投稿者「木原 康明」のアーカイブ

最近、僕が評論をしなくなった理由。

最近の僕のブログを見て、気付かれた方もいるかもしれない。それは、最近あまり評論を書かなくなったことだ。なぜ評論を書かなくなったかと言うと、それは実行者への敬意を表するためだ。

はっきり言って、評論をするだけなら何とでも言える。誰でも好き勝手に言える。しかし本当に必要なのは評論者ではなく実行者なのである。政治で言えば、政治評論家ではなく政治家であると言えよう。

もちろん、政治に関して言えば評論者・評価者の存在は非常に重要である。それが無ければ政治家は暴走してしまう可能性がある。しかし評論家以上に政治家が重要なのは当然であろう。重要であるからこそ、大きな責任を背負い、その対価として権力が授与されていると言えなくもない。

政治の話はひとまず置いておくとして、何に関しても実行者の存在が一番重要である。だからこそ僕自身も、評論者ではなく実行者でいたいと思っている。そして実行者として実績を残そうと何とかもがいている。

評論をしている暇があれば、少しでも実行して当事者になる心構えが非常に重要である。

国会開会中、首相は忙しい。

現在、衆議院で国会が開会されている。一般人にはなかなか国会の仕事は分かりづらいし、具体的に総理が何をしているかは把握しづらい。しかし便利なことに、毎日「首相動静」というものが伝えられる。

2月28日の首相動静を見ると、総理の多忙さが目に見て取れる。1分刻みでスケジュールが進行し、多数の政治家との面会もこなしている。午後11時を過ぎても衆院本会議場にいる。もちろん国会開会中に忙しいのは首相だけではなく他の国会議員も同じだと思うし、それを取材するメディアも多忙であろう。

28日に総理が面会した有力政治家は、首相動静に載っている名前の数を数えると17人。もちろんそれ以外の政治家とも多数接しているだろう。有力政治家との強い連携が想像される。

公人中の公人である総理の仕事を知れば、日本がどのように動いているか、その一端が垣間見れる。

自分の頭の中身と考え方。

「今までできなかったから、次もできない」と考えるか、それとも「今までできなかったけど、次はできる」と考えるか。どちらのように考えるかで自分の将来は大きく変わる。

次もできないと考えると、次へのアクションを起こせなくなる。アクションを起こさなければ、できる可能戦はゼロである。次はできると考えてアクションを起こせば、できる可能性は100%でなくてもゼロでは決してない。さらに成功への展望がはっきりとしていれば、可能性はぐっと上がる。

人間の頭の中身は他人には見えない。しかし自分では頭の中身が見えることは多々ある。自分の頭の中身が見えていれば、次への道筋がおのずと見えてくる。従って自分の可能性は自分が一番把握しているはずだ。可能性の判断を、決して他人任せにしてはいけない。

頭脳ゲーム。

先日の五輪カーリングの試合を観ていて、カーリングとは非常に頭脳を使うゲームであると知った。ストーンをどこに置きに行くかを読むことはもちろんだが、コーチは三投先まで読んでいるらしい。カーリングは頭脳スポーツであると言えよう。

頭脳ゲームと言って真っ先に思いつくのは、将棋であろう。先ほどのカーリングと同じで、次の手を読む「短期的展望」、そして試合全般を読む「長期的展望」が必要になる。この二つの展望は、人生についても同じである。“今どう生きるか”という短期的展望と、“どのような人生を歩むか”という長期的展望だ。人生と将棋とのこのような類似点は、人生が将棋と同じ頭脳ゲームであることを示唆しているのかもしれない。

頭脳ゲームと言って絶対に外せないのが数学である。数学は言うまでもなく学問であり、ゲームとは離れたところにあるように思う人もいるかもしれない。もちろん、数学者の数学に対する姿勢も様々かもしれないが、数学をゲーム、あるいは遊びと捉えている数学者も少なくない。そして意外と数学をゲームや遊びと捉えている数学者の方が大きな実績を挙げている。とある偉大な数学者は、数学に対して「この遊びはやめられない」と述べている。

身の周りには頭脳ゲームがあふれている。一時のお遊びのようなものもあれば、人生を懸けるに値する頭脳ゲームもある。人生を共に歩む頭脳ゲームを持つことは、あらゆる側面で人生に刺激を与えてくれるに違いない。

強い人間ほど、己の無力を認められる。

多くの人はなかなか自分の無力を素直に認めようとはしない。そしてその中の一部は虚勢を張ろうとする。自分が弱いからこそ、その弱さを隠そうと虚勢を張るのだ。

逆に強い人間は己の無力を素直に認められる。なぜなら自分の強さに裏打ちされた自信があるから、虚勢を張る必要がないからだ。そして強いからこそバカにもなれる。

自分の強みと弱みを自身で把握しておくことは重要だ。しかし弱みは決して直さなければいけないものではない。弱みを直すのではなく、それを強みに変えるのだ。強みに変えることは直すことよりも圧倒的に威力を発揮する。さらに強みをより強くすることができれば盤石だ。

己の無力を認められない時は、自分が弱くなっている証拠だ。いかに弱みをさらけ出してバカになれるか、それができれば自身はより強くなれる。

ポジティブ!ポジティブ!

はっきり言って、ネガティブに考えていいことは何もない。逆にポジティブに考えて悪いことは何もない。ならば何でもポジティブに考えればいいはずだが、ポジティブになれないこともよくある。

笑っていていいことはたくさんある。笑っていれば切り抜けられることもたくさんある。逆に暗い顔をしていては良いことは起こらない。ならば常に笑っていればいいが、笑顔になれない時もたくさんある。

僕は人よりも何倍も笑っていると感じている。笑っていることは多いが、人以上に悩んでしまうこともよくある。無駄な悩みほど悪いことはない。時には悩むことも必要だが、悩んで気を減らしていてはどうにもならない。

最近、悩んで苦しくなりそうな時は「ポジティブ!ポジティブ!」と口ずさむことにした。「何とかなるさ」と思うことにした。この二つの言葉は非常にいい言葉だ。そのような言葉を日ごろから口ずさむことによって、現実も良い方向に進み、気分も無意識的に明るくなるものかもしれない。楽観的になることは生きる上で非常に重要である。

銀メダルをどう捉えるか?

五輪のアイスホッケーで銀メダルを獲得したカナダ選手の一人が、表彰式で銀メダルを首から外したことがニュースになっている。この選手の行為に対して賛否両論があるが、この行為をどう捉えるべきだろうか?この行為を非難する声は多いが、僕はむしろこの選手の行為に対して非常に好感を持った。

まず銀メダルというものをどう捉えるかだが、世界で2位なのだから凄いという声は多いが、見方を変えれば1位を逃したということだ。銀メダルで喜ぶ選手は多いが、1位を目指して取り組んできた選手にとっては銀メダルは屈辱でしかない。2位という地位に満足せず、絶対に1位でないとダメなんだという意識は、プロのスポーツマインドとしては非常に高いレベルにある。2位で喜ぶ選手よりも2位で悔し涙を流す選手の方が圧倒的に将来性がある。

オリンピックではメダルがもらえる3人(3チーム)が特別だという認識がされているが、本来は1位以外は全て敗者なのである。もちろん2位も凄いことなのだが(銀メダルは世界で2位だから凄いのは当然だ!)勝負で勝者というのは1位の人だけを指す。

今回2位となり、敗者となり、メダルを首から外し悔し涙を流したカナダ選手のマインドには称賛の声を送りたい。そして次は1位になって表彰台に戻って来てほしい。

哲学的原点。

最近は哲学書には全然触れていなかったが、思うところがあって本棚にある西田幾多郎の哲学書を手にとって眺めていた。僕にとって哲学とは人間の学であって、理想を貫く生き方をするためには哲学は欠かせないものだ。

哲学と自然科学との関係については、哲学者、科学者双方に対して融和的な印象は受けない。科学者は哲学者を見下し、哲学者は科学者を支配下に置きたがる。とは言え、僕自身は哲学と科学はそもそも守備範囲が異なるのではないかと感じている。哲学と科学を同じ土俵で闘わせるのには無理がある。

だからと言って、科学者は哲学を無視すればいいのかと言えばそうではなく、科学者にも哲学的素養は非常に重要である。また逆に、哲学者も自然界の真理として科学を熟知することは必要である。

僕にとって、非常に重要な哲学的命題が一つある。それは「いかにして生きるべきか」と言うことだ。哲学的に論じるからには、体系的に解決策を築いていかなければならない。

物理学的命題は解決するときはあるだろうが、哲学的命題は人生が終わるまで追い続けるのかもしれない。

フィギュアスケート女子は、表現力に注目だ。

21日、五輪フィギュアスケート女子ショートプログラムが行われた。予想通り、OAR(ロシア)のメドベージェワとザギトワが共に世界最高得点をたたき出し圧倒的な存在感を見せつけたが、日本の二人、宮原知子選手と坂本花織選手も負けてはいない。

初めに登場した坂本選手は、滑り出した瞬間、明らかに今までと違うとすぐに感じた。スケーティングが非常になめらかで、体の動きから出る表現力も非常に柔らかい。そしてその後、ジャンプはノーミスで終え、パーソナルベストをたたき出した。

宮原選手も出だしから非常に良く、日本の和の表現を非常にはっきりと表現されていた。団体戦で指摘された回転不足も全くなかったようだ。

OAR(ロシア)の二人が圧倒的過ぎて、日本人の金銀ははっきり言って絶望的だが、銅の可能性は非常に高い。宮原選手の演技は以前から定評があり、ミスパーフェクトとも言われているが、注目は坂本選手だ。去年の終わりころから坂本選手の大きなミスは見たことがない。圧倒的な勢いもある。しかも弱いと言われていた表現力に関しても、ショートではトップレベルの表現力で魅了するところまで来た。

ところで僕は、フィギュアスケートの演技を観るとき、ジャンプよりも表現を感じることを楽しみにしている。そういう意味では宮原選手の和の表現は非常に魅力的でもある。そのような目でテレビ中継を見ている時、非常に残念なことがある。今季から演技中にテレビ画面左上に表示されている「技術点カウンター」だ。フィギュアスケートではもちろん点数は重要であるが、演技者の演技、特に選手の表現力を集中して感じたいのに、技術点カウンターが気になる。だからあえて技術点カウンターは視野に入れないようにしているが、それでも技術点カウンターは目障りだ。

ジャンプはもちろんフィギュアスケートの醍醐味ではあるが、表現力にはジャンプ以上の魅力が詰まっている。特に女子の演技では、男子にはない女子特有の魅力ある表現が醸し出されているので、23日にあるフリーではそのような所を感じるのも非常に面白い。

結果が分かっていることに取り組むのではなく、可能性に懸けて取り組む。

確実に結果が出ることに取り組むのではなく、可能性に懸けて取り組むからこそ大きな飛躍が生まれる。確実に結果が出ることに対しては、改めて取り組む重要性は少ない。真に革新的な結果は可能性から生まれるのである。

もちろん安定性という視点から言えば、確実に出ることが分かっていることの方が堅いし無難である。もちろんそれも一つの生き方であろう。もしかしたらほとんどの人はそちらの方を選ぶかもしれない。

可能性に懸けるということは、ある意味ハイリスクかもしれない。そしてハイリスクだからと言ってハイリターンだとは限らない。割に合うか合わないかといえば割に合わないかもしれない。

しかし可能性に懸けて出した結果に対して、無難に過ごしてきた人間が口をはさむ資格はない。可能性に懸けた人物の境遇は、可能性に懸けた人物にしかわからないからだ。

可能性に懸けるか?確実に出ることに取り組み無難に生きるか?それはそれぞれの人生観によるのだろうが、可能性に懸ける方を取る生き方をする人間も世の中には少なからず必要であろう。