投稿者「木原 康明」のアーカイブ

根っこと先端の両方から攻めて行く。

学問というものは、基礎の積み重ねが大事である。従って学問の知恵というものは一朝一夕では築き上げることはできない。しかし、下からの積み重ねばかりではいつまで経っても最先端の現場にはたどり着けないこともある。そのような時はいきなり先端に飛び出るのも一つの手である。

とは言え、先端に出るためにはある程度の積み重ねが必要であることは言うまでもない。いきなり初心者がプロの中に入り込むことはできない。なので、先端に出るという手はセミプロ以上のレベルになって使える手であると言える。

以上は主に学問に対する話であるが、社会では初めて行うことにおいてもいきなり現場に飛び出ることが要求されることがある。また、「思ったら、考えたら、即実行」という精神が多くの場合大きな成功を生むことになる。そういう意味で、いきなり最前線に飛び出るということは非常に重要である。

学問の話に戻るが、近年のネットの発達によって、最前線の知識を得ることは容易になった。素人でも最新の論文を入手できる。数学や物理においては、最新の論文がarXivというサイトで全て公開されている。数学者や物理学者は論文雑誌に投稿する前にまずarXivにアップすることが通例になっている。時にはポアンカレ予想(幾何化予想)を解決したペレルマンの論文のように、論文雑誌には投稿せずにarXivだけにアップするということもある。arXivは誰でも家庭のパソコンですぐに見れる。非常に便利な世の中である。

基本的文献で根っこから攻め、arXivで先端を攻める。数学や物理ではこのような攻略法が行われているが、このような双方からの攻めはあらゆる分野に適用できることだろう。

苦しみも、乗り越えれば財産になる。

人生は山あり谷あり。楽しい時があれば苦しい時もある。苦しい時は本当に死にたいと思ったりもするが、そのような本当に苦しい時を乗り超えた後ではその苦しみは財産になる。

苦しみを乗り越えるためにはどうすればいいか?その一つの解決法は、「今を見すぎず、未来を見る」ということである。今を楽しむことも大事だが、将来のもっと大きい楽しみは自分に莫大なエネルギーをもたらす。過去にこだわる人に現在はない。そして今を生きる人よりも将来を生きる人の方がエネルギーに満ち溢れている。

僕にはそんなに大した過去はないし、過去を考えたところで何の解決にもならない。しかし僕の未来には大きな自信がある。そして常に未来を生きる人間になることを心がけている。未来に生きると言っても、長生きをするということではない。僕が長生きをするかどうかなんて全くわからない。もし自分の命が長くないのならば、それまでの人生をどう輝かせるかが大事だ。そしてもし長生きをするのならば、その輝きを少しでも長く続けることが大事だ。

人生80年時代と言われているが、その80年が長いのか短いのか?人それぞれだろう。僕は80年は長いと思っている。しかし時間というのは過ぎ去るのは一瞬だ。80年は長いが、長いからと言って何もしないわけにはいかない。なので、未来を生きるとは言っても、まずは今を全力で生きる事がそのための一歩になる。

重要な古典的論文を読む。

研究者の多くは、最新の論文をチェックすることに労力をかけている。もちろん最先端の研究を推し進めるには、最先端の論文から新しい知識を得て、その先を築いていかなければならない。しかしそれは、枝葉の継ぎ足しであって、根幹となる部分の改革にはほとんどつながらないことが多い。

基礎を書き換えるためにはどうすればいいか?そのためには最新の論文ばかりに注目するのではなく、重要な古典的論文を読むことが必要になる。また、少し離れた分野の古典的論文を読むことも時には大きな力になる。最新の論文と重要な古典的論文をバランスよく修得することが必要だ。

僕は最近、重要な古典的論文を読むことを重視している。20世紀には様々な重要な論文が出されてきた。そのような革命的論文を一つ一つ習得していくのは非常に面白い。しかし忘れてはいけないのは、ただ習得するだけではなく次への研究へと生かさなければならない。

僕は最近、全く専門外の論文も読み始めた。例えば、山中伸弥教授のiPS細胞関連の論文などは非常に面白い。ただ専門外の論文には、わからない専門用語が多数出てきたり、その分野での英語の言い回しが分かり辛かったるする。しかしそのような困難も読み続けて行けばわかるようになるのだろう。専門外の人間が生物の実験をするなどということは全く持って無理だ。だからiPS細胞の論文を読むことは趣味の域を全く出ないのが悔しいが、その分数学や物理の専門の分野で力を発揮すればよい。

大型書店に行けば、日本語で書かれた専門書が多数置いてある。さらにAmazonを使えば、洋書も自由に手に入る。論文もネットで入手できるものが多い。そういう意味では、知識を修得するには非常に自由な時代になってきている。多くの知識を習得し、そこから自分の頭を使うことによって“知恵”へと昇華させることができれば、目的のものを構築して行く助けになるに違いない。

専門の王者、総合の王者。

専門の王者と総合の王者のどちらが偉いか?それは人それぞれかもしれないが、体操競技においては床のスペシャリストの白井健三選手よりも、総合の王者である内村航平の方が格が上のようだ。

学問においても、専門に細分化された分野でアクロバチックに凄技を繰り出す人がいる。その一方、物事を大局的に捉え大きな枠組みの中で理論を構成し、時にはその枠組みさえも越えてしまう人がいる。学問の世界でも、前者のような専門のスペシャリストよりも後者のような総合の王者の方がほとんどの場合格が上のようだ。

プロを目指す人は、まずは打ち込む分野において専門家になることが要求される。これは当然の事である。まずはそこに精通して理解を深めることによって、その周辺の知見も広がってくる。軸足を持たないことには全ての事においてブレが生じてしまう。専門を極めることが総合の王者になる第一歩なのである。

「広く浅く」では何も生み出すことができない。広い知識というものは、専門を極めてこそ威力を発揮するのである。「専門はとことん深く、そしてそれ以外の事にも広くそしてある程度深く」ということが大事なのである。そういう意味で、専門の王者と総合の王者はある程度同意語なのかもしれない。

問題を総合的、戦略的に考える重要性。

世の中にはあらゆる問題が溢れ返っている。社会問題、教育問題、国際問題など分野は様々だが、それらに対して場当たり的に対処していてはその場しのぎにしかならず、総合的、戦略的に取り組んでいかなければならない。

それは科学に対する問題でも同じだ。ある問題点が出て、そこだけを計算して数値を出しても、それはただの数値以上のものではない。その部分が全体の中でどういう位置づけか?そしてその問題を解決するためにはどのような道筋を立てるべきか?そのように問題を総合的、戦略的に考えていかないと永遠に穴の中で留まってしまうことになる。

近年の日本の政策を見ていると、何だかその場しのぎで済ましていることが多いように感じる。少なくとも、以前はある程度一貫した主張があったように思えるが、その時代は日本には経済的な余裕もあり、そういう意味では金銭的な基盤がしっかりとしていたから主張もある程度しっかりとしていたのかもしれない。とは言え、海外を眺めてみると、必ずしも金銭だけが物を言うようには思えない。お金が少なくてもしっかりとした主張をする国は存在する。

戦略のない対処は博打でしかない。上手くいけば運が良かった、上手くいかなければ運がなかったというようでは全く話にならない。確かに目標地点へ到達するまではかなりの失敗をするかもしれない。しかし重要なのは最終地点で成功するかということである。そのためには戦略的に物事を進め、途中では戦略的に失敗をし、最後で目標へ到達する。途中結果だけを見て物事を早計するようなことだけはあってはならない。

日本は良いのか?悪いのか?

最近テレビを観ていると、「日本はこんなにも凄い」ということを紹介する番組が多くなった。外国の人たちが「日本が凄い」と言ってくれるのは非常にありがたいが、日本人が自分で自分たちのことを称賛するのはいかがなものかと強く感じる。外国人が「日本が凄い」と言っているのを流す番組もあるが、その番組を企画・製作しているのは日本のテレビ局なので、結局日本人による自画自賛でしかない。

僕は日本で生まれ日本で育ち、生粋の日本人だと思っており、日本が好きだが、日本が本当に良い国か?と問われると、手放しでYesと言えない自分がいる。日本にずっと住んでいるからこそ、日本の良いとこ悪いとこが手に取るように感じる。

とは言っても、どこの国も良いとこ悪いとこはあるのかもしれない。世界で非常に住みやすい国だと称賛されている北欧でも、確かに国民に対する支援は手厚いが、それも高率の税金とのトレードオフの産物だ。どちらが良いとか悪いとかの問題ではない。

日本が本当に良い国か?悪い国か?ということを判断するためには、一度日本を離れて日本という国を外側から眺めないといけないのかもしれない。もし外から見て本当に日本が良い国だと感じたら、その時日本の事を大いに称賛したいと思う。僕の心はどちらに傾くだろうか?

人間としてのメンテナンス。

車や電気製品のメンテナンスが重要であるように、人間もメンテナンスは必要である。中には屈強で全く病院にも縁がなく精神も肉体も常に万全であるという人もいるかもしれないが、多くの人は何かしらのメンテナンスをすることが必要になる。

女性なら美容などのメンテナンスを定期的に受けている人も多いかもしれないが、男性にとっても外見、内面のメンテナンスをすることを忘れてはいけない。ではなぜメンテナンスが必要なのか?それは日々の努力を最大限に発揮するためだ。日々努力している人にこそ、メンテナンスが重要になるのである。

例えば、好きな人と何とか付き合いたいと努力している人は、外見に対してのメンテナンスにも気を配るだろう。また、学問において何とか成果を挙げようと努力している人にとっては、まずは健康であることが重要であるし、精神面でも高いレベルで保たなければならない。

人間としてのメンテナンスはお金が必要であることもあるし、日々の意識の持ちようが大きく影響することもある。何か目標があり、それを成し遂げようと思えば、最終地点だけを見るのではなく、それまでの道のりを考えることも重要である。そしてその道のりの途中の各地点でメンテナンスを施すことによって、道のりを進むスピードも速くなることであろう。

広中平祐の“電話帳”。

広中平祐とは、1970年にフィールズ賞(数学のノーベル賞と言われている)を受賞した日本の大数学者だ。広中博士の専門は代数幾何学。その広中博士のフィールズ賞受賞対象となった論文は特異点解消の大論文と言われているが、あまりにも分厚いので通称“電話帳”と呼ばれている。

僕は最近、過去の重要論文を読むことも大事だと考えているので、広中博士の特異点解消の大論文も僕の専門外ではあるが一読してみようと思い、プリントアウトした。やはり電話帳と言われているだけあって、一つの論文としては異例の200ページ越えだ!広中博士の論文は専門家にとっても難解だと言われておりどこまで僕が読み切れるかわからないが、挑戦してみようと思う。ちょうど代数幾何をマスターしたいと思っていたところなので、広中博士の論文を理解することを目指すことはちょうど良い目標になる。しかし何年かかるだろうか・・・。

広中博士の論文は大部であり、非常に重要な論文であるが、論文の良し悪しは量で決まるわけではない。たった数行の論文でも重要な論文はある。例えば今僕の手元にある「ワード・高橋恒等式」が書かれたワード博士の論文は、たった半ページだ。しかし重要な論文であることには間違いない。近年は内容よりも書いた論文の本数で評価されるきらいがあるが、僕は重要な論文が一本ある方がはるかに価値があると思う。大数学者、岡潔は、生涯で数本しか論文を書かなかったと言われているが、岡に対する評価は絶大だ。

専門の論文を読むことは普通であるが、専門外の重要論文を読むことによって得られる知見を大切にすることも非常に重要である。そのような重要論文を手当たり次第に読むことができればよいが、僕の英語力のなさもあってなかなかそうもいかない。ましてやフランス語で書かれた論文となれば、もうお手上げ状態だ。(数学の昔の論文は、フランス語で書かれたものが多々ある。)しかし論文が論文を呼ぶように、着実に手を広げていければと思っている。

今、本を買いまくっているけど、何か?

最近、本を買いまくっている。買っている本のほとんどは数学・物理関係の専門書だけど、周りの人から見ると「そんなに買ってどうするの?」と思われるかもしれない。しかし勝負に出る時はとことん出る!今は本を買うか買わないかが結果に直結すると考えているので、お金の許す限り必要な本はとことん買いまくっているのである。

本をそこまで買うと、消化するのも大変だ。なので必要な所をピンポイントで当たりたいところだが、やってみると最初から最後までマスターしたくなる。なので基本的文献はできるだけ全てをマスターするようにしているが、細分化されたところは不必要だと思われるところは飛ばして必要な所に直接当たるようにしている。

専門書というと洋書が大半だが、日本人にとって日本語で書かれた専門書は貴重だ。僕のような英語苦手人間にとっては、やはり和書の方が圧倒的に理解が進む。昔は「できるだけ洋書で」と思っていた時があったが、今は和書でできるところはとことん和書を参照にして進めている。世界的に見て、英語で書かれた専門書の次に多いのは和書だと聞いたことがある。確かに英語洋書にはかなわないが、日本語で書かれた専門書はかなり充実している。

お金の事を考えても、今本などに投資している何万円というお金を、将来何万倍にして取り返さなければならない。そのための研究に対するビジョンはほぼ固まっている。後は今買いまくっている本を基に細部を詰めていくことだ!

学問は面白い!

学問には二種類ある。一つは実用的価値があるもの。もう一つは純粋に学問的価値があるものである。実用的価値がある学問は分かりやすい。工学などは実用的価値の追究から生まれたもので、役に立つ技術を開発してこそ価値は上がる。それに対して理学(自然科学)は純粋に学問的価値を追究するところから始まり、本来は役に立つかどうかという所から距離を置いた所に存在する。

多くの人は、物事を役に立つかどうかということで判断しがちだ。しかしそのような物差しだけでは理学は存在しえない。哲学も同様である。役に立てるために哲学を追求するということも大いにあり得るが、カントが何かの役に立てるために批判三部作を創作したとは誰も考えないだろう。

しかし一つ注意しなければならないことがある。それは役に立つ科学は役に立たない科学から生まれるということだ。さらに言えば、役に立たない根本的科学の方が、役に立てるために考え出された工学よりも長い目で見れば圧倒的に役に立つということである。即物的工学というものは廃れるのも早いが、根本的科学は何百年と生き残ることになる。

僕は最近、学問の面白さというものを再発見している。それは科学に対してだけではない。哲学や経済学、歴史など、あらゆる分野の学問に対して魅力を感じるようになってきた。学問はいつになってもできる。だからいつになってもやらないか?それとも今すぐにやるか?人の判断は分かれると思うが、今やり、明日もやる。たまには息抜きも必要だが、学ぶというレベルを超えて最先端で学問を構築するプレイヤーになることができれば、物事を見渡す目は大きく変わるであろう。