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合理的判断は、本当に合理的なのだろうか?

世の中の人は、合理的判断を求めている。しかしそのような合理的判断は、本当に合理的結果をもたらしているのだろうか?

人物を合理的に判断する基準として、IQや学歴が用いられることが多い。しかしそのような判断は本当に合理的なのであろうか?確かに学歴は90%の人を合理的に判断できるであろう。しかし問題は残りの10%の人達である。学歴で評価した90%の人達の中には、秀才が多く含まれているかもしれない。しかし異才や奇才は残りの10%の中にいる可能性が高い。通常の物差しで測れない才能だからこそ、異才や奇才だと言われるのである。

アインシュタインが秀才だと言う人はいない。ほとんどの人は天才だと言うが、アインシュタインはある意味奇才である。よく世間では、アインシュタインのIQがいくら(かなり高い)だとか言って天才だと言うが、そのような話(数値)は後の人が勝手に決めたことである。もしアインシュタインがIQ的天才ならば、アインシュタインは普通の人でしかなかったということになる。IQ的天才とは所詮、IQで測れる程度の才能でしかないということである。

合理的判断には、そこから外れる10%(いや、1%か?)の人が必ず存在する。もしかしたら、90%の人を正しく評価できているのだから合理的ではないかと思うかもしれないが、実はそこから10%の人を除外していることが社会的にも大きな損失であり、究極的に非効率なのである。判断に必要な事は「多様的評価」なのである。一つの判断基準に固執すると才能が偏ってしまうし、本当に威力を発揮する人を見逃してしまう。もちろん、学歴などは一つの物差しとして使うのは悪くないかもしれない。しかし物差しは何種類も使うべきである。僕はこれまで‘‘通常’’の物差しから外れてきた才能ある人を何人か見てきた。おそらく皆の周りにもそのような人はいるはずだ。もしいないと言うのならば、通常の物差しに固執するあまり気づいていないだけである可能性が高い。昨今の「多様性」と言う潮流は物事の本質を突いており、本質的合理性を高めるのもだと僕は考えている。

世界!

僕はこれまで、特に世界と言うものを意識しなかった。数学や物理の研究などは個人プレーなので、海外で行おうが日本で行おうが同じだと思っていたし、特に海外でやることが優れているとも思っていなかった。それどころか、海外に出ないとできない人など、逆にダメなのではないかとも思っていた。もちろん、野球においては、海外・メジャーリーグに行かないと高レベルのプレーはできないし、海外でしか磨けないこともたくさんある。しかし僕自身の事に関しては、数年前まで特に海外を意識することはなかった。

しかし、そのような思いはここ数年激変している。今は日本にいてはダメなのではないかと強く思うようになり、一刻も早く結果を出して世界に出なければいけないと追い詰めている。日本の何がダメなのか?その理由は一つだけではない。保守的すぎる社会性であったり、法的に縛られ過ぎであったりと、言い出したらきりがない。少なくとも、僕にとって自由に研究ができる環境が日本にはないのだ。もちろん、海外に行けばそれが解決するという保証はない。結果も出さずに海外に行けば、状況はさらに厳しくなるのはわかっている。だからこそ、明白なる結果を示して海外に行かなければと思っている。

しかし、何に関しても海外の方が良いと言う訳ではない。治安に関しては銃弾が飛び交っている国は少なくないし、日本の飯は世界一おいしい。しかしそれを差し引いても僕にとっては海外に行くべきだと思っている。日本で野垂れ死にするくらいなら、海外で銃弾に当たる方がマシだ。それくらいの覚悟はできている。

もちろん、日本に住む方が圧倒的に合っている人も少なくない。いや、むしろそのような人の方がはるかに多い。日本は良い国だ。僕も日本は大好きである。サッカーやラグビーのワールドカップが開催されれば日本代表を全力で応援するし、日本の文化に対しても素晴らしいものは沢山あると思っている。そして何より、平和であることが素晴らしい。日本は素晴らしい国なのだ。しかしそれとこれとは違う。自分が日本の社会に合っているかとは別問題だ。僕はもう限界だ。一刻も早く結果を出して世界に出なければ!

リアル人生ゲーム。

人生とは非常に貴重なものだし、時には非常に重いものでもある。しかしいつもそのような重さを抱えていては、進むものも進まなくなってしまう。なので時には気楽に、そして時には人生をゲームのように捉えて進むことも非常に重要だ。

人生においてピンチになったとき、そのような時こそゲームのように捉えて物事を進めることが威力を発揮する。ピンチの時にはどうしてもネガティブに考えがちだ。なのでゲームを一歩一歩遂行していき、詰むか詰まれるかという攻防を行っていくことは非常に有効である。そして何より、ゲームと捉えることによりネガティブな事がポジティブに考えられる。従って人生が面白くなる。面白くなれば物事がどんどん前に進みだす。そして成功へ近づく。人生というものは、深刻に捉えればよいというものではない。

とは言え、このようにピンチを楽観的にゲームのように捉えることは簡単ではない。しかし明らかに楽観的な方が物事は成功しやすい。少なくとも僕はそう考えている。慎重に考えすぎて前に進めないくらいなら、とにかく前に進んだ方が良い。学問でも、あれこれ考える暇があれば、とりあえず問題や理論に取り組んで少しでも前に進めることが重要だ。

人生とは結果も大事だが、過程も大事である。そしてそのような過程の一つとして、リアル人生ゲームと捉えることも一つの重要な手である。ゲームと捉えることにより、手段が一つ増えるわけだから、それは人生の豊かさにもつながる。選択肢は多数持っていた方が良い。そしてそれと同時に、それらの選択肢からどれが一番適切かという判断力も必要だ。過程も結果も重要だが、最終的にはどれだけ人生を豊かにできるかということであると僕は強く思っている。

コーヒーの調節が意外と難しい。

最近、コーヒーの調節に四苦八苦している。コーヒーを飲むことによって、調子が大きく変化することがあるからだ。特に頭の働きに大きく影響していると強く感じている。数理物理の研究をしている僕にとっては死活問題だ。もちろん、全ての人がコーヒーによって影響を受けるとは思わないが、コーヒーの摂取量は自分でコントロールすることが必要だと強く感じている。

コーヒーを飲むことによって、ストレス調整ホルモンであるコルチゾールという物質の分泌に影響してくると言われている。もちろん、僕はそのような事の専門家ではないので軽く言うべきではないのかもしれないが、ただ色々な情報を入手すると、もしかしたらこのコルチゾールというホルモンに調子が影響されているのかもと考えている。僕自身、ストレス耐性は非常に低い方だと感じている。これまでコーヒーを半無限的に飲みまくっていたので、もしかしたらこれが影響しているのかもしれない。なので最近は、飲んでも一日に三杯までに止めている。

ただ、コーヒーが大好きな僕にとってはこれはかなりきつい。朝起きるとどうしてもコーヒー一杯飲みたくなる。しかしここを我慢して、起床一時間半後まではできるだけ飲まないようにしている。この起床直後がコルチゾールの分泌に一番影響するそうだ。

コーヒーを飲み過ぎても全く影響のない人は何も考えずに飲み続ければ良いが、僕のようにコーヒーを飲むとパフォーマンスに影響するのなら、自分でコントロールすることが必用だ。僕自身、様々な欲求をコントロールすることはかなりできる人間だと思っているが、これまでコーヒー中毒を自称していた僕にとっては、コーヒーのコントロールはかなり厳しいものである。ただ、コーヒーのコントロール一つでパフォーマンスが上がるのなら、徹底的にコントロールしていく覚悟はできている。

独創とは、先端よりも意外と根っこにあるものだ。

どの分野でも独創性は大事であるし、大きな変革は独創から生まれる。では、独創はどこから生まれるのか?もちろん、最先端の物事から生まれることもあるだろうが、僕はむしろ根っこから生まれると感じている。最先端の物事においては、どうしても継ぎ足しを繰り返すということが多くなる。もちろん継ぎ足しにより発展はしていくが、大きな変革は見込めないのではと思う。それに対して、根っこと言うものはある意味基盤であり核心である。そのような核心を極めながら、ある時核心を覆す。それでもさらに核心的な事は維持されるかもしれないが、そのような変えるべき核心を変革し、維持すべき核心を守り抜く。そのような事によって独創的な革命は起こるのだと感じている。

日本は独創性に欠けると言われることが多い。いや、日本でも世界に誇る独創は存在する。近年はノーベル賞受賞者も多数出てきているし、文化的な事柄に対しても独創は多く存在する。しかし、近年のノーベル賞の対象となった研究内容の多くは二昔前の結果であるし、今世界で注目を浴びている日本文化も古くからあるものだ。では、現在進行形の独創は存在するのか?と考えた時、僕はアニメを思い出した。現代日本アニメは世界に誇る大きな独創である。アニメの映像を見ると、日本のアニメはアメリカなどの海外のアニメとは何段もレベルが違う。それは素人目にも明らかである。しかし、日本のアニメの世界において独創を求めようとはあまり聞かない。もし手軽い独創を求めていたら、確実に現代の日本のアニメは存在していないだろう。

では、他分野ではどうだろうか?例えばビジネスにおいて、さらにはITにおいて、日本の状況を見ていると、至る所で独創性が重要だと言われている。しかしアニメとは反して、ビジネス・ITで独創はあまり存在しないように思える。その原因は、手軽い独創を求めようとしているからではないだろうか。具体的には先端を継ぎ足していくこと。それを独創と勘違いしている。さらに言えば、そのような事が最先端であるかどうかも怪しい。最先端を求める方向性で行くならば、徹底的に最先端を極めなければならない。しかし今の日本の状況を見ると、それができているとは言えない。

なぜ、現在の日本は独創も出せずに、さらに最先端も出せないのか?(もちろん、全てがそうであるわけではないが。)それはあまりにも周りを見過ぎているからではないだろうか。何をするにも周りの状況を見て判断する、そのような姿勢が染みついている。他の人が最先端の結果を出してからそれを追おうとする。それは明らかに二番煎じでしかない。しかしそれが今の日本の現状である。

しかし、日本の中にも大きな独創性を持った人は確実にいる。心配なのは、そのような大きな独創性を持った人が、日本で潰されないかどうかだ。そう考えると、潰されないうちに日本を出た方が良い。そうなればやはり日本から一つの独創が消えることになる。しかし大きな独創人は、まずは大きな結果を一つ出して世界に打って出るのが賢明かもしれない。

最近、あらゆる学問が面白い!

最近、あらゆる学問に対して面白いと感じている。以前はサイエンス、特に物理・数学に対してだけというところがあったが、今、あらゆる学問が面白く感じ、あらゆる学問に取り組み始めている。

なぜ、以前は他の学問に興味を持てなかったのか?その理由を考えると、一つ目は学問と言えば受験勉強を意味していたこと、もう一つは時期的なものであると僕は考えている。受験勉強というものは非常に小さいものである。そして表面的なものである。なので、なかなか面白さの核心に迫れない。そのような中、本当の面白さを伝えようとすると、自然、受験勉強の範囲を超えてしまう。しかし学校ではなかなか受験勉強を超えるようなことを教えようとしない。僕が大学受験生だったころ、自分が取り組んでいた数学や物理学は、高木貞治の解析概論であり、ファインマン物理学であった。しかし受験にこだわていると、なかなかそのレベルの事まで取り組もうとは思えない。このような事を解決するためには、学生と学校の教師の双方の意識を変えなければならない。

とは言え、大学に入れば自由に学問に取り組むことができる。しかし一般教養の授業の中には、どうしてもやりたくない授業も存在する。僕ならば第二外国語のフランス語の授業がそうだった。しかし今、あらゆる学問が面白く、フランス語にも興味を持っている。要はやりたくなった時にやればよいのである。学生時代にやりたくなければ無理してやる必要はない。しかし面白く感じた時には思いっきり取り組めばよい。それでいいのである。

科学(サイエンス)と言うものは、層構造をなしている。一番土台になるのは物理であって、その上に化学(バケガク)、生物学・地学と重なっている。なので、生物学に取り組むためにはその土台にある化学を理解しなければならない。もちろん、さらに基をたどれば化学は物理を土台にして成り立っている。今、専門の数理物理の研究の合間に、生物学の勉強に取り組んでいる。しかしその土台にある化学が完全に理解できていない。なので化学も真剣に取り組む必要がある。そのような事を考えると、学問というものは全て有機的に繋がっており、全ての学問に対して(強弱はあれ)取り組む必要があるのかもしれない。

学問に取り組むうえで大切なのは、受験勉強ではなく楽しさの本質に迫れるレベルまで取り組むこと、そして面白いと思ったときに思いっきり取り組むことである。学問とは本質的に楽しいものである。(そして時には苦しいものでもある。)そこに学問の本質が存在していると僕は思っている。

調子の悪い時の過ごし方。

誰もが多少の調子の波はあるのかもしれないが、僕はかなり波がある。調子の悪い時は、数式がなかなか頭に入らない。そのような時にどう過ごすかは、僕の大きな課題である。

数式が頭に入らないので、そのような時は数学・物理以外のことに取り組むことにしている。例えば生物学や社会学、歴史学などである。それらは専門外(そのような区別は自分の中ではあまりしていないが)なので、少しはリラックスして取り組める。学問以外にも、例えば普通の読書であったり、あるいはYouTubeを見て過ごすことが多い。ただ、そのような過ごし方をしていると頭がなまりそうで怖いが、調子が悪いので仕方がない。

最近、生物学にはまっている。大学で使うような生物学の教科書を読んだり、時にはiPS細胞などの論文を読んだりするが、これがなかなか面白い。ただ英語はかなり苦手なので、英語論文を読むときには苦労する。少し前、経済学の論文を読んでみたが、他分野の英語論文はやはり苦労する。数学や物理の英語論文は読みなれているので、ある程度スラスラと読めるのだが(と僕は勝手に思っている)、山中伸弥教授のiPS細胞の論文はなかなか読み進められない。

調子の悪い時は悪いなりの過ごし方があると思うが、なかなかそれを見出せずにいる。何かに取り組み目標を達成しようと進んでいる人にとっては努力することが必須であるが、その努力ができない状態と言うのはかなりつらい。しかし明日になったらまた調子が戻っているであろうと楽観することも大切かもしれない。まあ実際、明日になったら数理物理に没頭しているだろう。いや、そうしよう。

他人からの評価ではなく、自分の信念に基づく。

最近、自分が自分らしくないように感じることがよくあった。そこで何が自分らしくないのか?そしてその原因は何なのか?と問い詰めたところ、その原因が、他人からの評価を気にし過ぎていることであることに気が付いた。自分の独創性にこだわっているのに、他人の評価を気にしすぎるとは全くおかしな話である。

科学とは真理への追究である。もちろん、研究結果に対して周りや社会からの評価は気になるところではある。しかし、そのような評価はあくまでも付加的な要素でしかない。もちろん、工学系の技術分野では社会の評価は非常に重要な要素である。しかし理学的ないわゆる純粋科学では、そのような周りからの評価ではなくどこまで真理に迫れているかということが最も重要な要素である。だからこそ、宗教裁判で裁かれ社会から滅多打ちにされたガリレオ・ガリレイが、現在では最も大きな評価をされているのである。

他人からの評価の中で生きるとは、ある意味楽な生き方である。誤解のないように付け加えるが、もちろんそれは簡単であるという意味ではない。責任があらゆる範囲に分散されるという意味である。自分の信念に基づいて生きるとは、全ての責任を自分が負うということである。その重圧は非常に大きいように思えるが、自分が正しいと思う方向へ進んでいる時は、意外と重圧を感じないものだ。しかし冷静にリスクを考えると恐ろしくて進めなくなってしまう。

なぜ他人からの評価を気にし過ぎていたのかはよくわからない。しかしいつの間にか周りの評価を気にしていた自分がいた。しかしそのような状況は自分が望むことではないことは明らかだ。だから軌道修正、いや、大きく変換して元に戻す必要がある。しかしそれはそんなに難しくはないと自分では感じている。なぜなら自分で問題点に気づいており、意識をそちらへ向ければ良いだけだからだ。意外と明日には元に戻っているかもしれない。また自分が強くなりそうでワクワクしてきたぞ!

挑戦!

いつからだろうか?僕は挑戦というものに強いこだわりを持つようになった。学問における挑戦、私生活における挑戦、社会における挑戦、そしてお金に対する挑戦。今の自分は挑戦なしに語れない。するか?しないか?と問われればほとんどの事に挑戦するつもりだが、もちろん無駄な挑戦までする必要はない。しかし挑戦は僕の人生における原動力だ。挑戦抜きに今の僕の人生は語れない。

僕の挑戦において一番重要なのは、言うまでもなく学問における挑戦だ。専門は数理物理だが、最近はあらゆる学問が面白い。だから様々な学問に取り組んでいる。そしてそれらの学問が、専門分野にも有機的な好影響をもたらすと考えている。

学問、私生活、社会、お金。これらに対する挑戦は全てつながっていると考えている。もちろん優先順位を付けることは重要だが、それらの有機的なつながりを忘れてはいけない。

今、これらに対する結果が出ようとしている。この「今」が今年になるか?来年になるか?その先になるか?まだはっきりしないが、少なくとも近い将来総合的な結果が出ると手ごたえを感じている。結果は勝手に出るのもではなく、自分で出しに行くものである。だから挑戦なしに結果は出ないと思っている。

今、人生が非常に充実している。人生で三番目に苦しい時ではあるが、挑戦し続けることによって大きな充実感を感じている。一年後が楽しみである。そして一年後、本当に楽しんでいられるように、全ての挑戦すべき物事に全力で取り組んでいこうと思う。

世の中ってのは。。。

世の中というのは、強い者の味方だ。それは社会においてもそうだし、スポーツの世界においてもそうだ。別に味方になってもらうために強くなるわけではないが、ただ自分の実力を向上させて強くなることは重要だと思う。

しかしどんな人間にも、強い側面があれば弱い側面もある。100%強い人間なんていないのかもしれない。だから強い人間は弱い人間を助ける必要がある。それは社会的に権力があり強い存在である政治家が、一般市民を助ける必要があるように。しかし現実には、強い政治家が強い者の味方になっていることが散見される。

人間として強くありたいと願うことは普通だと思う。誰も弱くなりたくて弱くなっている人間はいない。弱い側面を強くすることが重要か?それとも強い側面をより強くすることが重要か?どうやら日本社会では前者の方が重視される傾向がある。それはそちらの方が社会的に大きなメリットがあると考えられているからかもしれない。一昔前までならそれでよかったかもしれない。しかし現在は、社会も学問の世界もあまりにも大きくなりすぎている。だからすべての事において力を発揮するということはほとんど不可能である。だから自分の得意分野を徹底的に伸ばし、不得意分野をそれが得意な人に任せるという体制が必用ではないか。

社会において、全てをそつなくこなす人もそれなりにいる。しかしそのような人の多くは、全ての事において「可もなく不可もなく」という無難な人間になってはいないだろうか。しかし、一つの事にこだわり、タコツボ化するのも良いとは言えない。一つの事だけしかできない人より、二つの事ができる人の方が良い。専門は複数持つべきだと思う。例えば、数学とファッションでもよい。いやむしろこのように大きくかけ離れたことを同時にかけ持つ方がより良いのかもしれない。

意外とすべての事は有機的につながっている。このような有機的なつながりを強さに変えて、そして弱い人を助けられる人間になりたいものであるが、そこまで精神的な余裕を持つことは簡単ではない。しかしいつかはそのような事ができる大きな器を持った人間になりたいものである。

スランプの克服。

先日、大スランプだという記事を書いたばかりだが、ここ数日、大スランプ脱出のヒントを得られた(かもしれない)。スランプ脱出の一番難しいところは、そのスランプの原因がはっきりしていないことだ。だから何を改善すれば良くなるのかということがなかなか絞り込めない。しかし場合によっては、数個の要因まで絞り込めることがある。もしそこまで絞り込めたのなら、とにかく試行錯誤して探っていくことが必用だ。

僕もここ数か月、様々な試みを行って改善を図ってきた。しかしなかなか改善の糸口が見つからない。そのうち、状況は少しづつ悪化してきている。しかし、あきらめずに試行錯誤を続けることによって、一つの原因を突き止めた(と思っている)。その原因はあまりにも身近にあり、また長年抱えていた悩みでもあった。しかし、その改善を行うことは普通の人なら簡単な事であるが、僕にとっては究極的に難しいことである。しかしその点を改善することにより、状況は確実に良くなってきている。

スランプを克服するために必要なことは、一つは「実行力」、そしてもう一つは「思考力」である。僕は徹底的に考えた。スランプの原因は何なのか?時間は少しかかったが、その原因を突き詰めることができたようだ。それができたら、次は実行である。思考と実行は物事を成し遂げるための両輪であり、それはスランプ脱出においても例外ではない。プロ野球選手がスランプに陥るという話はよく聞く。そこから脱出できるかどうかは、その両輪を機能させることができるかどうかだと思う。プロ野球選手だから、実行力はずば抜けてあるだろう。なので後は頭を使うことができるかどうかだ。イチローがスランプに陥ったと言う話はほとんど聞かなかった。それはイチローが極度に頭を使って野球に取り組んでいたからではないだろうか。

僕もスランプの原因にもっと早く気づき実行していたのならば、一年早く結果を出せていたかもしれない。しかしそんな過ぎ去ったことを言っても仕方がない。これからスパートをかけて、一刻も早く結果を出すことが求められている。しかし妥協は絶対にしない。これからが非常に楽しみである。

大スランプ。

年単位で考えれば、調子が良い時と悪い時がどうしてもある。このような調子の波をなくすことは、多くの人の課題であろう。一時的に調子が良いだけではなかなか目標を達成することはできない。一番大事なのは持続である。持続的に取り組み、持続的に成果を挙げていく。それによってさらに上にある目標も達成できる。

僕は現在、大スランプに陥っている。なかなか浮揚策が見出せないでいる。焦りもあるが、ビジョンはしっかりと保持しているので、そこは少し安心している。浮揚策を見出すために、様々な試みをしている。例えば筋トレやジョギングをして体を動かしたり、コーヒーやお酒を飲む量を制限したりとかだ。これとスランプの何が関係あるのか?と思われそうだが、意外とこのようなことが関係していたりする。だから些細な事でも、それが良い方向へとつながると感じれば取り組むことにしている。

もちろん、根拠のない取り組みはしない。では根拠とは何か?一つ目は科学的根拠であり、もう一つは経験的根拠だ。科学的根拠を判断するときには、疑似科学には注意しなければならない。世の中には疑似科学(エセ科学)が蔓延している。僕は数理物理という科学に取り組んでいるので見分けることができるが、本質を見抜くことができないと疑似科学に振り回されることになる。そしてお金も健康も失ってしまう。

現在の大スランプを脱出できるかどうかは、僕の実力にかかっていると思っている。そして常に自力本願を心がけている。険しい関所ではあるが、乗り切れる自信は大いにある。

「記憶」か?「思考」か?

記憶が良くて、思考も深い。これが一番理想かもしれないが、僕は記憶力が悪い。短期的記憶も長期的記憶も、どちらもかなり良くない方だ。しかし、記憶力が悪ければ思考でカバーすればよい。確かに記憶力が悪いことはかなり不便ではあるが、致命的ではない。しかしこの逆に、記憶力は良いが思考ができないとなると、数学や物理においては致命的だ。いや、記憶力が悪いだけでもかなり致命的かもしれない。しかし、思考力で何とかカバーしている。

世の中を見ていると、記憶力でものを言わしている人はかなり多いように見受けられる。しかし思考力でものを言わしている人にはほとんど出会わない。そもそも思考力があれば、ものを言わすという発想自体不必要なのかもしれない。「ものを言わす」という言葉は、自分の実力以上の威厳で押さえつけるという意味合いがある。しかし、思考力自体がその人自身の実力だと言える。だからものを言わす必要がないのだ。

数学を記憶力だけで進めることができるのか?確かに高校数学くらいなら記憶力でかなりカバーできる。いや、大学数学だってカバーできる。いや、既存の理論を理解するくらいなら記憶力で乗り越えられるかもしれない。しかし、新たな理論を作るとなると話は別だ。新しい理論の構築は、99%思考に依存している。だから思考力なしで理論の構築はできない、しかし記憶力があれば非常に便利だ。それは僕もひしひしと感じる。しかし記憶力が悪ければ、それはそれでよい。むしろ、記憶力が悪いからこそ思考の方に頭を使おうと努力できる。

最近、生物学に興味があり、ちょっとした生物学書を読むことが多い。とは言え、生物学の専門家でない僕の取り組みなど大したことはない。しかし生物学の論文くらいは読みたいものである。少し前、山中伸弥教授のiPS細胞の原論文に目を通したが、やはり専門用語などが分かり辛い。特に、遺伝子などの様々な名称が理解できなかったりする。生物学は昔から暗記の割合が大きい学問だと言われている。しかし現在の生物学はかなり論理的、化学的、物理学的になり、思考の割合が増えているように思える。博物学的な側面が強かった時代から見れば隔世的だ。しかし最低限の記憶は必要だ。記憶力の悪い僕が、副々専攻としての生物学をどこまで究められるか?これはある意味一つのちょっとした挑戦だと思っている。

「権力」対「知識」。

世の中には、自分の意見を通そうとするために権力を手に入れようとする人が多い。確かに権力を手に入れれば、自分の思うようになるように思える。しかし、自分の意見を通そうとするためには、もう一つの方法がある。それは「知識」による攻勢だ。これは簡単に言えば、銃で攻撃するか?ペンで攻撃するか?ということである。そして僕は迷わず、ペンを武器にすることを選ぶ。

僕には愛用している一本の万年筆がある。そのペンは僕が大学院に進むときに友人が贈ってくれたペンだ。だからかなりの年月になる。その一本のペンで数学や物理の研究を行い、インクのカートリッジはもう百本以上交換したのではないだろうか。その万年筆はもう僕の手足である。

ペンで理論を重ねれば、その力は国家権力よりも大きなものになると僕は考えている。とは言え、僕は権力を手に入れるために理論を重ねているのではない。ただ真理を見極めたいがためにペンで理論を重ねているのだ。しかしこの先、何らかの権力と対峙することもあるかもしれない。そのような時は迷わずペンを武器にしたい。

銃の威力は誰でも分かる。しかしペンの威力は、ペンを使い倒した人にしかわからない。だからこそ、ペンの威力を認識した人が一人でも必要なのである。この前の内閣改造で、河野太郎氏が外務大臣から防衛大臣へと横滑りした。今、日韓関係は、どうやら銃の威力の方へ傾いているように感じて仕方がない。しかしペンの威力、すなわち正常な外交の力を最大限に利用しなければならない。もちろんこのためには、日本だけでなく相手側にも良識が求められる。これから河野太郎氏が相手側の良識を引き出せるか?河野氏の手腕にかかっている。

まず攻めがあって。

僕は人生をとことん攻めて行くとよく言っているが、だからと言って守りを考えない訳ではない。防御に関しても最強である必要があるが、しかしそれらの防御は攻めがあって成り立つものでなければならない。だからここぞという時は丸腰でも攻めて行くことにしている。一番危険なのは、自分を守ることが第一条件になってしまうことだ。

時には、人を守るために攻めて行かなければならない時がある。「攻撃は最大の防御」という言葉があるように、攻めの姿勢のない防御は崩れ去るのも早い。そして攻めのない防御は、その場しのぎでしかないことが多い。つまり長期的視点に欠けている。長期的視点とは、「今損をして、将来得をする」ということである。そしてそれによって利益を最大化することができる。しかし、その戦法が常に功を奏すとは限らない。つまりリスクがある。ではどう考えればそのようなリスクのある行動に出られるのか?

そのためには、一度損得勘定を抜くことが必用だ。損得勘定以外の事、つまりリスクさえもスリルと考えて楽しむとか、また長期的構想の構築自体を楽しむとか。つまり全ての事を楽しむのである。究極的には苦しみさえも楽しみにすればいい。そしてその苦しみを乗り越えれば、達成感を感じるのもいいと思う。意外と窮地に陥っている時の方が、人生が充実していることも少なくない。今の僕の人生はそのようなものである。

とは言え、僕でもくだらない守りに入ることもよくある。そのような時は、そのような自分に落胆する訳ではあるが、同時にそのような自分をどう変えていくべきかということを徹底的に考える。それによって自分を変えるにはそれなりに長い時間がかかるが、75%くらいのことは変えられているように思える。「本当の自分」とは、今のありのままの自分である必要は全くない。自分を自分の思う方向へと変えることができれば、それも本当の自分なのである。本当の自分を常に変革するためにも、常に人生を攻めて行くことが必要である。

科学を専門にしているからこそ。

科学の研究者は、全ての物事を科学的に考えていると思っている人がいるかもしれない。確かに、全ての物事、日常的な物事を科学的に考えている研究者は多いかもしれな。そしてそれは多くの場合正しいかもしれない。しかし人間が生きるにおいて、科学的な解釈一辺倒ではどうしても乗り越えられないこともある。例えば人間の心だとか、恋愛だとかだ。もちろん現在では、人間の心さえも科学的研究の対象になっている。それは非常に高度な科学であり、非常に面白く意義のあることである。僕が言いたいのは、そのような心の科学研究に対してではなく、日常の人付き合いだとか人生に関してである。

とは言え、もちろん宗教とかそのような事を言っているのではない。僕の中では宗教などは論外である。人の気持ち、心、そして交流、このようなことを全て科学的な判断で動いていれば、多くのものを失ってしまう。もちろん、判断に困ったときに、科学的決断をすることは重要である。しかし、恋愛に科学を持ち出すバカもたまにいる。そしてそういう人に限って、科学を全く理解していない場合が多い。科学を持ち出すべきでない意義を理解するためには、科学的本質を理解することが不可欠だと僕は思っている。

このようなことからも、専門の科学だけでなく、科学全体を見渡せる力を付けることが重要である。科学以外のことを理解するためには、科学を理解することが必要なのである。これは、ジェネラリストになるためには専門を極めることが必用であり、またスペシャリストの道を極めるためにはジェネラリスト的な深い教養が必用だということである。

人の心を深く理解するためには、科学と感性の両方を磨かなければならない。物事を全く違う二つの側面から見るのである。そうすれば、第三の面が見えてくる。そのように多角的に物事を深めていけば、科学の理解も心の理解もさらに深めることができる。人間には物理的には備わっていない第三の眼を、多角的思考によって身に付けることは、決して不可能な事ではない。

図書館“も”利用する。

少し外出したついでに、久しぶりに市の図書館に足を運んだ。僕はこれまでは基本的に、読みたい本は全て買うことにしていたが、やはり読みたい本を全て買っていれば財布の中身が厳しい。図書館に足を運んで新刊本コーナーを眺めていると、少しではあるがなかなか面白そうな本が置いている。そこで面白そうな本をまとめて借りる手続きをすることにした。

面白そうではあるが、一回読めば繰り返し読みそうな本ではない。仮に繰り返し読みたければ、その時その本を買えばよい。とは言え、必要な専門書はこれからも基本全て購入する方針だ。しかし一般書籍はむしろ図書館で積極的に借りる方が良いのかもしれない。それで浮いたお金を専門書の購入に充てることもできる。

「図書館‘‘を’’利用する」ではなく、「図書館‘‘も”利用する」と言った方が正しい。そもそも、市の図書館に専門書が置いているわけではないので、そこは利用しようにもどうにもならない。そして、専門書は手が届くところにあって、手を伸ばせばすぐに取り出せることが重要だ。

これからも、必要だと思われる専門書は湯水のごとく?購入しそうだ。もしかしたら、書籍エンゲル係数だけは誰にも負けないかもしれない。

たまにお酒を飲むのがいい(かも?)。

お酒は体や脳に良いのか?と問われると、現在では99%(100%?)良くないと言われている。昔は少量のお酒ならむしろ健康に良いとも言われていたが、最近の研究の結果によると、少量のお酒でも健康に良くないということが明らかになっている。少量のお酒は薬になるという言葉は、お酒を飲む人が自分を正当化するために言われた言葉かもしれない。

しかし時には、お酒を飲むことは気分転換になる。そのためにお酒を飲むという人も多いだろう。確かに健康には99%(100%?)良くないかもしれないが、たまにお酒を飲んで気分的に調子が良くなるのならばそれもありであろう。特にストレスがたまっている時などは、お酒で気分をやわらげようとしたくなる時もある。それはそれでありだと思う。

しかし「お酒は飲んでも飲まれるな!」とよく言われる。これが非常に重要である。お酒に溺れて依存になれば、100%悪い方向へと進む。だからある程度自制をかけることが必要である。僕自身はお酒はかなり好きな方だが、現在はお酒を飲まない日の方がだいぶん多いし、たまに飲むときも缶ビール一本か二本くらいで抑えている。そのおかげで、体も精神的にも良い状態を維持できている。

体と精神は、自分でコントロールすることが必要である。そのためにはお酒は極力飲まない方が良いかもしれない。しかし人と飲むことは非常に楽しいものだし、それで付き合いが円滑に進むのならば飲まない手はない。ここでもやはりリスク対効果という考えが重要だ。健康面でのデメリットと、それ以外の面でのメリットを比較してみる。そう考えると、たまに飲むのはメリットは大きいのではないか?ということで、一週間に一度(か二度)くらいはお酒を飲むのは悪くないと思うがどうであろうか?

未来はとてつもなく明るい!

明るさの評価には二通りの方法がある。一つは絶対的な明るさ、もう一つは相対的な明るさだ。絶対的な明るさというものは、測定器を使って正確に測ることができる。人間の人生の明るさで言えば、例えばお金だとかであろう。もちろん、お金だけで明るさを測れる訳でなく、あくまで一側面を評価したに過ぎないが、お金は数値で厳密に測ることができる。相対的な明るさは、つまりコントラストである。それは同じ一万円を所持していても、お金持ちが持つ一万円と貧乏な人が持つ一万円では全く価値が変わるということである。

人間の人生を測るとき、どうしても絶対的なものにこだわりがちだ。しかし実際に感じる明るさは、相対的なものの方がより感じやすいように思える。では、絶対的な明るさと相対的な明るさのどちらを重要視すべきか?もしこの質問に迷うのなら両方手に入れればよい。しかしそうは言っても、これは簡単な事ではない。もしかしたら普通に平凡に暮らすことを望む人もいるだろう。そこはそれぞれの人の価値観の違いである。どちらが良くて、どちらが悪いという話ではない。

今僕は、非常に明るい未来が見えている。未来が楽しみで仕方がないのである。しかし現在はまだ光の中にはいない。だから自信はあるが実感は全くない。今の僕を支えているのは明確なビジョンである。このブログでも何度も引用している山中伸弥教授の言葉「VW(ビジョン&ワークハード)」、全てはこの言葉が表している。従って、後はワークハードをするのみである。いや、ビジョンもどんどん更新して進化させていかなければならない。

リスクには目に見えるリスクと目に見えないリスクがある。目に見えないリスクというものは、誰もが無意識に取っているものだ。しかし目に見えるリスクは多くの人は避けようとする。例えばお金に関するリスク、あるいは人生に関するリスクなどだ。しかしこの目に見えるリスクを取れるか取れないかが意外と人生を大きく左右する。リスクを取り続けている時、大概人生はどうしても暗くなりがちだ。しかし未来の人生は非常に明るいように思える。これだけの未来の明るさを感じれるのは、人生において挑戦し続ける者の特権かもしれない。あとはそれを実現するのみである。

最近、僕が社会評論をしていない理由。

僕は最近、ブログで社会評論をほとんどしていない。いや、やり切れていないと言った方が良いかもしれない。その理由は、ポジティブな理由とネガティブな理由がそれぞれある。

ポジティブな理由は、評論者ではなく実行者になることが重要だと思っているからだ。例えば、政治家を批判しようと思えばいくらでもできる。しかし自分自身は政治家ではない。批判するだけして自分は何もしないというのはフェアじゃないと言える。もし政治家を本気で批判しようと思うのならば、自分自身が政治家になろうというくらいの覚悟が必要なのではないか。少なくとも自分が選挙に立候補するというくらいの行動力が必要かもしれな。もちろん政治家に対して国民が審査することは必要だ。そういう意味で、国民が政治家を批判することは非常に重要な意味がある。権力を放置してしまうと、自然独裁化をたどってしまう。しかし矢面に立たされているのは政治家であることも理解しなければならない。

ネガティブな理由は、自分が弱気になっているということである。現在、自分の人生に対しては積極的に強気に出ていることは間違いない。しかし社会の中で自分というものを考えると、なんだか評価を気にしているところがあるように思える。もちろん、社会での評価というものは重要かもしれないが、少なくとも僕自身は周りの評価などに行動を左右されるべきではないと思っている。僕の目指しているところはそういうところにある。その一環として、社会評論、政治評論をもっとすべきであるはずだ。しかし現在、それができていない。もちろん準備はかなりしている。なので、自分の気持ちの整理がつくと、また積極的に評論していきたいと思っている。

他人に対して自分の価値観を押し付けるのはおそらく間違っている。しかし自分の価値感を主張することは必要だと思う。政治や社会に対しても様々な価値観があるはずだ。だからそれぞれの人が様々な価値感に基づいて様々な評論をすることは必要だ。政治に対して、社会に対して、そして科学に対しても様々な価値感をぶつけ合い、正しい道を探っていくことが必要である。

社会は疑っても、人間は信じる。

人生が上手くいかない時などは、どうしても人を疑ってしまうことが多い。いや、人生が上手くいっていても、人を疑うことは多いかもしれない。しかし人を疑ってばかりいると、ますます疑心暗鬼になってしまう。なので、信じるべき人に対しては絶対的に信じるということも非常に大事だ。そのように信じるべき人がいることは、自分にとって非常に大きな財産だ。

しかし社会は明るい部分と暗い部分がある。社会とは疑ってかかることが前提になっているようなところがある。社会や政治、ビジネスなどは慎重に疑ってナンボみたいなものである。しかしその中にあっても、味方は信じなければならない。確かに味方であっても、打算的に味方になっている人も多い。しかしそのような打算的に味方になっている人に対しても、信じて付き合うか、疑って付き合うかによって、これからの展開は大きく変わる。

何だか現代においては、疑って生きる人が騙されにくく、賢い人間だと思われているようである。しかし僕は疑う人が賢いとは全く思わない。もちろん疑うべきところでは疑うことは必要だが、信じるべきところで信じることができる人、そのような人が賢い人間であると思う。確かに信じることによって失敗することもあるだろう。しかしそれ以上の成功を挙げればよいだけの話である。

失敗しないように生きるか?成功を挙げるために生きるか?これは同じことのように思えるが、根底は全く違っている。なぜなら成功を挙げるためには、その十倍の失敗が必要である。大成功を挙げるためには、その百倍の失敗が必要かも知れない。失敗をネガティブに捉えるか?ポジティブに捉えるか?そのような事が人間性であると思う。ポジティブになればなるほど、正しく人を信じることができる。そして正しく疑うこともできる。すなわち、ポジティブな判断を下し続けることによって、正しい判断力が養われるのである。

「面白い」という視点。

やはり面白くないことよりも面白いことをやりたい。誰もがそう思うだろう。そしてその「面白い」という感性は、物事を進めるうえで大きな原動力となる。それは数学や物理の研究を進めるうえでも同じだ。面白い方へ進めるのは正しい進め方であることが多いように思う。いや、面白いことを強引にでも正しい方向へ結び付けることが必要なのではないだろうか。

数学は大きく、代数・幾何・解析と分けられることが多い。しかし現在は、学際的な時代だ。そのような区分に固執していれば大きな成果を挙げられない。そもそも数学というものは全てどこかでつながっているはずだ。最近はそのような認識も強固になって来ている。ということは、好きなことに取り組んで、それを自分の専門分野に結び付けるということが可能になる。何がなんでも強引にでも結び付けるという意識があれば、何らかの応用はできるのではないだろうかと僕は思っている。

最近、僕は代数幾何に興味を持っている。初めはグロタンディークのスキーム理論に興味を持っていたが、そこから極小モデルプログラムと言われる森重文博士らが発展させた理論に興味を持っている。面白いと思ったのならば、どんどん取り組むべきだと思っている。森理論が数理物理に応用できるかどうかなんて分からない。でも取り組む価値のある理論だ。誰もやっていないのなら自分がやればいい。そこに価値が生まれる訳である。

皆それぞれ、面白いと感じることは様々である。「飯を食っていかなければならないから、そんなことはできない」という人もいるだろう。そのような人に強引に挑戦的なことに引きずり込むことはできない。そのような人は、飯を食うために日常を過ごせばよいのである。しかし僕は挑戦をしたくてうずうずしている。だから今はかなり苦しくても挑戦という道を進んでしまう。しかし苦しいのは今であって、将来まで苦しいわけではない。いろいろな面で将来に大きな希望を持っている。今が面白いのは「上級」、そして将来が面白いのは「最上級」なのである。

知識と知恵。

知識とはインプットであり、知恵とはアウトプットである。知識と知恵のどちらが重要か?と問われれば、僕は知恵だと答える。しかし、知識と知恵は全く関係のないものではなく、双方が連動して大きなパフォーマンスを発揮する。

勉強の大部分は知識である。しかし勉強によって得られる知識の多くは知恵へとつながる。いや、つなげなければならない。何かを成し遂げられるかどうかは、知識を知恵へとつなげられるかどうかだということである。

学校で行われる勉強は、知識の習得であることが多い。しかし、このような勉強の強要は、知識を知識で終わらしてしまう可能性が高い。無理やり押し付けた勉強が実を結ばないのは、知恵への昇華という視点が欠けているからだ。受験も同じである。受験勉強のためだけの勉強は、ほとんど意味をなさない。大学受験だと、受験は一瞬であるが、大学生活は4年の時間があるのである。さらには、卒業後の時間の方が圧倒的に長い。勉強というものは、このような長期的視点を持って意味を見出すことが重要なのである。

僕は学歴というものは基本的に重要視していない。人間を評価するときには、学歴ではなく人間そのものを見て評価しなければならないと思っているからである。そこでの判断基準の一つが、「知識を知恵へと昇華できているか?」ということである。高度情報化社会の現在、知識を習得するだけならネットを使っていくらでも簡単にできてしまう。しかしそれぞれの人によって知性の差が大きく生まれる。それは知識ではなく知恵の差である。思考の差である。もし知識の収集に明け暮れながらも現状を打開できないのならば、知識から知恵へと軸を移すことを考えなければならないのではないだろうか。

僕はバカな生き方をしたいんだ!

僕は常々バカな生き方をしたいと思っている。しかしこのバカな生き方というものは、簡単にはできない。そしてバカな生き方をするためにも、知性をつけて理性的にならなければいけない。何も考えないで生きるのがバカな生き方ではない。ある意味常識を超える生き方、それがバカな生き方というものだ。

バカにバカな生き方はできない。それはバカがおバカタレントになれないことからも明らかだ。賢い生き方をしようと思う人は多いが、僕は賢い生き方というものに全く価値を感じないし、魅力も感じない。自分の調子が悪い時、少し賢い生き方をしようと思ってしまう。それは余裕がない証拠だ。心に余裕がないと、バカな生き方をしようと思うことはできない。

クイズ番組で立て続けに正解を出すタレントと、面白いおバカ回答を出すタレントのどちらが面白いか?僕はおバカ回答をするタレントの方が圧倒的に面白いと思うし、魅力を感じる。それと同じだ。おバカ人生を生きる人間の方が自分も他人も圧倒的に面白いし、愉快な気持ちになれる。賢い生き方をしている人は、「賢いね」の一言で終わってしまう。ただそれだけである。人生は楽しくないといけない。愉快でないといけない。僕はそう思っている。

今僕は、50%くらいバカな生き方をできているのではないかと思っている。ということは、まだ50%足りない。僕は何でも100%というものは狙わない方が良いと思っている。なのであと45%くらいバカになって、人生をシンジョイしたいと思っている。(シンジョイとは、新庄(元阪神タイガース選手)並みにエンジョイするという言葉である。)

セオリーを破る。ただし結果が全てだ!

セオリーというものは強力だ。セオリーとは言い換えるとマニュアルともいえるが、このようなマニュアルがあるからこそ俊敏に迷わず判断を下すことができる。しかし、セオリー通りに物事を進めるだけだと、誰がやっても同じ結果にたどり着くだけだ。もちろん、それがセオリーというものだが、何かを打破しようとするとき、時にはセオリーを破らなければならない時も出てくる。

セオリーを打破しようとするとき、必要なのは勇気ではない。冷静沈着な判断力と、その先にある展望だ。これを見誤ると、必ずと言っていいほど失敗する。セオリーを破る人の多くは、結果として失敗をすることになる。しかしこのことは、決してセオリーを破るなということではない。時には失敗する確率が高くても挑戦すべき時があるのだ。

なぜ、失敗する確率が高いのに挑戦するのか?と疑問に思う人も多いだろう。そこで、この失敗というものについて考えなければならない。確かに失敗はする。しかし、その失敗は短期的な、単発的な出来事だ。物事は大局的に捉えなければならない。重要なのは、その失敗がこれからの糧になるかどうかだ。発展の見込めない失敗はすべきでない。しかし、栄養になる失敗は積極的に得て行かなければならない。

セオリーを破ることも同じだ。セオリーを破ることによって新しい可能性が見えてくる。新しい戦術が見えてくるのだ。セオリーを破ることは、新しセオリーを作ることに結び付く。新しいセオリーを作ることこそ、挑戦者たちの目標なのである。数学や物理学においても、新しい理論(セオリー)を作ることが最終目標なのである。

セオリーを破ることによる失敗は決して無駄ではない。そしてセオリーを破ることでしかたどり着けないところがある。ただし、現実は結果が全てである。セオリーを破るのなら、その先にある「新しいセオリーを作るところ」まで行かなければならない。

“特殊”な何々。

最近、報道などで気になっている言葉がある。それは事件などが起きた時に、「特殊な何々」によってなされたという言葉だ。例えばある事件が、「コンピューター」によってされたと報道されたとする。すると、「コンピューターでそんなことができるのか?」と驚く。しかし、「“特殊”なコンピューター」でされたと報道されると、「特殊なものだから出来て当然だろう」と何も驚かない。このようなことに僕は危機感を感じている。なぜ危機感を感じるのか?それはここに思考停止がみられるからだ。

「特殊」という言葉はある意味魔法の言葉だ。「特殊」という言葉を差し込むだけで何も疑問を感じなくなる。この「特殊」という言葉が思考停止を招いているのだ。しかし、もしそれが特殊であるのならば、本来はどう特殊なのかを知りたい。原理を知りたい。しかし多くの人は「特殊なのだからできて当然だよね」となってしまう。例えば、iPS細胞によって治療が可能になったと聞けば、「iPS細胞はそんなこともできるのか?」さらには、「iPS細胞によってどのような原理で治療が行われるのか?」と次々と興味がわいてくる。しかし「“特殊”な治療法によって行われた」と聞けば、「そうなんだ」とそれで終わってしまう。

このようなことから、「特殊な」という言葉は極力避けた方が良い。報道する側も、また日常において何かを説明する人も、内容・原理を詳しく説明する方が良い。それができるかどうかは、その人の知識レベルにかかっている。「特殊な」という言葉を使って説明する人は、実は何も分かっていないに等しい。

実はこのような言葉の綾は様々なところに潜んでいる。言葉の綾に惑わされて何も理解しないで過ごすのではなく、さらに疑問を持ち、内容・原理を確実に理解することが重要なのである。

科学技術から距離を置く。

「現代社会を支配するものは何か?」と問われれば、おそらく多くの人は「科学技術」と答えるだろう。その答えは間違っていない。しかし完全に正しいとは言えない。世の中には科学技術では解決できない問題は沢山あり、そのような事を理解するためにも科学技術至上主義にどっぷりと浸かることは避けなければならない。

そのためには、一つのことを理解しなければならない。それは「科学と科学技術は根本的に違うものである」ということである。しかし、このことをしっかりと理解している人は非常に少ない。ほとんどの人は「科学=科学技術」だと思い込んでいるのである。

そもそも、科学と科学技術は目的が違う。科学の目的は「真理への探究」であり、科学技術は「役に立つことを発明すること」である。それに加えるのなら、科学技術は「ビジネスの手段」だとも考えられるのではないだろうか。

iPS細胞の研究を例にとると、山中伸弥教授の第一発見、つまり「山中ファクターと言われる四つの遺伝子を細胞に組み込むと細胞が初期化される」というiPS細胞の原理の発見は、完全に科学である。しかし、網膜再生などのiPS細胞を使った再生医療は科学技術である。それぞれ非常に意義のある大きな研究であるが、そのどちらに大きな価値を見出すかはその人の基本的価値観に大きく左右される。

人間社会は経済なしでは語れない。つまり科学技術によるビジネスがあって、世の中は回るのである。しかし、そのような科学技術の根源は純粋な科学である。もちろん、科学と科学技術の線引きをどこで行うかは難しい問題であり、また明確に分離できるものでもない。しかし、科学技術が社会・経済の根源であるとすれば、科学は人間の思考の根源である。科学技術が人間の生活を支えているとすれば、科学は人間の頭脳を支えているのである。

しかし、科学技術が高度に発達した現代社会においては、純粋な科学が過度に軽視されているように思える。その原因は、科学と科学技術を区別できていないことにある。今一度、科学の本来の意味というものを深く考える必要があるのではないだろうか?「役に立つ」は分かりやすい。「お金になる」も分かりやすい。しかし、「真理を探究する」という心は簡単には分からない。しかし、そのような心を理解できれば、物事の本質を見抜くことができるようになる。そしてそれは、巡りめぐってビジネスにも大きな貢献をするはずだ。iPS細胞のように。

自分に対する言葉なんです。

僕はこのブログで「どうすべきだ!」ということをよく書いている。もちろんそれは自分の主義主張に基づくものであるが、それは誰に対して書いているかと言えば、一番は自分に対して言っている言葉なのである。もちろん、他人に対して言いたいこともたくさんあるが、主義主張や生き方は人それぞれであり、自分の生き方とは反する生き方もあって当然だ。何しろ、現代は多様性が重要な社会なのだから。

最近、僕が自分に課しているテーマがある。それは「心臓に毛を生やせ!自分を守るな!」である。何事にも動じない精神力、そして心に余裕を持った生き方をするためにも、心臓に毛を生やすことは非常に重要だ。そして、何事にも挑戦し続ける生き方をするためにも、自分を守ることは基本的に考えてはいけない。間違っても保身に走るということはあってはならない。

頭が固まっている時というのは、どうしても自分を守ることを考えがちだ。そして身動きが取れなくなる。自由に考えて自由に行動するためにも、自分を守ることではなく自分が前面に出ていく姿勢が重要である。

科学的思想というものは、地球上だけでは収まらない。科学的思想は宇宙をも飲み込むのである。なのでこのような桁違いのスケールの思想を身に着けることができれば、桁違いのスケールの大きな人間になれると僕は考えている。

頭髪は一般的には歳を取るごとに少なくなっていくと言われている。そして多くの人間は心臓の毛も少なくなっていくようだ。しかし心臓の毛を増やすことは不可能ではないと僕は考えている。そしてそのための手段の一つが「自分を守らない」という生き方をすることだと僕は考えている。心臓の毛の豊かさは、人間の器の大きさに比例する。

これからどのような指針に基づいて生きていくか?このような人生の指針を持つことは非常に重要である。そしてそのような指針は、その時々で自分を救ってくれる。自分を守らない生き方が自分を救ってくれるとは意外だが、人生とはこのようなものである。自分を守れば守るほど窮地に陥っていく。なので、自分の身の安全などあまり考えずに徹底的に前に進んで行く方が、人生トータルで考えると圧倒的に多くのものを生み出せるものである。これからもいろいろなものを生み出すために、徹底的に前に進み挑戦し続けようと思っている。

学問の世界を全て制覇する!

学問の世界を制覇するとはなんだかおかしな言葉だが、学問を理解し新しい結果を出して行くとは、学問を制覇して行く道のりだと考えられる。もちろん、学問を制覇したからと言って、学問を意のままに変えられる訳ではない。物理学であれば、自然法則は人間の存在に関わらず存在する訳であって、それらの物理法則を人間が変えられる訳ではない。数学に関しても、数学は人間の創造物だと主張する人もいるが、僕は数学とは一種の実在法則だと思っている。だから人間の存在の有無にかかわらず、数学の定理は存在する。古代ギリシャ時代の数理的哲学者もそのように考えていたようだ。

スペシャリストになることとジェネラリストになることはどちらが重要か?もちろん人によってその答えは変わって来るとは思うが、僕はどちらも大事だと思っている。そしてこの両方を成し遂げる事こそ、学問の世界を制覇すると言う事である。そのためにはやはり専門と言う足場を作らなければならない。そしてその足場を軸に活動の範囲を広げて行かなければならない。決して専門の殻に閉じこもってはならない。

日本では、高校あたりから理系・文系と分けられることが多い。これは日本の悪習だと僕は思っている。なぜ理系・文系に分けられるのかと考えると、それは受験対策を効率的に行うという理由以外にない。従ってその結果、受験至上主義が蔓延する事になる。受験生であれば受験しか目に入らなくなることも理解できない訳ではない。しかしいい歳した大人が学歴だけで人間を判断する事ほど恥ずかしいものはない。そのような人は、物事を多角的に判断するという能力が欠如していると公言しているみたいなものだ。特に日本においては、学歴がその人の知力を表していると勘違いされることが多いが、学歴はあくまで入学時のペーパーテストの成績を表しているだけだ。学校に入学してからどれだけ勉学に打ち込むかと言う事が最も重要なのである。そして卒業してからもその知力を維持し深める事、それが非常に重要である。

人間の人生というものは、多くの人にとっては大人になってからの時間の方が長い。そして知識というものは、学生時代に身に付けた知見を基に大人になってからどれだけ身に付けるかと言う事にかかっている。学問が小学・中学・高校・大学の16年だけで身に付けられると考えるのは大きな間違いである。その16年は学問を身に付ける基盤を固める時代であって、それを基に自分の中でどれだけ学問を昇華させるかと言う事にかかっている。学問と言うものは、学生時代だけで完結するほど浅いものではない。さらに学問を制覇するためには、大学を卒業してからどれだけ深められるかと言う事にかかっている。

コーチは必要か?無用か?

ある記事で、元プロ野球選手の広澤克実氏が、共に高卒プロ二年目の日本ハム・清宮幸太郎選手とヤクルト・村上宗隆選手を評して、「清宮選手はコーチが必要なタイプ、村上選手はコーチが不要なタイプ」と言っていた。確かに共に球界を代表する若手選手だが、タイプとしては全く正反対のタイプの選手のようだ。

野球に限らず、このような事は色々な分野、色々なプレイヤーに当てはまるのではないだろうか?学問においてもこのことは顕著に表れる。大学院生なら指導教官が必要なタイプと不要なタイプ、研究者なら共同研究者のサポートが必要なタイプと一匹狼のタイプ、などだ。昔は大学院生に対しては放置プレイと言われ、好き勝手にやらせることが多かったようだが、現在は指導教官がテーマからゼミまで手取り足取り関わることが多い。そしてそのような「面倒見の良さ」を売りにしている。

しかし先述の村上選手のように、コーチが不要なタイプ、指導教官が不要なタイプのプレーヤーも少なからず存在する。そのようなプレーヤーに対しては、そのようなコーチや指導教官の指導はむしろ害悪でしかない。自分で明確な構想・ビジョンを持ち、それに向けて自力で進もうとしているのに、コーチは「いや、これはこうだ。こうしなさい。」と横やりを入れてくる。そしてそれに従わなければ文句を言ってくる。極めて迷惑な話である。そのようにして、自力で進もうとするプレーヤーの才能を削ごうとする。

僕は完全にコーチのいらないタイプ、指導教官が不要なタイプだ。はっきり言って、教官の指導なんて害悪以外の何物でもない。院生時代は非常に迷惑な思いをしたものだ。大学学部生時代の指導教官は僕の好き勝手にやらせてくれて非常に感謝しているが、院生時代の(一人目の)指導教官に対しては今でも思い出すのが嫌になるほどだ。(二人目の指導教官にはかなり自由にやらせていただいて感謝している。)

何でもかんでも丁寧に指導すればいいというものではない。それは現在の村上選手が示している。そして僕自身もそれを示さなければならないと思っている。今の時代はあまりにも面倒見が良すぎる。しかしそれが裏目に出ることもある事を十分に知っておかなければならない。自由な発想は、自由な環境から生まれるものなのである。

数学の全貌。

一体人類は数学の全貌のうち、何%を理解したのであろうか?50%か?1%か?あるいは0%か?もし数学の世界が無限に広がっているとすれば、いくら人間が頑張ったとしてもそれは有限なので0%と言う事になる。

しかしこればっかりは現在の人間にはわからない。そして将来、それが分かるかどうかも分からない。はたまた「ゲーデルの不完全性定理」という規格外の定理もあり、「数学の全貌」というものが定義できない可能性もある。

19世紀末、物理学は全て出尽くして、もうやる事はほとんどないと言われていたという。しかしそのような認識を打破したのがアインシュタインの相対性理論であった。そして量子力学がそれに続いて行き、相対論と量子論という二本柱が確立し、物理学はとてつもなく深い世界へと入り込んで行く。

では数学はどうか?数学もその時々、革命的な事象を起こしている。書き出したらきりがないが、20世紀に起こされた最大の数学的革命は、グロタンディークのスキーム論ではないだろうか?その他にも、ミルナーの7次元エキゾチック球面の発見、さらに時代をさかのぼればカントールの集合論も革命的であろう。

現在の状況を見てみると、数学はまだまだ終焉を迎えそうにない。もちろん、部分を見ると完成しそうなものはあるが、それをもって数学の完成かもしれないと思っているのならば、それはその数学者の妄想、あるいは大域的知見のなさなのかもしれない。

ただ、ある時、何となく取り組んでいる分野の全貌を垣間見る時がある。もしかしたらそれも妄想かも知れないが、一瞬世界が広がる時があるのである。そして再び闇へと戻る。しかし一度輝く世界を見ると、研究の指針が確立する。そしてその一瞬垣間見た数学的世界へと近づくことが出来る。数学の全貌は見ることはできないが、数学の一分野くらいはその全貌を垣間見ることは不可能ではないのではないだろうか。