投稿者「木原 康明」のアーカイブ

失敗はしても、挫折はするな!

僕はこれまで数えきれないくらいの失敗を経験してきた。失敗の数は、人の何十倍も何百倍もあるだろう。正直言って、成功なんてほとんどないと言ってもよい。しかし、これまで挫折したことは一度もない。

僕が挫折したことがないと言えば、周りの人からクレームが来るかもしれない。数々の挫折をしてきただろうと。では、そもそも失敗と挫折の違いは何だろうか?

失敗は客観的事実である。それに対して、挫折は主観的なものであり、周りが何と言おうと、自分が挫折していないと言えば、それは挫折していないのである。すなわち、僕が挫折していないというのは、僕が挫折していないと思っているだけであるとも言える。

僕は案外粘り強く鈍感だ。鈍感というとイメージは悪いかもしれないが、敏感ですぐに挫折感を味わいあきらめるよりかははるかにいい。最近流行の”何とか力”という命名をすると、”鈍感力”とでも言うべきか。

鈍感で挫折を認識しないくらいの図太い人間の方が、目標に向かって進むにはちょうどいいのかもしれない。

日本は「エキサイティング」という言葉を履き違えている。

僕は、「社会はエキサイティングでないといけない」と思っている。エキサイティングであることは社会の、そして物事の、そしてそこに生きる人間の活力源だと思っている。

しかし、日本人は何かエキサイティングという言葉を履き違えているように感じる。それは、「エキサイティング=お金のギャンブル」という構図が日本人の頭に根強くこびりついているのを感じるからだ。もちろん、このようなことは日本に限ったことではないと思うが。

昔からパチンコなどのギャンブルは、社会問題として議論されてきた。しかし既得権益を守るためか、パチンコ店の数が減ったようには全く感じない。一方韓国ではパチンコの根絶に成功している。僕自身、韓国という国に良いイメージは持っていないが、このことに関しては素直にすごいと思っている。政治家に相当の覚悟と権力がないとできないことだ。

パチンコが問題化されている一方、日本ではカジノ計画に関する法律が出来上がりつつあり、各地で誘致が行われている。まったくおかしな話だ。日本は自分で自分の国民の首を絞めているようなものだ。

では、エキサイティングな社会とはどういうことか?それは積極的にチャレンジする人が思い切ってチャレンジできる土壌があるかということだ。しかし日本にはその土壌が乏しいと言わざる負えない。挑戦する人間にかなり冷たい。その一方で、一度挑戦に失敗しただけで、自己責任だと責められる。こんな社会に、挑戦し続ける人がしっかりと育つはずがない。そうなると自然、挑戦者は海外に出ていくことになるだろう。これこそ「異能流出」だ。

現在、日本の経済、さらに広く日本の社会は失った十数年を取り戻しつつあるといわれている。しかしどことなく閉塞感を感じる。その原因はエキサイティングであるかどうかということにも関係がある。

弱者を助けることは当然であるが、挑戦者が夢を持てる社会であることも非常に重要である。そうでなければ、日本は中流国家として安住してしまうであろう。

学ぶより、考えろ!

日本人は、なぜここまで学ぶことが好きなのか?子供から大人まで学習漬けで、最近では生涯学習というものが非常に盛んである。

しかし、「学ぶ」という行為は一方通行である。学ぶだけでやめてしまえば、なぜ学んだのかがあやふやになる。学ぶ行為は「考える」行為に結び付けてこそ有用になる。

しかし日本では、自分勝手に考えることを良しとしない風潮がある。無駄なことを考えるなということであろうか。しかしその「無駄なことを考える」という行為は非常に重要である。無駄な事の中から有用なことが生まれ、創造へつながる。

近年は、効率化が非常に重視されている。もちろん、仕事などで効率化を図ることは避けて通れない道かもしれない。しかしその一方で、多少の余裕も持ち合わせなければいけない。適度な効率化と、発想を生み出す余裕。これらのバランスを取りながら物事を進めていかないと、新たなるブレークスルーは生まれない。

社会と人間は、いつも偏っている。

報道、あるいはメディア記事は、常に偏っていると思った方がよい。もちろん、現在は中立な報道を心がけるようメディアも気を付けているようだが、むしろ偏っている方が普通なのだと思う。

一般科学雑誌も例外ではない。”科学”と言うと、多くの人は、科学=真実、と思いがちかもしれないが、一般科学雑誌はとてつもなく偏っている。専門家から見るとかなり信憑性のない話でも、読者にインパクトを与えそうな記事は妄信的に載せている。そう、科学記事は”真実”ではなく”インパクト”なのである。

そもそも、偏っていない人間などというものはまずいない。偏っていない意見というものは、多くの意見の平均でしかない。多くの意見の平均と、平均的な考えの人間とは、全く別概念である。

もちろん、偏り方がかなり危険な場合は問題があるが、人間の偏りというものは「個性」なのである。そして偏りのない社会というのは同調社会であって、それは偏っている社会より非常に危険な社会である。

お洒落ってなんだ!

僕の毎日の気分転換は、本屋での立ち読みだ。街の大型の書店に行くと専門書などもチェックするけれど、普段は近くの本屋さんで雑誌を読むことが多い。特にファッション雑誌は何誌もチェック。今はファッションにはお金をかけていないけど、いざ買う時のシュミレーションとしても念入りにチェックする。

ところでお洒落と言うと、つい外見に目が行きがちだけど、ファッションってそれを着ている人間が一番大事だと最近は痛感している。内面、そして肉体、それからその人がどれだけ実績を挙げ、どれだけ挑戦しているか。

どれだけ高価なものを着ていても、着ている人間がチープだとあまりにも格好悪い。逆にシンプルな服装でも挑戦し続けている人間は様になる。

お洒落をしようと思うと、まずは自分自身を上げていかなければならない。大きな実績を挙げるため日々努力し、肉体は毎日の筋トレで鍛える。僕が毎日心がけていることだ。

将来は様になる人間になれるよう、心・体を鍛えて、そして今取り組んでいることで実績を挙げれるよう頑張ってみよう。

安倍自民党スキャンダル(不祥事)でも、、蓮舫民進党が支持率を伸ばせない理由。

都議選前、自民党は様々なスキャンダル(不祥事)に巻き込まれた。そして例のごとく、民進党の蓮舫代表は自民のスキャンダルを厳しく批判した。自民党の支持率は低下したが、それによって民進党の支持率は向上したかと言えば、都議選の結果を見てもわかるように全く支持率を伸ばせていない。

なぜ、蓮舫民進党の支持率は上がらないのか?

その原因は、蓮舫氏のスキャンダル追及一辺倒の姿勢にあると感じている。もちろん野党である民進党が与党自民党のスキャンダルを批判するのは当然である。では、

”蓮舫氏の口から具体的政策の話を聞いたことがあるか?”

少なくとも、僕は(自分が不勉強だからかもしれないが)蓮舫氏が具体的政策を論じているところをほとんど見たことがない。蓮舫氏がテレビなどのメディアの前でしゃべるのは、決まって自民党のスキャンダルに関するものだ。

国民もそんなにバカじゃない。野党に対しても、”しっかりした具体的政策を提示しているか”、そこはちゃんと見ている。当たり前の話だが、政治家の一番の仕事は政治だ。従って政治家は政策を論じることが最大の仕事である。国会内で、あるいはメディアの前でしっかりと政策を論じなければいけない。

蓮舫氏はスキャンダルを追及すれば自動的に支持率が上がると思っているのか?そうは思いたくないが、もしそう思っているのならば全く国民をバカにしている。

蓮舫氏にも政策に関する持論はあるはずだ。今からでも遅くはない。国民の前でしっかりと政策を伝えるという姿勢を見せてほしい。でないと、低下した自民支持率は他の野党、あるいは支持政党なしへと流れていくだろう。

”これからの人間”が追い出される社会。

”これからの人間”とは、もちろん子供のことである。

ある記事(読売オンライン)によると、最近の公園には、「走り回らない」や、さらには「大声を出さない」という注意書きがあるという。さらに、児童向けの遊具は撤去され、老人向けの健康器具が設置されているという。

高齢者社会になり、老人の住みやすい社会にするとの意気込みはわかるが、それに対して子供を追放するも同然の社会にするのは明らかにおかしい。走り回らず、大声を出さずにと言われれば、できるのは携帯ゲームくらいしかないだろう。

老人が多くなり、選挙で老人票が重視されるのはわからないではないが、その一方、選挙権のない子供が無視されるような社会にしてよいはずはない。政治家もその場しのぎの短絡的な政策に固執するのではなく、未来を見据えた子供の社会を考え、実行しなければならない。

このような現状で少子高齢化が問題だと訴えても、全く説得力がない。

誰もが昔は子供であったことを、忘れてはいないだろうか?

過ちを犯した者は100%悪なのか?悪のあら探しをする社会とメディア。

犯罪報道などを見て毎回思うのだが、犯罪者と思われる人が明らかになった途端、その被疑者(つまりまだ犯罪者だとは確定していない)が悪の塊のような扱いをされ、犯罪とは全く関係のないことまで全て悪であるかのような報道がされることに、非常に違和感を覚える。犯罪者が明らかになったとたん、メディア・社会は犯罪者のあら探しを始めるのだ。

殺人罪で死刑判決を受け、後に冤罪であることが明らかになり解放された袴田巌さんも、逮捕された当初、犯罪とは全く関係のない個人の趣味にまで悪であるかのような好奇な目を向けられたという。

芸能人でも、一つの過ちを犯したタレントが、過ちが発覚した途端、周りの芸能人が一斉にその芸能人のあることないことを好き勝手に暴露し始める。過ちが発覚した途端、急に豹変する周りの人たちに、僕は卑劣な印象を抱く。

悪のあら探しを望む人たちも多いのかもしれないが、僕はそのようなことを見る度に、もういい加減にしてくれと思う。

聖戦なんてものは断じて存在しない。

もう、IS(イスラム国)が戦闘を起こしてどれだけ経つだろうか。最近はかなり制圧されて、ISの規模もだいぶん小さくなったようだが、先日もISが人間の盾で卑劣な戦闘を行っているという報道がされていた。

ISやイスラム原理主義に限らず、歴史をたどれば昔のキリスト教など、ヨーロッパを含む世界中で「聖戦」という言葉が使われてきた。聖戦という言葉は、戦争を起こす人たちの、そして人間を殺す人たちの”免罪符”として使われてきた。

しかし、多くの人たちは、こう思っているだろう。

「聖戦なんてものは存在しない!」

当たり前である。人を殺すことに”聖なるもの”などは存在するはずはない。現在、ISを壊滅させようと戦闘を行っている西側諸国をはじめとする国々も、”必要悪”として、やむを得ず戦っているのだと思う。

聖戦なんて言葉を掲げて、戦争を美化する集団の存在など、断じて認められない。

人間はグレーゾーンで生きている。

グレーゾーンの真っただ中と言えば、トランプ大統領だろう。ただトランプ大統領ほどではなくても、人間は大なり小なり、グレーゾーンで生きている。

グレーゾーンを上手く白へ持っていけば成功と言えるし、黒になれば失敗と言える。

日本人は白黒をはっきりとつけたがる。グレーが気持ち悪いのである。特に100%白でないと気が済まない人も多い。1%でもグレーが混じっていると、それを徹底的に取り省こうとするのである。

しかし、グレーをグレーのままで物事を進める余裕も必要である。100%白でないといけないとすると、物事が全く進まなくなることがある。グレーを容認することは、心の余裕、そして社会の余裕なのである。そしてその余裕が新しい創造へとつながる。

グレーが気持ち悪いという人も、少しグレーを受け入れると良い。そうすれば心の許容範囲が少し広くなるのを感じるだろう。