投稿者「木原 康明」のアーカイブ

一回立ち止まって、過去を振り返ることも大事。

近年の科学技術の進歩は目覚ましいものがあり、そのスピードになかなかついていけないこともある。しかし最先端の理論、最先端の技術を追い求めるあまり、過去の重要事項を見落としてしまうことも多いのではないだろうか?

進歩があまりにも速いが故、つい二、三年前の事でさえ時代遅れになってしまう。しかし本当に重要で価値のあることは、例え数十年経っても色あせないものである。アインシュタインの相対論は、現在の科学においても根幹として存在感を発揮している。量子力学も然りである。

しかし一部、いや多くの人たちが、過去の重要事項を時代遅れのものだとみなし、無視しているきらいがある。最先端を追い求めることに必死になるあまり、本当に重要な事に気が付いていないのである。

全速力で走ることは重要であるが、時には立ち止まって過去を振り返ることも大事である。そのように立ち止まって過去を振り返ると、重要なヒントに気付く時がある。

最先端の事項はすぐに時代遅れになる。最先端の事より本当に重要な事は、数十年、数百年経っても色あせずに残ってきたものなのである。

数学と物理があるから、生きていける。

人生を懸けるものは見つかっただろうか?僕にとっては数学と物理が人生そのものである。他人からは趣味だとかいろいろと言われるが、僕にとっては生きがいである。

幸運にも、理論系の学問は自分一人でもやっていける。もちろん専門書だとか論文だとかを手に入れるにはそれなりのお金がかかるが、多くの実験科学のように膨大なお金と実験施設がいるわけではない。

僕は数学と物理を趣味でやっているわけでは決してない。趣味と言われるくらいならまだ遊びと言われる方がマシだ。数学者とは数学で遊ぶことを生きがいにしている人である。僕が昔知り合っていた超一流数学者は、数学の事を「この遊びはやめられない」と言っていた。

人生を懸けて打ち込むのなら、世界でトップを目指すべきだ。科学は順位を争うものではないと言う人もいるが、科学とは誰が世界で一番に成し遂げるかという競争である。そのことを肝に銘じなければならない。

人生を懸けるものがあるかどうかは、人生で苦境に立たされた時に大きく左右される。人生を懸けるものがあるから、周りから見て絶望的な状況であっても小さな光を見出し突破することができるのである。

思想の欧米化。

最近では外国人が日本の文化に興味を示しているという話題をよく聞くようになったが、思想や倫理観に関してはまだまだ欧米がグローバルスタンダードのような気がする、しかしだからと言って、日本の思想や倫理観が時代遅れだとか悪いといったことは無く、むしろ欧米の思想や倫理観の方がおかしいのではないかと感じることも少なくない。

とは言え、西洋思想と東洋思想はどうしても相いれないところが出てくるのは当然かもしれないが、根本をたどれば人間の思想であることに変わりはなく、一方的に東洋の思想がおかしいと決めつけるのは間違っている。欧米思想がスタンダードになる理由は、それが優れているからではなく、多くは国力の差に依存するものである。

現在日本は、日本文化を世界に広めることに躍起になっている。近年ではクールジャパンという言葉もかなり世界に広まってきているようだ。しかし日本思想を伝える事にはかなり後れをとっているように思える。しかし日本思想は根は中国・朝鮮にたどり着くことも多く、広く東洋思想として世界に広めることが必要だ。

日本思想に限定すれば、京都は日本思想の震源地と言ってもよい。西田幾多郎をはじめとする京都学派は大きな広がりがある。京都はもちろん日本文化の中心地である。現代的日本文化の中心地は東京であるが、伝統的日本文化の多くは京都に依存する。

確かに文化的価値に比べると、思想的価値はなかなかビジネスにはならないかもしれない。しかし思想は文化の基盤でもあり、長い目で見れば日本思想を世界に広めることは世界における日本の地位を大きく向上させるものである。

自分への制約をどこまで解放できるか!

現在、サッカー・ワールドカップが開催されているが、サッカーでは守備的なディフェンダーから攻撃的なフォワードまでいくつかの役割分担がされている。それは人間も同じで、守備的な人間から攻撃的な人間まで様々いる。どちらが良いとか悪いとかいう話ではないが、僕自身は超攻撃的人生を攻めていこうと思っている。

超攻撃的に人生を攻めるためには、まず自分に対する制約を取り払わなければならない。制約を無くしどこまで自分を解放できるか、そこでのせめぎ合いは常に付きまとう。

守備的な人生が3を得て1を失うということを目指すのならば、攻撃的な人生では100を得て70を失うということを目指すことであろう。守備的な人生で2を獲得するか、攻撃的人生で30を獲得するか、僕の答えは一目瞭然である。

自分の精神をコントロールするのは確かに難しい。しかし自分の目指すところへたどり着くためには自分をコントロールすることが不可欠だ。超攻撃的人生を心に留めて、危険を冒し続けてみよう!

サッカー・ワールドカップ開幕!

14日(ロシア時間18時)、サッカー・ワールドカップ・ロシア大会が開幕だ!僕自身はどちらかというとサッカーよりも野球派だが、やはりサッカーのワールドカップは見逃せない。野球のWBCもサッカー・ワールドカップのように盛り上がればと思うのだが、これからどうなるのだろうか?

ところで、なんだか日本は少し盛り上がりに欠けているように思う。大会直前の親善試合敗北(開幕前最終戦は勝利)、代表監督交代など、ネガティブな話題が続いているせいかもしれない。日本のW杯予想も悲観的なものが多い。

しかし、予想が低い時の方が意外と活躍するものだ。直前の親善試合だって、言葉を変えれば練習試合である。勝敗よりも選手の連携チェックの方が重要である。メジャーリーグの大谷翔平もオープン戦で散々たる結果だったが、公式戦に入れば大活躍だ!サッカーも大谷翔平に続けばいい。

サッカー日本代表が良い意味で裏切ってくれることを願っている。試合外でダンヒルのスーツを着ている日本代表もカッコいいが、ユニフォームを着てピッチに立っているカッコいい日本代表を見たい!

どうすれば人徳を高められるのだろう。

まだまだ徳が足りない。そう思う今日この頃である。

どうすれば人徳を高めることができるのだろうか?徳というものは油断をしているとすぐに下がってしまう。もちろん徳がなくても普通に暮らしてはいける。ただ自分が目指すところ、目指す人間像に到達するためには、徳を高めることが必要だ。

「自分の専門分野だけできればそれでいい」と思う人もいるだろう。しかし人生を一つの創造作品だと考えた時、備えなければならないものはいくつかある。

その一方、なくて良い物も色々とある。何が必要で、何が必要でないか?それをしっかりと判断し、捨てるべきものは捨てるという決断も重要である。

常に理想を追い続け、死ぬまで理想にはたどり着けないのかもしれない。しかしだからといって、理想を追い続けることを止めてしまえば時の針はそこで止まってしまう。

トランプ大統領と金正恩委員長の首脳会談、そして日本との関係。

6月13日、アメリカ・トランプ大統領と北朝鮮・金正恩委員長による米朝首脳会談が行われた。もちろん会談の詳細はまだはっきりとしていないところもあるが、大筋で会談は成功したと言われている。トランプ大統領の発言を見ても、そう見て間違いなさそうだ。あとは朝鮮半島の不可逆的非核化を確実に進行させ、休戦状態の朝鮮戦争を終戦させた上で平和条約を結ぶことが課題と思われる。

一年前にトランプ氏と金正恩氏が顔を合わせるとは誰が想像しただろうか?僕自身も今回の首脳会談成功に驚がくしており、それと同時に日本を含む東アジアの核危機にどうやら終止符が打たれそうなことに安堵している。

ところで日本にとって北朝鮮問題と言えば、真っ先に拉致問題が挙げられる。もちろんこれは日本にとっては大きな問題だ。しかし米朝及び南北朝鮮間でのやり取りに強引に拉致問題を持ち出すのは果たして良い選択と言えるだろうか?僕自身は拉致問題を米国・韓国に現段階で押し付ける事には疑問を感じる。日本が拉致問題に関して早急に解決を急ぐのは逆効果に思えるからだ。米朝及び南北朝鮮の話し合いに拉致問題を持ち出せば、北朝鮮が反発するのは容易に想像できる。拉致問題を解決する最善の方法は、まずは南北及び米朝間による和平を遂行させ、そのうえで日朝で話し合うのが一番効果的だと思うからだ。これは少し回り道に思えるが、結果的にこうした方が早急に解決できるように思える。実際、小泉元首相が訪朝した後、まずは拉致問題ありきの日本の対応に対してこの問題は一歩も進んでいない。確実かつ早急に拉致問題を解決するためにも、今は朝鮮半島の和平を最優先で進めるべきではないか。

何はともあれ、今回の米朝会談により危機的状態を脱する見通しができたことは喜ばしいことである。朝鮮半島非核化と同時に東アジア和平も不可逆的に遂行することを強く望む次第である。

知識はいらない!

書物を読み、知識を習得することは重要な事である。しかし知識を習得することは最終目的ではない。修得した知識を基に、何を構築できるかが重要なのである。

科学を身に付けるとは、自然科学の知識を習得することだと勘違いしている人が多い。しかし科学とは人間の自然に対する思想である。科学的実在は人間の存在と関係なく実在するものであるが、科学理論は人間が構築した自然記述であると同時に人間の自然観を表した思想なのである。

自然科学の歴史は、既存の科学への部分否定の繰り返しである。ただし全否定ではない。否定されると言っても、既存の科学が見捨てられたわけではない。既存科学はその時代の人間の自然観として未来へと残っていく。

さらに科学というものには階層というものがある。生物学や化学、物理学と言われる区別は一種の階層分けであり、物理学で言うと物性物理、原子核物理、素粒子物理へと進むにしたがって深い階層へと入り込んでいく。

6月11日のNHK「プロフェッショナル・仕事の流儀」で、辞書作りに携わる日本語学者・飯間浩明氏の特集がされていた。辞書作りのプロとは一言で言うと「言葉を扱うプロフェッショナル」と言えよう。そんな「言葉」というある意味知識的な要素に対しても、辞書作りの専門家にとっては思想とか哲学があるようだ。そのような言葉に対する思想や哲学に対して、科学者の思想や哲学に通じるものを感じた。

科学というものは決して知識の羅列ではなく、その根底には思想や哲学が深く流れている。そのような思想や哲学を持っているかどうか、そこがプロフェッショナルのプロフェッショナルである所以と言える。

人間を持った男。

最近、どのような男であるべきかということをよく考える。もちろんその答えは一つではない。それぞれの男によって目指すものはまちまちであろう。

その一つの答えとして「人間を持った男」ということがあるように思える。その人間とは誰か?自分という人間である。自分という人間を持つためには、精神的に自由である必要があるし、自分を完全にコントロールできる必要がある。

そのような人間を目指すために、現在試行錯誤している。非常に考え抜いている。もちろんそのようなことを常に意識しないと、そこへはたどり着けない。でも最近、そこへたどり着くための手応えを感じている。

自分という男を自分の思う高いレベルに持っていくために、まずは自分という人間を手に入れることに挑戦してみよう。

層を二つくらい重ねてから、細部の計算に進む。

数学や物理の理論を勉強をするとき、初めから細部にこだわって厳密な計算のチェックをしていると、全体図が見えなくて迷走することが多い。もちろんそのような厳密計算を重ねて理解していく人もいるのだろうが、僕にはそれができない。

そこで初めは全体図を把握するため猛スピードで流す。そして次はもう少し詳しく見直す。そのように二層くらい重ねてから細部の計算へと進むと、何の計算をしているのか非常に意識することができ、理解がより一層深まる。

二層が面倒なら一層でもいい。まずは全体図の把握、あるいは全体の雰囲気を掴むことが大事だ。このことは数学や物理の理論を想定して書いたが、数学や物理だけでなくあらゆる分野にも適用できると考えている。

「木を見て森を見ず」とはよく言う言葉だが、細部の計算にはまり全体図を把握しないのはこのような事だと思う。

まずは高速道路を猛スピードで走るがごとく理論の初めからあるところまで(最後でなくてもいい)飛ばしてみよう。その後に同じ道を下道で色々な店に立ち寄るがごとくじっくりと味わってみよう。