投稿者「木原 康明」のアーカイブ

継続は力なり

「継続は力なり」

何を今さら、という感じですが。時々感じさせられることがあります。

ピアノを上手に弾いている人を見てると、いつも思います。十本の指を思うがままに操り、複雑な楽譜を見るだけでどんな技巧的な曲を弾いてしまう。これこそ「継続は力なり」なんでしょうね。僕には本当に理解不能です。

逆に僕が継続していることと言えば、数式を操ることでしょうか。専門論文や専門書を読むことが多いですが、他人が見ると、複雑な数式の羅列は理解不能みたいです。でも十年二十年と続けて真面目に取り組んでいると、物理や数学の複雑な数式も直感的にどんなことを表しているか読み取れるようになります。

最近僕が継続していることは、筋トレです。もう三年以上続けているでしょうか。やはり筋トレも年単位で続けていると、体のつくりも変わります。引き締まります。そして嬉しくなります。一時的に集中して筋トレする人もいますが、地道に長期間続けた方がバランスよく引き締まるのではないでしょうか。(僕の勝手な見解ですが・・・)

「継続できる」というのは、一つの才能だと思います。「やればできるんだけど・・・」というのは、才能がないのと同じです。やはり西川きよしさんのセリフ「小さなことからコツコツと」というのが何事にも言えるのではないでしょうか。派手な結果も地味な作業の積み重ねの賜物なんですよね。

新幹線死亡事故ゼロ?

よく新幹線の安全性に関して引き合いに出されるのが、事故による乗客の死亡数がゼロという事実。実際、東日本大震災でも新幹線の事故による死者はゼロであったし、2004年の新潟中越地震による脱線事故でも死者は出なかった。

しかし、一つ重要な事案を忘れてないか?1995年の阪神大震災である。この震災による新幹線の事故は確かになかった。しかしそれは、地震が始発電車が運行する前の午前5時46分に起きたという、運が良かったということ以外の何物でもないのではないか。

阪神大震災で、新幹線の橋脚は何本も崩れ、高架はいたるところで落下していた。もしこの地震が”午後”5時46分だったらどうだったであろう。落下した高架に新幹線がさしかかれば、少なくとも死者は3ケタはいったであろうことは容易に推察できる。

しかし鉄道関係者も報道関係者も、この事実には誰も触れようとしない。むしろあえて避けているようにも見える。

将来、もし地震などで新幹線で大事故が起きたときは「想定外」と言い放つのだろうか。しかし阪神大震災の状況を見ると、想定外でもなんでもない。

この震災時の新幹線の被害状況が現在の新幹線運行と路線建設に生かされていればいいのだが・・・。この時を振り返る人は一人も見かけない。

日本製の良さを再発見する日本

今日新聞で、日本製の生地を使い日本で縫製された衣服に、「純日本製」を示す特別なタグをつけるという記事があった。日本製の良さを知ってもらい、アピールするためだそうだ。

最近大幅な円安のせいか、あらゆる業種で日本のメーカーの製造日本回帰ブームが起こっている。もちろん日本としては嬉しいことではあるが、円高になると海外に行き、円安になると日本に戻るという単純思考によるものだと少し残念だ。

確かに中国・東南アジアで作られた製品は安かった。もちろん値段は高いより安い方がいいかもしれない。しかし、信頼のあるmade in japanを求めている人も少なくなかったと思う。しかし電気量販店、あるいは大手服屋さんにいけばすぐに気付くが、日本製が欲しくて日本製を探してもなかなか見つからない。そして仕方なしに外国製を買うことになる。

ここ最近、純日本製の製品を手に入れるのが一番難しい国は日本である、と皮肉られたこともある。そして日本メーカーは自ら日本製の信頼性を手放していたのである。

今までの日本メーカー海外製作の逆輸入戦略は正しかったのだろうか?これは答えの出せない問いだ。なぜなら、そのまま日本で作った場合どうなったかというモデルケースがほとんどないからだ。しかし日本で製作し、高品質高信頼の製品を打ち出していく戦略もあったはずだ。もしそうしていたならば、過去10数年の、特に電機メーカーの壊滅状態は避けられた可能性もある。

円安で純国内生産で輸出するという戦略が容易になった今、日本製を大きくアピールし日本製の信頼を大きく揺るがないものにする絶好のチャンスだと思う。このチャンスを生かすも殺すも、経営者の日本製に対する価値観をどう表現するかにかかっている。

ベンチャーの捨て身のアイデアに注目せよ

ここ十年くらい、日本でもベンチャー企業の重要性が認識されてきた。しかし、アメリカがベンチャー企業主義と言うならば、日本は大企業主義とでも言うのだろうか。

なぜベンチャー企業を注目し、支援をすることが大事なのか?おそらく日本では、どんな大企業も生まれたときはベンチャー企業であって、大企業の卵は大事にしなければならない、という考えが強いように思える。

しかし大企業とベンチャー企業の一番の違いは、企業の規模ではなくて起業精神ではないかと思う。大企業はどうしても保守的になりがちだ。しかしベンチャー企業は、資金を集めるためにも斬新なアイデアを打ち出していかなければならない。ベンチャーは現状維持では後がないので捨て身のアイデアを出してくる。その捨て身のアイデアこそ、未来の社会・技術の卵ではないかと思う。

しかし日本ではベンチャーとはいっても、大企業の二番煎じ三番煎じのアイデアが多いみたいだ。出資する側にしても、アメリカでは新しいアイデアに未来をかける意味でも捨て身の斬新なアイデアを評価するが、日本では前例がないといって鼻で笑う。そして結局、二番煎じ三番煎じ的企業が一時的には生き残り、そして潰れていく。

少し話が変わるが、日本では最近になってようやくホワイトハッカーの重要性に気づき、ハッカーの養成に国を挙げて支援をする策を打ち出した。しかしホワイトハッカーの重要性など外国では十年以上前から認識されており、アメリカなどでは国の中枢部にかかわっている。しかし日本では、ハッカーと言えばブラックハッカーのネガティブなイメージしかなく、その社会的イメージをずるずると引きずったまま最近までその重要性に気づかなかった。

最近の日本のハッカー養成の重点化においても、重要性を認識してという以上に、外国でハッカーが注目を浴びているからという、外からの要因が大きいのではないかと思う。所詮、この政策も二番煎じ三番煎じなのである

今日本で一番注目を浴びているベンチャー分野はITだが、ITも現在の技術であって未来の新技術ではない。本当に注目されるべきなのは、今は黎明期だが将来大きく伸びる可能性のある分野ではないだろうか。

20年前のITがそうだった。そして国内でもソフトバンクなどはそのころITに注目し、現在ITの旗手になっている。21世紀に入って注目しても所詮二番煎じ三番煎じなのである。

もちろんiPS細胞関連の医療分野など、日本発の誇るべき分野も存在するのは確かだ。そのような分野を増やすためにも、黎明期にあるベンチャー企業の捨て身のアイデアにも注目しなければならないのではないかと思う。

経験だけではいけない

経験はお金では買えない。経験をすることは貴重である。しかし経験だけの人間にはなってはいけない。

よく勘違いしている人がいる。俺には経験があるとでかい顔をしている人だ。実は評価すべきなのは経験そのものではない。経験によって身に付けた技術・スキル・考え・思想を評価すべきなのだ。しかしそのような技術などを見る前に、経験だけを見て評価をする人が多い。

実際、経験はあるけど何も身に付いていない、あるいは素人の域を脱していないという人が多い。経験はあるけど、経験しかないという人だ。

では、素人の域を脱するためにはどうすればいいか。一番の方法は能動的に取り組むということではないか。何事も受動的にやらされているだけでは素人の域を越えられない。どうすればもっと発展できるかということを自分の頭で常に考え、能動的に取り組まないと、その一線は越えられない。

経験をすれば勝手に身に付くようなことは、所詮その程度のことなのである。プロになるためには、考えるという行為は必須なのである。

他利の心・科学の心

「他利の心」を忘れてはいけない。

これは、京セラの経営者、稲森和夫がいつも繰り返している言葉だ。

ビジネスは一言で言うと、「お金儲け」ということになるかもしれない。しかし儲けることばかり考えて人の役に立てることを忘れては、一時的にはうまく行っても人々に受け入れられないということを、稲森さんは言っているのかもしれない。

ビジネスに関して素人の僕には、そうなのかと納得する一方、なんかありきたりの言葉でもあるような気がする。

最近の若者、いや若者だけでないかもしれないが、「社会貢献」という言葉を頻繁に口にする。社会貢献というのはすごくいいことだし、そのような心がもっと広まればいいと思う。

でも、その社会貢献という言葉によって、何かを隠そうとしているのではないかと感じることがある。自分の負の部分を許す免罪符みたいになってないかと。

それに最近は、みんながみんな「社会貢献」という言葉を口にするが、それが画一的な社会、社会貢献という言葉に賛同しない人への圧力にならないか、心配である。

世の中で、「俺は社会貢献なんかやらない。自分の好きなことに打ち込む」という人がいてもいいし、逆にいなければならない。

これは特に、科学の世界では大事なことだ。去年のノーベル物理学賞で青色発光ダイオードの発明が受賞対象になり、科学は役に立つものほど価値があると思った人も少なくないだろう。

しかし科学において、役に立つことと、科学的価値のあることとは全く別物だ。20世紀初め、相対性理論と量子力学という非常に科学的価値のある大理論が生まれた。しかし、それらは全く世の中に役に立たない(当時は)ものであった。しかし確実に価値はある。

それらの発見から時は100年近く経とうとしている現在、それらの全く役に立たないと思われた二つの理論は、現在の科学技術社会ではなくてはならない、非常に役に立つものとなった。

勘違いしていることがもう一つある。「科学」と「技術(科学技術)」である。科学と技術は別物である。しかし一般には、純粋科学も科学技術の一部と認識され、純粋科学にも役に立つことを求めるという勘違いが起こっている。科学と技術は切っても切れない関係だが、質的意味的には別物だと認識することも必要である。

日本は高い科学・技術によって支えられている。しかしここ二十年ほどは金融関係の行方に多くの関心が行き、科学の重要性に対する認識が薄れている。そしてノーベル賞受賞者が出たときに、一時的なブームのように高まる、というような繰り返しになっている。

科学・技術に対する理解を深めるためにも、科学と技術の役割や価値観の違いを認識し、コンスタントに科学・技術に対する関心を高めていかなければいけないのではないかと思う。

挫折と努力

いきなりだが、僕は今まで一度も挫折したことがない。

と言っても、なにも順風満帆の人生を送ってきたという意味ではない。失敗は幾度もした。何百回、何千回としたかもしれない。失敗した数なら大概の人には負けない。しかし、挫折は一度もしたことないのである。

なぜこんなことを書いたかというと、失敗は時としてはどうしようもなく起こり、自分ではコントロールできないことが多い。でも挫折するかしないかは自分でコントロールできる。なぜなら挫折は自分自身の気持ちの問題だからである。自分が挫折していないと思っていれば挫折していないのである。挫折をすれば、そこで終わる。でも挫折しなければ、次があるのである。

僕自身の人生も、他人から見れば挫折の連続だと言われるかもしれない。でも僕自身は挫折だと思っていないから挫折していないのである。そしてまた次へと挑戦するのである。

しかし、失敗は何度でもしていいと思っている。失敗の数は挑戦した数。それだけ新たなことに挑戦したということであり、失敗の数は誇りでもある。

しかし、努力もしないで失敗するのは何の自慢にもならない。成功を目指して努力するのであるが、失敗するときは失敗してしまう。

努力したからといって必ず成功するとは限らない。では、なぜ努力しようとするのか。努力しなければ0%のものが、努力することによって20%、30%になるのである。ここからが考えようである。20%をどうとらえるか。たった20%しか成功しないととらえるのか。あるいは20%も成功するととらえるのか。

20%も成功するととれえれば、努力してその20%を手に入れようと思う。そしてその努力が30%、あるいは40%となっていくのである。

もし、たった20%しか成功しないじゃないかと思い、80%失敗することが無駄と思う人は努力する必要はない。その人にとって、そんな努力は無駄だ。しかしその人は0%のままだ。可能性はない。

繰り返すが、努力したからといって必ず成功するとは限らない。しかしその逆は言えるのではないか。「成功した人は必ず努力している」と。すなわち、成功した人というのは必ず努力した人の中にいる。努力しないで成功することはほとんどありえないのである。(絶対とは言わないが。)

失敗を続けてなお挑戦し続けるのは格好悪いかもしれない。しかし格好などかまっていれない。もちろん、可能性がないのに挑戦するのは暴挙だ。しかし、少しでも可能性がある、あるいは自分には成功への道筋・構想が見えているのならば、それにかけてみるのも悪くないのではないかと思う。

考えることを放棄してしまう怖さ

二日前、パリの出版社で銃の乱射事件・テロが起きた。もちろん、犠牲者が10人以上も出たことは大変なことだし、僕も追悼したい。

しかし、この事件で僕が一番気になったのは、犯人が叫んだ「神は偉大なり」という言葉。

なぜこの言葉が気になったのかというと、この言葉がイスラムに限らず、あらゆる宗教の怖さを象徴しているように思えたからである。

なぜこの言葉が象徴なのか。

この言葉を発した者は、なぜ神は偉大なのかと考えただろうか?そもそも神とは何なのかと考えただろうか?おそらく何も考えていなかったのではないかと思う。何の疑問も抱かなかったのだろうと思う。

もちろん、神のこと、宗教の役割を真剣に考え、自分には何ができるだろうかと真剣に考えている人は、イスラム信者はもとより、あらゆる宗教の信者の中にもたくさんいると思う。

しかしこの「神は偉大なり」と叫ぶ人は、神のこと、宗教のことを何も考えていない。無条件に、一方的に盲目的に「宗教の上層部」の人の言うことを実行しているだけである。

このような状況は、イスラムだけではない。キリストであろうと、他の宗教であろうと、あらゆる宗教の信者に見られることである。

このような状況に陥った人は、自分で物事を考えなくなる。考えることを放棄しているのである。この「考えることを放棄」してしまうことが、宗教が与える影響の一番怖い側面だと思う。

人間が自己を表現し確立していくうえで、「考えること」は一番重要で不可欠な要素だと思う。ですから、考えることを放棄することは、自分が自分であることを放棄することと同じである。

べつに僕は宗教を否定しようと思わない。イスラムを否定しようとも思わない。しかし、どの宗教の信者であっても、常に考えることを忘れてはいけない。

今回の事件、そして20年前のオウムの事件も、根をたどれば、考えることを放棄していないか、ということに行きつくのではないかと思う。

就職予備校化した大学

今は一月、受験の季節がそろそろ始まる。受験生は試験対策のラストスパートをかけているところではないでしょうか。

ところで以前から、現在の大学についておかしいと思っていることがある。今に始まったことではないが、多くの大学生・大学院修士課程生にとって、大学が就職予備校化していることである。

大学生にとって、就職活動は3年生の後半くらいから始まる。準備まで含めるともっと前から始めている学生もいるのではないか。

受験生は大学合格を目指して頑張っているのだろうが、大学に入学するとさっそく次はどの企業に入りたいかということに興味は移る。しかし、その前に打ち込むことがあるだろう。言うまでもなく、勉強・研究である。

大学は就職予備校ではない。学問の最高学府である。その最高学府である大学に入学し、授業料を払っていながら学問に打ち込まないのは、非常にもったいないことだ。

もちろん大学で学問に真剣に打ち込んでいる学生も多くいる。しかし、自分が大学生・院生の頃を思い返しても、専らの興味の関心は就職対策で、学問は二の次三の次という学生が多数いた。特に大学院修士課程は2年間の過程で、1年の後期から就職活動に打ち込み、研究に打ち込むのは実質的に入学してからの半年という学生も多かった。就職内定した後は用済みで卒業するために最低限のことしかしないという人も。

しかしこのような状況は、学生だけが原因ではない。大学側も就職率などというものを大々的に宣伝し、「就職力」というわけのわからない言葉を打ち出している。そしていわゆる一流企業と言われるところにどれだけ入学させるかということに躍起になっている。大学からしてこのざまである。このようなことはいわゆる旧帝国大学と言われるトップレベルの大学も例外ではない。

繰り返し言うが、まじめに勉強・研究に打ち込んでいる学生もたくさんいる。しかしその一方で就職活動に打ち込むことに明け暮れ、勉学に力が入っていない学生も多いのも事実である。

大学がそこまで「就職力」みたいなことにこだわり力を入れるのならば、いっそのこと就職予備校を作ってしまえばいい。あるいは就職大学と名乗った方がいい。

いま、大学に入ってこんな勉強・研究をしたいと夢を膨らませている受験生は、入学した後もその夢に打ち込み、そのうえで就職活動もうまくこなしてほしいものである。

日本の研究風土について

1月7日の読売新聞のコラムに、昔ノーベル医学・生理学賞を受賞された利根川進博士の書かれた記事が書かれていた。利根川博士は京大を出た後、アメリカに渡られて研究されているので、日本とアメリカの研究風土の違いに詳しい。

利根川博士が言われるには、日本は枠組みを決められた中での研究(あるいは科学技術全般)には非常に優れた成果を出すが、枠組みを壊すような研究が出てこない、というようなことを言われていた。

それから日本では研究(特に税金が投入されている研究)に対して、すぐに結果を出すことを求められ、地道に進めていくような基礎研究がなかなかされないと言われていた。

ここからは私事にもなるが、私は海外に出たことがないので海外の研究風土については見聞きしたことでしか知らないが、日本の大学では型にはめられた、あるいはレールを敷かれた研究にしか取り組まないようなことを感じてきた。

今は大学院重点化などで院生に対する教育は至れり尽くせりになっているが、放置して好き勝手なことを自分の責任でやらせるということも必要ではないかと思う。もちろん後者の方はなかなか結果が出ないこともあろうが、ブレークスルーになるような枠組みを壊す研究結果はレールを敷かれた上を走っているだけでは決して出てこないと思う。

私はいま大学や研究機関には所属してないので、他の研究者から見るとアマチュアだと言われるかもしれないが、三つほどの研究テーマに取り組んでいる。どれも人から与えられたものではなくて、自分で考え出したテーマだ。その点は、超弦理論などの流行のテーマにしか飛びつかない研究者とは違うことを誇りに思う。研究内容も重要なものであると自分では認識している。

いま誇りであると書いたが、本当に皆に誇るのは、しっかりと結果を出してからにしよう。いま自分の置かれた研究環境ははっきり言って全然よくない。ただ好き勝手な研究テーマについてやっていることに救いを見いだせる。

兎にも角にも、結果を出さないことには実績にならないし、発言しても誰も聞いてはくれない。焦ることはないとはいってもそううかうかしてはいられない。