投稿者「木原 康明」のアーカイブ

21世紀は”生物学”の世紀になるか?

もう21世紀に入ってしばらく経つが、21世紀の科学はどのようになるのだろうか?

20世紀は「物理学の世紀」とも言われる。19世紀最後の年、1900年に発表されたプランクの量子仮説に始まり、20世紀初頭、量子力学と相対性理論という物理学の二本柱が確立された。その後の物理学はこの二本柱をベースに発展していく。

20世紀の物理学が”革命的”であったのに対して、20世紀前半の生物学は”古典的”であった。その生物学に革命が起きたのはもちろん、ワトソン、クリックによる遺伝子の二重らせん構造であることは言うまでもない。そして20世紀後半、分子レベルから見た生物学、つまり分子生物学が生まれる。

1990年代に入り、「ヒトゲノム解析計画」が進められたことにより、生物学に再び革命が起きる。21世紀の生物学の爆発の着火点は、もちろんこのヒトゲノム解析計画であることは言うまでもない。

21世紀の生物学は、革命の連続である。その一つはもちろん山中伸弥博士のiPS細胞の発見であろう。そしてその後、遺伝子を自由自在に操る「ゲノム編集」というとんでもない技術が確立された。これからの生物学では、このゲノム編集が重要な役割をすることは容易に推測される。

現在、物理学は熟成期に入ったと言える。それに対して生物学はまさしく爆発期である。

これから100年近く経ったとき、21世紀は生物学の世紀であったと言われる可能性は非常に高いが、この生物学の爆発的発展を見ると、生物学がこの後どのように発展していくか、全く想像できない。

物事を「理想化」して考えることの大切さ。

考える対象が複雑であるとき、対象をそのまま受け入れるとどうにもならないことがよくある。その時に大切になるのが「理想化」という操作だ。

物理学は理想化の代表例とも言える。物体の運動・現象は非常に複雑であることが多い。そのような時に、運動・現象の本質的な側面だけを抽出して、不要な要素を捨て去るのである。そうすると、非常に見通しが良くなる。この様な操作を「理想化」と言う。

理想化は、何も物理学だけのものではない。多くの学問でも行われているし、身の回りの出来事を考えるときでも理想化は無意識に行われている。

物事の本質を見抜けるかどうかは、理想化できるかどうかにかかっているとも言える。常に理想化的な思考ができるようになると、見える世界も大きく変わるであろう。

100m・9秒台、桐生祥秀に見る勝負の世界。

9日、陸上の桐生祥秀選手が、100mで日本人初の9秒台となる9.98を記録した。9秒台というとアフリカ系の選手の独壇場というイメージがあったが、ついに日本人が、という思いである。

陸上の世界は正真正銘の弱肉強食の世界。勝負に命をかける人間の世界である。だからこそ、強弱が非常に分かりやすい。0.01秒でも速い人間が偉いのである。

桐生祥秀選手は大学4年生、来年は実業団に入るのか、それともプロになるのか、わからないが、日本人初の9秒台を出した男として永遠に名前を刻む桐生祥秀は、これからもさらに上を目指していくだろう。

われわれ外部から見て、非常に華やかな話題だが、100mの世界は想像を絶するくらいに厳しい勝負の世界だと思われる。最近、桐生祥秀のほかに山県亮太、サニブラウン・ハキーム、多田修平、ケンブリッジ飛鳥と数多くの日本人選手が活躍しているように思えるが、逆に言うと世界で渡り合える日本人はこの5人だけとも言える。1億2千万人の日本人のうち、この5人しか100mでは飯を食っていけないのである。

100m走は小学1年生でもできる。世界で最も競技人口が多いスポーツとも言える。走るだけなら僕でもできる。しかしそれで飯を食えるのは日本で5人だけである。この究極の勝負の世界だからこそ、大きな魅力を感じる。もちろん走っている彼らは0.01秒に生死がかかっている。

100mの彼らほどではないが、勝負の世界で生きている人間は多い。さらに言えば、人生そのものを勝負だととらえている人もいるだろう。一度きりの人生、勝負だと思って桐生祥秀のように走り抜けたいものである。

”裏”を読むより、”深く”読むことが大事だ!

”裏”を読むというのは、奇抜であり、インパクトがある。それゆえに自己主張したい時に、裏を読んでアピールするのをよく見かける。

しかし本当に重要なのは、”裏”を読むことではなく、”深く”読むことである。

裏を読もうという姿勢は、自信のなさの表れでもある。地道にコツコツと実績を挙げた人には、自然と深く読む癖がついてくる。深く読んだ結果、たまたま”裏”になることはあるだろう。そうして出た”裏”は価値あるものになる。

とは言え、深く読むことが大事なのは、誰が考えても当たり前のことだ。わざわざ僕がこの場で言うことでもないのかもしれない。

陳腐な表面的な事象を見るだけで、陳腐な結論を出して満足するのではなく、まずは定石を踏んで、きちんとロジカルに結論を導くことが大事である。

昨今の日本人による日本称賛に、危機感を感じる。

最近メディアでは、何かと日本称賛をテーマとする話題が多い。テレビ番組然り、ネット記事然りである。

海外で日本が称賛されることは、非常に喜ばしいことである。それによって、日本の美徳が発見されることもある。日本がこれからも世界で評価される国であり続けることは簡単なことではないが、不可能な事でもない。これからも日本が世界で評価され続けることを願うばかりである。

しかし、最近の日本人自身による日本称賛はいかがなものかと感じてしまう。自分で自分を称えるのは、大概の場合自己満足である。このような日本人自身による日本称賛に酔いしれている日本の現状に、危機感を感じる。

確かに現在の日本の文化的・国民的水準は高いレベルで維持している。しかしその水準をこれからも維持するためには、自らを厳しい眼で見つめることが大事である。

これまで日本人は、自らに対して過度に厳しいくらいの態度を取り続けてきた。時にはそれは自虐的とも言えるくらい厳しいものであった。しかし最近はそのような厳しさは緩んでいるように思える。

人に対する優しさは、自分に対する厳しさである。そしてその逆も言える。他人に対して厳しい人は、大概自分に対して甘く保身的である。最近の日本及び日本人は、残念なことに後者の方に傾きつつある。

他人・他国からの称賛などは、軽く流していればいい。その一方、自分・自国に対する厳しさは常に持ち続けなければならない。そうでないと自分・自国に対する高い水準は維持できない。

当たっても、砕けるな!

「当たって砕けろ」とはよく言うものである。しかし、失敗して砕けてしまえば、どうにもならない。もちろん、砕けても何度でも立ち上がるという意味なのかもしれないが、そうなら「当たったくらいで砕けずに、何度でも立ち上がれ」ということだろう。

砕けてしまうことを過度に恐れて、当たることさえしない人も多い。「当たらずに、砕けずに」という考えだ。そんな無難な考えに魅力を感じるか?と僕などは思ってしまうのだが、そんな無難な生き方も現代人の処世術なのかもしれない。

アントニオ猪木氏の訪朝。

参議院議員のアントニオ猪木氏が、7日から訪朝する。猪木氏の訪朝に対して与野党などから批判的な意見が出ているようだが、僕は個人的には猪木氏に対して期待している。

確かに現在の対北朝鮮関係は難しく、微妙な時期であることは間違いない。僕自身も、訪朝するのが猪木氏でなければかなり危ういのではないかと感じる。

しかし、猪木氏の対北朝鮮のパイプはかなり太い。先代の金正日時代から何度も訪朝を繰り返し、独自の北朝鮮人脈を築いてきた。北朝鮮指導部からの信頼も厚いと思われる。

猪木氏と言えば言うまでもなくプロレスラーである。それに対して猪木氏の政治手腕に疑問を持つ人もいるかもしれない。しかし僕は、猪木氏の政治手腕はかなりのものではないかと感じている。もちろん彼の人柄もあるのだろう。もしかしたらプロレスラーという立場も、彼の手腕に有利に働いているのかもしれない。

そういえば、猪木氏が政界に進出したころを思い出す。彼は「スポーツ平和党」、略して「スポ平」を立ち上げた。そして彼は国会議員になることに成功した。初めはバカにする人も多かったが、政治家として地道に活動を続けている。その中でも北朝鮮との対話は、彼の政治家としてのライフワークと言える。

現在、国会議員としての猪木氏をバカにする人を見かけない。なぜなら、現在の彼には今まで積み重ねた実績がある。そんな彼にここはひとつ、対北朝鮮危機の回避を期待したいところである。

遊びも本気、仕事も本気!

人生はマラソンのようなものである。マラソンではペース配分が大事だ。それと同じで、人生もペース配分が重要になる。時には本気で、時には手を抜いて、というように、物事にメリハリをつけることであろう。

しかし、長い人生と言えども、人生は有限である。何事にも本気で取り組むことも重要である。仕事に本気で取り組むことは重要であろう。そして遊ぶときも本気でぶつかることが大事だ。仕事も遊びも本気で取り組むことによって相乗効果が生まれる。

仕事も遊びも人生の重要な一部分である。そんな人生の一部分を適当に過ごすのはもったいない。とは言え、疲れた時には気を抜くことも大事だ。本気で続けることと、緩急のメリハリをつける事とのバランスは難しいかもしれないが、もっと本気で生きてみようと思うこの頃である。

目の前に本がある。

今、目の前に本がある。和書・洋書、専門書が並べられており、その中には積読?状態の本も少なくないが、本に囲まれている。

それらの本をどのように生かすか?それらの本の何冊かを上手く利用すれば、新しい結果が生み出せるのかもしれない。何冊もの本を前にして、結果を出せないこともある。要は、本があるかないか、本を読むかどうかではなく、自分でどう解釈し結果へと変化させるかだ。

大学時代から、かなりの数の書物を買いあさってきた。本の数が多ければよいというものではないということは、頭では分かっている。それでも定期的に本を買ってしまう。

本は物質的にみればただの紙だが、僕にとっては宝物である。

”タブー”による思考停止。

世の中には”タブー”がたくさん存在する。そしてそのタブーの話題になると、突然思考停止になる。タブーな話題に対しては議論さえもできなくなってしまうのだ。

”タブー”の中で最も大きな国家レベルの話題は、核に対する議論だろう。核廃絶を目指すことは正しい。しかし現実問題、核をいきなり廃絶することは非現実的で、不可能に近い。とは言え、核廃絶へ少しでも進むことは可能であるが。

日本人は核というものに対して非常に敏感だ。その理由はもちろん、広島・長崎という核被害に遭った、唯一の被爆国であるからだ。唯一の被爆国として核廃絶に向けて世界をリードしていける国は、日本をおいて他にはない。

しかし核へのアレルギーからか、核抑止力など核を少しでも肯定的にとらえられるようなことに対しては、議論することさえも否定する風潮が強い。

日本には”非核三原則”というものがある。非核三原則自体は素晴らしいものであるが、その結果、日本はアメリカの核の傘の下へと入らざる負えず、自分たちの手を汚さずにアメリカに丸投げするという事態になっている。

とは言え、日本のこの反戦争・反核兵器の徹底した姿勢は世界からも評価されており、日本が世界から信頼される大きな理由にもなっている。

核廃絶を唱えながら世界の現状に合わせていくのは非常に難しく、矛盾も多く出てくるが、日本及び日本人は反核を主張しつつも、核の話題をタブーとせずにオープンな議論をしていかなければならない。