投稿者「木原 康明」のアーカイブ

三分野の異分野融合。

最近は何かと学際分野が注目を浴びている。一つの分野で突き詰めていくのも手ではあるが、やはり一分野だけで勝負するのは非常に熾烈な争いであり、その他の策として二つの分野の学際分野において分野を融合するのは突破口として非常に有用な手である。

しかし学際分野という言葉が市民権を得た今、二分野融合も一般的になりつつある。そんな時、さらに視点を広げ“三分野融合”という超学際分野で勝負するのは、これからの解決策として大きな力になるのではないだろうか。

三分野まで広げれば、ライバルもかなり少なくなる。そして異分野を融合することによって新たな分野創始に繋がる。数学だと、代数幾何・幾何解析・代数解析など二つの分野を名乗る分野が市民権を得ているが、これからは代数・幾何・解析の三分野にまたがる研究も活発になるかもしれない。数理生物学という分野もあるが、生物学の数理的な考究に物理学的視点を持ち込むという手法もあるのかもしれない。

まだ現在は三分野まで広げてみようという機運ではないが、21世紀後半くらいになれば、三分野融合はあらゆる分野で打開の解決策として大きな市民権を得ているかもしれない。

「良い物を安く」は本当に正しいのか?

もちろん誰だって良い物を安く欲しいものである。良い物を安く提供するとは、日本の美徳のようなものかもしれない。しかしそのことに対する過度な追求は、間違った方向へ進むように感じる。

この様な安さへの過度な追求は、20世紀終わりから21世紀初めへの「失われた20年」につながっていく。市民への優しさを追及した結果、国民全体を考えるとそれが厳しさへと変わっていったのである。

当たり前の事だが、市民が安くで買えば、生産者はその分苦しくなるのである。

やはり、良い物を手に入れた時は、提供者に対してそれに値する対価をしっかりと支払うということは非常に重要なことである。しかし、そのような余裕がないこともあるであろう。その時はせめて提供者に対して感謝の気持ちを持ち、それを伝えるようにしよう。

リスクを取ることが、飛躍への第一歩だ!

ビジネスで大きな成功を収めるためには、リスクを取ることが必要だ。しかしリスクを取る重要性は、ビジネスの世界だけのものではない。学問でも恋愛でもリスクを取ることは非常に重要である。

しかし、何もしないでリスクだけを取るのは無謀である。リスクは努力することによって最小化しなければいけない。例えば、受験ならばレベルの高いところを狙えばリスクは高まるが、努力することによってリスクを最小化できる。恋愛ならば頑張って仕事をすることによってスタイリッシュな洋服を買うことができるし、あるいは努力して内面を魅力的にできるかもしれない。

リスクを取らずに無難に生きるか、リスクを取って飛躍を遂げるのか、それは人間としての思想に大きく関わってくるが、リスクを取らない人間にリスクを取って挑戦する人間を責める資格はない。

第三者委員会は免罪符か?

最近、企業の不正が立て続けに起き、またビジネス以外でもスポーツの世界をはじめ何かと不祥事が続いている。もちろん、いつの時代でも何らかの不祥事は起きており、社会と不祥事は切っても切り離せない関係になっている。

不祥事が起きた時、最近は多くの場合第三者委員会というものが設置される。言葉のとおり(建前上は)不祥事の当事者とは利害関係のない人たちで構成される調査委員会だ。もちろん、第三者委員会が設置されることは悪いことではない。しかし、第三者委員会に関しても問題がないとは言えない。

一つ目の問題は、第三者委員会が本当に利害関係のない人たちで構成されているかということだ。もし不祥事の当事者が設置したとなれば、何らかの関係があるという疑念が持たれるのは当然のことだ。

そしてもう一つは、第三者委員会を設置することが免罪符になっているのではないかということだ。第三者委員会を設置したという行為が、不祥事の当事者の正当性を保証することだという当事者の主張が感じられる。「第三者委員会を設置してそれで終わり」では何の意味もない。第三者委員会を設置したから、あとはその人達に聞いてくれという責任回避の態度も見え隠れする。

不祥事→第三者委員会→責任回避、という定番のルートが出来上がっているのが良いのか悪いのか意見が分かれるところだろうが、第三者委員会が免罪符になっているのならば、それは明らかに問題があると言わざるを得ない。

英語信奉にとりつかれる前に。

現在、世界の言語のグローバルスタンダードは言うまでもなく英語である。科学の論文でも、英語で書かなければ実績とはみなされない。企業でも社内公用語を英語に定めるところもある。

しかし英語とは多くの場合、本質ではなく手段である。もちろん手段は大事であるが、手段である英語に固執しすぎて本質を見失っては元も子もない。

英語を習得して世界に出ることを否定するつもりは全くないが、日本人としてこれから重要になるのは日本語で勝負することではないだろうか。英語を重視するあまり母国語である日本語を軽視するのは少し違うように思う。

例えば僕の名前“木原康明”を外国で名乗るとき、多くの場合“Yasuaki Kihara”と苗字と名前を逆転させるであろう。しかし日本語、そして日本の文化を主張するならば“Kihara,Yasuaki”と「苗字,名前」とすべきである。アメリカ人が日本に来て、日本方式に「苗字,名前」とはだれも名乗らない。なぜ日本人は外国に行くと「名前,苗字」と逆転させるのだろうか?しかも日本国内でも英語表記にするときには「名前,苗字」と逆転させる。日本人はどこまでお人よしなのだろうか。

多くの日本人は英語神話にとりつかれている。英語ができるだけで仕事ができるように錯覚してしまう。英語信奉にとりつかれる前に、日本語、そして日本の文化に対して理解を深めることが非常に大切である。

佐藤幹夫の一本の道。

佐藤幹夫氏は日本が誇る大数学者だ。数学の中で「佐藤理論」と言われるものは数多く存在する。佐藤幹夫氏が創始した代表的な理論は、ハイパーファンクション(佐藤超関数)、代数解析、佐藤のソリトン理論であろう。これらの理論は理解していない人にとっては一見つながりがないバラバラの理論に思えるが、それらの理論を知るにしたがって全てが一本の道につながっていることがわかる。

僕も昔は、佐藤幹夫とはあらゆる分野で大理論を次々に打ち立てた(これは事実だが)とてつもない大数学者だと思っていたが、佐藤幹夫氏の中では全てが一つにつながっているのである。

佐藤幹夫氏は数学者であるが、数理物理学にも取り組んでおられる。数理物理学という言葉の定義は非常にあいまいで、はっきりと確定した定義はないに等しい。したがって、数理物理学者と言っても皆取り組んでいる分野は違うと言っていい。そして数理物理学に取り組むにあたっては、分野の壁にこだわっていれば身動きが取れなくなる。数理物理学者とは雑食性なのである。

佐藤幹夫氏は(おそらく)すでに引退しておられると思われるが、僕は勝手に佐藤幹夫氏は20世紀最大の数学者だと思っている。もちろん世界を見渡せば、代数幾何学のグロタンディークや微分トポロジーのミルナーのように偉大な数学者は何人かいるが、研究の独創性と多様性に関しては佐藤幹夫の右に出るものはいないと感じている。

物事の相互作用。

物事が上手くいかない時、取り組むことを絞ろうと考えることはよくある。絞ることによって、一つの事に割く時間と気力を増やすのだ。

しかし、全く逆の事も時には効果がある。一つの事に上手くいかない時、あえて複数の事に取り組む。このことは一見逆効果にも思えるが、物事というものは意外と互いが絡み合って相互作用しており、他の事に対するアイデアが元の事に生きることがよくある。複数の事に取り組むことが突破口になるのだ。

もちろん、他の事に取り組むことによって頭がリセットでき、固定観念にとらわれない発想が生まれるという効果もある。

「選択と集中」とは何かにつけてキーワードとされることがあるが、「複数を選択する」という判断をするのも、物事を解決する一つの手段として有用ではないかと僕は考えている。

科学の研究とは?

「科学の研究とは、世界で一番を取ることである。」もちろんそうは言っても、これは科学の一側面を表したものに過ぎないが、科学の研究に二番煎じ三番煎じは存在しないのは確かだ。二番三番は研究ではなく勉強である。

ただ、テーマは様々あるので、一番と言っても色々な一番がある。大きな一番から小さな一番。ただ、二番は存在しない。

科学では一番乗りが全てを取るのだが、なぜそうなるのかは理由は簡単だ。二番三番はただ一番の成果を追試すれば自動的に結果が出るからだ。もちろん事実はそんなに簡単ではないが。

ただ、ビジネスではもちろん話は違う。ビジネスでは初めから二匹目のどじょうを狙う戦略も重要だ。

科学の研究というものにも流行というものがあり、一部の研究者、いや結構多くの研究者はいかに流行を追うかということに全力を尽くしている。それはいかがなものかとも感じるが、ただ他の研究者が口出しするようなことではないのかもしれない。

他の研究者がやっていない独創的なテーマに取り組んでいる研究者の結果は、いつか必ず大きな評価が下される。ただ、流行の研究が即評価されやすいのに対して、独創的研究は評価されるのに時間がかかる。

しかしそんなことを考えずに、自分が重要だと思う研究に打ち込めばいいだけなのかもしれない。

大人になるほど嘘をつく。

多くの人は、大人になるほど嘘をつき、大人になるほど目が曇る。妙に周りの空気を読み、都合の良い解釈をし始める。

最近の大手企業の不正とその後の釈明会見を見ると、つくづくそう感じる。しかしもちろんそのようなことは、不正企業の経営陣だけでなく、多くの大人に言えることだ。

なぜ急にこのようなことを書こうと思ったかというと、テレビで、ある二十歳前後の少女の、あまりにも率直で世論を気にしない意見を聞いたからだ。この少女の意見は世論の風潮とは逆を行くものであったが、僕には少女の意見の方が正論に思えた。この少女は以前、不条理な世論の逆風を浴びていた人物でもある。この少女にはこれからも、透き通った眼で物事を見続け、率直な意見を述べ続けてほしいと思っている。

大人というものは、良くも悪くも大人だ。子供の嘘は可愛いが、大人の嘘は時には卑劣である。透き通った眼をいかにして持ち続けることができるか。それには自分の信念をどこまで維持できるかにかかっている。

単独でするのが良いか?共同で行うのが良いか?

「一人でできる」と言えば格好いいが、実は「一人でしかできない」というのが正しいこともある。僕自身、人と協調することが苦手で、一人で物事に取り組むことが多い。一人でしかできないということは、利点でも欠点でもありうる。

勉強というものは、人に教えてもらうものという意見も多いだろうが、僕自身は過去に、授業で習うよりも独学でやる方が圧倒的に吸収できて効率的であると感じてきた。そういうこともあって、高校を中退して一人で大学を目指して取り組んだ過去は自分に合っていたのかもしれない。ただ、教えてもらうことと自分で独学ですることは、どちらが良いということではなく、自分のスタイルに合った方を選べばいい。

研究の世界では、多くの研究者が共同研究という形を取っている。新たに出る最新の論文を見渡すと、単著(一人で書く)論文よりも、共著論文の方が圧倒的に多いように感じる。

単著でも共著でも内容が良ければそれでいいのだが、ある研究者は、「共著論文の実質的な成果の九割は一人の研究者が負っていることが多い」と言っていた。実際、僕が周りで観察していた例では、一人の研究者が成果を出して、他の研究者が執筆を担当しているように感じたものもあった。

単独研究と共同研究のどちらが優れているかということは、研究分野・テーマにもよるであろうが、数学・基礎物理などのような基礎的分野では単独研究の影響力の方が大きく、応用・実用分野では共同研究が幅を利かせているように感じる。

日本では協力することの美徳が称賛されるが、単独で物事を進める醍醐味も非常に大きな魅力である。