投稿者「木原 康明」のアーカイブ

あえて1%の危険性を残すことが重要だ!

何に対しても100%の安全を求める人は多い。しかし、あえて1%の危険性を残すことが重要である。

この1%(実際は0.01%かもしれないが)の危険性をどう捉えるか?この1%の危険性を克服すると全てが幸せになるように思えるが、実際はそうはならない。この1%を解消することにおける代償は大きい。その代償とは何か?それは金銭的な事であったり、人間に対する自由であったりする。特に近年はこの自由に対する代償は深刻な問題であると僕は考えている。

100%の安全を達成するためには、徹底的な管理が必要である。その管理は元はと言えば物事に対する管理であったかもしれないが、それが巡り巡って人間への徹底的な管理になる。そのような管理をあらゆるところに求めてしまえば、その先にあるのは監視社会である。

もちろん一定の管理は必要かもしれない。経済でも自由貿易だと言っても一定のルールは必要だ。最低限のルールがない社会は無法地帯でしかない。しかし重要なのは“最低限”のルールであって、“過度”なルールは自由の束縛でしかない。

話しは初めに戻るが、最終的な1%の安全を保障するためには、多くの場合90%の自由が失われる。さらに金銭的な負担も莫大になるが、これらの事は物事を大局的に捉える事の重要性を示している。1%の安全性にこだわりそれだけしか見えなければ、それに関して相互作用的に動く物事が捉えられないのである。

僕は物事を行う時には、あえて1%の危険性を残すことを肝に銘じている。言い方を変えると、100%ではなく99%を目指すということである。もし1%の危険が起これば、そこは潔く諦めることにしている。しかしこの1%を諦めることによって手に入れるものの大きさは絶大であることを認識することが重要である。

本丸を守り、本丸を攻める。

自分にとって一番重要なことは何か?その一番重要な事である本丸をいかに守るかは、人間にとって生命線となる。

本丸を守るために、時にはその周囲を犠牲にしなければならないこともあるだろう。すなわちそれは「肉を切らせて、骨を断つ」ということかもしれない。肉は切られても復元能力がある。骨ではないが、芯となる神経を切られては元には戻らない。

本丸を守るためには、まず本丸が何なのか?そしてそれはどのくら重要なのかを理解しなければならない。逆に、何かに挑戦するときは、対象の本丸を攻めなければならない。本丸を落とすためにまず何が必要かを考え用意周到に準備し、対象の本質を見抜かなければならない。対象の本質を見抜くとは、どこを攻めれば芯を突いたことになるかを見極めることだ。

これらのことは、学問についても言えるだろう。細かい計算を続ければ何かは出るかもしれない。しかし本質を突かないことには、それは枝葉末節的な事に終始してしまう。学問の本丸を攻めなければならないのである。

本丸を守り、本丸を攻める。このことを実行できている人は非常に少ない。しかし本丸を見極めることができれば、本丸を攻める準備の65%はできていると言える。

物事を総合的に見る。

物事を大局的に捉え、総合的に見ることが大事である。ある一つの事だけを見てそれが良いことだと思ってもそれが他の事に良くない影響を与えることもあるし、その逆もある。物事を近視眼的に捉えてしまうことは非常に危険である。

ビジネスマンや経営者でも同じだ。目先の事だけしか見えずそれだけの損得しか考えなければ成功してもその幅は小さく、小さな成功者にしかなれない。物事を大局的に捉え総合的に見ることができれば、今目の前にある事に対して損になる選択をしてでもその先にある大きな利益を取ることができる。

これらの事は研究者でも同じだ。目先の成果にこだわり過ぎれば、絶対に成功することにしか手を出せない。しかしそのような必ず成果が出るということは大概大した成果ではない。研究においてもリスクを取ることが大事である。もちろんそのような大きなリスクを取るためには、それまで小さな成果をいくつか挙げていなければならないのかもしれない。

しかし間違ってはならないのは、負けるとわかっている戦は絶対にしてはならないということだ。負け戦は「暴挙」である。ビジョンを持ち、勝つまでの道筋を立てておく。その上で「挑戦」をしなければならない。

自分には展望があっても、他人からは暴挙だと見られることもあるだろう。しかし自分に勝算があればそのような目はどうでもいい。挑戦に打って出ればよいのである。それで負ければ暴挙だったと言われればいい。勝てば自分の挑戦は正しかったと胸を張れば良いのである。

大局的に物事を捉え、自分の目で判断する。それができれば大きな挑戦に打って出る準備の第一段階は整っている。あとは自分がそれをどこまで実行し成し遂げられるかだ。

大人になるとは、自分を汚していく作業だ!

以前の僕は、人間としていかに潔癖であるかということを考えていた。しかし今は違う。大人として、そして人間として成長するとは、自分を汚していく作業で、いかに汚れた状況の中でたくましく生きるかということが大事だと考えている。そして潔癖とは弱さであると気付いた。

人間が前に進む時に必ず必要になるのが「挑戦」だ。そして挑戦をし続ければ、成功することもあるし失敗もある。しかし汚れるということは挑戦者の証なのである。

日本の社会では、多くの場合減点主義を取ることが多い。しかし減点主義を取った結果、多くの人は挑戦をしないで減点を免れるという手法をとる。この場合確かに減点はされないが、加点もされない。すなわち永遠のゼロなのである。

しかし僕は、挑戦をし続け減点を繰り返しながらも、ここぞという時に大きな加点を狙うということが大事なのではないかと考えている。永遠のゼロではその人は存在しないのと同じだ。人間の手腕の見せ所は、減点をいかに加点に変えるかということである。

これまでの横並び主義の日本社会の中であれば、減点主義で調整型の社会でも良かったかもしれない。しかし今の世の中はボーダーレスである。日本の田舎に居ても、さらにはインフラも整っていない発展途上国に居ても、スマホとパソコン一つで世界のどこの人とも繋がり、最先端の仕事ができる世の中である。そのような世界で減点主義で調整型の組織が生き残れるはずがない。事実、これまで一流企業と呼ばれたシャープが買収され、世界的なトップ企業と言われたソニーも現在では見る影もない。

今必要なのは、リスクを取りとことん前に進むことだ。そして汚れることを恐れてはならない。社会からの評価を気にしてしまうかもしれないが、自分が評価をする側にならなければならない。人生が幕を閉じる時にボロボロで見る影もない、そのような人生を送れたら本望である。

充電をしすぎるな!

自分に対する自戒を込めて書きたいと思う。

十分に休養して「充電する」という言葉をよく聞く。確かに猛烈に走り続けていればどこかで倒れてしまう。そのためにも途中で休養して充電することは大事なのかもしれない。しかし過度な充電は逆に危険でもある。

普段あまり活動もしなくて何も取り組んでいる訳でもないのに、何かにつけて休養や充電を頻繁に取る人がいるが、そのような充電は、一歩進んで三歩後退するということでしかない。この様な場合、トータルで見ると後退している。しかし一歩進んでいる事しか眼中にないので進んでいるという錯覚に陥る。

普通に生きていれば、意識しなくてもたいていの場合ある程度の充電はできている。すなわち充電に気が行っている場合は過度な充電に陥っている危険性が高い。もちろん、十分な睡眠が取れていないとか明らかに過労である場合は、意識して休養・充電する必要はある。しかし、睡眠を普通に取れていれば、それだけで65%くらいの充電はできていると言える。

人によっては、むしろより活動するためにはどうすればよいかということを考えた方が良い。休養して疲れが取れる場合もあるが、時には達成することによる爽快感も必要である。もちろん、休養と爽快感は同一ではないが、人間は適度に活動していないと逆に不調に陥ることもある。

今僕に必要なのは、取り組んでいることに没頭し、出来うる限り前進することである。意識を活動的に生きる事へと向け、一歩でも前進する。今の僕にははっきり言って休養はいらないと感じている。意識しなくても適度に休養は取れているからだ。

成し遂げる前の適度な休養も良いが、達成した後の爽快感に浸りながらのバカンスを実行するために猪突猛進したいものである。

自分の可能性を狭めてはいないか?

信念を持つということは非常に大事だ。しかし信念とこだわりは紙一重、生産性のないこだわりを持ちすぎると自分の可能性を狭めてしまう。逆に、自分の芯となる信念を確立していると、逆境においても乗り越える力になりえるし、取り組んでいることに集中して飛躍的に進歩させることもできる。

信念とこだわりの違いは何か?これはある意味結果論だと言える。成功すれば信念だと言われるし、進歩がないとこだわりだと言われる。そういう意味ではこだわりをいかに信念へと昇華するか?ここが才能と努力の見せ所である。

僕自身もいろいろとこだわっているようなところがあり、それが自分の可能性を狭めているのではないかと感じるところがある。いかに不毛なこだわりを捨て去るか。それはこれからの大きな課題である。それと同時に芯となる信念を推し進め、いかに大きな結果を出すか。これに人生を懸けている。

他人が判断する可能性はあくまで結果論であって、自分の将来の可能性を一番見通せているのは自分である。もしかしたら自分の将来を見通せていない人もたくさんいるかもしれないが、自分の将来の可能性を判断できる判断力を身に付けることが非常に重要である。

では、将来の可能性を見通すためにはどうすればいいか?そのような特効薬はない。ただ何をすればよいかははっきりしている。まずは大局観を身に付ける事。そのためには目先の事ばかりを考えてはいけない。二歩先、三歩先に焦点を合さなければならない。金銭的にもそうだ。目先の小銭ではなく、将来の余裕を手に入れることを考えなければならない。ただそのためには、現在の状況を乗り越えることが必要だ。

今を乗り越え、将来の大きな目標を手に入れることにどれだけのめり込めるか?そこに人間としての度量が試されている。

コーヒー一杯に懸る、自分の人生。

生きる上で一番大事なのは、自分の身体である。「体が資本」と言うように、健康でないことには物事を前に進めるのは難しい。それと同時に大切なのが「頭脳」である。身体と頭脳は人生の両輪と言える。そのため、いかに健康な体を維持し鍛えるか、そしていかに頭脳と精神のコンディションを高いレベルで維持するか。この二つは僕にとっての日常における最も大きな課題である。

この事とコーヒーが何の関係があるのか?僕にとっては非常に大きな関係があるのである。以前の僕はコーヒー中毒と自称していたように、毎日7杯くらいのコーヒーを飲んでいた。最近は、コーヒーは万能であって体に良い効果ばかりだというニュースをよく聞く。そのような事を聞いて、調子に乗ってコーヒーを大量に摂取し続けた。

しかし何でも適量という言葉があるように、取り過ぎれば良いというものではない。それはコーヒーも同じだ。最近、睡眠などの日常生活における不調を感じて、コーヒーの摂取の量を大幅に減らした。そこで自分の体を使ったちょっとした実験を始める。果たしてどれくらいの量が僕の体にとって適量で、もっとも良いコンディションをもたらすか?

最近は、コンディションを保つことに関してはかなり力を入れている。そのことが僕の取り組んでいることの成果へ直結すると認識しているからだ。コーヒー一杯が自分のコンディションに影響を与えるのならば、言い換えるとコーヒー一杯が自分の人生を決定すると言える。ならば人生を上向きにするためにもコーヒーに対して真剣に向き合い考え抜こうという姿勢を取り始めた。

たかがコーヒー、されどコーヒー。自分の人生の行方は何気ない自分の身の周りの事によって左右されるのかもしれない。ならば今一度自分の身の周りを見返して、何か改善できることはないかと見直してみよう。

知への挑戦。

僕は、人生とは次への挑戦だと思っている。何に対して挑戦するかは人それぞれ違うが、荒野を開拓し、多くの失敗を重ね、その中で大きな成功を成し遂げる。人生が終焉する間際までこのような挑戦をし続けることができれば本望である。

僕の人生の中で一番大きな挑戦は「知への挑戦」だ。数学や物理などの学問は僕の人生の中で最も大きな挑戦であるが、哲学や思想構成、そして生物学や歴史などの専門外の学問に対しても、自分の出来うる範囲で挑戦し続けたいと思っている。

学問とスポーツは全く違うものだと考えている人は多いかもしれない。確かに学問は頭脳を使い、スポーツは体力を使う。しかしそれらを極めようとする人にとっては、その根幹にある思想は共通するところが多いと感じる。どちらも究極への挑戦である。学問であれば過去の究極はアインシュタインと言えるかもしれないし、スポーツで言えば現在の究極は大谷翔平だと言える。

知の魅力に取りつかれた人は、知の魔力からは抜けられない。知への挑戦に終わりはないのである。全ての学問、そして全てのスポーツに言えることだが、知れば知るほど、極めれば極めるほど、それらの世界の奥深さを感じ、やるべき事がどんどん増えていく。すぐにやりつくしてしまうのではないかと感じている間は全く理解していないのだと言える。

将棋に関して僕は超初心者である。僕のような初心者には将棋の世界の片隅さえも見ることはできない。しかしおそらくプロ棋士には将棋盤の上の数十センチ四方のマス目の中に限りなく大きくて深い世界が見えているのだと思う。そのようなことは学問も同じだ。数学者や物理学者は、数式を機械的に計算しているのではない。数式の中に繰り広げられる深くで豊かな世界を視覚的に見て、それらの世界を構築し色を塗り続けているのである。

知への挑戦とは、新たな世界を構築していくことである。そして人間の深さとは、現実世界とは別に、第二の世界、第三の世界を持つことなのかもしれない。そのような世界が僕にとっては数学の世界、物理の世界なのである。

紛争鉱物。

スマホなどの最先端の電子機器には、レアメタルなどの鉱物が多く使用されている。これらの鉱物の一部は、アフリカの最貧国でも採取されている。しかしそれらの国で採取される鉱物を巡って、現在大きな問題が発生している。

アフリカのコンゴでは、多くの鉱物が採取されるらしい。埋蔵している資源だけで見るとコンゴは資源大国である。しかし現状は最貧国と言える状態だ。これらの国で、鉱物を巡って過酷な労働が強制され、暴行・虐殺が横行しているという。これらの事を聞いて日本人はどう思うだろうか?「暴行や虐殺は許されないことだが、日本人である私らには関係ないことでどうすることもできない」と思う人も多いかもしれない。しかしこれらの事に関して日本人は関係ないどころか密接な関係があり、関与することもできる問題なのである。

先ほどの話で取り上げたスマホなどの電子機器に使用されている鉱物は、これらの国で取られた鉱物である可能性は高い。この様な人権的な問題がある中で取られた鉱物を「紛争鉱物」という。私たちができる手段の内の一つは、これらの紛争鉱物が使われていないか監視することだ。最近ではこのような監視が国際的に行われ、紛争鉱物でないものにはタグをつけ、紛争鉱物に対して流通制限をしているという。

私たちは多くの電子機器に囲まれ、スマホなどの便利な機器を利用してスマートな生き方をしている。しかしスマートで、時にはお洒落に振る舞うことの背後には、このような紛争鉱物を巡って過酷な労働を強いられている人たちがいる。すなわち私たちの生活は、これらの人の人権侵害の下に成り立っていると言える。

自分たちだけが良ければいいという考えはもはや通じない。日本国内を豊かにすることは大事だが、それが世界の人たちの豊かさの下に成り立っていなければならない。しかし現実は、多くの人たちの犠牲の下に成り立っている。紛争鉱物はそのような世界の構造的な問題を提起し、これからの社会の在り方を考えさせられる。

究極の技術。

今日、録画しておいたドラマ「下町ロケット」の新シリーズを観た。前回のシリーズも非常に面白かったが、今回も何やら面白くなる予感がする。少なくとも僕は、究極の技術に立ち向かう人間と組織のストーリーは大好きだ。

ところで、究極の技術を開発するとはどういうことか?一言で言えば世界一の技術を身に付けるということだ。しかし企業が技術を開発するに当たっては、単に技術を向上すれば良いというものではない。まずはコストというものを考えなければならない。資金は有限である。もちろんお金をかければ基本的には良い物ができる。しかしビジネスにおいては費用対効果も非常に重要な要素になる。

今回の下町ロケットでは、スペックの問題が取り上げられていた。スペックは数字で厳密に表現できる。しかしスペック以外の所にも重要な要素はいくつかある。これは人間についても言える。近年、人間のスペックという言葉をたまに耳にする。収入や学歴などの数字やランクで表現できることである。しかし人間の本質はスペックではない。人間性やフットワークの軽さなど、スペックでないところに人間の本質がある。とは言ってもスペックが無関係なわけではない。スペックが全てではないが、スペックは判断要素の一つであり得るということだ。

究極の技術は同時に、究極の人間性を身に付けるということだ。学問やスポーツにおいて究極の技術を身に付けるためには、まずは人間性を高める必要がある。生きる上での哲学、そして取り組んでいる事に対して本質を見抜くための力、そして絶対的に折れないための体力も必要だ。

一つを極めるためには全てを高めなければならない。専門バカになるためには、人間としてオールラウンダーになることが必要不可欠である。