思想、生き方、考え方」カテゴリーアーカイブ

自分は面白い人間か?

僕は常に面白い人間でありたいと思っている。では僕の言う面白い人間とはどのような人間か?それはお笑いのような面白さもあり、面白い生き方をしていることでもあり、また研究で重要な結果を出せる人間でもある。それ以外にも、お洒落な人間であることや挑戦し続けていることなど、言い出したらきりがない。

面白い人間は総じてリスキーである。なので無難な生き方をしたい人には、面白い生き方を薦めることはできない。面白い生き方をするためにはそれなりの覚悟がいる。僕はお金のギャンブルは一切しないが、人生のギャンブルは常にし続けている。お金のギャンブルをする人間ほど面白くない人間はいない。面白さとは先の見えない未来を開拓して行くことによって感じられるものなのである。

今僕は非常に面白い問題に取り組んでいる。その問題の解決に成功できれば、非常に面白い事になると思っている。そして面白さが面白さを呼ぶように、さらに面白い人間になれるのではないかと思う。ある意味、面白さを追求することは、人生を掘り下げる事でもある。別にお笑い芸人のような面白さがある必要はない。ただ人間としては非常に面白い人間であるべきだと思っている。

面白い人間になり切る前夜、どのように人生を模索して行くか?面白い人間の度合いは、それまでどのように人生を送って来たかにかかっている。

自分を克服する。

今僕が克服すべきものは、自分自身だと思っている。世の中には味方がいれば敵もいる。そしてそれは自分自身に対しても同じだ。自分が自分の一番の味方であると同時に、自分の中にも自分の敵がいる。そのような自分の中にいる敵を克服することは、緊急の課題である。

自分の外にいる敵は最悪そこから逃げればいいが、自分の中の敵からは絶対に逃げられないので、自分の中の敵は克服するしかない。自分の中の敵を克服することは決して簡単な事ではないが、自分自身を克服した先にはさらに高いステージの人生が待ち構えている。そのように一歩一歩ステージを上げて行く先から見える風景はどのようになっているのか?そのようなことを考えると、苦しいながらもわくわくした気持ちになる。

自由には二種類ある。一つは他人や社会から解放される自由、そしてもう一つは自分自身による束縛から解放される自由。意外と自分自身の思考が無意識のうちに束縛されていることが多い。しかしそのように自分自身の思考が束縛された状態では自由な発想が生まれるはずもない。

今自分が何かの目標に向かってそれを成し遂げようと思っているのならば、自分自身を徹底的に自由にしなければならない。そして自由の意味と生きる意味、そして目標に向かって生きていく意味などあらゆることを考え抜いて、自分だけの人生というものを構築して行きたいものである。

時代の変化。良いのか?悪いのか?

時代の認識は常に変化している。昔良かったことが現在では悪い事だと言われることは多々ある。その逆もあるだろう。悪い事が時代が進むにつれて正されることは良い事だろう。しかし「なぜそうあるべきなのか?」という考察を全くせずに流れや雰囲気だけで変化して行くことには危険な事も多い。時には改悪されることもよくある。

そして最近の風潮で僕が危険だと思うことは「拡大解釈」だ。数学や物理では拡大解釈、あるいは一般化ということはよくされる。しかし拡大解釈や一般化をするに当たっては、その根拠、すなわち裏付けが必要である。同様に社会の風潮でも根拠や裏付けに当たる深い考察は絶対的に必要だ。考察のない拡大解釈は、多くの場合改悪につながる。

社会の方向性は良い方を向いていると思いたいが、現代社会の中にある風潮や認識を見ると、多くの改悪がなされていると言わざるを得ない。また、良い方向へと向かっていたとしても、度が過ぎると非常に生きづらい世の中になる。

メリットとデメリットは多くの場合同時に表れる。重要なのは、メリットとデメリットを天秤に掛けて判断することである。メリットだけを視野に入れメリットが1増えるとしても、デメリットが10増えればそれは本末転倒だ。物事は大局的に見て判断しなければならない。

僕がなぜこのような記事を書いたのか?それは現在の世の中が非常に生きづらい社会になっているのではないかと感じているからだ。確かに現代社会は非常に“便利”な世の中になっている。しかし便利だからと言って“生きやすい”という訳ではない。例えば昔はスマホもなく不便であるが故に一期一会を大切にしていた。しかし現代社会では安っぽい出会いが増えている。もちろんネット上でも大切な一期一会は存在するが、そのありがたみをなかなか感じられないでいるのではないだろうか?

技術は常に発展し続けている。しかしその技術の利用の仕方を間違えたり過度に依存しすぎると、本来人々を便利にさせるための技術が人々を生きづらくさせてしまう。そしてそのような事は技術だけではなく、風潮や人々の認識、そして規則にも言えることだ。

短期計画と、長期的展望。

焦っている時などは、つい目先の事ばかりに気が行ってしまうことがある。もちろんその時々の目先の事を処理することは非常に大事だ。目先の事をこなさないと次に進むことができないことも多い。しかし物事を長い目で見ることも非常に重要だ。特に大きなことを成し遂げようとしている場合は、目先の事に一喜一憂せずに長期的展望を持って物事を底上げすることが大事だ。

では目先の事とその先にある事ではどちらが大事か?言うまでもなく両方大事だ。短期計画と長期的展望の双方を照らし合わせて前に進むことが重要である。

長期的展望に基づいて実行するということは、ある意味持久走である。瞬発力だけでは大きなことは成し遂げられない。その一方、長い目で見て、どこでスパートをかけるか?そのように状況を読み、スパートをかける時はそこで全てをつぎ込む。そのような思いっきりの良さを持たなければならない。しかしスパートをかける時を間違えると、ゴールまでたどり着けない。つまり情熱と冷静な分析力を駆使して自分をコントロールしていかなければならない。

人生とは“送る”ものではなく“切り開く”ものだと僕は考えている。受動的に人生を送るのか?能動的に動いて人生を構築して行くのか?人生のオリジナリティというものは、能動的に動いてこそ発揮するのだと思う。

面白い、実に面白い。

人生も学問も、実に面白いものである。人生の何が面白いのか?学問の何が面白いのか?それは予想もしない展開が現れることである。人生も学問も、先が見えていれば実につまらないものである。結果が分かっているクジほどつまらないものはない。次の展開が読めないからこそ、努力をしてより良い展開を繰り広げようとするのである。

苦しい事と楽な事のどちらがいいか?と問われれば、多くの人は楽な方が選ぶかもしれない。楽して楽しい思いをすることができればそれはそれでいいのかもしれない。しかし本当に面白い事というのは、多くの場合苦しみから生まれる。「楽しみながら苦しむ」と表現すればよいだろうか。確かに無駄な事で苦しむ必要はない。しかし人生を懸けようとしている事で苦しむことはある程度必要である。

そしてもう一つ大事な事は「挑戦」である。挑戦のない人生程つまらないものはない。人生をレールに乗せるのではなく、人生というレールを作っていかなければならない。挑戦とは開拓なのである。人の背後で風を避けながら付いて行くのか?それとも常に先頭に立ち風を全身で浴びながら進んで行くのか?人それぞれ好きな方を選べばよいが、先頭に立ち全身で風を浴びないと見えない風景と喜びがある。そのような喜びを感じることができれば、人生も学問も実に面白いものになる。

先頭に立ち人生を開拓し、学問も開拓して行く。確かに苦しいことではあるが、そのように常に挑戦し開拓して行く姿勢を忘れずに進んで行きたいものである。

ピンチをチャンスに変える!

ピンチをチャンスに変えるとは、ネガティブ思考をポジティブ思考に変えるということだ。「ピンチの後にチャンスあり」とはよく言う言葉だが、同じことが起こっても、それをピンチのままで終わらす人とチャンスに変える人がいる。それは全てものの捉え方、思考の仕方の違いから来るものである。

ピンチになった時は、しばらく悩み苦しむことが多い。そしてそのような時に、その事ばかりを考えていれば、永久にピンチから脱することができない。ピンチの時に一度他の苦境のことに思考の対象を移すのである。すると、その苦境がなんてことないことのように思える。そのように他の苦境が解決すると、現在起きているピンチの事も自然に解決することがある。ピンチの時にそのピンチを脱する思考のルーティーンを確立することができると、精神を一段と強くすることができる。

こんな事を言いながらも、僕はかなり苦境に陥ることが多い。そしてそのような時にはネガティブになり悩むことが多い。しかしピンチを脱する思考のルーティーンが大分出来上がっているので、意外と早期にピンチを脱することができる。

確かに思考のルーティーンを確立するのは簡単な事ではないかもしれない。しかし試行錯誤してそのようなルーティーンを確立するための努力をすることは決して無駄ではない。そして思考のルーティーンを確立することができれば、ピンチが起こった時に「これはむしろチャンスだ」と思えるようになる。

数学は文明の根幹か?道楽か?

数学に対する認識ほど、人によって大きく異なるものはない。数学の本質は科学の根幹であり、文明の根幹であるということだ。確かに最先端の数学がどのように社会の役に立っているかということは分かりにくい。しかし現代社会は応用科学抜きでは語ることはできず、応用科学は基礎科学抜きでは語れない。そしてそれらの基礎科学は数学抜きでは語れない。従って数学は現代文明の最も根幹に位置するところにあり、人間の文明レベルは基礎科学、そして数学に対する認識に由来するものであると言っても過言ではない。

しかしその一方、数学や基礎科学に対する研究を「道楽だ」と言い放つ人もそれなりにいる。日本においてそのような風潮が顕著に表れているのか?それとも世界的にそのような風潮なのか?どちらにしても日本においてそのような風潮があることは事実である。

日本におけるそのような風潮は、江戸時代にまでさかのぼることができる。江戸時代の日本の数学である和算は、世界的に見てもかなりレベルの高いものであった。しかし和算は世界の主流になることはなかった。その理由はいくつかある。一番大きな理由は、和算が個別の特殊性を帯び、体系的に構築されることがなかったということである。それに対してヨーロッパの数学は非常に体系的に構築され、高い継続性を帯びていた。和算の体系性のなさの多くは日本の和算家に責任があるのかもしれない。

しかし和算の継続性のなさにはもう一つの理由があると僕は考えている。それは日本市民が和算や数学に対して役に立つもの、あるいは意義のあるものだという認識に乏しく、大きく社会や産業界に広がっていかなかったからではないのかと考えている。もちろんそのような数学に対する認識は、ヨーロッパにおいても大きく言えることなのかもしれない。しかしそれが社会の中で体系的に共有されることはなかったのではないだろうか?そのような認識が日本の中で(あるいはヨーロッパでも?)数学に対して道楽という位置づけをするということに結び付いたのではないだろうか?

数学が文明の中でどのように共有されているかということを、明白に捉えることは非常に難しい。数学を専門に扱っている数学者でさえ、数学の文明の中での位置づけを明確に主張できる人は多くないのではないかと思う。しかし古くはギリシャ時代から、数学が文明の根幹を担っていたということは紛れもない事実である。数学に対する認識一つで文明のあり方が大きく変わってくるのではないだろうか?

手段が目的になってはダメだ!

僕自身は何かをしようとする時に、かなり手段にこだわる方だ。手段を選ぶか選ばないかということにはいろいろ意見はあるとは思うが、どのような手段を使って目的に到達するかということは非常に大事な事だと思っている。しかし手段をにこだわるとしても、手段自体が目的になってはいけない。あくまで目標を達成することが目的であって、手段は目的ではない。

目標に向かうに当たって、途中の道筋は柔軟に選ぶべきである。目標に向かう道筋をどのように選ぶかということは、その人の腕の見せ所である。目標に到達する前でも、道筋を見ればその人の考え方や力量がある程度見えるものである。とは言え、結果が全てという側面もあるので、結果を出した後になってその人の取った道筋や手段が評価の対象になる。

道筋を柔軟に変えることが大事と言ったが、時には目標自体を柔軟に変えることも大事である。しかし間違ってはならないのは、目標を変えるということと妥協をするということは全く違うということだ。科学研究においても、一つの目標に対して行き詰った時は、一度目標を変えることによってそのような状況を打開するのも一つの手だ。そして変えた目標を解決した後にまた元の目標に戻れば良い。そのような道を取ることによって、意外と視界が開けてくることがあるものだ。

人生の中では、大きな目標、中くらいの目標、小さな目標と、それぞれ階層分けされていると思う。大きな目標とは人生を懸けるに値する目標だ。しかし多くの人は、現実を目の当たりにして目標を小さくしていく傾向にある。しかし少数の人は、一つ一つの目標を達成して行き、さらに大きな目標へとステップアップして行く。そのような人は、人生とは挑戦の繰り返しであると捉えているのだと思う。

僕自身がこれまでどれだけの目標を達成してきたかと言われると甚だ疑問だが、少数の要所要所では曲がりなりにも最低限の目標を達成してきたつもりである。とは言っても、そのような過去の結果に対しては全く満足も納得もしていない。幸い僕の目標は時を経つごとに大きくなってきている。そして最近は手応えも感じている。後は自分が納得できる結果を出すだけである。

根っこと先端の両方から攻めて行く。

学問というものは、基礎の積み重ねが大事である。従って学問の知恵というものは一朝一夕では築き上げることはできない。しかし、下からの積み重ねばかりではいつまで経っても最先端の現場にはたどり着けないこともある。そのような時はいきなり先端に飛び出るのも一つの手である。

とは言え、先端に出るためにはある程度の積み重ねが必要であることは言うまでもない。いきなり初心者がプロの中に入り込むことはできない。なので、先端に出るという手はセミプロ以上のレベルになって使える手であると言える。

以上は主に学問に対する話であるが、社会では初めて行うことにおいてもいきなり現場に飛び出ることが要求されることがある。また、「思ったら、考えたら、即実行」という精神が多くの場合大きな成功を生むことになる。そういう意味で、いきなり最前線に飛び出るということは非常に重要である。

学問の話に戻るが、近年のネットの発達によって、最前線の知識を得ることは容易になった。素人でも最新の論文を入手できる。数学や物理においては、最新の論文がarXivというサイトで全て公開されている。数学者や物理学者は論文雑誌に投稿する前にまずarXivにアップすることが通例になっている。時にはポアンカレ予想(幾何化予想)を解決したペレルマンの論文のように、論文雑誌には投稿せずにarXivだけにアップするということもある。arXivは誰でも家庭のパソコンですぐに見れる。非常に便利な世の中である。

基本的文献で根っこから攻め、arXivで先端を攻める。数学や物理ではこのような攻略法が行われているが、このような双方からの攻めはあらゆる分野に適用できることだろう。

苦しみも、乗り越えれば財産になる。

人生は山あり谷あり。楽しい時があれば苦しい時もある。苦しい時は本当に死にたいと思ったりもするが、そのような本当に苦しい時を乗り超えた後ではその苦しみは財産になる。

苦しみを乗り越えるためにはどうすればいいか?その一つの解決法は、「今を見すぎず、未来を見る」ということである。今を楽しむことも大事だが、将来のもっと大きい楽しみは自分に莫大なエネルギーをもたらす。過去にこだわる人に現在はない。そして今を生きる人よりも将来を生きる人の方がエネルギーに満ち溢れている。

僕にはそんなに大した過去はないし、過去を考えたところで何の解決にもならない。しかし僕の未来には大きな自信がある。そして常に未来を生きる人間になることを心がけている。未来に生きると言っても、長生きをするということではない。僕が長生きをするかどうかなんて全くわからない。もし自分の命が長くないのならば、それまでの人生をどう輝かせるかが大事だ。そしてもし長生きをするのならば、その輝きを少しでも長く続けることが大事だ。

人生80年時代と言われているが、その80年が長いのか短いのか?人それぞれだろう。僕は80年は長いと思っている。しかし時間というのは過ぎ去るのは一瞬だ。80年は長いが、長いからと言って何もしないわけにはいかない。なので、未来を生きるとは言っても、まずは今を全力で生きる事がそのための一歩になる。