思想、生き方、考え方」カテゴリーアーカイブ

「無思想」の怖さ。

思想を持つことに対して、どう思っているだろうか?思想は人々を自由にする可能性を秘めており、人間が自律的に活動するためには思想を持つことが不可欠だ。その一方、世界のある地域では過激思想派と言われる人たちが紛争やテロを起こしている。すなわちそれらのいわゆる過激思想と言われているものが、人々を不幸に陥れている。人によっては思想と言えば過激思想を連想する人もいるかもしれないが、僕に言わせれば、そのような過激思想は非常に陳腐なものであり、思想とは言えないものである。なので過激派を思想と結び付ける事には僕は大きく違和感を覚える。そもそも、過激思想をたどって行けば、それは一部の人の単なるエゴに過ぎないことが分かる。

では、無思想についてはどうであろうか?実は無思想というものは非常に大きな危険性を秘めている。その典型的な実例が第二次大戦中のナチスである。ナチスの幹部であり、数百万人のユダヤ人をアウシュビッツへと送り込んだアイヒマンは、その行為から考えるととてつもない極悪人に思える。しかし戦後、イスラエル当局が捕まえてみると、アイヒマンは極悪人という印象とは程遠い「無思想」な人間だったという。無思想であるが故に、事務的にユダヤ人を拘束し、機械的にユダヤ人を収容所へと送っていたという。すなわち、アイヒマンは何も考えない無思想な人間であったからこそ、あれほどまで残虐な行為を行えたのだろうと考えられている。

アイヒマンの実例から見えてくるものは、無思想、そして思考停止することの怖さである。ある意味、自分なりの思想を持つという事が人間らしさであると言える。無思想とは極論を言うと、非人間的人間であると言える。無思想は何も生み出さない。そしてそれは時にはナチスのような残虐な側面を見せる。しかし多くの人は、自分は特に思想は持っていないが、そんな残虐な事はしないと思っているだろう。では、自分は選挙の時にはしっかりと投票に行っているだろうか?思想とはそのような日常から生まれるものである。選挙で投票するとは、自分の意思表示であり、思想の表現である。その反面、選挙に対する無関心は無思想の表現だと言える。だからどの党のどの候補にでもいいから、自分でしっかりと思考して投票することが重要なのである。投票は国民に与えられた国政、地方政治に対する最大の思想表現なのである。そしてそのような「投票」という思想表現が政治を動かし、世の中を良い方向へと変えて行ける可能性を作るのである。

しかし現実を見ると、世の中には無思想な人があまりにも多い。さらに日本では、思想表現をする人を毛嫌いして排除しようという風潮さえある。しかし本当に危険なのは、思想を表現することではなく、むしろ無思想な方なのである。例え日常の小さなことに対してでもいいから、自分でしっかりと思考して自己表現することが非常に重要なのである。

僕の強み、僕の面白さ。

頂点を極める人の多くは、途中で何らかの挫折があるにしても、全体的に見れば調子良く進んでいる人ではないだろうか?テレビなどで成功者を特集した番組を見ると、大概途中で大きな挫折をしたというのがお決まりのパターンだ。しかし僕から見れば、「そんなのは挫折でも何でもなく、一つの失敗に過ぎないのでは」と思うことがよくある。もちろん、成功者がこれまで全て上手く行ってここまで来たと言ったら話にならない。なので「挫折したけど、それを乗り越えてきた」と言いたいのだろう。しかしそこそこの失敗(挫折)などは誰でもある。なのでわざわざ「挫折を乗り越えてここまで来た」という話を作ることもないのではないかと思う。

僕自身、これまでどうだったか?一言で言うと、致命的な出来事はあった。ただし結果論から言うと、致命“的”であって、致命傷ではなかった。なぜなら、僕は今生きている訳だし、現在人生の中で最も意欲的な時期を送っているからだ。そしてこれが僕という人間の最も面白い所であり、強みでもあると思う。なぜなら、致命的な状態になり、どん底の状態を経験しながらも、今世界の頂点を本気で目指している。学問の世界で頂点を目指すとはあまり使われない言葉であるが、そのようなレベルの結果を出すべく進んでおり、勝算もある。

学問の世界で、ここまで致命的な状況に陥り、そこから這い上がった人はいないのではないかと思う。予定調和という言葉からは程遠い道のりである。最も打ち込むべき時期である大学・大学院時代に打ち込める状態ではなかった。しかし今はほぼ万全の状態だ。だから今はとことん攻めている。しかしそれでもまだ僕は満足していない。もっと調子を上げないといけないと思っている。そして今の自分ならそれが出来ると思っている。

このような道のりを歩み、研究に突き進んでいる研究者は他にいないのではと思う。そしてこれまでの道のりもあり、ポジション的には非常に苦しい位置にいる。色々な面で今は非常に苦しい。しかし今、非常にエキサイティングな人生を満喫している。苦しさと刺激的楽しさは両立するのである。とは言え、このような人生は命がけでもある。何も比喩で言っているのではなく、本当に命を懸けている。しかしだからこそ、ここまで攻めた人生を送れるのだと思う。

今、一つ目の結果に手が届くところに来ていると実感している。もちろん、もしそこに届かなければ文字通り命取りである。そして僕は貪欲なので、一つ目の結果を出せれば、そこからさらに前に進む用意がある。とにかく今は非常にエキサイティングなのである。いつか安定することはあるのだろうか?と思うが、安定など来ないことを願う。いつまでも人生を攻め続けて行きたいと思っている。

遠回り。

僕は英語に対してずっと苦手意識がある。“苦手意識”ではなく、“苦手”と言った方が正しいかもしれない。英語の読み書きリスニング、全て苦手である。とは言え、科学における標準言語は英語であるので、英語が出来ないと論文を読むことも書くこともできない。なので必要に迫られて科学英語論文は日常的に読む。しかし読めるのは科学論文や専門書の英語だけで、子供が読むような童話英語は逆に読めない。

しかしこのままではダメだ。科学を知りたければ、まず英語をマスターするところから始めなければならない。もちろん、今のままでも論文英語は読める。しかし完璧に英語をマスターしている訳ではないので、読むスピードも遅いし、英文理解も浅い。なのでまず、英語を理解することによって科学を攻撃的に攻めようと思い、最近英語を勉強し直している。

しかし、英語のし直しはこれが初めてではない。これまで幾度も英語に挑戦したが、なかなかマスター出来ずに挫折を続けてきた。どの英文法の本を読んでもなかなか理解できない。そして初めの数十ページを読んで折れるの繰り返しだった。

ところが最近、一冊の英文法の書物に出会ったのだが、これが非常に分かりやすい。論理より感覚に訴えて来る書物だ。しかしその感覚が非常にツボを突いていて、結果論的にはそれまで読んで来た書物よりも論理的であるように思える。全533ページのなかなか大部の書物だが、初等的な所から少し踏み込んだところまで感覚的に、しかし論理的に書かれている。これまで幾度も英文法に挑戦し挫折してきた僕にとっては、目から鱗の一冊である。参考のためにここにその書物を紹介しておく。

(「総合英語 FACTBOOK  これからの英文法」 大西泰斗/ポール・マクベイ著 桐原書店)中学生でもわかるような、初等的な所から書かれた良本である。

急がば回れ!まずは英語を理解して、科学論文を攻めよう!

お金のかかる科学。

科学には、お金のかかる科学とお金のかからない科学が存在する。数学や理論物理などの理論系はお金のかからない科学の代表であろう。そしてそれらの科学は、やろうと思えば一人で実行できる。そのような意味で手軽な科学だと言えない訳ではないが、だからと言って簡単な科学である訳では全くない。お金がかからない分、頭脳が圧倒的に必要になる。おそらく科学の中で一番頭を使うのが、数学と理論物理ではないだろうか?お金がかからない分、やろうと思えば中学生でも研究できるのではないだろうか?しかし間口は広くても、それを実行できる人は非常に限られてくるのではないかと思う。

物理においても、実験物理となると途端にお金がかかることがある。特に加速器などを使用する素粒子実験はお金がかかる科学の代表と言える。現在、東北地方に建設が計画されている加速器の建設金額は数千億円と言われる。これは国際プロジェクトなので全てが日本が負担する訳ではないが、とにかく巨額である。このような巨額科学プロジェクトを、費用対効果だけで評価してはとても実行できるものではない。科学の価値というものは費用対効果だけではなく、純粋な科学的価値という側面もある。しかしこれの難しい所は、誰もが科学的価値を認識できる訳ではないということである。むしろ科学的価値を認識できない人の方が圧倒的に多い。それらの人にどう理解してもらうかは、科学に関わる人の重要な課題である。

そして科学的価値というものは、研究費などの金額に比例しない。書籍と紙と鉛筆だけで出来るお金のかからない科学の中にも、圧倒的な科学的価値を持つものも多く存在する。それらの代表が相対性理論であろう。アインシュタインは紙と鉛筆だけで理論を完成させた。しかしその理論の影響力は圧倒的である。数千億かかる巨大プロジェクトよりも圧倒的に価値がある。とは言え、そのような巨大な価値を生み出せる科学者というものは、百年に数人と言ったところだろうか。

現代科学の多くは多額のお金がかかり、世間においても科学はお金がかかると言った認識が浸透しているのではないだろうか?もちろん、お金がある方が大きな成果を生み出せる科学も多くある。むしろそのような科学の方が圧倒的多数ではないかと思う。そういう意味では世間の認識は正しいと言える。しかしそれは結果論であって。科学の価値はそれにかかる金額に比例しない。そしてそこから生まれる儲けの金額とも関係ない。儲けの金額は、科学的価値ではなくビジネス的価値である。科学の価値を純粋に判断できる価値観を持つことは、世の中のあらゆるものが持つ本質的価値を見抜く力に通じるものがある。物事の本質を見抜く目を養うためにも、科学そのものを理解し、それらの価値を判断できる力を付けることが必要ではないだろうか?そして世間一般の人たちがそのような力を付けることは、ビジネス的な利益を含めて大きく国益にも貢献するはずだ。

常識を疑う。

人間というものは、日々常識に基づいて生きている。常識通りに生きることが良いか悪いかは別としても、日常生活において毎回常識を疑って行動していれば何も取り組めなくなるし、進むものも進まなくなる。従って常識を知るという事は人間にとって必要不可欠なものだ。

しかし、常に常識が正しいわけではない。別に重要ではない事に対して深く疑う必要はないかもしれないが、自分の生きる進路に関わる事や自分の深い信念に関わることに対しては、それが本当に正しい事か?あるいは本当にそうすべきか?という事を熟考しなければならない。そうすれば、意外とこれまでの常識が正しくなかったり的外れであることに気付く。そしてそれが正しくないことに気付けばそれはチャンスだ。なぜなら自分がそれを本当に正しい事に導ける可能性が出て来るし、新しい発見につながることがあるからだ。

科学研究というものは、まずは常識を疑うことから始まる。というより、常識通りにしか出来なければ、単なるこれまでの常識の確認にしか過ぎない。科学とは常識の覆しの繰り返しである。だから、これまでに積み重ねられて来た知識の習得より、これからのビジョンの方がはるかに大事である。知識があり計算能力に優れていても、ビジョンのない者は結果を出すことはできない。ところが日本においては、ビジョンを持つことの重要性を指摘する人があまりにも少ない。それに対して、受験勉強の重要性を認識している人は多いが、受験勉強とはこれまでの知識の習得であり、それだけでは何も未来を切り開けないのである。

常識を疑うことはかなりエネルギーがいる。ある意味、常識に従うことの方がはるかに楽なのである。世の中では常識を知っているか?知らないか?という事が人間を判断する基準にされることが多いが、それ以上に重要なのは常識を疑うことが出来るエネルギーがあるか?ということである。そして新しい荒野を切り開くことが出来るのは往往として常識を疑うことが出来る人間である。常識を疑いどこまで真理に迫れるか?それは人間が生きる上で非常にエキサイティングな挑戦であると言える。

なぜ笑う?

ラグビーW杯100日前イベントで、前回のW杯で活躍した五郎丸歩氏が「日本が優勝します」と言ったところ、会場から笑いが起こったという。僕はこのような嘲笑に対して怒りさえ覚える。そもそも当事者たちが努力して汗を流しながら上を目指しているところに、傍観者たちが「そんな事出来るはずはない」と言える資格はあるのだろうか?当事者たちは本気で優勝を目指していると思う。もしかしたら当事者の中にも、ベスト4に残れば良いと思っている人もいるかもしれないが、プロの現役プレーヤーとして優勝を目指すことは自然な事だし、当然の事でもある。

今回の出来事を見て、サッカーの本田圭佑選手の事を思い出した。本田圭佑選手も、W杯の度に「優勝を目指す」と言っていた。そしてその時にも周りの傍観者たちは、本田選手の発言に対して嘲笑していた。努力をしているのは傍観者ではなくプレーヤーである。そしてそれらのプレーヤーが優勝を目指していることを、傍観者が否定するような社会に対して、果たして未来を期待できるだろうか?

僕が目指しているところは、周りから見てとてつもなく高い所にあるように見えるのだろうと思う。そしてそのような目標を持つことに対して、否定されたりバカにされたりすることは多い。しかし自分の将来を一番見通せるのは自分自身である。もちろん、何の努力もせずに、何の根拠もなしに、とてつもなく高い目標を掲げるのは明らかにおかしい。しかし自分は努力を行い、そして具体的なビジョンをもち、それらを基に達成できるという勝算を持っているのである。同じように、あるいはそれ以上に努力して実績を挙げている人から「まだまだ足りない」と言われるのならまだわかるが、平々凡々に当たり障りなく生きている人から嘲笑される筋合いはない。

僕は五郎丸氏や本田圭佑氏の発言を本気で信じている。もしかしたらそれが達成できる確率は1%かもしれない。しかし可能性は確実にあるのだ。それを当事者たちが本気で言うのなら、それを信じる価値はある。彼らに言わせれば、人間は二通りに分けられると言うのかもしれない。頂点を目指す人と、そうでない人。そして頂点を目指している人が頂点を目指せる環境を作ることが大事なのではないだろうか?僕は彼らを、そして自分を本気で信じている。

ベンチャーヒューマン。

多くの人間は、歳を取るごとにチャレンジ精神が薄れて行くようだ。それはもしかしたら、守るべきものが増えて行き、人生も守りに入るからなのかもしれない。とは言え、守りの人生が悪い訳ではないと思う。時には何かを守ることが攻める事よりも難しいこともある。特に家族などの人間を守ることは大変だ。守るべきものを守る。この当たり前のようなことを当たり前に出来る人間は尊敬に値する。

しかし、守るべきものも特にないのに、人生を守りに入っても仕方がない。そのような時にはやはりとことん攻めるべきだ。企業にベンチャー企業というものがあるように、人間もにもベンチャー精神が必要だ。自分がベンチャーヒューマンだと思うならば、とにかくチャレンジを繰り返し、多くの失敗を経験し、そこから大きな成功を掴まなくてはならない。

もちろん、守るべきものがあってもベンチャー精神を持つことは必要だ。そして時には守るべきものを守るために攻めなければならない時もある。攻めることが出来ない人は、守ることも出来ないと僕は考えている。ベンチャーとは何も若者だけのものではない。例え中年であっても、ベンチャー精神を持つことは大きな力になる。歳を取って死ぬ直前までチャレンジし続ける。そのようなベンチャーヒューマンであり続けたいと僕は考えている。

世の中の人間を見ていると、大きく二極化しているように感じる。失敗を恐れずにチャレンジを繰り返すベンチャーヒューマンと、自分を守る事ばかりに専念する人間とに。人間は何のために生きるのか?そのような事を追究すると、やはり常に挑戦し続けるべきではないか?という結論にたどり着く。少なくとも僕はそう思うのである。

心の余裕。

現代社会はストレス社会とも言われ、心の余裕を持つのは簡単ではないのかもしれない。しかし、心の余裕を持つことによって視野が広がり、そこから創造的な発展へとつながるのではないのかと常々思っている。

頭脳をフル活用して、精神の全てをつぎ込むのは理想的かもしれない。しかし全てをつぎ込んでも、さらに余裕があればなおさら良い。余裕を持つとはある意味オーバースペックを保持することであり、普段は使わないが、いざという時にはさらに有り余る能力があるぞという余裕が非常に重要ではないのではないかと思う。

パソコンでは、ストレージと呼ばれる記憶領域がある。最近は何テラとも言われる大容量のストレージを持つパソコンも多くなったが、日常生活でパソコンを使う限りではそんな大容量のストレージを使うことはほとんどない。しかし、ストレージの余裕があるほど処理能力は速くなる。そういう意味では、オーバースペックというものは能力を最大限に発揮する活力源だとも言える。そしてそのような余裕から来る潜在能力というものは、あらゆる事に対して力を発揮する。

精神的な余裕を持つ男は格好いい。僕もそんな男になりたいと思っているが、細かな事が気になったりもしてなかなかそのようになれない自分がいる。しかし、自分という人間が日々進化しているという実感もある。そのような進化の中、余裕を持てる男に少しずつ近づいているのではないかという実感もある。

今は自分という人間のストレージ(とメモリ)の容量を増やし、余裕領域を広げて行くことに注力している。そしてここぞという時にはそのような能力をフルに生かし、最大限の力を発揮できるようにしなければならない。少ない要領でやり繰りするのではなく、オーバースペックの余裕を持てる人間になろうと日々精進している今日この頃である。

学問と芸術。

学問と芸術、この二つの取り合わせに対してどのような印象を受けるだろうか?もしかしたらほとんどの人は、学問と芸術は全く違う対照的なものと思うかもしれない。しかし学問とは芸術的側面も持ち合わせており、この二つは切っても切り離せない関係であるように僕は思える。

絵画を見る時、「美」という感性は大事だ。もちろん「美」以外にも多くの判断基準があるだろう。しかし「美」はその最も大きな判断基準であるように思える。そして数学や物理においても「美」という判断基準は非常に大事である。ある理論が価値のある理論か?という判断をする時に、数学者や物理学者は美的センスをフルに働かす。さらに理論の方向性を決定する時に、「美しいのはどの方向か?」という事を見抜き、正しい方向へと進むことも多々ある。アインシュタインは理論の美というものを非常に大事にしていたと言われる。実際に、相対性理論は非常に美し理論である。素晴らしい理論には往往として美を備えている。

この様に、学問は芸術的側面を備えている。学者は数学や物理の理論を構築するに際して、芸術作品を創造するような感覚を覚えることがある。このようなレベルになると、芸術と学問を区別することもバカバカしくなる。極論を言うと「学問は芸術である」とでもなるのだろうか?学問が芸術であったとしても、その逆に、芸術が学問なのかは僕にはわからない。もしかしたら学問を追究するように芸術を究める芸術家もいるのかもしれない。

はっきりと言えることは、学問と芸術は相関性があるという事だ。それは学問を究めれば究める程はっきりとしてくる。学問の研究者には芸術に対しての理解が深い人が多いように思える。一つの分野だけの殻に閉じこもっている人の多くは陳腐だ。学問の中にある芸術的側面を捉え、それによって学問研究を遂行する感性を持つことは非常に大事である。

転んでもただでは起きぬ、鋼のメンタル。

転んだり失敗した時にどう思うだろうか?もちろん、転んだらそこから起き上がろうとする。その時どこを目指して起き上がろうとするのか?多くの人は転ぶ前の状態を目指して起き上がろうとするのではないだろうか?もちろん、それでも大きな復活と言えるのかもしれない。しかしそのもう一段上を目指すのも大きな手ではないだろうか?

そのもう一段上とは、転んで復活する時に、転ぶ前よりさらに上を目指すという事である。転ぶ前と同じなら、転ばなかったのとそう大差はない。しかし転ぶことによって学ぶこと、気づくことはいくつかあるはずだ。それらの事を生かすと転ぶ前よりステップアップすることは不可能ではないはずだ。

ただ、そのためには鋼のメンタルが必要だ。僕自身、特に鋼のメンタルを持っている訳ではないが、今鋼のメンタルを持っていないからと言って、そのような事が不可能だとは思っていない。今持っていないのならばこれから身に付ければ良い。もちろそれは簡単な事ではない。しかし不可能ではないはずだ。

転ばないでそのまま行けば、鋼のメンタルを身に付けるきっかけは訪れない。すなわち転んだことは、鋼のメンタルを身に付けるチャンスなのである。もちろん、一回の失敗だけで大きくメンタルを強化することは難しいかもしれない。それなら失敗を繰り返せばいい。失敗を繰り返すことによって、その度メンタルを強化すればよいのである。

失敗は大きなチャンスである。しかし失敗をネガティブな事と捉えている人があまりにも多い。失敗をどう捉えるかによって、その後の人生は大きく変わる。いくつもの失敗を一つの大きな成功へ結びつけるために、失敗を飛躍のきっかけにしたいところである。

失敗ドンと来い!