投稿者「木原 康明」のアーカイブ

必要なのは、目をそらすことではなく、徹底的に向き合うことだ!

苦しかったり自分に不都合なことがあれば、多くの人はそこから逃げたくなるだろう。もちろんそこから逃げるということは一つの選択肢かもしれないが、逃げたり目をそらすことは一時しのぎでしかないことが多い。

苦しい時はどうしても目をそらしたくなるかもしれないが、そこはあえて正面から徹底的に向き合うことが大事だ。そうでないと根本的な解決には結びつかない。目の前の事についてとことん向き合い、理解する。理解が深まれば解決の手がかりが見えてくる。

選択肢は多くの場合、逃げるか、向き合うかしかない。その中間的な選択肢を選んだ場合は、ほとんどの場合最終的には逃げるという方向に進んでしまう。従って強く意識して向き合わないと、根本的解決へとは進まない。

苦しいことや不都合なことは、あらゆるところで頻繁に表れる。だからこそ基本的スタンスとして、徹底的に向き合うという姿勢をはっきりとさせていなければならない。

徹底的に向き合うことで本当に解決するだろうかと疑問に思うかもしれないが、いざ徹底的に向き合い理解が深まれば、意外とスムーズに解決へと向かうものである。

「前例がない」はできない理由にはならない!

日本の社会は何かと前例主義である。社会でも、それができるかどうかを判断をする時、まず前例を徹底的に調べる。そして前例がなければ、それは100%できないものとみなされる。

メジャーリーグの大谷翔平選手が前代未聞の二刀流に挑戦している。もちろん大谷翔平選手が挑戦している二刀流は、プロ野球界では前例がないものである。

専門家や元プロ野球選手をはじめ、大谷選手の二刀流に関して否定的な意見を述べる人が多い。しかしその多くは、できない理由を「前例がない」ということにおいているように思える。しかし実際は、現在はけがをしているとは言え、大きな活躍を見せている。

物事とは初めは全て前例がない状態である。即ち誰かが前例のないことに挑戦しないと始まらない。ガリレイやニュートンの物理学も、前例のない所に物理学という分野を打ち立てた。現在日常的に使われているコンピューターも、初めは非常に初歩的は計算機を作り上げるという、前例がないことから始められている。

確かに前例がないことを始めることは、リスクが非常に高い。これまでにそのような前例のないことに取り組み、夢破れた多数の人たちがいたであろう、しかしその中の少数の人たちは、前例を打ち破り大きなブレークスルーを打ち立てた。

自分は前例を踏襲するべきか?前例を破るべきか?後者を取る場合は非常に大きな逆風を突き進むことになるが、それが成功した時の達成感は半端ないだろう。

まずは資本を確保する。

近年のネット環境の発達により、お金を使わずにできる事が増えた。例えば音楽動画などを見たければYou Tubeでいくらでも見れるし、連絡を取り合うのにも電話代を払わずにLINEでメッセージのやり取りができる。しかし自分を高めるアクションを取る時、どうしても最低限の資本は必要になる。

普通の人には何の苦労もなくできる事が、僕には出来なかったりする、しかし他の人には絶対にできないことが、僕にできる自信もある。しかしそれには最低限の資本が必要である。

数学や物理の専門書も一冊1万円以上するものはたくさんあるし、今成し遂げようとすることもそれを世に出すためには資金が必要である。確かに金融投資などと比べるとその金額は少ないかもしれないが、自己投資には“投資”という用語が使われているように資金が必要である。

しかし最近、自分が自由になりつつある。自由だということは資本獲得にも動き出せるということである。そして時間の自由も増える。これまでは自分で自分を縛り付けているようなところがあったが、今、行動の自由と精神の自由を大きく獲得していろいろとアクションが取れる状況になりつつある。

この自由を後戻りさせてはいけない。自由をフル活用して、最低限の資本を確保し、自分が持っている高い目標へと上り詰めようと思う。あとは努力をするのみだ!

例外を作らない。

あらゆる分野に関して、必ず例外というものが存在する。時には例外が大きな変革を起こすことになる。しかし自分の内面と向き合い自分を変えようと思っている時、例外を作ることは許されない。

自分の内面に関して例外を作ってしまうと、そこが逃避地になってしまう。逃避地が存在していると、いつでも逃げられると思ってしまい自分を変えることができない。もちろん今の自分に満足しているのならば問題ないが、自分を変えようと試行錯誤している時には、あえて逃避地を作らず覚悟を決めることが重要になる。

僕自身、自分を変えなければならないところは多々ある。そして常日頃自分の弱点を克服しようと試行錯誤している。そんな時、逃避地の存在、そして例外を作っていることが逃げにつながり一向に変えられないことに気付いた。

自分を変えようとする時、初めの一歩には勇気がいる。初めの一歩を踏み出すことに、自分を変える労力の99%を使うと言っても過言ではない。しかしその一歩を踏み出せば、自分の内面の世界が大きく変わることが実感できる。

今日、その一歩が踏み出せたような気がする。この一歩を確実にものにし、その後の百歩へと何とかつなげようと覚悟を決めたところである。

死の谷。

iPS細胞の山中伸弥教授が言ったことであるが、研究結果を事業化しようとすると死の谷というものに直面するという。事業化するにあたって、その過程で資金は莫大にかかるがすぐには利益に結びつかない時期が生じるというものだ。

そのような死の谷は、人生においても直面するのではないだろうか?すぐには結果が出ない。しかし避けては通れない過程。そこが人生の死の谷だと思う。

無難に死の谷を避けて生きるのも一つの手かもしれない。しかし死の谷というものは、リスクでもあり投資でもある。リスクと投資なしでは大きな結果は望めない。

最近は何においても便利さと効率化が重要視されてきている。それと対極的にリスクは出来る限り避ける傾向にある。しかし果たしてリスクは悪なのか?人によっては徹底的に悪と捉えるだろう。しかしリスクは成功への投資でもある。

死の谷の中にいるときは本当に苦しい。しかしその先が少しでも見えているからこそ死の谷の中に飛び込んでいるわけでもある。死の谷はビジョンの中にある。死の谷の中でビジョンを具体化させ、それが成功した時、死の谷から脱出できるのだろう。

死の谷を乗り越えた時、その前に広がる風景は一変するに違いない。

逃げるのは最後でいい!

戦略として、負けそうな試合を早めに切り上げて次に備えるというのはありかも知れない。しかし自分が何かと向き合っている時、ギリギリまで粘ってみることが重要である。形勢というものは一つのポイントで急に変わることがよくある。そのポイントを逃さないためにもギリギリまで粘ってみる必要がある。

逃げるのはいつでもできる。だから逃げるのは最後でいいのである。勝ち癖を付けることが大事であるのと同時に、負け癖は出来る限り付けない方が良い。そして逃げ癖も同様である。しかし“逃げ”と“失敗”は違う。僕は失敗をすることは大事だと考えている。

失敗には継続性がある。失敗は次につながるのである。大きな成功は繰り返してきた失敗から生まれる。失敗をしない人は成功もしないと思っている。なぜなら失敗とは挑戦の証であり、挑戦しないことには成功もない。大きな成功を目指しているのならば、多くの挑戦を繰り返し多くの失敗を積み重ねることが大事である。

失敗とは違って、安易な逃げは次につながらない。逃げるとそこで打ち切られる。安易な逃げは次の逃げを呼ぶだけである。もちろん安易な逃げは失敗でさえもない。

とは言え、どうしても逃げないといけない時もある。絶対的に逃げ出さなければならないと判断した時は、勇気をもって逃げよう。ポジティブに判断した末の逃げは絶対に次につながる。

ギリギリの状況をどう切り抜けるか?そこではこれまでの失敗を次に生かせるかということにかかっている。

プロスポーツ選手から活力をもらう。

テニスの錦織圭選手がウィンブルドンで8強に入った。途中までは僅差のゲームが続いたが、最後は錦織選手が圧倒的な力の差を見せつけた。

錦織選手に限ったことではないが、日本人プロスポーツ選手の活躍からはいつも活力を与えられる。最近ではサッカー日本代表、メジャーリーグの大谷翔平選手、そしてフィギュアスケートの羽生結弦選手など日本人選手の活躍が目覚ましいが、どのプロスポーツ選手からも大きな力を得ることができる。

もちろん、活躍するプロスポーツ選手から得た力をどう自分の躍進につなげるか、そこは自分自身にかかっているが、自分も世界で活躍するプロスポーツ選手に負けないくらいの活躍をするぞと気合が入る。

僕はどの世界においても、プロといわれる人には敬意を持っている。スポーツ選手に限らず羽生善治氏や藤井聡太氏のようなプロ棋士をはじめ、全ての職種においてプロと呼ばれる人すべてにリスペクトしている。

明確にプロとアマチュアの線引きがされている分野もあるが、プロの定義が難しい職種もある。しかし一番大事なのは「プロ意識」だと思う。プロスポーツ選手を目指している人やプロ棋士を目指している人は、プロになる前から強いプロ意識を持っていると感じる。プロ意識なしにプロは成り立たない。

錦織選手は次は4強を目指して戦うことになる。しかし強い刺激をもらうためにも、4強と言わず頂点を目指して勝ち進んでほしい。僕も一日本人としてすごく応援している!

僕には大きな夢がある。今からでも遅くはない!

歳を取ると、もう夢を見るのには遅いと言われることが多い。はっきり言うと「夢を“見る”」のには遅い!少年や少女のように夢を“見る”のには確かに遅いのである。しかし「夢を成し遂げる」ことに対しては全く遅くはない。夢は見るものではなく成し遂げるものなのである。

僕も今までいろいろなアクシデントがあった。それがために大きな回り道をすることになって、現在はまだ夢を成し遂げるには至っていない。しかし夢を実現させるための手応えは大きく感じている。

僕の夢は、物理と数学、すなわち数理物理の研究にある。それを成し遂げるビジョンは明確にある。後は細部を詰めて形にするだけだ。もちろんそこが非常に難しいところであることは理解している。

まず一つの大きな結果を出すことが大事である。しかし一つ結果を出したらそれで終わりではない。結果を出したら次の目標へと切り替えなければならない。それの繰り返しである。

iPS細胞の山中伸弥教授の言葉である「VW(ビジョン&ハードワーク)」を常に心がけて、常に挑戦し続けて行こう!何と言おうと僕は「超攻撃的人生」を進むと決めたのだから。

今、目の前は暗い。

今、僕の目の前は暗い。しかし将来が暗い訳ではない。一歩進んだ先には明るい光は見えているし、とてつもなく大きな希望もある。しかし自分の周りの環境、社会、そして広くは日本に関して、明るい状況には見えない。

現在、高度な情報化社会になり非常に便利になる一方、行動の自由が束縛されているようにも思える。非常に自由に感じるかもしれないが、何か社会に誘導されているようにも思える。

僕は今、自分が最高に自由になるためにはどうすればいいかと色々なことを試みている。自由には行動の自由と精神の自由がある。どちらか一方あれば良いというものではなく、この二つは自由の両輪である。

現在の社会に疑問を感じても、後戻りすることはできない。しかし前に進んで変えることはできる。とは言え、社会を変えようとする前に、自分が自由になる必要がある。行動と精神が自由でない人に環境と社会を変えることはできない。

オウム事件・死刑執行の可否について。

7月6日、オウム真理教による一連の事件に関する死刑囚の死刑執行が行われた。7人同時執行という異例の決断だった。これらの執行に関しては様々な議論がされているが、単純に可否を決めつけられるものではない。

死刑執行に関しては人権問題に関連付けられ、近年は世界的に廃止する方向性が固まっている。特に今回の死刑執行に関して、EU諸国からは強い非難が浴びせられている。しかしEU諸国の主張に対して、単純にそれが正しいと受け入れることはできない。

その理由の一つ目は、EUの主張は死刑執行という行為のみに焦点を当てており、オウム事件そのものに関しては(EUの主張を見る限り)盲目的であるということである。オウム事件に限ったことではないが、事件(犯罪)と刑の双方を総合的に見る必要がある。さらに、加害者(死刑囚)の人権ばかりが論じられているが、被害者の人権が一切論じられていない。

二つ目は、死刑制度は犯罪の抑止力にならないという意見だが、抑止力になってないという根拠は示されておらず、さらに刑は犯罪の抑止力だけのためにあるのではない。

三つ目は、オウム事件の特殊性である。このオウム事件に関しては規模が桁違いに大きく、被害も桁違いである。さらに非常に組織的な犯罪であり、個人が気まぐれに起こした犯罪とは訳が違う。

次に、死刑廃止に対する妥当性についてであるが、何より死刑執行という行為は不可逆的だということは考えておかなければならない。死刑執行をした後になってからでは元には戻せない。特に冤罪が発覚した後になっては既に取り返しがつかない。実際、袴田事件の袴田巌さんのような事例が最近明らかになっている。袴田さんに関しては何とか解放することはできたが、おそらく冤罪により死刑執行された人もいるのではないかと推測される。

今回のオウム事件に関する死刑執行の可否を一言で論ずることはできない。しかし死刑制度に対する妥当性を真剣に論ずる必要性は強くあるように感じる。