思想、生き方、考え方」カテゴリーアーカイブ

生活はルーティーン化したほうが良い。

日々の生活において、常に考えながら物事に取り組むことは非常に重要だ。しかし、何に対して思考すべきか?その優先順位はしっかりと持っていなければいけない。

普段の行動について考えるのもいいが、重要なのは「何をするか」(これももちろん大事だが)ではなくて、「取組む行為において考える」ことだ。そのためには、普段の生活行動に関してはその都度考えるより、ルーティーン化したほうが良い。そして、取り組む対象に対して思いっきり考える。考える資源を集中するのだ。

とは言っても、もちろん「何をするか」についても、ほったらかしではいけない。定期的に、「より良くするためには何をすべきか」と見直すことも必要だ。

ルーティーン化できるところはルーティーン化して、試行錯誤するところは徹底的に試行錯誤する。そのような頭のメリハリをつけることが、物事を進める上でも大いに力になる。

僕には夢がある。そしてその夢は目標である。

夢を持っている人は多いのではないか。しかし、夢を夢で終わらせている人がほとんどのように思える。

僕にとって夢とは目標であり、夢は成し遂げてこそ意味があるのだと思っている。だから、「夢を見る」という言葉は嫌いだ。夢とは現実であり、現実であるからこそ生きる原動力にもなる。

大人が夢を見ることを否定する人は多い。いい歳して、と冷めた目で見る。もちろん、非現実的で、実現のための努力を実行しないような夢見る人は、論外である。しかし、夢を実現させるためにコツコツと努力する人を否定する権利は、誰にもない。

しかし、夢に向かって走ることは、非常に苦しい。人にもよるが、夢を取ることによって色々なものを犠牲にしなければいけない。しかし、夢を成し遂げた時の達成感と、それによって得られるのものの大きさが、そんな犠牲による苦しさを吹っ飛ばしてくれる。

明日があるさ!

「明日があるさ」と気軽に思いたいが、今結果を出さないと明日がないことも。ダメだった時のために保険をかけるのは重要なのかもしれないが、あえて保険をかけずに自分を追い込むことも。

しかし、過度に自分を追い込むのは良くないと、最近感じている。過度に自分を追い込んで、精神的に追い詰められると、身体的にも良くない。

自分に自信はあるのだけれども、それ以上に追い詰めすぎて生きた心地がしない。

しかし、結果というものは、追い詰めて限界に達する寸前に出るものかもしれない。そう思おう。

自分の精神と肉体をコントロールする。

「何をするにも体が資本」と言われるように、健全なる肉体を維持することは非常に大切だ。それと同時に、健全なる精神を維持することも非常に大事だ。精神と肉体は人間の両輪である。

とは言っても、この両輪を常に良好に保つことは易しいことではない。

僕自身、調子を崩すことはよくあるが、そういう時は試行錯誤の連続である。そうして試行錯誤していくうちに、自分にはどういう処方が合うかということが薄々感じられてくる。それが明確になると、自分のコントロールの範疇に入ってくる。

精神と肉体は常に意識しないと落ち込んでしまう。精神を常に研ぎ澄ますには、常に高い意識を保たなければいけない。肉体を高いレベルで保つためには、トレーニングを怠ってはいけない。

と、何か大げさなことを書いたが、日常を怠慢なく過ごせば、精神も肉体も大きく落ちぶれることはあまりない。しかし高い目標を持って何かに挑戦している人間には、精神と肉体を高いレベルで維持すべく、自己をコントロールしなければいけない。

昔は学問は”人の生き方”そのものであった。

2015年のNHK大河ドラマであった「花燃ゆ」。大河ドラマでは珍しく、”学問”がテーマであった、幕末の物語である。

ところで、江戸時代以前の学問と、現在の学問は、かなり性格が違う。昔の学問は”人間の生き方”を追求しようという意気込みが感じられる。そして学問は実践を伴って初めて意味をなし、当時の学問に命をかける若者の姿は非常に美しい。

吉田松陰はペリーの船に乗り込み、投獄され、伊藤博文・高杉晋作など時代を動かす中心人物を育て、最後には打ち首になって死んだ。彼らの行動は、”学問の究極”と言えるだろう。

現在の学問はどうだろうか?学校では指導要領で定められたマニュアルによって教えられることが決まっており、受験のために必死になって勉強する。それはそれでいいのだが、受験のためと言えども、何か目的意識が軽いように思える。そして、学問を学べる”ありがたさ”も希薄である。

現代でも、吉田松陰のような”生きるための、そして時代を変えるための塾・学校”を現代でも、と思うのだが、このような考えは時代錯誤であろうか?

失敗はしても、挫折はするな!

僕はこれまで数えきれないくらいの失敗を経験してきた。失敗の数は、人の何十倍も何百倍もあるだろう。正直言って、成功なんてほとんどないと言ってもよい。しかし、これまで挫折したことは一度もない。

僕が挫折したことがないと言えば、周りの人からクレームが来るかもしれない。数々の挫折をしてきただろうと。では、そもそも失敗と挫折の違いは何だろうか?

失敗は客観的事実である。それに対して、挫折は主観的なものであり、周りが何と言おうと、自分が挫折していないと言えば、それは挫折していないのである。すなわち、僕が挫折していないというのは、僕が挫折していないと思っているだけであるとも言える。

僕は案外粘り強く鈍感だ。鈍感というとイメージは悪いかもしれないが、敏感ですぐに挫折感を味わいあきらめるよりかははるかにいい。最近流行の”何とか力”という命名をすると、”鈍感力”とでも言うべきか。

鈍感で挫折を認識しないくらいの図太い人間の方が、目標に向かって進むにはちょうどいいのかもしれない。

学ぶより、考えろ!

日本人は、なぜここまで学ぶことが好きなのか?子供から大人まで学習漬けで、最近では生涯学習というものが非常に盛んである。

しかし、「学ぶ」という行為は一方通行である。学ぶだけでやめてしまえば、なぜ学んだのかがあやふやになる。学ぶ行為は「考える」行為に結び付けてこそ有用になる。

しかし日本では、自分勝手に考えることを良しとしない風潮がある。無駄なことを考えるなということであろうか。しかしその「無駄なことを考える」という行為は非常に重要である。無駄な事の中から有用なことが生まれ、創造へつながる。

近年は、効率化が非常に重視されている。もちろん、仕事などで効率化を図ることは避けて通れない道かもしれない。しかしその一方で、多少の余裕も持ち合わせなければいけない。適度な効率化と、発想を生み出す余裕。これらのバランスを取りながら物事を進めていかないと、新たなるブレークスルーは生まれない。

社会と人間は、いつも偏っている。

報道、あるいはメディア記事は、常に偏っていると思った方がよい。もちろん、現在は中立な報道を心がけるようメディアも気を付けているようだが、むしろ偏っている方が普通なのだと思う。

一般科学雑誌も例外ではない。”科学”と言うと、多くの人は、科学=真実、と思いがちかもしれないが、一般科学雑誌はとてつもなく偏っている。専門家から見るとかなり信憑性のない話でも、読者にインパクトを与えそうな記事は妄信的に載せている。そう、科学記事は”真実”ではなく”インパクト”なのである。

そもそも、偏っていない人間などというものはまずいない。偏っていない意見というものは、多くの意見の平均でしかない。多くの意見の平均と、平均的な考えの人間とは、全く別概念である。

もちろん、偏り方がかなり危険な場合は問題があるが、人間の偏りというものは「個性」なのである。そして偏りのない社会というのは同調社会であって、それは偏っている社会より非常に危険な社会である。

お洒落ってなんだ!

僕の毎日の気分転換は、本屋での立ち読みだ。街の大型の書店に行くと専門書などもチェックするけれど、普段は近くの本屋さんで雑誌を読むことが多い。特にファッション雑誌は何誌もチェック。今はファッションにはお金をかけていないけど、いざ買う時のシュミレーションとしても念入りにチェックする。

ところでお洒落と言うと、つい外見に目が行きがちだけど、ファッションってそれを着ている人間が一番大事だと最近は痛感している。内面、そして肉体、それからその人がどれだけ実績を挙げ、どれだけ挑戦しているか。

どれだけ高価なものを着ていても、着ている人間がチープだとあまりにも格好悪い。逆にシンプルな服装でも挑戦し続けている人間は様になる。

お洒落をしようと思うと、まずは自分自身を上げていかなければならない。大きな実績を挙げるため日々努力し、肉体は毎日の筋トレで鍛える。僕が毎日心がけていることだ。

将来は様になる人間になれるよう、心・体を鍛えて、そして今取り組んでいることで実績を挙げれるよう頑張ってみよう。

聖戦なんてものは断じて存在しない。

もう、IS(イスラム国)が戦闘を起こしてどれだけ経つだろうか。最近はかなり制圧されて、ISの規模もだいぶん小さくなったようだが、先日もISが人間の盾で卑劣な戦闘を行っているという報道がされていた。

ISやイスラム原理主義に限らず、歴史をたどれば昔のキリスト教など、ヨーロッパを含む世界中で「聖戦」という言葉が使われてきた。聖戦という言葉は、戦争を起こす人たちの、そして人間を殺す人たちの”免罪符”として使われてきた。

しかし、多くの人たちは、こう思っているだろう。

「聖戦なんてものは存在しない!」

当たり前である。人を殺すことに”聖なるもの”などは存在するはずはない。現在、ISを壊滅させようと戦闘を行っている西側諸国をはじめとする国々も、”必要悪”として、やむを得ず戦っているのだと思う。

聖戦なんて言葉を掲げて、戦争を美化する集団の存在など、断じて認められない。