投稿者「木原 康明」のアーカイブ

他人を信じるか?自分を信じ抜くか?

自分を信じ抜くということが出来ていない人が意外と多い。日本では他人の意見を尊重することが大事だと教えられ、それが人徳だとも言われている。そのこと自体は決して間違ってはいない。物事は多様であり、それらの多様性を大事にするためにも人の考えは尊重しなければならない。しかし尊重すべきは他人の「思考」の結果出てきた意見であって、既定路線をダダ流しするだけの言葉や固定観念から出てくる意見、そして自己保身のための言葉を認める事ではない。特にどこからか仕入れてきた情報を口からスピーカーのように流すだけの言葉なんてどうでもいい。

しかし、他人を信じることは大事だ。なぜなら人間にはどうしても自分だけでは出来ないことがあるからだ。自分が出来ないことは他人を信じるしかない。それに他人を疑ってばかりでは人間の器が小さくなるばかりだ。時には他人に行方を丸投げするくらいの心構えも必要だ。それは部下を信じ自分は責任だけを負う将校にも似ている。

しかし、自分で考えられることは出来る限り自分の思考で導き出すことが筋だ。特に自分の進むべき道は、自分で考え抜いて導き出さなければならない。他人の意見に従い、それで失敗して他人に責任を押し付けるなどということは論外である。自分で結論を出し、全ての責任は自分で負う。そのような行動の繰り返しによって人間は成長するのだと思う。逆に言えば、それが出来ない人は退化して行くということだ。

「自分を信じ抜く」ということは、「自分で全ての責任を負う」ということだ。つまり、自分で思考できない人間は、自分で責任を負うという決断さえもできないのである。安易に他人を信じるということは、自分の自我の放棄である。そして自分の人間性さえも無にしてしまう。自分が人間である限り、自分で思考し、自分で決断し、自分を信じ抜くべきである。極論を言えば、それが出来なければ人間でないということだ。そういう意味で人間である人がどれだけいるか?もしかしたら意外に少ないのかもしれない。

面白い事、発見!

最近、面白い理論を知った。数学の代数的な理論であるが、知ったというより「気付いた」と言った方が正確かもしれない。昔からその理論の存在は知っていたが、最近必要に迫られてその理論の専門書を読むと、びっくりするくらい面白い理論であることに気が付いた。以前の僕は代数学は専門外であると全く手を付けることはなかったが、いざ手を付けてみるとこれが非常に面白い!物事というものは、必要に迫られて取り組む方がより面白く感じられ、意外な発見をするものかもしれない。

僕は計算よりも構造に興味がある。その理論も計算理論というよりも構造理論だ。しかもその構造の理解の仕方が面白い。計算半分、図を半分という具合に、視覚的に構造を訴えてくる。そして理論の適用範囲が非常に広い。代数学の理論ではあるが、解析学、幾何学、そして数理物理学にも縦横無尽に利用されている。良い理論というものは、無限の適用範囲があるのかもしれない。

物事に取り組む時、壁を作るのは好ましくない。専門ではないからと言って初めから手を付けないのは、あらゆる意味で不生産的だ。必要なものは何でも取り組んで行く、そのような姿勢で取り組むことが大きな成果へとつながるのだと思う。専門にこだわり続けば永遠に蛸壺の中で過ごすことになってしまう。

僕は基本的には分野の区別というものをしない。数学と物理学という区別も意識しないし、最近は全く専門外と言えるかもしれない生物学の論文も読んだりしている。分野の壁とは人間が便利上の理由で人工的に作ったに過ぎない。そもそも自然に物理学と化学の境目なんて存在しない。化学と生物学も同じだ。分野の壁にこだわるのは非常にバカバカしいことである。

数理的自然と自然科学は全てが一体化して構成されている。数学の理解なしに物理学の理解はありえないし、物理学の理解なしに化学や生物学の理解はありえない。数理と自然科学を一体として理解する姿勢がなければ、科学の本質は永遠に理解できないだろう。

どのように稼ぐか?お金の価値に対する考察。

お金の価値とは何だろう?その一番単純な答えは、お金の額面である。一万円なら一万円の価値があるし、一億円なら一億円だ。しかし多くの人が気付いているように、人それぞれお金に対する感覚は違う。百万円を持っていても、それをすごく価値があると捉える人もいれば、はした金だと見下す人もいる。そもそもお金の価値というものは、誰が持つかによっても変わるし、どのように稼いだかによっても変わる。ここでは少しお金の価値というものについて考えよう。

「悪銭身に付かず」とは昔からある言葉だが、この言葉ほどお金の価値に対する本質を突いたものはない。悪銭、つまりどのような手段でお金を手に入れたかということによってお金の価値は大きく変わる。そもそも悪銭というものは額面に比べて全く価値がないということを言っているのである。価値がないからすぐになくなってしまう。悪銭の百万円は実はたった百円だったということなのである。

逆に自分の思想を人生において実行し、才能と努力によって手に入れたお金は莫大な価値がある。こちらの百万円は実は百億円なのである。だから簡単にはなくならない。そしてこのようなお金には、お金以外の価値も多くもたらしてくれる。例えば良質な人間関係とか、あるいは自信などの精神的な余裕とか。もしかしたらお金以外の価値の方が大きいかもしれない。

このような事から、僕はどのようにお金を稼ぐかという「手段」に徹底的にこだわる。実際に百億円のお金を稼ぐことは非常に難しいかもしれないが、百億円の「価値」を手に入れることは不可能ではない。重要なのはお金の額面ではなく価値なのである。世の中には「手段を選ばず」という考えが蔓延しているが、「お金をどのように稼ぐか?」という手段を選ぶことによって稼ぐことが出来る「価値」は大きく飛躍できると僕は考えている。

未来は今の自分の中にある。

自分は未来に希望を持っているだろうか?未来に希望があるかないかは、今の自分の意識によって決まる。未来に希望を見出せる人は、今の自分の中に熱烈な希望がある人だ。今の自分の中に希望がない人は、未来に希望が持てない。それは例え莫大なお金があろうが、今の生活に不自由をしていなかろうが、皆同じである。

希望は持とうと思って簡単に持てるものではない。希望を持つためにはまずは自分が能動的にならなければならない。そして挑戦をすることが必要だ。常に現状維持をすることばかり考えていては、いくらお金があっても未来に希望は持てない。そして現状維持を目指す先には、ほぼ必ず衰退が待っている。

人生は楽しむ事が大切だ。それと同時に苦しむことも非常に重要である。悲しみがあるから喜びをかみしめることが出来るのであって、悲しみがなければ喜びのありがたみがわからない。それと同様に、苦しみがあるから楽しさをかみしめることが出来るのである。すなわち、様々な事を体験しなければならないということである。そのように山あり谷ありの人生を歩んでいると様々な刺激を受け、そのような刺激の中に未来へのヒントが隠されているのである。そして刺激の多くは挑戦から生まれる。やはりいつになっても挑戦は重要である。

今は本当に苦しくても、未来を描ける人間は常に希望でいっぱいである。そしてそれは何も若者だけの特権ではない。いくつになっても希望は抱ける。もう若くはないからとか言っているのは単なる言い訳でしかない。若くないから希望を抱けないのではなく、挑戦しないから希望がないのである。希望に満ちた未来を創れるかどうかは今の自分にかかっている。未来に希望を抱くためには、今挑戦し続けるしかないのだ。

より深いレベルで!

理論には深さがある。表面的な所から土台となる部分まで、深度によってそれぞれが階層をなしている。最近の技術で言うと、プログラミング言語が典型的な例かもしれない。表面的なプログラミング言語からアセンブリ言語まで、それぞれがそれぞれの階層で役割を果たし、コンピューターをプログラムしている。

数学にも階層が存在する。どのように階層分けするかはそれぞれの数学者によって違ってくるが、おそらく一番深い所にあるのが数理論理学であろう。しかし数理論理学は数学というよりむしろ論理学の範疇にあると言え、一般の数学者にとっては近寄りがたい存在である。

余談であるが、数理論理学の定理であるゲーデルの不完全性定理は何とも不思議で壮大な定理である。不完全性定理は、今風に言えば「数学にはバグがある」とでも言うべきであろうか。数学は完全無欠な体系であると信じられていたのが、数学は不完全であるというのである。不完全性定理のゲーデルの論文の日本語訳は岩波文庫でも出ているが、通常の数学ではなく論理学的な流儀で書かれており、理解するのは簡単ではない。

ゲーデルの不完全性定理が数学の一番深い階層にある理論だとすると、一番表面的な所にあるのは応用数学ということになるであろうか。とは言え、応用数学という言葉を持ち出すのは適当ではないかもしれない。なぜなら応用数学とは理論名ではなく、さらにあまりにも言葉の適用範囲が広く的確に指定できない。

深い階層であればあるほど抽象的であり奥が深い。深い階層の数学には憧れもあるが、手ごわい相手でもある。20世紀の偉大な数学者であるジョン・フォン・ノイマンは、若い頃は基礎的な分野、つまり深い階層で研究しており、晩年はコンピューターのような表面的な階層に移って行ったようである。逆に表面的な階層から深い階層へと移る人もいる。深い階層と表面的な階層のどちらが偉いかという問題ではないが、どちらのテリトリーで研究するにしろ深い階層の存在を意識することは非常に重要であると思う。

二つの方法。

問題を解決するには二つの方法がある。一つは制限を付けて特殊化する方法。もう一つは制限を外して行き一般化する方法。どちらが良いかは臨機応変に考えなければならないが、僕自身は一般化して行く傾向がある。

制限を付けて特殊化して行くことのメリットは何か?それは問題を視覚化できやすくし、何を計算すればよいか見通しが良くなることである。しかしその一方、細分化されすぎて適用範囲が極度に狭まってしまう可能性が高い。

では、制限を外して一般化するメリットは何か?それは一般化されるが故に抽象的になり、適用範囲が圧倒的に広くなる可能性が高くなることである。しかし一歩間違えると自明な結果しか得られず、何の意味もなさなくなる可能性がある。

確実に結果を出そうと思えば、制限を付け特殊化して行くことが非常に有効である。しかしその結果自体はちっぽけなものになるであろう。一般化して行けば問題が壮大になり、あらゆる知識が必要になる。従って問題を解決するための準備が膨大な量にのぼり、準備だけで息切れしてしまう可能性がある。しかしもし結果が出れば非常に大きな成果になるであろう。

フィールズ賞(数学のノーベル賞と言われている)受賞者の広中平祐が学界で問題提起した時、多くの数学者は制限を付けて特殊化して部分的に解決すべきだと言ったらしい。しかしこれまた偉大な数学者の岡潔は、むしろ制限を外して一般化して問題を解決すべきだと言ったという。その結果、広中平祐は一般化して問題を解決することに成功し、フィールズ賞を受賞したという。

問題を解決するに当たり、特殊化するか?一般化するか?これは取り組む問題にもよるが、それ以上にその人の思想が顕著に表れるところだと思う。しかしもし抽象化することに長けているのならば、一般化して問題を大きく捉えるべきだと僕は強く感じる。

自分の師匠は自分、自分の弟子は自分。

「自分の師匠は自分」とはどういうことか?それは自分の行動、自分の思考は、できるだけ自分の中で見つけ出すということだ。世の中では周りに見習い、周りの人の助言を重視しなければならないとよく言われている。もちろんそれ自体は間違ってはいない。しかし過度に周りの人の力に頼りすぎると、自分の思考力、自分の行動力が衰える一方だ。そしてさらに自分の個性というものが消滅して行く。もし同じものが出来上がるのならば、他力に頼って作った物よりも自力で作った物の方が圧倒的に価値が高い。仮にそれらの価値が社会的に同じだとしても、他力に頼って作る場合よりも自力で作った方がそれ以降の発展の余地ははるかに大きい。「自分の師匠は自分」とは「自力本願」だということだ。

「自分の弟子は自分」とはどういうことか?それは自分の作った物、自分の思考によって導いたものを、自分の中で受け継いでいくということだ。自分の事を世界で一番理解しているのは紛れもなく自分だ。だから自分の思考を一番上手く受け継ぐことが出来るのは自分であるはずだ。もちろん年老いて後がないという状況ならば、自分以外に後継者を探さなければならない。社長ならばある時期からは次期社長を育てなければならない。しかし一個人として物事に取り組み深い思考を重ねる中では、とことん自分にこだわった方が良い。そして自分の力が及ばない範囲の事は、他人が上手く解釈し新しい方向性を見出してくれるであろう。結局、「自分の弟子は自分」とは、これもやはり「自力本願」だということだ。

現代社会においては、周りに頼る物が多すぎるように感じる。わからないことがあればネット検索し、特に日本では「力を合わせて」と過度に協調性を重視する。もちろん自分一人で出来ないことは力を合わせればいいが、一人でできる事まで集団でしようとする。そのような状況では自主性が育つはずがない。そのような所は日本社会の大きな課題であるように思う。

日本においては組織に属していることが重視される。人と会うとまず初めにどこの組織に属しているかということを聞くことが習慣になっている。もちろん組織に属している事自体は何も悪くない。問題なのは。組織に属していないと何もできない人間になってしまうことだ。もちろん、組織に属していることで力を発揮する人も多くいる。しかし組織にこだわるが故に自己思考という概念が破たんしてはいないだろうか?組織に属していようがいまいが、自主性を持ち自己思考が出来る人間でなければならないのではと僕は強く感じる。

計算と論理構造。

論理構造を理解するためには計算が必要だが、逆に計算をすれば論理構造が理解できる訳ではない。細部を確認するには計算が非常に有効だが、論理構造を理解するためには大局的に見渡すことが必要であり、大局的構造の確認と細部の積み重ねの確認の双方を融合させることによって論理構造が理解できる。

数学や科学、そして社会においてよく見られるのが、極度の計算依存によって計算万能主義に陥ることだ。なぜ計算を行うのかという目的を考えた時、計算によって数値を出すこと以上に、計算の結果次の計算をどうすればよいかという進路を見つけ出すという意味合いが非常に重要だ。計算によって出した数値自体は数値以上のものではなく、その数値をどう解釈し次につなげるかということが重要なのである。

視野が狭いと、どうしても目の前の計算の沼地にはまってしまう。計算は集合をなし、構造を成している。その計算のなす構造を理解することが論理構造を理解するということなのである。家の建築設計をする時に、トイレだけを入念に設計しても全く成り立たない。一つの部屋だけを設計しても成り立たない。リビング、和室、トイレ、風呂を全て一つの設計の中に組み込んで“家”というものが成り立つのである。

家を建てようと思っている人がトイレ設計のスペシャリストになっても何もできない。もちろんスペシャリストにはスペシャリストの居場所があり意味があるのだろうが、全体を見渡して設計できるジェネラリストにならなければならない。しかしそのジェネラリストは家全体を見渡せるスペシャリストだとも言える。

世の中には細分化された仕切りの中のスペシャリストが多すぎる。しかし本当に重要なのは、全体の論理構造を理解できるジェネラリスト的なスペシャリストなのである。ミクロな計算だけではなく、マクロな計算ができるジェネラリスト的スペシャリストになり、全ての論理構造を見渡せる大局的な眼を持つことが必要である。

過去を捨てきれるか!

多かれ少なかれ、どうしても過去というものを引きずってしまう。僕自身も過去を引きずることはそこそこあり、過去の事で悩むこともたまにある。過去を大切にするのも一つの生き方ではあるが、過去をさっぱりと切り捨てるということも非常に重要ではないかと感じる。

前を見て未来に向かうためには、過去の出会いや行動を基に物事を構築することが必要になる。しかしそれらの過去にとらわれ比重が大きくなりすぎると、行動の全てが保守的になってしまう。挑戦とはある意味過去との決別だと言えるのかもしれない。

過去の事にこだわるよりも、未来の事に集中する方がはるかに構築的であり意義があると感じてはいるが、どうしても100%過去を切り捨てることが出来ない。過去を切り捨てることは僕の最重要課題なのかもしれない。過去を切り捨てるためには、ある程度情を切らなければならないが、情を全て捨てる必要はない。大切な情は常に握りしめていなければならないからだ。しかし不要な情は綺麗さっぱりと捨て去る方が良い。そしてこれからの新しい自分の構築と、新し出会いを作っていかなければならない。

過去を捨て切ることによって、強固な自分に成り切れると常々感じている。過去の自分よりも未来の自分、そして過去の出会いよりも未来の出会いを大切に作っていかなければならない。過去に生きる人間ではなく、未来に生きる人間に成り切るために過去を切り捨てる。そのような生き方をしていきたいが、簡単ではなさそうだ。

リスクを最大限に取る。

「リスクを最小化する」ということはよく聞く話であり、ほとんどの人が一番力を入れているところであろうが、僕は「リスクを最大限に取る」ということは人生戦略として非常に重要な事ではないかと考えている。もちろん全ての事においてリスクを大きく取る必要はない。しかし人生を懸けていることに対してリスクを最大限に取ることは、人生に大きな意義をもたらしてくれる。間違っても、お金の賭け事などのリスクを取るなどという非常にくだらないことを言っているのではない。

「リスクを最大限に取る」と一言で言ったが、実はこれは簡単にできる事ではない。リスクを最大限に取るためには緻密な計算も必要だし、物事の全体像と人生の全体像を見通すことが出来なければ実行できない。リスクを最小限にすることは目的も意味も非常に分かりやすく簡単に納得させることが出来るが、それに逆行することのように見えるリスクの最大化は多くの人には理解不能に見えるであろう。従ってこの事の意味は結果を出して納得させるしかない。

周りから見ていると一見バカな事に見えることがたくさんある。もちろんその中には本当にバカなことも多いが、一部には緻密に計算された上で覚悟を決めてリスクに飛び込んでいる人もいる。もちろんそれに失敗すれば周りからはバカだったと言われるところだが、そのようにリスクを最大限に取っている人生の挑戦者をバカ呼ばわりする安易な世間の風潮は、あまりにも軽率で愚かに感じる。

いかにしてリスクを最大限に取るか?その結論にたどり着くまでには多くの悩みを経て、さらに強い覚悟が必要である。そしてそのような精神的な事だけではなく、完璧に近い設計や計算も必要だ。しかし多くの事に対してはそれでも100%ではない。しかし物事には100%ということはない。完璧な学問と思われている科学実験においても100%ということはほとんどありえないのである。しかし100%でないから意味はないのかと言うと、それは全く違う。100%ではないから“リスク”と言う言葉があるのである。

リスクを少なくすることばかりを考えるのではなく、自分はどこまで大きなリスクを取れるのかという計算を行い挑戦することも非常に意義ある事であり、自分に人間としての大きな飛躍をもたらしてくれることであろう。