投稿者「木原 康明」のアーカイブ

自然体でなくていい。

自然体でいることが大事だという話をよく聞く。たしかに自然体でいることにより素の自分が出せることになり、精神的にも対外的な印象に関しても非常に良い効果が出せるように思える。しかし僕は、「自然体であることが自然」ではなく、「自然体でないことの方が自然」ではないかと感じる。

自然体でいることに神経を尖らせ、むしろ自然体が自然でなくなることがよくある。そのような時は、「自然体でなくていい。むしろ自然体でない自分を出すことが自然だ」という発想の転換を行うことが、あらゆることに良い影響を与える。

そもそも、人間が裸ではなく服を着て生活をするように、自分を装って表現することは自然な事である。自然体ではない自分を装うことは、むしろ自分という人間の自己表現だと言える。大事なのは、自然体から脱皮して、いかに自分を良い方向へ作るかということである。

普段の人ごみの中でもまれていくと、自分が自分で無くなっていくような感覚にとらわれることがある。しかしそれは、自分で無くなっていくのではなく、単に自分が変化しているだけなのである。そのような変化した自分も、自分そのものなのである。だから、自然体でない自分というものは、一種の自分の変化だと言える。

ただし、自分の変化の方向は、成長する方向へ向けなければならない。しかし現実は、退化する方向へ変化する人も多い。自然体でない自分を作るということは、自分に対するプロデュースである。いかにセンスのあるプロデューサーになるか?自然体でない自分を構築するのもなかなか面白い挑戦である。

自分を守る。

僕の人生は非常に攻撃的であると思っている。他人から見てどう見えるかはわからないが、何事にも積極的に出て行こうと思っている。しかしそのように出るためにも、自分という存在は確立していなければならない。自分が確立していなければ出るものも出られない。

「攻める」という言葉からは対極的にあるようだが、僕は「自分を守る」ということも大事だと思っている。自分を確立するための第一歩は、自分を守ることから始まるからだ。

攻めていくということは、周りから攻められるということでもある。攻められるのだから、自分を守る術を持たなければならない。しかし剣と鎧のバランスは非常に重要である。

昔、ドラゴンクエスト(現在も続編は出ている)というロールプレイングゲームにはまっていたことがある。剣で攻撃力を上げ、鎧で防御を固め、戦い経験値を上げていく。今思えば非常に良くできたゲームである。僕らが生きているこの世の中は、モンスターを倒すわけではないが、一種のリアルロールプレイングゲームだとみなすことができる。そのような現実世界の世界観を詰め込んでいたからこそ、ドラクエはヒットしたのだろうか?

話しは戻るが、自分の守り方には二種類あると思う。一つは攻撃的な守り、もう一つは消極的な守り。消極的な守りは自分の世界観を狭め、知的活動も退化していく。攻撃的な守りによって自分を高め、どのような険しい世界に打って出ても攻めていけるようなタフな自分を作りたいと常々思っている。

仮に逃げるとしたら、「研究に」だ!

普段生きていれば、時には逃げたくなる時もある。今やっていることに対して、これが果たして意味のあるものか?と思い、くじけそうになる。そのような現実に対してどう対処すべきか?あるいはどこに逃げるのか?

「逃げる」という言葉にはネガティブなイメージが付きまとうが、同じ逃げるにしても、どこに逃げるかによってその意味合いは大きく変わる。破滅的な方向へ逃げるのか?それとも建設的な方向へ逃げるのか?そのどちらに逃げるかによって、その人の人間性が試されると僕は思っている。

そのどちらに逃げるのが良いか?僕はそれをバネにして建設的な方向へ逃げることを心がけている。その建設的な方向とは、僕の場合は数理物理の研究に逃げるということだ。数理物理とは僕にとって生きがいであるが、同時に避難地でもある。ここに行けばまず大丈夫という絶対的な安堵感がある。とは言え、時にはそこにこだわるがあまり非常に苦しい立場に立たされることもある。それはそれで試練と受け止め、乗り越えていかなければならない。

では破滅的な方向とは何か?例えばお酒に逃げるとか取り組んでいることを投げ出すとかいろいろあると思う。では破滅的な方向へ逃げることは悪いことなのか?僕はそうは思わない。時には破滅的な方向へ逃げるのもいい。自分が完全に破滅しない程度に逃げるのは良いと思う。そしてそこからリスタートし建設的な道を歩めばよいのである。

生きていればいろいろと苦しいこともある。そのような時に研究に逃げられるようにその避難地は確保しておきたい。一番苦しいのはその避難地がなくなることだから。

健康マニア。

企業のトップになるような人は、健康マニアが多いという話を聞いたことがある。やはり企業のトップとして最高のパフォーマンスを発揮するためには、何を差し置いても健康であることが一番重要であるということかもしれない。

誰しもが健康でありたいとは思っているだろうが、健康マニアか?と言われるとマニアというほどではないと答えるだろう。しかし先頭に立って物事を突破するためには、何事においてもマニアだと言われるような突出するくらいの覚悟を持っていなければならない。もちろん本業ではマニアよりもさらに上のプロフェッショナルというレベルの事が要求される。しかし本業以外に関してもセミプロになるくらいの考えがなくてはいけない。あるいはそれが嫌ならばゼロでいる方が良い。中途半端に何となくというのが一番得るものがない。

近年はネットが発達し、一般的な情報はすぐに手に入るようになってきた。このようなネットの力を利用しない手はない。健康に関する情報なども、ネットや雑誌を利用してどんどん入手すればいい。しかしネット情報というものは玉石混在している。そのため、偽情報に振り回されることだけは避けなければならない。情報の真偽を見分ける方法はいくつかあるが、まずは情報の発信源は信頼の置けるところか?そして複数のソースから確認する、ということくらいはしなければならない。

現代の健康マニアへの道は情報戦である。いかに“信頼”のある“多くの”情報を手に入れるかということに尽きる。そのような情報を手に入れた後は、それを基に自分流にアレンジし実行するだけである。健康マニアになって、トップを目指そう!

ノーベル賞から一般人が学ぶべきこと。

先日は本庶佑教授のノーベル医学・生理学賞受賞で盛り上がったが、ノーベル賞を一夜騒ぎのお祭りで終わらせるのではなく、科学者でない一般人にとってもノーベル賞から学ぶべきこと、考えるべきことはいろいろある。

ノーベル賞から学ぶべき最も重要な事は、基礎科学は本来、役に立つかどうかで評価されるものではないということだ。確かに重要な科学的成果が人々の役に立つことは往々にしてある。しかし役に立つかどうかということは科学の一側面しか表していないのである。特にノーベル賞受賞対象となる基礎科学は、極論を言うと役に立つかどうかということとは全く関係ない。実際、2017年のノーベル物理学賞受賞対象となった重力波は、少なくとも現段階では全く役に立つめどは立っていない。しかしそれでも科学的価値は絶大なのである。

科学は役に立たないと意味がないと思っている人は、“科学”と“科学技術”を混同しているのではないか?科学技術は確かに役に立たないと意味がないのかもしれない。しかし科学の価値は、役に立つかどうかという所とは全く別次元の所にある。役に立つかどうかという物差しとは全く違う物差しが必要なのである。

以前僕のブログで、「役に立つ科学は、役に立たない科学から生まれる」ということを書いた。これは僕が百歩譲って書いた論である。百歩譲って科学の価値を役に立つかどうかということに置いたとしても、役に立たない科学は重要だということである。

今週はノーベル賞の発表が続くノーベルウィークであるが、今一度、役に立つかどうかという尺度とは違った観点から科学を眺めてもらいたいと強く願う。

本庶佑教授、ノーベル医学・生理学賞受賞!

2018年のノーベル医学・生理学賞に、京都大学の本庶佑特別教授が受賞されることになった。心よりお祝いを申し上げたい。

本庶佑教授の名前だけは以前から知っていたが、今回の受賞報道で抗がん薬のオプジーボを開発された方と知って、そうだったのかと納得した。やはりノーベル医学・生理学賞を受賞される方々は、単に基礎研究として大きな成果である(これは最も重要だが)だけでなく、多くの人々の命を救う可能性を秘めているというところが、また非常に素晴らしいところである。このことは、iPS細胞の山中伸弥教授にも言えることではないだろうか。

本庶教授は会見で、「教科書を信じないことが大切だ」と言っておられた。これは非常に共感するところだ。学校では教科書は絶対だと教えられるが、そのような教育は権威や権力に従い盲目的になるというところへつながっていく。自分で何かを発見するためには、まずは過去の成果を疑うことから始まり、過去の成果を覆すことにより新たな成果となる。

特に医学へのつながりの強い生物学や、過去の史実が次々と否定される歴史学では、過去の常識が現在の非常識となることが多い。そして絶対的だと思われている物理学などの科学全般において、科学を盲目的に信じることは最も非科学的な行動だということを心に留めておかなければならない。

今週のいわゆる“ノーベルウィーク”はまだ続く。他の賞でも日本人研究者の受賞者は出るのだろうか?

困難は圧倒的なパフォーマンスで乗り越える!

生きていれば、時には大きく危機的な困難に遭遇することがある。そのような時にはつい頭を抱えて悩んでしまうが、悩んだところで抜本的な解決にはつながらないことがほとんどだ。そしてその場しのぎの対処療法的な行動をとってしまうことが多いが、これもほとんどの場合抜本的な解決にならない。

完全な解決にはつながらないかもしれないが、一番大きな解決方法は、本業で圧倒的なパフォーマンスを発揮して乗り越えるということだ。確かに困難の内容と本業は直接関係ないかもしれない。しかし本来取り組むべき本業で力を発揮することこそが解決への糸口になる。ここで重要なのは、単に本業で力を発揮することではないということだ。“圧倒的”な力を発揮するということが一番重要なのである。

日本では、出る杭は打たれると言われ、つい横並び志向に走りがちである。そして適度に上手くやればいいという発想に陥りがちだ。しかし物事を解決するためには、圧倒的な力が必要だ。何となくその場を繕ってしのごうという考えでは抜本的な解決にはならない。解決という幻想を見ているだけである。

圧倒的パフォーマンスを発揮するということは、困難を解決するだけではなく、ピンチをチャンスに変える力を与える。しかしこれは誰もができる事ではないのかもしれない。少なくとも現在所属している組織・グループで圧倒的な存在にならなければならない。それは日本一になるということかもしれない。いや、世界一になるということかもしれない。とにかく圧倒的パフォーマンスを発揮して圧倒的な存在になれば、全ての困難を解決して、それをさらにチャンスに変えることができる。

人生、努力している途中。

高い目標があれば、それを達成しようと努力をするのは自然な事だ。では今までの人生の中で最も努力したことは何だろうか?スポーツとかいろいろあるだろうが、多くの人は学生時代の勉強だと答えるのではないだろうか?もちろん勉強することは非常に建設的な事であり、非常に意義のあることだと思う。しかしその絶頂を「受験」という一イベントだけに置くのは非常にもったいないことだ。

勉強で得たものは受験で合格した後は無用の長物になるのだろうか?そんなはずはない!人生において一貫して意味を持つものだからこそ、勉強は評価されるのである。逆に言えば意味のある勉強をしなければならないということである。学校を卒業し世の中を走っていくにあたって、それまでに努力して勉強したことを武器にして進んで行かなければならない。

人生観というものは人によってさまざまであるが、僕にとって余生という概念はない。百歩譲って余生があるとすれば、それはもう死んだものと捉えて何事にも恐れずに飛び込んで行ける度胸を身に付けるものであると僕は思っている。そういう意味では僕のこれからの人生の中にも余生ができるのかもしれない。

僕には高くて大きな目標がある。それを成し遂げるためには人生常に努力していかなければならないと思っている。今、僕の人生は努力している途中である。

現代社会は、不平等はなくなりつつあるが、偽平等な社会になりつつある。

現代社会では、不平等の是正は急務である。現在でも大きな問題である人種差別から男女差別などは最も是正しなければならないことであるが、そのような大きな問題でなくても是正しなければならない問題は山積みだ。

しかし僕が最近非常に問題だと思っているのが、不平等ならぬ“偽平等”だ。偽平等は平等の顔をして広まってくる。確かに問題のある不平等は是正しなければならないが、今問題なのは“表面的”な平等である。

そもそも不平等を是正するためには、まずそれのどこが問題なのかということを表面化しなければならない。それによって改善の方向性が見えてくる。しかし改善の方向性を示さずにただ不平等を解消しなければならないというだけでは、その先は偽平等になる危険性がある。偽平等は時には不平等よりも危険な存在になり得る。

平等と横並びは似て非なるものである。これを混同してしまえば、多くの発展を犠牲にし、多くの才能と多くの自由を奪い去ってしまう。さらに偽平等が蔓延してしまえば、その先にあるのは監視社会であると僕は考えている。

平等とは肉体と精神の自由をもたらすものでなければならない。人間の思考と行動の自由を束縛する偽平等はこの世の中にはいらない!

コーヒーはお好きですか?

コーヒーは心と体にゆとりをもたらすものだと僕は感じている。朝一杯(僕は三杯)のコーヒーはリラックスをもたらし、一日の活力源ともなる。お酒がなくても生きていけるが、コーヒーがなくなれば僕は生きていけない。完全にコーヒー中毒である。

先日、海外から帰国していた友人とコーヒーを飲む機会があった。1年に一回の帰国ということであるが、数回コーヒー(とお酒)を飲む機会ができた。お酒を飲みながらの話はもちろん非常に楽しいものだが、カフェでのコーヒーを飲みながらの会話も僕は非常に好きだ。お酒を飲みながらの会話とコーヒーを飲みながらの会話の両方を持てたことは、非常に有意義であった。

コーヒーを飲むと言っても、飲む場はいろいろある。家で飲むことや外で缶コーヒー飲むこと、そしてカフェで飲む場合はスタバやドトールなどの廉価なコーヒー屋さんからホテルのラウンジのようなちょっと高級なカフェまで。これらのどの場で飲む場合でも、それぞれ良いところがあっていいものだ。

コーヒーは柔らかいイメージがあるが、時には頭を働かせ、学問の研究の武器にもなる。たかがコーヒー、されどコーヒー。コーヒー一杯の使い方によって自分の生活を変えることができ、また良い人間関係を構築することもできる。

コーヒー一杯に詰まっている僕の想いは、非常に深いものである。