投稿者「木原 康明」のアーカイブ

動の学問、静の学問

いま大河ドラマ「花燃ゆ」で吉田松陰をやっているが、彼の学問を一言で言うと、「動の学問」と言えるのではないか。彼は部屋で勉強し、講義室で講義するだけでなく、その学問の精神を行動に移し実践した。黒船密航に然り、あるいは日本各地を自分の目で見て確かめること然り。動きに動きまくっている。これほど学問の精神を行動に移した人もいないのではないかと言えるくらいだ。

数学、物理学というものは、基本机の上で研究し、行動と言えば講義室で講義するくらいだ。もちろん世界を飛び回っている人もいるが、それは研究発表のためであり、研究の精神が直接行動し、事を起こすというわけではない。

吉田松陰の学問が「動の学問」とすれば、数学、物理は「静の学問」と言えるのではないか。

幕末など動乱の時期には、事を起こすにはまず動かなければならなかった。動いて動いて事をなすのである。学問ではないが、坂本龍馬などを見ればそれはよくわかる。学問も、徳川時代約250年間に机上で蓄えた知識を、国を動かすために動いて実践に移す時期であった。

静の学問も素晴らしいが、少し体が鈍ってしまう。そんな時、動の学問にかかわれたらと思ったりする。しかし今の日本は動乱の時代ではない。動乱を求めて海外に行くのも変な話である。

国にかかわるなどといきなり大きなことを言わず、まず身近な世界から行動に移すのが、大きな動への一歩となるのかもしれない。

外交の場ではもっと自国の主張を

日本は行儀が良い。本当に良すぎる。東日本大震災の日本人の対応などについてはいい意味でこう言われたりしたが、今回は逆の意味でとらえたい。

何についてか?一番言いたいのは外交、国際的な態度である。日本国内ではあえて主張しないで慎ましくすることは上品で行儀が良いと言われるが、海外ではそんな日本の常識は通じない。外交にして然りである。主張すべきところはしっかり主張し、弁解すべきところはしっかり弁解しなければならない。

最近の韓国に対する対応などはいい例である。韓国は日本に対して何かとケチをつけてくるが、最も看過できないものの一つは伊藤博文暗殺犯の安重根を英雄視し、国際的にそれをアピールしていることだ。慰安婦問題についてもいろいろ言いたいことがあるが、いろいろなメディアで取り上げられていることもあり、今ここでは控えておく。

伊藤博文は日本国初代総理大臣で、言わば日本の国祖とでも言うべき人物である。その国祖を暗殺した暗殺犯を英雄視する韓国に対して、日本はなぜ抗議し、批難しないのか。こんなことで行儀よくしても、国祖伊藤の名誉が国際的に汚されるだけだ。

これがどれだけ重い意味があるか、第一次世界大戦を振り返ればわかる。第一次世界大戦が勃発したのは史実が示す通り、オーストリア皇太子が外国人青年に暗殺されたのがきっかけだ。暗殺が戦争に発展するくらいの重大事なのだ。その暗殺犯を国を挙げて英雄視する国がどこにあるのか。

韓国は暗殺犯を国を挙げて英雄視し、記念館まで作っているのである。歴代大統領のほとんどが暗殺されるという、暗殺が文化になってしまった韓国という国が異常すぎると言えばそれまでだが。

慰安婦問題について日本の名誉を回復するのは最重要課題だが、安重根を英雄視する韓国を国際的に非難することも重要ではないか。そのままにしておけば、韓国は何百年と同じことを言い続けるだろう。実際今でも豊臣秀吉は韓国では非難の対象だ。日本が元寇のフビライを非難し続けているみたいなものだ。もちろん、今の時代にフビライを非難する日本人など聞いたことがない。

「清く慎ましく」という日本の常識は、外交では通じない。声を上げなければならない。主張すべきことは主張する国にならなければならない。

 

今すべきことは何か

志は高きものを持っていると自負している。

でもそれに似合わず、だらけである。

そんなだらけな自分に鞭を打ちたい。

早寝早起きして、思いっきり動きたい。

毎日そう思っているが、なかなか体がついてこない。

いきなり頂点には立てない。

初めから立つ必要もないかもしれない。

まずすべきことは、身の回りのこと、身近なこと、手元にあることから。

動乱の時代には、ぶつける対象はいくらでもある。

しかし平穏な時代の方が、その対象を見つけるのは意外と難しい。

ぶつける対象を見つける必要もないかもしれない。

だからと言って、何もしないのは間違っている。

人間としての軸を、太く、堅くしなければならない。

とにかく、今できることから取り組む。

動く。

だから数理物理の勉強、研究は続けていく。

数理物理は私の軸だが、それをもとに思想も高めなければならない。

数理物理と思想、哲学、

周りから見れば双方関係ないように思えるかもしれない。

でも私にとって数理物理も思想の一部。

思想は人間そのもの。

だから常に追い求める。

安易に目立つな

最近、ネット上での安易な悪ふざけ動画が問題になっている。中には犯罪行為に当たるものなど、法に触れるものも少なくない。その悪ふざけ映像アップの一番の原因は、単に目立ちたいからというものらしい。

世間で有名になるのは、難しいと言えばかなり難しいと言えるし、簡単と言えばかなり簡単ともいえる。

なぜ難しいか。有名になりたいと言って真っ先に思いつくのは、芸能人、一流スポーツ選手、最近ではノーベル賞学者であろうか。彼ら彼女らは才能を持ち合わせた上に半端ない努力を重ね、コツコツと実績を上げ、名をあげて有名になっている。普通の人が普通にやっていてはまず無理なことだ。だからこそ彼ら彼女らの存在は価値があるし、大きなリターンもまわってくる。また相当なリスクをとって挑戦していることも多く、その覚悟という者は半端ないことも多い。

では次に、なぜ簡単か。それは最近起こった爪楊枝混入事件でも明らかだ。大きな犯罪を犯せば簡単にテレビニュース番組に顔写真が実名入りで流される。有名になりたくて犯罪、あるいは犯罪まがいのことを犯す人が最近後を絶たない。彼らは明らかに勘違いしている。有名になったことで得意気になっているようだが、普通の人間は、皆できないのではなくて、しないだけなのである。そんなことをして有名になったって何の価値もないどころか低レベルなこと極まりないだけである。

有名には、名誉ある有名と、不名誉な有名があるのである。悪ふざけ動画で有名になろうという人は、その二つの区別が全然つかないのだ。

コツコツと努力して名をあげることは素晴らしいことだ。実績を上げて、名誉ある有名人になろう。もちろんそれは容易なことではないし膨大な時間もかかるだろう。しかしそれが有名人になるための正しい道だ。

自白強要事件

2月4日、パソコン遠隔操作事件の裁判で、容疑者の片山被告に懲役8年の求刑が言い渡された。この事件は悪質で、見も知らずの第三者を犯罪者に仕立て上げるという卑劣なものであり、この判決は妥当なものと思われる。

しかしこの事件の一番の問題は別のところにある。警察、検察側の取り調べだ。この事件によって4人の市民が無実の罪で警察に捕まった。そこでそれぞれ取り調べをを受けたのだが、4人のうちなんと2人が自白したというのである。もちろんこの4人は何も犯していない。犯罪者でない人たちの半数の人たちが警察、検察によって犯罪者に仕立てられようとしたのである。これは片山被告の犯罪よりも比べ物にならないくらい大きく深刻な問題である。

一言で言えば、国家権力が何も犯していない市民を犯罪者に仕立て上げたのである。今回の出来事は、真犯人が捕まったからこそ虚偽の自白が明らかになったものの、もし真犯人が捕まっていなければこの無実の2人は刑務所に入れられていたかもしれない。

たった一つの事件だけで半数の2人の自白強制があったという事実は、他の事件で同様なことがかなりたくさんあると推測される。まさしく今回の件は氷山の一角だと思われる。

最近記憶に新しいのは、袴田事件で死刑判決を受けた袴田巌さんであろう。彼は無実の罪で数十年、人生の大半を刑務所の中で過ごし、いつ死刑が執行されるかわからない恐怖の中で暮らしていたことであろう。

1億人以上の人間が暮らしていれば、犯罪も多々起きるのは当たり前であり、中には残虐な事件も起こることであろう。しかしこれらの犯罪者は当然のことながら、警察の捜査に追い詰められ、捕まれば裁きを受ける。

しかし今回の自白強要を強いた警察、検事は何の裁きも受けない。自白強要は、警察、検察による事件である。もし自白強要によって無実の人間が死刑になれば、これはもう国家による殺人事件である。しかし今回の遠隔操作事件による自白強要が明らかになった後も、警察、検事の悪質不正な実態が何も明らかにならない。真犯人の片山被告のニュースばかりで、自白強要犯の警察、検察は何のおとがめなしである。

こんな事があっていいのか!自白強要は立派な犯罪である。

現在、取り調べの可視化が議論になっている。このように自白強要の事実の横行が発覚した以上、有無を言わさず可視化することは当然のことではないのか。これらの警察、検察の放漫さには憤りを感じる。

官僚は敵か味方か

よく政治家が、官僚に対して敵視をむき出しにすることがある。選挙でも官僚主導から政治家主導へ導くと訴え、官僚が悪とでも言わんばかりの主張をたまに聞く。

政治家の答弁にしてもその答弁原案はほとんど官僚が作り上げており、政治に官僚の力は欠かせない。しかし官僚には政治活動はできない。なので政治は政治家がするのが当たり前のことだが、政治家には官僚を敵視するのではなく、むしろ味方に引き入れて官僚の頭脳を使い倒すくらいの気概を持ってほしい。選挙で官僚排除を訴えるのではなく、官僚の力をフルに使うと演説するような政治家がいてもいいのではないか。

少し前の話になるが、菅直人元首相は官僚に対し敵視をむき出しにし、官僚排除を訴えかけていた。その結果と言えば、鳩山氏と並んでダメ首相の二人組である。

官僚の仕事はかなりハードである。政治家の国会答弁がある前には官庁に泊まり込んでほぼ徹夜で答弁原案作成、資料作成に取り組むこともしばしばであるらしい。もちろん権力闘争に明け暮れている官僚もいるだろうが、それに関しては政治家の方がはるかに激しいだろう。

官僚は毒にも薬にもなる。それを薬にするのが政治家ではないか。官僚排除とは言っても政治家だけでは何もできない。個々のプロフェッショナルな案件は、その道に長く取り組んでいる官僚の力は必須である。しかし、官僚が実際にどんなことをしているかはなかなか明らかにならない。そして何か成果が出たり前進した時は、それは政治家が行ったということになる。政治家が俳優とすれば、官僚は影武者というところだろうか。

政治家に最も必要な力のうちの一つは、いかにして官僚を生かすかということではないだろうか。少なくとも、今までの官僚を生かせなかった首相、政治家はダメ政治家だったではないか。

これからは選挙時には、公約の内容だけではなく、その人は公約実現のために官僚を生かす力、人柄があるかという所も見てはどうだろうか。

トヨタの莫大な利益と、下請け会社

昨日、トヨタの三月期の決算が発表された。それによると、2.7兆円の利益が出るそうだ。膨大な額である。ギリシャの国家予算に匹敵する額である。

もちろん日本企業がうまくいくことはいいことだが、昨日のこのトヨタの利益に関するニュースに対する扱いに対して違和感を感じた。トヨタ本体の莫大な利益を下請け企業にも還元しなければならないという弱い論調の一方、そんなことしたらトヨタ本体の利益創造体質が弱くなり良くないという論調が目立つことだ。

とんでもない。トヨタがここまで利益が上げられるのは、一番は円安効果、それから倹約によるものだが、それに匹敵するくらい下請け孫請け部品メーカーに対するコスト削減要求によるものだ。

デフレ不景気の時代、トヨタはこれらの部品メーカーに対し、無茶ともいえるコスト削減を迫り、倒産寸前、あるいは倒産したメーカーも多々あったと聞いている。ならばトヨタ本体に莫大な利益が出た今、まずこれらの下請けメーカーに利益還元することが先ではないか。

トヨタ本体の自分たちだけ良ければいい主義、それに大企業だからと同調するマスコミ。本当にトヨタ本体だけ良ければいいのか。下請け孫請けまで含めて一つの自動車グループと見るべきではないのか。

デフレ不景気の時代、トヨタ本体よりさらに厳しい状態だった下請け孫請けメーカー。マスコミや評論家も、これらの下請け企業まで目を配った論評をしてもらいたい。

「国」と呼ばないで

人質事件でも大きく取り上げられた、イスラム国。日本の報道機関も一般市民も皆、イスラム「国」と呼んでいるが、このイスラム過激派組織をイスラム国と呼ぶのはやめないといけない。

イスラム国と呼ぶことによって、この組織を暗黙の了解として「国」と認めていることになり(もちろん公式見解ではそうではないが)、この組織の宣伝活動の思うつぼになっているのではないか。イスラム国と連呼するテレビ局、新聞社は、無意識のうちにこの組織の戦略に利用されている。

多くの市民に、イスラム国は「国」だという間違った認識を与えてしまう原因にもなるのではないか。

オバマ大統領や国連など世界的には、ISIL(アイシル)と略称で呼ぶことがメジャーだ。もちろんISILの「S」という文字はState(国)の略だが、アイシルと呼ぶことによって、「国」だという誤った認識、イメージを与えることは避けられるのではないか。

安倍総理をはじめ政府関係者、報道機関、そしてわれわれ一般市民もイスラム国と呼ぶのはもう止めにして、せめて世界的な通称の「アイシル」と呼ぼうではないか。たったそれだけのことで、ISILに多少のダメージは与えられるであろう。

不条理を正当化してはいけない

世の中、社会、そして身の回りは不条理なことだらけだ。そしてその中で生きていくためには、不条理であることを前提に、いかに不条理な世界の中で上手く立ち回るかということに重きを置かなくてはならない。

しかしそれは不条理を正当化してもいい理由にはならない。

「不条理なことはなくさなければならない」、それは確かに理想論かもしれない。しかし理想論のないところに平和は訪れない。理想論があるからこそ、理想に一歩でも近づけようと前進する。初めから不条理なことが当たり前だと認めてしまえば、全く良くならない。

これが会社や人好付き合いのレベルの話ならまだいい。世界に目を向けると、純真な子供たちをはじめ、全く罪のない人たちが紛争などで殺されるなど犠牲になっている。これこそ最高の不条理だ。この様な状態を、不条理なのが世の中の摂理だと認めていいはずがない。そういう所にこそ最高の理想を掲げなければならない。純真な子供に、社会が不条理なことを教えてどうする。そんなことをやっても不条理が不条理を生み出すだけだ。

これから先の世界を担っていくのは、現在の子供だ。そしてその子供たちが希望を見出せる世界を作り出すために、大人は今を少しでも理想に近づけなければならない。

人質事件で殺害された後藤健二さんも、おそらくこのようなことを伝えたかったのではないだろうか。彼は私とは違って、自分の目でその不条理な惨状を目の当たりにしてきた。日本国内で平和に生きている我々には感じられないこともたくさん感じてきただろう。だからこそ、後藤さんには生きて帰ってきてほしかった。そしてそれらの現状を、国内でぬくぬくと暮らしている我々に伝えてほしかった。

底辺から二番目の人たちの問題

いろいろな世界で、底辺から二番目の人たちというのが一番苦しい立場に立たされている。一番顕著で問題なのが、社会で底辺から二番目の人たちだ。

言葉は悪いが、社会で底辺の人たち、すなわち働けない・職がないという人たちには、セーフティーネットというものが作動して、生活保護の支給や医療費無料などの支援が施されている。それ自体は別に悪くはないし、本当に支援が必要な人には不可欠な制度だろう。

そこで問題になるのが、セーフティネットにギリギリかからない、底辺から二番目の人たちだ。一応職はある。しかし働けど働けど生活保護と同程度か、それを下回る収入しかない。時間もない、金もない。このような人たちは社会の眼中にない。セーフティーネットにかかるかかからないかで天と地の違いだ。

底辺の人たちの問題は盛んに議論されても、底辺から二番目の人たちの問題は全くと言っていいほど議論にならない。

生活保護の受給者が増えているが、その原因は単に困窮している人が増えたというだけではない。底辺から二番目の人たちに対するサポートがないから、生活保護者は底辺を抜け出して二番目になろうとしない。

いま国、自治体による生活保護費の膨張が問題になり、対策を練っているようだが、底辺から二番目の人たちの問題に真剣に取り組まないかぎり、底辺の問題も解決しないだろう。

しかも、底辺から二番目の人たちは社会を支える大きな基盤になっている。しかし社会からの見返りがほとんどない。まずは些細なことでもいい。これらの人たちの医療費負担を減らすとかすると本当に助かると思う。

底辺の人が底辺から抜け出せるようにするためにも、底辺から二番目の人たちにもっと目をつけてほしい。