投稿者「木原 康明」のアーカイブ

権力や政治力ではなく、実力で!

権力者が備えているべき力、それは実力である。しかし現実はどうやらそのようではない。政治力によって権力者になる人も多い。もちろん実力を発揮して上にのし上がる人も多いが、政治力だけによってのし上がれる世界というのは多くの場合歪んでいる。

もちろん政治力が全く悪かと言えばそうではなく、政治力が重要な実力になる世界もある。特に大きな組織では政治力によって組織の調和と調整を行うということが重要であることが多い。しかし例えばスポーツの世界では政治力などはほとんどいらないし、学問の世界でも厳格な実力の世界であるべきだ。しかしどのような世界でも政治力を持つ人が一定の力を得るという構造が見られる。

しかし例え政治力が必要な世界でも、初めは実力を磨くべきだ。技術者なら技術を、そして社会においても社交力や知識などを身に付けて行くべきだ。もちろんそれぞれの世界で必要になる力はそれだけではなく、実際はあらゆる力の総合力が必要になる。

ある一部の分野では世襲というものが根強く続いている。それはそれでいいのかもしれないが、僕はそのような世界とは対極的な位置にいる。そのようなポジションで生きている人間にとっては、付けるべき力は政治力ではなく実力である。実力の世界というものは非常に面白くエキサイティングだ。初めは何も約束がされていない。そのような地点からスタートしどこまで世界の本質に潜り込めるか?全ては自分の力にかかっている。あとは自分の意志をどこまで貫けるかだ!

自分を打破する!

無意識の内に自分で自分を束縛していることがよくある。自分を束縛することは暴走を防ぐというわずかなメリットもあるが、前に進むことを防いでしまうという大きなデメリットがある。これは大きな目標に向かって前進しようとする者にとっては致命的である。そのような束縛を打破することは緊急の課題である。

では自分を打破するためにはどうすればいいか?一つは意識を改革しなければならない。簡単に言うと、守りから攻めへの転換である。日常において自分を守ろうという過度な意識は、結果的には自分の可能性を消滅させてしまう。特に保身をすることは自滅へとつながる。このことは普段のテレビニュースを観ても明らかであろう。過度な守りは自分を守ることもできないのである。

その一方、「攻撃は最大の守りである」という言葉があるように、常に攻め続けないと自分を存続させることもできない。つまり攻めと守りというのは明確に分かれている訳ではなく、お互い常に連動しているものなのである。守りのための守りではなく、攻めのための守りという未来志向の動きに出なければならない。

今の悶々とした現状をどう打破すべきかと常々考えているが、そのためにはあらゆる意味で攻めを意識した行動に出るしかないと思う今日この頃である。

多趣味!

ここ数年、僕の興味の範囲は広がる一方だ。学問から文化、物や事、あらゆることに対して興味を持っている。これらの事に興味を持つことはある意味「多趣味」とも言えるが、ただ多趣味なことが良いのか悪いのかわからない。しかし現実として現在の僕は多趣味であり、このような自分を否定することもないと思うので、多趣味路線を貫こうかと思う。そして多趣味路線で行くのなら、徹底的に多趣味路線を極めようと思う。ただ、専門の数理物理をおろそかにしてはいけない。数理物理の研究を最優先に行い、それ以外の時間をあらゆる趣味につぎ込もうと思う。

趣味にはお金のかからないものからお金がべらぼうにかかるものまで様々ある。つまりお金をかけ出したらきりがないが、お金をかけなくてもできる趣味はたくさんある。特に学問はお金をかけなくてもある程度の所までは行ける。実験系の学問のように莫大な研究費が必要な学問はともかく、理論系の学問はせいぜい書籍代だけを確保すれば何とかなる。ただしとことん極めようとすれば理論系でもそれなりのお金はかかる。ある意味それだけのお金をかける覚悟というものが問われているのかもしれない。

趣味と欲はかなり相関関係があるように思える。欲があるからこそ様々な趣味に興味を持つことが出来るのだ。無欲(というより無気力)では、趣味に取り組もうという意欲も湧かない。欲に対して否定的な意見を持つ人もいるが、僕は欲は様々な事を成し遂げようとする大きな原動力になり得ると思う。欲によって前進できるのなら、いくらでも欲を持てばよい。欲を持ち、その欲をコントロールすることによって、自分という人間を次のステージへと進めることが出来る。

一つの事だけに集中し、それだけを極めるという仙人のような生き方は非常に魅力的であり尊敬に値するが、多趣味という生き方を極め、あらゆる知識やスキルを身に付けることも素晴らしいことだと僕は思う。多趣味というのも一つの人間性であり個性である。あらゆることに興味を持てるのならば、それを武器として自分を高めていくのも一つの意義のある生き方だと思う。

なぜ一喜一憂しないか?

タイトルに反するようだが、僕はかなり一喜一憂するお調子者だ。上手くいくと喜び、失敗するとその時は落胆する。そのように表面的には一喜一憂することは日常茶飯事だが、本質的な部分では一喜一憂しないように心がけている。ではなぜ一喜一憂しないことが大事なのか?それは本当に喜ぶのは一番大事なことが成功した時だけでよく、また物事の成否は長い目で見て判断することが大事だからである。

僕にも様々な欲があり、いろいろな事を成し遂げたいと思っている。しかし上手くいくこともあれば上手くいかないこともある。僕はそのうちの9割は失敗しても良いと思っている。もしかしたら9割9分かもしれない。しかし本当に大事な一つの事、あるいは二つ三つの事だけ上手くいけばよいと思っている。そしてその本当に大事なことを成し遂げることが出来ればその時に思いっきり喜べばよい。

そのように本当に大事な事に対して喜ぶためには、一つ重要な事がある。それは物事の価値を見分けるということだ。あるいは言葉を変えると、優先順位を明確に付けられるかということである。優先順位を付けることが出来ないと、何が本当に重要で何が重要でないかということが判断できない。

一喜一憂しない冷静さと、本当に重要な事を成した時に爆発させる喜びの両方を持ち合わせることが非常に大事なのである。僕自身はいつもゲラゲラ(ヘラヘラ?)と笑っているが、自分にとって最も重要だと考えている事に対しては誰よりも真剣に向き合っているという自負はあるし、今はその最も重要な事を成し遂げる事に全力を尽くしたいと思っている。

自動車技術の飛躍から、近年の科学技術の発展に関して想う。

最近発売された、新型レクサスESのクラッシュテストの動画を観た。近年の自動車の安全対策には目を見張るものがある。レクサスESのクラッシュ動画には正面衝突、側面衝突など様々な事案が想定されているが、衝突部分は壊れても損壊部分がクッションとなり室内はほとんど無傷である。そのような安全設計になっていることは話には聞いていたが、その安全度は想像以上である。

近年の自動車に関するもう一つの大きな話題は自動運転であろう。テレビを観ていると、自動運転のレベル3において運転手がスマホを操作することも読書することも容認されるというニュースが流れていた。レベル3とはレベル0からレベル5まで6段階ある上から三つ目のレベルであり、2020年の実用化を目指しているという。ただレベル3では緊急時には運転手が運転を変われる状態である必要があり、したがって飲酒や睡眠はできない。

自動車の安全対策と自動運転は切っても切れない関係がある。現在の安全技術の最先端である衝突回避などはそのまま自動運転にも応用できるものであり、安全対策と自動運転は近年の自動車技術開発の両輪である。それに最近は電気自動車の開発が加わる。この三つの自動車技術は未来に向けた研究開発から実用化へと移ってきている。このような急速な自動車技術発展は僕を含む多くの人にとっては予測不可能であったことであり、自動車関係者にとってもここまで急速な発展はおそらく想像できなかったのではないだろうか。

この様な急速な発展を実現できたのは、AIなどのITの急速な発展に起因する。ITの急速な発展も多くの人にとっては予想が出来なかったことであり、それぞれの急速な発展が相乗効果で互いに発展し合うという様相だ。

20年くらい前までは未来の技術に対しての予想はある程度可能であり、大まかにはそのように発展してきたように思う。しかし近年のITの発展は未来を予想することを困難にしているように思う。それほどITの影響は絶大なものになってきている。その一方、IT以外の技術はそこまで急速には発展していないように思う。あるいは大きく発展している場合は何らかのITとの融合によって起きている。

IT以外では、近年は生命科学の発展が大きい。その代表例は、遺伝子編集を行うクリスパー・キャス9技術であろう。遺伝子編集も人類の歴史を変える驚がく的な技術である。近年はそのような華々しい技術分野に目が行きがちであるが、それらの基礎となっているのは数学や物理という歴史のある科学分野であり、そのような基礎分野の地道な発展も見逃してはならない。

新しい学問。

近年、プログラミング教育が徐々に盛んになり、小学校でもプログラミングが授業に取り入れられると聞いた。プログラミングはまだ教科とはなっていないようだが、17世紀にニュートンによって物理学が新しい学問として確立されたように、21世紀の今、プログラミングも一つの学問として成立するのではないかと感じている。

僕自身はそんなにたいしてプログラミングが出来るわけではないが、現代においてプログラミングを知らないと言うことは、日常生活で数学を使わないから数学は必要ないとか海外に行かないから英語が必要ないと言っているのと同じことではないかと感じている。

僕が大学院時代に所属していた学科は数学系の学科だったが、同期にプログラミングを研究していた友人がいた。その友人は国立情報学研究所でも講師をしていたようだが、大学院時代の僕はプログラミングの素養がほとんどなかったので、プログラミングに興味を持つことはなかった。しかし今考えると、そのようなプログラミングを専門としている友人が身近にいたことを活用できたのではないかと悔やんでいる。

プログラミングが一つの学問として成立するためにはこれからより洗練にかつ構築的に構成して行かなければならないとは思うが、プログラミングの学問としての成立前夜の今だからこそ、かなりチャレンジングなテーマが至る所に転がっているのではないかと強く感じている。

情報耐性。

近年の社会は情報の嵐である。もちろん有用な情報も多いが、中には無駄な情報やフェイクニュースなどもたくさんある。そのような情報社会に対してどのように向き合っていくか?そして無駄な情報やフェイクニュースからどのように自分を守るか?そのような情報耐性を身に付けることが求められている。

情報耐性は、無駄な情報やフェイクニュースに対してだけではない。役に立つ情報や必要な情報に対しても、それらに過度に振り回されれば自分というものが確立できない。必要な情報に対してもその情報にどのように対処していくかということは重要である。

情報耐性を身に付ける第一歩として、情報の質を見極めるというスキルを身に付けることが必要だ。その情報の情報源はどこなのか?その情報は信頼できるか?そのような事を判定してから情報の有用性を判断しなければならない。また情報氾濫時代においては、ネットなどの情報をダダ流ししているだけでは知識人とは言えない。情報氾濫社会だからこそ自分独自の知見というものが重要になる。もう、一つ一つの情報自体にほとんど価値はない。

情報耐性を身に付けていないと、人間は社会の操り人形になってしまう。人間というものは、社会に属していると同時に一個人としての独立性も確立していなければならない。しかし現代人はますます社会やネットに対する属性を深めてきている。その証拠にスマホや携帯なしに生きることはできるかと考えると、精神的なネット依存の度合いを容易に感じられるだろう。今一度情報社会との向き合い方を真剣に考える必要があるだろう。

誰のために頑張るのか?

自分は誰のために頑張るのか?自分のためか?誰かのためか?どちらにしても何かを頑張るためには誰かのために頑張ることが必要だ。

最近の僕は、「自分のため」ということに対する比重が大きすぎていた。そのため、過度に自分を守ったり慎重になりすぎることがよくあった。そのような状況を脱出するためにはどうすればよいかと考えると、誰かのために頑張ることが必要だという結論になった。誰かのためとは誰のためなのかと言うと、身の回りの人であったり、もしかしたら世界で苦しんでいる人かもしれない。とにかく他人のために頑張るということが必要なのである。

誰かのために頑張る事と自分のために頑張ることは、異なることではない。自分のために頑張って成功することにより、他人を助けることが出来る。なので他人の事を考える前に自分の事を考えなければならない。そして他人を助けることが出来る人間になれるように精進しなければならない。

誰かのために頑張ることが自分のためになり、そしてそれによって自分が成功することによって他人を助けることが出来る。そのためには心もお金も必要であるが、誰かのために頑張って自分のすべきことを進めて行こう。

「過去に戻る」のではなく、「未来に進む」。

人生40年も生きていれば、過去の良かった時、悪かった時の事を振り返って、「あの頃に戻りたいな」とか「あの頃には絶対に戻りたくない」と思うことも多々ある。しかし現実として過去には絶対に戻れない訳だし、過去に戻るということはある意味「退化」と言える。もし過去に戻ることが「進化」なら、それは逆に言うと現在は退化している訳であるので、問題はかなり深刻だ。

それにしても世の中の進展は速すぎる。スマホなんて数年前の機種はすでに時代遅れだし、社会のシステムもすごい速さで変わっていく。そのような社会システムの進展について行くべきなのか?それともそんなことは気にするべきではないのか?悩むところだが、社会システムを気にしなければあっという間に仙人状態になってしまう。まあ、自分の人間としての軸をしっかりと持っていれば問題ないと思うが、ハイテク社会を素直に楽しめない自分がいる事には自分でも少し腹が立ってしまう。もっと世の中をエンジョイしたいものだ。

そんな僕にも、日常生活の中でエンジョイしているのがファッションだ。とは言っても現在はそんなに余裕があるわけではないので本屋でファッション雑誌立ち読みして色々と妄想するくらいだが、いろいろな面で余裕が出来たらその時は思いっきりファッションをエンジョイしたいと思っている。

社会の流れに身を任せるか?それともその流れに抗うか?そこには人の生き方や思想が大きく表れるとこだと思うが、僕自身はもう少し楽に考えればよいのではないかと反省してしまう。やはり何に関してもエンジョイできる事に越したことはない。しかし時にはストイックに追究することも必要だ。エンジョイすることとストイックに追求することをいかに両立するか?そのような二刀流の達人になることを目指して進んでみよう。

前例と挑戦。

日本は何かと前例にこだわるとよく言われる。前例主義に対しては批判的な意見が多いが、なぜか自分の事となると前例にこだわる人が多い。前例がないから無理だと諦めたり、人のやっていることに対してそんな事は前例がないからやらないほうが良いと助言したりする。とは言え、裁判においては公平性と法律の厳格性から前例を厳守することは言うまでもない。しかし自分の生き方を前例と照らし合わせて決めていれば、それは自分の人生ではなく他人の人生のコピーになってしまう。

前例主義と対比を成す言葉は「挑戦」だと僕は考えている。すなわち挑戦とは前例を打ち破ることから始まる。人生において挑戦を繰り返すことによって、自分の人生に個性というものが現れる。前例にこだわり挑戦ができない人は、自分の軸を確立していないからだ。前例に軸を置くなんてことは裁判の判決でない限りありえない。自分の軸を確立してこそ、その軸が示す指針により挑戦という手段に出ることが出来るのだ。

研究においても、確実な結果を出そうという意識が高い人ほど前例にこだわることが多い。確実な結果を出そうという意識には二種類ある。一つは挑戦のその先にある革新的な結果を出すために確実性を高める事。もう一つは失敗しないための確実性を高める事。前例にこだわるのは後者の方だ。確かに小さいながらも結果を出さないことにはポストにも就けないし、ポストに就けないということは研究ができないということにもつながる。特に生命科学や化学などの実験系では、ポストに就いて実験施設を確保しないと何もできない。しかし幸いなことに、数学や理論物理の研究はせいぜい専門書や論文を入手する資金を確保できれば何とか研究を実行できる。

前例を踏襲するのではなく、良き前例を作っていかなければならない。これを研究の言葉で言い換えると、新たなる流行を作るということになる。流行は追うのではなく作らなければならない。そのためには前例主義から脱却して挑戦を繰り返していくしかない。そしてどれだけ失敗を繰り返してきたか?失敗の数は恥ではなく勲章の数である。多くの失敗を繰り返さないと大きな成功はありえない。失敗ドンと来いだ!