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学問の世界を全て制覇する!

学問の世界を制覇するとはなんだかおかしな言葉だが、学問を理解し新しい結果を出して行くとは、学問を制覇して行く道のりだと考えられる。もちろん、学問を制覇したからと言って、学問を意のままに変えられる訳ではない。物理学であれば、自然法則は人間の存在に関わらず存在する訳であって、それらの物理法則を人間が変えられる訳ではない。数学に関しても、数学は人間の創造物だと主張する人もいるが、僕は数学とは一種の実在法則だと思っている。だから人間の存在の有無にかかわらず、数学の定理は存在する。古代ギリシャ時代の数理的哲学者もそのように考えていたようだ。

スペシャリストになることとジェネラリストになることはどちらが重要か?もちろん人によってその答えは変わって来るとは思うが、僕はどちらも大事だと思っている。そしてこの両方を成し遂げる事こそ、学問の世界を制覇すると言う事である。そのためにはやはり専門と言う足場を作らなければならない。そしてその足場を軸に活動の範囲を広げて行かなければならない。決して専門の殻に閉じこもってはならない。

日本では、高校あたりから理系・文系と分けられることが多い。これは日本の悪習だと僕は思っている。なぜ理系・文系に分けられるのかと考えると、それは受験対策を効率的に行うという理由以外にない。従ってその結果、受験至上主義が蔓延する事になる。受験生であれば受験しか目に入らなくなることも理解できない訳ではない。しかしいい歳した大人が学歴だけで人間を判断する事ほど恥ずかしいものはない。そのような人は、物事を多角的に判断するという能力が欠如していると公言しているみたいなものだ。特に日本においては、学歴がその人の知力を表していると勘違いされることが多いが、学歴はあくまで入学時のペーパーテストの成績を表しているだけだ。学校に入学してからどれだけ勉学に打ち込むかと言う事が最も重要なのである。そして卒業してからもその知力を維持し深める事、それが非常に重要である。

人間の人生というものは、多くの人にとっては大人になってからの時間の方が長い。そして知識というものは、学生時代に身に付けた知見を基に大人になってからどれだけ身に付けるかと言う事にかかっている。学問が小学・中学・高校・大学の16年だけで身に付けられると考えるのは大きな間違いである。その16年は学問を身に付ける基盤を固める時代であって、それを基に自分の中でどれだけ学問を昇華させるかと言う事にかかっている。学問と言うものは、学生時代だけで完結するほど浅いものではない。さらに学問を制覇するためには、大学を卒業してからどれだけ深められるかと言う事にかかっている。

コーチは必要か?無用か?

ある記事で、元プロ野球選手の広澤克実氏が、共に高卒プロ二年目の日本ハム・清宮幸太郎選手とヤクルト・村上宗隆選手を評して、「清宮選手はコーチが必要なタイプ、村上選手はコーチが不要なタイプ」と言っていた。確かに共に球界を代表する若手選手だが、タイプとしては全く正反対のタイプの選手のようだ。

野球に限らず、このような事は色々な分野、色々なプレイヤーに当てはまるのではないだろうか?学問においてもこのことは顕著に表れる。大学院生なら指導教官が必要なタイプと不要なタイプ、研究者なら共同研究者のサポートが必要なタイプと一匹狼のタイプ、などだ。昔は大学院生に対しては放置プレイと言われ、好き勝手にやらせることが多かったようだが、現在は指導教官がテーマからゼミまで手取り足取り関わることが多い。そしてそのような「面倒見の良さ」を売りにしている。

しかし先述の村上選手のように、コーチが不要なタイプ、指導教官が不要なタイプのプレーヤーも少なからず存在する。そのようなプレーヤーに対しては、そのようなコーチや指導教官の指導はむしろ害悪でしかない。自分で明確な構想・ビジョンを持ち、それに向けて自力で進もうとしているのに、コーチは「いや、これはこうだ。こうしなさい。」と横やりを入れてくる。そしてそれに従わなければ文句を言ってくる。極めて迷惑な話である。そのようにして、自力で進もうとするプレーヤーの才能を削ごうとする。

僕は完全にコーチのいらないタイプ、指導教官が不要なタイプだ。はっきり言って、教官の指導なんて害悪以外の何物でもない。院生時代は非常に迷惑な思いをしたものだ。大学学部生時代の指導教官は僕の好き勝手にやらせてくれて非常に感謝しているが、院生時代の(一人目の)指導教官に対しては今でも思い出すのが嫌になるほどだ。(二人目の指導教官にはかなり自由にやらせていただいて感謝している。)

何でもかんでも丁寧に指導すればいいというものではない。それは現在の村上選手が示している。そして僕自身もそれを示さなければならないと思っている。今の時代はあまりにも面倒見が良すぎる。しかしそれが裏目に出ることもある事を十分に知っておかなければならない。自由な発想は、自由な環境から生まれるものなのである。

数学の全貌。

一体人類は数学の全貌のうち、何%を理解したのであろうか?50%か?1%か?あるいは0%か?もし数学の世界が無限に広がっているとすれば、いくら人間が頑張ったとしてもそれは有限なので0%と言う事になる。

しかしこればっかりは現在の人間にはわからない。そして将来、それが分かるかどうかも分からない。はたまた「ゲーデルの不完全性定理」という規格外の定理もあり、「数学の全貌」というものが定義できない可能性もある。

19世紀末、物理学は全て出尽くして、もうやる事はほとんどないと言われていたという。しかしそのような認識を打破したのがアインシュタインの相対性理論であった。そして量子力学がそれに続いて行き、相対論と量子論という二本柱が確立し、物理学はとてつもなく深い世界へと入り込んで行く。

では数学はどうか?数学もその時々、革命的な事象を起こしている。書き出したらきりがないが、20世紀に起こされた最大の数学的革命は、グロタンディークのスキーム論ではないだろうか?その他にも、ミルナーの7次元エキゾチック球面の発見、さらに時代をさかのぼればカントールの集合論も革命的であろう。

現在の状況を見てみると、数学はまだまだ終焉を迎えそうにない。もちろん、部分を見ると完成しそうなものはあるが、それをもって数学の完成かもしれないと思っているのならば、それはその数学者の妄想、あるいは大域的知見のなさなのかもしれない。

ただ、ある時、何となく取り組んでいる分野の全貌を垣間見る時がある。もしかしたらそれも妄想かも知れないが、一瞬世界が広がる時があるのである。そして再び闇へと戻る。しかし一度輝く世界を見ると、研究の指針が確立する。そしてその一瞬垣間見た数学的世界へと近づくことが出来る。数学の全貌は見ることはできないが、数学の一分野くらいはその全貌を垣間見ることは不可能ではないのではないだろうか。

お金と価値。

「お金は価値」である。これは誰もが認めるところであろう。しかし「価値はお金」か?人によってはお金こそ絶対的な価値であり、「価値=お金」と豪語する人もいるであろう。しかし多くの人は、価値は必ずしもお金ではない、価値とお金は重なる部分はあるものの、別物であると認識しているのではないだろうか。

お金と価値は重なる部分がある。あるいはお金は価値の真部分集合であるとも考えられる。しかし本当に大事なのは、お金と価値の重なる部分ではなく、その重ならない部分、すなわちお金ではない価値ではないだろうか。このお金ではない価値というものは、人生の充実感に大きく関わってくる。そしてお金ではない価値を保持しているからこそ、お金自体の価値もより大きなものになる。

お金ではない価値の部分が大きい人は、お金を含めて価値の総量は圧倒的に大きくなると僕は考えている。例えば、人生を懸けるようなものがあれば、それはお金ではないはずだ。しかしもちろん、そこにお金が関わっていても全然良い。お金が関わる、すなわち人生を懸けているものを仕事にすると言う事は、最高にチャレンジングなことである。例え現在はまだお金になっていなくてもいい。しかし将来、その人生を懸けていることが大きなお金となって帰ってくるのならば、それを目標に挑戦し続けるのもいいではないか!

お金は決してバカにしてはならない。しかしお金が全てになってもいけない。お金の威力を存分に発揮しながらも、お金ではない価値を守り抜き、そして謳歌する。これが僕の目指す人生像の一部だ。もちろん、人それぞれ多様な人生像があってよい。人によってはお金が全てだと言う人もいるだろうが、それはそれで良いと思っている。そのような人はお金を得るために大きなチャレンジをしているかもしれない。それはそれでエキサイティングではないか!

僕は学問と言う最大の価値を発見した。それに人生を懸けてみようと心に決めている。紆余曲折あってまだ結果は出ていないが、もうすぐ出せるはず!そう強く感じている。

素敵なパソコン♪

スマホが圧倒的な存在感を示す現在においても、何か作業をするとなるとパソコンは欠かせない。スマホもコンピューターである事には変わりないのでスマホでもできない事はないが、やはり作業効率から言うとパソコンにはまだまだかなわない。

パソコンを買う時、どのような基準で製品を選ぶであろうか?男性ならスペックを重要視する人が多いであろうし、女性ならデザインを重要視する人が多いようだ。僕自身、確かにスペックは非常に考慮するが、最近はそれ以上にデザインを重要視している。そしてもう一つ加えるのならばコスパかも知れない。

作業効率だけを考えるとスペックだけを考えれば良いと思うかもしれないが、しかしデザインは作業効率を上げる大きな要素だ。なぜならお洒落なパソコンを前にして取り組めるかどうかと言う事は効率にも大きく関わるし、さらにクリエイティブな事に取り組むのであればそこでの気分などが大きくパフォーマンスを左右する。さらに人前でプレゼンをするとなると、パソコンのデザイン一つで聴衆の受けるイメージは大きく変わるかもしれない。なので、デザインがお洒落かどうかと言う事は、非常に重要なポイントである。

昨日、新しいパソコンを注文した。「HP Spectre x360 13」というタイプのパソコンだ。なぜこのパソコンを選んだかと言うと、スペック、デザイン、コスパの全てが最高であると感じたからだ。特にデザインは秀逸である。以前のブログで、次はMacを買おうと思うと書いたと思うが、それをも吹き飛ばすくらいのお洒落なデザインである。スペックは、CPU:Core i7、メインメモリ:16GB、ストレージ:1TB SSD、だ。スペックもかなり最強である。そして価格もかなり頑張ってくれている。買う前に実物を見ようと梅田ヨドバシカメラに足を運んだが、その時はまだ他のモデルと迷っていた。しかし実物を見て店員と色々と雑談をした後は、もうこれしかないと即決であった。

パソコンが家に届くのはもう少し後になりそうだが、商品が家に届いたらパソコンをレビューしてみようかと思う。ああ、商品が届くのが待ち遠しい・・・。

数学総動員!

数学は大きく三つに分けられる。「代数学」「幾何学」「解析学」だ。しかしこのような分類は人間が便利上勝手に作ったものであって、それらの間に明確な壁がある訳でも何でもない。従って、それらの間をまたぐような分野ももちろん存在する。「代数幾何学」などはその代表であるが、それ以外にも「解析幾何」「代数解析」さらには「数論幾何」などもある。また、例えそれらの一分野を極めるにしても、他分野の知識は不可欠だ。

大体、一つの分野を細分化して突き詰めて行くには限界がある。その限界を突破するのも一つの手ではあるが、他分野を融合するのは最も賢明な手だと思える。ポアンカレ予想(幾何化予想)は位相幾何学の問題だと考えられていたが、ペレルマン博士は微分幾何学の技術を使って解いてしまった。そのような例は多々ある。代数学の殻に閉じこもってしまえば、代数学の問題さえ解けなくなってしまう。大きな問題ほど、他分野の技術を導入して初めて解決可能になる。

数理物理と言う分野は、非常に曖昧な分野だ。何が曖昧かと言えば、人によって数理物理に対する定義はまちまちだし、また取り組んでいる問題もまちまちだからだ。“数学的”な物理と考える人もいれば、“物理的”な数学だと考える人もいる。しかし一つ確実に言えることは、数理物理は数学と物理にまたがる学際的な分野だと言う事だ。従って、数理物理の研究に取り組むためには、学問の壁と取り払わなければならない。代数も幾何も解析も関係ない。使えるものは全て使うのだ。それこそ「数学総動員」である。

この様に考えると、超学際的な分野である数理物理は、非常に大きな可能性を秘めた分野である。数理物理は、代数学と幾何学と解析学を物理と言う舞台の下で融合してしまうかもしれない。とてつもなく大きな野望であるが、そのような事を考えても良いのではと思う。ここでは数学と物理を例に取り上げたが、化学や生物学や地学、さらには社会科学や哲学においても分野の壁を徹底的に取り払い、超学際的に攻めて行くことが必要なのではないかと強く思う。

それは受け取る側が決める事だ!

近年、「何とかハラスメント」と言う言葉が度々取り上げられている。セクハラ、パワハラ、スメハラなどいくつものハラスメントが存在する。しかしそのようなハラスメントを加える人間の多くは、それがハラスメントだとは認識していない。逆に認識していないからこそハラスメントが横行するのだとも思う。

しかし近年の社会風土を見ると、このようなハラスメントが行き過ぎではないかと感じることもたまにある。当たり前の事だが、ハラスメントと言う言葉を逆手にとって、他人を陥れるのは論外だが、一部ではそのような事も存在しているようだ。

ではそもそも、何を持ってハラスメントが存在すると言えるのか?それは受けた側が不快に感じているかどうかだ。決めるのはあくまで受け取る側なのである。例え加えた人間がそのような認識が無くても、受けた側が不快であればハラスメントは成立する。「そのようなつもりはなかった」は基本的には通用しない。もちろん、常識的な範囲であれば考える余地はあるが、大抵は周りから見ればハラスメント的な要素は確認できる。

危害を加えて「そのようなつもりはなかった」と言い訳をするのは、人間としてもかなり卑劣である。しかしそのような弁解は社会でかなり横行している。これは普段の冗談にも当てはまる。冗談を言ったつもりでも、それを受け取る人が冗談だと受け取らなければそれは冗談ではないのだ。さらにたちが悪いのは、言った方が「おまえは冗談も通じないのか?」と開き直ることである。相手に通じない冗談を言い、それが通じない責任を相手のせいにする。これは非常に困った人たちである。冗談かどうかは受け取る側が決める事である。冗談だと言いたいのならば、言葉使いのスキルと常識的な知識、そして言う人の人間性を上げなければならない。

評価とは基本的に周りの人が行うことである。もちろん、自分の信念の正しさを自分で確認する分には、自分で評価すればよい。しかし人間のコミュニケーションというものは、基本受け取る側が評価するものである。自分の起こした行動を自分で評価するのは、多くの場合自分のエゴでしかないのだ。

一流とは?

社会では「一流とは何か?」と言う事がしばしば取り上げられる。僕のブログでもたまに一流と言う言葉を取り上げている。ではそもそも一流とは何か?

一流と言う言葉は、大きく二つの対象に使われる。一つは物に対して、もう一つは人間に対してだ。ブランド品に対して、一流ブランドだとか二流ブランドだとか言われることが多い。僕自身、ブランドに対しては全く否定的ではないし、確かに一流ブランドというものは物としても本当に一流であることが多い。しかし勘違いしてはならない事は、一流ブランドを持っている人が必ずしも一流の人間ではないと言う事だ。どのような物を持ち、どのような物を身に付ければ“外見的”に一流なのか?それはその人にふさわしい物を身に付ける事である。だからエルメスを身に付けている婦人より、ユニクロを着ているアクティブな女性の方がはるかに一流で魅力的だと感じることも多い。もちろん、精力的に活動し、それによってお金を稼ぎ、そのお金でエルメスを買って身に付けているのならばその人にふさわしく、一流の物を身に付けた一流の人間だと言える。ある意味、一流ブランドは人を選ぶ。それはお金を持っているかと言う事では全くなく、その人の生き方・人間性が一流か?と言う事である。

では一流の人間になるためにはどうすればいいか?決して一流ブランド品を持っていたり稀有な体験をしているから一流という訳ではなく、一流の人間が一流の物を身付けているから価値があるのである。お金を持っている三流人間が一流ブランドを身に付けている事ほど痛いものはない。

人間が一流かどうかと言う事は、生き方・人間性・思想に由来する。常に人生に対して挑戦し続けているか?人に対して思いやりを持ち、困っている人を助けることが出来るか?深い思考によって物事を考えることが出来るか?一流とはそのような事である。もちろん僕自身がそのように完璧な人間か?と言われれば完璧ではないが、自分が出来る範囲の事だけでもそのような人間に近づきたいと思っている。

生き方を見れば、その人が何流かは大体分かる。見かけだけの張りぼてか?あるいは外見からは想像できないくらいの精力的な生き方をしている立派な人間か?もちろん、人間性も外見も両方立派であれば非常に素敵だ。

一流の人間は大体仕事にこだわっている。二流は趣味にこだわる。一流は趣味さえも仕事にしてしまうたくましさがある。ただ、決していくら稼いでいるかと言う事が問題である訳ではない。趣味と仕事は覚悟が違うと言うことである。覚悟を持って物事に取り組めているかと言うことである。

ゴルフ・全英女子オープンで渋野日向子選手が優勝したが、彼女は常にスマイルを出し続け、考え込んでいる様子は微塵も感じさせなかった。そこに一流を超える“超一流”を感じる。超一流は、生き方でも魅せ、結果でも魅せるのである。もちろん、そのような結果を出せる選手は一大会一人だけに限られる訳だから、そんなにボコボコ出現する訳ではない。しかし人間性は誰でも磨ける。まずは自分自身の人間性で魅せられる人間になることが目指す所ではないだろうか?もちろん人間であるからには、良い所もあれば良くないところもある。良くないところを矯正しても魅せる人間にはなれない。良くないところがあっても、良い所をさらにレベルアップし魅せて行くことが大事ではないだろうか。

英語力で評価されるのは二流だ!

女子ゴルフの渋野日向子選手がゴルフ・全英女子オープンで優勝した。渋野選手のいつでもスマイルが話題になったが、優勝スピーチも見る者を惹きつけた。渋野選手の優勝スピーチの英語はお世辞にも上手いとは言えないし、はっきり言って中学レベルである。しかしそのような中学レベルの英語スピーチを、「英語力が低レベルだからダメだ」と言う人はおそらくいない。なぜなら、本業であるゴルフのプレーでしっかりと世界一と言う結果を残しているからだ。彼女の上手くない英語力がゴルフの評価を下げることは全くないのだ。それどころか、最後に笑顔で放った「サンキュー」と言う一言が彼女の魅力をより一層強いものにした。

しかし世の中では、何かと「英語力が重要だ。英語力を身に付けないといけない。」と言われている。極端な場合では、「英語が出来ないと全てがダメだ」と英語力だけで人間を判断されることもある。しかし英語力は何のために付けるのか?それは、自分が取り組んでいる事をよりスムーズに進めるためだ。言い方を変えると、英語力は補助でしかないと言える。だから本業で圧倒的な力を見せることが出来れば、英語力などはどうでもよいのである。もし英語力で自分の力を評価されているのならば、それは本業で力を出せていない、自分が二流であると言うことである。

以前、ノーベル物理学賞を受賞した益川敏英博士は、英語が大の苦手であったと言う。確かノーベル賞授賞式でのスピーチでも、博士は日本語でスピーチしたはずだ。しかし博士が英語が話せないと言う事によって評価が下がったなどと言う事は聞いたことがない。それは彼の研究力が一流だからである。

渋野選手はこれから世界を転戦すると思われるので、英語力もこれからメキメキと付けて行くであろう。そして彼女の英語力はこれから彼女のプレーを大きく助けて行くと思われる。しかし彼女の評価は英語力でされるのではなく、ゴルフのプレーによってされる。なぜなら彼女は一流のゴルフプレーヤーであり、英語力ではなく、プレーと彼女自身の人間性に魅力があるからである。

「楽しい」の先。

今、何かに真剣に取り組んでいる人は多いだろう。ではなぜ、その対象に真剣に取り組むのか?

「好きこそものの上手なれ」と言う言葉があるように、楽しんで物事に取り組むことは非常に大切だ。そして人によっては、楽しむ事が一番の目的だと言う人も多いだろう。それも非常に素晴らしい事である。物事を極めて行くと、どんどん楽しくなる。その対象を理解し上手くできるようになれば、どんどん楽しくなる。ある意味、楽しさを感じると言う事は一つの到達点だと言えるかもしれない。

しかし物事を極めて行くと、その「楽しい」の先がある事に気が付く。スポーツに関しても学問に関しても、二流と一流の違いは、その先に気付くことではないかと僕は思っている。オリンピックで金メダルを取った選手が「非常に楽しめました」と言う事がよくある。その言葉は本当であろう。しかし、その金メダリストは、確実に「楽しいの先」を見通している。楽しいの先を見通しているからこそ、単に「楽しい」だけでは終わらせず、そのさらに上を目指せるのだ。テレビで金メダリストが言う「楽しめました」と言う言葉を聞いて、頂点に立つためには楽しむ事が全てだと勘違いする人がいるが、楽しむ事は必要条件であって、十分条件ではない。

では、「楽しい」の先とは何か?これは非常に難しい問題である。しかし一つ言えることは、本質を見ることに関係していると言う事である。本質を理解することは最大の喜びであり、また「楽しい」以上の快感である。しかし簡単には本質は理解できない。やはりかなりの修業を積まなければならない。そのような修業は決して楽なものではない。もしかしたら楽しくも何でもないこともあるかもしれない。しかし嫌ではないのだ。進んでそのような状況に身を置こうとしてしまう。なぜそのような状況にわざわざ身を置こうとするのか?それは「楽しい」の先を見ているからだ。「楽しい」の先とは何か?これは誰かが教える事ではなく、自分で気付くことだ。そして自力でそれを見通すしかない。

しかし初めは、楽しむという事が非常に重要だ。スポーツや学問を始めた子供なら、楽しむ事以上に重要な事はない。しかしそれを真剣に究めようと思うのならば、「楽しい」の先に気付くことは避けられないと思う。それに気付けば、あとはそこにたどり着くまでのビジョンを基に細部を詰めて行くだけだ。

心臓に毛を生やす。

僕は人生を積極的に、そして攻撃的に挑戦して行こうと前進している。そのような姿勢と安定は相反するものかもしれない。僕自身も安定を望んでいる訳では全くなく、むしろ人生に安定を求めたら自分の人生は終わりだと思っている。

しかし、そのように挑戦するためには、精神的には圧倒的に安定していることが必要だ。どんなことにも動じない精神力、そして圧倒的な余裕を身に付けなければならない。僕自身、数年前と比べると、かなり精神的な安定と余裕を身に付けて来れたと思う。しかしまだまだ完全ではない。僕の目指す所にはまだまだ達していない。しかしこれから、その目指す所にある精神力まで達する自信はある。そのためにこれからは心臓にどんどん毛を生やしていかなければならない。

心臓に毛を生やすとは面白い表現だと思うが、何なら脳にまで毛を生やして行こうと思っている。もちろん、頭に毛を生やし続けることも非常に重要である。精神は脳に宿る。ならば脳に毛を生やすと最強ではないか!心臓に毛を生やすことが出来れば、脳にも毛を生やすことが出来る。そのような毛だらけの精神を身に付けるために精神力を上げて行こう。

今現時点ではいろいろと苦しい事には間違いないが、ただ非常に充実している。目の前には明るい未来しかない。ただその明るい未来を完全に実現させるためには、まだまだ心臓に毛が足りない。挑戦し続けるために、どんどん精神的余裕を身に付けて行かなければならない。僕がまず実現すべきことはそのような圧倒的な精神力だと非常に感じている。そしてそれは実現可能だと確信している。

本の読み方、「専門書は2回読む」。

僕は平均よりはかなり本を読んでいる方だとは思うが、それらの本を読んで行くうちに自分なりの本の読み方というものを会得してきた。一般書に関してははっきり言ってどうでもよいと思っているので、軽く読む時もあればじっくりと読む時もある。そんなに読み方にこだわりは持っていない。

問題は専門書(論文を含む)の読み方である。僕は専門書をかなり買いためているので、はっきり言って全ての専門書を読破するのは不可能だ。そもそも専門書というものは読破するためにあるのではない。本に書かれている知見を基に、自分の構想を実現するためにある。だから専門書の読破にこだわることは無意味だ。しかしもちろん、じっくりと読破する専門書もある。しかし多くの専門書は、必要な知見を修得すれば、それで十分なのである。必要ない記述の所を読むのに力を入れるのなら、その力を他の専門書の必要な部分に向ける方が良い。

昔、僕の恩師の大学教授が、「本を最初から最後まで読もうとするのは素人だ。」と言っていた。学生のうちはどうしても「読破感」を求めてしまうので、最初から最後まで読もうとする。途中で読むのを止めるのは、必要な所を修得したからではなく、リタイヤが原因であることが多い。まあ、リタイヤすると言う事は、よっぽど無意味で退屈だからなのかもしれない。本当に必要だと思えば、何が何でも読み続けようとするものだ。

専門書を読む時は、一度目はかなり速いスピードで読み飛ばす。そして全体の概観を掴むことを重視する。数式の厳密な計算にもこだわらない。そして二度目はじっくりと細部を詰める。もちろん、計算も全て確認する。一度目の読書で概観を掴んでいれば、二度目は意外とすんなりと入るものだ。一度目の読書で概観を掴んでいるかいないかで、理解は大きく変わる。一度目から熱心に細かい計算をしていれば、それが何のための計算かわからなくなることがある。自分のやっている計算の意味を掴むためにも、一度目の速読は必要だ。

僕の専門書の読み方はこんな感じだ。もちろん、このような僕のスタイルは一夜にして確立された訳ではなく、長い時間をかけて確立されたものだ。そして僕に合っているスタイルが、他の人に対しても合っているとは限らない。時間をかけて、自分独自のスタイルを確立することが重要なのである。

必要なのは技術か?アイデアか?

日本では技術力が過度に高く評価される傾向がある。もちろん高い技術力がある事は素晴らしいが、ただ技術力があるだけでは何も成し遂げられない。技術というものは何かに応用して初めて威力を発揮するのであって、その「どのように応用するか?」というアイデアなしでは何も成し遂げられない。

逆にアイデアだけでも何も成し遂げられないし、学問で言うと、アイデアだけでは単なる素人の妄想でしかない。アイデアは具体的に構成して初めて意味を持つ。その具体化は技術によって成し遂げられる。

すなわち必要なのは、技術とアイデアの双方なのである。この二つは車の両輪である。片方が欠けても前に進まない。ただ、役割分担と言う事は出来る。アイデアを出す人と技術を持っている人が融合すればいい。もちろん、一人でアイデアと技術の両方を持っていれば理想的であるが、なかなかそのような人はいない。企業も同じで、良いアイデアと高い技術力の双方を持ち合わせている企業は少ない。

今日本で問題になっているのは、高い技術力を持ちながらも良いアイデアを出せない事である。日本の技術力は誰が見ても世界トップレベルである。しかし、現在非常に威力のある分野であるスマホ製品を見ても鳴かず飛ばずである。僕自身も日本企業は高い技術力を持っていると思いながらも日本製品に魅力を感じず、アップルのiPhoneを愛用している。日本企業がiPhoneのような素晴らしい製品を作ってくれればどれだけ良いかと思うが、現状を見るとそれは期待できない。日本企業は高い技術力を持ちながらも、アイデアは他国企業の後追いばかりである。

数学においても、計算力が抜群にあろうが豊富な理論的知識があろうが、それをどのように発展させるかと言うビジョンがなければ新しい理論を構成することはできない。もちろん、数学以外の学問においても同様であろう。学生のうちは、熱心に勉強してたくさんの知識を身に付ければ良い。本もたくさん読めば良い。しかし、学生を卒業した後はそれらの知識を基にアウトプットをしていかなければならない。そのためには、読書をして技術を付けるだけでは何の進展も望めない。アウトプットするためには、はっきり言ってビジョンなき読書は無力なのである。アイデアを基に実行しなければ何も生み出せない。今、日本が陥っている「技術バカ」ではなく、また「アイデアのみのド素人」でもなく、「技術とアイデアの双方を兼ね備えた実行家」として遂行することが必要なのである。

本質的には、一人の力だ!

日本では何かと「みんなで力を合わせて」と言う言葉をよく使われる。確かにたくさんの人間の力が必要な事は多いが、そのような場合でも実質的には一人の力が大きくものを言っていることが多い。例えば二人で共同作業を行う時、貢献度が50対50なんてことはありえない。ほとんどの場合90対10、あるいは99対1という割合だ。大体、50体50で行うことは一見公平に見えても、実際は非常に効率が悪い。それぞれの力を最大限に発揮するためには、どうしても90対10にならざるを得ないのだ。

90対10なら、もちろん報酬も90対10にすべきだ。しかし、このような貢献度を正確に測るのは難しい。正確に分かるのは、二人、あるいは何人でやったという人数である。そうなると、この正確に分かる人数という数字で報酬や評価を等分割することになる。この様に、「見かけ平等」という不平等な状況があらゆるところで作られることになる。

それが嫌なら一人でやるしかない。しかし一人で全部やると言うのは、体力的負担以上に精神的負担が大きくのしかかる。しかしそれに耐えられるのならば、一人でやると言うのはなかなか良い選択だ。自分の目指す所へ、自分のやりたいように進めることが出来る。もちろん金銭的制約、そして社会的制約から完全に自由である訳ではない。取り組む対象を乗り越えると同時に、制約を乗り越えるという二つの壁を乗り越えなければならない。

多人数でやる場合、貢献度は決して等分割ではない。自分の力を合わせたからできたのだと言う人もいるが、ほとんどの場合一人の力に乗っているだけだ。そろそろ何でもかんでも「みんなで力を合わせて」という発想を止めたほうが良いかもしれない。社会とは多くの人間の営みの集まりであるが、そこを重視しすぎるあまり、一人で成し遂げるという発想が希薄になりすぎている。人間、「自分一人の力で、出来うる限り成し遂げる」ということも非常に重要である。そのような行為を繰り返すことによって、独力を身に付けなければならない。

人の言う事は真に受け取らない方が良い。

落合博満氏が中日のルーキーの根尾選手に対して、「人の教えを真に受け取らない方が良い」と言ったという。僕はこの意見に対しては非常に同感であり、僕自身もこれまで人の意見にできるだけ頼らずに生きてきた人間だ。野球界ではこれまでコーチの教えを真剣に受け入れ、そして潰れて行った人が山ほどいると言う。これは何を意味しているのか?それは「自分の事は自分が一番良く知っている」ということだ。そして無批判に人の意見を受け入れるのではなく、自分の頭で徹底的に考えて試行錯誤することが重要だと言う事である。

それは学問に対しても同じである。小学生や中学生ならともかく、大学で学問を学び研究するのなら、人の教えなど基本的に聞かない方が良い。そもそも学問と言うものは、自分の頭で思考して身に付けられるものだ。だから人から教えてもらうと言う行為は最終手段にした方が良い。一般的には、「人の意見をよく聞け!」とよく言われるが、それは平均的レベルの人間の話であって、もし頂点を目指すのならばむしろ「人の意見を聞くな!」あるいは「人の意見に左右されるな!」と言う事である。ただしこれはあくまでも、トップを目指す人間に対してのことである。多くの人間にとっては、人の意見を聞く方がはるかにメリットが大きく効率的である。

当たり前の事だが、プロ野球選手というものは野球界の頂点に君臨する者である。さらに根尾選手はドラフト一位という、ルーキー選手の中ではトップレベルの選手である。そのような選手に対しては落合氏が言うように、人の意見は真に受けない方が良いという意見は最もである。しかしそのような意見は、「自分の頭で考えろ!」と言う事でもある。

何もわがままで人の意見を聞かない訳ではない。自分の頭で考えることを重視しているからこそ、あえて人の意見を受け付けないようにしているのである。もちろんそのような姿勢で極めることは、かなり非効率である。しかしトップを目指したり大事業を成し遂げるためには、そのように非効率的ながらも徹底的に自分の頭で考えることが必要になる。現在の世の中は「効率!効率!」と効率性重視一辺倒である。そのような社会では小者しか生まれない。ただ生きて行くだけなら、そのような生き方の方がはるかにメリットが大きいだろう。しかしそのような生き方とは全く違った価値観を持った人間も世の中にはいる。圧倒的な少数派であるが、人の意見を受け付けず徹底的に自分の頭で考える。そのような非効率の極みの先に、自分の目指す世界が存在するのである。

自分を守らない。

生きて行くにあたって、自分を守ることは非常に大事かもしれない。ただ自分を守ることに専念しすぎると自由な身動きが取れなくなってしまう。さらに思考パターンが固まってしまい、頭脳からも自由さを失ってしまうことになる。

そこで僕がたどり着いた結論は「自分を守らない」と言う事だ。何かに取り組もうかどうかと考えた時、まずは自分を自由にする。もしそれをすることによって自分が犠牲になったとしても、それで良いのだ。実際はほとんどの場合自分が犠牲になることはない。大体97%は上手く行くのだ。犠牲になる3%の確率に恐れて動かないのはおかしい。だって97%は成功するのだから。もし残りの3%になれば諦めれば良い。そのような割り切りが重要である。

そもそも3%の失敗を過度に恐れることは、多くの場合ほとんどメリットはない。それどころか97%の成功の確率を信じて動き続ける方が、トータルで見るとはるかに得るのもが大きい。さらに3%の失敗が起こったとしても、大抵の場合人生が終わる訳ではない。まあ、終わったら終わった時の事である。それくらいの楽観性を持って進みたいものである。

もちろん、3%の失敗を恐れて動かないのならば、それはその人の自由である。しかしそれらの人は、97%の成功を目指して行動をする人が得るものを得る権利はない。ただそれだけである。もしかしたら、成功は50%かもしれない。いや、時には成功が3%の時だってある。しかしその可能性に懸けるのも悪くないと思う。とにかく自分を守ることを優先することだけはしたくない。そのためには自分をさらけ出すことが必要だ。

どこまで自分を守らないで進むことが出来るか?そのような挑戦的な人生があってもいいと僕は強く思っている。

初めの一撃だけは、データでは語れない。

世界で初めて物事を成し遂げようとするとき、もちろんデータなどは全く存在しない。しかしそのような中でも強引に他のデータを持ち込み、何が何でもデータから判断しようとする人たちも多い。そのような人たちはもちろん、世界で初めての事に成功するどころか、取り組む事さえできない。もし世界で初めて成功を成し遂げたいと思うのならば、データ以外からの判断を下さなければならない。

世界で初めて本格的スマホを世に出したアップルだって、それが世に受け入れられるかどうかの判断を過去のデータからは下せなかったはずだ。とは言え、ジョブズは成功するはずだという確信は持っていたはずだ。過去のジョブズの仕事を見ると、常識を覆すような仕事がいくつかある。そのような常識破りの成果を挙げるためには、データではなく論理的な判断、そしてこれまでの経験から来る直感を信じなければならない。

しかし、この直感というものが曲者である。どうすれば直感を磨けるのか?そのようなマニュアルは世界のどこにも存在しない。なので直感を身に付けようとしても、多くの人はどのようにすれば直感を身に付けられるか全くわからない。しかし直感を持っている人は、どのようにすれば直感を身に付けられるかが意外とわかっている。直観がある事が生まれつきの才能である訳ではなく、どのようにすれば直感を身に付けられるかと言う事が理解できることが才能なのである。

初めの一撃をどのように食らわすか?それを判断するためにはかなり先までのビジョンを保持しなければならない。そしてもちろん大きなリスクも取らざるを得ない。そのようなリスクを取るためには、それを上回る確信を持たなければならない。確信もなく大きなリスクを取りに行くのは単なる暴挙であり、パチンコなどのお金のギャンブルと何ら変わりはない。人生のギャンブルを行っている人は、意外と確信を持っているものだ。ただ周りから見るとギャンブルに見えるのかもしれない。リスクを取ることが大事なのではなく、リスクを取りに行くための確信を持つことが非常に重要なのである。そのためには、経験に基づく鋭い直感力を養わなければならない。

着々と進んでいる。

着々と進んでいる。そう言いたいところだが、少し停滞気味である。一つ目の到達地点は明確に見えているのだが、進んだり進めなかったりして、なかなかスムーズには行かないものだ。

そこでこの夏、少し気分転換に旅行に行くことにした。僕は旅行が好きなわけではないが、少し信州まで足を延ばそうと思う。この旅行はただ遊びたいという訳ではなく、少しでも研究の打開点を見つけたいという思いからである。もちろん、旅行に行ったからと言って研究が進むわけではないとは思うが、停滞気味なら何らかの違ったアクションを取ることが必要だ。何かが変わる30%くらいの可能性に懸け、三日くらい思いっきり羽を伸ばし、それなりにワインを飲んだりしようと思う。

過去の栄光ではなく・・・。

人間とは未来に向けて生きて行くものだ。もちろん過去が全く関係ないわけではないが、やはり過去がどうあったかと言う事よりも未来をどうするかの方が圧倒的に大事だ。僕自身、過去がどうあったかはともかく、過去の栄光などには全く興味がないし(栄光などなかったかもしれないが)、過去の栄光ほどくだらないものはないと思っている。それよりも未来に栄光を作らなければならない。そしてそれを一つ成し遂げれば、また次に成し遂げるべきことを成し遂げるために前を向いて進まなければならない。

過去は変えられないが、未来は変えられる。変えられない事にこだわっても仕方がない。過去の栄光にこだわると言う事は、ある意味未来に栄光はないと言う事だ。なので、過去の栄光にこだわる人間ほどくだらないものはない。特に一番くだらないのは、過去の受験生時代の事にこだわる人だ。もちろん、受験に合格することは良い事であるが、それは過去の一瞬の出来事であり、大事なのはそこでの勉強を生かし、合格して入った学校でいかに頑張るかと言う事である。そしてそこでの努力を基に、未来を良い方向へと進めることである。

スポーツ選手でない限り、年齢はほとんど関係ない。いや、50歳を過ぎてもプロの第一線で活躍するキングカズのような選手もいる。キングカズを見ていると、年齢を言い訳にすることがいかにくだらない事かがわかる。確かに、スポーツでも学問でも若手の方が成果を出しているような統計はあるだろう。しかし統計がどうと言う事と、一人の人間がどうだと言う事は全くの別問題だ。なので統計にむやみに振り回されないことが大事だ。

未来の自分は今の自分にかかっているのであって、過去の自分は関係ない。いや、確かに過去の自分が未来に影響を与えることもあるだろう。それは事実だ。しかしそのような事にこだわっていれば、未来の自分を固定化してしまうことになる。ニュートン力学的には、今の状態によって未来はすべて決まってしまう。しかし、量子力学とは確率的であるし、不確定的な揺らぎもある。従って未来は固定化されていない。人間の人生というものは量子力学的だ。そのような量子力学的な人生の未来をどうするかは、今の状態ではなく、今の意志や思考にかかっている。

お金の価値。

お金の価値とは何か?と言う問いに答えることは意外に難しい。1000円は誰が見ても1000円だろ!と言いたくなるが、そもそもその1000円のお金とはどれだけの価値を持ち、何を意味するのか?と言う事は、現在の経済学をもってしても意見が分かれるところだ。昔は金本位制という制度によって、お金の価値が(貴金属の)金によって定義されていた。では金本位制が廃止された現在にとって、1000円という紙幣は何を意味するのか?明確な答えは確立していないように思える。

経済的なお金の価値とは別に、自分が考える自分にとってのお金の価値というものも人それぞれだろう。しかし次のように大きく分けられると僕は考えている。一つは千円はどのように手に入れたお金でも同じ千円だという考え。そしてもう一つは、同じ千円でもどのように手に入れたかによって大きく価値が異なるという考え。このどちらであるかと言う事によって、生き方も人生観も大きく変わると僕は思っている。僕は明確に後者の方である。

人生に基礎理念を打ち出し、そしてそれに基づいて何に取り組むべきか?と考えた時、お金に対する考えは重要になる。基本的には大きな金額のお金の方が価値があるが、ある時にはそれが必ずしも正しいとは言えないことがある。それは億万長者が(幸せな確率は高いかもしれないが)必ずしも幸せではないと言う事からもわかる。そして物事に対する感じ方も大きく変わるだろう。それが良いか悪いかは人それぞれの判断によるので、結論を断定することはできないが。

沢山のお金があればそれはそれで良い。ただ、そのお金の価値を満喫することが重要である。一億円あったとしても、それが百万円くらいの価値しか感じられず、百万円分の幸せしか感じられないのなら、それは百万円でしかない。逆に、百万円のお金で一億円に匹敵する価値を感じることが出来れば、それはお金を精神的にコントロールする最高の技術である。

お金の価値は、一つは社会経済に中にあり、一つは自分の思想の中にある。この二つにまたがるお金の価値を自分の中で上手くコントロールすることは、お金の価値を最大限に発揮するためにも非常に重要な事であろう。

「お金は未来のビジョンのためにある。」本田圭佑氏の言葉。

雑誌「GOETHE」2019年8月号(幻冬舎)に書かれていたサッカー選手・本田圭佑氏の言葉である。

人はなぜお金を稼ごうとするのか?この答えはいろいろとあるだろう。普通に生活するのにもある程度のお金は必要だし、物欲があればそれを買うためにもお金が必要だ。人と交際するのにもお金は必要である。本田氏が冒頭の雑誌で述べているように、資本主義国家で生きているからには何かしようと思えばお金が必要になる。本田氏は本気で世界平和を成し遂げようと行動しているようだが、それを成し遂げるためには膨大な資金が必要だ。

そのような中で一番重要なお金の使い道は、未来のビジョンのための投資だ。しかしこの事の重要さに比して、これを最も重要視している人は多くはないように思える。世の中では、特に日本では、子供の頃から貯金することが重要だと刷り込まれている。だから大人になっても、老人になっても、いざと言う時のためにとことん貯金しようとする。もちろん、無駄遣いするよりかは貯金する方が少しは有意義であろう。しかしそもそもお金は何のためにあるか?と考えた時、お金は貯めるためにあるのではなく、使うためにあると言えるのではないだろうか?しかし貯蓄のスキルは高いかもしれないが、お金の使い方のスキルを考えた時、どう使って良いかわからない人が少なくないのではないだろうか?

特に未来のビジョンのための投資と考えた時、いったいどれだけの人がこれを実行できているだろうか?自己投資と言った場合、ただ単にやみくもにセミナー参加への投資や資格取得のための投資しか出来ないようであれば、それは半分は違うと僕は思う。もちろん、そのような投資でも理に適ったものもたくさんあるので否定はしない。問題はそこにビジョンがあるかどうかだ。ビジョンなき自己投資はほとんど意味を持たない。

僕が今現在、お金をとことん自己投資しているのは、ビジョンを実行し成し遂げるためである。高価な専門洋書なども爆買いである。なぜそこまでできるかと言うと、明確なビジョンが描けているからだ。今はそのビジョンの中身を一つずつ埋めて行くことが重要である。そしてさらにその先のビジョンを描いて行く。本代圭佑氏が言うように、お金は未来のビジョンのためにあるのである。しかしたまには無駄遣いするのも悪くないと思う。下手な自己投資や意味のない貯蓄をするくらいなら、気分発散のためにお金を使うのも悪くない。しかし「未来のビジョンのための投資」と言う軸はぶれてはならない。そこをしっかりと死守すれば、一時的には苦しくなっても、人生を通じて見た時に非常に意義のあるお金の使い方が出来るのではないだろうか?

本という武器。

人間が生きる上で、何らかの武器は必要だ。それは仕事で使う道具であるかもしれないし、日常生活を送る上で必要不可欠の道具かもしれない。僕にとっては本が生きる上で必要不可欠な武器だ。だから本にかけるお金は惜しまない。少しでも必要になると思う本は手が届く範囲に置くようにしている。そのような環境が人生を次のステージへと進むめるのに大きな力になると思っているからだ。

とは言え、単に読書をするだけの本はそんなに必要ではない。もちろん僕も読書はするが、読書は僕にとって日常からの逃げである。数学や物理が思うようにはかどらない時に、気分発散的に読書をする。だから調子が良い時は読書をしない。読書をするのは、何もしないよりは読書でもする方が良いだろうと思うからだ。もちろん読書も非常に面白い。最近だと中公新書やちくま新書を読むことが多い。中公新書やちくま新書には知的好奇心を刺激するような本が結構出されていて面白い。

その一方、哲学書を読むことはめっきり減った。それは最近、哲学書に幻滅しているからだ。特にドイツ哲学などの、いわゆる本格的学問としての哲学書に失望することが多い。彼らは一体何をしたいのか?どう考えても科学的でなく、自己満足しているだけに思えて仕方がない。もちろん哲学は非常に重要であり、大きな意味を持っている。しかし学問的哲学者の議論には、本来の「生きるための哲学」という観点が大きく欠落しているように思えてならない。

多くの本を読むのも良いが、まずは一冊バイブルとなるような本を手元に置くと良い。もちろん軽い本ではなく、自分が打ち込むべき分野の専門書が良いだろう。そしてそこからさらに必要となる本が出てくれば、そこに加えて行けばよい。そうして行けばいつの間にか数百冊とたまってしまうこともあるが、そこまで行く必要もないとは思う。まずは一冊噛み応えのある本を手元に置き、それを武器として人生を進めて行くのが良いだろう。

数学とは遊び、ただし道楽では決してない!

僕が大学院時代にお世話になった数学者(世界トップクラスの数学者である)が、「だからこの遊び(数学)はやめられない」と言っていた。数学は一つの学問ではあるが、どのような学問にもゲーム的要素はある。だから学問をゲーム感覚で遊ぶことは重要であり、そのような遊びの中から重要な結果が生まれるものである。ただ、遊びとは言っても、決して道楽ではない。時には苦しい時もあるし、精神的に追い詰めないと乗り越えられないことも多々ある。

ビジネスというものも、ゲーム的要素は大きくあるのではないかと思う。だからビジネスをある種のゲームと捉えることが出来る人は強いのではないだろうか?もちろんビジネスにはお金がかかっている訳だから、失敗すれば大きな損失を被ることになる。だから軽い気持ちでは出来ない。ビジネスが道楽とは違うと言われる所以はそのような事だからである。

数学やビジネスと言った遊びの魅力に惹き込まれれば、テレビゲームや趣味などの遊びなど取るに足らないものだと感じてしまうだろう。もちろんそのような遊びをするのもよいが、数学で遊んでいる方が圧倒的に楽しいしやりがいもある。そして数学の中の未開の知に足を踏み入れることは、スリリングでありエキサイティングである。そしてそこで開拓した数学が、100年後の世界を大きく変えることになるかもしれない。ただ3年後という訳には行かないので、そこが少し寂しい所である。

世の中には人生を懸けるべき遊びというものが存在する。そのような遊びに打ち込むことは、自分にあらゆる力と人間性をもたらしてくれる。遊んでばかりと言うとネガティブな意味で捉えられることが多いが、数学などの人生を懸けるべき遊びに打ち込んでいる人は、人間的にも圧倒的に面白い。そのような面白い人間になるべく、数学と言う遊びに没頭したいものである。

ユーモアは生き様で見せよ!

ユーモアはないよりある方が圧倒的に良い。どのようにユーモアを出すか?多くの人は色々と考えるところであろう。単純にギャグなどを言ってユーモアを出す人もいれば、あるいは服装でユーモア感を出そうとする人もいるかもしれない。もちろん、それはそれでいい。ユーモアを言える人は非常に素晴らしいと思う。

僕はユーモアをどのように出すか?と言った時、言葉や外見だけでなく生き様で表現すべきだと思っている。生き様とは、すなわち人間性である。どのようなリスクを取り、どのような事に挑戦しているか?そのような事は全てユーモアにつながると考えている。逆に、無難な生き方をしている人からは、ユーモアは感じられない。やはり傍から見ても面白い生き方をしていると感じられることが大事である。

ユーモアには軽快感が感じられる。すなわち重い生き方をしていればユーモアは感じられない。しかし、重厚に生きることが悪いわけではなくて、重厚感や悲壮感を周りに感じさせないことが大事なのである。苦しい時は本当に苦しい。時には周りに助けを求めざるを得ない時もあるであろう。そのような時は思い切って周りに助けを求めれば良いが、普段は苦しさなどどこ吹く風と軽快に生きて行きたいものである。

人間にとって中身と外見は両方とも大事である。中身が良ければ外見は関係ないと言う人も多いが、僕はそうは思わない。外見も自分という人間の一側面であるし、意外と内面は外見に表れてくる。外見だけで判断してはいけないが、外見で判断できることも少なくない。ユーモアにおいても、言葉や行動と言った外見的ユーモアと、生き様に見られる内面的ユーモアの両方を発揮できれば最強である。

では、どのような生き様がユーモアのある生き様と言えるのか?簡単に表現できることではないが、まずは自分が自分の生き様を面白いと感じることが大事である。そして挑戦に続く挑戦を繰り返すエキサイティングな生き方を続けていれば、結果的に極めてユーモアな生き様を見せることが出来るはずだと僕は考えている。

学問は自由だ!

これまで、そしてこれからも数学や物理の研究は続けるのだが、数学や物理の研究に取り組んでいて常に感じることは、数学や物理は自由だと言う事だ。突き詰めて行けば行くほど、それらの世界が自由であることを感じ取ることができる。自由であるからこそ面白くもあり、興味が広がるのである。

それに対して英語はどうだろうか?僕は中学生の時に学校で英語を習い始めてから、ずっと英語に対して苦手意識を持ち続けてきた。今でも英語は苦手だし、嫌いでもある。そして英語に対してずっと凝り固まったイメージを持ち続けてきた。英語はこうであるべきという一方的な考えがあり、決まったルールに従って、それから外れては絶対にいけないと考えていた。そのように考えてしまっては身動きが取れなくなる。そして英語を話すのが怖くなり、ますます英語が出来なくなる。そのような悪循環の中に僕はいた。

しかし、最近非常に分かりやすい英語の解説書(以前にブログでも紹介した)に出会い、英語に対するイメージが180度変わった。英語というものも非常に自由な学問だと気付いたのだ。しかしそのような事は少し考えれば当たり前の事である。日本語でも標準語以外の言葉はいくらでもあり。例え標準語を話すにしてもバリエーションは無数にある。そしてルールから多少外れても意味は十分通じる。日本語がそうなら、英語もそのはずである。イメージさえしっかりとつかめれば、意味は十分に通じるのである。

やはり、学問は自由であるべきである。こうでなければならないという凝り固まった考えでは学問は進まない。自由な逸脱が学問の深化をもたらすのである。そして理解すればするほど、どんどん自由になって来る。学問の一つの到達点は、自由を得ることである。もちろん英語などでは、実用性も非常に重要である。しかし学問的価値は自由性にある。数学が一番自由な学問であることは疑いないが、その他の学問においても非常に自由な世界が広がっている。最近の英語の勉強において遅まきながらそう気づくことが出来たのである。

科学技術の発展は、完全なる善なのか?

現代の人々は科学技術が右肩上がりで発展して行くことを当たり前に思い、それに伴って世の中が便利になって行くと信じている。もちろん、科学の発展によって飛躍的に便利になっているのは事実である。そして多くの人は、科学の発展を善だと思っている。しかしそのように善だと言い切ってよいものだろうか?さらに言えば、便利になることがそんなにも良い事だろうか?

科学技術の軍事技術への応用は、科学技術の負の側面だ。そのような事は誰でも分かるので、あえてここでは述べない。では、科学技術によって便利になることが一般的に思われているほど善なのかと言う事を問うてみたい。

例えば、自動車があることによって人々は楽に長距離を移動することが出来る。こらは非常に便利な事である。しかし、「便利」と言う事が必ずしも「善」だとは僕は思わない。さらに、役に立つことが大きな善であることは多いが、完全なる善だとは言い切れないと思っている。逆に、表面的には役には立たないと思われていることが、非常に意義のある事である事も存在する。そのような意義や善を判断するためには、本質を見抜く目が必要だ。それがないと、即物的に「役に立つ=意義がある」、「便利=善」と考えてしまう。しかし、何もそのような判断が間違っている訳ではない。問題はそのような判断過程において、思考のプロセスが入っていないことだ。だから「便利=善」とは判断できても、「役に立たないが意義がある」とは判断できなくなる。判断のレベルを上げるためには、即物的な判断ではなく、思考による判断が必要なのである。

便利な事、役に立つ事でも、深く考えると意義のない事もたくさんあることに気付く。しかし、科学技術は後には戻れない。それは核兵器が存在する世界から核兵器を消滅させることが出来ない現在の世界が証明している。もちろん未来はどうなるかわからない。人類の努力によって100年後の世界から核兵器が消滅している可能性もゼロではないと僕は考えている。しかし、それを実行することは極めて難しい作業である。現在の努力によって未来は変えられる。それは個人の人生においてもそうだし、世界平和においてもそうである。だからこそ、努力することはいつ何時も重要な意義を持つのである。今少し努力すれば未来は少し変わるであろうし、上手く行けば大きく変えられるかもしれない。

Macが良いか?Windowsが良いか?

これまでパソコンはWindowsを使ってきた。正確に言うと、パナソニックのレッツノートだ。これまで圧倒的に壊れにくいと言われているレッツノートにこだわって二台使い続けてきたが、バッテリーのリコールだとか色々と問題が表れて来て、次はアップルのMacにしようかと思い始めていた。そんな時、今日(昨日?)アップルのMacBook Airがマイナーチェンジして価格も下がったこともあって、俄然とMacに心が傾いてきた。

昔はMacとWindowsとのソフト互換性の問題などでWindowsを選ぶ人も多かったようだが、最近はWindowsにできる事はほとんどMacでもできる。なので、Macを選んでもほとんど支障はなさそうだ。MacでOfficeもできる。TeX(数学的文章を書くのに必要なソフト)もできる。心は決まった。次はMacにしよう!

二年ほど前からiPhoneを使い続けて、いつの間にかアップル党になってしまった。アップルはもちろん機能性も良いが、何と言ってもデザインが良い。そして忘れてはならないのが、セキュリティレベルが高い事だ。アップル党の人でもセキュリティにこだわっている人は多くはないかもしれないが、セキュリティは非常に重要である。セキュリティが担保されて初めて安心して使うことが出来る。普段は気にすることはないが、気にしないで良いと言うことはセキュリティが保たれている証拠である。

これまでWindowsを使い続けてWindowsには親しみはあるが、そろそろ決別の時かもしれない。これからのアップルライフ?は楽しいものになるのか?いや、そうなることを期待してアップルライフに突入しよう!

物事を極めるとは?

数学において、ある定理に他の定理を継ぎだして新しい定理を導き出すことがよくある。それぞれの定理についてはよく分かっているんだけど、それらを組み合わせると想像もできないような定理が導き出されるのである。その定理の継ぎ目はある意味ブラックボックスだと言える。少なくとも初めはそう思えてしまう。しかしそのような定理を駆使するにつれて、そのブラックボックスにイメージを見出せるようになる。そしてそれが明確にイメージ出来るようになると、そこからさらに次の定理を導き出せることになる。数学においては、対象に自分なりのイメージを描くことが非常に重要である。

数式は単なる計算過程ではない。数式そのものが持つ役割や、ある種の構造があり、そこを理解しないと次へは進めない。僕は音楽の訓練はほとんどやったことがないので、音符がほとんど読めない。しかしピアニストなどの音楽家は音符の羅列を読み取り、そこからある種のイメージを形作っているのではと思っている。きっと僕らには理解できない世界が広がっているのだろう。数学においては、専門外の人が見ればそれは数式の羅列にしか見えないのかもしれない。しかし数学者は、その数式の羅列からある種の構造やイメージを読み取り、自分の世界を形作って行く。そのような数学の中に広がる世界は、しばしば現実世界よりも豊かな景色を見せてくれる。そのような世界を見た後では、目で見える世界が些細な事に思えてくる。

数学や音楽に限らず、一つの世界を極めた人にはその人にしか見えない世界が広がるのではと僕は思っている。その世界を極め、そのような世界を見た後では、世界観も大きく変わるだろうし、すなわち生き方も変わる。ある意味、そのような世界を捉える事は、物事を極める大きな理由となる。しかし簡単にはそのような世界を捉えられない。時間と労力が必要なのだ。もちろん、そこまで打ち込むためには、面白くないと出来ない。しかしただ楽しむだけでは一線を超えることはできない。そのラインを超えるためには生みの苦しみがある。そしてそのラインを超えた時、新たな世界が見えてくるのである。

「なぜ自分は生きるのか?そしていかにして生きるべきか?」そのような捉えどころのない問いに対しても、一つの事を極めた人は明確に答えることが出来るであろう。とは言え、そのような問いに対する答えは一つではない。だから一つ答えが出た後になっても、「いかにして生きるべきか?」という問いかけを続ける。そのような事を続け、問題を明確化して行く。僕らが生きる表面世界のさらに奥の世界が見えた時、人間は次のステージに進めるのだと僕は考えている。

自信に満ち溢れ、人生が最も充実している時。

今の僕である。少なくとも僕自身はこう感じている。しかし、現在は人生で3番目に苦しい時でもある、いろいろな面で非常に苦しい。しかし、今僕は自信に満ち溢れ、最も充実している。なぜまだ結果を出していないのにそのように感じられるのか?

理由は二つある。一つは明確なビジョンが描けているから。まだ結果は出していないけど、結果までの道のりが明確に見えている。何をすればどうなるか?それがはっきりと答えられるならば未来は明るいと思う。逆にどんなに豊かな生活を送っていても、「これからどう生き、今何をすべきか?」と言う事が認識できていないと、これからの人生に希望を持てない。しかし、そのようなビジョンを明確に描けていれば、例え現在が苦しい状況でも未来は明るい。もちろん、失敗すれば明日の命もあるかどうかもわからない。そのような綱渡り的状況ではあるが、今が面白くて仕方がない。では僕のビジョンとは何に関する事か?もちろん数理物理の研究に関する事である。

もう一つの理由は、心身の状態が極めて良いことである。人間にとって最も重要な事の一つは心身の健康だ。それは過去に調子を崩した経験から身に染みて感じる事である。しかし現時点だけで見れば、最高潮という訳ではない。しかし上り坂である。木原坂46はこれからどんどんと発展していくと感じている。同じ状態でも、下り坂ならばこれからに自信が持てない。そして僕と同じくらいの年齢の人なら、人生の絶頂を過ぎたという人も少なくないかもしれない。これまでの僕が幾分低調だったからか、これからは上がって行く気しかしない。自然、自信も満ち溢れ、人生も充実したものに感じる。

とは言え、初めに書いたように現時点はあらゆる意味で苦しい。しかしそれはあくまで現時点での話である。事を成し遂げるのが先か?精神が尽き果てるのが先か?今は自分という人間との勝負である。そして絶対忘れてはならないことは、挑戦し続ける事である。挑戦を止めた時、僕の人生は終わると思っている。僕の人生の原動力は挑戦心である。今日も、一年後も三十年後も、常に挑戦し続け、いつも今が一番充実して自信に満ち溢れているという状態でないといけないと強く思っている。そして常にそれを実行して行くはずだ!

本の相性。

本というものには、意外と相性がある。全く同じ分野の本でも、自分にすんなりと入る本となかなか受け入れられない本がある。もちろん、小説とかに関しては同じ内容の本は存在しないが、専門書に関しては、例えば同じ複素解析の本でも解析的な色が濃いものから幾何学的な側面を重視した本まで様々ある。そのような分野の本であれば、自分に合った本を手に取れば良い。

本に相性があると言う事は、同じテーマに対しても様々なアプローチがあると言う事だ。そのように、同じ対象物を様々な方向から眺めることが大事である。学問においても同じで、例えば整数論一つとっても代数的数論と解析数論がある。最近では数論幾何というものもある。同じものを二つの方向から見れば、三つ目が浮かび上がる。物事というものはしばしば玉虫色を呈する。すなわち、単一色だけにこだわるのではなく、玉虫色を制することが必要なのである。

最近様々な専門書を手にするが、相性の合わない本というものは時々ある。そのような時は、その本にこだわらず、同一テーマの違う本を手っ取り早く手にするのも手である。そしてその分かりやすい本で学んだ後にはじめの本を再び手にすると、意外とすんなりと入ってくるものである。

脳と体を鍛える。

昔、「脳を鍛える」(立花隆著)という本があった。読んだのはずいぶん昔(20年以上前)なので内容をはっきりと覚えていないが、科学や社会の事に言及した面白い本であったことを覚えている。立花隆氏と言えば、「田中角栄の金脈と人脈」と言う報告記事で当時の田中角栄首相を内閣退陣まで追い込んだ凄腕ジャーナリストだが、科学に関しても非専門家としてはかなり博識な人である。「脳を鍛える」では、当時まだ大学に入る前の僕にとってはかなり面白く知的刺激に溢れることが書かれていた。

立花隆氏は、スペシャリストかつジェネラリストという二つの側面を兼ね備えたオールマイティーな人間である。ジャーナリストという圧倒的な専門があるからこそ、そのような足場を基に広がる科学的記事にも圧倒的説得力を持つ。立花氏とは専門は逆だが、科学の専門家に対しても、科学のスペシャリストというだけではなく、ジャーナリスト的な側面を持つことは重要ではないかと強く思う。「政治や社会に対して鋭く切り込む」、そのような科学者がたくさん出て来るべきではないか?政治や社会に対しても、科学者という視点からでないと語れないことがまだまだたくさんあるように思えてならない。

そのように科学者が他分野に切り込むためには、脳だけではなく体も鍛えなければならない。それは何も筋トレをすべきだと言っているのではなく、人間としての基礎体力を高めなければならないと言う事である。もちろん、そのような基礎体力は、脳による知力と連動している。なので、脳と体は同時に鍛えなければならない。そしてそのように多方面に切り込むためにはストレス耐性も高めなければならない。なぜなら、様々な所に切り込む過程では、様々な事に遭遇し、様々なストレスを受けることは避けられないからだ。僕自身、ストレス耐性は強くなく、ちょっとしたことでストレスを受けることが多々ある、ストレス耐性を高める特効薬というものはないと思うが、意識の持ち方、日々の生き方次第で、ストレス耐性も少しぐらいは高めることが出来るのではないかと思う。

人間として、まずは専門を持つことが必要だ。ジェネラリストになるためには、まずはスペシャリストにならなければならない。僕はスペシャリストでないジェネラリストなんて存在しないと思っている。まずは自分の専門を持たない事には説得力がない。「スペシャリスト=脳」と「ジェネラリスト=体」の双方を鍛えるために、日々挑戦を続けながら人生を進めて行く。