とは誰が世界で一番に成し遂げるかという競争である。そのことを肝に銘じなければならない。

人生を懸けるものがあるかどうかは、人生で苦境に立たされた時に大きく左右される。人生を懸けるものがあるから、周りから見て絶望的な状況であっても小さな光を見出し突破することができるのである。

思想の欧米化。

最近では外国人が日本の文化に興味を示しているという話題をよく聞くようになったが、思想や倫理観に関してはまだまだ欧米がグローバルスタンダードのような気がする、しかしだからと言って、日本の思想や倫理観が時代遅れだとか悪いといったことは無く、むしろ欧米の思想や倫理観の方がおかしいのではないかと感じることも少なくない。

とは言え、西洋思想と東洋思想はどうしても相いれないところが出てくるのは当然かもしれないが、根本をたどれば人間の思想であることに変わりはなく、一方的に東洋の思想がおかしいと決めつけるのは間違っている。欧米思想がスタンダードになる理由は、それが優れているからではなく、多くは国力の差に依存するものである。

現在日本は、日本文化を世界に広めることに躍起になっている。近年ではクールジャパンという言葉もかなり世界に広まってきているようだ。しかし日本思想を伝える事にはかなり後れをとっているように思える。しかし日本思想は根は中国・朝鮮にたどり着くことも多く、広く東洋思想として世界に広めることが必要だ。

日本思想に限定すれば、京都は日本思想の震源地と言ってもよい。西田幾多郎をはじめとする京都学派は大きな広がりがある。京都はもちろん日本文化の中心地である。現代的日本文化の中心地は東京であるが、伝統的日本文化の多くは京都に依存する。

確かに文化的価値に比べると、思想的価値はなかなかビジネスにはならないかもしれない。しかし思想は文化の基盤でもあり、長い目で見れば日本思想を世界に広めることは世界における日本の地位を大きく向上させるものである。

自分への制約をどこまで解放できるか!

現在、サッカー・ワールドカップが開催されているが、サッカーでは守備的なディフェンダーから攻撃的なフォワードまでいくつかの役割分担がされている。それは人間も同じで、守備的な人間から攻撃的な人間まで様々いる。どちらが良いとか悪いとかいう話ではないが、僕自身は超攻撃的人生を攻めていこうと思っている。

超攻撃的に人生を攻めるためには、まず自分に対する制約を取り払わなければならない。制約を無くしどこまで自分を解放できるか、そこでのせめぎ合いは常に付きまとう。

守備的な人生が3を得て1を失うということを目指すのならば、攻撃的な人生では100を得て70を失うということを目指すことであろう。守備的な人生で2を獲得するか、攻撃的人生で30を獲得するか、僕の答えは一目瞭然である。

自分の精神をコントロールするのは確かに難しい。しかし自分の目指すところへたどり着くためには自分をコントロールすることが不可欠だ。超攻撃的人生を心に留めて、危険を冒し続けてみよう!

どうすれば人徳を高められるのだろう。

まだまだ徳が足りない。そう思う今日この頃である。

どうすれば人徳を高めることができるのだろうか?徳というものは油断をしているとすぐに下がってしまう。もちろん徳がなくても普通に暮らしてはいける。ただ自分が目指すところ、目指す人間像に到達するためには、徳を高めることが必要だ。

「自分の専門分野だけできればそれでいい」と思う人もいるだろう。しかし人生を一つの創造作品だと考えた時、備えなければならないものはいくつかある。

その一方、なくて良い物も色々とある。何が必要で、何が必要でないか?それをしっかりと判断し、捨てるべきものは捨てるという決断も重要である。

常に理想を追い続け、死ぬまで理想にはたどり着けないのかもしれない。しかしだからといって、理想を追い続けることを止めてしまえば時の針はそこで止まってしまう。

知識はいらない!

書物を読み、知識を習得することは重要な事である。しかし知識を習得することは最終目的ではない。修得した知識を基に、何を構築できるかが重要なのである。

科学を身に付けるとは、自然科学の知識を習得することだと勘違いしている人が多い。しかし科学とは人間の自然に対する思想である。科学的実在は人間の存在と関係なく実在するものであるが、科学理論は人間が構築した自然記述であると同時に人間の自然観を表した思想なのである。

自然科学の歴史は、既存の科学への部分否定の繰り返しである。ただし全否定ではない。否定されると言っても、既存の科学が見捨てられたわけではない。既存科学はその時代の人間の自然観として未来へと残っていく。

さらに科学というものには階層というものがある。生物学や化学、物理学と言われる区別は一種の階層分けであり、物理学で言うと物性物理、原子核物理、素粒子物理へと進むにしたがって深い階層へと入り込んでいく。

6月11日のNHK「プロフェッショナル・仕事の流儀」で、辞書作りに携わる日本語学者・飯間浩明氏の特集がされていた。辞書作りのプロとは一言で言うと「言葉を扱うプロフェッショナル」と言えよう。そんな「言葉」というある意味知識的な要素に対しても、辞書作りの専門家にとっては思想とか哲学があるようだ。そのような言葉に対する思想や哲学に対して、科学者の思想や哲学に通じるものを感じた。

科学というものは決して知識の羅列ではなく、その根底には思想や哲学が深く流れている。そのような思想や哲学を持っているかどうか、そこがプロフェッショナルのプロフェッショナルである所以と言える。