投稿者「木原 康明」のアーカイブ

物事を額面通りに受け取ることも大切だ。

物事を深く考えることは非常に大切だ。しかしそれは、裏を考えることではない。裏を考えることによって知った気分になるのは間違っていることが多く、時には額面通り受け取ることも大事なのだ。

しかしこれがなかなかできるものではない。何か直面すると、すぐにその裏を推測してしまうのだ。額面通り受け取れるかどうかということは、寛容な内面を持っているかどうかということに関わっている。寛容な内面が欠けているとどうしても裏を推測したくなってしまう。

もちろん、裏を推測することも大事なことはよくある。政治に関しては裏の取り合いでもあるし、詐欺に対しての対処は裏を推測することが重要になる。

しかし裏を考えすぎるが故に、物事の本質を見逃すことも多い。額面というものは一次情報である。まずは一次情報を基に物事を深く考えることが重要である。その一次情報に関して矛盾が出てくれば、そこから裏を考えればいいのである。一次情報を無視して初めから裏を考えるのは、全部とまでは言わないまでも多くの場合誤った結論を導いてしまうことになる。

しかし本当に大事なのは、額面か?裏か?ではなく、本質はどこにあるかということである。そのためには得られた情報をフルに活用しなければならない。そして時には仮定も必要であろう。しかし全てに共通するのは、繰り返しになるが「深く考える」ということである。

絶対に人を見下さない。ただ・・・。

僕は絶対に人を見下さないようにしている。例えば学歴で人を見下すなんてことは絶対にしないし、職業で見下すことも絶対にない。むしろ自分の方が見下されているのかもしれない。

ただ・・・、人を見下す人に対しては見下すことはある。人を見下す人は最低な部類の人間だと思っているからだ。

人を見下す人は様々な理由で見下してくる。学歴、職業、収入、あるいは性格などで。学歴によって収入が変わることはあることかもしれないが、学歴によって人間性を判断することはできない。僕はこれまで様々な人間を見てきたが、総じて学歴と人間性とはほとんど関係ないと感じている。

とは言っても、僕も完璧な人間ではない。無意識に失礼な態度を取ってしまっていることはあるかもしれない。そのような所があれば、それは僕の重大な欠点だ。しかし基本的なスタンスとして、人を絶対に見下さないという姿勢を取っている。

学歴、職業、収入に関わらず、面白くて立派な人はたくさんいる。そのような素晴らしく魅力的な人間が注目を浴びるような社会になることを僕は願っている。

早寝早起きは絶対的な善なのか?

学校でも社会でも、そしてメディアでも、早寝早起きは絶対的な善であると主張されている。それは昔も今もほぼ同じだ。しかし最近それが絶対的に良いという訳ではないという記事をちらほら見かけるようになった。それは思想的な話ではなく、医学的な研究に基づくものだ。このようなことが科学的根拠を持って主張されることは喜ばしい限りだ。

僕自身は遅寝超遅起きの典型的な夜型人間。そして超ロングスリーパーだ。このような僕みたいな人間にとって、早寝早起き絶対主義の社会は非常に苦しいものである。夜型人間は夜に仕事をするというような自由も与えてもらいたいものである。

医学的研究に基づいた記事によると、体内時計の違いにより朝型と夜型に分かれ、朝型人間が夜に弱いのに対して夜型人間は夜に圧倒的に強いということになるという。(2017年のノーベル医学・生理学賞は、このような体内時計に関する研究に対して与えられている。)夜型人間は夜に最大限のパフォーマンスを発揮する。それらの事については僕自身の経験からほぼ間違いないと思っている。

最近、フィールズ賞(数学のノーベル賞と言われている)数学者の広中平祐氏の著書を立ち読みした。それによると広中氏は夜中に研究をし、朝の5時頃に寝るということが書かれていた。広中氏のように、夜にパフォーマンスを発揮する人間を無理やり朝型にし、パフォーマンスを落とすようなことは、社会としても非常にもったいないと思うし、夜型人間にとっても非常に生きにくい世の中だ。

ただ社会というものは、ほとんどの事が朝型人間に合わせられている。朝型人間が夜早くに寝ることをとがめる人はいない。それどころか早寝は称賛されてさえいる。

ただ朝に弱く夜に強いだけで、そして夜に最大のパフォーマンスを出すというだけで徹底的に叩かれる世の中は、我々のような夜型人間には本当に生きづらいものである。

自分を汚していこう!

何事も綺麗な方が見栄えがいいし、汚れたものより綺麗なものの方が気持ちいい。

しかし綺麗なものと汚れているもののどちらが強いかと言えば、多くの場合、汚れているものの方が強い。それは人間にも言えることだ。綺麗なガラスのような人間よりも、泥にまみれている人間の方が圧倒的に強い。

僕は今、自分を徹底的に汚そうということに取り組んでいる。何に対して汚れるかということに関してはいろいろあるが、精神的な汚れから潔癖に対する汚れまでいろいろとある。

人間の活動というものは、グレーゾーンで行われる。そのグレーゾーンを切り抜けるのは綺麗な人間か?汚れている人間か?と問われれば、圧倒的に汚れている人間だと思う。あらゆるものに対して潔癖であることに、良いことはほとんどない。汚れに対する耐性が人間を強くするのである。

日本のトップである歴代の総理大臣を見ても、大物と言われる総理は総じて汚いと言われた人間だ。もちろん悪いことを肯定する気はないが、田中角栄氏をはじめ、汚れに対する耐性がある人間が大物と言われる存在になるように思える。

必ずしも潔癖であることが善であるわけではなく、現実に染まり大いに汚れることが人間を強くするように思える。

次世代社会を理解するために。

次世代社会を見通すためには何をしなければならないか?

今日、ある記事を読んだ。それはビットコインをはじめとする仮想通貨に関しての記事だ。しかし仮想通貨で儲けようという記事では全くない。次世代への仮想通貨の可能性、そして仮想通貨における信用性に関する記事だ。

僕はこれまで仮想通貨に関して「怪しい物」というくらいの認識しかもっていなかった。何しろ普段目にする仮想通貨に関してのニュースは、金儲けの投機対象としてのニュース記事ばかりだ。そんな記事しか見ていないと、正確な理解ができるわけがない。

しかし仮想通貨はITでもあり、信用の塊でもある。そしてそれらが次世代社会においてどのような役割を果たし、どれだけの人を救えるのか?そのような観点で書かれた記事はほぼ皆無に等しい。

しかしそのような観点で仮想通貨を見た時、知らないでは済まされないことに気が付いた。もちろん、現段階では仮想通貨に関する僕の理解は全くないと言ってよい。

では仮想通貨を理解するためにはどうすればよいか?それには二つの事が必要である。一つはブロックチェーンなどの仮想通貨の技術的側面を理解すること。そしてもう一つは実際に仮想通貨を所持して仮想通貨の可能性を実感することだ。

ある程度歳を取った人たちは、仮想通貨などの新しいシステムに飛び込むのは躊躇するかもしれない。もちろん金儲けなどのわかりやすい理由があれば別だが。しかし現代の若者たちはそれらの人とは違う世界を仮想通貨に見ているのかもしれない。それに対して、金儲けという側面だけしか見れない大人たちは非常に情けないと言える。しかし、現在のメディアを牛耳っているのが年寄であるのならば、そのような観点ばかりのニュースになるのも無理はない。

僕自身も、仮想通貨の未来がどうなるかは今は全く想像できない。しかしそこには社会を変革するくらいの大きな可能性があるのかもしれない。

学問からファッションまで。

学問とファッション、何だか対極に位置するような気がするかもしれないが、僕にとっては両方とも重要なものである。学問もファッションも両方とも自分自身そのものであり、学問は自分の内面、ファッションは自分の外見だと言えるかもしれない。そうは言っても学問は自分のアクションを促すことによって外見にも表れるし、ファッションは自分の内面の一つの表現だとも言える。

そして学問もファッションも、僕は両方とも大好きである。本屋さんでファッション雑誌を立ち読みすれば止まらない。そして机に向かって学問に向き合えばこれまた止まらない。いや、止まらないようにしたい。

ファッションを軽視する人も多いが、僕はファッションは非常に重要だと考えている。もちろん過度に流行を追う必要はないが、ファッション一つで周りの人に対する印象を変えられるし、フォーマルな場ではファッションが一つの礼儀作法だと言える。

人間の内面を重視する人の多くは、外見も重要視する。外見は内面の表れだと考えるからだ。しかしこんな堅いことを言わないまでも、ファッションに遊び心を入れて気軽に、そして時には本気に入れ込んでみるのも悪くない。

情報魔!

僕は自他ともに認める情報魔だ。中学生の頃から新聞には隅から隅まで目を通し、現在では新聞社などの報道・情報サイトをサーフィンすることが趣味になっている。

なぜ情報にこだわるのか?別に深い意味はない。ただ情報が好きなのだ。国内・国外を問わず社会情勢からチープな情報まで、あらゆる情報を仕入れ楽しんでいる。

ただ、情報は何でも手に入れる方が良いという訳ではなく、入手する情報は大まかに分別することが大事である。初めに最も重要な情報、そしてその次に重要な情報、そして息抜きになる面白くてチープな情報と。

情報は新しい知見をもたらしてくれる場合もあれば、自分を堕落させてしまう情報もある。情報は諸刃の剣なのである。そこで重要になるのが、情報を消化すること。消化とはすなわち、自分で考え解釈を与えることである。消化をしないと単なる情報が単なる情報で終わってしまう。

情報と自己の知恵を融合すれば、その価値は何十倍、何百倍になる。そのようなことからも、繰り返しになるが何事も自分の頭で思考するということが重要になるのである。

ピンチはチャンス!

大きなピンチを乗り越えた時、それは大きなチャンスに変わる!

僕自身、つい最近まで大きなピンチを背負っていた。しかし何かと打開策があるものである。しかしその打開策を実行するためには大きな思いっきりが必要だ。僕自身、これまで長い間負っていたものがあったが、それを打開するために一歩踏み込んでみると意外と難なく突破することができそうにある。

もちろんピンチは砂浜に押し寄せるさざ波のように、繰り返し何度も押し寄せてくる。時にはさざ波どころではなく、人生を破滅させるかと感じるような高波が押し寄せてくることもある。

しかし高波の後ろには意外と平穏な水面が広がっているものである。すなわち、大きなピンチの後には大きなチャンスが待っている。

ただ、受け身の状態だとその高波は乗り越えることはできない。能動的に越えようとするアクションが大事である。

僕も今まで人生が破滅するかもしれないと思えるようなピンチが何度かあった。しかしそのピンチを乗り越えることができた。そして現在、乗り越えようとしているピンチも二つほどある。しかしそれらのピンチの後に大きなチャンスが見えている。

何かを成し遂げようとする意志がピンチを乗り越える原動力となり、その後のチャンスにつながると僕は考えている。

必要な経験。

「経験がないからできない」という人は、経験してもできない。重要なのは「どの経験が必要なのか?」という具体性である。今何の経験が必要か?ということを見極め、認識しなければならない。

もちろん、何の経験もなしに物事をこなすことは難しい。しかし経験があればいいという訳ではない。経験をものにするためには、考えながら行動することが必要だ。一流プロ野球選手はただ練習しているだけではなく、バッターボックスの中であらゆるシチュエーションを考え、体の動かし方を試行錯誤していると言う。

もし何も考えずに経験し、できていると思っているのならば、それは錯覚だと思って間違いない。さらに、経験とは与えられるものではなく、自分から得に行くものである。そのためにも何の経験が必要なのかということを認識することが重要なのである。

経験を積むのに遅いということはない。もし自分に何の経験が必要かと強く認識できているのならば、今すぐにその経験を求めていくべきだ。

必要なのは、目をそらすことではなく、徹底的に向き合うことだ!

苦しかったり自分に不都合なことがあれば、多くの人はそこから逃げたくなるだろう。もちろんそこから逃げるということは一つの選択肢かもしれないが、逃げたり目をそらすことは一時しのぎでしかないことが多い。

苦しい時はどうしても目をそらしたくなるかもしれないが、そこはあえて正面から徹底的に向き合うことが大事だ。そうでないと根本的な解決には結びつかない。目の前の事についてとことん向き合い、理解する。理解が深まれば解決の手がかりが見えてくる。

選択肢は多くの場合、逃げるか、向き合うかしかない。その中間的な選択肢を選んだ場合は、ほとんどの場合最終的には逃げるという方向に進んでしまう。従って強く意識して向き合わないと、根本的解決へとは進まない。

苦しいことや不都合なことは、あらゆるところで頻繁に表れる。だからこそ基本的スタンスとして、徹底的に向き合うという姿勢をはっきりとさせていなければならない。

徹底的に向き合うことで本当に解決するだろうかと疑問に思うかもしれないが、いざ徹底的に向き合い理解が深まれば、意外とスムーズに解決へと向かうものである。