投稿者「木原 康明」のアーカイブ

数学が最も自由な学問だと言われる訳。

「数学は非常に自由な学問である」と言っても、ほとんどの人はその言葉に反対し抗議するであろう。なぜならば、ほとんどの人がやってきた(やらされた?)小学校の算数から高校までの数学は、ガチガチに決まったルールがあり、決まった解き方があり、ただ一つの答えがある。おそらくそういう印象を持っている人が多いだろう。

では、数学の自由性とは何か?これにはいくつかの理由がある。最も認知されている自由性は、「解き方はいくつもある」ということではないだろうか。これに関しては高校数学レベルの問題でも感じられる自由性だ。

しかし数学者たちはそれよりももっと大きな自由性を感じている。それは「ルールは自由に変えることができる」というものだ。このことに関しては、大学で数学を学ぶレベルでないとなかなか実感しづらいことであるが、これこそが数学の神髄なのである。

数学者は取り組むテーマに応じて設定(つまりルール)を変えており、時にはルールを強め、時にはルールを弱めたりして、それに対してどのような結果が出るのかと探っている。ルールは非常に自由に変えられるものなのである。

例えば誰でも当たり前だと思っている、

1+1=2

という足し算。こんな式でさえも数学者たち(特に代数学者)は

1+1=0

と考えることがよくあるのである。ちなみにこのような足し算の世界は専門用語で「標数2の世界」と言う。

余談であるが、物理などは数学よりも自由性が少なく、縛りが強い。なぜなら物理の場合は、物理学者がどんなことを主張しようが、自然(宇宙)がその主張する法則と違えばその主張は間違っていることになるからである。

数学の自由な世界、そのような世界に数学者は魅了されているのである。

役に立つ科学は、役に立たない科学から生まれる。

とある科学雑誌で、今年のノーベル医学・生理学賞受賞者の大隅良典さんの特集をやっていた。その中で、大隅教授の弟子の研究者が、最近の学生は「役に立つ科学をして社会に貢献したい」ということを強く主張するということに嘆いていた。

僕も以前のブログで、科学では、「役に立つかどうかということ以外の物差しを持つことが大切だ」と書いた。これはどういう意味か。

役に立つかどうかということは誰が見ても非常によくわかりやすい。しかし「科学的価値」というものは役に立つかどうかということとは全く別であり、それを理解できる人は意外にも非常に少ない。

役に立つ科学とは、科学技術など工学や医学のことであって、純粋科学の価値と役に立つかどうかとは無関係である。もちろん去年ノーベル医学・生理学賞を受賞された大村さんなどは、発明した薬によってアフリカを中心とする多くの人々を救った。この様に、役に立つということは非常に素晴らしいことは言うまでもない。

しかし、基礎科学・数理科学に取り組んでいる人にとって「それは何の役に立つのですか?」という問いほど悲しいものはない。なぜならそのような問いは科学的価値が全く認識されていない表れだからである。

現在、山中伸弥教授が発見したiPS細胞が医療や創薬において非常に大きな力を発揮し、役に立つ科学の代表のように言われている。そのようなことからiPS細胞は役に立てるために開発されたと勘違いしている人が多い。しかし山中教授がiPS細胞を開発した本来の目的は、「各臓器に分化した細胞にも、分化する前の受精卵と同じ全ての情報を無くさずに保持している」ということを示すことであった。その証拠に、2012年のノーベル医学・生理学賞での山中教授の他のもう一人の受賞者であるガートン博士は、そのことをカエルで証明したことを評価されての受賞である。山中教授はそれをマウス、そして人間でも同じであることを示したのである。

話しは変わるが、20世紀初めに打ち立てられた物理の量子論は、純粋に自然の根本的な仕組みを理解するためだけに研究された。量子論のような原子レベルの理論が人間の役に立つと思った人は、当時は皆無であったであろう。しかし科学技術の基に成り立っている現代社会において、量子論を利用することは必要不可欠である。そういう意味で「役に立つ科学は、役に立たない科学から生まれる」と言えるのである。

真の科学的価値を判断できるセンスを持った人が少しでも増えることを願うばかりである。

生き方。・・・今を見ることと、人生全部を見渡すこと・・・

人生とは?と言うと非常に堅い話になるが、人間ならおそらく何度も考えることだと思う。

人生とはどういうものか?僕はこう思う。

「人生とは彫刻のようなもので、生まれた時には切り取った丸太のようなもの。その丸太に時間をかけて掘っていく。そして人生が終わるときに出来上がった彫刻作品がその人の人生である。」

その時の一瞬一瞬を全力に生きる人、人生長い目で見てペース配分を考えながら生きる人、などいろいろな生き方・信条を持っている人がいると思うが、どちらが正しいのか?僕はどちらも正しいと思う。タイトルにも書いたが、今を見て今を打ち込むことと、人生長い目で見て信念を貫くこと、どちらが欠けても不完全なものになってしまう。

では僕はというと、長い目で見て悠長に構えるところがあって、それが欠点のような気がする。自分では結構情熱的で熱い方だと思うが、その割には先を見て考えてしまう。

自分が生きる意味は何か?その意味を常にしっかりと意識できると、何度失敗しても立ち直れる。そして常識とは異なる生き方をしていても、自分の生き方を貫ける。たとえ人からバカと言われ続けても、自分の生き方を貫ける。ただし非常にきつい生き方ではあるが。

人生のことを書いたが、何事にも部分を見る目と、全体を見る目、その両方・複眼的な見方をすることが大切である。

「自分の人生」という作品がどのようなものになるのか、楽しみである。

日本国民、特に若者と自衛隊のかかわりはどうあるべきか。稲田防衛大臣の発言について考える。

少し前、稲田朋美防衛大臣の「若者全員、自衛隊に触れる制度を」という発言が取り上げられ、議論になった。この発言にはいろいろ反対意見もあると思うが、僕はこの稲田発言には非常に重要な意味があると思う。

この発言に反対する人は、

自衛隊 → 軍国主義 → 戦争

というステレオタイプな考えに陥る人が多いような気がする。もちろんもし本当にそんなことになるのならば何が何でも反対しなくてはならない。この思考に関しては、共産党議員が防衛費に関して「人殺し予算」と発言したことにもつながるだろう。このようなステレオタイプ議員の発言の方がはるかに恐ろしいと思うのは僕だけであろうか?

この問題に関しては、「静」と「動」の状態について考えるのがいいのではないか。自衛隊の存在を敵視する人は

自衛隊の存在 → 他国(中国など)といさかいを起こす → 「動」の状態になる。

と考えているのではないか。逆に言えば、自衛隊が無くなれば「静」の状態になり、平穏(平和?)な世の中になる、と。

しかし実際は、

自衛隊の存在 → 他国に対する抑止力 → 「静」の状態になる。

ではないだろうか。普段日本に住んでいると、日常生活を送るうえで軍事的紛争とは無縁であり、「静」の状態にあるように感じる。しかし実際は年間数百回という自衛隊機のスクランブル発進(緊急発進)により中国・ロシア軍の侵入の試みを防いでいるのである。即ち、自衛隊の「動」によって、我々の日常生活上の「静」の状態が保たれている。

改めて稲田防衛大臣の話に戻るが、自衛隊が陰に陽に日本国民の生活と関わっているのは明らかだ。日本国民はもっと自衛隊の存在に目を向けるべきである。自衛隊の存在から目をそらすのは、現状から目をそらすことである。そういう意味で、日本国民、特に若者が自衛隊と触れ合う場を作り、自衛隊の存在について熟考するきっかけを作ることは必要である。

このことを誤解している人は、

自衛隊と触れ合う → 自衛隊に加わる → 徴兵

という論理になっているように思える。確かに自衛隊への参加を強制することは避けなければならない。しかし現実として、自衛隊は日本国家という機構の一部、それもかなり大きな一部を担っている。

自由主義国家日本において、自衛隊の存在に関して反対するのは自由かもしれない。しかしイメージから反対するのではなくて、自分の頭でしっかり熟考したうえで判断を下してほしいものである。

ジャーナリスト・立花隆氏を想う

初めに書いておくが、立花隆さんはまだご存命である。(2016年現在、76歳)

僕がまだ大学生の頃、若者を中心に立花隆ブームが起こっていた。その頃は立花隆さんはジャーナリストというよりもノンフィクション作家として幅を利かしており、「脳を鍛える」という本が非常に面白かったような記憶がある。

しかし立花隆さんと言えば何と言っても「田中角栄研究・人脈と金脈」という論文記事で、当時の怪物的首相・田中角栄を失脚へと追い込んだことが一番の仕事で、これ抜きには語れない。首相の金銭スキャンダル記事を書くと言う行為は命を懸ける行為であり、記事が公になる前に知られれば確実に命はない。

しかし現在のジャーナリストのスクープ記事を見ると、何とも不甲斐無いものばかりだ。どれを見ても女性スキャンダルばかり。雑誌も女性スキャンダルをすっぱ抜いて首を取ったような気でいる。それが芸能人のものならまだわからなくもないが、政治家の女性スキャンダルをすっぱ抜いてどうする。その前に金銭スキャンダル・権力スキャンダルをすっぱ抜いてみろと言いたくなる。一昔前までは大手メディアは、政治家の下半身のスキャンダルは無視するという暗黙の了解があったそうだが、いまはどうやら・・・

立花隆さんのような、命を懸けたジャーナル記事を見たいものである。

立花さんの田中研究の裏にはアメリカのCIAがついていたという陰謀説もあるようだが、このような自分の頭で物事を考えられない人間の「何でも陰謀説」には本当に辟易する。物事の原因を陰謀説になすり付けると、追及はそこで終わり、考える頭を思考停止させる。

それから、立花さんの記事が出たときなどにも、他の記者から「自分達も知っていた」という声が多かったという。しかし記者が知っているだけでは何の意味もない。それを執筆して世に出すと言う行為が大仕事なのである。またそこに命が懸っている。

最近、命を張って現状を伝えているジャーナリストと言えば、真っ先に戦争ジャーナリストが出てくるが、政治ジャーナリストも仕事によっては命を懸けた重要なものになることにもっとに広く気づくべきだ。

気概のあるジャーナリストの出現を望む。

なぜ自然(宇宙)は「古典」ではなく、「量子」を選んだのか?

物理学をやっている人がまず思うことは、「なぜ自然(宇宙)は量子の論理に支配されているのか」ということではないだろうか?

ここで言う「古典」と「量子」とは、古典力学と量子力学(広く一般に量子論)のことである。古典力学とはいわゆるニュートン力学のことで、1600年代に誕生し、もう300年以上の歴史がある。それに対して量子力学が誕生したのは1925年、プランクの量子論仮説までさかのぼっても1900年なので、高々100年ちょっとの歴史しかない。

ちなみに、1905年に特殊相対性理論、1916年に一般相相対性理論がアインシュタインにより打ち立てられている。しかし相対性理論は新しい理論だが、論理的には「古典論」の部類に入る。

なぜ「自然が量子の論理であるか」ということに不思議を感じるのか?それは古典論に比べて量子論は複雑、そして一見して非常に不自然に見えるからであろう。しかし量子論は非常に豊富な内容を含んでいる。最近で言うと、超伝導やボース・アインシュタイン凝縮、もっと単純に原子が壊れずに存在するのも量子論のおかげである。

物理学の歴史を単純化すると、

古典論 → 量子論 → 未来の理論(統一理論?)

ということになるだろうが、これはアインシュタイン流に言い直せば、

単純 → 複雑 → 美的

ということになると推測される。

ここで「美的」と書いたが、かのアインシュタインは、根本的基礎理論は美しくなければならないと言い、「美しいかどうか」ということを指導原理にしていた。量子論が現在非常に複雑であるのも、美的への途中過程だからだと思われる。

量子というと一般人には遠い世界に感じられるかも知れないが、今の電子機器製品には量子論は欠かせないし、近い未来には量子コンピューターというとんでもないものができると言われている。

しかし、「なぜ自然(宇宙)は量子なのか?」という問いは、神のみぞ知るということなのか、それともそれ以上の答えを人間は用意できるのか。現在の人間はそれを知る由もない。

過度な平等論的選挙法が、政治への関心を薄くする。

10月8日、池上彰さんの番組で、世界の社会に関する解説をされていた。特に選挙に関する話は非常に面白く、北朝鮮の監視選挙など半分面白く半分恐ろしいような実態も取り上げられていた。

その中でもアメリカの選挙と日本の選挙、特に選挙法とのかかわりについて少し考えるところがあった。よく知られているように、アメリカではそれぞれ個人が自身の支持する候補者を積極的にアピールし、さらに新聞・テレビ局などの各メディアまでがそれぞれ支持する候補者を明らかにし、積極的アピールをする。

それに対して日本では各メディアは中立でなければならなく、特定の候補を支持する行動は許されず、討論番組では各党の代表を平等に取り上げなければならない。そして個人が特定の候補者に肩入れし、周りにアピールする行動は(違法とは言えなくても)好ましいとされず、行動によっては選挙法で捕まることもある。ネットでの選挙関連の書き込みにも制限があり、現在選挙でのネットの取り上げ方についていろいろと議論されている。

ところで、8日の池上さんの番組で、カンニング竹山さんがこのような発言をされた。

「選挙法で何もかも平等に扱わなければいけない感じになっているので、選挙に関する話題を話すことができなくなり、選挙に関する関心が薄れてしまう」(言葉は正確ではないが、このような趣旨のことを発言された)

この発言には僕ももっともだと感じた。日本では過度の選挙平等主義のため、政治の話題をすることさえ国民はためらっているのではないか。その結果選挙や政治への関心が薄くなり投票率の低下につながっているのではないかと僕も感じている。

実際に僕も、前回の参議院議員選挙の時に、選挙に関する各党の公約について意見を書こうと思ったが、そのようなことをネットで書くのが法に触れるのか触れないのか判断できなかったので書くのをやめてしまった。

アメリカでは国民一人一人が候補者の支持をアピールするのに積極的行動を取っているので、自然関心は高くなり、投票率も日本に対して高いことは容易に想像できる。

(と思って少しネットで調べてみたが、そんなに極端に高くはなく、日本と同じように若者の投票率の低さが目立った)

とはいえ、アメリカの選挙時の世界を巻き込んでの熱狂は、メディアを巻き込んでまで支援するシステムがあるからこそだと思う。

この様に考えると、日本国民を委縮させる選挙法というものを今のままにするのもどうかと、カンニング竹山さんの発言を聞いて考えさせられた。

天皇陛下が論文を書かれた。

ニュースを見ていると、明仁天皇陛下(平成)が皇居に生息するタヌキに関する論文を書かれたという記事を見つけた。陛下が書かれた論文とはどんなものなのか興味を持ったので、さっそくネットで陛下の論文を見つけて読んでみた。

皇居には多数のタヌキが生息しているらしく、数か所に「溜め糞」と呼ばれるタヌキのトイレのようなところがあるらしい。陛下はその溜め糞で採取したタヌキの糞を顕微鏡で観察して、糞に含まれる内容物を分析したようだ。

ちなみにこの論文は、陛下を含む5人の共著となっている。

僕は普段は物理・数学関係の論文しか読まないので、生物関係の陛下の論文について論評などできないが、興味深く読ましていただいた。

そういえば、昭和天皇も植物の研究をされていたことを思い出し、生物の研究と陛下はゆかりがあるのだろうと感じた。秋篠宮殿下のナマズの研究は非常に有名だ。

ところで論文の内容とは直接関係ないのだが、面白いと思ったところがあった。皇居の住所と陛下の所属機関だ。論文には陛下の所属機関は「御所」となっており、住所は「〒100-0001 東京都千代田区千代田1− 1  御所」となっている。なんだか変に感心してしまった。住所だけ見ても、まさしく住んでいる世界が違う!

我が国の「象徴」が書かれた論文、日本国民として一度見られるのも良いかと思う。日本の陛下が研究という学術に自ら関われていることには、日本国民として誇らしい。

ノーベル医学・生理学賞2016、受賞おめでとうございます。東京工業大・大隅良典栄誉教授。

10月3日夕方に発表された、ノーベル医学・生理学賞に、東京工業大学の大隅良典栄誉教授が受賞されることが決まった。心から祝福いたします。

6時半から受賞者発表があると知っていたので、ノーベル財団のホームページでのネット中継を見ていたが、中継が不調でテレビの速報で知ることになった。大隅教授のことは全く知らなかったが、日本人受賞者の研究内容の概観を知ることくらいは教養のうちだと思い、大隅教授の研究概要をこれから調べようと思う。

大隅教授の研究内容は、たんぱく質の分解のメカニズムを解明したことらしい。専門用語で「オートファジー(自食作用)」と言うそうだ。僕は専門の数理物理以外にも科学全般に興味があるので生物学の初歩の概観くらいは知っているつもりだが、大隅教授の研究のような専門的なことになると手を挙げざる負えない。

さらに驚いたことは、今回の医学生理学賞の受賞は大隅教授の単独受賞であるということだ。日本人の単独受賞は1987年の利根川進博士以来のことである。これはどういうことかと例を挙げて言うと、2008年の物理学賞受賞者の日本人三人、南部陽一郎博士・小林誠博士・益川敏英博士の場合、一個のノーベル賞を三人で分けることになる。それも単純に三等分ではなく、南部博士が二分の一、小林・益川両博士が四分の一ずつである。賞金もそのように分割される。

毎年秋になると、ノーベル賞は日本の風物詩になってきた感がある。そして明日・明後日と物理学賞・化学賞と続く。さらに日本人の受賞が続くのか、非常に気になるところである。

「どちらが良いか」ではなく、「どちらがより悪くないか」という判断も大切だ。

最近、高速増殖炉「もんじゅ」を廃炉にするという方向性が決まったようだ。もんじゅについては既に一兆円以上のお金がつぎ込まれており、今まで引くに引けない状態だったのではということは容易に想像つく。しかし、大金をつぎ込んだからやめるのはもったいないという考えでズルズル引きずれば、損失は大きくなるばかりだ。

このもんじゅについての判断で欠けていたのは、「どちらがより悪くないか」という判断ではないか。「どちらが良いか」という判断は、精神的にも比較的判断しやすい。しかし窮地に立ち判断を迫られたとき、どちらがより悪くないかという思考をするのには勇気がいる。どうしてもそれまで取り組んできたことを引きずりがちになってしまうからだ。

この様な判断は、もんじゅについてだけではない。一般によく言われていることでもあるが、選挙でも同じことである。どの候補に投票しようかと考えた時、まずどの候補がより良いかという判断をしようとする。しかし多くの場合、良いと思える候補が一人もいない。そこで「どの候補もいいと思わないから投票しない」ということではなく、「より悪くない候補に投票しよう」と思うことが大事だ。そのほうがはるかに積極的で建設的な行動である。

現在、若者の投票離れ、政治離れが問題になっている。政治に関する関心は、教育と密接に関係している。学校では政治の仕組みについては詳しく学ぶであろう。そして「良いと思う候補者に投票しなさい」と。しかしなぜ一言「良いと思える候補者がいない場合は、より悪くない候補者に投票しよう」と言えないのか。このような思考の欠如が巡り巡って、もんじゅに対する対処判断にまで影響している。

もったいないとかいう感情的判断ではなく、何より建設的論理的判断をすることが必要である。そしてそれを行動に移して意思表示をする。そのようなことをしっかりすれば、権力をもった老人が若者を見下す態度も少しはましになるであろう。