投稿者「木原 康明」のアーカイブ

なぜ基礎科学が重要なのか?

10月2日(月)からノーベル賞の発表が始まる。文学賞で注目されている村上春樹も気になるが、やはり科学分野3賞がどのような分野に授与されるかは注目されるところである。

ところで、ノーベル賞は基礎科学重視である。もちろん2014年の物理学賞の青色発光ダイオードのような応用分野に授与されることもしばしばあるが、割合で言うと基礎分野への授与が多いのではないかと思われる。

では、なぜ基礎科学が重要なのか?その答えを誤解を恐れずに一言で言えば、「基礎科学の方が純粋に科学的価値が高い」からである。それの対比として応用分野の重要性を一言で言うと「役に立つ」ということであろう。

しかし厄介なのが、この基礎科学の「科学的価値」というものは、なかなか多くの人には理解されない。純粋科学の科学的価値は、数値では表現できないし、言葉でも簡単に表せない。そのせいか、基礎科学を研究している人に対して「道楽だ」という言葉を投げかける人もいる。なかなか基礎科学の重要性をわかってもらえないのが少し悩ましい。

もちろん、応用科学も元をたどれば基礎科学の結果の上に成り立っている。基礎科学がなければ応用科学も存在できない。そう言えば少しは基礎科学の重要性はわかってもらえるかもしれない。しかしそれは純粋に「価値」を理解するのとは少し違う。

ほとんどの基礎科学者は「基礎」を研究していることに誇りを持っている。そして「基礎」の価値と重要性をどこまで理解して受け入れられるか、それは社会の熟成度を大きく示すものである。

できないのが悔しいのではなく、努力できないのが悔しい。

努力してできなかったことは諦めがつくが、努力できないことに対しては非常に悔しいし、情けない。最低限の努力は何ともしておきたいものである。

最近は、根性論だとか精神論を何かと否定する風潮が強い。確かに根性論・精神論を他人に押し付けるのは間違っている。だからと言って精神論が全く不要かと言われればそうではないように思う。ましてや自分自身を鼓舞するための精神論を他人に否定される筋合いはない。

現在は、集団主義から個人主義に移りつつある。そのような個人主義の中で、他人に自分の考えをごり押しするのは確かに間違っている。努力するもしないもそれぞれの自由である。しかしその結果は火を見るより明らかである。

そのような悔しい思いをしないためにも、努力をして悔いの残らないように取り組みたいものである。

健康を持て余すな!

言うまでもなく、健康は最大の財産だ。健康を崩している人はより健康に、そして健康な人はその健康な体を最大限に生かさなければならない。

とは言え、健康を崩している時は健康であることのありがたさを十分に感じるものだが、日常的に健康である人は、なかなか健康であることのありがたさを感じることができない。

しかし、健康であることは最大の武器でもあり、才能でもある。しかし、それを意識せずに怠慢してしまう人間も多い。すなわち健康を持て余しているのだ。

健康を持て余すのは、最大の浪費である。お金の浪費は、大なり小なりそれに見合う授受があるが、健康の浪費は無駄以外の何物でもない。

どの人間でも、100%健康であるという状態はなかなかないかもしれないが、100%でなくても自分が健康であると感じているならば、その健康な心身を最大限に生かして物事に取り組みたいものである。

最後はやはり、自分を信じ抜けるかどうかだ!

「他人の意見をしっかりと聞くことが大事だ」とは、よく言われる。確かに他人の意見が役に立ったとか、それによって成功したとかいう話はよく聞く。しかし他人の意見一辺倒では、自己が入る余地はない。そのような生き方をしても、それは他人の生き方でしかない。

僕は、「失敗してもいいから自分を信じ抜くこと」を大事にしている。上手くいくかどうかわからない他人の意見に従うよりかは、上手くいくかどうかわからない自分の考えに従うことの方が賢明だと考えるからだ。そして、自分自身で出した判断に従えば、例え結果がどうであろうと納得できる。

上手くいかなくてなかなか結果が出ない時、他人の意見に従いすぎて右往左往している人間を見かける。そうではなく、なかかな結果が出ない時こそ、自分を信じ抜くことによって打開策を模索することが大事だ。

最後まで自分を信じ抜けるかどうか、苦しい時こそそれにかかっている。

来週、ノーベル賞発表。これからの日本の科学の行方。

来週月曜日の医学・生理学賞を皮切りに、ノーベル賞受賞者の発表が始まる。受賞者をニュース速報で知るのもいいが、ノーベル財団公式サイト「Nobelprize.org」で、発表の中継を見るのも面白い。この公式サイトはもちろん全て英語で書かれているが、ノーベル賞のこれまでの歴史や特集など盛りだくさんで、結構面白い。

ところでこれからの日本のノーベル賞、もっと広く日本の科学界はどうなっていくのであろうか。最近しばしば忠告されていることであるが、日本の科学の将来はかなり暗い。そのことは、2015年物理学賞受賞の梶田教授や、去年の医学・生理学賞受賞の大隅教授も頻繁に口にしている。

その原因は、日本の「基礎科学の軽視」にある。最近の日本の科学政策は、圧倒的に応用重視だ。役に立つもの、さらに言えば儲かるものに対して、圧倒的に予算が回される。もちろん、ノーベル賞だけが科学ではないが、ノーベル賞は圧倒的に基礎科学重視である。

20世紀まで、日本は圧倒的に基礎科学に対して寛容であった。それが湯川秀樹をはじめとする基礎科学者のノーベル賞受賞につながってきた。

役に立つ科学・儲かる科学の価値は非常に分かりやすい。しかしそれらの応用科学は言うまでもなく基礎科学の下に成り立っているのであり、基礎科学は国家の科学力の基礎体力である。すなわち基礎科学軽視は、役に立つ儲かる科学の衰退にも結び付いてくる。

iPS細胞研究も、元はと言えば基礎科学の研究であった。それが今では再生医療という圧倒的に役に立つ科学に昇華している。

日本人のノーベル賞受賞が続いているとは言え、科学技術立国としての日本の将来は非常に暗い。そのような展望を修正するには、文科省などの科学政策に関わる官僚・政治家の基礎科学に対する認識を変えるしかない。

麻生副総理の発言。

麻生副総理が、朝鮮有事の際の難民発生に関して、「武装難民かもしれない。防衛出動か。射殺か」(時事通信)という発言をしたことが、物議を醸している。確かに麻生氏の発言は極端にも思え、問題がないとは言えない。

しかし現実問題として、武装難民の可能性はないとは言えない。韓国難民が武装するとは考えられないが、北朝鮮国家が意図的に難民に武装集団を潜り込ませることは考えられる。

実際、IS(イスラム国)との内戦で混乱している中東では、ISが難民の中に武装集団を潜り込ませて、意図的に混乱を起こしている。麻生氏はそのような事例を念頭に置いて発言したのだと思われる。

日本政府の首脳として、あらゆる事例を想定して対処することが求められる。そのような想定事例として、北朝鮮が武装集団を難民の中に潜り込ませるということも、可能性としては考えなければならない。

麻生氏の発言は行き過ぎた感もあるが、その一方で万全の態勢を取ることの必要性を訴えているようにも捉えることもできる。

”投資をしない”という選択肢も十分にアリだ。

ここ数年、アベノミクスの影響か、投資熱が持続的に熱くなっている。そのような状況の中で、「投資をするのが賢い選択だ」という風潮が蔓延していることが気になっている。

投資をするのが賢いという考えの裏では、「投資は必ず儲かる」という暗黙の了解があるような気がする。そのような了解のもとで、やみくもに投資へと走っていく事例をよく見かける。

しかし当たり前の話だが、投資をしても必ず儲かるという保証はなく、逆に大幅な損失を食らう人も多く出てくる。ウォーレン・バフェットのような”投資の神”ならともかく、一般の人にとって”投資すべき”という一択にするのは非常に危険だ。投資を”する”と”しない”という二択で考えなければいけないのは当然だ。

投資をしないことは賢くないのではなく、熟考した末で”投資をしない”という道を選ぶのは、それも賢い選択だ。

リーマンショックの頃は、多くの人が損失を食らい、投資の危険さを味わったはずだが、それから数年経ち、そのような危険も全く忘れ去られ、何の前提条件もなしに投資すべきという一般市民が多く出ることは、非常に危険であると感じる。

万人に好かれる方法なんてないんだから。

万人に好かれることばかりを考えていれば、当たり障りのない無色透明の人間になってしまう。しかもその結果、万人に好かれるなんてことにはまずならない。万人に好かれるものと言えば、ビートルズのyesterdayくらいであろう。

人に好かれるかどうかということも大事だが、それと同時に「自分自身が納得できるか」ということも大事だ。自分が納得できないことは、人には伝わらない。自分の口から出る言葉には、自分の人間性、そして生き方が現れている。

さらに言うと、同じ言葉でも、誰が言うかによって、意味合い・説得力が全く変わってくる。無責任な人間の言う言葉には、全く重みが感じられないのもそうであろう。

話しは戻るが、万人に好かれること以上に、「自分がどう生きるべきか」ということを考えなければいけない。その結果として、人に好かれればこの上ない。

日本人にとって”アメリカンドリーム”は覚悟が必要だ。

アメリカンドリームとは、アメリカ大陸開拓時代からある言葉であり、壮大なものである。これまで数々の人間が、このアメリカンドリームをものにしてきた。

しかし裏を返せば、アメリカンドリームにはリスクがあり、金銭的、あるいは身の危険的なリスクを承知の上で突き進まなければならない。

これまで、真の意味でアメリカンドリームをものにした日本人はいないと言われている。その原因は、日本人の性質にも大いに関係していると感じる。

日本人は「石橋を叩いて渡る」という言葉があるように、極端にリスクを嫌うところがある。また叩いても渡れば良い方で、「石橋を叩いても渡らない」という言葉も存在するくらいだ。

日本人がアメリカンドリームに挑むためには、アメリカ人以上に覚悟が必要だ。それはもちろん、地理的な制約もあるだろうし、英語圏ではないという制約もある。もちろん、本当にアメリカンドリームに挑む人にとって、そのような制約など些細なことかもしれないが。

現在では、日本に居ながらでもあらゆるドリームに挑むことは可能だ。だからわざわざアメリカにまで出向く必要なはいのかもしれない。しかし、日本国内規格ではなく、何もかもが世界的スケールで物事が進むアメリカという国は、非常にエキサイティングに感じる。もしかしたら、アメリカンドリームの本質は、金銭的な面以上に「エキサイティングを感じるか」という刺激にあるのかもしれない。

いつまでも笑っていこうと!

悩んでも腹を立てても、ほとんどいいことはない。それならいつでも笑って生きていく方が良い。

僕自身は、かなり喜怒哀楽は激しい方なので、笑う時は思いっきり笑うし、腹を立てるときは腹を立てる。

悩むことが必要な時ももちろんあるが、悩む暇があれば、その分前に進むことを考えたほうが良い。それもびくびくしながら進むのではなく、笑って天真爛漫に進めばいい。

周りの目など、あまり気にする必要はない。僕は全然出来た人ではないので、これからも周りからは非難ゴーゴーかもしれない。しかし、批難されることに対してのネガティブな考えよりも、これから成功した時に対してのポジティブな考えを常に持ち続けて行こうと思う。

僕はいつまでも笑って生きていくぞ!ワッハッハ!