投稿者「木原 康明」のアーカイブ

完全バランスな社会などあり得ないのか?

社会は刻々と変化している。しかしその変化が進化か?と問われれば必ずしもそうとは思わない。確かに科学技術は確実に進化している。しかし人間自体は数年数十年で進化するわけではなく、モラルが良くなっている訳でもない。もちろん、より良い社会を目指して変化して行くことは必要だ。しかしそれが進化ではなく単なる変化、あるいは時には改悪だと思えることは非常に多い。

ではなぜ進化させようと思っていることが結果的に改悪になっているのか?それは視野の狭さに原因がある。ある事を改良しようとすると、そのことしか見えていないのだ。本来は物事というものはあらゆることが有機的につながって相互作用を起こしている。なので一点だけを見て変えようと思えば他の所で改悪的な影響が出るのは避けられない。生きやすい社会にしようと思って変えたことが、結果的に息苦しい社会を作ることになる。

現在、社会は非常にストレスを抱えていると僕は強く感じる。ネットやスマホにより生活は便利になり、交通は発達し、バリアフリーはいたるところで実践されている。しかし社会のあらゆるところで聞こえるのは、ストレスフルな現状に対する不満だ。ネットやスマホにより確かに便利になっている。しかしその一方、ネットやスマホに対してストレスを感じてはいないだろうか?もちろんそのような事は人それぞれ様々だが、便利さが新たなストレスの種になることはよくある。社会システムや法律を変えたことによって息苦しくなることがよくある。そのようなストレスを感じないためにもある程度の鈍感力は必要だとは思うが、何に関しても鈍感になり切ることなど簡単にできない。

生きやすい社会に変えようと思えば、広い視野であらゆるつながりを考慮しなければならない。一点だけを見て変えることほど危険な事はない。社会はバランスが重要なのである。しかし人間自体完璧でも何でもないので、完全バランスな社会などあり得ない。なのでどうしても生きづらい所やストレスを感じるところは随所に出て来る。そのような社会に中でいかに自分の人間性を発揮するか?そしていかにして広域的に良い社会を作っていくか?簡単な事ではないが、そのような事を思考しながら時代を前に進めて行かなければならない。

数式は大好きだが、数字は嫌いだ!

数学とは字のごとく数字の性質を扱う学問だが、高校までの数学とは違って大学以降の数学では意外と数字自体を扱うことは少ない。もちろん数学である以上、主人公は数字なのだが、その構造や演算の性質を記述する時は数字自体よりも数式で表す方が見通しが良くなり、一般性も高くなる。

タイトルで「数字は嫌いだ」と述べたが、ここで勘違いをしないでほしい。正確に書くと、「規則性のない数字、意味のない数字」が大嫌いだということである。だから数学で出てくる数字が嫌いなわけではない。簿記などのように何の規則性も数学的意味もない数字が大嫌いなのである。実際、数学に出て来る数字は非常に面白い。数学に出て来る数字と数式を縦横無尽に扱い、その性質を暴露することは非常に快感である。しかし簿記に出て来るような数字を見るとめまいがする。

なぜ近代数学は具体的な数字を扱うことが減ったのか?それは数学が高度な抽象理論なったことが原因である。昔は二次方程式の具体的な解を求めることが目的であった。それが「解の公式」という形で一段抽象化され、「5次方程式の解の公式が存在しない」というガロア理論へと高度に抽象化される。もちろん高度に抽象化された理論は難解かもしれないが、非常に豊富な内容を包摂する。そのような実り豊かな数学の世界を垣間見た数学者は、その世界からは抜け出せなくなる。それはいわば「数学中毒」と言えるかもしれない。しかしそのような中毒なら思う存分かかってみたいと思う。

世の中では抽象理論を敵視する風潮がある。抽象理論なんて何の役にも立たず、具体的な事象を示すことが大事だと。確かに社会で生きるためには具体性が最も重要なのかもしれない。しかし社会を高い視点で取りまとめる立場になるほど、抽象理論が威力を発揮する。商売をするには具体的な商品の値段が重要だが、経済政策を取りまとめる政府にとっては抽象理論が軸となる。数学も、身の回りで必要になる計算は具体的な数字の世界であるが、数学の世界の本質をより掘り下げるためには高度に抽象化した理論が必要になる。

物事をどれだけ抽象的に捉えることが出来るかということは、言い換えればその人の思考レベルを表していると言える。もし自分の生きる上でのホームグラウンド、あるいはテリトリーがはっきりしているのならば、そこでどれだけ思考や技術を抽象化できるかということに取り組むことは意味のある事である。さらに、もし自分がその世界のプロであるならば、抽象化の作業は欠かせない。抽象化の度合いはその人のステージなのである。

一般理論と特殊理論。

数学や物理理論は大きく一般理論と特殊理論に分けられる。もちろんその中間的な性質のものもあり、そう厳密に分けられる訳ではないが、大まかにはこのように分けられるであろう。一般理論には一般理論の面白さがあり、特殊理論には特殊理論の面白さがあるので、どちらが面白いかと一概に言える事ではないが、僕はどちらかというと一般理論の方が好きだ。

数学における特殊理論の代表は、特殊関数と言われる部類のものだろう。特殊関数とはある特殊な性質を持つ関数の事だが、僕は以前特殊関数にはほとんど興味がなかった。しかし最近ある事に気づいた。特殊理論と言われるものでも、それをどんどん掘り下げて追究して行くと一般理論にたどり着くのだ。特殊理論とは一般理論という大陸から離れた小島という捉えられ方をされることが多いが、その深い所ではその小島と一般理論大陸は強くつながっているのである。そこに特殊理論の醍醐味がある。最近はパンルヴェ方程式と言われる特殊な方程式が、百年近く経った今になって一般理論と結びつきそうだという研究結果もあるみたいだ。

ところで、“特殊”相対性理論はその名に反して最も“一般的”な物理理論と言える。“一般”相対性理論はそれに比べると少し特殊だ。物理理論においても、特殊な理論をさらに掘り下げると一般理論へと昇華することが多い。しかし数学と比べると、物理理論は一般理論とは言え特殊性が強いように感じる。最近では物理理論をきっかけに新しい数学理論が出来たり、その逆の事が起こったりということが日常茶飯事である。物理の枠組み、あるいは数学の枠組みということにこだわっていれば、数学と物理の間にまたがる本質的な仕事は出来ない時代なのだろうと強く感じる。

ここまで物理と数学における一般理論と特殊理論に関して述べたが、そのような構造は様々な所で見られる。経済でも「マクロ経済」と言われる一般理論のようなものから「ミクロ経済」と言われる特殊理論のようなものがある。ネットビジネスにおいても「プラットフォーマー」という一般的な部類から、プラットフォーマーが作った枠組みの中でどうビジネスを行うかという特殊な部類がある。そのような例を見ても、一般的な部類の方がその適用範囲の広さからより規模の大きい仕事が出来るようである。しかしプラットフォーマーのような一般的な仕事も、元を正せば非常に特殊な仕事から発展していることに気付く。なので一般的な部類で仕事をするにしても、特殊な仕事は無視できない。いかにして一般と特殊の間を行き来してその間の本質的なつながりを見抜くか?そのような本質を見抜いた時、仕事のスケールが飛躍的に大きくなることであろう。

人と違う道を進むのなら。

物事に対して何かの決断をする時、前例やデータを吟味して、マニュアルに則って進めるのが筋なのかもしれない。しかしそのようにするには、前例があり、データがあり、マニュアルがある事が前提となる。そしてそれらに則って行うということは、二番煎じ、三番煎じであるということである。しかし全く新しい所に全く新しい事を構築する時、多くの場合、前例もデータもマニュアルも存在しない。そこで頼るべきは自分の思考力のみである。人と違う道を進むのなら、徹底的に思考しなければならない。

人と違う道を進むということは、孤独である。しかし孤独というものは悪いものではない。孤独を愛せる者が自分独自の道を歩める。何やら社会では孤独ということが大問題になっている。僕には孤独の何が問題なのか全く理解できないが、これほど孤独が問題になるということは、孤独を愛せない人が大多数であるということなのかもしれない。孤独を愛し自分一人で道なき道を進めることは大きな強みである。大多数の人は無難な道を取ろうとする。それは孤独を愛せない事の裏返しである。孤独は悪い事であるどころか、むしろ自分を飛躍させる大チャンスである。多人数で戯れている限り、ブレークスルーは生まれない。

近年、「炎上」が度々話題になる。その内容は様々で、炎上するのももっともだと思える事から、なぜ炎上するのかわからない事もある。僕自身は炎上するのは全然かまわないと思っている。もし自分の信念に基づいて出た行動なら、何も炎上したからと言って謝る必要はない。僕が一番許せないのは、軽い考えを出して炎上して、すぐに謝罪することである。炎上内容以上に、すぐに謝罪するという軽さが許せない。そのような人はその程度の軽い人間なのであろう。自分の信念に基づいて人と違う道を進んでいる人にとって、むしろ二度や三度の炎上は受けるべきである。そのような炎上はむしろ誇りであると僕は思う。

日本では「出る杭は打たれる」とよく言われる。海外の事を詳しく知っている訳ではないが、それでも日本の「人と違う行動をする人を叩く」という風潮は異常に感じる。そのような中で独創性が生まれるわけがない。しかし実際は少ないながらも独創性を発揮する日本人がいる。そのような人間になるためには、相当自分の信念に自信を持ち、荒波の中にでも飛び込めるような人でなければならない。しかし、無難に過ごしながら最大の対価を得るためにはどうすればよいか?と多くの人は考える。一言で言えば「ノーリスク、ハイリターン」を求めていると言える。それが多くの日本人の現状である。

地球船宇宙号?

「宇宙船地球号」とは非常に的を得た命名である。その名前の中には、宇宙と比べた時の人間の存在の小ささが表現されている。しかし現在、情報社会が飛躍的に発達し、コンピューターは極度に高度化し、科学技術の発展も留まるところがない。そしてそれと同時に科学理論も常識では考えられないような展開を見せている。そのような現状の中、宇宙というものをどう捉えるかと考えた時、もしかしたら「地球船宇宙号」なんてこともあり得るのではないかとふと考えてしまう。

もちろん「地球船宇宙号」などというのは、考える僕のおごりかもしれない。いや、そうであってほしいと思う。人間はまだ月までしか到達していないし、あと数十年経っても太陽系の外には出ることはないかもしれない。しかし人間の知識は過去から未来まで宇宙全体を飲み込もうとしている。少なくとも物理理論はそのような領域に達している。宇宙の誕生の原理さえも解明しようと必死になっている。ただこれらの理論は検証することが非常に難しく、正しいかどうかを判定できないところがもどかしい気がする。

一昔前まで、人間が自然(地球)を支配するという思想があった。現在は人間も自然の一部であるという思想が強くなったが、技術的にはかなりコントロールすることが出来る。特に負の支配、つまり環境破壊に関しては、人間の行動を意識的にセーブしなければ一瞬にして地球を破壊できるレベルまで来ている。しかしその逆、つまり破壊したものを作り直すことは非常に難しい事業であり、お金も時間も膨大にかかる。そういう意味では人間が自然(地球)を支配するというのは幻想かもしれない。

しかし人間の知は無限であるような気がする。それは何も人間の知によって全てのことが出来るという意味ではなく、自然法則をエンドレスに理解できるということである。宇宙から素粒子まで、人間の知のスケールは果てしなく大きい。とは言え、まだまだ道半ばと言える。そのような人間の自然科学の知は、科学“技術”へと応用される。そこが面白い所であり、恐い所でもある。

科学技術というものは必ずしも豊かさだけをもたらすわけではなく、負の側面もある。特に現代技術ではそれが顕著だ。最近ではゲノム編集された子供が生まれたということが話題になった。一人の科学者だけなら完全に倫理観を守ることはできるが、科学者が何万といる中ではその中の何人かが倫理観に反した行動を取るともわからない。さらに科学技術者自身は社会の発展のためと思ってしていることでも、それが破滅を招くことも十分にあり得る。科学の発展は進化か?暴走か?それが実際に行ってみないとわからないところが科学技術展望の難しい所である。

背水の陣。

背水の陣とはある意味最後の手段と言えるが、背水の陣だからこその強みは無視できない。確かに後方に陣地がないために手段が限られてくる。現代社会ではいろいろな所で様々なメニューが用意され、市民は色々な選択肢の中から自分の好きな物を選ぶことが出来る。しかしそれが故に迷いが生じ、決断力が欠如してしまう。意外と選択肢が限られている方が目標をはっきりとすることが出来、迷いなくそれに集中することが出来る。背水の陣も同じで、進むべき道は正面しかなく選択肢が限られているために、強力に目標へと推し進めることが出来る。

背水の陣が意味することは、「失敗すると死ぬ」ということだ。実際に日常生活でそこまで追い込まれることはめったにないが、人生を懸けていることに取り組む時にはそのような状況もありえる。むしろ真剣に人生に向き合っている人ほど、そのような状況に遭遇するのかもしれない。なぜならそこには強い覚悟があるからである。覚悟がないということは、背水の陣で臨むということもないということだ。

人間というものは堕落しようと思えばエンドレスに堕落することが出来る。そこには意志も覚悟もない。しかし意志を持ち覚悟を持って生きている人間は、人生常に勝負である。堕落することは一瞬でも、上がることは容易ではない。一段上がるにも時間がかかる。将棋の藤井聡太氏の段はどんどん上がっていくが、それはおそらく普段の精力的な研究の賜物であろう。周りから見ていると簡単に上がっていくように錯覚してしまうが、実際はとんでもなく困難な道を進んでいるのだと思う。

初めは皆、「一歩進んで二歩下がる」というところから始まる。そこから「一歩進んで一歩下がる」、そして「二歩進んで一歩下がる」と少しずつ前進して行くのである。そして排水の陣では下がることはできない。つまり背水の陣ではどうあがいても「前に進む」か「死」という選択肢しかないのだ。確かに危険な橋を渡るようなものだが、そのような選択肢を選ぶ意志と覚悟を持って生きて行きたいと強く思っている。

構造が見えてくると面白い!

「神は細部に宿る」とはよく言うが、物事の本質というものは全体の構造を理解して初めて見えてくることが多い。そして本当の面白さは、そのような構造にこそあると僕は感じている。

とは言え、初見で全体の構造が理解できるほど簡単ではない。初めは細部の計算を行い少しずつその範囲を広めて行く。そしてそこに宿る様々な神を理解して行くうちに徐々に本質が見えてくる。これらの事は数学でも同じだ。代数構造、幾何構造、解析構造が見えてくると飛躍的に面白くなる。

世の中にも社会構造というものが存在する。そしてそのような社会構造の中に経済構造、集団構造、文化構造など様々な構造が混在している。この様に複雑に入り組んでいるからこそ社会構造は瞬時には理解できない。経済構造だけをとってもいまだに理解されていない機構は存在しており、だからこそ経済学は常に進化し続け新しい機構の発見が日々行われている。

「細部に宿る神」と「構造に宿る本質」を行き来しながら奥へと進んで行く。人間の思考の「深化」というものはそのようにして掘り下げられるものである。そして人間の思考の深さには限度がない。常に進み続ければ無限に深化して行くことが出来る。人間は深化によって進化して行くのである。深くて広いフィールドの一点からどのように全体を覆うか?そのための手法は一つではなく、それぞれの人間の思考と個性によって編み出された様々な手法によって無限の広がりを見せてくれる。人間の大きさは小さくとも、脳の中で繰り広げられる思考の広さと深さは無限大だ!

思考のベースを上げる。

自分の思考のベースをどこに置くかによって、その後の自分の人間としてのレベルが変わる。もし目標を低い所に置くのならばベース自体が低くても問題はないが、もし高い所に目標を置くのならばベースを高く設定しなければならない。しかしもちろんベースを高く設定するのならばそのレベルを維持するために多大な努力をしなければならないし、徹底的に思考し抜かなければならない。もし楽をしたいのならば、思考のベースも低く設定するしかない。

思考のベースをどこに置くかということは、最も人間性が現れるところである。自分の生き方、意識、行動の全てがベースの設定に反映される。どこにベースを置いているかということは見る人が見れば瞬時にわかるし、そのためその人に対する評価へと直結する。

ベースをどこに置くかということは、「下の上」を目指すか、「上の下」からスタートするかということでもある。「下の上」を目指せばその上はもうない。しかし「上の下」に居れば、上はさらに広がっている。「上の下」に居れば「上の上」つまり頂点も狙える。「下の上」に居れば、そのクラスの人からは羨望の眼差しで見られるかもしれないが、はっきり言ってそんな羨望の眼差しなどはどうでもいい。周りの眼ではなく、自分のレベルを上げることに注力すべきである。

上には上があるし、下には下がある。はっきり言って下はエンドレスであるが、上には世界一という上限がある。従って究極的にはそこを目指すべきであり、そこにいない限り常に上を目指して前に進むべきである。その地位に満足してよいのは、大坂なおみや紀平梨花といった世界一の人のみである。しかしこのような人も、油断をすればすぐに落ちて行く。しかし大坂なおみや紀平梨花はおそらく素晴らしい人間だと思うので、世界一になればその「世界一」というところにベースを置いて前に進んで行くであろう。そうなれば彼女らの世界一という地位はより盤石になる。

世界一でない限り、上には上がいる。そのような状況においては決して現在の自分の地位に満足すべきではない。自分のレベルが上がればベースをさらに高い所に設定し直して登らなければならない。楽をしてベースを下に設定してしまえば、後は没落するのみである。思考のベースの位置は、自分の人間性そのものである。

努力と心身のケア。

プロスポーツ選手はただ努力するだけではなく、心身のケアにも最大限の注意を払っている。心身は全ての行動の基礎になるものなので、心身に注意を払うことはスポーツ選手だけではなく皆が行うべきことである。

心身の「身」とは「身体」だけを思い浮かべるかもしれないが、「心」をつかさどる「脳」も身体の一部であるので、心と身は別物ではなく一体のものだと考えるべきである。心と身は常に連動しているのである。

学問は頭で考えるものだから身体のケアは必要ないとは決して考えてはならず、体を動かす仕事をしているから心のケアは必要ないとは決して考えてはならない。心と身の両方を高いコンディションで保ってこそ、取り組んでいる事柄で最高のパフォーマンスを発揮することができるのである。

大きな成果を出すためには、努力は必須である。しかしそれと同時に心身のコンディションにも注意を払うと、相乗効果で三倍にも四倍にも大きな成果を挙げることが出来る。もちろん心身の調子には好不調の波がある。好調な時には物事にも前向きに向き合えどんどん前に進めることが出来る。しかし不調な時にはどうしても後ろ向きになりがちであり、調子が良くないから今日はやめとこうとなってしまう。確かに不調な時には物事が全く進められないこともある。しかし例え物事が進まなくても、前向きに取り組み、悪いながらも少しでも前に進めるべきである。そのような時に大事なのは「どれだけ進んだか?」ではなく「どれだけ取り組んだか?」ということである。このような姿勢を持続すればこそ、好調な時に一気に前へと進めることが出来るのである。

四大陸選手権優勝!紀平梨花選手の体力と精神力に学ぶ。

2月8日(日本時間9日)に行われたフィギュアスケート・四大陸選手権で、紀平梨花選手が優勝した。ショートでは5位と出遅れたが、フリーで圧倒的な差をつけての勝利だ。僕は紀平選手のフリースケーティングのプログラム「Beautiful Storm」が大好きだ。曲も衣装も、もちろん紀平選手の演技も全てが美しく哲学的だ。なぜこのような素晴らしい演技が出来るのか?本人に聞くまでもなく、体力と精神力の全てが極められているからだろう。僕は全てのプロスポーツ選手をリスペクトしている。プロスポーツとは「極限への挑戦」だ。極限を極められない選手はプロの世界から去らねばならない。体力と精神力を極限状態に保ち続けられる者のみがプロの世界で生き延びられる。このようなプロスポーツ選手から我々が学び取ることが出来ることはたくさんある。

紀平選手から学び取れることの一つ目は、挽回力だ。今シーズンのほとんどの試合で、紀平選手はショートプログラムでミスをし出遅れている。しかしほぼすべての試合でそれを圧倒的なフリースケーティングで逆転している。ショートでミスをして出遅れればそれを引きずりそうな気もするが、紀平選手はショートのミスを逆に修正のチャンスと捉え、それを基にフリーでは最高以上の演技をしている。紀平選手にとってミスはネガティブな事ではなく、次へのステップの足場としてポジティブに捉えている。これは全ての人が学ぶべきことだ。失敗は決してネガティブな事ではない。むしろチャンスなのである。

二つ目は、安定力とトータルでの力だ。これまでショートでミスをしがちだとは言え、ショート、フリーでの合計ではほぼすべて勝利している。この安定感は圧倒的である。人間は誰しも調子の良い時と悪い時がある。しかしその好不調の波をいかに高いレベルで安定させるかということが非常に重要である。高いレベルでの安定感こそが紀平選手の実力だと言える。

三つ目は、圧倒的に高い精神力だ。今回、紀平選手は試合前に怪我をした。指の脱臼だそうだ。そのようなアクシデントの中でも紀平選手は圧倒的な力を発揮することが出来た。もちろん直接的な影響が少ない指のけがとは言え、精神的な影響は非常に大きいと思われる。普通ならけがをきっかけに負のスパイラルに陥るところだろうが、紀平選手からはそのような事は微塵も感じられなかった。おそらく精神面を完全にコントロールすることが出来ているのだろう。この様に、自分の精神を完全に自分の支配下に置けるかということは、最高のパフォーマンスを発揮するうえで非常に重要である。

紀平選手からは学び取れることが山ほどある。スポーツは科学技術などのように直接的に人間の生活に影響を与えるという訳ではないが、人間の心には多大な影響を与えることが出来る。それらの影響から人間の生き方が変わることもある。プロスポーツ選手の演技・プレーから何かを感じ取って、それを自分の生き方の向上につなげることが出来れば、自分を人間的に高い所へと持ち上げることが出来るであろう。