投稿者「木原 康明」のアーカイブ

地震学者の解説があまりにもひどい

大きな地震が起こると、決まって地震学者の解説がテレビで流れるが、その解説があまりにもひどい。大概その地点はひずみが溜まっていたとか地震の空白地帯だったとか言っているが、その説明が全然科学的ではない。似非論理学者の似非科学レベルの話なのである。サイエンスというのにはほど遠い。しかもその論理も事後の後付けなのである。それでいて自身を学者と名乗っている。もうちまたによく出てくる預言者が後になって私は予言していたというレベルである。

何も地震学自体を否定するつもりはない。地道な観測と、筋の通った論理地球学に基づいてコツコツと研究している地震学者もいるだろう。地震学は役に立たないどころか成功すれば計り知れないくらい大きな利益をもたらす。そのことは少し考えればわかる。大地震を一回予知するだけで、数万人の命が助かる可能性があるのだ。であるから一回の地震の予知に失敗したからと言って非難するのは早計だろう。

しかし不真面目でいい加減な地震学者が多い。それともテレビなどに出ている地震学者がいい加減なのか。東大教授というような高名な学者もよく出ているが。

思い返してみれば、阪神大震災が起こる前にも地震特集みたいなテレビ番組はよくあった。しかしその内容と言えば、すぐにでも首都圏直下型地震が起きてもおかしくないというものである。べつに首都圏直下型地震を危惧することに異論はない。しかし首都圏以外に関しては全くというほど触れられてはいなかった。そこでの阪神、東日本である。事後になって関西は危なかった、東日本は巨大地震の巣だったなどとわめいている。最近になってようやく南海トラフ巨大地震がクローズアップされているが。

首都圏の危機的状況を伝えること自体は否定しない。しかし人間は首都圏だけに住んでいるのではない。もちろん人口密集地の情報が重要なことはわかる。しかし「科学的」に公平に議論されなければならない。

地震学は規模が大きく、非常に難しい学問であることはわかる。だからと言って事後の貼り付けのような説明は、素人相手とはいえそんなことはしてほしくない。国民をバカにしているのか、地震学者がバカなのか。

とにかくより確実なメカニズムを解明し、大地震を一発でも予知するような大勝利を挙げてほしいものである。

われわれ一般国民もその日が来るのを信じ、静かに見守ろう。

崇拝対象の風刺画

映画監督の宮崎駿さんが、「異質文化の崇拝対象に対する風刺画は間違いである」と言っておられた。私もその通りだと思う。風刺画を描いている欧米人は表現の自由という言葉を掲げて自分たちの行為を正当化しているが、見方を変えると彼らのしていることは、異文化の否認、排除であり、自分たちの文化を異文化圏に押し付ける行為でもある。

以前私のブログでこのようなテーマで書いたが、風刺画を描く行為自体は犯罪行為ではない。決して取り締まったりされるべきものではないが、法律的に許されているからと言って、それがすべき事とは限らない。ましてや称賛すべきことでは決してない。彼らのやっていることは、自分たちの思想の陳腐さ、レベルの低さをさらけ出しているようなものだ。

私はイスラムを信仰しているしているわけでは全くないが、彼らの文化を否定するつもりもない。

宮崎駿さんも言っておられるが、風刺画とは自国の政治家を皮肉って書いてこそ威力を発揮する。権力に対する抵抗である。本来、権力に対する抵抗が、他国の文化の卑下ともとられるような行為に使ってどうする。

欧米の思想哲学は近代的で、何百年もの発展の歴史があり素晴らしいところも多々ある。しかし一部の政治家をはじめ一部の民衆は、それを勘違いしている。今回の風刺画に対する称賛はその最たる例である。その一番の犠牲になっているのは、普通に生活しているイスラム市民であることを忘れてはいけない。

臓器移植のための海外渡航について

ニュースを見ていたら、海外で臓器移植を受けて無事回復した幼い女の子の話題が流れた。一つの幼い命が救われたことは大変喜ばしいことである。これからも長生きをして、移植された臓器を大切に生きてくれるとすごくうれしい。

ところで日本国内では臓器移植があまり進んでいない。これには医療技術的な問題よりも、法律や文化の壁が大きいみたいだ。科学的に言えば脳が死んだ時が死であるといえる。こう言えば単純だが、実際はそんなに単純な問題ではない。宗教的な問題もあるし、身近な人から見れば脳死であっても心臓が動いている人をなかなか死と認められないものである。

そこで臓器移植を受けないといけないが国内の現状では無理という状況では、海外に渡航して受けざる負えなくなる。しかし本当にそんな現状をそのままにしていいのか。国内ではダメだが海外ならいいよというのは、国内の問題を海外に丸投げしてしているようなものである。もちろん難しい問題であることはよくわかる。しかし難しい問題であることは海外でも同じである。

確かに死んだ人、あるいは脳死の人の臓器を移植するするのを見るのは周りの人にとって非常につらいかもしれない。それも海外でも同じである。しかし一人の人間の死が臓器移植によって新たな生を吹き込むことになるのである。もちろん脳死の人からの臓器移植を強制してはならない。全ての人間に尊厳はある。しかしせめて法的にはもっと移植を推進できる体制を整えるべきではないか。今では臓器を与えたくても与えられないのが現状である。もちろん最近は少し推進しては来たが。

法は国会で認められればすぐにでも変えられるけど、文化的意識を変えるのは非常に難しい。これは徐々に啓蒙活動をしていくしかない。

移植問題を海外に丸投げせずとも、国内で移植を受け、多くの命が助かるようになることを願っている。

全労働者非正規雇用制のすすめ

ここ数年、非正規雇用者の問題がクローズアップされている。確かに現在の非正規雇用制には問題が山積で、何らかの対策は打たなければならない状態になっている。

一番の問題は、非正規雇用者が企業の調整弁になっているということであろう。不振になって雇用者が過剰になったとき、非正規雇用者を切り捨て調整を図っているのである。

そしてもう一つの大きな問題は、給与の面であろう。正規雇用者と非正規雇用者が全く同じ作業をしていても、その両者で賃金が大きく差がつけられている。

そこでこれは一つの極論だが、全社員を非正規雇用制にしてみるのはどうかと思う。もう少し付け加えるなら、正社員と非正規社員の区別をやめるのである。

そんなことを言えば、企業の正社員たちは猛反発するであろう。正社員の身分の安定と、安定した給与があるからこそ、安心して生活ができると。

確かに正社員の安定した身分というのは必要かもしれない。しかし現在の多くの企業制度上、正社員の安定した身分は非常に不安定な非正規社員のもとに成り立っているのである。正社員が安定していれば、非正規社員は不安定で低賃金でも許されるのか。非正規社員も正社員と同じ人間なのである。ただ入ってきた窓口が違うというだけでこんなにも待遇の差をつけられていいのか。

非正規社員を正社員にという声はよく聞く。そこで逆転の発想で正社員と非正規社員という区別をやめてみてはどうかと私は思うのである。もちろん極論であり、問題はたくさんあるのは承知である。

区別をやめることによって、従来非正規だった人の賃金レベルを上げるのはもちろんだが、解雇するハードルも下げ、人材の流れも活発にすればいいのである。

企業にとって人材は宝である。企業にとって宝であるような人が、正社員制度をやめたからと言って企業が切ったりすることはありえない。正社員制度がなくとも重要な人には高給与を与えればいい。

まずは全ての人にチャンスを。社会からあふれた人にも優秀な人が埋もれている。結論を言えば、別に正社員がいてもいい。しかしその正社員の安定と高給与のために非正規社員が犠牲になるようなシステムはもうやめようではないかということなのである。

G型大学と、L型大学に分離する議論について

最近、大学をG(グローバル)型大学とL(ローカル)型大学に分離しようという議論が起こっている。現在の大学ではアカデミックな教育が主流となっており、平均的な大学でも経済の授業ではマクロミクロ経済学のようなアカデミック学問を教えるというような教養主義教育を行っている。

しかし大学分離の議論では、G型大学(旧帝国大学及び早慶のようなトップレベルの大学)とL型大学(その他の大学)に完全に分離して、G型大学では従来のようなアカデミックな教育を進めるものの、L型大学では実業教育に特化した教育を行うというものである。先ほど出した経済の授業で言うと、L型大学では会計ソフトの使い方など、仕事で実際に必要なスキル(手に職とでも言うべきか)を叩き込むのである。

こうなってしまえば名称は「大学」であるものの、実際は職業訓練学校である。はたして大学をこのような職業訓練の場で終わらしてしまっていいのか。

職業訓練の場のような学校を作ることは結構なことである。問題はそれを大学が担うということである。もし職業訓練に特化するならば、大学という看板を下ろしてもらいたい。大学は最高学府である。だからこそ、レベルが少し低いと言えども大学にはアカデミックな教育、高度な教養を身に付ける場であってほしい。教養に興味のない者は、大学ではなくて職業訓練学校に行けばいいのである。

アカデミックな教育、教養が役に立たないとは、実に早計である。もちろん教養は実用を目的にしたものではないかもしれない。しかし高度な教養は社会全体のレベルを底上げし、産業の高度化をもたらす力になるであろう。また教養は人生の基盤でもあり、より質の高い人生を送るためには不可欠である。

ここまで言って納得できない人は、大学などに行かずに職業訓練学校に行って手に職をつければいいのである。職業訓練学校を低く見るつもりはない。高度な技術を身に付けるには職業訓練学校に行くべきだとも思う。

そもそも問題は大学を作りすぎたことにあるのかもしれない。今の大学の乱立状態は異常である。なぜ最高学府が一国に数百も必要なのか。

アカデミックな大学はレベルにかかわらず絶対に必要だが、アカデミックな教育、教養教育を学校側も学生側も望んでいない大学はすぐにでも「大学」の看板を下ろして職業訓練学校に衣替えしてほしいものである。

人工知能は人間の頭脳を超えられるのか

最近人工知能の研究が社会的に話題になっている。特に話題の中心は、「人工知能は人間を超えるのか」というものだ。

そもそも何をもって人工知能が人間の頭脳を超えたというのかという定義自体があいまいだが、一つの定義として「チューリングテスト」というものが半世紀ほど前に考え出されている。

チューリングテストとは簡単に言うと、質問の相手を隠し、相手がコンピューターであることを知らせないで質問者にいろいろ質問してもらう。そのやり取りを通じて質問者の30%以上の人が相手が人間であると判断すれば、そのコンピューターは人間の頭脳と同等であると言える、というものである。2014年になって初めてチューリングテストに合格したコンピューターが現れた。

コンピューターと人間の頭脳を比較するとき、二つの視点がある。それは計算量、計算のスピードを見るのか、あるいは計算の「質」を見るのか。

計算の量やスピードを見ると、もうとっくにコンピューターは人間を超えている。何十年も昔の電卓でさえ人間は太刀打ちできない。今では理研にある「京」というコンピューターのように、一秒間に一京回(10000000000000000回)も計算してしまうような化け物のようなコンピューターも現れている。

では「質」についてはどうだろう。これについて二つの解釈があると思う。一つは今社会で話題になっていることだが、コンピューター自身が自分をより高度に学習発展させていけるかというもの。もう一つは問題を解く能力ではなくて、問題の質、すなわちどの問題が重要であってどの問題は重要でないと判断できるかということである。

そしてその質について考えたとき、今のコンピューターの仕組みと人間の頭脳の間には、断層のようなそもそも根本的な仕組みの違いがあるかということが問題になる。

ツイスター理論で有名な物理学者ペンローズ博士は、人間の脳の仕組みには量子重力理論的効果(量子重力理論は現在完成していない)が本質的役割を果たしていると指摘した。それが合っているか間違っているかは別にして、ペンローズ博士はコンピューターと人間の頭脳には、質的な違いがあると言いたかったのであろう。もしそのような質的な違いがあるならば、今のコンピューターをいくら高度に発展させても人間の頭脳と同じ働きをするコンピューターはできない。

話を元に戻そう。コンピューターが人間を超えることで一番危惧されているのは、人間社会がコンピューターに取って代わられるのではないかということであろう。映画のターミネーターみたいな世界である。もしそうなれば人間はコンピューターの奴隷になってしまうかもしれない。そんなSFのような世界も徐々に現実味を帯びてくるであろう。

医療行為に倫理観が欠かせないのと同じように、これからはコンピューター開発にもしっかりした倫理観が必要になる。むやみに開発すればいいという考えはもう終わりにしなければいけないかもしれない。

物書きのスランプ

このブログを書き始めてから約一か月半、一日一記事を目標に書き続けてきた。そしていま、今年に入ってから経た日数とブログの記事は同じだ。

毎日コンスタントに書けるといいが、たまには書けない時もある。そういう時のために、余裕のある時にストック記事を書いて用意して、書けない時にはストック記事をアップすることにしている。

しかし昨日ストック記事をアップし、今日もなかなか文章が続かない。そこで今日はいっその事、そんなスランプな状態を逆手にとって記事にしてやろうと思いこのタイトルで書くことにした。

少し振り返ってみると、今まで社会・時事ネタが圧倒的に多くなってしまった。タイトルが「考える部屋」とあるように、初めは思想・哲学的な記事が多くなるかなと想定していたのだが。専門のサイエンスに関する話題は一つだけだ。

以前、ある文豪の話として、文章を書けるときはすらすら書けるのだが、書けない時にはどうあがいても筆が進まない、そういう時があると何かで読んだことがある。文豪でもそんなスランプがあるのだから、僕にもあって当たり前かもしれない。でも当たり前と開き直ってしまっては何も書けないので、そんなスランプもネタにしてみようと今日の記事を書いている。

そこで風呂に入りシャワーを浴びながら、書く内容を簡単に構想する。風呂というのは温まって血の巡りが良くなるせいか、考えていることが整理されたりアイデアを思いついたりすることがある。数年前にノーベル物理学賞を取られた益川博士も、受賞対象になった小林・益川理論のアイデアは風呂の中で思いついたと言われていた。やはり風呂に入ると頭が活性化されるのだろうか。

頭の調子が常に高いレベルで一定に保たれているといいのだが、調子の良い時と悪い時の波というものがどうしても出てくる。そこで調子の良い時は数理物理の研究・勉強を、そして疲れたら物書きを、悪い時はネットを眺めて情報収集を、というふうに使い分けることにしている。

かの有名な哲学者バートランド・ラッセルは、調子の良い時は数学・論理学を、普通の時は哲学を、悪い時は社会科学をやっていたと何かの本で読んだことがある。

調子の良い時は思いっきり、悪い時は悪いなりにと時間を有効利用するのは、いい戦略である。でも悪い時はいっその事寝て過ごせとなり、だらけてしまうのは意志の弱さなのか。

何はともあれ、勢いに乗っている時の充実感を少しでも長く感じたいものである。

 

社会のバランス

どのような集団でも、集団の規模が大きくなれば極端に偏った考えの人が増えてくるものだ。しかし偏っていると言っても皆が同じ方向に偏っているのではなくて、右に偏っている人もいれば左に偏っている人もいる。これらの両極端の人たちはシーソーの両端みたいなもので、全体を見てみるとシーソーはバランスが取れている。

社会的に危ないのは、その片方側だけを認めない風潮だ。ナチスドイツ、金朝鮮などがそうである。最近の韓国もそのようになりつつある。片方を否定することによって、シーソーは片方に傾く。国なら国家が傾く。相反する主張を認めない国家は、独裁色の強い国家になっていく。

そのようなことを防ぐためには、「多様性」を認めなければならない。多様性の重要性はいろいろなことに当てはまる。人間社会をはじめ、自然の動物の生態系、あるいは学問の世界でも多様な主張は必要かもしれない。多様性のある世界が健全なら、偏った世界はある意味病的と言える。

しかし、時には偏ることも必要なこともある。多様性を認めるということは言い換えると面積が広くなるということである。国家というような規模の大きい集団ならそれでいいが、規模の小さな集団では、広くなるということは同時に浅くなるということでもある。ですから、規模の小さな集団が特色、個性を際立たせるためには、偏る、あるいは狭い範囲に集中するということも必要だ。しかしターゲットを集中する場合でも、アンテナは広く向けていなければ知識までもが偏ってしまう。

政治の世界ではよく右だ左だと非難し合っている。非難し合うのは結構なことであり、このように左右が非難し合っているということは逆に言うと両者の存在を前提として認めているということなので、ある意味健全な状態だと言えるかもしれない。

これから先も右と左がけん制しあうことができる国家であり続けることを願っている。

殺人を手段によって認否していいのか

最近、イスラム国(ISIL)の塩素ガスを使った攻撃が問題になった。塩素ガス攻撃、すなわち化学兵器は人道的に非道だということらしい。社会的な殺人事件から戦争による殺害まで、殺人にはいろいろあるが、殺人の仕方に、良い殺人と悪い殺人なんて本当にあるのだろうか。

確かにISILの斬首などは見ていて(僕は見ていないが)残虐極まりないと思う。このようなことは許されないものだ。かと言って米軍による空爆は許されるのであろうか。空爆はISILの幹部、兵士を狙ったものだと思われるが、同時に多数の一般市民も犠牲になっていることは容易に推察できる。しかし空爆による何十、何百とも思われる市民の犠牲の話は一向に出てこない。

斬首であろうが空爆であろうが、殺人には変わりない。もちろん空爆の一番の原因はISILの残虐な施政にあるのだが。空爆による殺人は合法的な殺人として認められるのだろうか。

合法殺人か、違法殺人かの区別は簡単だ。米国米軍寄りの殺人は全て合法で、米国米軍に敵対する側の殺人は違法なのである。

世界は米国を中心に回っていると言っても過言ではない。米国のすることがスタンダードなのである。ヨルダン兵士の殺害に対する哀悼の意は出されても、空爆によって犠牲になった数多くの市民に対する哀悼の声明は一切出されていない。

今、科学兵器に対する批判がなされているが、ベトナム戦争では米軍の枯葉剤によって数多くの市民が犠牲になり、その影響は今でも残る。今、一部の国の核兵器開発が国際的に非難されているが、太平洋戦争では米軍は実際に核兵器を投下し、朝鮮戦争で北に味方する中国の数都市に対する米国による原爆投下の計画があったことが今では明らかになっている。

時代時代によって、残虐非道か合法かの基準は変わっているのである。簡単に言えば、米国が非道と言えば非道であり、合法と言えば合法なのである。

しかし、殺人が手段によって区別されるのは明らかにおかしい。どんな手法を使っても殺人は殺人なのである。まだ殺人人数で罪の大きさを決める方がより理にかなっている。人数で比べると、米軍の空爆による被害は計り知れない。

とは言ってもISILを擁護するつもりはさらさらないのだが。原因はISIL側にある。しかしだからと言って無差別に空爆をすることには疑問である。仮に空爆を認めるとしても、市民にどれだけの被害が出たかという検証をし、一般市民にさらけ出すべきだと思う。

米軍側の攻撃の検証が全く明らかにされないのは、情報操作にもつながり、ある意味非常に恐ろしい状態に陥っているのではないかと思う。

紛争の全貌を公平な立場から明らかにしてほしいものである。

権利と義務

最近、シリア、そしてイスラム国への渡航を計画していた人に対する旅券強制返納が話題になっている。その人物(以下、氏と呼ぶ)は、行動、報道の自由を訴えかけて国を提訴すると言っているが、ここでこの問題について少し考えてみる。

この問題の核心は、「権利と義務のバランス」だ。行動、報道の自由があるのは言うまでもない。その一方で国は国民を守る義務がある。この二つの事柄は一部相反するところがあるので、今回はその部分が問題になっている。行動の自由があるとはいえ、殺害される確率が高いような危険地域に一国民が行くことを、国はみすみす指をくわえて見ているだけではいけない。後藤健二さんのケースでも、国はイスラム国に行こうとする後藤さんに対して再三警告したようだ。しかしそれを振り切って最悪の結果になった。

国としても同じ過ちを繰り返したくはないのだろう。後藤さんにしても氏にしても自己責任で行くと主張して行動しようとしている。しかし今回の人質事件を見ても、自己責任で済まされる問題ではない。と言っても何も後藤さんたちを、自己責任だと言って断罪するつもりはないのだが。

民主主義、自由主義国家において、行動の自由、報道の自由は通常は制限を受けるべきではない。しかし今回のイスラム国の渡航に関しては、生命の行方がかかっている。行動の自由と命の重さ、どちらが重いかというともちろん人命だ。

今回の旅券強制返納は特例らしいが、自由主義国家の日本としては苦渋の決断だったと思う。しかし国民の人命を第一に守る国だと示すためにも、しっかり決断してもらいたい。