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信じる者は救われない。

宗教では、「信じる者は救われる」と言うキャッチフレーズがよく使われる。ではなぜ、そのようなキャッチコピーが使われるのか?それはそのこと以外に自分たちの意見を正当化する根拠がないからだ。だから何の検証もされないようなことを言いながら、信じることを迫るのである。

信じることが美しいと思っている人たちがいる。しかし僕に言わせれば、そのような何の根拠もないことを信じることは愚かであり、それこそ「信じる者は救われない」と言う可能性が非常に高い。とは言え、僕だって信頼すべき人を信じることは大いにあるし、大切な人、好きな人を信じることは大切だと思っている。しかし、宗教で言う「信じる者は救われる」と言うキャッチコピーには大きな危険が潜んでいる。それは「思考停止」である。そこには「信じること=考えない」と言う構図が存在する。しかし思考停止して救われるなんてことはほとんどあり得ない。自分の頭で考え抜いてどのような道に進むべきか?と言うことを導き出すことによって未来が切り開かれるのである。言い換えると「考える者は救われる」と言うことなのである。

信じるだけなら非常に楽だ。なぜなら考えることに全く労力を使わなくていいからだ。人(神?)の言うことに無批判に従っていればいいだけだ。そうなれば、自分はもう人間ではない。神の下僕である。下僕になりたければ大いに信じればよい。しかし自分が人間として生きたければ、徹底的に考え抜いた方が良い。権威に反旗を翻しても良いし、思考停止した学校の教師に反抗するのも良い。とにかく一番信じなければならないのは自分自身なのである。

なぜ人は学歴を付けようとするのか?箔が付くからとか就職が有利になるからとか、いろいろ意見はあるだろう。しかし僕はそのような事は本質ではないと思っている。究極は考える力を身に付けるためだ。考える力を身に付ければ、自分の力で道を切り開いて行くことができる。確かにそれによってお金を得られる保証はないし、楽になるわけでは決してない。しかし僕はそれでいいと思っている。多くの人とは全く異なる考えかもしれないが、そのような生き方もあることくらいは頭の片隅にでも認識すべきではないか?

難しいことは、そんなに難しくない。

世の中には難問があふれている。それは数学や物理においても例外ではなく、百年以上未解決の問題などもそれなりに(多数?)存在している。しかし僕は、難問と言うものは実際はそんなに難しくないと思っている。それは、難問だと認識されている時点ですでにそれが難しいことだと見通せているからだ。もし先を見通せているのならば何らかの解決法が見えてくる。本当の難問と言うものは、それが解決されるまで難しいとは認識されていない問題の事なのである。

例えば、相対性理論の事を難しいものの代表だと言う人がいる。しかしそれが難しいのは、アインシュタインが取り組んだ問題そのものであって、それが明白の事実となっている現代人が相対性理論が難しいと言うのとは全く違う。

簡単にまとめると、難問と言われている問題は「すでに描かれている絵にどう描き加えるか?」と言うことであり、真の難問は「白紙に何を書くか?」と言うことである。科学において白紙に絵を描き始める達人だったのが、ニュートンである。現代の科学者と言うものはほぼ例外なく、絵を描き加えているのである。

難しいと言う認識がそれを難しい問題に仕立て上げることが多い。しかし実際はほぼ全ての問題が難しくないのである。そう思えるかどうかは、その人の展望力にかかっている。意外と計算力だけあっても当てにならないものである。展望、つまりビジョンがあってこそ、計算力が発揮されるのである。

科学的に哲学を構成する。

哲学とは論理的に構成されるものである。僕の個人的な見解としては、哲学とは論理的に構成された意志だと思っている。しかし論理的だとは言っても、哲学で展開されている論理の中には非常に怪しいものが散見される。特に科学的知見のない純粋哲学者の議論には、あきれるばかりである。そしてそのような哲学者が我が物顔で科学に対して見解を述べる。科学に対して持論を述べるのは勝手だが、表面的な部分だけ見て怪しい論理を繰り広げるのには科学者から見ればあきれるばかりである。

そこで、科学者の立場から哲学を構成することができないかと強く思うのである。そもそも古代ギリシャの哲学者は、当時としては自然哲学(現代の科学に通じる)においても最先端を行っており、特に数学的な議論には今見ても目を見張るものがある。古代ギリシャでは哲学者が数理科学を追究していたと言えるが、現代において科学者が哲学を追究することは非常に意義があるのではと思う。

人間が世の中を理解するには二つの知見が必用である。一つは人間や社会の原理。そしてもう一つは自然科学である。少なくとも科学者は自然科学に関してはかなり理解していると思われる。なのでそれに加えて人間や社会について深く理解すればそれなりに意義のある哲学が展開されるのではないか。もちろん、哲学者が科学を根本的に理解して論理を展開するのも良い。しかしそれができるのは最先端の哲学者のうち数人くらいしかいないのではないか。その数人に対して僕は非常に期待を寄せている。

哲学とは人間の内に迫るものと外に広がるものの双方が必用である。内に迫るものが人間の意志や思考への追究だとすれば、外に迫るものは自然科学だと言える。そしてその双方の知見を融合するためには、物事を科学的に構成しなければならない。それが科学的に哲学を構成すると言うことである。科学に迫ると言うことは、それを思考する人間に迫ると言うことでもある。そしてそのように人間の本質的な部分に迫った結果が哲学であるべきである。

デジタルとアナログ。

現在の世の中はデジタルなシステムで溢れており、これからもますますデジタル化が進むものだと思われる。では、アナログは不要なものになってしまうのか?僕はそうは全く思えない。

デジタルとアナログの対比として、スマホと紙が挙げられる。最近のスマホは非常に高度なシステムになって来ており、身の回りの簡単な事はだいたいスマホで代用することができる。英語がわからなくてもスマホアプリで瞬時に翻訳できるし、最近はスマホを通じてAIと会話もできるらしい。しかし、一つ間違ってはいけないことがある。スマホでいろいろな事ができるが、何でもできるわけではない。これからもスマホにはできないことがどんどん出て来るであろう。

そして非常に原始的な事であるが、スマホにできなくて紙にしかできないことがある。例えば一冊の本を読むだけならば電子書籍の方が圧倒的に便利だが、研究で専門書を活用しようと思えば紙の本の方が圧倒的に効率的であることもある。そして何よりも、紙に字を書くと言う行為は非常に重要である。もちろん今ではタブレット端末にデジタルペンで書き込むと言うことは容易にできるが、まだまだ万年筆で紙に書き込むと言う行為には及ばない。僕もこれからデジタル機器を存分に活用して行こうと思っているが、そうすればするほどアナログの長所が見えてくるものだと予想している。

これからの時代を生き抜くためには、次の二つのどちらかを徹底する方が良いと思っている。一つはデジタルで出来ることはデジタルを十分に活用するが、アナログでしかできないことはその長所を徹底的に活用する。もう一つは完全にデジタルで武装する。スマホを使って適度にアナログも取り入れると言う中途半端な意識が一番危険なように思える。なぜならば、それだとデジタルの進化に取り残され、アナログでも戦えないからだ。僕はこれからアナログもデジタルも徹底的に活用して武器にしようと思っている。なのでアナログを捨てることはまずない。紙を常に持ち歩き、万年筆を武器にする。それは研究でも人付き合いでも同じだ。しかしデジタル化の効果の方が大きいと判断すれば、即座にデジタルを取り入れるつもりである。

デジタルか?アナログか?と考えた時、単に便利かどうかと言う視点だけで判断するのは危険だ。セキュリティ面での対策も考えなければならないし、数値化されにくい大局的な効果も総合的に考えなければならない。そして人の心がどう動くかと言うことも考えなければならない。そのような事を考えた時、意外とアナログの効果は大きいものである。つまり、視野を広く張り巡らすことが重要になる。なのでテストの点数ばかりにこだわる盲目的な人間にだけはなってはならない。

意味がないと言うことを見出すことも大事だ。

全ての事に意味があると言う人もいるが、現実には全ての事に意味があるわけではない。あることに意味を見出すことは非常に重要だが、意味のないことに対して意味を見出そうとしても完全に無駄である。そのような事に対しては、意味がないと素早くジャッジすることが重要になる。意味がないと見出すこと自体が、意味があると言える。

それは学問に対しても言える。全ての事に対して意味を見出そうとするとどういうことが起きるのか?重要な事も重要でないことも同列に扱おうとしてしまうのである。そしてそれは物事の本質を見抜けていないことを意味する。本質を見抜くための第一段階は、それに意味があるかどうかを判断することであると言える。

ただ、何のカテゴリーで判断するかによって意味があるかないかと言うことが変わってくることがある。僕たちの普段の何気ない行動やちょっとした好みに関してはそんなに意味があるようには思えない。しかしそれが何十万人の統計となると、ビッグデータとして非常に重要な意味を持つ事になる。現代社会においてはビッグデータが非常に重要になって来ており、それらのビッグデータはビジネス的にも多額のお金によって取引されている。過去に意味がないと思われたことが、現代では非常に大きな意味を持っているのである。

意味がないことを素早くジャッジすることによって、本当に意味のあることに労力を割くことができる。全てに意味を見出そうとすると、本質を見失ってしまうことになる。しかし一見意味のないような事に物事の本質が潜んでいることがある。そのような本質を見抜くためにも、表面の裏にある多様体を探っていかなければならない。

哲学が知とは思えない。

哲学は知を愛する学問だと言われている。僕も以前はそう思っていた。しかし今は全くそうは思えない。僕は哲学とは「人間の意志だ」と考えている。「いかにして生きるべきか?」と言うことを考え追究していく。それによって人間の意志と言うものが作り上げられていく。

しかし学問的哲学は全くおかしな道を迷走している。それは意志である哲学を知だと勘違いしていることにあると僕は考えている。もし「本質的な知とは何か?」と言うことを考えるのならば、それは哲学ではなく科学・数学だと僕は思っている。科学・数学は人間の圧倒的な知である。哲学などはその足元にも及ばない。そして科学・数学と哲学の決定的な違いは、それを検証できるか否かと言うことである。科学はどんなに立派に作られていても、それが実験や観測に合わなければ正しいとは認められない。数学ならば厳密な証明がなされているかどうかだ。しかしほとんどの哲学は証明も実証もされないまま継ぎ足されていく。だから間違った方向へと進んでいても、それを誰もが気付かずに無批判に進んで行くことになる。哲学は批判が大事だと言われているが、はっきり言ってその批判さえも甚だおかしく、おかしい批判の連鎖になるだけである。

学問的哲学がなぜほとんど世の中の役に立たないかと言えば、その根源は正しいかどうかを検証できないからであろう。科学ならば一歩一歩実証され、そしてそれを基に次の段階へと進んで行く。確かに実証待ちの科学理論も存在する。例えば物理学の超弦理論などがその代表だと言える。実証がされないまま突き進んで行く様は、哲学のそれとよく似ている。しかし数学的論理的に進んでいることはほぼ間違いないので、哲学と超弦理論を同じように扱うことはできない。

知とは意志によって論理を築き上げて行くことであると僕は考えている。そしてそれを次々に実証していく。しかし哲学はそれを満たさないまま突き進んでいるだけのように思える。何がおかしいかと言えば、哲学的意志を理論に結び付けるときに、そこに明らかに詭弁としか思えないような論理が介在していることである。そのような論理が果たして知だと言えるだろうか?ただ単に論理的であればそれは知なのか?決してそうではない。やはり知の本質を追究するにあたっては、科学と数学を避けては通れないはずだ。

自力本願。

他力本願と言う言葉はあるが、自力本願と言う言葉を使うことは少ないかもしれない。しかし僕はこの自力本願と言う言葉をよく使う。なぜなら、僕は基本的に自分で考え自分で行動すると言うことに強いこだわりがあるので、それを一言で表すとなると自力本願と言う言葉がピッタリだと思うからだ。

自力本願とはもちろん自分の力で乗り切ると言うことだが、言葉を変えると「手段にこだわる」と言うことだと僕は考えている。ビジネスならば一番の目的はお金を稼ぐことだから、手段を選んでばかりではいられないし、手段など関係ないと言う人も多いだろう。しかし人生においては手段は非常に大きな意味を持つ。ただ結果さえ良ければ良いとは僕は考えていない。どのような手段を取り、どのような道をたどってきたかと言うことが結果に大きな付加価値を付ける。だからこそ、僕は手段に非常にこだわるし、どのような道を選ぶかと言うことにこだわるのである。

そしてそのような事は学問にも言えると僕は考えている。もちろん、同じ結果であれば同じような評価をされるものではあるとは思うが、それでも僕は手段を選ぶことにこだわっている。これはある意味自己満足だと言えるかもしれないが、しかし「学問を究めること=人生」だと思っている僕にとっては重要な事である。しかし計算などをするときに手段にこだわる必要はない。時には泥臭く計算することも必要だ。そんなところに手段にこだわってはいけない。手段にこだわるのは人生を学問に投射するときに限る。

僕が自力本願にこだわるのは、基本的に一人で生きることが好きだからかもしれない。もちろん人と飲んだりして楽しむことも大好きだ。しかし数学や理論物理は基本一人で完結するものだ。もちろん他人と全く関係ない訳ではないが、他の学問、他の業種に比べると、圧倒的に自分の内部から沸き立つものによって極めることができる。社会では人の力を利用することの重要性ばかりが強調されるが、自分の力で考え抜いて今を切り抜けるということの重要性が軽視され過ぎではないだろうか?

いくつかの目標。

僕にはいくつかの目標がある。いや、目標と言うよりノルマと言う方が良いかもしれないが、それらの目標に向かって今は前進している。

では、目標とは何に対する目標か?やはり一番は研究に関する目標。そして金銭的な目標。そして私生活における目標。そのように大きく三つに分けたが、そうは言っても研究に関する目標を達成しないことには他の二つの目標も達成できない。いろいろと難しいポジションにいるが、やはり僕の人生から研究を省くことはできない。

それらの目標に向かうことは、非常にチャレンジングな事だ。研究に関する目標はそれを達成すると誰も異論がないと思うが、金銭的な目標と私生活における目標は、それに異論を唱える人もいるであろう。しかし人間の価値感と言うものは様々であって、他人の価値感に振り回されていては自分の進むべき道に進むことはできない。

よく他人の意見に耳を傾けるべきだと言う人がいるが、他人の意見が自分の考えている事よりも優れているとは限らない。だから自分の考えが正しいと思うのならば、自分の考えを貫くべきだ。もちろん、他人の意見が正しいと判断したのならば、他人の意見に従うのも手ではあるが。

プロ野球の世界でも、コーチの意見に振り回されて結局型を崩す人がいる。そのような選手は結局自分で考える能が欠けているのだと言える。まずは自分で考え、そして実行するのが鉄則だ。だから初めから周りの意見ばかりに振り回されるのは僕は間違っていると考えている。

自分に大きな目標があるのならば、まずは自分を信じてみよう。そして自分の進むべき道に進むべきだ。もちろん、あきらめて妥協して現実に合わせるべきだと言う人がいるが、そのようにしたい人はそのようにすればよいと思う。しかし意志を持って自分の信念を貫く人間も少なからず必要だ。しかし周りを見渡してみると、そのような人は非常に少数派のように思えてならない。ならば自分がそのような少数派の一人になれば良いと思うことも非常に大事である。

有無を言わさぬ結果。

普段取り組んでいることに関して、自分の結果が認められないと愚痴や悩みを抱えている人は少なくない。ではなぜ結果が認められないのか?その理由は様々であろうが、ただ一つ、100%認めさせることができる方法がある。それは「有無を言わさぬ結果を残すこと」である。有無を言わさぬくらいだから、周りや組織も認めざるを得ない。それでも認められないのなら、即刻その組織から出た方が良い。

では、有無を言わさぬとはどれくらいの結果であろうか?それも人によって様々であろう。学生ならクラスで一番、学校で一番などと言うであろう。ビジネスで言えば10億円、100億円稼ぐことだと言う人もいるかもしれない。では研究においてはどうであろう。何らかの賞を取るとか、何らかのポジションに就くとか言うレベルもあるかもしれない。しかし「有無を言わさぬ」のだから、それくらいのレベルでは弱い。過去の人物で言えば、数学者ならリーマンやグロタンディーク、物理学者ならばニュートンやアインシュタインなどが絶対であろう。

このような事を言うと、そんなレベルは誰もが不可能だと言うかもしれない。しかし、誰もが不可能なのではない。その人が不可能なだけだ。実際、そのレベルの結果を成し遂げた人物が数人いるのだから、不可能なはずはない。まずは誰が挑戦するか?そしてそれらの挑戦者のうち誰が成功するかだ。まずは挑戦しないことにはそれらの候補にはなり得ない。

最近の若者は「悟り世代」だと言われることが多い。僕には何に悟りを開いているのかさっぱりわからないし、ただ単に初めからあきらめているだけだと思える。(もちろん、老人の中にもこのような人は多い。)しかしそれはそれでいい。なぜならそのように悟ることはその人の勝手だからだ。しかしそのようなくだらない悟りを他人にまで押し付けることはやめてほしい。悟って自分にはできないと思うのは自由だが、だからと言って他人もできないはずだと考えるのは非常に愚かで迷惑だ。実際に挑戦して成功しようと取り組んでいる人たちのなかに、このようなくだらない悟りを開いている人は一人もいないはずだ。

有無を言わさぬ結果を出すことに挑戦することは、人生を懸けるに値することだと僕は強く思っている。人生死ぬまで挑戦し続ける、そして挑戦を繰り返すことによって人生が作られるのだと僕は考えている。

急がば回れ!頭脳と筋トレ。

最近、研究の方が少し不調な事もあり、いろいろと試行錯誤している。例えばビールを飲む回数を調節したり、コーヒーを飲む量を調節したりとしているのだが、決定的解決とはなっていない。そこで最後に残ったのが筋トレだ。筋トレはもうかれこれ10年ほど続けているが、ここ一年程筋トレをする回数が減っていた。そしてそれとセットで行っていたジョギングも、面倒くさいとか思いながら走る回数が圧倒的に減っていた。思い返せば、ジョギングを毎日していた時期は非常に調子が良かった。そしてジョギングが減った時期と上手くいかない時期がほぼ重なっている。二年前くらいはジョギングをほぼ毎日行い、調子も上向きだった、しかし去年からジョギングの回数が減り、調子も下降気味である。頭脳と筋トレが繋がっているのかどうかわからないが、明日からまた筋トレ&ジョギングを日課にしようと思う。

筋トレ&ジョギングのセットに本気で取り組もうと思えば、一日一時間くらいの時間投資が必用だ。しかしその一時間の投資のおかげで調子が上向きになれば、それを実行する価値は大いにある。急がば回れである。そして筋トレ&ジョギングをすることによって、体系も引き締まる。外見も変えることができれば一石二鳥である。僕は特に太っているわけではないが、ジョギングをして引き締まっている頃に比べれば今は少し緩んでいる。また外見も内面も引き締めようと思う。

人間性に外見は関係ないと言う人もいるが、僕は外見と人間性は非常に関係あると考えている。だからこそ、体形的にも引き締めようと思うのである。僕が非常に尊敬しているiPS細胞の山中伸弥教授は毎年フルマラソンを完走され、体も顔も非常に引き締まっていて凛々しい。そのような山中教授は僕の憧れでもあり目標でもある。

さっそく、明日から毎日の筋トレ&ジョギングを再開しようと決めた。天気が悪い日以外は毎日ジョギングをし、走った後に筋トレを行う。もちろん、僕の最終的な目的は頭脳の活性化である。しかし体を引き締めるのももちろん目標である。今週、さっそく体脂肪計でも買おうかと考えている。

自分のパーソナリティとしてのブランド化。

ブランドと言うものは、そのブランドが示す統一感と言うものが重要になってくる。例えば車で言うなら、レクサスのスピンドルグリル、BMWのキドニーグリルなどが典型である。車の前面のグリルを見ると、何の車か瞬時に判断できる。車以外でも、ブランドのロゴ、形、色など、それぞれに統一感を持たせることが一つの重要な戦略となってくる。

それらの統一感は、人間にも言える。イメージカラーや服のタイプの傾向、そしてもちろんその人の人間性なども、その人自身を瞬時に印象付けるには非常に重要だ。もちろん、人間と物は違う。だからブランド品の戦略をそのまま人間に当てはめることはできないかもしれないが、それでも自分のイメージカラーなどを決めることによって、その人のパーソナリティが生まれてくる。

例えば僕ならば、イメージカラーはネイビーだと決めている。もちろんそれ以外の色の服を着ることも多々あるが、これからは自分に統一感を持たせて行こうと考えている。こんなことを考えていると、「内面は疎かにしていいのか?」と言われそうだが、もちろん内面があっての外見であるので、内面を磨くことは前提条件である。そして内面に自信がある人は、それに加えて外見も整えて行くといいのではないだろうか?

人間をブランドに例えると、それは決して家柄や血筋だとは全く思っていないし、それは違うと思う。自分で自分自身の内面と外見を磨いてこそ、自分のブランドができてくる。間違ってもブランド品を身に付けると自分がブランド化されると言う話ではない。ブランドと言う言葉に拒否反応を示す人もいるかもしれないが、自分をブランド化することは非常に重要である。自分が何に打ち込み、いかに努力しているか?そのような事が自分のブランド化へとつながってくる。そしてそれは自分をどこまで高められるかと言うことへの挑戦でもある。

変化する。

人間は変化すべきか?変化すべきでないか?答えは簡単には出ない。しかし一人の人間として変化すべき所は変化し、変化すべきでない所は不変であるべきである。しかし難しいのは、“どこを”変化すべきかと言うことである。

僕は基本的な信念として、常に変化すべきだと考えている。昨日の僕よりも今日の僕、そして今日の僕よりも明日も僕が必ず発展しているべきであると考えている。人間と言うものは、歳を取るごとに体力も頭脳も衰えて行くと言われている。しかしそれは絶対ではないと僕は考えている。衰える一つの原因は、必ず衰えるものだと言う先入観にあると僕は思っている。そして医学的にも衰えることは証明されているのかもしれない。しかし昨日の自分がまだまだ低いレベルならば、自分の努力次第で明日は昨日よりも発展していることができる。そう考えて僕は毎日過ごしている。

そして常に発展していくためには、常に変化していくことが必用だ。特に表面的な事になるほど、大きく変化することが必用だ。だから日常の行動や思考は常に変化を求めるべきである。しかし、一番芯となる意志や思想はそう簡単には変えるべきでない。もちろん、現在の意志や思想が間違っていると思うのならば、積極的に変えるべきである。そこを変えなければ、単なる無益な頑固者である。そして意志・思想の方向性が固まっているのならば、あとはそれを熟成していくだけだ。もちろん、熟成と言うのも変化の一つである。熟成をさせないと、どんどん腐っていくだけだ。僕は人間は死ぬまで発展することが可能だと考えている。そして僕はそのような事に挑戦して行こうと思っている。

「楽しむ」と言うことと「楽をする」と言うことは全く違う。人生は常に楽しまなければならない。時には「楽しむ=苦しい」という時も多々ある。目先の楽を取るか?将来の輝きを目指すか?僕は100%将来の輝きを目指している。結果が出るまでは非常に苦しいが、自分を本当に信じれるのは自分しかいない。だから自信があるならそれを徹底的に信じて自分を変革していかなければならない。

ミクロとマクロを結ぶ。

ミクロとマクロは対極的な概念であるが、それと同時に一つの事象の表裏でもある。ある側面ではミクロ的な様相を見せ、またある側面ではマクロ的な様相を見せる。なので、ミクロ的な側面とマクロ的な側面の双方を理解することが、本質を掴むためには重要である。

それらのことは、学問に関しても言える。物理学ではミクロの極致は素粒子論であり、マクロの極致は宇宙論である。生物学で言えばミクロの極致は分子生物学であり、マクロの極致は進化論や生態学だと言える。そして、それらの二つの極致は、研究が発展する中で融合へと向かう。例えば、素粒子論的宇宙論などがあり、分子進化学などがある。それらの片方だけを見ていれば何かを見失ってしまう。なぜならマクロはミクロの集合体であるから、マクロを本質的に知ろうと思えばミクロを知ることは不可欠になる。またミクロ的事象はマクロ的世界の中に存在する。

ここでは物理学と生物学を例に取ったが、そのような事は普段の日常においても言えることだ。社会を理解するためにもミクロとマクロの双方を知ることが必要だし、人間付き合いにおいても大局と細部を把握することが必要だ。それはつまり、広い視野を持たなければならないと言うことだ。普段の行動において計算ばかりしていてもやはり空気と言うものを読む必要に迫られる。意外と計算だけに基づいて行動を起こす人は、結果的に上手くはいかないのではないだろうか?そのようなことは、意外にも科学の研究から学び取ることができる。科学と言えば計算・論理一辺倒に思えるが、それを行うのは人間である。最近ではコンピューターが計算を行ったりもするが、それらのコンピューターを制御しているのは人間である。計算と論理を推し進めると同時に、その背後に人間の意志の存在が必用である。

しかし世の中全般を見れば、感性や感情などに傾いているように思える。その割には見当違いのところで計算にこだわったりする。そのような感性と計算の使い分けは、やはりある程度人間のセンスの基づくのではないだろうか。つまり、そのようなセンスがない人が多いと言える。もちろん、徹底的に論理で攻めなければならない場面もある。その時は論理的思考力で徹底的に推し進めなければならない。大局的な視点を持ち。ミクロとマクロ、そして計算と感情を使い分ける柔軟性が必要なのではないだろうか?

体系的知識。

学校の教科書が「つまらなく退屈だ」と言う人は多い。そして面白おかしく知識を断片的に標語的に書かれている本が人気のようだ。そのような本が無意味なわけではなく、入門的な役割もあるので、入口に誘うという価値は大いにあるが、僕はそのような本だけで知識を仕入れることには大きな危険があると考えている。なぜなら、そのような本からは断片的な知識を習得することはできるが、体系的に知識を身に付けることは困難だと感じるからだ。では、体系的知識を身に付けるためにはどのような本を読めば良いか?それは教科書を読むことである。教科書こそ体系的知識の構築においては最強のツールなのである。

確かに教科書を退屈に思うのも分からないではない。教科書は面白おかしく書かれているわけではないし、標語的に書かれているわけでもない。しかし教科書の構成は非常に考え抜かれている。そして著者一覧を見れば分かるように、一流の学者が執筆に参加している。ある意味、初めの一冊として教科書を外すのは非常に大きな損失である。もし面白おかしく書かれた本を読みたければ、それはサブとして読むべきである。僕は教科書が退屈だとは思わないが。

では、なぜ体系的に知識を構築することが重要なのか?それは新たな知を構築するためには、それまでの知識の体系の上に新しい知識を乗せる必要があるからだ。そのような時、断片的知識だけでは使い物にならない。さらに新し知識の関係性も不明になる。そのような事は、数学の歴史を見れば明らかだ。なぜ現代数学が日本や中国などの東洋ではなく、ヨーロッパで発展したのか?それは「体系的に構築したかどうか」の一言に尽きる。江戸時代の和算は、技術的にはヨーロッパの数学をしのぐほど高度なものであったと言われる。しかしそれらの技術が断片的で、体系的な構築がなされなかったのである。それに対して、ヨーロッパの数学は徹底的に体系的である。そのような伝統が、フランスの数学者集団ブルバキのような構造主義を生み出したと考えられる。

もし本気で新しい分野に取り組みたいと思ったら、まずは教科書を読むべきだ。歴史なら高校の日本史・世界史の教科書を読めば良いし、科学ならこれも高校の物理・化学・生物・地学の教科書を読めば良い。そしてさらに先に進みたければ、大学レベルの教科書、そして専門書へと進めばよいのである。さらに先に行きたければ論文を読めば良い。なので、体系的知識習得の原点は高校レベルの教科書にある。僕もこれまで取り組んでこなかった専門外の分野に取り組む時は、まずは高校教科書に目を通す。最近なら、これまでほとんど立ち入ることのなかった世界史の教科書に取り組んだ。僕は教科書と言うものは知的に非常に面白いものだと思うのだが、どうだろうか?

時間は巻き戻せないのだから。

当たり前の事ではあるが、時間を巻き戻すことはできない。なので過去の事を「あの時、もしこうしていたら」と考えることは僕は無意味であると考えている。少なくとも自分の人生に関しては常にそう考えている。ではどう考えればよいか?それは過去の事を考えるのではなく、未来の事を考えるのである。「これからどうすべきか?」と言うことを自問自答しながら人生を歩んで行くことを心がけている。

そうは言っても、僕だって過去の事を考えることもある。そして時にはそれが無意味であることも多々ある。しかし過去の事を考えるときは、それが未来の発展につながるように考えることが重要だ。過去を見直し、それを基に未来へつなげていく。そう考えて行けばかなり明るい未来が描けるのではないか?

現在の自分は、人生で三番目に苦しい時期だと僕は思っている。しかし人生で一番苦しい時期と比べると、今の苦しみなどは屁でもない。しかも現在は苦しくても、明るい未来を描くことができている。もしかしたら僕くらいの年齢の人はこれからどう流していくか?と言うことを考えているのかもしれな。あるいは(僕よりも上の世代で言われていることだが)どう逃げ切るかと言うことを考えている人もいるようだ。しかし、僕の人生はこれからだ。これから結果を出す自信もあるし、人生を徹底的にシンジョイ(元阪神の新庄選手並みにエンジョイすること)できる自信もある。今はその最終準備段階だと思っている。だから今は苦しくても、大きな充実感を感じている。自分の思い通りにいかないことも多々あるが、そこをどう解決するかも自分の腕の見せ所である。今はすごく苦しいけど、すごく楽しい!

過去の栄光がどうだなんて、僕には全く関係ない。(そもそもそんな栄光があるかどうかわからないが。)必要なのは、これからどう輝いていくかだ。これからの僕は、とてつもなく輝いている自信がある。しかしそのためには、大きな努力も必要だし、人間としても強く面白くなければならない。そのレベルは非常に高いことは自分でも自覚している。しかしだからこそ意味のある目標だと考えている。さあ、これからどう登って行こうか!

紙の本と電子書籍。

近年、紙の本の勢いが衰え、電子書籍が勢いをつけてきていると言う。紙の本が良いか?電子書籍が良いか?人によって様々だとは思うけど、どちらも一長一短あるような気がする。僕自身は根っからの紙の本派だけど、最近は電子書籍も良いのではと思ってきている。

特に最近、専門の数学・物理関係以外の本、例えば化学や生物学関係の専門書を買うことが多くなった。するとこれらの分野の専門書の特徴として、とてつもなくページ数が多いのだ。本格的な本になると、千ページ超えは当たり前。こうなると当然持ち運びなどはできるはずがない。ならばiPadなどに電子書籍を入れて、千ページの本を何十冊も持ち運ぶ方が圧倒的にメリットが大きい。とは言え、やはり紙の本によるメリットも無視できない。なので、数学・物理関係の本は(ページ数がそんなに多くないこともあり)、全て紙の本で購入する方針は変わらないと思う。

一番良いのは、紙の本と電子書籍の両方を購入することだ。家では紙の本で読み、外出先では電子書籍で読む。これが最高であるが、当たり前の事ではあるが値段が二倍することになる。しかしそれも投資と考えれば悪くないのではと思う。

少し余裕ができれば、12.9インチの大型iPad Proを買おうかと思っている。大型iPad一つあれば、外出の際も非常に身が軽くなる。それでいて本が何十冊、何百冊と携帯できるのだ。そう考えると、これからの時代は電子書籍へと流れるのも必須である。しかしそうは言っても、僕は紙の本は永久に捨てることはないと思う。紙の本と電子書籍の双方のいいとこ取りをして、時間と能力を最大限有効に活用することが求められる。そのための金銭投資は惜しむべきではない。これでこれからの自己投資の方針の一部が定まった!

お金は必要だよ。でもそれが全てではないんだよ。

あるタレントが「お金が全てだ」と言い張っていたのを見て、いろいろと感じるところがあった。おそらく多くの人は、お金が全てだと言う言葉に対して反論したいであろう。僕だって同じである。しかし、そのように言い切る彼女に対して、ある種のたくましさを感じたりもするのである。確かに反論したいところはいろいろある。しかし人間の本音として間違っていないのではないかと思うところもいろいろあるのである。

生きるためにも遊ぶためにも、お金は絶対に必要である。そしてお金はないよりかはある方が圧倒的に良い。しかしだからと言って、お金が全てではない。お金で買える幸せは、現実問題として沢山あると思う。しかしお金では買えない幸せもあるのも事実である。だから本当の幸せとは、お金によってもたらされる幸せとお金では買えない幸せの両方手に入れることかもしれない。健康もそうである。お金があれば最先端の検診を受けて予防したり、最先端の治療を受けることによって病気を防ぐことができる。しかしお金ではどうにもならない健康もたくさんあるのも事実である。

お金が全てではないことはほとんどの人にとっては明らかだが、お金に対する割合がいくらかと言うことは人それぞれ違うと思う。お金が90%だと言う人もいれば、10%と言う人もいるだろう。前出のタレントにとっては、お金が100%だと思っているのだろう。しかし一度健康を害するようなことがあれば、それが正しくないことがわかると思う。

とは言え、お金を稼ぐことに精を出すことは悪くないし、むしろ仕事に精を出すことによって人生に活力が生まれるものだ。このような活力も幸せのうちの一つである。同じ一億円でも、宝くじで当たった一億円と努力して稼いだ一億円は全く価値が違うものである。このように努力して稼いだ一億円によって人生が活力に満ち溢れ、心身ともに幸せと健康になるものだと思う。なので、お金が全てではないが、お金を最大限有効的に幸せにつなげることが必要なのではないか?そうすれば例え現在は沢山のお金があるわけではなくても、費用対効果として最大限の幸せを手に入れられる。そしてそれが将来の大きなお金にもつながってくるのかもしれない。

セルフブランディング。

ブランドと言うものは、何も鞄や時計などのいわゆるブランド品だけではない。人間自身をブランド化することも非常に重要である。ブランドとは付加価値であるが、そこには長年積み重ねてきた信頼なども含まれる。そして忘れてはならないのは、ブランドを築くことは時間もお金も非常にかかるが、失うのは一瞬だと言うことである。

では、具体的に人間のブランドとは何か?それは外見、内面、そして才能などすべてに関する総合力の評価である。例えば、日本においてその最高峰にあるのは、イチローさんや山中伸弥教授であろう。もちろん、それらの人は自分で自分のことをブランドだなんて全く思っていないだろう。またそこが素晴らしいところであるが、そのように無意識にブランディングできているところがすごい所である。そのように、ブランディングは意識をすればできると言う簡単なものではない。しかし、意識をしてセルフブランディングをすることも、戦略として重要な事である。

ビジネスマンであれば、自分の市場価値と言うものを強く意識するであろう。そしてそのような市場価値を上げるためにセルフブランディングすることは不可欠である。先ほど書いたように、人間のブランディングには内面、外見、才能など多岐にわたって関係してくる。才能などはすぐに身に付けられるものではないが、しかし努力によって向上することはできる。外見に関しては、そこだけ熱心に力を入れても張りぼてだと言われるかもしれないが、しかし何も意識しないよりかははるかにマシである。外見、内面、才能の全てを磨けば、単に三倍になるのではなく、相乗効果で何十倍、何百倍もの魅力になる。なので、もし自分に才能が有り人間としても素晴らしいのならば、そこに外見まで気を配れば百人力である。

ブランディングにおいて外見は非常に鍵となり、またそこを見ればかなり判断をすることができる。それは、外見を磨いてもそれが魅力的に見えなければそれは張りぼてであり、外見の素晴らしさが相乗効果でより一層魅力的に感じることができればそれはその人の価値あるブランドである。なので、自分をブランド化することを目標にすることは、非常に良質な目標である。しかしもちろんそれは簡単な事ではない。しかし努力と戦略によっては決して不可能ではないはずだ。

僕が本を買いまくる理由。

僕は今、いや、昔から本を買いまくっている。とは言え、冊数ベースで言えば僕と同じくらいの数の本を買っている人はそれなりにいるだろう。しかし金額ベースで言えばおそらく日本国民の上位1%に入るだろう。さらに収入からの割合で言えば、完全にホンゲル係数王(エンゲル係数をもじっている)であることに間違いはない。なぜ僕はこれまでに本を買い続けるのか?その理由を書いてみたい。

研究者には二つのスタイルがある。一つは完全に頭の中だけで完結する人。もう一つは多くの専門書を駆使して考える人。前者の人はかなり記憶力が良い人だと考えられるが、僕は記憶力が良くないので後者にならざるを得ない。そのような僕にとって、本は生命線でもある。なので、本にどれだけお金をかけるかが結果にも跳ね返ってくると強く思っている。

そして何より、本が大好きなのである。本屋には毎日のように顔を出しているが、最近は雑誌や一般書はほとんど買わない。それらは全て立ち読みで終わらせる。その分を専門書に回しているが、最近はこれまで僕の専門外だった生物学などの専門書なども積極的に買っている。これが意外と面白いのだ。これまでは数学バカ、物理バカで来たが、生物学や数理脳科学、化学なども取り組んでみると非常に面白く魅力的なのである。そして大事なのは、取り組むからには新しい結果を出さなければならない。単なる趣味では終わらせないと強く心に思っている。

本は財産だと昔から言われているらしいが、この言葉をどれだけの人が理解しているだろうか?本は人間の第二の脳なのである。言わば拡張人体とでも言うべきであろうか?一冊数千円で第二の脳が身に付けられるのならば、これは非常に安いのではないだろうか?稼いだお金で第二の脳を買いまくるのも、意外と悪くないものだ。

科学とゲーム。

科学は大なり小なりゲーム的な要素がある。そして科学をゲームと捉えられている人は絶対に強い。科学者とはある意味、プロゲーマーと言えるだろう。とは言っても、娯楽的に時間を潰すためのゲームでは決してない。人生を懸けたゲームなのである。

ゲームと対照的な位置にあるのが勉強だと言えるだろう。よく小学生などが親から「ゲームばかりしないで勉強をしなさい」と言われるシーンがある。これはある意味、ゲームと勉強を対照的物事と捉えている点で本質をついていると言える。しかし大事なのは、科学を勉強としてやるのではなくゲームとして取り組むことなのである。だから親たちは「勉強ばかりしないでゲーム(科学)をしなさい」と言うべきである。

科学を勉強として取り組んでいる間は、まだまだ四流五流である。科学をゲームと捉えることができれば一流の手前の二流と言えるかもしれない。しかしその先がある。その先(一流)が何なのかと言うことは人それぞれ違うし、僕が言うことでもない。なぜならそれが何なのか?それは自分で考えるべきことだからである。

大人の夢には命がかかっている!

子供のころにいろいろな夢を持っていたと言う人は多いだろう。しかし大人になるとそれらの夢をあきらめ、夢を持たなくなったと言う人が多いように思う。それどころか、大人が夢を持つなんてことがカッコ悪いと言う人さえいる。果たして大人も夢を持つべきなのか?それとも現実的に考えて夢など持たない方が良いのか?

僕は夢を持たない大人は、実は夢を“持てない”のではないかと考えている。そしてそれらの人達は、夢を持つ覚悟がないのではないだろうか?大人が夢を持つからには、単なる夢見る乙女(中年?)ではなく、それを何が何でも成し遂げなければならないし、そうでないと生きていけない。そう、大人の夢には命がかかっているのである。命をかけてまで夢に取り込もうとする人は非常に少ないのではないだろうか。だから多くの大人たちは夢を持てないのである。

自分の夢を実現しようと前に進んでいる人は、いくつかのことを犠牲にしなければならない。普通の人と同じような事をしたいなどと思っているようでは、突き抜けた夢を実現することはできない。将棋の藤井聡太七段は、大学進学を断念し将棋に専念することを決心したと言う。圧倒的な才能が有り将来有望な青年でさえそのような犠牲を受け入れなければならないのに、大人が夢を追求するのに犠牲を覚悟しないで出来るはずがない。あらゆることはトレードオフである。何かを手に入れたければ、何かを手放さなければならない。なので、自分は何を手に入れるべきか?また何がいらないか?と言うことを明確に自覚していなければならない。

夢を追求している人を笑う人たちがいる。僕はそのような人たちを逆に笑ってやりたい。何せ、それらの人は夢を持つ覚悟も才能もないのだから。現代の多くの人間の寿命は50年を優に超える。平均寿命が短かった昔なら、25歳くらいまでには夢の大まかな形を作り上げていなければならなかったかもしれない。しかし今では、50歳を過ぎてから夢を成し遂げることも可能である。だから中年だけでなく、高齢の人達も夢に取り組むことに遅いことはない。大人の夢を笑う人間は、前時代的な観念にとらわれている人間なのである。

確かに皆が皆夢を追いかけていては、それはそれで社会が成り立つかどうかわからない。しかし確実に言えることは、現在の日本では夢に取り組む大人が圧倒的に少ない。なので夢に取り組める大人たちがもっともっと必要である。現在日本は経済的にも下り坂のように思えるし、何だか表面的な事を繕っているように思える。建前万能主義社会の中で、堂々と胸を張って夢を追求する大人こそが今の世の中には必要なのである。

お金ではない付加価値。

付加価値と言えば、普通の物とは違う価値、特に金銭的価値を考えるかもしれない。車で言えばフェラーリなどは付加価値を盛り込むことが非常に上手いと言われ、実際に金銭的にも国産普通車の十倍以上の価格が示されている。さらにフェラーリの中でも、ラ・フェラーリやエンツォ・フェラーリと言った車種は価格もさることながら、お金があれば買えると言うものではないらしい。人間で言えば、サッカーの久保建英選手は十代ながら20億円の市場価値があると言う。

そのような金銭的な付加価値を上げることと同時に、お金ではない付加価値を作ることも非常に重要である。久保建英選手のような才能を一夜で身に付け数十億円もの価値を身に付けることはすぐにはできないが、お金ではない付加価値は意識の持ちようで誰にでも付けられるチャンスはある。しかし誰にでもチャンスはあるが、誰にでも身に付けられるものではないからこそ価値があるのである。具体的には、人間性や思想、そして外見もそれらの付加価値の一部になるであろう。そしてそれらの付加価値の最も重要な事は、張りぼてではないことである。表面的な事ではなく、芯から発する魅力を身に付けなければならない。

では、張りぼてではなく芯から発する人間性・魅力とは何か?そのような人間性・魅力は、窮地に立たされた時に最も表現される。人間とは窮地に立たされた時に本性が表れるものである。普段は優しく人を守るふりをしても、いざとなれば平気で人を裏切り自分の保身に突っ走ってしまう。そのような優しさは張りぼてであり、最も信用できない人間とみなされる。僕自身だって、時には人を裏切ることもあるかもしれない。しかし一つ断言できることは、僕は絶対に保身に走らない。いや、そのような人間であろうと思っている。僕は保身と言うものが根っから大嫌いだ。だから保身に走る人を軽蔑するし、もし自分が保身に走ろうものならそのような自分を捨て去ってやりたい。

そのような保身という醜い行為の対極にあるのが人間的な付加価値だと思う。人間と言うものは、いつかは死ぬ運命にある。百年後には今いる人間全てが入れ替わっていると言う当たり前の事を指摘していた本もあった。なので、限られた人生のうちの微々たる部分を延命するために保身をする意味はほとんどないと思っている。そのような醜い保身による延命を図るくらいなら、今ある人生をいかに太くするかと言うことを考えた方が良い。そのような人生を太くすることこそが、人間的付加価値を付けることだと思う。ほとんどの人は自分がいつ死ぬかなんて予測できない。そしてそれをコントロールすることもほとんど不可能だ。しかし人生を太くすることはいくらでも自分でコントロールできる。ならばそちらに力を注ぐべきではないか。それができる人が付加価値のある人間と言うものである。

何を目標にするか?

結果を出せるかどうかは、初めに目標を立てるところから決まっている。良い目標を立てることができると良い結果につながるし、良くない結果を立ててしまうとどれだけ頑張って取り組んでも良い結果を出すのは難しい。なので、良い目標を立てるセンスと言うものはある程度必要だ。

大きな目標を立てて成し遂げることができると、もちろん大きな評価を得ることができる。しかし大きな評価を立てても、それを成し遂げることができなければその評価までたどり着けない。しかし評価は、百か?ゼロか?ではない。結果を出す過程で様々な副産物が得られたり、また結果を出す過程自体が評価されることも少なくない。しかし、そのような過程がどのようなものになるかは取り組む本人にもやってみない事にはわからない。なので、どうすべきか?と延々悩んでも仕方がないので、まずは取り組んでみることが重要だ。動くか動かないかは天と地ほどの違いである。動かないで出来ないと言うのは、才能がないのと同じである。

学問に取り組む際にも、目標とする問題を明確にするのと、単にどの分野(理論)に取り組もうと言うのでは、自意識が大きく違ってくる。僕は前者(取り組む問題を設定する)方が圧倒的に良いと思っている。例えば、最新の理論に取り組もうと言う意識では、研究と言うより勉強になってしまう。問題を解くことはそれ自体研究なのである。僕自身も、ターゲットを理論から問題に変えることによって飛躍的に内容が良くなった。

問題を設定したら、まずは準備をしなければならない。しかしもちろん、準備に終始してはいつまでたっても始まらない。常に先端を見据えながら、足元も固めて行かなければならない。必要な専門書を集めることも必要だ。専門書はないよりあった方が絶対に良い。だから他人から「本を集めてばかりだ」と言われるくらいがちょうど良い。物事はお金ではないかもしれないが、お金をかけることは非常に重要である。お金を有効に活用することによって、目標へのスピードは少しずつ速くなっていく。

良い目標を立てるためには、広い視野が必用だ。そして同時に圧倒的な専門的知見も必要だ。そして目標となる問題は、必ずしも一つだけにする必要はない。複数の問題に取り組むことによって、複眼的かつ余裕を持ったアプローチをすることができる。究極の目標は、スペシャリストレベルのジェネラリストだ。

世界が小さく見えてくる。

もし自分が学生ならば、数学の世界についてどのように感じるだろうか?おそらく数学と言うものは得体の知れない部分が多く、どこに限界があるのか想像がつかないであろう。数学でなく物理や化学、あるいは経済学であってもそう感じるに違いない。しかしそれらの分野を極めることによって、それらの世界がどんどん小さくなってくる。あれほど得体の知れなかった数学の世界が非常に小さく見えてくるのだ。そうなれば数学の世界が窮屈になり、殻を破ろうとするであろう。殻を破る、すなわち新しい世界を構築するのだ。

世界が小さく見えるとは、その世界の全貌を見渡せている証である。しかし実際は、その全貌を見渡せていないまま重箱の隅を突くような研究をしている人も少なくない。その結果、全貌を見渡せている人と見渡せていない人では結果の質が大きく変わってくる。

そして他分野、隣接分野を理解することも大きな武器になる。数学に取り組んでいるのならば、数学内の隣接分野を、さらには化学、生物学などに取り組むのもいいだろう。そして重要なのは、専門外の分野だから知識を仕入れるだけでいいとは思わずに、その分野でも何か新しい結果を出そうとすることが重要だ。それが僕の言うジェネラルサイエンティストへの唯一の道である。

しかし、現在まだ結果を出せていないことを悲観することは全くない。しかし明確なビジョンを持てていないのならばかなり悲観的である。まずは到達点をはっきりとさせ、それを基にビジョンを構築することが必用である。時間をかけることが必ずしも良いことだとは思わないし、早く結果を出すことに越したことはないが、大きな目標を掲げているのならばじっくりと時間をかけるのも重要である。結果を出すまでは外野がうるさいであろうが、そんなことは結果を出せば全て解決することである。じっくりと腰を据えて、大きく深く問題に取り組むことにしよう。

古本の活用。

本を一冊買うくらいなら何の問題もないが、十冊二十冊と買っていくとやはりそれなりの出費になる。さらに専門書となると一冊一万円以上するものも多く、そのようなものを毎月これでもかと買っていくと懐が痛くなる。

そこで最近は、書物を買うときは古本をフルに活用することにしている。書物はブランド品と違って、価値が落ちることは全くない。確かに紙としての本は古くなり値段も安くなるが、本と言うものの本質は紙ではなく、その中に書かれている情報だ。だから本が古くなったからと言って中に書いている情報が劣化すると言うことはない。

Amazonなどで見ていると、専門洋書の原版よりも日本語翻訳版の方が高いことが多い。最近見た本では、洋書原版が一万一千円、それに対して日本語翻訳版が二万四千円。じつに日本語版の方が倍以上高いのである。そこで僕は、洋書原版のさらに中古の状態の良い本を六千円で注文した。おそらく明日くらいに届くであろう。お金が湧き出るようにあれば新品の本をどんどん買えばよいが、資金に制限があるときは古本をフルに活用して、さらに日本語版ではなく英語版を買うと言った対策を取った方が良い。

僕はAmazonや明倫館書店(自然科学書専門の古本屋)のサイトを頻繁にチェックしているが、意外と掘り出し物があるものだ。掘り出し物とはある人には価値がないが、ある人には大きな価値があると言うものだ。人の価値と自分の価値は全く違う。自分の価値感をしっかりと把握していれば、自分にとって非常に価値がある掘り出し物の古本が見つかるに違いない。繰り返し言うが、本の価値は紙ではなく中の情報にある。そこを認識していると、古本を最大限に活用し、思い通りの結果を出せるに違いない。

ストレスがたまるぜ!

日本と言う国は、本当にストレスがたまるぜ!いや、僕の場合、海外に住んだとしてもストレスはたまるだろう。どうしたらストレスフリーな生活を送れるのか?僕の永遠の課題である。

しかし誰でも、大なり小なりストレスはたまるものかもしれない。しかし僕の場合はあまりにもストレス耐性が弱い。そのくせに強固なる絶対的な意志を持っている。意志を貫けば貫くほど、どんどんストレスがたまっていく。それはもう僕の運命だと言うしかない。ストレスフリーになるのはあきらめて、これからどうストレスと共存していくかと言うことを考えた方が良いかもしれない。

ジェネラルサイエンティスト。

ジェネラリストとはどのような人のことを言うのか?いろいろな事をまんべんなくできる人のことをジェネラリストと言われる事がある。しかしそれはジェネラリストでも何でもなく、単なる普通の人でしかない。僕が定義するジェネラリストとは、あらゆることに対してスペシャリストレベルである人である。なので、ジェネラリストになるためには、まずスペシャリストになることが必用だ。

最近はあらゆる分野において細分化が進んできている。それは科学においても例外ではない。物理学者であっても分野が違えば、同じ物理学のことでも全く分からないと言うことも少なくない。そのような研究者を物理学者と呼べるだろうか?そのような人はもはや物理学者でさえない。

では、科学を志しているのならば究極的にはどこを目指すべきなのか?僕は「ジェネラルサイエンティスト」だと考えている。すなわち、科学のどの分野に対してもスペシャリストレベルであると言うことだ。細分化が進んでいる現在において、そのような事は本当に可能なのか?僕は可能だと考えている。もちろん、誰もができることではない。だからこそ挑戦すべきではないだろうか。

ジェネラルサイエンティストになるためには、全ての科学に対してスペシャリストレベルでなければならない。その中でも少なくとも一つの分野では世界でトップレベルにならなければならない。そのようなジェネラルサイエンティストは世界でも数えるほどしかいないだろう。しかし、ある分野で世界でトップを極めている科学者は、他分野に関してもスペシャリストレベルであることも少なくない。もし科学を極めたいのならば、ジェネラルサイエンティストを目指すことは最も挑戦的な取り組みに違いない。そしてそこから科学以外の分野にはみ出していくことも非常に面白いだろう。

学問的野望。

僕は人間と言うものはどの分野を志していても野望は持つべきだと思っている。そしてその野望を達成する原動力は何であっても良いと思っている。むしろ、自分の中にある欲求や夢をいかに上手く原動力にして、いかに事を成し遂げるかと言うことが重要なのである。

タイトルに「学問的野望」と書いたが、そもそも学問的野望とは何か?何も成果を出して大金を得ることが目的ではない。いや、もし大金を得ることが原動力になるのならばそれも良い。しかし学問的野望はビジネスとは違ってお金だと割り切れるものではない。そもそも、ほとんどの研究者は学問が大好きで、その面白さに魅了されて学問に打ち込んでいるのである。金銭的利益は付属品でしかない。

科学と言うものは階層的に分類されている。科学の一番基盤的なところに位置するのが物理であり、そこから化学、生物学、地学へと積み重ねられていく。すなわち還元主義的に考えると、物理学を制覇すれば全ての科学を制覇したことになる。さらに物理の中でも素粒子論は最も根っこに位置するので、素粒子論は科学全ての源泉だと言える。

しかし、物理(素粒子論)を理解すればそれで満足できるのか?以前の僕ならばそれで満足していたかもしれない。しかし今は違う。数理物理を軸にしながらも、化学や生物学・地学などの全ての階層を理解し制覇したいと思っている。さらに現実世界(我々の住んでいる宇宙)の理解だけにとどまらず、さらに強固な世界である数的宇宙(数学)も制覇すべきだと思っている。そのように全ての階層の数理と科学を制覇することこそ、究極の学問的野望だと思っている。

今、僕はいくつの問題(テーマ)に取り組んでいるのか?とふと思った。そしてそれらを紙に書き表してみると、八つもあることに気づいた。それらは数学・物理はもちろん、あるものは(理論的な)生物学、脳科学、コンピューター科学などと多岐にわたる。昔なら物理の問題だけで満足していたであろう。しかし今の僕の知への欲求は、それだけでは満足できないのだ。そしてもちろん、それらを知ることが目的ではない。解明して新しい知見を出すことが目的なのである。

僕の学問的野望はどこまで広がるのか?それはとどまることを知らない。

学問的哲学は、何一つとして真理を明かさない。

哲学は有用なのか?不要なのか?この問いに対して僕は明らかに有用だと答える。それどころか、哲学のない人生、そして哲学のない科学などは取るに足らないと僕は考えている。しかし、我々が生きて行くうえで考える哲学とは別に、大学などで行われている「学問的哲学」と言うものがある。例えば、カントやショーペンハウアーのようなドイツ哲学などだ。僕自身も、そのようなドイツ哲学を中心とする学問的哲学に取り組んでいたことがある。しかしそこでたどり着いた結論は、「学問的哲学は不毛であり、何一つとして真実を明らかにしない」と言うことである。はっきり言えば、学問的哲学とは哲学者の自己満足な遊びでしかない。

ではわれわれはどのような哲学を追求すべきなのか?それは「いかにして生きるべきか?」と言うことを追求することである。哲学とは生きることに対して求めるべきであって、単なる論理学のくだらない哲学遊びを求めても仕方がないのである。とは言え、古代のギリシャ哲学は十分に意味があった。古代ギリシャ哲学は現代科学の源泉でもあるし、宇宙の真理を真剣に追究している。それに対して近代ヨーロッパ哲学はひどいものである。それらの哲学からは何一つとして真理が浮かび上がらない。

科学とは、まず目の前の事を真実として直視することから始まる。しかし近代哲学は人間が特別なものであると言うところから始まる。人間の存在など、確かに特殊性は帯びているが、生物学的には特別でも何でもない。もし人間が特別だと言うならば、根本的に同じ生物システムを保持しているアメーバだって特別である。いや、そうであるべきである。生物とは宇宙的に見ても特別であり、生物学とは特殊科学の極限なのである。

そして数学はこの宇宙で最も確かなものなのである。そしてそれを突き詰めていくと、当たり前のものが当たり前でないことに気づく。1とか2という自然数を哲学者はどう捉えるのか?おそらくくだらない論理にもなっていない論理もどきを持ち出して論破しようとするであろう。しかし、最も厳格である数学の基礎であるツェルメロ・フランケル集合論を用いて論じれば、自然数と言うものが最も確実な存在ではあるが、最も自明ではない存在であることがわかる。そこに、数学を用いて迫る真実の最もエキサイティングな真理が存在するのである。

理論と計算。

物理学と数学は究極的な理論的学問、計算的学問だ。数学を計算抜きで考える人はいないと思うが、では数学者や物理学者が日常生活においても全て計算に基づいて行動しているかと言えば、そうではない。もちろん、全てにおいて計算と理論に基づいて行動している人も少なくないとは思うが、理論的計算的に行動することが正しいかと言えば全く別問題である。

僕は数理物理学と言う学問に取り組んでいるが、そのような究極的に理論的計算的学問に取り組んでいるからこそ、日常生活や人間関係においては逆に計算では動かないように心がけている。そして周りの人間が計算的に動くのを見て、全く的外れだと思うことも多々あり、だからこそ計算に基づいて動くことが利益を最大化するとも思えないのである。

しかし、僕自身も少しは論理的に日常を捉え、もう少し計算をしても良いのではと最近少し思うようになっている。とは言え、100%計算に基づいて行動しようとは今でも思わないし、そういうのは好きではない。日常を純粋に楽しみ、面白いことを面白いと純粋に笑い、苦し事を苦しいと感じることも必要ではないだろうか。しかしそのような苦しさから脱出するためには、少しは戦略的に物事を進めることも必要である。

世の中には、このような僕の考えに逆行している人がたくさんいる。日常生活などでは徹底的に計算で動き、逆に数学を論理的に考えることができない人たちだ。そのような人たちは間違いなく的外れな解釈を行っている。日常の本質と数学の本質が別のところにあることを理解していない。だからこそ、世間で「理論的に証明されている」と言えば何の疑いもなく信じて実行しようとする。そこには思考と言う作業が組み込まれていないのだ。数学を突き詰めている人ほど、日常の常識に立ち向かうことができる。常識を知っている人が偉いのではなく、常識が本当に正しいか判断できる人になることが重要なのではないだろうか。

肩書と実力。

日本は肩書社会だとよく言われる。だからと言って外国は完全な実力社会かと言えばそうでもないとは思うが、日本国内から見ても海外の方が圧倒的に実力社会であるように思える。

では学問の世界はどうか?学問の世界の肩書の一つに「博士」と言うものがある。実力社会のように思えるアメリカであっても、日本以上に博士と言う肩書が重要視されているようだ。ノーベル賞受賞者の中村修二氏は、若いころアメリカで修業したそうだが、博士号を持っていないがためにほとんど相手にされなかったと言っている。これはアメリカに問題があるのか?学問の世界に問題があるのか?はっきりと断定はできないが、どちらにも問題があるように思える。

肩書重視の弊害は、あらゆるところで見られる。その一番の弊害は、再チャレンジの機会が存在しないと言う事であろう。もしくは例えそのチャンスがあったとしても、既得権益者が行うよりも圧倒的に難しい状況に追われる。しかしそのような事は、どこの国どの社会であっても同じことであると思う。三倍難しければ、五倍の実績を挙げればよい。十倍の結果を出せば誰も文句は言わないだろう。それで文句を言う人は単なるバカである。

歳を取ればとるほど実績を出すのは難しくなる。そして実績を認められるのはそれ以上に難しくなる。しかし前述したように、十倍の実績を出せば誰も文句は言わない。ならば十倍の実績を挙げれば良いだけの話である。これが難しいか?可能か?それは本人次第であるが、僕は十分に可能だと考えている。どう出過ぎた釘になるか?そこを突かないと、実力主義だと言われるアメリカであっても認められるのは難しいと思う。しかし、どう認められるかと考えているようでは、出過ぎた釘にはなれない。なぜなら、出過ぎた釘とは評価をする側に回ると言うことであるからである。