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究極の技術。

今日、録画しておいたドラマ「下町ロケット」の新シリーズを観た。前回のシリーズも非常に面白かったが、今回も何やら面白くなる予感がする。少なくとも僕は、究極の技術に立ち向かう人間と組織のストーリーは大好きだ。

ところで、究極の技術を開発するとはどういうことか?一言で言えば世界一の技術を身に付けるということだ。しかし企業が技術を開発するに当たっては、単に技術を向上すれば良いというものではない。まずはコストというものを考えなければならない。資金は有限である。もちろんお金をかければ基本的には良い物ができる。しかしビジネスにおいては費用対効果も非常に重要な要素になる。

今回の下町ロケットでは、スペックの問題が取り上げられていた。スペックは数字で厳密に表現できる。しかしスペック以外の所にも重要な要素はいくつかある。これは人間についても言える。近年、人間のスペックという言葉をたまに耳にする。収入や学歴などの数字やランクで表現できることである。しかし人間の本質はスペックではない。人間性やフットワークの軽さなど、スペックでないところに人間の本質がある。とは言ってもスペックが無関係なわけではない。スペックが全てではないが、スペックは判断要素の一つであり得るということだ。

究極の技術は同時に、究極の人間性を身に付けるということだ。学問やスポーツにおいて究極の技術を身に付けるためには、まずは人間性を高める必要がある。生きる上での哲学、そして取り組んでいる事に対して本質を見抜くための力、そして絶対的に折れないための体力も必要だ。

一つを極めるためには全てを高めなければならない。専門バカになるためには、人間としてオールラウンダーになることが必要不可欠である。

期限を設けて成し遂げる大切さと、長い目で見て取り組む大切さ。

物事に取り組むに当たって、多くの場合は期限が設定されている。ではなぜ期限が設けられているのか?その究極的な答えは「人間の命は有限」だからである。単純に人生80年だと計算しても、その中でできる事はたかが知れている。確かに多くの事が出来るかもしれないが、地球上全体から考えればその量は塵ほどでしかない。

物事を期限までに成し遂げるということは非常に重要だが、その一方で期限を設けずに長い目で見て取り組むということも大事である。もし人生で一番大切なことがあるのならば、それは数か月や数年でできる事ではないだろう。時には人生すべてをつぎ込んで成し遂げられることかもしれない。そう意味で「人生」という期限はあるのかもしれないが、半永久的だとも言える。

近年では、ほとんどの事に対して短期間で目に見える形で結果を出すことが求められることが多くなっている。時代の流れは速く、一年もたてば古くなってしまうことも多い。新型iPhoneも長く見て寿命は5年というところだ。

しかし本当に重要な事は、年月が経っても古びない。それが真の価値というものだ。科学研究においても本当に重要な基礎研究は何十年、何百年と受け継がれている。しかし99%以上の研究は数年で消える運命にある。

自分自身の人生のミッションにおいて、時には追い込んで短期間で仕上げなければならない時がある。それができなければ二度目はない。そのような時にそれを成し遂げられるかどうか?自分自身の才能と努力と人間としての総合力が問われ、自分という人間が試されている時かもしれない。

賢く、時にはバカであれ!

賢いとは、決して勉強ができるとか多くの知識を知っているということではない。賢いとは、生きる姿勢である。また応用や解釈が豊富で、本質を見抜けるかということである。また、本当に賢い人は普段はバカになれる。そして徹底的にバカになり切れる。

賢い人は騙されることができる。逆に愚かな人は人を騙そうとする。もしかしたらこれらのことは一般の認識とは逆だと思うかもしれない。しかし本当に賢い人は「騙されても、人を絶対に騙さない」という生き方を貫くことができる。

賢い人は、自分の信じることに対しては徹底的に貫く。そして徹底的に真理を追求する。しかしこれは宗教を信じるとかそういうことではない。なぜなら宗教には根拠がないからだ。人を信じることは大切な事だが、その前に自分の思考を徹底的に信じなければならない。物事の真理は自分の頭によってもたらされるのである。

愚かな人は、目の前のものしか見えない。現代的に言えば、ネットの情報を鵜呑みにするということかもしれない。目の前の事やネット上の事は“判断材料”でしかない。大事なのはそれらの背景やその奥に潜む本質である。

本質はどうしたら見抜けるか?僕にはそのような特効薬があるとは思えない。ただ一つ言えることは、「徹底的に自分の頭で考える」ということだ。これなしに本質はつかめない。

学問の教科書に載っていることは、過去の常識でしかない。しかし最も大事なことは、「未来を創る」ということである。だから、教科書や書物を読むばかりでは過去の常識を蓄積することしかできず、未来は永久に創れない。やはり本や教科書を基に自分の頭で思考することが重要になる。

僕のブログのタイトルは「考える部屋」である。だから知識を延々と書くなどということは絶対にしない。時には、自分の考えたことや自分の生き方のメモになっているかもしれない。しかし僕の書いた記事が何かを考えるきっかけになればと思っている。

考える事は、生きることの一番の核だと僕は思っている。

永遠の命は違った形で?

昔から(一部の?)人間は、永遠の命を求め続けてきた。僕自身は永遠の命には全く興味がなく、むしろ寿命があるからこそ生きていることに大きな価値があると思っている。しかしそれとは別に、永遠の命というものが実現可能か?という問題に関しては大きな興味がある。

余談だが、昔読んだ手塚治虫の漫画「火の鳥」では、火の鳥の生血を飲むと永遠の命が手に入ると伝えられ、人々が火の鳥を追い求めるというストーリーが展開されている。そこで書かれている永遠の命を手に入れた人間の末路は悲惨で壮絶であった。もし本気で永遠の命を手に入れたいと思っている人がいるのならば、火の鳥を一読してもらいたいと思う。

永遠の命とは程遠いが、寿命を延ばすことに関しては人類は大きな成果を挙げてきた。そして2018年度のノーベル医学・生理学賞を受賞した本庶佑博士らが開発したオプジーボは、一部の(全部ではないと強調されている)ガンを征服することに成功し、その延長戦上にガンの征服が見えてくるのかもしれない。しかし例え人間がガンを征服したとしても、それは病気の一つ(しかし最も大きな病気である)を征服したに過ぎず、永遠の命を人類が手に入れたとは全く言うことができない。

これまでは、仮に永遠の命を手に入れることがあるとすれば、それは医学の進歩の延長線上にあると考えられてきた。(もちろん僕はそのようなことは不可能ではないかと考えているが。)しかし近年の(ITを含む)科学技術の発展により、違う形で永遠の命というものが実現されるのではないかと思い始めた。そのきっかけは、一冊の本「脳の意識、機械の意識」(渡辺正峰著、中公新書)を読んだことだ。この本では、人間の意識を機械に移植するということが究極の目標だと書かれている。そして著者の渡辺博士はそのための基礎研究として「意識とは何か?」ということを科学的に研究されている。渡辺博士の研究は単なる思い付きによるものではなく、細胞レベルからマクロの人間レベルに至る地道な実験によるものである。

もし人間の意識を機械に移植できれば、人間は半永久的に生きることができると言えるのではないだろうか。現時点ではこのようなことが実現できるかどうかは不明である。しかし人間の脳は一種の自然コンピューターだと見なせ、人間が現実に存在するという事実からコンピューターを人間化することは原理的に可能であると言える。ただ、意識を科学的に解明するということはとてつもなく手ごわい問題であり、そのような基礎科学的問題の解明にどれだけ時間がかかるかもわからない。しかし科学的興味として、非常にエキサイティングな問題であることには間違いない。

永遠の命は医学ではなく、IT及びコンピューター技術(ともちろん生命科学)によりもたらされる可能性があるということを渡辺博士の著書では示唆されている。そのようなこれまでの常識を180度ひっくり返すような未来が来るのかどうか?興味があるが、それまで現在生きている人間が生きているのかどうかは分からない。

最先端の理論が一番チープだ!

科学理論や世の中の理論において、多くの場合最先端の理論が一番チープである。チープという言葉はネガティブな意味に捉えられるかもしれないが、言い方を変えれば「荒削り」だと言える。

理論というものは、提出された時が一番斬新で、それが故にバグも多い。しかし忘れてはならないことは、一番最初の原論文には多くの場合、重要なエッセンスの全てが含まれている。だから理論の本質を知るための最も有効な勉強法は、原論文を読むことである。

しかし、洗練されてはいるが、技術的な話に終始し本質的な発展が全くない論文も多い。そして現実はそのような論文の方が本質的な論文よりはるかに多い。それは執筆論文の数が最も大きな評価を受けるという現在の風潮の弊害であると言える。

ごく少数のトップレベルの学者を省いて、普通の学者が短期間に何本も本質的な論文を書けるわけではない。しかし評価は継続的に受けるわけだから、本質的でなくても論文を書くしかないのだろう。

最先端の論文の9割以上は数年後には消える運命にある。だから評価はそれに残った1割に対してなされるべきである。教科書のリファレンスに載るような論文は、多く見積もっても1%も無い。そして教科書のリファレンスに載っている論文は、多くの場合同一著者の複数の論文が引用されている。

研究者にとっても、最新の論文を読みあさるのではなく重要な論文をしっかりと読み込むことが求められる。一本の重要論文は百本の最新論文よりも得るところがある。このことは論文に限らず一般書についても言える。最新の書物を読むよりも、一冊の岩波文庫の短編を読む方が圧倒的に得るものがある。

最新を追いかけるだけではなく。原典・原論文を時間をかけてしっかりと読み込む精神的な余裕を身に付けることが重要である。

大学は何のためにあるのだろうか?

近年、大学への進学率は非常に高くなっており、とりあえず大学に行くという人も多いだろう。もちろんそれは悪いことでは全くないが、しかしその一方、大学に何をするために行くか?また、大学は何のためにあるのか?という議論が社会でほとんど行われていないことに危機感を感じる。

大学は何のためにあるのか?と聞かれたら、多くの人は学問を修めるためにあると答えるだろう。しかし体育大学などではスポーツがメインであるように、学問以外の目的のためにある大学もある。(もちろん体育を学問的に研究されてもいるが。)また、専門職大学(大学院)のように、実務を目的とした大学も存在する。なので、大学の主目的が学問であると一概に答えることはできない。

近年、益々顕著になりつつあるのが、大学の就職予備校化だ。このことに異論がある人も多いであろうが、現実は就職が最大目的だという人の方が圧倒的多数であろう。もちろん、希望する職種を目指して大学で学問に励むという頼もしい強者も多くいるが、その一方、大学の授業そっちのけで就職活動に埋没する人には疑問を感じる。

もちろん、大学で学問を学ぶ力と就職してから必要になる力はかなり違う。なので、就職するために大学で真剣に学ぶ必要はないという声も聞かれるかもしれない。しかしそれなら、そもそも大学に行く必要は全くない。大学が就職予備校と化す前に、就職予備校というものを本当に作ればよいのではないかと強く感じる。それは就職予備校というものに対してのネガティブな意見ではなく、就職予備校で徹底的に実用的知識及び行動力を身に付けるというポジティブな意見からだ。大学に行くのなら、学問に励みつつ就職活動を遂行してほしいと強く願う。

僕の身の周りであった出来事であるが、現実として学問に真剣に励んでいる人がそれが故に就職にあぶれ、ゼミ中に教室の後ろで携帯をいじくっている人が就職活動に励み日の目を見るということが至る所で見られた。これは大学及び社会の構造的欠陥ではないかと強く感じる。

とは言え、好きで学問を修め研究を行っている人にとっては、このような事はあまり気にしないのかもしれない。大学でサボって上手く就職した人も、仕事で成果を出せれば大学時代のことなどは小さな問題なのかもしれない。とにかく自分がすべきことを見つけ、それにまい進することができれば、その人にとっても社会にとっても大きな財産になるのではないかと強く感じる。

今すべきことに対して、一歩でも前に進むことを考え行動していく。これができれば人生に対してそう大きく迷うこともないのではないだろうか。

(過度な)整理整頓は必要ない!

子供の頃から整理整頓をしなければいけないと教えられた人は少なくないと思う。おそらく学校では例外なく整理整頓をしろと強制されてきたであろう。普段から几帳面に整理整頓ができる人はいいが、僕のように整理整頓が苦手な人にとっては苦痛でしかなかった。

しかし、僕は身の回りのものをある程度散らかすということは大事なことだと思っている。世の中というものは、すべてが整理されている訳ではない。混沌とした中で何がどこにあるのか?そしてその中で本質的な所はどこか?このような事を認識する嗅覚は混沌と散らかった中で養われるものだ。

身の回りを整理整頓すること以上に大事なのは、頭の思考を整理整頓することだ。そして相反することのようだが、頭の整理整頓は身の回りの物をある程度散らかすということから養われる。残念なことに、身の回りを(過度に)整理整頓している人は、頭の思考回路の本質的な整理整頓に欠け、形式的な整理に終始している人が多いように感じる。

ここで一つ実例を挙げよう。僕が大学院時代に接した研究者の中には非常に優秀な研究者が何人かいた。その中の一人にフィールズ賞(数学のノーベル賞と言われている)を取るのではないかと言われていた優れた数学者がいた。その数学者の頭の思考回路は非常に明晰だ。しかしその一方、研究室の机の上は専門書が山積みでプリントや論文が溢れかえっていた。一体この数学者はどこで研究をするのだろうと不思議に思っていたが、器用に場所を見つけ、次から次へと重要な論文を書き上げていた。その数学者の印象は僕の中に強烈に焼き付けられている。

確かに自分の活動するフィールドによって求められる能力は違う。だから人によっては整理整頓をすることは非常に重要であろう。(というより、このような人の方が圧倒的に多いかもしれない。)あくまで僕の個人的な実感であるが、数学や物理などの究極的にクリエイティブな分野では、「散らかった中でどのように物事を試行錯誤し俯瞰するか?」という能力が求められる。しかし常に(過度に?)整理整頓された環境ではそのような試行錯誤を行う環境に乏しいし、また本質的でないところに気をとらわれ過ぎてしまう危険性がある。

身の回りの物の整理整頓よりも、頭の中の整理整頓の方が圧倒的に重要である!

頑張れる、頑張ろう!

最近は、頑張るということがなぜかネガティブな意味で捉えられることがあり、少し寂しい思いがする。頑張らずにどう生きるか?それも一つの生き方としてはありなのかもしれないが、大きな目標へと進んでいる人間にとって頑張ることは必要不可欠だ。他人に絶対に頑張れとは言わないが、自分が頑張ることに関しては誰も責めることはできない。

最近、僕の内面に関して少し変化があった。少し前のブログでも僕がコーヒー中毒であることを言ったが、最近、コーヒーを飲む量を大幅に減量し、カフェイン中毒からの脱皮を目指している。

現在はコーヒー中毒から抜け出す途上であるが、カフェインの摂取を大幅に減らしたところ、精神的な面を含む内面に関して変化があった。明らかに思考パターンなどの精神的な面で良い方向へと変化してきているのである。そしてカフェイン中毒から抜け出すことにより心身の調子も良くなり、いろいろとさらに頑張れるような気になってきたのである。

これまでは頑張ろうと思っても、頑張り切れないことがよくあった。しかし今はこれまで以上に頑張れる気がする。ならば頑張るしかない!一日コーヒー7杯飲んでいたところを、一日1杯に抑えた。するとその1杯がこれまで以上に元気をもたらしてくれる。睡眠の質も明らかに良くなった。これらの変化は自分自身の試行錯誤の成果だと思っている。やはり考えながら生きるということは非常に重要である。

今は頑張れる!ならば頑張ろう!期限は2019年12月31日!絶対にこれまでに結果を出すと決めている。

日本に居ながら、日本にいない。

江戸時代まで、日本人にとって日本が全てであった。そして明治に開国してから地球上の世界が全てになった。現在も、数える程の人間が宇宙に行ったとは言え、人間の活動は事実上地球上に留まっている。

飛行機などの交通が発達して、海外に飛び立つことはそんなに難しいことではなくなった。世界を飛び回るビジネスマンから科学者、そしてジェットセッターと言われる人が多くいる。

そして現在は次のステージに突入した。ITの発達により瞬時に(仮想的に)世界を飛び回ることが可能になったのだ。すなわち、日本に居ながら世界的な活動を行うことが可能になったのである。

しかし本当に大事なことは、飛行機で物理的に世界を巡ることではなく、世界を思想で包むことである。科学においてもビジネスにおいても、世界を包むレベルで活動することが求められるのである。

日本に居ながら、日本に居ない。そのような考えで世界的レベルの活動を行うことも十分可能だが、僕自身も物理的に海外に行き、世界的な評価の下で研究活動を行いたいと強く思っている。またそれは現在の大きな目標でもある。

過去に誇れるものはない!

人間は三つに分けられる。過去に生きる人、未来に生きる人、そして現在に生きる人。僕自身は完全に未来に生きる人だと思っている。もちろん現在を生きている訳だから、現在を悔いなく生きることは非常に重要だ。そして過去に生きた出来事は事実なのだから、過去に生きた歴史は変えられない。

しかし、どこを見て生きるかということは非常に重要である。そこで僕が心に留めているのは、「過去を見過ぎず、過去に生きない」ということだ。過去を見るとは、過去の学歴、過去の交際、過去に手に入れたものなど、過去の栄光を誇ることだ。あるいは過去の暗い人生を卑下することかもしれない。

僕には過去に誇れるものはないし、過去を卑下することもない。現在の自分にとって過去は歴史的事実でしかなく、それ以上でもそれ以下でもない。そして最も重要な事は、過去の事実は変えられないとういうことだ。だから過去に引きずられることはデメリットしかないと考えている。

しかし未来は変えられる。ならば未来を自分の目指す方向へと変えることに注力すべきだ。過去の栄光を誇るのではなく、未来の栄光を胸に秘めるべきだ。未来があるからこそ、現在の生き方に対して試行錯誤できる。

未来を生きることができれば、「今、人生が面白い」と心の底から思うことができる!