投稿者「木原 康明」のアーカイブ

ブログ復旧しました!

2日間ほどブログサイトがダウンしていましたけれど、無事復旧しました!

再び毎日ブログをアップしていこうと思います。

よろしくお願いします。

木原康明

フォワードのさらに前を行く!

超攻撃的人生を実行するためにはどうすればいいか?そのキーワードは「フォワードのさらに前を行く」ということだ。フォワード的位置は、普通の攻撃的ポジションだ。そのため、超攻撃的に物事を進めるためには、フォワードよりさらに前のポジションに位置しなければならない。

「超攻撃的」とは、物事や人生の進め方の姿勢であるが、それと同時に「必ずゴールを決める」という意味合いもある。従ってゴールを決めてなんぼの世界である。

サッカーで最前線のポジションはフォワードである。従ってサッカーの世界ではフォワードのさらに前というポジションは存在しない。しかし必ずゴールを決めるという意味では、メッシやC.ロナウドはフォワードのさらに前を行っていると言える。すなわちフォワードのさらに前を目指すということは、その世界でメッシやC.ロナウドを目指すことを意味する。

誰もが「フォワードのさらに前を行く」ことができるわけではない。これを実行するためには、実力や技術、そして強い意志を持たなければならない。しかし自分にそれだけの実力と意志を持っていると自負できるのなら、そのようなポジションをとって超攻撃的に進めることは非常にエキサイティングな挑戦である。

自己精神マネジメント。

自分の目標とすることを達成するためには、専門の知識・技術を高めると同時に自分の精神をコントロールすることが必要だ。しかしこのような自己精神マネジメントにはあらゆる側面があるし、また高いレベルでマネジメントをする必要がある。

僕は自己精神マネジメントには大きく二種類あると考えている。一つは攻めの自己マネジメント。もう一つは逃げの自己マネジメント。僕は現在、攻めの自己マネジメントを徹底的に追求している。なぜ攻めの自己マネジメントが必要かというと、それは自分の行動の自由、及び精神の自由に直結するからだ。

あらゆる面で自由でないと創造的な取り組みをすることはできない。そのためには身体と精神が高いレベルで健康であることが求められる。もちろん先日亡くなったホーキング博士のように、身体的に不自由でも徹底的に高度な精神を持って創造的な仕事をする人もいる。しかし普通の人にはとてもまねはできない。

高度に自由な思考で生き、非常に高度な目標を達成するためには、精神と身体のマネジメントを徹底的に追求することが必要だ。

知は受け継がれる。

最近、ソリトン理論関連のことを調べることがあり、その中でも戸田格子理論で有名な戸田盛和さんのことを調べた。戸田さんはもうお歳だろうとは思っていたが、1917年生まれで、2010年に93歳で亡くなっているらしい。戸田盛和さんはもうこの世にはいないが、戸田理論はこれからも長く残っていくだろう。

当たり前の事だが、科学者と言えども人間であるから、いつかはこの世からいなくなる。しかし科学者が残した理論はこれからも長く残っていく。いや、長く残る理論を作らなければならない。

いつの時代も同じだと思うが、多くの科学者は流行の理論に飛びつき、流行に乗った確実に結果が出る問題に取り組む。それ自体は間違っていないのかもしれないが、なんだか納得できない。しかし納得できないのなら自分が行動で示さなければならない。

多くの受け継がれない知ではなく、価値ある受け継がれる知を構築することが重要である。そのような意味のある研究に取り組んでいる科学者がどれだけいるのか?残念ながら多くはいないように感じている。

目の前の勝負より、その先の勝利!

サッカー日本代表・ポーランド戦の試合は、「目の前の勝負よりその先の勝利」とブログでも書いた。今でもポーランド戦での戦術には納得いかないが、自分自身の事に対して振り返れば、それはまさに「目の前の勝負よりその先の勝利」を目指していることと再確認した。

この信念で進めた場合、その先で勝利を挙げることができれば大きな評価を得ることができるが、もし勝利できなかったら笑いの的だ。もちろん、僕もその覚悟で進んでいることは言うまでもないが、サッカー日本代表の西野監督も同じ覚悟かも知れない。

もちろん、小さなことを積み重ねていくことは大事であるし、そこで小さな結果を出し続けることも大事である。サッカー日本代表も小さな結果から大きな結果まで出し続けてきた。僕自身も結果を出す必要性は痛感している。

小さな積み重ねなしに、その先の大きな結果はありえない。僕自身もこれまでの人生の中で小さなことを積み重ねてきた自負がある。

小さなことを何年、何十年も積み重ねると、人には見えない世界が見えてくる。サッカー日本代表にもそのような世界が見えているのだろう。

将棋の羽生善治さんは、才能とは継続することだと言っている。何時間集中して打ち込むことは多くの人にも経験があるだろうが、30年以上当たり前のことを継続することは容易ではない。しかしそれができる人には、そのことが才能があるということなのだろう。

当たり前のことを30年以上続けることができていれば、少し胸を張っていいのかもしれない。僕も少し胸を張ろうかな?

サッカー日本代表、何が問題なのか?

サッカーW杯ポーランド戦、日本代表の戦いはあまりにも不甲斐無かった。特に終盤はパス回しによる現状維持で怒りに震えた人もいるだろう。僕もそのうちの一人だ。勝っていて、あるいは引き分けでそれを維持するためにというのならばまだわかる。しかし“負け”を維持するためのパス回しなど聞いたことがない。正直言って西野監督には失望した。

では、この終盤のパス回しによる現状維持の何が問題なのか?確かに現状維持すれば決勝トーナメントへの出場へ大きく進むことになる。目の前の勝負を捨て、その先の勝負を取ると考えれば、そのような作戦も十分にありだ。

しかし問題はそこではない。日本代表が戦っている時、もう一つの試合であるセネガル対コロンビア戦も同時に行われている。そちらでコロンビアが1点リード。このまま行けば日本は1点差で負けても決勝トーナメントへ進出が決まる。しかしセネガル対コロンビア戦もまだ終わっていない。つまり日本代表は自分たちの運命を現在進行中の他試合に預けたのである。まさしく他力本願。他試合の行方を“自分たち”で左右することはできない。ここに問題があるのではないかと思う。

とは言え、とにかく決勝トーナメントに進出が決定した。次の試合で西野監督の評価の全てが問われる。もしベルギーに勝利すれば西野監督は大きく再評価される。しかしベルギーに負けると西野監督と日本代表は世界の笑いの的になる。それが勝負の世界である。

なぜ大学教育では真理探究に重きを置くのか。

大学、学部、学科によって学ぶ目的は様々だが、大学教育というものは基本的に真理探究に重きを置いている。いや、正確にはそれに重きを置くべきだということかもしれない。

なぜ真理探究に重きを置くべきか?それは大学を出た後に大きく関係する。人間として、あるいは社会人として上を目指していくためには、常に勉強を続け、技術を身に付けることが必要になる。そのためには基盤が必要になる。その基盤こそが大学での真理探究なのである。

最近は大学での実学志向が甚だしい。すぐに役に立つ知識、すぐに役に立つ技術を学生が求め、大学側もそれに応えようとしている。しかしすぐに役に立つものは、枯れるのも早い。言い方を変えれば小手先の知識・技術であると言うことである。

また、すぐに役に立つものばかりを追い求めると、選択肢も狭まり、将来性を縮小させることにもなる。基盤知識・技術を身に付ければ、一生学び続けることができ、社会の変化にも柔軟に対応できる。

真理探究というものは、知識を追い求めることではない。思考を追い求めることである。現在の情報社会では、知識などというものはコンピューターで検索すれば瞬時にいくらでも出てくる。そこで必要になるのが人間の知恵である。

これからの情報社会、コンピューター社会で生き残る鍵は、人間らしさと人間の思考であるはずだ。

科学とは原理の事だ!

科学という言葉を履き違えている人が多い。科学とは結果ではなくて原理の事だ。

例えば、エジソンは蓄音機を発明したが、蓄音機から音が出てくることが科学ではなくて、蓄音機から音が出てくる原理が科学なのである。発光ダイオードが光って照らされることが科学ではなく、発光ダイオードから光が出てくる原理が科学なのである。

現代社会は科学によって成り立っているとはよく言うが、社会におけるシステムや機器は科学から導き出される結果であって、科学そのものではない。何か科学的現象を体験するだけで科学に触れたと勘違いする人がいるが、原理にまで踏み込んで初めて科学なのである。

現代においてはほぼすべての事がブラックボックス化され、科学的側面が覆い隠されている。従って科学技術によって発展してきた社会が、皮肉にも人々を科学から遠ざけてしまうことになっている。こんな現代社会だからこそ、シンプルでも原理が見えるものに踏み込んでみることが必要なのではないか。少なくとも最先端技術に対して原理に踏み込むことは容易ではない。

この様な事を考えると、現象がどのような原理に基づいて成り立っているのか、ますます見えづらくなってくる。

身体と精神がますます健康になっていく!

タイトルに相反するようだが、ここ二日間くらい少し体調を崩した。と言っても微熱があり、だるいくらいなので、ちょっとした不調と言った方が正しいかもしれない。

しかしもう少し長い目で見ると、僕の身体と精神はますます健康になってきている。ブログで何度も書いたように、健康は最大の実力であると考えているので、僕の身体と精神の健康は胸を張って誇れるものかもしれない。

何らかの不良がある時、多くの人は薬に頼ることだろう。風邪をひいたときには風邪薬をというふうに。もちろん、薬に頼らないに越したことはない。薬を飲まずに元気でいられることは、非常に素晴らしいことだ。しかし、不調である時に薬を飲んで元気になれば、それはそれで良いことだ。しかし薬に溺れてはいけない。

僕はここ五年くらい、ほぼ毎日筋トレをしている。おかげで身体は若い頃以上にたくましくなってきているように思える。数学や物理の研究においても、研究者は「一に体力、二に体力、三四がなくて、五に知力」とはよく言ったものだ。体力と精神の健康は何よりも大事である。

しかし、この健康を無駄にしてはいけないと強く思っている。健康であることを最大限に生かし、前に進むことが大事である。

「俺は、俺は」を考え直す時。

自分に余裕がない時、一番に考えるのは自分の事だ。「俺は、俺は」の思考で考えれば自分の事が前進するように錯覚するが、実は自分の事というのは他人と、あるいは社会と結びついているので、相手の事を一番に考えることが周り巡って自分の事にプラスに働くことがよくある。そのことに気付くことが大事である。

とは言え、「俺は、俺は」と考え、自分が最前線に出て行くことも時には重要である。

現在、サッカーのワールドカップが開催されているが、日本のサッカーは基本的に組織的プレーである。それに対してアフリカ勢のサッカーなどは個人技が大きくものを言っているように思える。確かにどちらが優れているという訳ではないかもしれないが、組織的プレーを重要視する日本にも「俺が、俺が」と自分が出て行き決めることも大事なように思える。

僕はと言うと、基本的に「俺は、俺は」という人間である。個人技で勝負するという人生を信条としている。しかし当たり前の事だが、自分一人で生きているわけではない。従って周りの人の事を考えることも大事である。その部分の加減は難しい。しかし自分にしかできないことがあるなら、そこでは「俺が」と自分が出て行くべきである。

とは言え、何事も組織的に進め協調性を重要視する日本においては、個人技で勝負する人間に対しては風当たりが強いものである。