投稿者「木原 康明」のアーカイブ

「入試が重要すぎる」問題。

最近、東京医科大学の入試が問題になっている。それに対して僕の知人が「日本では入試があまりにも重要になりすぎている」とSNSに書き込んでいた。日本人にとっては入試は人生の一大イベントであり、人生を左右する重要な問題とされているが、そこまで入試を重要視することは本当に正しいのであろうか?

よく知られていることであるが、アメリカでは大学の卒業生の子供や多額の寄付金を収める人が入試で優遇されることがよくある。日本人の感覚で考えるととんでもないことであるが、アメリカ的な考えでは、その多額の寄付金により他の学生が大きなメリットを受けるので、全体を考えると良いことであるとなるそうだ。

日本人的な考えでは、「公平性」の立場からそれはけしからんということになってしまう。確かに入試というイベントだけを考えればそのような考えは間違っていない。しかし大学に入学した後はどうであろう。とてもじゃないが、入学後の大学システムは公平とは言えない。入学後に厳しい評価を下されるアメリカの方がはるかに公平だと言えるだろう。日本の大学の入学後は完全にザルである。

この様な事は、日本人の気質から来るものかもしれない。日本人は時間に正確で厳しいと言われる。確かに待ち合わせに一分でも遅れると時間にルーズな人間だと評価される。すなわちスタートの時間には非常にシビアだ。しかし終了の時間が一時間以上遅れることは日常茶飯事である。それを考えると、日本人は一体どこが時間に厳しいのかと感じる。

大学システムに関しても同じではないだろうか?スタート(入試)には非常に厳しいが、入学後から卒業資格を得ることに関しては非常にルーズで公平でもなんでもない。

僕の知人が言っているように、スタート、すなわち入試があまりにも重要になりすぎて、人生の本質を見失っているのではないかと思う。もうそろそろ、入試の結果だけで人物を評価し人生を固定化してしまうシステムを見直すべきではないだろうか?

平行読書術。

僕は本を読むのは速くないし、そんなに多量の読書をしているわけではない。そして一冊の本を最後までじっくりと読むということはあまりしない。しかし、読書というものは必ずしも最後まで読まなければいけないという訳ではなく、その本のエッセンスさえつかめれば前書きと目次しか読まなくても全てを理解できることもある。

そして読書をする時、一冊の本だけに集中するのではなく、複数の本を並行して読むということも効果的だ。複数の本を並行して読むのには、メリット・デメリットがそれぞれある。メリットは頭の切り替えが早くなるということである。そして複数の事を同時に思考するのは大局的に物事を考えるのには効果的である。デメリットは一つの事を深く考えなければいけない時に他の思考に移ってしまうということである。

しかし、一冊の本を読み終えることにこだわってしまうと、泥沼にはまってしまうことがある。それを防ぐためには平行読書術は有効である。そして読む価値のない本は早めにきっぱりと読むのを止めることが必要である。

僕が非常に勧めたいのは、本屋での立ち読みである。もちろん立ち読みで本を最後までじっくりと読むのは難しいであろう。そこで前書きと目次だけ読みあさるのである。それだけでもかなりのエッセンスはつかめる。そして同じ時間だけ読書するのなら、一冊の本を熟読するよりか十冊の本の目次だけ読むことの方があらゆることを掴むことができるであろう。

読書に対する考え方や姿勢一つで、物事の概観の理解の質と量が大きく変わるであろう。

投資を勘違いしてる?

最近は少し収まっているものの、相変わらず投資熱は強い。もちろん投資自体は全然悪いものではないが、金融投資に対する風潮にはおかしいところも多々感じる。

何がおかしいか?それは「投資をしないと老後が不安だ」とか、投資熱が熱いことに対して「投資をしないと時代遅れだ」という考え方だ。それらの背後には「投資は絶対に儲かる」という考え方があるような気がする。しかし当たり前の事だが、金融投資で儲かることもあれば、損することもある。しかし儲かるという情報ばかりが拡散され、損をするという情報はほとんど流れない。

そして投資という言葉を使っているものの、ほとんどの人が行っていることは“投機”に近い。投資とは、投資先の企業に対して金融支援を行うものだ。その結果その企業からリターンをもらう。しかしそのような構造を頭に入れて投資をしている人はほとんどいないように感じる。

その最も象徴的なものは、仮想通貨に対する投資であろう。そしてそれに対して投資という言葉を使ってはいるが、それは紛れもなく“投機”である。実際、著名な投資家であるウォーレンバフェットは、仮想通貨のような投機には一切手を出さず非難している。

もちろん僕は、仮想通貨の未来に対して批判しているのではない。そしてそれはウォーレンバフェットも同じであろう。問題なのは、人々の仮想通貨に対する考え方である。投機対象としてしか見ていない現状は明らかにおかしいのである。

最後に、一番価値のある投資は「自己投資」だと僕は考えている。自分がなりたいもの、そしてそれに近づくためには何をすればいいか?そのようなことに対してお金を投資するのが最も価値のある投資だと僕は考えている。

東京医科大・女子減点問題。

東京医科大学で、女子受験者に対して減点していたことが問題になっている。言うまでもなく許されるものではないが、ただこの問題を東京医科大だけの固有の問題と捉えればいいのかというと僕はそれは全く違うと考えている。

この女子減点問題は、女性医師に対する処遇をめぐる国全体の問題である。東京医科大が女子受験者を減点していた理由として、女性医師の出産に対する問題と、外科などの労働環境の厳しい診療科を女性医師が避ける問題が挙げられている。これらの問題が現実として日本全体で大きな問題となっている。すなわち、これらの問題を解決するためには、国家が政策として取り上げて動かなければ解決できない問題である。まして東京医科大学一校で解決できる問題ではない。

ではこれらの問題は解決可能であるか?その答えは海外から寄せられている。駐日フィンランド大使館のツイッターによると、フィンランドでは女性医師の割合が57%であると書かれている。すなわち男性医師よりも女性医師の方が数が多いのだ。もしかしたら診療科により男女のばらつきがあるのかもしれないが、もしそのようなことがあるとしても男女それぞれが力が発揮できるところでそれぞれ活躍すればいいだけの話である。日本では女性が外科を避けることが問題になっているが、それなら女性が望む診療科で活躍すればいいだけのことだ。もちろん、外科で活躍したい女性医師がいるのならば、それを拒む理由もない。

今回の問題は国全体の問題であるが、単純に女性を優遇すればいいという話ではない。女性も男性も同じ土俵に上がることが出来るようにすることが求められるのである。もちろん出産という行為は女性にしかできない。そのことに関しては女性に十分な配慮を行う必要がある。そして最も重要な事は、これらの問題は医師の世界だけの問題ではなく、あらゆる業界が抱える日本の根深い問題であるということである。

手段を選ぶ?選ばない?

目的の事を達成するためには、手段を選ばないという人は多いかもしれない。もちろん、最終目標が定まっていれば手段を選ばないというのは正しいことかもしれないが、僕はかなり手段を選んでしまう。

ゴール地点にたどり着くことは非常に重要だが、そこまでどのような道をたどって行ったかということも非常に重要な要素だと考えている。ゴールまでどのような道をたどって行ったかということには、その人の人柄や人間性が現れる。お金を稼ぐことは非常に重要だが、どのように稼いだかということにもこだわりたいところである。

どのような道筋をたどったかということは、どのような人生を送ったかということとニアリーイコールだと考えている。もちろん世間は最終的なゴール地点ばかりに目が行きがちであるが、それまでの道筋こそがその人のオリジナリティーの発揮される場所である。

数学や物理の研究においては、逆に手段を選ぶ人は多い。代数が専門だから代数的な手法にこだわるというようなことだ。しかし問題を解決するに当たっては、本来手段を選ばずにやるべきだと思う。その方が学問の大きさが圧倒的に広がる。

ポアンカレ予想(幾何化予想)を解決したペレルマン博士は、本来トポロジー(位相幾何学)の問題だと思われていたポアンカレ予想を微分幾何学の手法で解決した。このような姿勢はどの分野に取り組む人も学ぶべきことだと思う。

道筋をこだわる所ではこだわって、こだわらないところでは雑食的に何でも学び使ってみるという使い分けを上手く行い、人生を豊かにしていくことが必要ではないだろうか?

今の日本に競争心はあるのか?

現在の日本では、競争することはあまりよくないという風潮が見受けられる。「ナンバーワンではなく、オンリーワン」と言う歌も一昔前に流行った。もちろんそのような考え自体悪いことではないし、過度な競争には不毛な点も多々あることは事実だが、逆に現代の日本はあまりにも競争心がなさすぎるようにも感じる。

数学や物理の研究というと、独創性の世界であって競争の世界ではないと思っている人も多いかもしれない。しかし研究の独創性というものは当たり前であって、わざわざ言葉で「独創性が重要」と言っているようなレベルではスタートラインにも立てていない。研究論文では引用数などの数字で表れる評価もあるので、そういう意味では研究の世界でも競争は避けて通れない。

幼稚園の徒競走では、ゴール地点では皆手をつないで一緒にゴールをするという話を何度か聞いたことがある。幼稚園では“仲良く”ということでそれはそれでいいのかもしれない。しかしそれを何十年も引きずっていたのでは話にならない。

日本ではギラギラとしている人を嫌う風潮がある。そのせいか、ギラギラとした人間があまりにも少なすぎるような気がする。積極的にアクションを起こし、大きな成果を挙げることも重要である。そのような人生のギャンブルを懸ける人はどれだけいるのだろうか?

今、日本の学問における研究レベルの低下が叫ばれている。それを改善するためにはまずは競争の重要性を認識することが必要である。しかし受験テクニックを磨いて一時しのぎするという類のものではない。もっと本質的な所で競争しなければならない。

大学受験時に高木貞治の「解析概論」を読破するという強者はこれから現れるのだろうか?

現代の価値観だけで、歴史を語ってはいけない。

価値観というものは、時代によって変化していくものである。従って、現時点で良いと言われていることが、次の時代で悪と言われることは多々ある。すなわち現代の価値観だけで歴史を見てしまえば、歴史の本質を見誤ってしまうことになる。

太平洋戦争時の事に関しては、戦後ほぼすべての事が悪であると教え込まれてきた。その中でもA級戦犯は今でも極悪人だと思っている人がいる。この“A級”とは本来は“一番悪い”という意味では全くないのにもかかわらず。

さすがに戦国時代の事にもなると、現代の価値観を押し付ける人は少ない。もし現代の価値観だけで評価すれば、織田信長は残虐独裁者となってしまう。

日本人は同調圧力に弱いと言われる。そのうえ、日本の同調圧力はかなりひどいレベルである。このような同調圧力の中で独創的な成果を出そうとすれば、かなりの精神力が必要だ。すなわち独創的な才能があるかどうかということとは違う部分に左右されることになる。

歴史に対する評価も、かなり同調圧力がかかっているように思える。A級戦犯を称賛しようものなら、極悪人だと非難されるだろう。もしそう批難する人がいれば、城山三郎著「落日燃ゆ」を読んでもらいたい。

いつの時代も現在の価値観が正しいものだと教え込まれる。もちろんこれはほぼ同調圧力によるものだが。しかし次の時代には次の時代の同調圧力がかかり、違う価値観に変わってしまう。すなわち一時代の価値観だけで歴史を評価すると見誤ってしまうのだ。

価値観が時代により変遷することを考慮すると、歴史は点ではなく線で見ることが必要である。そしてこのような大局的な視点で物事を見ることは、何に対しても非常に重要な事であることがわかる。

機能美でなければならない!

物事がそうあるのには、多くの場合理由がある。もちろん世の中には無意味なものもたくさんあるが、後々まで残るものにはしっかりとした理由がある。

美に関してもそうである。理由のない美は単なる張りぼてでしかない。意味のある美にするためには機能美でなければならない。良いスーツは単に見た目が美しいというだけではなく、着心地や体形補正などの様々な機能美が繰り込まれている。車の内装に関しても、ただお洒落だというだけではなく、なぜそのような配置になっているかという機能美が熟考されている。

物事や出来事に意味を考えることは非常に重要である。科学の実験にしても、想定外の事が起きた時に「なぜそのようなことが起きたのか?」と考えることが次の発見につながる。

もしかしたら人生もそうかもしれない。一人ひとり、生きていることには意味がある。もちろん意味を無理やり押し付ける必要はないが、自然な意味を考えることによって、自分がこの先どのように進むべきかということが見えてくる。

ただ事実を事実だけで終わらせるのではなく、それから何かを学び取りどう次に生かすか?それの繰り返しによって人間は進歩していくのだと思う。

目指すもの。

僕には目指すものがある。それを「成し遂げたい」のではなく、「絶対に成し遂げる」という覚悟を持って取り組んでいる。

ただ、自分の考えや中身の事は、周りの人には見えない。それを口に出したからといって、信じてもらえるわけではない。行動し成し遂げることによって納得させるしかないのである。

自信がないのにただ夢を見ているだけでは、何も生まれないし何の意味もない。しかし自信があることに対しては、かなりのリスクを背負ってでもその道を進むべきだと思っている。ただ、成し遂げる見込みもないのにそれにかけるのは暴挙でしかない。

リスクのない投資というものは存在しない。僕自身は金融の投資とは縁はないが、目指すものに対して最低限のお金はしっかりとつぎ込んでいるし、ここぞと思う時はお金と人生を思いっきりつぎ込んでいる。

では、どのようなものに対してお金と人生を投資すべきか?それは自分でコントロールできるものに対して投資をすべきということである。例えば、宝くじや多くのギャンブルは100%運でしかない。そのような運にお金をつぎ込む価値は全くない。しかし運の中にも自分でコントロールできるものがある。例えば人との出会いとか、あるいは金融投資もかなりコントロールできる運と言える。しかしコントロールできる運は、努力と才能なしには向上できない。

コントロールできる運は、成功した時にそれは実力へと変わる。もちろんそれまでには多くの失敗を経験するであろう。すなわち重要なのは、それまで積み重ねてきた失敗を大きな成功に変え、自分の実力へとすることなのである。

子供は誰のために産むの?

今、自民党議員のLGBT(性的少数者)に対する発言が問題になっている。LGBTの人たちは子供を産まないので生産性がない、という趣旨の発言だ。

もちろん、政治家が出生率の低さを問題にし、出生率を上げるために子育て支援などに力をいれるという政策を議論するのは大いに納得するし、そのような前向きな政策はどんどん進めてほしいと思う。しかしある特定の人たちを指し、「あなたたちは子供を産まないから国家に貢献していない」と発言するのは、間違っているということを通り越し危険性さえ感じる。

そもそも何のために子供を産むのか?その思いは様々であるだろうが、国家のために子供を産むという人は現代日本ではまずいないだろう。国家の生産性を上げるために子供を産むなどという思想は、戦前の日本の体制に通じるような危険性を感じる。

子供たちは日本の将来を担っているが、決して国家のピースではない。子供を国家の駒などと考えるような国に輝きも自由も感じないし、輝ける将来の大人である今の子供たちは、そんな国を見放していくであろう。