投稿者「木原 康明」のアーカイブ

科学の原理。

科学の理論を構築する時、まず大事なのが第一原理をどこに置くかということだ。例えば物理学で一番重要な原理はエネルギー保存の法則であるが、これを第一原理(つまりスタート)と置くことによって理論が構築される。エネルギー保存則は第一原理であるから、なぜこの保存則が成り立つかということは一切考えないし、エネルギー保存則がなぜ成り立つかは誰もわからない。(厳密に言うと、対称性から保存則が導けるが。)

スタートに何を置くか?それによってできてくるものが全く変わってくる。時には相反する結果が出てくることもある。理論的に構築することはもちろん重要であるが、スタートが間違えていれば間違ったものができてしまう。第一原理(スタート)をどのように設定するか、そこに科学的センスが大きく問われることになる。

良かった過去も、苦しかった過去も、自分の人生の一部。

「あんなことがなかったら、今頃は」という話をたまに聞く。確かに苦しいことがなかったら今頃はもっと楽な生活ができているのかもしれない。しかし「もしあの時」などと考えていたらきりがないし、人生は良いことばかりなんてことはありえない。

僕は、良かった過去も、苦しかった過去も、それらのことがあっての現在の自分であり、それらは大切な自分の人生の一部であると考えている。もちろんこれからの人生は良いことが多いことを願うが、これからも苦しいことが現れることもあろうと覚悟はしている。

苦しい過去も、乗り越えた後になってはそれも財産である。ものは考えようで、苦しい過去をネガティブにとらえるか、乗り越えた事実をポジティブにとらえるか、考えようによって未来の人生の状況は大きく違ってくるように思える。

問題を広げるか?絞るか?

問題に取り組んでいて壁にぶつかった時に、取るべき方向性は二つある。一つは条件を一般化して広げること。もう一つは条件をさらに課して絞ること。

問題を広げることによるメリットは、より大きな結果を出せること。より普遍な結果を出せること。逆にデメリットは、解決が圧倒的に困難になることである。

問題を絞ることによるメリットは、解決が容易になる可能性が高まること。逆にデメリットは、小さな結果しか出せない可能性が高まること。

フィールズ賞数学者の広中平祐氏はとある研究会で、条件を絞ることを提唱した数学者に対して、逆に一般化して広げるべきだと主張したという。並の数学者にとっては対象を絞って解決を図るべきなのかもしれない。一般化して広げるという困難に立ち向かえるのは、ずば抜けた才能を持ち合わせた広中氏だからこそできる技なのかもしれない。

問題を広げるにしても絞るにしても、それぞれ一長一短で非常に悩むところであるが、今社会で一番欠けているのは、ハイリスク・ハイリターンを取り、困難をものともせずに立ち向かう挑戦者ではないだろうか。

大学の過度なキャリア教育について。

2016年3月卒の大卒者の一年後の離職率は11.3%であるという。これが高いのか低いのかは別として、就活における現在の「キャリア教育」というものには違和感を感じる。

キャリア教育によって、自分はどんな職業が向いているのか?そしてどのようなキャリアを構築していくのか?ということをディスカッションによって発見したり、またデータを機械分析して判断していく。しかし、キャリア教育によって自分の進路判断を狭めたり、可能性を狭めたりしていないかと僕は杞憂している。

もちろんキャリア教育によって適切な進路を発見・助言してもらうという利点はあるので、一概に悪いものであるとはいえない。しかし現在のキャリア教育は行きすぎな感がする。

キャリアとは働き出す前に構築するものではなく、社会に出て徐々に構築していくものである。現在の大学等でのキャリア教育は、キャリア概念の固定化を招くものではないかと感じる。

最後に、人生とは予想外の出来事の積み重ねであると言っても過言ではない。そんな中、レールの上に固定され、行き先が一つだけに定められている状況、しかもそれを自分ではなく周りの人間に定められるのは、人生を自己表現の一つと考える時、それは少し違うのではないかと思う。

横一線ではいけない!

平等とは言い換えると、横一線ということである。最近は何でも横一線にしようという力が働く。しかし人間にはそれぞれ個性があり、多様性があるからには、横一線に並べるということは平等にしているようであって平等ではない。

「機会は平等に与えるが結果は平等ではない」ということは以前から言われているが、機会、すなわちチャンスの与え方もそれぞれに合った最適な形で与えるべきである。悪しき平等意識が逆にそれぞれの人の芽を摘んでしまうことになりかねない。

特に日本においては、長く続いた総中流社会のせいか、横一線意識が強い。その一方、多様化に対する対応は大きく後れを取っている。みんなと同じことをしないと不安になる人も多いだろう。しかし今必要なのは、みんなと違うことをしようという意識を持つこと、そして社会が脱横一線の意識を持つことである。

物は同一商品大量生産型から、小生産多品種型へと変わってきた。これは何も物だけではない。人間も皆同じではなく、それぞれが他とは違う独自性、オリジナリティを発揮することが、現代社会を生き抜いていくのには必須である。

個性は内面から出すべきだ。

多様化した現代では、画一性よりも個性が重要視されつつある。ただ個性と言っても様々あり、だからこそどのような側面から個性を出すのかは工夫のしどころである。

個性を大きく二つに分けると、外見の個性と内面の個性に分けられる。外見とは身だしなみや服装、身体の外見である。内面は性格、思想、生き方である。

では外見と内面のどちらから個性を出すべきか?僕は外見にも気を遣いつつ、内面からアピールすべきだと思う。外見は他人に大きく印象付けられる。だから個性というよりどう印象付けるかということを意識すべきだ。

例えば大人の基本的な服装であるスーツは、きっちりと着こなせば好印象を与えることができるが、スーツのディティールにはかなり制約があり、奇抜な個性とは対照的な位置にある。その制約下でいかに整えるか、そこがスーツの深くて面白いところでもある。

外見を整えれば、後は内面の独自性を思いっきり出していこう。当たり前の話であるが、内面はその人の人間そのものである。だから個性は内面から出さなければならない。

とは言え、内面は意外と外面にも表れるものである。仕草一つとっても内面がそのまま外面に表れている。

内面の個性と内面から醸し出される外見。その二つを主張できれば社会の中で“人間”としての存在感を主張でき、一目置かれる存在になるだろう。

“ナンバー1”という名のオンリー1。

「ナンバー1でなくてもオンリー1でいい」ということを歌った歌があるように、最近はオンリー1を目指す人は多い。もちろん周りと同じことをして埋もれるよりかは自分だけのオンリー1を持った方が断然良い。オンリー1になることは非常に大事なことである。しかし、オンリー1が注目を浴びる中、ナンバー1の価値が見過ごされているように感じる。

オンリー1はナンバー1ではないが、ナンバー1はオンリー1でもある。ナンバー1を目指してオンリー1になるということが現在の社会に欠けているのではないだろうか。

オンリー1を突き詰めれば、それはナンバー1にもつながってくる。ナンバー1を目指すということは、人と同じことをして競争することではない。手段は自分独自のものでなければならない。

ナンバー1なんてなれないと初めからあきらめる人も多いが、「我こそは絶対にナンバー1になるぞ!」と名乗りをあげるような頼もしい人がどんどん出て来てほしいものである。

歴史から何を学ぶ?

よく「歴史から学ぶ」という言葉が使われる。歴史を学ぶ理由はいろいろあると思うが、過去の歴史を教訓として現在の状況を考えるというのも一つの理由であろう。とは言え、過去の歴史がそのまま現代に当てはめられるわけではない。

織田信長は現代においても注目の人物であるが、彼はご存じのとおり何万という人間を殺りくしてきた。だからと言って彼を殺人者呼ばわりする人は少ない。それは過去と現代、あるいは歴史と現実を区別して物事を考えているからだろう。

歴史をそのまま捉えるのではなく、現代にマッチするように解釈をアレンジすることが大事だ。歴史からどれだけの事を学べるか?それには深い考察と時代解釈が要求される。

世の中の動きの当事者と、経済の解析屋。

当たり前の事であるが、世の中を動かしているのはビジネスなどのプレイヤーであって、決して解析屋ではない。解析屋とは経済学者や評論家のことである。

解析屋の言うことをまともに受けてはならない。なぜなら当事者でない彼らには責任が全くかかっていないからだ。責任がないから好きな事、言いたいことを何でも言える。その結果、それが間違っていても彼らはそれが無かったかのように次にまた言いたいことを言うだけだ。

では当事者はどうだろう。彼らが判断を誤れば、即刻自分の立場が危うくなる。従って行動や発言も慎重に慎重を重ねるだろう。その結果、当事者の発言や行動は、解析屋の発言よりも圧倒的に信頼がおける。

科学の分野では科学者が当事者であるが、経済、あるいは文学の分野では当事者は経済学者・文学者ではなく、経営者・小説家である。従ってこれらの分野では、学校で習うことは現実社会ではほとんど役に立たない。実践を積み重ねることによって才覚を磨いていくしかない。

考えるより即行動。世の中は動いてナンボの世界である。

バカな生き方が面白い!

多くの人は、賢い生き方をしたいと思っているのかもしれない。しかし僕は賢い生き方などはしたくないと思っている。常にバカでいられるか?バカを突き通せるか?そんなことを思っている。

賢い生き方は無難かもしれないが、バカな生き方の方が断然面白い。賢い生き方は「賢いね」で終わるが、バカな生き方は笑いが取れる。笑いを取ることにどれだけ意味があるかはわからないが、僕はそっちの方に生きがいと面白さを感じる。

人間らしいバカでいられるかどうか?自分が人間である以上は、そんなことを考えバカな生き方を貫いていきたい。