投稿者「木原 康明」のアーカイブ

困難は圧倒的なパフォーマンスで乗り越える!

生きていれば、時には大きく危機的な困難に遭遇することがある。そのような時にはつい頭を抱えて悩んでしまうが、悩んだところで抜本的な解決にはつながらないことがほとんどだ。そしてその場しのぎの対処療法的な行動をとってしまうことが多いが、これもほとんどの場合抜本的な解決にならない。

完全な解決にはつながらないかもしれないが、一番大きな解決方法は、本業で圧倒的なパフォーマンスを発揮して乗り越えるということだ。確かに困難の内容と本業は直接関係ないかもしれない。しかし本来取り組むべき本業で力を発揮することこそが解決への糸口になる。ここで重要なのは、単に本業で力を発揮することではないということだ。“圧倒的”な力を発揮するということが一番重要なのである。

日本では、出る杭は打たれると言われ、つい横並び志向に走りがちである。そして適度に上手くやればいいという発想に陥りがちだ。しかし物事を解決するためには、圧倒的な力が必要だ。何となくその場を繕ってしのごうという考えでは抜本的な解決にはならない。解決という幻想を見ているだけである。

圧倒的パフォーマンスを発揮するということは、困難を解決するだけではなく、ピンチをチャンスに変える力を与える。しかしこれは誰もができる事ではないのかもしれない。少なくとも現在所属している組織・グループで圧倒的な存在にならなければならない。それは日本一になるということかもしれない。いや、世界一になるということかもしれない。とにかく圧倒的パフォーマンスを発揮して圧倒的な存在になれば、全ての困難を解決して、それをさらにチャンスに変えることができる。

人生、努力している途中。

高い目標があれば、それを達成しようと努力をするのは自然な事だ。では今までの人生の中で最も努力したことは何だろうか?スポーツとかいろいろあるだろうが、多くの人は学生時代の勉強だと答えるのではないだろうか?もちろん勉強することは非常に建設的な事であり、非常に意義のあることだと思う。しかしその絶頂を「受験」という一イベントだけに置くのは非常にもったいないことだ。

勉強で得たものは受験で合格した後は無用の長物になるのだろうか?そんなはずはない!人生において一貫して意味を持つものだからこそ、勉強は評価されるのである。逆に言えば意味のある勉強をしなければならないということである。学校を卒業し世の中を走っていくにあたって、それまでに努力して勉強したことを武器にして進んで行かなければならない。

人生観というものは人によってさまざまであるが、僕にとって余生という概念はない。百歩譲って余生があるとすれば、それはもう死んだものと捉えて何事にも恐れずに飛び込んで行ける度胸を身に付けるものであると僕は思っている。そういう意味では僕のこれからの人生の中にも余生ができるのかもしれない。

僕には高くて大きな目標がある。それを成し遂げるためには人生常に努力していかなければならないと思っている。今、僕の人生は努力している途中である。

現代社会は、不平等はなくなりつつあるが、偽平等な社会になりつつある。

現代社会では、不平等の是正は急務である。現在でも大きな問題である人種差別から男女差別などは最も是正しなければならないことであるが、そのような大きな問題でなくても是正しなければならない問題は山積みだ。

しかし僕が最近非常に問題だと思っているのが、不平等ならぬ“偽平等”だ。偽平等は平等の顔をして広まってくる。確かに問題のある不平等は是正しなければならないが、今問題なのは“表面的”な平等である。

そもそも不平等を是正するためには、まずそれのどこが問題なのかということを表面化しなければならない。それによって改善の方向性が見えてくる。しかし改善の方向性を示さずにただ不平等を解消しなければならないというだけでは、その先は偽平等になる危険性がある。偽平等は時には不平等よりも危険な存在になり得る。

平等と横並びは似て非なるものである。これを混同してしまえば、多くの発展を犠牲にし、多くの才能と多くの自由を奪い去ってしまう。さらに偽平等が蔓延してしまえば、その先にあるのは監視社会であると僕は考えている。

平等とは肉体と精神の自由をもたらすものでなければならない。人間の思考と行動の自由を束縛する偽平等はこの世の中にはいらない!

コーヒーはお好きですか?

コーヒーは心と体にゆとりをもたらすものだと僕は感じている。朝一杯(僕は三杯)のコーヒーはリラックスをもたらし、一日の活力源ともなる。お酒がなくても生きていけるが、コーヒーがなくなれば僕は生きていけない。完全にコーヒー中毒である。

先日、海外から帰国していた友人とコーヒーを飲む機会があった。1年に一回の帰国ということであるが、数回コーヒー(とお酒)を飲む機会ができた。お酒を飲みながらの話はもちろん非常に楽しいものだが、カフェでのコーヒーを飲みながらの会話も僕は非常に好きだ。お酒を飲みながらの会話とコーヒーを飲みながらの会話の両方を持てたことは、非常に有意義であった。

コーヒーを飲むと言っても、飲む場はいろいろある。家で飲むことや外で缶コーヒー飲むこと、そしてカフェで飲む場合はスタバやドトールなどの廉価なコーヒー屋さんからホテルのラウンジのようなちょっと高級なカフェまで。これらのどの場で飲む場合でも、それぞれ良いところがあっていいものだ。

コーヒーは柔らかいイメージがあるが、時には頭を働かせ、学問の研究の武器にもなる。たかがコーヒー、されどコーヒー。コーヒー一杯の使い方によって自分の生活を変えることができ、また良い人間関係を構築することもできる。

コーヒー一杯に詰まっている僕の想いは、非常に深いものである。

課題を一つ一つ乗り越えていく。

複数の課題を一気にこなすのは、ほとんどの場合無理である。だからまずは一つ一つの課題に真摯に向き合い、乗り越えていくことが重要になる。

乗り越えなければならない課題には、いろいろなものがあるが、大きく二つに分けると、外的環境に対する課題、そして精神的な内面に関する課題であろう。外的環境というものは自分一人ではどうにもならない側面もあるが、自分のアクションによって環境を変えられることも大いにある。自分の置かれた環境に対して周りの責任だと責めたくもなるが、そのような考えを持ったところでほとんどの場合何の解決にもならない。変えられるところから地道に変えていこうという行動を重ねることによって、自分を取り巻く環境が次第に晴れていく。

では、精神的な内面に関する課題をどう克服するか?やはりこれも外的環境と同じで自分の自分に対するアクションを重ねるしかない。しかしもちろんこの場合のアクションは、物理的な行動だけではない。自分の思考や意志に対してのコントロールが中心になる。とは言っても、これはなかなかイメージしにくく、何をどう行えばいいのかなかなかわからないかもしれない。しかし物理的アクションと同じく、このような精神的アクションを行うことは非常に有効的に働く。

肉体と精神は人間の活動の両輪である。肉体によって物理的行動を起こし、精神的活動によって自分というものを確立していく。まずは肉体的にも精神的にも、アクションを起こさないことには何も前には進まない。

良いところはあるが、欠点もある。

自分自身をどう評価しているのか?自分への正確な評価というものは大変難しいことであり、どうしても自分を色眼鏡を通して見てしまう。そうなると当然、自分への評価は客観的な評価とはかけ離れ、高く見積もってしまう。あるいは逆に自分を卑下しすぎて低く見積もってしまうこともある。大事なのは高く評価することでもなく、低く評価することでもなく、正確に評価することである。

では僕自身はどうかと言うと、高めに見積もってしまう傾向にあるように思える。基本的に自信がある。しかし自信を持つに当たって、その根拠がないわけではない。そしてその高みは、自分をそこへと努力して上り詰めようという目標でもある。もちろんその結果に対する評価は周りが行うことであるが、高い目標を持ってそこへと邁進する力は絶対的に必要だと考えている。

では少し見方を変えて、自分の良いところはどこか?また欠点は何か?という問いを考えてみよう。この問いに対する答えは大きく二つに分かれるだろう。良いところはたくさんあるが欠点もたくさんある。あるいは欠点はないが良いところもあまりない。もちろん凄く良い所ばかりの聖人のような人も世の中にはいるだろうし、また悪いことばかりの人もいるだろう。しかし多くの人は良い所と欠点のバランスが取れている。

ではなぜ良いところが多い人は欠点も多いのか?その大きな理由は、このような人は総じて活動的だからと言えるだろう。自分が進んで前面に出るからこそ、欠点を作ることにもつながる。人生で言えば、大きな成功を成し遂げるためには、それを超えるだけの多くの失敗を経験しなければならないということだろう。もちろん、このような論は少し強引なところがあるが、僕は失敗を重ね、そういう意味での汚点をどんどん作っていきたいと思っている。

良いところも悪いところもない「当たり障りのない人間」だけにはなりたくないと思っている。とは言え、もちろん当たり障りのない人間が悪いわけではない。ただ自分の人生観として、どんどん前に出て良いところも汚点もどんどん作り、足跡を残していきたいと思っている。ただ「フェア」な人間でいることは忘れないように心に銘じておかなければならない。

死を意識することと、死ぬことは違う!

何かに関して窮地に立たされた時、死を意識する人は少なからずいるだろう。そのような「死を意識すること」は、僕は非常に重要な事だと考えている。

社会的には、死ということに対して非常にネガティブに捉えられることが多い。もちろん、生きているということは何より貴重な事であり、普段の生活において死を選ぶということはありえない。

しかし僕は、「死を選ぶ」ということは人間に許された最大の権利だと考えている。もちろん、普段はそのような権利を行使する必要はない。しかし自分の心の中で死を選ぶという選択肢があるからこそ、思い切った行動を取り、思いっきり生きれるのだと思う。

近年は医療や生活の質の向上により、ますます長寿社会になりつつある。そのような事を見ると、現代社会は昔よりはるかに生きやすい社会になったと思うかもしれない。確かに表面的には圧倒的に生きやすい社会になっている。しかし果たして本当に現代は生きやすい社会になったのだろうか?社会の表面的な部分、例えば世の中が便利になったとかそういう部分ではなく、人間的な活動を行う上で本当に快適になったのかということを真剣に考えて社会を築いていかなければならない。

少し話は逸れたが、死というものを徹底的に忌避するのではなく、死を意識することによって生を魅力的にしていくということが現代社会には大きく欠けているように感じる。

深い関係と、表面的な関係。

色々な人と深い関係を繋げることはもちろん良いことだ。僕も様々な人と深い関係を築いていければと常々思っている。しかしだからと言って、表面的な関係は悪いことなのかと言うと、僕は最近はそれも悪くないと思っている。例え表面的な関係であっても、それを基に自分を高め、良い環境を構築していくことはできるからだ。また、ビジネスにおいては表面的な関係が幅を利かせることは良くあることだろう。

僕自身はそんなに人間関係は多様ではないし、少なくても心置きなく話せる少数の人たちがいれば良いと考えている。しかし、多くの軽い関係を築くことは僕の重要な課題でもある。

最近の若者は、社会では必要最小限の付き合いしかせずにプライベートを大切にするとよく聞く。職場での飲み会には参加しないという声もよく聞く。そのような考え自体悪い考えではなく、これからは社会全体がそのような方向へと進んで行くのかとも強く思う。

僕は結構情熱的で熱い人間だ。人間関係にどっぷりと浸かることも多々ある。しかしそれが故に、自分で勝手に傷つくことも多々ある。そのような事を考えると、軽い関係を築き、深く立ち入らないということも、生きる上で非常にポジティブに働くのではないかと考えている。

深い関係と軽い関係をその時々で使い分け、それぞれの良いところを取っていければ、精神的にも良い状態を保つことができ、人生が上手くいくのではないかと考える今日この頃である。

プレッシャーの中で、いかに結果を出すか?

このブログでは何度も大谷翔平選手の名前を出しているが、なぜそこまで大谷翔平選手の名前を出すのかと言うと、大谷選手からは学ぶべきところも考えるべきことも大いにあるからだ。そういう意味でも、大谷選手は人間としても素晴らしいものを持っていると思っている。

大谷翔平選手はあらゆる意味で凄い。打者として、投手として、そして人間として、そしてこれからの可能性に関して。はっきり言って、大谷選手の魅力に僕は惚れている。大谷選手に惚れているのは、僕だけでなく老若男女数多くいるだろう。

ここでは、プレッシャーの中でいかに力を発揮するかということを考えてみよう。しかしこんなことを書かなくても、プレッシャーの中で活躍する大谷選手を見れば、それだけでいろいろと得るところはあると思う。

夢を成し遂げるためには、もちろん努力や才能も必要だが、僕は最近忍耐力が重要だと感じている。もちろん、普通の生き方を受け入れてしまえば、そこまでプレッシャーを感じる必要もないのかもしれないし、どうしても耐えられなくなれば逃げればいいのである。しかし、自分で進むべき道を選び、自分の意志でやり遂げると決めたならば、簡単に逃げることはできない。さらに結果を出すまではあらゆるプレッシャーがかかり、それを耐えるための忍耐力が必要だ。

近年、努力だとか忍耐力とかいう言葉は避けられる傾向がある。もちろん僕もそのような事を人に押し付けようとは全く思わない。楽していきたい人は楽をして生きればいいのである。楽して上手く生きる人も世の中には多くいる。だからそのような生き方を選ぶことは決して悪いことではない。なので、努力だとか忍耐力などという言葉は僕のたわごとだと思ってもらっていい。

人にそのような事を押し付けることははっきり言って良いとは思わないが、自分が忍耐力を持って努力し、夢の実現を成し遂げようとすることに対して、人から非難される筋合いはない。しかし気を付けないといけないことは、無思考で努力を行わないということである。無思考での努力は無駄に終わってしまう可能性が高い。なので、努力をする際はその努力を最大限に生かすように十分考え抜かなければならない。

大谷翔平選手の凄いところは、単に努力するだけではなく、徹底的に考え抜かれているところである。野球は体力勝負だという側面は強いが、大谷選手は「知的努力」を貫いている。

僕自身もいろいろ考えてはいるが、まだまだ考える余地は十分にあると感じている。そして知的努力をしながらも、バカになり切ることも必要だと感じている。バカになり切りバカで終わるか?それともバカを乗り越え成功を掴みとるか?後は成功までの構想をいかに実現するかにかかっている。

所属している組織ではなく、自分を語れる人間になれ!

外国の事はよくわからないが、日本では自己紹介をする時に必ずと言っていいほど自分の所属する組織を名乗る。もちろんそれが悪いわけではなく、所属組織がその人の人となりを表すこともあるが、所属組織名を自分の権威付けのために利用する人も少なくない。

組織で活動する人は、大きく二つに分けられる。一つは組織に大きく貢献して、さらに組織の中で力を付け大きく活躍する人。もう一つは自分一人では何もできないがために、組織という虎の威を借る人。前者の人は多くの場合組織に所属しているかいないかに関わらず、独力でも活躍できる人であろう。しかし後者は、組織名を名乗らないと何もすることができない。

僕が最近重要だと思っていることは、組織に所属しているとか所属していないとかに関わらず、基本的スタンスとして独立していることだ。行動的にも精神的にも独立していないと、軽快なフットワークは生まれない。組織に所属している場合は、組織の規約にがんじがらめにならないためにも、独立精神を持っていないといけない。

自分を語る時、属している組織を語らないと何も語れないような人間になってはいけない。組織ではなく、自分を語れる人間になることが重要である。