投稿者「木原 康明」のアーカイブ

テロと向き合う日本(人質事件をめぐって)

今朝、後藤健二さんがイスラム国に殺害されたという報道が入った。日本として痛恨の極みだ。

日本人の誰もがイスラム国周辺は危険地域だと知っている。しかしそれを知っているのも後藤さんのように紛争地に赴き、レポートを届けてくれる人がいるからだ。

日本人として悲しい。本当に悲しい。もちろん日本人の命も外国人の命も、同じ一つの命であることには変わりない。どの命も同じくらい重い。しかし使命感を持った同胞がいわれもない殺され方をするのには、悲しくて、憤りを感じる。

しかし、政府もここ数日間よく動いた。安倍首相、菅官房長官をはじめとする政府トップも不眠不休で対応に当たり、疲労困憊していると思う。少し一息ついたら、二度とこのような悲劇が起きないように、対テロ対策には強く当たってほしい。しかしアメリカなどと全く同じ手法をとる必要はない。日本には憲法第九条があり、武力によらない平和的解決を求められている。もちろん欧米諸国と足並みはそろえなければならない。

今回の事件で、日本も対テロ戦争の直接の犠牲者になった。テロは他人ごとではなくなった。日本人もようやく世界の現状に目を覚ました。自己責任論というバカな主張が、最後には、I am Kenji 運動という同胞を思いやる運動に変わった。

最悪の結果にはなったが、これから日本は世界のテロ集団に対してどのような姿勢を取るべきか、明確になったと思う。

ビリギャルが気づかせてくれたこと

昨年から、一冊の本が大ベストセラーになっている。

「学年ビリのギャルが1年で偏差値を40上げて慶應大学に現役合格した話」(KADOKAWA)

実は僕も買ってしまった。それもベストセラーになる前の、出版された直後に。

こんな類の本には普段は見向きもしない僕がなぜ買ったか。軽い気持ちで何となく本屋で手に取って立ち読みしたのだが、初めは10秒眺めたら書店の本棚に戻すつもりでいた。しかしパラパラと本をめくっていたら、さやかさん(主人公)の猛烈な努力の様子に圧倒され、10秒のはずが数分も本の中身にのめりこんでいた。

簡単に言うと、学年ビリのダメギャルが勉強に目覚めて、超努力して慶應義塾大学に合格する話だが、それだけなら30分立ち読みして済ましてもよかった。しかしどうしても買いたくなった。本に書かれているさやかさんの努力に比べて、最近の僕の不甲斐なさ。この本に書かれているさやかさんの努力を目に焼き付けて、自分も思いっきり死ぬほど頑張ろうと思い、本を手に入れることにした。

内容もなかなか面白くて、見所満載の本だ。起承転結が見事にうまく構成され、意外にも僕個人的にはなかなかの名著だと思う。

一に努力、二に努力、三四がなくて、五に努力。努力しないことには何も始まらない、そんなことを確認さしてくれた一冊でありました。

歴史認識問題

今年は第二次世界大戦終戦70年目にあたる。そして四日前の1月27日は、ナチスドイツによるユダヤ人大虐殺の舞台となったアウシュビッツ収容所解放70周年の日だった。ドイツではアウシュビッツは負の遺産として決して忘れてはならないものとして、強く記憶に残されている。

中国・韓国はそれぞれ、南京大虐殺・従軍慰安婦問題をナチスと重ねて問題化しようとしている。日本の見解によると、中国の主張する南京大虐殺の殺害数は大きく誇張されていると言われ、慰安婦問題は事実と異なると言われている。

おそらく文献や文書などの記録に基づく主張だとは思うが、70年後の現在に生きている我々には正確な事実は直接にはわからない。しかし日本と中韓の政府・国家の信用度を考えると、90%日本の主張が正しいとは思われるが、真の事実は当時の当事者しかわからない。あるいは当事者などいないかもしれない。

しかしこれだけ事実とは異なる可能性の濃い事象が広く伝わったのは、日本政府の主張が弱すぎること、そして中韓の強力なロビー活動によるものというのが一般認識だ。特に韓国のロビー活動は有名で、韓国ではノーベル賞が取れないのはロビー活動が弱いからだという意見もあるくらいだ。

話は少しそれたが、歴史とは過去の問題なので、現在に生きる人間にとって正しい歴史認識を持つことは難しい。またその人、国の立場によって歴史解釈は変わってくる。真実は一つでも、解釈・認識は一つではないのだ。

最近になって、日本政府はようやく自国の歴史認識について主張し始めた。遅きに失したという感は否めないが、何もしないよりましだ。日本の、外交の振る舞いに対する美意識は、海外では通用しない。日本の文化を否定する気は全くないが、外交においてはグローバルに通用する日本流を確立していかなければならない。

ネクスト資本主義

最近、「資本主義」というものに、人々は疑問を持ち始めた。今までの資本第一主義の社会に何かしら違和感を感じているのだろう。

昨日1月29日の田原総一郎氏のブログで、氏は現在の資本主義に言及し、資本主義の終焉、ポスト資本主義について意見を述べている。氏は資本主義に置き換わる、新しい「・・主義」を模索し探しているのだろう。

しかし私は社会のシステムを「主義」とひとくくりででまとめてしまうことに限界があるのではないかと思う。

いま、あらゆるジャンルで「多様性」というものが注目されている。資本主義の次に来るのもまさしく「多様化された社会」ではないだろうか。

今までは資本主義陣営では、共産主義は批判の的であった。しかし共産主義自体はもともと民衆の格差をなくすために考案された。実際の共産主義国の実情はともかく、共産主義の理念自体は悪くないと思う。

そしていま、世界的ベストセラーになっている、トマ・ピケティの著書「21世紀の資本」(あまりにも分厚いので僕はあまり読む気にならないが)では、資本主義社会では貧富の格差が大きくなっていくのが普通の状態だと警鐘を鳴らしているらしい。しかしピケティに言われなくても、貧富の差の問題は今では万人が認識している。

それから私が思うには、資本主義というのは「社会組織第一主義」でもあるのだと思う。しかしいま重きは、社会組織から個人個人に移ってきている。そういう意味でも多様性のある社会が重要になってきているのだ。

「主義」という言葉でまとめてしまっては多様性を押し殺してしまうかもしれない。そういう意味で、ポスト資本主義とは言わずに、私はあえて「ネクスト資本主義」という言葉を使った。

多様性とは言い換えると「バラバラ」ということかもしれない。社会秩序を保ちながら多様性を容認するのは簡単ではない。しかしその舵取りをする政府、あるいは霞ヶ関、社会的指導者は、そのバランス感覚に細心の注意を払わなければならない。

ともかく、人々が住みよい社会、そして個人の意思が尊厳される世の中になることを願っている。

パーフェクトベビー

ここ数年、遺伝子検査の進歩が目覚ましい。血液を検査するだけで、現在の病気や体質だけでなく、将来に罹患するであろう病気までわかっしまうらしい。

もちろんこのような流れは、現存する人間だけでなく、将来生まれてくるであろう胎児にもなされることは容易に推察できる。

以前から、胎児の遺伝子を検査して、ダウン症などの遺伝病が発覚すると堕胎するということは、「命の選別である」と問題になっていた。そして現在では男女の産み分けも100%の確率でできるらしい。さらに受精卵の遺伝子検査をすることによって、生まれてくる人間の遺伝病だけではなく、性格や才能までわかるらしい。

このように、生まれてくる人間を人の手で操作し、誕生する理想的な赤ちゃんを、「パーフェクトベビー」というらしい。

パーフェクトベビーの問題を一言で断罪するのは非常に難しい。社会的問題、宗教的問題、倫理的問題、科学的問題などの複合的な見解が複雑に絡み合う問題なので、永遠に答えの出ない問題かもしれない。

しかし多くの人は何かしら違和感を感じるところだろう。永遠に解決できない問題かもしれないが、議論はしなければならない。簡単に線引きできる問題ではないが、社会的ルールとしてどこかで線引きしなければいけない。

優秀で健康な子供に生まれてきてほしいというのは、親にとっては誰でも思う親心だ。しかしこのパーフェクトベビーをめぐる問題には、ゆがんだ親心が関わっていないかと思うのだが。

これから社会で大いに議論し、適切な落としどころを見つけなければいけない問題だ。

置いた拠点に悔やまれる(人質事件をめぐって)

現在、1月28日午前三時。

数時間前に新たな映像がネットに流された。それによると後藤健二さんの救出期限は24時間とイスラム国側に指定された。

そこでやはり悔やまれるのは、救出拠点をヨルダンに置いたことだ。確かにヨルダンは親日国家で、ヨルダン国家・国民には感謝しなければいけない。

しかしなぜ拠点をトルコに置かなかったのか。それが悔やんでも悔やみきれない。トルコは以前ブログで書いたように、歴史的な経緯もあって、「超」が付くほどの大親日国家だ。しかも報道によると、トルコは以前、イスラム国に拘束されていた人質数十人を奪還したようだ。このように、親日であり、人質救出の実績のあるトルコに窓口を置かなかったのは、日本の痛恨の極みである。

もちろんトルコに拠点を置いたからといって、必ず成功するとは限らない。しかしトルコに拠点を置かなかったことは、救出作戦とは関係なしにしても、外交として一つの失敗だったのではないか。僕はヨルダンに何も悪気はないし、親日であることには感謝しているが、トルコではなくヨルダンに拠点を置いたことに関しては全く理解できない。

しかし一度ヨルダンに拠点を置いたからには、それで突き通すしかない。安倍首相をはじめ日本政府、そしてヨルダン政府は全力を尽くしているのも伝わってくるので、外部の人間としてはそれらの政府、首相を信じることしかできない。

それから、安倍首相にとってはここは踏ん張りどころだとは思うが、健康には留意してほしいと思う。

一人の日本国民として、日本国首相安倍を見守っています。

I am Kenji(人質事件をめぐって)

イスラム国人質事件で、現段階で湯川さんは殺害されたといわれているが、後藤健二さんはまだ生存しているようだ。

この事件に対する対応は世界が見ている。日本国政府の対応、そして日本国民の対応。

人質事件が起こると毎度出てくるのが「自己責任論」。しかし同じ日本人をそんなに簡単に見捨てていいのか。そのような日本人の声は、全世界が聞いているぞ。日本という国、日本国民はそんな自分勝手な低レベル国家なのかと。

今すべきは後藤さん助けるために少しでも状況を好転させること。これは日本政府だけの役割と思うかもしれないが、日本国民一人一人の声も集まれば日本国の世論となり、イスラム国側に圧力をかけられるかもしれない。そのためにも自己責任論などという、自ら同胞を見捨てるようなバカな声を発信してはいけない。

しかし、いま嬉しい運動が起こっている。

「I am Kenji」運動。

もちろんこれは、パリのテロ事件での、「I am  シャルリー」運動をもじったものと思われるが、このような運動を起こし、日本国民が一致団結していることを示すことが、今われわれ一国民がイスラム国に圧力をかけられる一番の手段ではないか。

「I am Kenji」

そして後藤健二さんが無事戻ってきたら、こう声をかけてあげよう。

「また紛争地に行って、良質なレポートを届けてくれ」と。

友好国と隣国

イスラム国に拘束されていた二人のうち、湯川さんが殺害されました。しかしまだ後藤さんの生存が濃厚な状況なので、政府は後藤さん一人だけでもという方針で行くみたいです。

そこで重要になってくるのがイスラム国とのパイプですが、日本政府はイスラム国とのパイプを持ってないようです。頼るべきは、日本と国交のある中東国。そこで真っ先に思い浮かぶのはトルコではないでしょうか。

日本とトルコは大の友好国で、その歴史は明治時代にさかのぼります。紀伊半島沖で沈没したトルコ船の船員を救出し、生存者を日本の軍艦でトルコまで運んだことから縁の発端は始まります。

そしてトルコの日本に対する友好的な好意は今でも非常に強く、日本人としては非常にありがたいことですが、日本はというと韓国・中国との関係ばかりに目が行き、トルコなど眼中にないというような扱いです。

確かに日本とトルコは地理的に非常に離れています。しかし、友好国などというものは、作ろうと思っても簡単にできない。だからこそトルコのような親日国家に対して日本も大切に接しなければいけない。

親日国家を大切にすることは、普段は利などあまり感じないかもしれませんが、いざというときに必ず力になってくれる。イラン・イラク戦争の時にイランから邦人を救出してくれたのはトルコ政府・国民だったことを、決して忘れてはいけない。

今回の人質事件対策本部はヨルダンに置かれているようで、ヨルダンも日本の友好国だということを初めて知りました。やはり危機の解決の糸口は友好国にあり、トルコ・ヨルダンになるのではないでしょうか。

近くの敵を懐柔することも必要かもしれませんか、遠くの友も大切にすることを忘れずに。日本政府なら必ずうまくやってくれると信じています。

道草もそこそこに・・・

これまでの僕の人生、最短距離でゴールしたことなんてほとんどありません。知らず知らずの無意識のうちに道草ばかりして、わざとしているんじゃないかというくらいいつも遠回りして、まだゴールにまでたどり着いてないこともたくさんあります。

もちろん最短距離で効率よくゴールするのが理想的かもしれません。僕も最短距離で行けるものなら行きたいです。

でも実際に道草を食ってみると、その味もなかなか悪くないな~と思うこともよくあります。時には思いもよらない味の存在に気づいたり。

でも最終的にはゴールしないことには、記録に載りません。記録にならないことはほとんどの場合記憶にも残りません。記憶の男、長嶋茂雄もしっかりと記録も残しています。

しかし、ゴールするまでの道程は様々です。時にはゴールの位置さえ変わってしまうこともあります。道程が個性あふれるものならば、ゴールもオリジナリティあふれるものになります。

でもやはりゴールはしないといけないので、道草もそこそこにしないといけないかなとは思うのですが、やはり道草の魅力(魔力?)に負けて、これからも道草を食べ続けていきそうです。

自己責任論

現在、イスラム国での人質事件は期限が過ぎたが、大きな進展はないようだ。

外国での人質事件が起こるたびに必ず上がるのが「自己責任論」。自分が勝手に行ったのだから、すべて捕まった本人の責任だというものである。しかし、日本の法律には、自己責任論などというものは存在しない。それに、日本国は海外で被害にあった日本人を助ける義務がある。

確かに今回の2億ドル(200億円以上)という金額は法外なものだ。しかし、初めからこの金額に対して救助を放棄をしてしまえば、日本は国家の体を放棄しているのと同じことになる。確かに今回の救出作戦は非常に厳しいもので、成功するかわからない。しかし、首相をはじめ、日本国が全力を挙げて取り組んでいることに、日本国民の一人として誇らしく思う。

今回拘束されている湯川さん、後藤さんは、決してわがままで行ったのではない。それに万が一自分で勝手に行ったとしても、国は救助する義務はある。

今回の救出作戦は、今回一件だけで終わるものではない。日本の自国民を守る姿勢は対外的に示され、日本という国の思想なり品格なりの高さを示すものになるであろう。

今は二人の無事を祈るのみである。