投稿者「木原 康明」のアーカイブ

評論家とは究極的に無責任な存在だ!

今メジャーリーグで大谷翔平選手が爆発している。打者としての爆発が目立っているが、投手としても半端なくレベルの高いプレーをしており、ただ単にリリーフ陣の崩壊によって勝ち星がなかなか付かないだけのように見える。現在どの評論家も大谷選手の事を手放しで褒めたたえているが、二刀流の挑戦を始めた時の評論家の発言はどれも酷いものばかりであった。代表的なもので言うと、「そんなに甘くない」「どっち付かずになってしまう」と言ったものであろう。そしてそのような発言を今見返した時、あらゆる意味であきれ返ってしまう。それは大谷選手の活躍を見通せなかったからではなく、そのような発言を見た時、どれもド素人でも言えるような発言しかしていないことに驚きあきれ返ってしまうのである。もし元プロ野球選手の評論家なら、あらゆる側面からの分析によって評論してもらいたいものであり、そのような分析でも予見できなかったとなれば我々も納得し、大谷選手の凄さをさらに実感できるのである。そう考えれば、上の二つの発言のような評論は、超ド素人レベルの超無責任発言にしか思えない。

もちろん、これまで誰もやってこなかったようなことに挑戦・開拓する人に対しては、無責任な批判はつきものである。そしてもし失敗すれば「それ見たことか」と皆が笑う。なので新しいことに挑戦・開拓する時は、困難は取り組む対象だけでなく、世間の白い目とも戦わなければならない。世の中と言うものはしばしば不条理だと言われるが、しかし不条理が世の常だからと言って平気で無責任な発言をする人に対しては僕は怒りを隠せない。僕も今、数理物理(数学・物理)の研究で、誰もが成し遂げなかった(誰も取り組んでこなかった?)ことに挑戦している。そして結果を出せる自信は大いにある。しかし周りの目はかなり冷ややかだ。確かに今までの過程を見ると、そう思われるのは仕方ないのかもしれない。しかしこれまでの過程、これまでの人生に関しては人それぞれ特有の事情があり、これまで上手くいかなかったことに関してもその人の事情があるのである。しかし今までできなかったからと言って、それはこれからもできないと言う理由にはならない。もちろんこれまでずっと成功できなかった人のほとんどは、これからもできる見込みはないと思うのが常識なのかもしれない。しかしその人の常識を他人にまで押し付けるのはやめてほしい。さらに言えば、挑戦もしない人が人の挑戦に対して否定するのは明らかにおかしいしバカバカしい。それこそ無責任の極致である。

だいたい百年に一人の人間になろうとする人は世の中にはほとんどいない。しかし百年に一人の人間になろうと努力している人に対して外野から非難するのは究極的に卑怯でもある。大谷翔平選手は百年に一人の選手になろうと挑戦しているのである。並みの元プロ野球選手にはそのような事を全く理解できないのかもしれないが、超一流メジャーリーガーのイチロー氏は大谷選手がメジャーに挑戦する時「大谷は打者ではホームラン王を取れる可能性があるし、投手としてはサイヤング賞を取れる可能性がある」と二刀流を後押ししていた。やはり超一流の選手の事は、超一流の選手にしか理解できないのかもしれない。

結果を出すまではバカと言われ続けられるのかもしれない。ならば結果を出せばいいのだ。結果を出してしまえば誰も文句は言わない。僕も今、大きな挑戦をしている。そして結果を出すまではバカと言われ続けることを覚悟している。しかし結果を出すことは僕にとってゴールではない。それは僕の人生、そして研究者としてのスタートであると考えている。結果を出して満足するのではなく、結果を次のさらに大きな結果へと繋げなければならない。そして僕は死ぬまで挑戦し続ける覚悟である。

本!本!本!

最近、かなり調子が乗ってきた。僕が調子が良い時は、一つの顕著な傾向が現れる。それは本を買いまくると言う事だ。とは言っても、数十冊も買う訳ではない。しかし数学書や物理学書などの専門書は一般の本に比べてかなり高額になる傾向がある。なので数冊買っても一万、二万円を超えることはよくあることだ。なので漫画で言うと二十冊分くらいの額になるのではないだろうか。

最近調子が良いことをいい事に、先日も本を数冊買ってしまった。僕は普段はそんなに浪費する方ではないが、専門書になると途端に金銭感覚が狂ってくる。ではなぜそのような事になるのか?それは本を買うことは自己投資だと考えているからだ。一般の人でも自己投資だと言ってお金を出すことはよくあるだろう。そしてそれらの人はおそらく僕が本に投資をする額よりも高額の投資をしていることが多いと思う。そう考えると、僕が本に自己投資するお金は極端に高額ではないのではないかと僕は思っている。

そこで最近、本をどのように買っているかと言う事を少し書こうと思う。おそらく最近は、多くの人がAmazonで本を買っていることだと思う。僕自身もここ十年くらいはAmazonで買うことが非常に多い。特に専門洋書は一般の本屋では売っていないので、Amazonで買うしかルートがない。なので数学や物理の専門洋書はAmazon一択であるが、専門和書についてはAmazonかジュンク堂の店舗のどちらかで買うことが多い。特にジュンク堂などの店舗で買うメリットは、本の実物を手に取って確認できることだろう。そして最近本屋がどんどん潰れていると言われて久しいが、そのような本屋の実店舗を支援する意味合いでも、店舗で買えるものは店舗で買うことにしている。もちろんそのような本屋を応援する意味合いなら、街にある小さな個人書店などで買う方がいいのかもしれない。しかし個人書店では専門書まで置いているところはほとんどないのが現実である。

最近、楽天経済圏に参加し始めた。楽天銀行に口座を作り、楽天カードも作った。そしてスマホの二回線目としてiPhoneのesimに楽天モバイルの回線を入れた。そのような事をすると、楽天市場でのポイント額がかなり上がったのである。なので書籍もAmazonで買うより楽天ブックスで買う方がかなりポイントが付くのである。なので最近は専門和書を買う時はAmazonから楽天ブックスにシフトした。これからは楽天ブックスにはかなりお世話になりそうである。

余談だが、ジュンク堂を利用する時はジュンク堂のアプリである「honto with」が便利である。Amazonで品切れ(絶版)になっている本でもhonto withなら全国のジュンク堂書店の在庫を確認でき、近くの店舗に取り寄せることができる。僕は最近よくこの機能を利用している。

とにかく、本は思考的活動をする上では欠かせないものである。学問を研究しようと思えば、本や論文は必須である。とは言え、確かに僕のように本を買いまくる必要はないのかもしれない。しかし本を買いまくるのが僕の研究スタイルである。もちろん専門(数学・物理)以外の本も買いまくっている。とにかく本と言う存在は僕の心を非常にワクワクさせてくれるものである。

立ったままの河野太郎氏。腰痛であるとのことだが。

国会の委員会での答弁での事だが、河野太郎氏は答弁を終えても席に戻らず、立ったまま受けると言う場面があった。普通はそのたび席に戻り官僚からのメモを受け取るなりして準備するのだが、立ったまま席に戻らないとなるともちろんそのような事はできない。すなわち河野氏はその場その場で質問に対して即座に考え答えなければならない。今回は腰痛で椅子に座れなかったとのことだが、それはともかくこれにはもちろん政治家自身の資質や才能がもろに現れる。河野氏はそのような場を難なくこなしていた。

以前僕は、「河野太郎氏は信用するに値する政治家だ」と述べた。そして今回の河野氏の答弁を見て、その確信に誤りはなかったと感じた。もちろん河野氏以外の政治家でもそのような受け答えをできる人はいるだろう。しかし様々な事を総合的に考えると、河野太郎氏こそ総理に最もふさわしい人物だと僕は実感している。

僕が今信用している政治家は二人。石破茂氏と河野太郎氏だ。そして現在の立ち位置などを考えると、河野氏こそ首相にふさわしく、また最も首相の座に近い人物ではないかと僕は考えている。河野氏は頭脳だけでなく、海外に対する様々な振る舞いなどを見ても怯むことなく明確に答えを出し対応している。そのような河野氏を見ていると頼もしくも思えてくる。

現在、五輪を開催すべきか中止すべきかと言う事で国内が揺れている。しかしさらに踏み込むと問題は五輪そのものではないと僕は考えている。問題の本質は、様々な決定権を持つ首相がどのように考えどのように結論を出すかだ。しかし現在の無策無能総理のままであれば、五輪を実行しようが中止しようが良くはならないと僕は考えている。なぜなら実行するにしろ中止するにしろ、単に決定すればよいと言う問題ではなく、様々な過程を経て様々な対処をしなければならないからだ。なのでそれを誰がするかと言う事が重要になる。もし河野氏が首相であれば、五輪を実行するにしろ中止するにしろ良い結果をもたらすだろうと僕は考えている。今後、河野太郎氏首相待望論が沸き上がって来る事は間違いないと僕は考えている。

現状打破!

最近、いやそこそこ長い期間だったが、僕はかなりの不調であった。なんとなく勢いがない。鈍い。そのような状態が続く中、僕は何とかこの状態を脱出しなければならないと考えていた。これまで様々試行錯誤を行ってきたが、解決には至らない。そして次にどうしようかと考えた時、最後の残ったのが生活の一部を思い切って変更する事であった。長年、いや、かなりの長期間続けて来た習慣を思い切って変えることにした。これまで必要だと思っていた習慣を変えることはかなりの勇気と覚悟がいるものだ。もしかしたらそれが凶と出るかもしれない。しかしもし良くなる確率と悪くなる確率が半々なら、その良くなる半分に懸けてみるしかない。しかしそれが良い方向へと向くと、僕の調子はかなり上がると感じていた。なので僕はそのような習慣を思い切ってやめることにした。

すると結果はすぐに表れた。全てが明快に見える。これならこれから良い方向へと向かい、結果も近いうちに出せそうだ。今取り組んでいる数学(数理物理)の問題がある。その問題にはここ数年取り組んでいるが、調子も良くなったこともあり、解決への見通しがついてきた。よし、結果が出るまで頑張ろう!

僕は学生時代は数学と物理だけをやっていれば良いと思っていた。もちろん今でも生活の中心はこの二つである。ただこの二つの重心は変わってきた。昔は物理の方に重心があったが、最近はかなり数学寄りになって来ている。その理由は、科学の本質がよりはっきりと見えるようになってきたからだ。科学の本質を追求して行くと、最終的には数学にたどり着く。それが僕のたどり着いた結論だ。

そしてもう一つ変わったことは、昔は数学と物理だけしか眼中になかったのだが、今はあらゆる学問に興味が出てきたことだ。科学分野でも生物学、化学、そして医学、コンピューター科学。科学以外でも歴史学、経済学などあらゆる学問が面白い。もし新しい興味を発見したらどうするだろう?その対応は大きく二つに分かれる。一つはこれまでやっていたことを止め、新たな対象に取り組む。もう一つはこれまでやっていたことに加えて、新しい対象の取り組む。そして僕は後者を選択した。なので面白い対象が次々と加わって来るので、やることが膨大になってくる。社会の定石は狭い部分に特化してまず小さな結果を出すことであろう。しかし僕はそれに完全に反旗を翻している。全てで結果を出すことに邁進することにした。もちろん全てで結果を出すことには膨大な時間がかかるであろう。しかしそんなことはお構いなしだ。面白いと思ったら何でもやるのである。そしてそれらの事で結果を出す自信はある。とは言え、根幹は数学と物理にあることには変わりない。

人間が人間である所以は何か?それは自分の頭で考えることである。なので人間は自分で考えることを放棄したら終わりだ。今巷ではAIが話題になっている。僕はディープラーンニングなどのAIのメカニズムを理解することは重要だと思っている。しかし自分で考えることをAIに丸投げすることは絶対に違うと考えている。なので僕は自分の頭で考えることにとことんこだわる。しかし社会はどんどんAIに任せようと言う方向へ向かっている。その先にあるのは人類の没落、そして滅亡ではないか!AIの開発をするのが技術者の仕事なら、AIにとことん抵抗するのは科学者、そして知識人の使命ではなか!そのためにはAIとは何か?と言う事を知りつくさなければならない。AIを知らずして、AIに抵抗できない。なのでAIの事を理解していない人ほど、AIで全ての事が解決できると思い、AIに全てを丸投げしようとする。

これから科学者、そして知識人はどうあるべきか?ただ目の前の狭い問題だけを見るのではなく、幅広い視点て包括的に物事を捉えるべきではないだろうか。

「プロ論」・大坂なおみ選手の発言について考える。

プロテニスプレイヤーの大坂なおみ選手が、試合後のインタビューを拒否すると宣言して物議をかもすことになった。テニスに限らず、確かに様々なインタビューを見ていると的外れな質問も多く、中には選手自身の人格を否定するものも存在する。そのような状況を考えると、大坂なおみ選手のようなトッププレイヤーが訴えかける事は非常に意義がある。しかし、インタビューを完全に拒絶するのは全く違うと僕は考えている。インタビューを受けることもプロ選手にとって試合を行う事と同じくらい重要な事だと思うからだ。それはなぜか?プロ選手がお金を稼げるのは直接的には体を動かしてプレーしているからではない。選手がプレーしている姿を“客やファン”が応援し、それに対してお金を投じているからだ。ファンがテレビを見ていることもスポンサーを通じてお金に変換される。そして一部のスポンサーが選手に多額の契約金を払えるのは、テレビなどに映る自社のロゴや使用している自社製品が広告となるからだ。決してプレーしている行為自体がお金を生み出しているのではない。そう考えると、インタビューも多くのファンが楽しみに注目しているのであり、それもプロとしての立派なプレーの一部と言える。

僕が大学院時代にお世話になった数学者は、当時の僕にとっては意外に思えることを言っていた。それは「自分は数学の研究によってお金をもらっているのではなく、(授業やゼミなどの)教育を行うことによってお金をいただいている」と言うものだ。もしかしたらその数学者の研究力について誤解する人もいるかもしれないので付記するが、その数学者は現在、東京大学の教授になられている世界的な研究者だ。確かに数学の研究で結果を出したところで直接にはお金には結びつかない。そういう意味では、教育によってお金を儲けているとは的を得た発言だ。

もし大坂選手が本当にプレーの技術だけを磨きたいのならば、プロになるのではなく客のいないテニスコートで黙々とプレーするしかない。そうすれば誰も口出しする人もいないし、自分の思い通りにプレーできる。しかしもちろんそれではお金は一円も入ってこない。どれだけ最強であっても、客の前でプレーしなければスポンサーもつかないであろう。すなわち大坂選手の言っていることは、「義務を果たさずに権利だけ主張している」と言える。

そして最後に大坂選手のメンタルについてだが、問題発言後になって、大坂選手がうつ状態だと言う事が言われるようになった。そのことについてはもちろん気の毒であるが、しかしプロ選手にとってメンタル面のスランプが体のケガとは別物だと言う訳ではない。もし大坂選手がうつで不調なのならば、療養などして万全の調子になって戻って来てほしいと願っている。プロの世界でうつだから大目に見てくれるなどと言う事は全くないのである。そこは自分の力で、そして時には他人の力も借りて這い上がって来るしかない。大坂選手は強靭な体を持っており、そして強靭な精神力の持ち主だ。それは大坂選手の実績が示している。ここまでかなり厳しいことを書いてきたが、僕自身も大坂選手の大ファンであり、これからもグランドスラムを制覇するような活躍をすることを強く願っているし、応援もしている。大坂なおみ選手、頑張って!

河野太郎氏は完全に信頼するに値する政治家だ!

一週間ほど前、ワクチン接種推進担当大臣の河野太郎氏は、ワクチン予約の混乱について「完全に僕の失敗だ」と自身の失敗を認める発言をした。この発言を聞いて、僕だけでなく多くの人はこう感じたに違いない。「この人は信頼するに値する人間だ!」。自身の失敗を率直に認め、河野氏はこれからの政策改善に向けて大いに進んでくれるだろう。このような河野氏の姿に対して、どうしてもこの人と対比してしまう。菅氏だ。菅氏は保身に終始して、会見に対してもろくな受け答えができない。そして自身の失敗を一切認めようとせず、責任を全て周りの人間に押し付けようとする。聞こえの良い言葉を発しては、それをどのように実現するか?と言う策に関しては一切ない。そして追い込まれて決めたことに対しては、「誰々が言ったから」と全く無責任な発言をする。本当にこんなにも無策無能の総理は生まれてこの方見たことがない。酷かったと言われる民主党政権下での鳩山・菅(カン)政権でもここまで無責任ではなかった。僕自身、これまでは基本的には自民党政権を支持してきたが、菅政権下での自民党は全く支持できない。

このような事態の中、河野氏の立派な発言を聞いたものだから、河野氏が救世主のようにも見えてくる。これまで僕は石破茂氏を支持していると公言してきたが、これからは河野氏も積極的に支持していこうと思う。人間と言うものは、たった一言の発言に人間性が現れるものだ。河野氏の発言は、国民受けを狙ってのもののようには全く感じない。いや、そのような事を考えるのならばむしろ自身の責任を否定したはずだ。そして例えそれが考えて用意した言葉であるのならば、政治家としては非常にセンスのあるものだと言える。どちらにしろ、自身の責任を率直に認める河野氏の姿勢は、近年の政治家には全くなかったものだ。とは言え、人間性だけで政治ができるわけではない。しかし河野氏は政治政策能力も十分に持ち合わせていると僕は感じている。

安倍首相は政策実行能力は非常に高かったが、森友・加計問題で大きく信用を失った。それは自身の失敗を全く認めようとしない姿勢に由来する。そして菅氏は政策実行能力が全くないうえに、失敗を全く認めない所だけは安倍氏を引き継いでいる。しかしこれまで菅氏を持ち上げて来たマスコミにも責任はある。実家がイチゴ農家だから人柄が信用できるとかさんざん持ち上げて来た。それによって総理就任当初は支持率爆上げであった。しかし僕は、菅氏の総理就任数日後に「菅政権は間違いなく短命に終わる」と言うブログ記事を書いた。それにはしっかりとした根拠がある。それは、菅氏の官房長官時代の仕事ぶりをしっかりと見ていたからだ。しかし多くの人は、菅氏の官房長官時代の仕事ぶりを見て総理もしっかりと務まるだろうと考えたのだろう。しかし僕の結論は全く逆だった。確かに菅氏の官房長官時代の仕事ぶりはまさしく特筆すべきものであった。しかしそこには菅氏の意見や展望が全く見えなかった。官僚の作り上げたシナリオを読み上げるだけだと感じたのだ。確かに二番手ならそれでいい。そして菅氏は有能な二番手だったと言える。しかしトップに立つべき人では全くなかった。トップは指示を出す側の人間であり、全ての最終判断を下さなければならない。しかし菅氏は官房長官時代には、少なくともそのような事をした記憶はなく、そしてそれができるようには到底思えなかったのである。

これまで僕は石破総理を待望していたが、今の石破氏の置かれた立場を見ればそれはかなり厳しいのが現状である。しかし河野氏は現時点で総理を狙える位置にいる。それならば河野氏には次期総理に積極的に挑戦してもらいたい。僕自身も河野太郎総理を待望している。そしてそれの実現化はかなり近い未来にあると僕は考えている。

スマホから便利さを考える。

スマホがますます便利になり、現在ではスマホは社会インフラとまで言われるようになっている。僕自身もスマホをかなり駆使しており、スマホを使いこなしている部類に入ると思う。しかしその一方、「通話とメールだけできればいいのではないか」と思うこともたまにある。実際二十年以上前までは携帯電話さえ普及しておらず、メールなどなくても特に不便だと意識することもなかった。しかし現在は、スマホがないと生きて行けないと感じる人も多いと思われ、スマホは便利さの象徴となっている。

しかし「便利である」と言う事と「良い」と言う事は全く違う概念だ。しかしいつの時代もそうだが、科学技術が発展して便利になることが正義だと捉えられ、技術者たちは特に疑問を抱くこともなく便利さを追求して行っている。しかしITに関して言っても、ネットワークが高度になればなるほどサイバー攻撃なども急速に増え、その対策が急速に重要性を増してきている。そう考えれば、便利さを高めるために開発しているのか?それともサイバー犯罪を防ぐために開発しているのか?もちろん両方とも大事なのだが、技術開発の本来の目的がゆがんできているようにも思える。

ITだけではないが、技術者は「便利な世の中を作るため」と言う正義を掲げて突き進んでいるが、僕にはそれは単に技術者のエゴではないかとも思えてくる。そのような状況は、戦後の核開発にも似ている。もちろん核開発が便利さをもたらすとはほとんどの人は思っていないが、しかし核を開発すれば他国も核を開発し、脅威も増してくる。それはITの発展とサイバー攻撃の高度化にも似ている。

僕が中学生の頃、雑誌で「未来はどうなっているのか?」と言う特集があった。そして友人同士でも「将来の世の中はどうなっているのだろう」と言う会話をすることも少なくなかったように思える。しかし現在「未来はどのような世の中になっているだろう」と言う会話をすることはほぼ皆無であり、雑誌で50年後の世の中を予想するなんて記事も全く見かけない。そもそも現在において、10年後の世の中を想像することも困難である。5年後なら「自動運転車が実用化して・・・」などと言う予想を何とかすることができる。このような状況は果たして正常なのか?異常なのか?そもそも想像もすることもできない10年後の世界が存在するのだろうか?そもそも自分たちが想像もすることができない社会を無批判に作り上げていくことが正しいのか?僕はこのような現在の状況を非常に危惧している。

考え方が老いている人が退かなければならない。

社会ではよく「若い人に道を譲るべきだ」と言われる。ではそこで言う「若い人」とは何を指して言っているのだろうか?ほとんどの場合、年齢の若い人と言う意味で言っているのだろうが、僕が思う若い人と言うのは単に年齢だけの事ではない。考え方が老いている人、つまり精神的に老いている人、そして惰性で生きている人は例え年齢が若くても若い人とは言えない。その反面、精神的に若くて常にエネルギーに満ち溢れている人はこれからもずっと活躍の場で輝き続けるべきだ。そして最近は「老害」と言う言葉も良く取り上げられる。これももちろん年齢が老いている人と言う意味で取り上げられているのだろうが、やはり年齢が若くても精神が老化していればそれは立派な老害である。

ではいつまでも精神的に若くあるためにはどうすれば良いのか?まずは「守りに入らない事」である。いつまでもリスクを背負いながら挑戦し続ける事、それが精神を若返らせる。惰性で生きるようになれば全ての事においてリタイヤすべきだと思っている。世の中は若い人が作り、若い人が変革させていく。もちろん「精神的に若い」と言う意味である。もちろん年齢が若ければこれからの可能性も大きいだろう。しかし逆は必ずしも言えない。歳を取っているから可能性がないとはならない。例え中年であろうと大きな可能性を持ち続けている人は少なからずいる。そしてそのような挑戦し続ける人が世の中を変えて行くのだと思う。

人間と言うものは見かけだけではわからない。しかし世の中では年齢だけで判断されることが多い。もちろん身体能力的なものは自分で気づかないうちに低下していることも多いので、車の運転免許などはある程度年齢で制限していくのが賢明であろう。それは最近の高齢者による交通事故が物語っている。しかし精神はいつまでも若返らせることができると僕は考えている。もちろん年齢が若い人の方が精神も若い可能性は高い。しかしそれが絶対だとは言えないのが人間と言うものだ。一部ではあるが精神的にバイタリティ溢れる老人もいる。単に年齢が若いだけの人は、バイタリティ溢れる中年や老人に道を譲るべきだ。

年齢を若返らせることは完全に不可能だ。しかし精神を若返らせることは常に可能であり、それはその人本人の生き方考え方にかかっている。確かに歳を取って惰性で生きるのも一つの生き方かもしれないが、そのような人は年齢にかかわらず即刻隠居でもしてもらいたい。世のなかは常に若い人達のものだ。年齢にかかわらず!

非難を受けながら開拓していく。

開拓者と言うものは往々にして非難を浴びるものだ。もちろん結果を出せば皆黙るのだが、結果を出すまでは精神的に非常に苦しい状況に置かれる。そのような非難を浴びた開拓者として思い浮かぶのが、メジャーリーグへの道を切り開いた野茂英雄であろう。野茂氏もアメリカに渡る際は、ほとんどの日本人から絶対に通用しないと非難を浴びた。しかしそのような声も数か月もすれば消えて行く。皆を黙らせたのは紛れもなく野茂氏本人の活躍である。野茂氏の場合もそうだが、周りの人と言うのはほとんどがかなりいい加減だ。野球で言うと、新庄氏の時もそうであった。開拓者と言うものはほぼ例外なく初めは叩かれる。そこを切り抜けるためには結果を出すしかないのだ。

プロ野球には1軍と2軍、そしてチームによっては3軍がある。しかし2軍と言えどもプロ契約をしているプロ野球選手である。そのようなプロ野球選手でさえ2軍から1軍への切符を掴めるのは一部である。増してやプロでない立場に置かれている人がプロの1軍で活躍するのは絶望的に困難だ。しかしそれは周りから見た目であって、選手本人は自分の実力を誰よりも認識している。なので自分の力に自信がある人は、周りの人が絶対に無理だと言っても挑戦して結果を残すことが往々にある。あるいは現在はケガで一時的に活躍できない状況なのか?一時的な不調なのか?それは自分が一番よくわかっている。逆に周りの人が絶対に大丈夫だと言っても、自分に実力がないことを認識している人は結果を残すことは無理であろう。

ではスポーツと学問は全く違うのか?僕はそうではないと思っている。学問において自分の実力をどう判断するのか?その一つに「ビジョンを明確に描けているか?」と言う事がある。ビジョンとは結果を出すまでの道のりである。なのでビジョンを明確に描けていれば、後はそれに従って進むだけだ。もちろんその途中では想定外の事に多く出くわすであろう。そう考えれば想定外の事に対する対応力と言うものは非常に重要なスキルであろう。では想定外の事を乗り越えるためにはどうすればいいのか?それは全てを前向きにとらえるしかない。失敗をポジティブに捉え、次のステージに進むための糧にするのだ。そう考えることができれば、人々が失敗だとネガティブに捉えることでも全てポジティブな現象に変換できる。

今の僕は超ポジティブだ。周りの人は皆「なぜそんなにポジティブなんだ」と言う。しかし学生時代からの一時期、大きな不調に見舞われたことがあった。はっきり言ってその時は何もできなかった。しかしその時もなぜか「自分はできる」と言う自信があった。今考えるとかなり勘違いだったように思えるが、その時にそう考えて乗り越えて来たからこそ今の自分がある。さあ、次はどんな困難が待ち受けているのか?そして周りの人はどれだけ否定し非難するであろうか?そう考えた時、これから僕が身に付けなければいけないのは心臓に毛を生やすことかもしれない。

僕は同調圧力は嫌いだが・・・。

僕は人間にとってオリジナリティーを出すことは非常に重要であると考えており、またそれが人間の個性そのものであると考えている。なので人と同じことを強要する同調圧力と言うものが最も嫌いであり、日本における一番ダメなところは誰に対しても同調圧力を押し付けることだと思っている。

しかし現在のコロナ禍においては状況は少し違うと思っている。マスクを付けることを求める事、多人数での会食を自粛する事、このようなこともある意味同調圧力だと考えられる。しかし現在の状況下においてマスク、会食問題は人の命にかかわることであり、また人に不快な思いをさせないための究極のマナーだと思っている。なので「自分は同調圧力は嫌いだからマスクはしない」と言うのは完全に違うと思っている。なので究極的に同調圧力が嫌いな僕もマスクは必ず着用し、できるだけ不要な外出を避けている。もちろん人との会食などコロナ禍に入ってから一度も行っていない。

もちろん僕だってマスクをしないで街中を歩きたいし、皆と飲み会も行いたいと強く思っている。しかし周りの人の命、また命に係わるまで行かなくても大きな健康の損傷につながる今のような状況においては仕方のないことだと思っている。コロナ禍に入るまでは、皆がマスクをせずにワイワイと騒いでいた。今では想像もできないことだ。しかしそのような日常を取り戻すことが現在の最大の社会的課題である。

アメリカやヨーロッパでは個人の自由と言うものは最大の価値を持つ。しかし現在のコロナ禍においてはそれが完全に裏目に出ている。欧米の人達も現在は非常時であり、通常時の常識が通じないと言う事を認識した方が良いかもしれない。しかしそれ以上に恐れているのが、コロナ禍後に日本が個人の自由を認められる社会に戻れるかと言う事だ。震災後、日本においては「絆」と言う言葉が多用されることになった。しかしこの絆と言う言葉は、暗に同調を強要することが含まれている。なので僕はこの絆と言う言葉は決してきれいな言葉ではないと思っている。言葉もそうだが、物事を表面的に捉えてはならない。僕は大学時代に所属していた大学の合唱団で、プーランクの「人間の顔」と言う20分ほどの大曲を歌った。この曲は第二次大戦下の究極的な抑圧に対しての抵抗の曲である。そしてその曲の最終章のタイトルは「リベルテ(自由)」である。