投稿者「木原 康明」のアーカイブ

いかに大きなリスクを取り、いかにそれを大きな成功へ結びつけるか?

人間は大きく二つに分けられる。リスクを取る人と、リスクを取らない人だ。リスクを取ると言えば金融投資などの金銭的なリスクばかりを考えるかもしれないが、金銭的リスク以上に人生のリスクを取ることの方がより重要で、より危うく、より意味がある。

リスクと成功は表裏一体である。大きな成功を収めるためには必ずと言っていいほどリスクを取る事が必要であり、リスクを取らないで成功することは全くないとは言わないが、ほとんどの場合ありえない。

もちろんリスクを取るということは、失敗する可能性も大いにある。リスクを取りながら生きるということは、人生のギリギリの所での攻防を楽しむということでもある。なぜそのような危険なことが楽しいのか?それは成功した暁にどのようなものを手に入れることができるかということを想像することが快感だからである。さらに危険と隣り合わせであることがスリリングであり、エキサイティングであるとも言える。

もちろん、リスクを冒して夢を追いかけるためには、それなりのしっかりした構想を確立していなければならない。成功までの展望がないリスクは、単なる暴挙でしかない。夢は見るものではなく成し遂げるものなのである。

リスクを取り夢を成し遂げることにまい進している人にとって、普通に生きるということは一番縁が遠いことかもしれない。普通の生き方ではないから、成功するまでは人からは理解されないし、バカにされることもあるだろう。しかしそんなことは、成功することによって納得させればいいのである。

金融投資ではなく自己投資を、そして金銭的リスクではなく人生のリスクを。もちろんこのような生き方をすることは皆に勧められることではないし、むしろほとんどの人にとってはこのような大きなリスクは絶対に取らないほうが良い。しかしこのような大きな人生リスクをとる覚悟と成功への自信があれば、そのようなリスクに飛び込むことは大きな人生チャレンジであり、価値のあることだ。

便利なことは、自由なのか?

近年、ますます便利な世の中になりつつある。しかしその一方、便利であるように錯覚しているだけなのではないかとも感じる。

便利の代表格は、スマホであろう。スマホは確かに便利である。そして最近はスマートスピーカーなるものまで出現している。このように大きく便利になりつつある一方、それらの便利さははたして人間に対する束縛を本当に解放しているのかと疑問に思ったりする。

なぜ科学技術を発展させる必要があるのか?その一番の理由は「自由を得る」ためである。20世紀には自動車が発達し、新幹線などの鉄道網が発達した。それらは確かに人々を便利にした。そして20世紀終わり頃に普及した携帯電話、今で言うガラケーも、当時は非常に便利に思えた。

携帯電話が普及する前は、友人と連絡を取るのにも一苦労だった。ましてや気になる女の子と連絡を取ることは一大イベントであった。しかしそのような不便さが逆に大きな達成感と幸福感を生んでいたのではないかと感じる。

今は好きな女の子がいれば、スマホでボタンをポチっと押すだけで簡単に連絡が取れる。昔のような行き違いなどはほとんどないのではないかと思う。待ち合わせでのすれ違いなども、ラインや電話ですぐに連絡が取れる現在では考えられない。

21世紀も18年過ぎ、爆発的に便利さが発達した。しかしこの18年の技術の発展が果たしてそこに住む人を自由にしたかというと、僕は強い疑問を感じる。確かに物理的には大きく自由になった。しかし精神的に自由になったかというと、むしろ束縛するような方向へと向かっているのではないかと思う。しかもこの流れは前には戻せない。科学技術は前には戻せないという特性を持っている。

この精神的な束縛は、年配よりもIT社会をよく熟知している若者の方が強く感じているのではないかと思う。もう少し詳しく言うと、圧倒的な便利さだけしか感じない人と、その便利さの背後にある束縛を強く感じる人の二極化が起きているのではないだろうか?

便利さとは何か?それによってもたらされる自由とは何か?今そのような事を真剣に考える必要があるのではないだろうか?

科学を哲学する。

科学と哲学は、似ても似つかないものだと思っている人は多い。そもそも大学では科学は理系であり、哲学は文系となっている。しかしこのような理系と文系という区別をすること自体が明らかにおかしいのであって、そのような日本人のステレオタイプな見方は改めなければならないと強く感じている。

科学の中でも、理学系の基礎科学の人と、工学系の技術の人では、科学に対する捉え方が大きく違うように感じる。僕は、基礎科学と哲学は非常に共通するところが多いように感じている。実際僕は、科学と哲学を区別することはなく、科学も哲学であると思っている。ただ科学は対象が“自然”であるというそれだけの事である。哲学を追求することができなければ、自然を追求する科学はできない。

日本の哲学の中心地は、明らかに京都だ。西田幾多郎をはじめとする京都大学の京都学派の伝統は脈々と受け継がれている。京都には哲学の道と言われる通りもある。

哲学と双璧を成すように、基礎物理学の中心も京都である。言うまでもなく湯川秀樹からの伝統であるが、物理をやっている人にとって京都には一種の憧れがあるのかもしれない。また、京都大学には基礎物理学研究所というものもある。

京都という土地は、学問を醸成するにはよい環境なのだろうか?僕は京都に住んだことはないが、京都を訪れると何か独特の雰囲気を感じる。ただ訪れているだけなのに、京都学派の息づきを感じるのだ。

理系だとか文系だとか言って学問を強引に区別するのは明らかに間違っている。科学をするのに哲学的な思考が重要であるように、物事を大局的に捉えるためには分野の垣根を越えなければならない。近年は分野を細分化し、より専門家が進んでいるが、そのような流れは本来あるべき姿とは逆に流れているように強く感じる。

長生きは、善なのか?20代の希望寿命から見て取れる社会の根深い問題。

20代の若者の希望寿命(何歳まで生きたいか?という問い)が80歳を切り、平均寿命を下回ったというニュースがあった。この結果をどう捉えればいいか?おそらくこれまでの社会の価値観と人生観では理解できないことであろう。

これまで、長生きすることは無条件に善であるという価値観が蔓延していた。もちろん今でも長生きが悪だという人はほとんどいないであろう。しかし誤解を恐れずに言うと、生きる権利があるのなら死ぬ権利もあるはずだ。そもそも人間はいつかは必ず死ぬ。そのような100%正しい事実に対して、それを否定するのは逆に人生を否定するものである。

僕が一番大事だと思っていることは、「自分で自分の寿命を決める」ということである。長生きを望む人に対してそれを全力で肯定するのならば、若者がそこまで長生きしたくないという意志もある意味尊重しなければならない。

しかし、この若者が長生きを望まないというアンケート結果は、現在の社会に原因(責任?)がある。おそらく若者にとって現在の社会はかなり生きづらいものなのであろう。例えば、何でも平等、何でも保証。この様な一見良いことだと思われることでも、それが度を過ぎると非常に生きづらい世の中になってしまう。目に見える快適さだけではなく、目に見えない生きやすさを考えないといけない。

もしかしたら、現在のIT化された社会も原因なのかもしれない。一見非常に便利であるように見えるこれらのシステムも、ここまでくると生きづらささえ感じてしまう。実際、僕らの世代よりも現在の若者の方が過去の社会を懐かしんでいるようにも見える。

この20代の希望寿命のアンケートからは、現在の社会が抱える様々な問題が見て取れる。そしてこれらの問題は決して気軽にスルーできる問題ではない。

数理物理学とは?

僕のブログでもしばしば数理物理という名前を出しているが、そもそも数理物理学とはどのような学問なのか?ということを書いて見よう。

何を研究しているか?と聞かれた時、ほとんどの研究者は“分野”の名前を答えるだろう。例えば物理であれば「素粒子論」だとか、数学であれば「微分幾何学」だとか言うだろう。しかし「数理物理学」とは分野の名前ではないと僕は思っている。では何か?それは“手法”の名前である。

数理物理学とは「数学的理論と技術をフルに駆使して研究する物理」だ。だから同じ数理物理学研究者でも、全く違う分野を研究している人がいる。また物理寄りの数理物理学研究者がいれば、数学寄りの数理物理学研究者もいる。ただ確実に言えることは、数理物理を研究するためには数学と物理の知識を両方持ち合わせていなければならないということである。

数学と物理の両方が大好きな人にとっては、数理物理とは天国である。数学でも遊べるし、物理でも遊べる。また学際分野だとも言え、数学と物理の融合の仕方も千差万別である。この融合がまた面白い。

数理物理学の研究者で今世界で最も活躍していると言われている人は、プリンストン高等研究所のエドワード・ウィッテン教授である。ウィッテン教授は同じテーマでも数学と物理の両方の論文を書くことでも有名である。ウィッテン教授の代表作(これがまたたくさんある)の一つであるサイバーグ・ウィッテン理論の論文は、数学者と物理学者の双方に対して大きな影響を与えた。ただウィッテン教授の次の世代が台頭することが望まれるが、ウィッテン教授の勢いはまだまだ健在だ。

ウィッテン教授の研究は絶大なインパクトがあり、「流行を作り出す数理物理学者だ」と言える。しかし世の中の多くの学者は、流行に乗り合わせているというのが現状かも知れない。今多くの物理学者や数学者に対して求められているのは、流行に飛びつくことではなく、流行を作り出せる独創性を発揮することではないかと僕は強く感じている。

今日はお休み?

このブログは毎日書いて、毎日アップしている。書けるときはまとめて数本書く時もあるが、調子が乗らずに書けない時もたまにある。そのような時に記事のストックがあればいいが、どうしても書けない時はお休みするしかない。

何事に対しても、調子の乗らない時にどう過ごすかは非常に考えどころである。調子の乗らない時にも、一歩とは言わないまでも半歩でも物事を進めたいものである。しかしできないものはできないので、できる事から片づけたい。

調子が乗らず創造的な事ができない時には、単調な作業をこなすのもよい。または読書をするのも良いかもしれない。調子が良い時には逆に読む本にこだわってしまうので、調子の良くない時には思い切ってテーマを変え、普段読まないような本を読むようにしている。例えば講談社のブルーバックシリーズでサイエンスのお話を読むのもいいし、小説を読むのもいい。

今日はこれくらいにして、少し読書でもしよう。開店休業だ。

余裕を持つこと、限界まで力を出すこと。

生きることに全力を出すことを心がけている人と、余裕を持つことを心がけている人がいる。どちらの方が良いという訳ではないが、普段は余裕を持って生きる事が重要かもしれない。しかしここぞという時は、限界まで全力を出すことは必要だ。

現在、メジャーリーグの大谷翔平選手の肘のけがが問題になっている。素人が草野球をするのと違って、最高峰の舞台でプレーするプロ選手はけがをするかしないかのギリギリのラインでプレーするので、少し力の入れ具合を間違うとそれがけがにつながってしまう。

イチロー選手の凄いところはけがをほとんどしないところで、単に運が良かったという訳ではなく、どこまで力を出し切ってそれ以上は出さないという塩梅を心がけていたから、限界の力を出しつつけがをしないでプレーできたのではないかと僕は考えている。

大谷翔平選手は非常に真面目な選手なので、どうしても限界以上の力を出し切ろうとしてしまうのではないだろうか。僕も大谷選手のファンなので、けがなく活躍してほしいと強く願っているが、力の加減を把握せずにけがをしてしまうのは、それも実力に関係しているのだと思う。プロの世界は「けがをするかしないかも実力のうち」だと言われるゆえんだ。とは言え、二刀流のもう一本の刀である打撃で大きく活躍しているのは、非常に嬉しい限りである。

自分の取り組んでいることに全力を出すことは非常に重要であるが、普段生きていく上では余裕を持つことが重要である。また人間関係では大きく余裕を持って接していきたいものである。それが人間の器というものである。

現在、僕自身が余裕を持って生きているかと言われると、はっきり言って自信がない。結構ギリギリのラインで生きているように思える。しかしそのギリギリのラインでの人生の攻防もそれはそれでエキサイティングであり面白い。とは言え、人間関係では大きな度量を持つことを心がけたい。

ケアにこだわる。

お金があれば、高級なものを買いたいと思う人は多いかもしれない。僕自身も欲しい高級品はいろいろある。しかし僕が物を買うこと以上にこだわっているのは、「ケアをすること」である。

例えば、靴を買った後は履き潰すという人も多いが、僕は定期的な靴磨きなどのケアにこだわっている。雨が降りそうなときは、防水スプレーをかけるようにしている。革鞄も定期的にケアをするようにしている。腕時計の革ベルトも定期的に交換している。

高級なものを買うことはお金があればできるが、その後のケアができるかどうかはお金とはほとんど関係ない。もちろん、ケアにもそれなりのお金はかかるし、僕もケアに必要な最小限のお金は投資している。しかしケアができるかどうかは、お金よりも人間性が関係してくる。

僕にとって一番大切なことは数理物理の研究であり、数学や物理の専門書は宝物のように大切にしている。しかし革靴や革鞄と違って、最も大事なのは本という「紙(ペーパー)」ではなくて、その中に書かれている内容(情報)である。そういう意味では専門書(ペーパー)より革靴のが大事なのかもしれない。もちろん実際は専門書の方が圧倒的に大事ではあるが。

学問を研究する人にとって、ペンは非常に重要である。ペンは研究の武器だとも言える。僕の武器であるペンは、大学院入学時に友人からもらった万年筆だ。もう優に十数年以上その万年筆を使い続けている。万年筆は僕の体の一部だ。もちろん、万年筆は頻繁に手入れの必要なものではないが、たまにケアはしている。

ケアをすることは、非常に有意義な事である。物も良くなるし、心も綺麗になる。そして様々な物のケアを重ねるうちに、自分に人間としての厚みも増していくように感じる。そのように感じるのは僕の錯覚だろうか?

最後の晩餐。

もし自分の最後の晩餐を開くのなら、そこで何を食べるだろうか?高級な肉が良いか?美味しい魚を食べるのも良いか?。はたまた食べたことのないフォアグラやキャビアだろうか?

僕はもう決めている。それは「ローソンのメロンパン」だ。

僕はメロンパンが大好きだ。もちろん少し凝ったメロンパンもちまたにはあるが、僕が今まで食べた中で一番おいしかったメロンパンはローソンの100円のメロンパンだ。

はっきり言って、僕は食に対して味にはあまりこだわりはない。どちらかというと「美味しいものを少し」というタイプではあるが、レストランに行っても味より雰囲気にこだわる。もちろん美味しいに越したことはないが。

あと、最後の晩餐にメロンパンというのは、自分らしいように思える。ローソンのメロンパンに木原康明という人間の嗜好が凝縮されているからだ。他人が食にこだわるのは全然かまわないが、僕自身は食にはあまりこだわりたくない。しかしレストランやバーの雰囲気にはこだわる。

外出した時に食事を気軽に済ませたい時には、決まってローソンのメロンパンとタリーズのブラック缶コーヒーだ。世の中から神戸牛が消えても全く困らないが、ローソンのメロンパンが消えると非常に困るのである。

大排気量エンジンも、ガソリンがなければ走らない。

イギリスの自動車メーカーであるベントレーには、“W12”という6000ccのエンジンがある。Wとはエンジンのシリンダーの配置を表していて、一言で言えばV6が横に二列並んでいるということだ。ベントレーのW12は大排気量エンジンの代表だと言ってよい。僕はまだ乗ったことはないが、W12の力強いパワーを味わってみたいものである。

当たり前ではあるが、どんなにパワーのあるエンジンを積んでいてもガソリンがなければ走らない。それは人間でも同じだ。人間の思考のエンジンは脳である。一人ひとりの脳の特性は違っているようで、コンパクトなエンジンもあれば、大排気量エンジンもある。そして近年自動車では主流のダウンサイジングターボエンジンみたいな脳もあるかもしれない。ハイブリッドエンジンがあるかどうかは僕にはわからない。

大排気量エンジンのような脳にはガソリンもたくさん必要だ。脳エンジンのガソリンは糖分である。近年は糖分の摂取に対して非常に過敏になっているが、大排気量の脳エンジンを動かすためには多量の糖分の摂取が必要である。糖分の摂取を怠るとたちまち意識朦朧となってしまう。頭をフルに動かしたければ、糖分を十分摂取しなければならないようだ。

自分の脳がどのような特性を持っているかは自分で把握する必要がある。特性を把握することによって、最大限のパフォーマンスの発揮の仕方も理解できる。脳というエンジンと身体というエンジンを縦横無尽に駆使して自分の成すべきことへ一心に向かってみよう!