投稿者「木原 康明」のアーカイブ

僕には大きな夢がある。今からでも遅くはない!

歳を取ると、もう夢を見るのには遅いと言われることが多い。はっきり言うと「夢を“見る”」のには遅い!少年や少女のように夢を“見る”のには確かに遅いのである。しかし「夢を成し遂げる」ことに対しては全く遅くはない。夢は見るものではなく成し遂げるものなのである。

僕も今までいろいろなアクシデントがあった。それがために大きな回り道をすることになって、現在はまだ夢を成し遂げるには至っていない。しかし夢を実現させるための手応えは大きく感じている。

僕の夢は、物理と数学、すなわち数理物理の研究にある。それを成し遂げるビジョンは明確にある。後は細部を詰めて形にするだけだ。もちろんそこが非常に難しいところであることは理解している。

まず一つの大きな結果を出すことが大事である。しかし一つ結果を出したらそれで終わりではない。結果を出したら次の目標へと切り替えなければならない。それの繰り返しである。

iPS細胞の山中伸弥教授の言葉である「VW(ビジョン&ハードワーク)」を常に心がけて、常に挑戦し続けて行こう!何と言おうと僕は「超攻撃的人生」を進むと決めたのだから。

今、目の前は暗い。

今、僕の目の前は暗い。しかし将来が暗い訳ではない。一歩進んだ先には明るい光は見えているし、とてつもなく大きな希望もある。しかし自分の周りの環境、社会、そして広くは日本に関して、明るい状況には見えない。

現在、高度な情報化社会になり非常に便利になる一方、行動の自由が束縛されているようにも思える。非常に自由に感じるかもしれないが、何か社会に誘導されているようにも思える。

僕は今、自分が最高に自由になるためにはどうすればいいかと色々なことを試みている。自由には行動の自由と精神の自由がある。どちらか一方あれば良いというものではなく、この二つは自由の両輪である。

現在の社会に疑問を感じても、後戻りすることはできない。しかし前に進んで変えることはできる。とは言え、社会を変えようとする前に、自分が自由になる必要がある。行動と精神が自由でない人に環境と社会を変えることはできない。

オウム事件・死刑執行の可否について。

7月6日、オウム真理教による一連の事件に関する死刑囚の死刑執行が行われた。7人同時執行という異例の決断だった。これらの執行に関しては様々な議論がされているが、単純に可否を決めつけられるものではない。

死刑執行に関しては人権問題に関連付けられ、近年は世界的に廃止する方向性が固まっている。特に今回の死刑執行に関して、EU諸国からは強い非難が浴びせられている。しかしEU諸国の主張に対して、単純にそれが正しいと受け入れることはできない。

その理由の一つ目は、EUの主張は死刑執行という行為のみに焦点を当てており、オウム事件そのものに関しては(EUの主張を見る限り)盲目的であるということである。オウム事件に限ったことではないが、事件(犯罪)と刑の双方を総合的に見る必要がある。さらに、加害者(死刑囚)の人権ばかりが論じられているが、被害者の人権が一切論じられていない。

二つ目は、死刑制度は犯罪の抑止力にならないという意見だが、抑止力になってないという根拠は示されておらず、さらに刑は犯罪の抑止力だけのためにあるのではない。

三つ目は、オウム事件の特殊性である。このオウム事件に関しては規模が桁違いに大きく、被害も桁違いである。さらに非常に組織的な犯罪であり、個人が気まぐれに起こした犯罪とは訳が違う。

次に、死刑廃止に対する妥当性についてであるが、何より死刑執行という行為は不可逆的だということは考えておかなければならない。死刑執行をした後になってからでは元には戻せない。特に冤罪が発覚した後になっては既に取り返しがつかない。実際、袴田事件の袴田巌さんのような事例が最近明らかになっている。袴田さんに関しては何とか解放することはできたが、おそらく冤罪により死刑執行された人もいるのではないかと推測される。

今回のオウム事件に関する死刑執行の可否を一言で論ずることはできない。しかし死刑制度に対する妥当性を真剣に論ずる必要性は強くあるように感じる。

1%ダメだということは、99%大丈夫だ!

ネガティブな思考回路になっている時は、少しのネガティブ材料も過大評価して、1%しか起こりえない最悪の事を99%ダメであるかのように錯覚することが多い。しかし冷静に論理的に考えると、そのようなダメである確率は1%しか起こりえないと結論付けられることが分かる。すなわち99%は大丈夫なのである。

仮に例え49%ダメであっても、51%は大丈夫なのである。ダメな時のことばかり考えて保険を掛け過ぎるよりかは、上手く行った時にはさらにどのように進もうかと考えた方がはるかに建設的である。

人生には危険は付きものである。しかもそのほとんどは予測できない危険なのである。予測できる危険などは少数でしかないので、危険に対する恐れを過度に持つことは意味がないわけではないが、あまり効果的でもない。重要なのは予測できない危険が生じた時の対処と、動じない意志を持つことなのである。

人生とは予測不能な事案の連続である。過度に右往左往するのではなく、どっしりと構えて不測の事態にも覚悟を持って対処することが大事である。

ブログ復旧しました!

2日間ほどブログサイトがダウンしていましたけれど、無事復旧しました!

再び毎日ブログをアップしていこうと思います。

よろしくお願いします。

木原康明

フォワードのさらに前を行く!

超攻撃的人生を実行するためにはどうすればいいか?そのキーワードは「フォワードのさらに前を行く」ということだ。フォワード的位置は、普通の攻撃的ポジションだ。そのため、超攻撃的に物事を進めるためには、フォワードよりさらに前のポジションに位置しなければならない。

「超攻撃的」とは、物事や人生の進め方の姿勢であるが、それと同時に「必ずゴールを決める」という意味合いもある。従ってゴールを決めてなんぼの世界である。

サッカーで最前線のポジションはフォワードである。従ってサッカーの世界ではフォワードのさらに前というポジションは存在しない。しかし必ずゴールを決めるという意味では、メッシやC.ロナウドはフォワードのさらに前を行っていると言える。すなわちフォワードのさらに前を目指すということは、その世界でメッシやC.ロナウドを目指すことを意味する。

誰もが「フォワードのさらに前を行く」ことができるわけではない。これを実行するためには、実力や技術、そして強い意志を持たなければならない。しかし自分にそれだけの実力と意志を持っていると自負できるのなら、そのようなポジションをとって超攻撃的に進めることは非常にエキサイティングな挑戦である。

自己精神マネジメント。

自分の目標とすることを達成するためには、専門の知識・技術を高めると同時に自分の精神をコントロールすることが必要だ。しかしこのような自己精神マネジメントにはあらゆる側面があるし、また高いレベルでマネジメントをする必要がある。

僕は自己精神マネジメントには大きく二種類あると考えている。一つは攻めの自己マネジメント。もう一つは逃げの自己マネジメント。僕は現在、攻めの自己マネジメントを徹底的に追求している。なぜ攻めの自己マネジメントが必要かというと、それは自分の行動の自由、及び精神の自由に直結するからだ。

あらゆる面で自由でないと創造的な取り組みをすることはできない。そのためには身体と精神が高いレベルで健康であることが求められる。もちろん先日亡くなったホーキング博士のように、身体的に不自由でも徹底的に高度な精神を持って創造的な仕事をする人もいる。しかし普通の人にはとてもまねはできない。

高度に自由な思考で生き、非常に高度な目標を達成するためには、精神と身体のマネジメントを徹底的に追求することが必要だ。

知は受け継がれる。

最近、ソリトン理論関連のことを調べることがあり、その中でも戸田格子理論で有名な戸田盛和さんのことを調べた。戸田さんはもうお歳だろうとは思っていたが、1917年生まれで、2010年に93歳で亡くなっているらしい。戸田盛和さんはもうこの世にはいないが、戸田理論はこれからも長く残っていくだろう。

当たり前の事だが、科学者と言えども人間であるから、いつかはこの世からいなくなる。しかし科学者が残した理論はこれからも長く残っていく。いや、長く残る理論を作らなければならない。

いつの時代も同じだと思うが、多くの科学者は流行の理論に飛びつき、流行に乗った確実に結果が出る問題に取り組む。それ自体は間違っていないのかもしれないが、なんだか納得できない。しかし納得できないのなら自分が行動で示さなければならない。

多くの受け継がれない知ではなく、価値ある受け継がれる知を構築することが重要である。そのような意味のある研究に取り組んでいる科学者がどれだけいるのか?残念ながら多くはいないように感じている。

目の前の勝負より、その先の勝利!

サッカー日本代表・ポーランド戦の試合は、「目の前の勝負よりその先の勝利」とブログでも書いた。今でもポーランド戦での戦術には納得いかないが、自分自身の事に対して振り返れば、それはまさに「目の前の勝負よりその先の勝利」を目指していることと再確認した。

この信念で進めた場合、その先で勝利を挙げることができれば大きな評価を得ることができるが、もし勝利できなかったら笑いの的だ。もちろん、僕もその覚悟で進んでいることは言うまでもないが、サッカー日本代表の西野監督も同じ覚悟かも知れない。

もちろん、小さなことを積み重ねていくことは大事であるし、そこで小さな結果を出し続けることも大事である。サッカー日本代表も小さな結果から大きな結果まで出し続けてきた。僕自身も結果を出す必要性は痛感している。

小さな積み重ねなしに、その先の大きな結果はありえない。僕自身もこれまでの人生の中で小さなことを積み重ねてきた自負がある。

小さなことを何年、何十年も積み重ねると、人には見えない世界が見えてくる。サッカー日本代表にもそのような世界が見えているのだろう。

将棋の羽生善治さんは、才能とは継続することだと言っている。何時間集中して打ち込むことは多くの人にも経験があるだろうが、30年以上当たり前のことを継続することは容易ではない。しかしそれができる人には、そのことが才能があるということなのだろう。

当たり前のことを30年以上続けることができていれば、少し胸を張っていいのかもしれない。僕も少し胸を張ろうかな?

サッカー日本代表、何が問題なのか?

サッカーW杯ポーランド戦、日本代表の戦いはあまりにも不甲斐無かった。特に終盤はパス回しによる現状維持で怒りに震えた人もいるだろう。僕もそのうちの一人だ。勝っていて、あるいは引き分けでそれを維持するためにというのならばまだわかる。しかし“負け”を維持するためのパス回しなど聞いたことがない。正直言って西野監督には失望した。

では、この終盤のパス回しによる現状維持の何が問題なのか?確かに現状維持すれば決勝トーナメントへの出場へ大きく進むことになる。目の前の勝負を捨て、その先の勝負を取ると考えれば、そのような作戦も十分にありだ。

しかし問題はそこではない。日本代表が戦っている時、もう一つの試合であるセネガル対コロンビア戦も同時に行われている。そちらでコロンビアが1点リード。このまま行けば日本は1点差で負けても決勝トーナメントへ進出が決まる。しかしセネガル対コロンビア戦もまだ終わっていない。つまり日本代表は自分たちの運命を現在進行中の他試合に預けたのである。まさしく他力本願。他試合の行方を“自分たち”で左右することはできない。ここに問題があるのではないかと思う。

とは言え、とにかく決勝トーナメントに進出が決定した。次の試合で西野監督の評価の全てが問われる。もしベルギーに勝利すれば西野監督は大きく再評価される。しかしベルギーに負けると西野監督と日本代表は世界の笑いの的になる。それが勝負の世界である。