投稿者「木原 康明」のアーカイブ

日本は良いのか?悪いのか?

最近テレビを観ていると、「日本はこんなにも凄い」ということを紹介する番組が多くなった。外国の人たちが「日本が凄い」と言ってくれるのは非常にありがたいが、日本人が自分で自分たちのことを称賛するのはいかがなものかと強く感じる。外国人が「日本が凄い」と言っているのを流す番組もあるが、その番組を企画・製作しているのは日本のテレビ局なので、結局日本人による自画自賛でしかない。

僕は日本で生まれ日本で育ち、生粋の日本人だと思っており、日本が好きだが、日本が本当に良い国か?と問われると、手放しでYesと言えない自分がいる。日本にずっと住んでいるからこそ、日本の良いとこ悪いとこが手に取るように感じる。

とは言っても、どこの国も良いとこ悪いとこはあるのかもしれない。世界で非常に住みやすい国だと称賛されている北欧でも、確かに国民に対する支援は手厚いが、それも高率の税金とのトレードオフの産物だ。どちらが良いとか悪いとかの問題ではない。

日本が本当に良い国か?悪い国か?ということを判断するためには、一度日本を離れて日本という国を外側から眺めないといけないのかもしれない。もし外から見て本当に日本が良い国だと感じたら、その時日本の事を大いに称賛したいと思う。僕の心はどちらに傾くだろうか?

人間としてのメンテナンス。

車や電気製品のメンテナンスが重要であるように、人間もメンテナンスは必要である。中には屈強で全く病院にも縁がなく精神も肉体も常に万全であるという人もいるかもしれないが、多くの人は何かしらのメンテナンスをすることが必要になる。

女性なら美容などのメンテナンスを定期的に受けている人も多いかもしれないが、男性にとっても外見、内面のメンテナンスをすることを忘れてはいけない。ではなぜメンテナンスが必要なのか?それは日々の努力を最大限に発揮するためだ。日々努力している人にこそ、メンテナンスが重要になるのである。

例えば、好きな人と何とか付き合いたいと努力している人は、外見に対してのメンテナンスにも気を配るだろう。また、学問において何とか成果を挙げようと努力している人にとっては、まずは健康であることが重要であるし、精神面でも高いレベルで保たなければならない。

人間としてのメンテナンスはお金が必要であることもあるし、日々の意識の持ちようが大きく影響することもある。何か目標があり、それを成し遂げようと思えば、最終地点だけを見るのではなく、それまでの道のりを考えることも重要である。そしてその道のりの途中の各地点でメンテナンスを施すことによって、道のりを進むスピードも速くなることであろう。

広中平祐の“電話帳”。

広中平祐とは、1970年にフィールズ賞(数学のノーベル賞と言われている)を受賞した日本の大数学者だ。広中博士の専門は代数幾何学。その広中博士のフィールズ賞受賞対象となった論文は特異点解消の大論文と言われているが、あまりにも分厚いので通称“電話帳”と呼ばれている。

僕は最近、過去の重要論文を読むことも大事だと考えているので、広中博士の特異点解消の大論文も僕の専門外ではあるが一読してみようと思い、プリントアウトした。やはり電話帳と言われているだけあって、一つの論文としては異例の200ページ越えだ!広中博士の論文は専門家にとっても難解だと言われておりどこまで僕が読み切れるかわからないが、挑戦してみようと思う。ちょうど代数幾何をマスターしたいと思っていたところなので、広中博士の論文を理解することを目指すことはちょうど良い目標になる。しかし何年かかるだろうか・・・。

広中博士の論文は大部であり、非常に重要な論文であるが、論文の良し悪しは量で決まるわけではない。たった数行の論文でも重要な論文はある。例えば今僕の手元にある「ワード・高橋恒等式」が書かれたワード博士の論文は、たった半ページだ。しかし重要な論文であることには間違いない。近年は内容よりも書いた論文の本数で評価されるきらいがあるが、僕は重要な論文が一本ある方がはるかに価値があると思う。大数学者、岡潔は、生涯で数本しか論文を書かなかったと言われているが、岡に対する評価は絶大だ。

専門の論文を読むことは普通であるが、専門外の重要論文を読むことによって得られる知見を大切にすることも非常に重要である。そのような重要論文を手当たり次第に読むことができればよいが、僕の英語力のなさもあってなかなかそうもいかない。ましてやフランス語で書かれた論文となれば、もうお手上げ状態だ。(数学の昔の論文は、フランス語で書かれたものが多々ある。)しかし論文が論文を呼ぶように、着実に手を広げていければと思っている。

今、本を買いまくっているけど、何か?

最近、本を買いまくっている。買っている本のほとんどは数学・物理関係の専門書だけど、周りの人から見ると「そんなに買ってどうするの?」と思われるかもしれない。しかし勝負に出る時はとことん出る!今は本を買うか買わないかが結果に直結すると考えているので、お金の許す限り必要な本はとことん買いまくっているのである。

本をそこまで買うと、消化するのも大変だ。なので必要な所をピンポイントで当たりたいところだが、やってみると最初から最後までマスターしたくなる。なので基本的文献はできるだけ全てをマスターするようにしているが、細分化されたところは不必要だと思われるところは飛ばして必要な所に直接当たるようにしている。

専門書というと洋書が大半だが、日本人にとって日本語で書かれた専門書は貴重だ。僕のような英語苦手人間にとっては、やはり和書の方が圧倒的に理解が進む。昔は「できるだけ洋書で」と思っていた時があったが、今は和書でできるところはとことん和書を参照にして進めている。世界的に見て、英語で書かれた専門書の次に多いのは和書だと聞いたことがある。確かに英語洋書にはかなわないが、日本語で書かれた専門書はかなり充実している。

お金の事を考えても、今本などに投資している何万円というお金を、将来何万倍にして取り返さなければならない。そのための研究に対するビジョンはほぼ固まっている。後は今買いまくっている本を基に細部を詰めていくことだ!

学問は面白い!

学問には二種類ある。一つは実用的価値があるもの。もう一つは純粋に学問的価値があるものである。実用的価値がある学問は分かりやすい。工学などは実用的価値の追究から生まれたもので、役に立つ技術を開発してこそ価値は上がる。それに対して理学(自然科学)は純粋に学問的価値を追究するところから始まり、本来は役に立つかどうかという所から距離を置いた所に存在する。

多くの人は、物事を役に立つかどうかということで判断しがちだ。しかしそのような物差しだけでは理学は存在しえない。哲学も同様である。役に立てるために哲学を追求するということも大いにあり得るが、カントが何かの役に立てるために批判三部作を創作したとは誰も考えないだろう。

しかし一つ注意しなければならないことがある。それは役に立つ科学は役に立たない科学から生まれるということだ。さらに言えば、役に立たない根本的科学の方が、役に立てるために考え出された工学よりも長い目で見れば圧倒的に役に立つということである。即物的工学というものは廃れるのも早いが、根本的科学は何百年と生き残ることになる。

僕は最近、学問の面白さというものを再発見している。それは科学に対してだけではない。哲学や経済学、歴史など、あらゆる分野の学問に対して魅力を感じるようになってきた。学問はいつになってもできる。だからいつになってもやらないか?それとも今すぐにやるか?人の判断は分かれると思うが、今やり、明日もやる。たまには息抜きも必要だが、学ぶというレベルを超えて最先端で学問を構築するプレイヤーになることができれば、物事を見渡す目は大きく変わるであろう。

生命の誕生は偶然か?必然か?

宇宙のある領域に生命が誕生する確率は何%なのか?この問いは地球上に住んでいる人間には難問である。なぜなら、少なくとも地球上には生命が100%存在しており、さらに知的生命体(人間)さえも100%存在している現実を毎日見せられている我々は、どうしてもこの確率を高く見積もってしまう。逆に地球上に存在する生命の現実を知らされていなければ、生命の存在、さらには知的生命体がその領域に誕生する確率は確実に0%と断定するだろう。しかし地球上に生命体、そして人類が存在する事実から、0%とは断言できない。

もし地球と同じ環境の惑星が存在すれば、そこには生命が誕生するであろうか?この答えは三種類ある。一つは100%、二つ目は0%、三つ目はその中間。この答えを出すために実験を行うことは不可能なので、人それぞれ言いたい放題である。しかしこのことの考察は、生命誕生のメカニズムを探るサイエンスにおいて非常に重要な問題である。近年は実験室で原始生命体を作ることに成功したとかいう話も聞くが、実験室と自然環境では設定に大きな隔たりがあり、実験室の結果をそのまま地球型惑星に拡張することはできない。

宇宙のある領域に生命、さらには知的生命体が誕生するかという問いは、「猿はタイプライターでシェイクスピアを打つことができるか?」という問いに似ていると僕は感じる。もし時間が無限にあれば、猿はいつかはシェイクスピアを打つことはできるであろう。しかし時間や宇宙空間は有限である。従って猿はシェイクスピアを打てる確率は限りなく0%に近い。生命誕生の問題も、時間や宇宙空間が無限であれば無限に生命体が誕生する。しかし時間や宇宙空間は有限である。さらにはこの問題の設定に「宇宙の“ある領域”」という制限まで付け加えた。この制限を設定に付け加えた理由は、地球上の知的生命体である人間が地球外生命体と接することが可能であるケースを想定するためである。

とは言え、地球上に生命体が誕生したことは奇跡であることは間違いない。さらには知的生命体である人間が誕生したことは、さらにそれとは比べ物にならないくらいの奇跡である。しかし、現在の人間が進もうとしている道はおかしくなってきていると僕は非常に危惧している。明らかにここ数年で人間の進化のパラダイムは大きな変化を遂げている。この変化が正常進化か?それとも異常への始まりか?このような事を危惧するのは僕が旧人類であるからだろうか?100年後の未来を開拓していく新人類の正常進化に大いに期待している。

突き詰めないと味わえない楽しさがある!

物事を突き詰めるのには多大な労力がいるし、それが好きな事であっても決して楽しい事ばかりではない。時には非常に苦しく、そのような幾たびの試練を乗り越えなければならない。そかしその先にある景色は、それを乗り越えた人にしか見えない。それは決してお金で買えるものではなく、また他人にやってもらうということもできない。

しかし物事を突き詰めた先には、その人にしか味わえない快感があるのだ。その快感を味わうために努力していると言っても過言ではない。それはある意味、アマチュアとプロとを隔てる岸壁とでもいうものだろうか。自分のレベルというのは、連続的に変化していくのではない。途中で必ず断層が生じるのだ。しかしその断層を乗り越えると、意外とその先はスムーズに行くことが多い。

現在は大学に行く人もかなり多くなってきた。しかし、目的意識を持たずに進学することほどもったいないことはない。お金を出して進学するからには、明確な目標を持って勉強に打ち込み、遊びも謳歌しなければならない。勉強をし続けることは生きていく上で非常に重要だが、勉強以外にも生きていく上で重要なことはたくさんある。そのようなこと全てに全力で打ち込み体当たりをすることが重要なのである。

物事を突き詰めた先にある景色を見るために、日々の課題をクリアし次のステージへと進んで行く。人生とはそのようなアクションの繰り返しだと思う。しかしこの繰り返しは決して退屈なものではなく、非常にエキサイティングな挑戦である。

視点の遠近法。

物事を解決するためには二つの視点が大事だ。一つは視点を近づけて物事を拡大してみる方法。もう一つは視点を引いて物事の大局的構造を見渡す方法だ。

物事を解析する時に、多くの人は視点を近づけて見ようとしがちだ。もちろんその方法も非常に有効であり、物事を拡大することによって細部が明らかになり、より詳細な解析が可能になる。しかしそれと同時に視点を遠ざけて全体を見渡すことの重要性を忘れてはならない。

多くの数学分野では、専門をより細分化し詳細な計算を実行するということが行われている。もちろんそのことによって多くの未知の事柄が明らかになり、研究が進むことであろう。しかし新しい分野というのは多くの場合、大局的に物事を捉える事から生まれる。もちろん詳細な計算はどの数学分野でも必須だが、大局的に捉えることなしに重要な結果はなかなか生まれない。

物事を捉えるときは、多くの場合複数の視点を持つことが重要になる。複数の視点を持つことによって物事の本質が立体的に浮かび上がる。三つ、四つの視点を持てればそれに越したことはないが、まずは遠近二つの視点を持つことを心がけなければならない。

物事を解析する目的は、何も数値をはじき出すことではない。数値を出すということは手段であり、最終的な目的は物事の本質を捉える事である。そこを勘違いすると永久に最終的な答えを出すことはできない。

自分には何が必要で、何が必要でないか?

生きていく上で絶対に欠かせないものはいくらかある。そのようなものは何が何でも手に入れなければならない。その一方、必要でないものもたくさんある。そのような必要のないものをいくらか持つことはある意味ゆとりとなるが、無駄なものを極力持たないということは非常に大事な事かもしれない。

僕が一番危険だと思う考えは「もらえるものは何でももらう」ということだ。これがなぜ危険なのか?それは「何が必要で何が無駄であるか」ということを全く認識していないからだ。タダでもらって損をすることはないと思われがちだが、実はもらって損をすることはたくさんある。逆に持たないことによって身軽になることもたくさんある。だから僕は道端でのティッシュ配りも極力もらわないようにしている。

ただ、無駄という曖昧さをいくらか作ることは非常に重要な事である。例えば浪費は極力しない方が良いかもしれないが、いくらかの浪費には意味がある。意味のある無駄と意味のない無駄を判断することが重要だ。

これまでの話に反するようだが、実は僕自身はかなり無駄の好きな人間だ。バカなことが好きであるし、賢い生き方はしたくないと考えている。それはなぜか問われれば、面白い生き方をしたいからである。賢い生き方を否定するわけではないが、面白い生き方をするためにはある程度バカになり切らなければならない。どこまでバカになり切れるか?そういうところにも人間の度量というものが大きく試されている。

身体と精神を高いレベルで保つ。

身体と精神は人間の両輪となって、生きていく原動力となる。しかし体力も精神も歳を取るにつれ老化するのが自然の摂理というものかもしれない。しかし生き方によっては、身体と精神の若さを保つことは不可能ではない。とは言っても、最近話題のアンチエイジングとかいう類のものではなく、身体の基礎体力、そして基礎的精神力をいかにして高いレベルで保つかということだ。

身体の若さを保つための特効薬はない。体力を高いレベルで保つためにはトレーニングをするしかない。ただしジムに行く必要は全くない。むしろジムなどというものには行かないということが重要な秘訣かもしれない。筋トレなどのトレーニングは、家でいくらでもできる。ダンベルさえあればいくらでも腕を鍛えることができるし、腕立て伏せ・腹筋をすればほぼ盤石である。さらに電車に乗る時に、駅の階段を二段飛ばしでダッシュすれば下半身も鍛えられる。プロスポーツ選手であればお金を払いジムに行って何時間も鍛える意義はあるが、我々一般人がトレーニングするに当たっては、いかに隙間時間を使って効率的にトレーニングするかとういうことが重要になる。そう考えればジムなどには行かない方が良いことは明らかだ。

精神の若さを保つためにはどうすればよいか?これも特効薬はない。しかし体力を保つためにトレーニングが必要なように、精神力を保つためにもトレーニングに当たるものがある。それは「挑戦」だ。常に未知のものに挑戦し、前に進むか。精神力を保つためにはこれしかない。多くの人は老化によって挑戦を避け守りに入ってしまう。しかし挑戦こそが最大の防御だとも言えるので、挑戦することにデメリットはほとんどない。確かに挑戦にはリスクというデメリットは付きものであり、挑戦せずに立ち止まるか、挑戦をして三歩進んで二歩下がるか、どちらを選ぶかは人それぞれであるが、僕は常に後者を選択することを心がけている。

今の僕は身体も精神もかなり若返っている。体力と精神力のどちらが欠けても最高のパフォーマンスを発揮することはできないと僕は考えている。確かに身体と精神力を高いレベルで保つためにはそれなりのトレーニングが必要だが、特別困難な事ではないと僕は思っている。自分の思考パターンの改善一つで身体と精神を高いレベルで保つことが可能になる。