投稿者「木原 康明」のアーカイブ

普通の人の生活向上も大切だが、はたして創造的異端者が暴れまわれる環境は日本にあるのだろうか

最近、政治家たちがこぞって「普通の人がより良い生活をできるような社会にする」ということを叫んでいる。もちろんそれはもっともな話であり、国民の大部分が普通の人である限り、それを政策の目玉にするのはもっともなことである。

しかし、日本では昔から「出る杭は打たれる」という格言があるように、異端者に対する風当たりが厳しい。もちろんそれで結果が出た後はまだ良いが、結果が出るまでの過程上は非常に厳しいものがある。

日本は異端者、特に「創造的異端者」をあまりにも冷遇しすぎているのではないか。創造的異端者には限りない可能性が秘められている。しかし判断が難しいのは、異端者が本当に結果を出せるところまでいけるのかということ。普通でない限り、普通の人と同じようにコンスタントに結果が出せるとは限らない。

アメリカでは、多くの人が「いかに出る杭になるか」ということを考えているらしい。しかし日本では「いかに目立たずに無難に過ごすか」ということが美化されている節がある。この様な風潮の中で、異端者が暴れまくるのは物理的にも精神的にも苦しいものがある。

しかしそれでも多くの異端者は暴れることをあきらめようとしないだろう。なぜならそれが異端者であるが所以だからである。

現在の発展した社会は、多くの普通の人の地道な努力と、「異端者の爆発的飛躍」によって築き上げられてきた。そして現在、中国・インドなど新興国が猛烈な勢いで発展してきている。その一方、超大国アメリカはなんだかんだと言われながらもあらゆる分野で世界ナンバー1を維持している。

では日本はどうだろうか。最近はどうも芳しい話はあまり聞かない。いかに発展するかということより、いかに後退を防ぐかということに力がそそがれているように感じる。この様なときにこそ、創造的異端者の爆発力が求められているのではないだろうか。

異端者が異端であり続けられる国にすることこそ、これからの日本の飛躍の原動力になるのではないだろうか。

最高の技術と、最高の人格

つい先日、イチロー選手が日米通算4257安打を記録し、ピート・ローズのもつ世界記録を超えたことは記憶に新しい。イチローは言わずと知れた「世界最高の技術を持ったヒットメーカー」だ。それと同時にイチローは人格者としても知れ渡っている。

今回、イチローが世界記録を樹立した際、元記録保持者のピート・ローズ氏が全く認めなかったことを、大人げないという人は多い。とは言え、別にピート・ローズ氏の人格が低いわけではない。ピート・ローズ氏の反応の方が普通なのだと言える。

しかし、ピート・ローズ氏とは比べ物にならない「最低の人格」と言われた偉大な大リーガーが20世紀初頭に存在した。野球好きなら一度は聞いたことのある名前かもしれない。「球聖」タイ・カッブだ。彼の通算安打数は現在ではイチロー、ピートに次ぐ三位だ。彼は間違いなく最高の野球選手であった。しかし彼の悪行は有名で、野手の顔に目がけてスライディングしていたことは有名だ。まさしく「最高の技術と、最低の人格」を持った人物だ。

イチローが、最高の技術と同時に、「最高の人格」を持っていることは、同じ日本人として誇らしい。まさしく、日本を象徴する人物だと言ってもいいだろう。それから野球に対するストイックな姿勢もイチローの大きな魅力だ。

人間の寿命は有限である。その短い人生の中でどのように自分を表現するか、すなわち「いかにして生きるべきか」という問いを全ての人は持つべきだと思う。おそらくイチローもそのような問いに常に向き合っているのだと思う。

イチローは記録を樹立した時、「ジーターのような人格者に記録を抜いてもらえればうれしい」と語った。このことからも、人間としてどのようにふるまうかということを重要視していることがわかる。

「最高の技術と、最高の人格」を持つためにどうすればいいのか。今の僕には遠い言葉かもしれないが、一歩でもその言葉に近づくために、常に人生に対して問い続けなければならない。

多数決は絶対的か?イギリス国民投票から考える

先日、イギリスで、EUからの離脱か残留かを問う国民投票が行われた。結果はご存じのとおり、離脱派の勝利となった。ところがその後、イギリス通貨・ポンドは大幅下落し、世界経済は軒並み下落した。さらにイギリスの一部であるスコットランド、北アイルランドがイギリスから独立しようという機運が高まっているという。もしそうなれば、イギリスは解体し、イングランドへと縮小する道をたどることになる。

イギリスは言わずと知れた民主主義先進国である。民主主義の基本理念は単純に言うと多数決にある。今回の国民投票も多数決によって国家の行方を決めようというものであった。しかし今回の投票後の状況をみると、多数決社会の絶対性に疑問を抱かさざるを得ない。

もちろん、「民主主義」という言葉通り、民主主義国家では主権は国民にあり、国民が国の行方を決定する。この理念は素晴らしいものであり、絶対に継続しなければならないものだ。しかし全ての国民が正確で詳しい知識を持ち合わせているわけではない。全てを理解するには個人では限界がある。そこで投票によって議員を選出し、国民が間接的に政治に参加しようとするのが現代民主主義の理念だ。

選挙で選出された後、政治家、そしてそのトップである首相は強力な権力を駆使して重要事項を決定していく。そのために、国民は有能な政治家を見極めることが必要であり、国民レベルでは判断できないことを政治家は遂行していく。

しかし今回の国民投票では、政治家は直接的には介在せず、国民が直接決定するという形のものだ。そしてその結果が現在皆の知る通りだ。

果たして政治家が全てのことを国民投票として丸投げするのは正しいのだろうか?国家が間違った方向へ進みそうなときには、それを政治家が許される範囲内の権力をもって正すことも必要なのではないか。そのようなことをイギリスの国民投票からは考えさせられる。

多数決社会と政治家の権力行使のバランスを常に気にしなければならない。もちろん政治家が強権を持った極限が独裁であり、それが非常に危険であることは多くの人が認識している。しかし何かあるごとに全て国民投票に丸投げというのも、政治家の一部職務放棄とも考えられ、バランスを崩す原因にもなるのではないかと考える。

自分が追い込まれたとき、それを劇薬として現状突破するためには

人間生きていれば、楽しい時ばかりではなく、苦しい時、精神的に追い込まれる時が多々ある。マスコミなどでは絶対に死んではいけないとよく流されるが、実際に死ぬかどうかは別として、ほとんどの人は何度も死にたいと思ったことがあるだろう。しかしそこで死んだらゼロである。死ぬなら人生で成すべきことを成し遂げてから死ななければならない。

もし自分が追い込まれたとき、自分はどう解釈するであろうか。確かに精神的に追い込まれずに快適に過ごせることができれば、それは非常に素晴らしいかもしれない。しかし僕はそれが理想的だとは思わない。人それぞれ考えは違うだろうが、僕は自分が追い込まれたとき、背水の陣の状態になった時、その状況・精神的状態が飛躍的進歩の原動力になると考える。もちろん追い込まれて折れる人も多々いるかもしれない。そこは人それぞれの物事のとらえ方次第である。そして本当にどうにもならない状況になる人も現実にいるだろうし、僕の考えが全てに当てはまるとは思わない。

それから、自分を意図的に追い込んでコントロールするという手法もある。苦境は必ずしも悪ではない。もちろん悪であることもあるであろう。しかし苦境を逆に自分のコントロールに利用する、ある意味、苦境や精神的窮地は劇薬かもしれない。この劇薬を自分の飛躍に利用できるか、劇薬で倒れてしまうか、それは自分次第である。

自分を快適な環境において快適に物事に取り組むことを求めている人が多いが、もし自分が苦境に追い込まれたときそれを毒とせずに薬にしてしまう、そのような思考が劇的な現状突破の原動力になるのではないかと僕は考える。

オバマ大統領、広島訪問。17分間のスピーチ

27日の午後、アメリカのオバマ大統領が被爆地広島を訪問した。唯一の原爆投下国が、唯一の原爆被爆国の被爆地を訪れるという、歴史的な出来事であった。

オバマ大統領のスピーチは予定では数分であったが、実際には17分にも及ぶ長いものとなった。オバマ大統領の核兵器廃絶への強い思いを感じさせるものであった。

オバマ大統領が謝罪をするのかということが論点にもなっていたが、オバマ氏のスピーチは謝罪という次元の話ではなく、非常に未来志向のスケールの大きな、また、強い信念を感じさせるものであった。

スピーチの内容は、太平洋戦争、原爆投下などの限られた話題ではなく、人類の歴史から古代から続く人類同士の紛争から始まり、科学技術の発展、そしてなぜ現在も不幸な争いが世界で続くのか、そして核兵器廃絶への絶対的必要性、そしてもちろん広島・長崎での不幸な出来事への言及、戦争で対峙し合った日本とアメリカが現在では日米同盟という形で強く結び付いていることなど、多岐にわたった内容となった。

現職のアメリカ大統領として被爆地を訪れることは非常に覚悟のいる事であり、それを実行したオバマ大統領には敬意を表したい。

スピーチが終わった後、オバマ氏が被爆者の代表者とハグを交わしたことは、非常に印象的であった。

話しは変わるが、現在アメリカでは次の大統領選の予備選挙が続いている。そこで過激発言などでトランプ氏が非常に大きな勢いを保っている。本選ではトランプ氏とヒラリー氏の対決になるものと思われる。トランプ氏の台頭には非常に危機感を覚えるが、今回オバマ氏が強い覚悟をもって広島を訪れ、未来に向けての強い意志を表し、核兵器廃絶と世界の平和を約束した行為を、次期大統領にも何が何でも継承してもらいたい。

本音が言えない、建前社会

某歌手の歌詞が女性蔑視であると批判されているという。そこで実際にその歌詞を見てみた。確かに女性蔑視かという観点から見れば、女性蔑視であることは否定できない。

しかしそこで、この歌詞について二つのことを感じた。

一つは、女性を貶めるような悪意を持った歌詞ではないように感じる。

もう一つは、この歌詞は社会一般思想に対する表現というより、一人の男性の想い、タイプの女性について描いているに過ぎないのではないか?

ということである。

一つ目については保留することにして、二つ目について少し考える。もしこのような観点で書かれた歌詞が女性蔑視と批判されるのなら、好みの女性のタイプを持つ全ての男性が女性蔑視ととらえられかねない。

政治家の発言は慎重に慎重を期すべきで、軽い発言を公の前ですべきでないと思う。なぜなら政治家は巨大権力を持ち、政治家の個の力をもっても社会に対する影響力は絶大であるからだ。

しかし個人か個人的にどう思おうが、民主主義自由主義社会では自由なはずだ。思想の自由は保障されている。かといって、女性蔑視が許されるものではないが。

とはいえ、今回の事例にしても、女性蔑視の観点から悪質であるというより、女性蔑視を足掛かりにして批判してやろうという意図が大きく感じられる。今回の問題は女性蔑視であったが、このような思想規律を厳密に運用しようとするとどうなるか?すぐに分かるように本音が言えない社会になってしまう。ささいなことで言えば、好きな女性のタイプを言うだけで差別だと批判されれてしまうであろう。まさしく心の多様性が抹殺されてしまうのである。

この様な本音が言えない建前社会の度が過ぎるとどうなるか、おそらく社会は均一的・共産主義的になり、国家の衰退も免れることはできないであろう。

欧米人はグレーゾーンを上手く利用するという。しかし日本人はグレーゾーンの利用が下手だ。今回の事例がまさしくそうであろう。今回の事例は女性蔑視かと言えば完全に否定できない。まさにグレーゾーンと言える。このグレーゾーンを日本的な画一的運用にこだわれば、先に述べたように共産主義的廃退が待っているであろう。

一億総評論家時代。もっと行動を!

最近何かと問題が起きると、著名人から一般市民まであらゆる人間が評論家と化す。数か月前からの芸能人スキャンダルから、現在進行中の東京都・舛添知事の問題まで、あらゆることが評論、あるいは批評の対象になる。もちろん舛添知事の問題などは深刻な問題であり、批評されるのもやむ負えないと思われるが、それはさておき、批評されている中にはメディアや一般市民がそこまで躍起になって批評することもないだろうと思われることが多い。

この様にいたるところで些細なことが批評の対象になっている原因は、もちろんネットの普及によるものであろう。一市民でも家に居ながらキーボードをたたけば不特定多数の人に批評を公開することができる。

しかし僕が気になっているのは、行動を起こす人間に対して、何も行動を起こさない人間が批評だけを行っている構図だ。もちろん行動を起こしつつ、それをもとに批評を行っている人も少なくないであろう。しかし口だけの人があまりにも多い。挙句の果てには、批評することがメインの仕事になっている有名人もいる。

別に僕は批評すること自体が悪いとは思っていない。しかし思ったり口を動かす前に、まず行動を起こすことが必要なのではないだろうか。しかし皮肉なことに、行動を起こす人間が、行動を起こさない人間に批判されている。もっとも、行動を起こす人間は、ネットで批判する暇などないであろう。

この様にくだらない論評を書いている僕も、くだらない素人評論家になっているかもしれないが。とにかくまず行動を起こすことを考えよう。

パナマ文書問題の報道について

少し前から、パナマ文書問題がメディアを賑わしている。このパナマ文書にあるタックスヘイブンでの行為は、良いか悪いかで言うと確かに良くはない。しかし完全に悪いかと言えば一概にそうとも言えないのではないか。

このパナマ文書に関する問題の本質は、タックスヘイブンの利用者や企業ではなく、タックスヘイブンおよびそれらに関わるシステムにある。メディアではタックスヘイブンの利用者に対してあたかも犯罪者のように扱っているが、彼らは犯罪を犯しているわけではない。(もちろん中には法を犯しているものもあるであろうが。)法を犯さずに脱税まがいのことができる事が問題なのだ。彼らは法を犯していないので、犯罪者扱いをするのは少し違う。もちろん一国の首相が、政治家が自国に税金を払わずにタックスヘイブンを利用していたとなれば、これはモラル上大問題である。元首としての資質を問われ辞任を迫られるのはやむを得ないだろう。

誰がタックスヘイブンを利用したかということは一般市民の興味をひき、それが故にメディアはそれを血眼になって情報を集め報道するのであろうが、本来はタックスヘイブンのシステムの問題に焦点を当てるべきである。

この様に、世間メディアの焦点が少しずれていることが非常に気になる。もう少し問題の本質に焦点を当てるべきではないかと思う。

シリア難民空爆、正義と悪というような一元的な見方でとらえられるような問題ではない

5月6日の報道ステーションで、シリア難民キャンプが空爆に遭い、28人が死亡したというニュースが流れた。もちろんこのことは大問題である。もしヨーロッパで20人も死亡するようなテロが起きると、数日間はその問題が流れ続けるであろう。しかし、今回のシリア難民空爆事件のニュースを取り上げたメディアは、報道ステーション以外(少なくとも僕が調べた範囲内では)見当たらない。大手新聞サイトにも掲載されていないのである。本当にこのような空爆事件が起きたのか、疑ってしまうほどである。

パリのテロが起きた時には、世界中のメディアが何週間にわたって報道し続け、被害者の悲しみを綿密に伝え続けた。しかし今回のシリア難民空爆事件は被害者の悲しみどころか、事件そのものさえほとんど取り上げられないのである。人権と平等が世界で叫ばれている現在、このような報道格差、あるいは感情格差は建前に大きく反しているのではないだろうか。

新興国が裕福になってきている現在でも、その流れに取り残されている発展途上国はまだまだ存在し、シリアの現状などは「発展途上」という言葉さえも使えないひどい状態になっている。

そして今回のシリア難民空爆事件、報道ステーションによるとアサド政権によるものかロシア軍によるものだと推測されているが、現状ははっきりしない。(悪とされる)イスラム国によるテロは逐一報告されている一方、(正義側とされる)欧米諸国による殺害は「ミス」の一言で済まされる。明らかに誰が見てもおかしい。しかし多くの人がそのことについて深く考えずに流してしまう。特に日本人は、欧米のすることは正しいと無条件に信じ込んでいる節があり、疑問を持たない。

今の世界の現状は、正義の欧米と悪のイスラム国という単純な一元的視点でとらえられるようなものではない。今一度、公平な目で問題を分析し、深く考察することが我々一般市民にも求められているように思われる。

他人のアドバイスを聞くだけではなく、自分の頭で考えて生きることが重要だ!

とにかく日本では、他人の意見を聞くこと、アドバイスを聞くことが非常に重要視される。自分で考える前に、いきなり他人に意見を求める人も多いのではないだろうか。もちろん他人の意見がもっともなことも多いが、他人の意見を聞くばかりに、自分で考えることを放棄してしまう。本末転倒だ。

自分の考えに基づいて行動を起こし失敗したら、どう思うだろうか。周りの人は、やはり人の意見を聞くべきだったというかもしれない。しかし失敗してもそれでいいのである。失敗することは悪いことではない。失敗は次への糧である。例え他人の意見を聞いたとしても、それで成功する保証は全くない。他人の意見に従って失敗したら、果たして納得できるであろうか。

成功することは非常に重要である。もちろん失敗はしない方がいい。しかし失敗は悪ではない。成功や失敗ということ以上に、自分の頭で考えて導き出し行動したかということの方がはるかに重要である。失敗も自分で考えて行動した結果であるからこそ、糧となるのである。

自分で考えたことに対しては、自分で責任を負わなければいけない。それくらいの覚悟は必要である。しかし自分の頭で考えない、そして覚悟もない、そんな人間が非常に多い。もちろんそんな考えや覚悟はなくても普通に生きていけるかもしれない。しかしそんな人生にいったいどれだけの価値があるだろうか?

人生は有限である。有限であるから人生は価値があるのだ。永遠の命などには価値はない。この有限の人生をどれだけ価値あるものにできるか、その一つに、自分で主体的に考え生きていくということが必要だと言えるのではないだろうか。