投稿者「木原 康明」のアーカイブ

人間の命が有限であることに救われる。

北朝鮮の金王朝(金日成・金正日・金正恩)は、不老不死を望み、北朝鮮では不老不死の研究がされていると聞いたことがある。しかし不老不死とはいかず、金日成・金正日はこの世を去り、金正恩は暴君として振る舞っている。

ところで、不老不死は本当に理想なのだろうか?希望なのだろうか?僕はそうは全く思わない。人間は命が有限であることに救われていると感じている。

手塚治虫の著書に「火の鳥」という漫画がある。火の鳥の血を飲めば永遠の命が得られるとされ、人々は火の鳥を求め続ける。その中で永遠の命を得た人間が出てくる。そこで描かれているのは、永遠の命を得た人間の気の遠くなるような地獄である。正確に言うと「永遠に生きられる」ではなく「死ぬことができない」と言った方が正しい。死ぬことができないとははっきり言って地獄である。

人間は死ぬことによってリセットできる。もちろんリセットと言っても、死んだ後はもう何もないのだが。良かったこと、うれしかったこと、苦しかったことも死ぬことによって全てが無になるのである。このことを悔しがる人も多いとは思うが、僕はこれは人間の救いだと思っている。

こんなことを言っても、宗教とかそんなことに関連付けようとは毛頭思っていない。ただ、死ぬことをネガティブなことではなくてポジティブにとらえることも大事ではないかと思っているのである。

もちろん、不幸な死を遂げる人もいることは事実だ。そのような死まで救いだとは言うつもりはない。ただ、永遠の命などというものは追求すべきことではない、命は有限であるからこそ価値があるのだと言いたいのである。

有限の命だからこそ、命を大切にしたい。

大谷翔平の二刀流に、夢を期待する。

プロ野球・大谷翔平選手が、大リーグ・エンゼルスに入団することが決まった。若きスラッガー、若きエースの活躍に期待が膨らむ。

大谷選手がどう思い、どう感じ、大リーグ30球団の中からエンゼルスを選んだのか知る由はないが、大谷選手が判断して選んだのだから、エンゼルスが大谷翔平選手の活躍に一番適した球団だったのであろう。

大谷翔平と言えば“二刀流”。もちろん投手としても打者としても誰もが認める超一流であるが、僕を含めたファンが望むのは、投手として、打者としてではなく、二刀流としての大谷翔平であろう。もちろん球団にとってはシビアな判断なので、「投手に専念せよ」とか「打者に専念せよ」という声が聞こえるのだが、これらの声を聞いてもすごいところは、「投手」「打者」の双方で大きく評価されていることだ。

エンゼルスは、大谷翔平の二刀流を全面的に支援すると明言しているし、大谷本人は「最高なのはどちら(初ホームラン、初勝利)も一緒の試合でできることだと思います」と述べていることから、同一試合での投手・打者の二刀流も見られるかもしれない。

大谷翔平が“二刀流”とし世界No.1の選手になるのを、期待するのを堪えられないし、野茂やイチローとはまた違うパイオニアとして、これまでの常識を覆してほしい。

根拠になっていない根拠。

何かを、あるいは誰かを否定するときに用いられる根拠の中には、根拠になっていないものが意外と多い。例えば「前例がない」とか「年齢的に無理」というものだ。確かに場合によってはこれらはしっかりとした根拠になっている。スポーツならば医学的・生物学的に考えて年齢は大きな要素になりえるし、前例が大きな根拠になることもある。

「根拠にならない根拠」を覆すことは、非常にエキサイティングである。スポーツならば、イチローがそれを覆そうとしている。科学・学問の分野でもそのような根拠を根底から覆そうと日々励んでいる研究者がいる。

根拠にならない根拠が根拠になっていないことは、見る人が見ればすぐに見抜くことができるが、意外と世間や社会ではそのような根拠にならない根拠が幅を利かしていることに、落胆してしまうものである。

覚悟を決めて、迷いなし。

悩んでいる時というのは、大概覚悟が決められていない時である。そのような時、強い覚悟を決めるとつまらない悩みなどは吹っ飛んでしまう。そして人間関係で悩んでいる時は「来るものを拒まず、去る者を追わず」という気持ちを固めれば、これまた悩みが消える。こう言うと非常に簡単なことだが、これがなかなか決められないものである。

未練があったり、欲が出たり。中途半端が一番ダメである。「百かゼロか。」そのような強い決断力が何事にも必要である。

命に関する覚悟、人間に対する覚悟、あるいは今取り組んでいることに対する覚悟。何事にも強い覚悟を持って生きていきたい。人付き合いに対しても、相手が男であろうが女であろうが全力投球!

人生は有限である。そんな有限の人生を悔いのないように生きていくために、強い覚悟を持って生きていきたい。

ネット・ITより、リアルな体験に価値がある。

現代のネット万能社会において、ネット・IT崇拝はビジネスにおいても私生活においても非常に顕著になりつつある。昔は数千円出して買っていたビデオだったが、現在では無料で限りなく動画を見れるし、情報も限りなく手に入る。そのようなことは確かに便利だが、それは本当に望むべき姿なのだろうか?

現在の30代以上の人間は、アナログとデジタルの双方を体験してきた。だからこそ、その双方の良い面・不便な面を比較することができる。しかし20代よりも若い‘‘ネットネイティブ”と言われる若者たちは、生まれた時からネット社会にどっぷりと浸かり、デジタルな世界が当たり前だと感じているのかもしれない。

‘‘ネット・ITネイティブ”と言うとITを使いこなせる優秀なイメージがあるかもしれないが、その一方、現在の技術の中身・仕組みを知っている人はほとんどいないと思われ、ブラックボックスの入り口と出口だけを見て利用しているだけだとも言える。便利に利用できればブラックボックスでもなんでもいいと思うかもしれないが、周りの全てをブラックボックス化することは非常に危険だ。

このようなネット・ITへのアンチテーゼからか、アナログ世界への回帰があらゆる所で起こっている。例えば腕時計がそうである。最近の腕時計の最新技術はスマートウォッチであろう。スマートウォッチは時計という枠組みを超えて、メールから電話まであらゆることができる。このようなスマートウォッチが人気を集める一方、昔ながらの機械式時計も現在ブームである。100万円を超える機械式腕時計が人気を集めているという。このような機械式時計に魅力を感じるのも、現在のネット・IT社会へのアンチテーゼと見られるし、実際時計だけに限らず古典的な物・古典的なリアル体験が非常に注目を浴びている。

ネット・ITは総体的には莫大な価値があるが、単体で見るとそれらの価値は下がっているのではないかと感じる。その一方、アナログ的な物・体験は現在見直されてきており、これからはアナログ的な価値への追求がより盛んになるのではないかと感じられる。

“人生設計”から外れるほど面白い。

子供の頃、若い頃、あるいは現在も、将来を想像して人生設計を立てる人は多いかもしれない。しかし現実は、一部の人を省いてほとんどの人は人生設計通りにいかないと嘆いている。

しかし、人生設計通りにいかないことを悲観する必要は何もない。人生設計通りにいかない時は、目標を修正あるいは変更すればいい。そして人生設計通りにいかないからこそ、予想外の出会いがあり、予想外の人生展開が繰り広げられる。

もし何もかもが人生設計通りにいく人生があったらどうだろう。そんな人生に魅力を感じるだろうか?設計通りに進む人生などは、機械とまるで変わらない。設計通りに行くのは機械だけでいい。

人生設計から外れて予想外のハプニングが起きることが人生の醍醐味でもあり、エキサイティングさを演出させる。確かに人生設計から外れることは、多くの場合苦境に立たされることになる。しかし、苦境に立たされた人間はかなり強い。苦境に立たされるからこそ打開策を模索し、思い切った行動に出る。それによって大きな飛躍がもたらさられる。

僕自身、人生設計通りにいったことなどほとんどないと言っていい。それが故に非常に苦しい立場に立たされてきたことは事実だ。しかしそのような展開になったことを悔やんだりしたことはほとんどない。むしろそれがきっかけで新しい展望が広げられたことに夢が広がり、刺激を感じる。

党首討論。

報道番組で、「今年は一回も党首討論が行われなかった」というニュースを見た。この背景にはもちろん森友・加計問題の影響があるのだろうが、与党党首である安倍首相が疑惑に対して逃げの姿勢をとるのは、国家元首として恥ずべきことだ。

もし森友・加計問題がクロだと認識しているのならば、首相のとるべき道は逃げではなく、「クロをシロである」と論破することではないだろうか。確かにこのような論破は道義的に問題はあるだろうが、しかしこのような論破ができる言論力は国家元首として必要な能力である。

国会は「国権の最高機関であり、唯一の立法機関である」と定められているが、それと同時に「言論機関である」ということは一般的な認識として認知されている。国会は「最高の言論機関である」と言える。したがって、国会で論破するのも大いにありなのである。

選挙時のポスターでは、候補者は「弁士」と名乗っている。弁士ならば弁士らしく言論で戦ってほしいものである。

複数の目標を持ち、畳み掛ける。

目標は一つではなく、複数持つことが望ましい。目標が一つだけだと、不測の事態が起こり立ち消えになった時に行き場を失うので、そのような時にすぐに次の目標に取り掛かれるように複数の目標を持つことが重要だ。

目標を定める時、どのような基準で目標を見つけるか?その重要な基準として、自分の思考・行動・努力によって、ある程度自分で制御できるものを選ぶことが必要だ。自分で全く制御できないことだと、それは単なる運任せでしかない。もちろん何かに取り組むにあたって運は重要な要素だが、初めから運を当てにするのは愚かな判断である。

何かの目標に向かい、それがだめなら次の目標へ、あるいは今の目標を達成したから次の目標へと畳み掛けていくことを心がけたいものである。

実力と可能性。羽生永世7冠と藤井聡太四段。

12月5日、将棋の羽生善治氏が竜王位の奪取に成功し、永世7冠の称号を得ることになった。羽生氏は実力・実績共に誰もが認める史上最高の棋士であり、今回竜王位に返り咲いたことでさらに実績を積み上げていく予感を感じさせる。

羽生善治氏の永世7冠と共に、今年の将棋界での大きな話題は藤井聡太四段の快進撃であろう。藤井聡太氏の29連勝は非常に大きな実績であることは間違いないが、現段階ではもちろん何のタイトルも取っていないし、実績もまだほとんど出ていない。

羽生善治氏と藤井聡太氏をそれぞれ一言で表すのならば、“実績の羽生”、“可能性の藤井”ということではないだろうか。羽生氏の実績はこれから100年間破られることはないかもしれないが、藤井氏が将来それを破る可能性ももちろん大きい。

“これからの人間”である藤井聡太氏がこれからどれだけ大きな実績を積み上げるか、非常に楽しみであるが、羽生善治氏の大きすぎる実績には感服させられるのみである。

非公式戦では藤井氏は羽生氏を破ったが、公式戦での羽生対藤井の勝負が今から非常に楽しみである。その勝負が竜王戦7番勝負のタイトル戦になるかどうか、羽生氏がその座に就いた今、後は藤井氏の類まれな才能によってその舞台に上がってくるのを待つのみである。

対応原理。

対応原理と言えば、物理では量子論と古典論の対応が思い浮かぶが、この対応原理はビジネスから私生活まであらゆることに言えるのではないかと感じる。なぜあらゆることに対応原理が適応できるのか?それはそれぞれの物事の構造に類似があるからだと思われる。

この構造の類似による対応から、ある一つの分野を極めた人間がその他の多くの分野でも技術を発揮するということが起こる。例えば一つのビジネス分野を極めた人間は、その他の分野でも才覚を表す。

いま取り組んでいることが自分のやりたいことと関係なくても、できるだけ現在取り組んでいることに注意深く取り組むことは重要である。何の関係もないと思っていても、それが本当にやりたいことに応用できることがよくある。他の物事を、本当にやりたいことに結び付けることは、非常に重要である。

物事に取り組むとき、この対応原理を認識することは、あらゆることへの柔軟性と機能性を発揮することにつながる。