投稿者「木原 康明」のアーカイブ

主義・主張を掲げる。

主義とは何か?それは信念の主張である。日本人は主張が下手だとよく言われる。日本ではなあなあの雰囲気で物事が決まる中、自分の意見を主張するとわがままだとか協調性がないと言われる。野茂英雄氏がメジャーリーグに挑戦した時、日本では野茂氏をわがままだとけなし酷評する人が圧倒的多数だった。無言の野茂氏がそれを跳ね飛ばすことが出来たのは、実力を発揮し結果を残したことによるのは言うまでもない。自分の主張に対する批判を跳ね飛ばすのは、結果を出すしかないのだ。

主義主張の背後には覚悟があり、それをわがままだと一蹴するのは早計だ。その一方、主義主張を勘違いする人も出て来ている。単に楽をしたいからとか自分の都合の良い解釈を言い放つのは主義主張とは言えない。野茂氏のメジャー挑戦は明らかに厳しい道への挑戦であり、自分の都合だけを通した訳でも何でもない。まさしく野茂氏の強い覚悟を感じる。

近年は日本でも個性が重要だという雰囲気も出来つつあり、昔に比べれば主義主張がしやすい環境になってきた。そのような中でも、主義主張を貫くにはエネルギーもいるし、人生に対するリスクや金銭的リスクも伴う。時には命に係わることもあるであろう。しかし自分の信念に嘘は付けない。とは言え、信念だけで物事が成功する訳ではない。そこには成功への明確なビジョンがなければならない。そして実力もなければならない。それらが一つにつながった時、主義主張に基づく挑戦は達成されるのである。

野茂氏のようなパイオニアがポンポン出てくる訳では決してない。しかしパイオニアとして挑戦しようとする若者、あるいは中年かもしれないが、それらの人が厳しい挑戦に立ち向かい、リスクを取りながら成し遂げようとする意志には、大きな敬意を払いたいと思う。

アナログ回帰。

近年押し寄せている社会のデジタル化の波は非常に大きい。スマホを始め、身の回りの物のほとんどがデジタル化され、最近はIoT(Internet of Things)という言葉も流行している。その一方、一部ではデジタル回帰とも言われる動きが見られる。例えばiPadなどを始めとする電子機器などでの書類管理が進んでいるが、個人レベルでは紙(ペーパー)の魅力を再発見することもある。紙の書籍は今でも電子機器などでは得られない魅力と効果がある。またアップルウォッチなどのスマートウォッチが普及する一方、機械式時計がブームを起こしている。

僕自身も今、一部アナログ回帰しようと取り組んでいる。しかし一度デジタルの世界に慣れてしまえばアナログ回帰をすることは容易ではない。かなり意識しないとついついデジタルの世界にどっぷりとはまってしまう。無意識の内にどこかでネットとつながっている。確かにネットは非常に便利だが、依存症になるほど浸かるのは問題だ。現実世界を強く意識し、リアルで周りの人とつながることが大事である。

そんな僕も、現在使っている旧型のiPhoneを新型に買い換えたいという衝動は凄くある。スマホを買い換えるのも良いし、ネットを駆使するのも良いと思う。ただ現実世界に生きていることを忘れてはいけない。あるいはもしデジタルやネットの世界に浸かるのなら、徹底してそれらを駆使するという手もあるのかもしれない。例えばゲームにはまるのなら、ゲームをするのではなくゲームを作るというようにだ。またデジタルを駆使することによって無駄な時間を大幅削減するというのも手だ。間違ってもネットがネットを呼ぶように雪だるま式に時間やお金を浪費してはいけない。

アナログに生きながらも、デジタルを上手く駆使すれば時間もお金も有用に使えることが出来るだろうし、自分の打ち込むことにも効率的に取り組むことが出来るであろう。そして人との連絡や出会いも大きく増やせるかもしれない。しかしその塩梅が難しい。現代社会に生きている限り、デジタルな世界を無視することはできない。だからと言ってアナログ世界は必要ないかと言えば、それはそれで今でも魅力的な所はいくつもある。デジタル世界である現代社会の中で生きながら、いかにアナログの魅力と利点を取り入れられるか?これは簡単そうで非常に難しいスキルが必要である。デジタル回帰は一筋縄では行かなさそうだ。

孤独死の何が悪い!

近年問題になっていることの一つに、孤独死がある。孤独死が起こるたびにニュースが流れ、孤独死が問題であるような論調で語られる。しかし僕には孤独死の何が問題なのか理解できない。僕自身も死ぬ時は人に見取られたいと思ったことは全くなく、むしろひっそりと孤独死をしたいと思っている。

孤独死の問題は、孤独に死ぬこと自体が問題ではなく、生きがいが持てないことにあるのではないだろうか?大きな生きがいを持って生きていれば、今いかにして全力で生きるかということに力を尽くすことが大事であって、どのような形で死ぬかなどということは些細な事であることが分かる。さらに言えば、孤独死を問題にしてしまうような意識の方がはるかに問題ではないのかと感じる。

もちろん人によっては、死ぬ時の形にこだわる人もいるだろう。もしかしたらそのような人の方が多いのかもしれない。しかし繰り返すように、死ぬ時の形よりも生きる形の方がはるかに重要であり、死に方を考えるくらいなら「それまでいかにして生きるか」ということを考えた方がはるかに有機的である。

人生とは惰性で生きる事では決してない。もちろん皆真剣に生きているとは思うが、生きる行為が惰性になった途端、生物学的には生きていても精神は既に死んでいる。そして孤独死にこだわることは生物学的な死に焦点を当てたものであり、大事なのは生物学的な死の直前までいかに“精神的”な生命力を発揮するかということである。

死は誰にでも訪れる。そういう意味でどのように死ぬかということは誰もが考えることかもしれない。しかしそれは孤独死を問題視しすぎる事では決してないはずだ。死に方よりも、いかにして死の直前まで自分という人間の精神活動を行うかということに焦点を当てるべきだ。

哲学無き学問は総じて軽い。

あけましておめでとうございます。新年の挨拶は軽くこれくらいにして、2019年一本目のブログ記事に入ろうと思う。

物事に取り組んでいる人は、大きく二つに分けられる。哲学を持って取り組んでいる人と、哲学無き人。哲学を学問として取り組んでいる人以外は哲学などは無用だと思っている人も多いが、哲学を持って取り組むことは非常に意味のある重要な事である。哲学無き学問は総じて軽いし、学問以外でも哲学のない物事は中身が詰まっていない張りぼてである事が多い。哲学を持って取り組んでいるかどうかによって、出来上がるものが天と地ほど違ってくる。

数学や物理の研究においても、哲学を持って取り組むことは重要だ。哲学がなければ数学は単なる計算に過ぎない。単なる計算ならコンピューターにやらせておけばよい。哲学的な部分があるからこそ人間がやる意義があるのである。数学は誰がやっても同じ結果にたどり着くと思っている人がいるが、それは全く違う。哲学の違いによって右にも左にも行き得るのだ。そこが数学研究の本質である。

ではそもそも哲学とは何か?この答えは一つではないし、答えるのは非常に難しい。ただ一つ確実に言えることは、哲学は人間だけが持ち得るものだと言うことだ。そういう意味で、哲学は人間らしさであると言える。「いかにして生きるべきか?」という問いを突き詰めていけば、自然に哲学へとたどり着く。それと同様に、「いかにして数学の本質を追究していくか?」ということを突き詰めれば、数学的な哲学を構築する必要性に迫られるはずだ。真剣に学問を追究すれば、哲学は自然と出来上がってくるものである。

もし今取り組んでいることに対して深く理解したいとか、本質を突きたいと思えば、一度立ち止まってそのことに対する哲学を立てる必要がある。そして哲学を立てることが出来れば、物事と哲学が相互作用を始め、有機的な構築が出来るはずだ。

年末だからって?

2018年もついに終わり、大晦日だ。そして来年は平成が終わる。年末、そして平成末ということで、何か締めくくりをしたり振り返ったりと色々な所でされているが、よくよく考えてみると年末だから一年を振り返るというのもありきたりであり、予定調和のような気がする。なので今年は予定調和に逆らい、一年を振り返ることはしないことにしようと思う。しかし一年は振り返らないけど、来年の抱負なり目標は明確に定めたいと思う。

常に刺激を求め続け、人生において攻撃的姿勢で臨もうと思っているが、そのように心がけていてもつい守りに入ってしまうことがある。保身だけは絶対にしないぞと常に心がけているが、現在そうなり切れているかは少し疑問だ。守りの自分にオサラバして、飛躍を求め続けたいと思っている。本当に守りに入っている時の自分は凄く嫌いだ。

生きるとは人との関係において、あるいは社会においてどう生きるかということかもしれないが、最近僕が感じているのは自分とどう向き合うかだ。自分と向き合い自分を納得させることが出来る生き方をしないと、人との関係も思うように築けない。強いスポーツ選手ほど「自分との戦いだ」と言うが、人生目標を高い所に掲げていればやはり「自分との戦いだ」ということを強く感じる。

一年は振り返らないが、大晦日には来年一年間、そしてこの先十年間を強く見据えようと思う。自分には厳しく向き合おうと思うが、まだまだ甘い所もたくさんある。研究をする時は真剣に思いっきり打ち込み、遊ぶ時も真剣に思いっきり遊びたい。遊びというのは無駄ではなく、ある意味活力源だと思う。真剣に思いっきり遊べない奴は、本業にも真剣に向き合えないと思う。最強の遊び人であり、最強の研究者である、それが僕の目指すところだ。

法律は武器だ!

僕自身は法律に関してはどちらかと言うと疎い方で、詳しい訳でも何でもない。僕はいろいろな分野の学問に対して興味を持っているが、法学に関してはなかなか乗り気になれない。法文自体に自然法則がある訳でもなく、法文を読むことは現時点では苦痛でもある。

しかし最近は、法律は出来る限り理解すべきだと思っている。法律を知ることは生きる上で武器になる。ビジネスを行っている人にとっては、法律を理解することは必要不可欠であるし、ビジネスの勝者は多くの場合、法律を上手く活用し、時には法律の網を上手く掻い潜った者である。また社会をストレスなく生きるためには、法律を正確に理解し、自分流に解釈することが必要だと思う。

ここ最近、日産のカルロス・ゴーン元会長に対する検察の取り調べが話題になっている。ここで争点になっているのは、当たり前の事であるが違法性があるかどうかだ。一般市民にとってはゴーン氏がけしからんと良い悪いという物差しで見てしまうが、事件の争点は良い悪いではなく、合法か違法かということである。もちろん、悪い事をしないようにするために法律というものが制定されているのだが、必ずしも「良い=合法、悪い=違法」というわけではない。そこに法律の本質がある訳であって、上手く法律を活用できるかということが物事を進める上で重要になる。

法律は非常に膨大である。従って我々のような専門外の人間が法律を全て理解するのは不可能であるが、自分に関係する法律の根幹くらいは理解しなければならないと思う。しかし僕は現在そこまでは法律を理解できていない。それが故に無用な悩みを抱えてしまうこともある。ストレスフリーに生き、自由に自分の打ち込むべきことに集中するためにも、自分に関わる法律の最低限の事くらいは理解したいものである。

評価にさらされる実力世界に飛び込めるか?

1990年代から2000年代初頭の不況が長く続いた影響か、近年の日本人は極度の安定志向だ。好景気だと言われている現在でも公務員は人気だし、何かに取り組む時も保障やリスク回避を最優先に考えているように思える。もちろんそのような現在でも、自分の腕を信じて嵐の中に飛び込もうという人は少なからずいる。

リスクよりも、やりがいや達成感を求めて自分の信じる道へ進み、常にシビアに評価にさらされる世界というのも非常に魅力的であると思うのだが、このことを同感してくれる人はもしかしたら少ないのかもしれない。そのような世界に進んだ人に対しては「素晴らしいね」と声をかけても、いざ自分がそのような世界に飛び込むかということになると躊躇して避けるのではないだろうか。もちろん他人に対してリスクにさらされる世界に進めと言う気は毛頭ない。むしろほとんどの人には安全・安定な道へ進むことを薦めるし、そのように後押しをしたいと常々思っている。とは言え、全てのリスクを避け、常に安全地帯に居座ることが果たして良い選択なのかというと疑問に思うのだが。

結果を出すまでは何も得られない。しかし結果を出せばそれに対する対価を得る。そのようなシンプル極まりない原理の方が最も自然で道理に合っていると思うのだが、現実世界はどうもそうではないようだ。しかし実力世界で勝負しようという人にとっては、世界がおかしかろうがそのような事を過度に気にする必要はない。とにかく自分が成し遂げようとすることに全力を尽くすだけだ。

安全地帯にいるのもいいが、時には嵐の中に飛び込んで人生の勝負をかけるということも必要ではないだろうか?

学問を“道”と捉える。

日本には“道”という概念がある。柔道や剣道などのスポーツから、茶道や書道などの文化まで、日本の隅々まで道の概念は浸透している。外国人にとって道という概念を理解するのは非常に難しいことかもしれない。しかしほとんどの日本人は道という概念のイメージくらいは持っていると思われる。

学問を道と捉えられることはあまりない。その理由は、学問の多くは起源を欧米に持ち、その精神も欧米的に熟成されているからだと思われる。しかし日本人が学問を究める姿はどことなく道の雰囲気が漂っている。僕はそれは一つの極め方としてアリだと思っている。学問を道と捉えて極めるのは、おそらく日本人にしかできない。

その一方、欧米の学問スタイルにも大きな魅力がある。それは“徹底的に自由なスタイル”である。欧米の多くの学問は非常に自由である。自由であるが故に独創的な発想も生まれる。それに対して日本人は“こうあるべきだ”という固定観念を持ちがちである。もちろん“こうあるべきだ”と思っていることを追求するというのも一つの手だが、一つ間違えるとガチガチに固まり学問において最も重要な柔軟性を失ってしまう。

学問に対する取り組み姿勢としては“道”と捉えて精進することは非常に素晴らしいことだし、そのような日本人にしかできない姿勢を貫くべきだと思う。しかし思考の在り方は徹底的に自由でなければならない。そのように学問の“道”と“自由”を徹底的に極めることが、学問を進歩させるうえでの大きな突破口になると感じている。

文献の把握。

現在、取り組んでいるテーマに関しての文献を収集している。中には絶版になっている書物も多く、自然科学書専門古本書店に注文することも多い。先ほど、僕の研究において最も重要な書物を調べると、どうやら最近絶版になったようだが、ジュンク堂の在庫をネットで調べるとわずかに残っていたので、急きょ取り寄せの手続きをした。この書物は実は手元にあるのだが、かなり使い込んでボロボロになっており、さらに紛失すると大変な事になるので、予備として購入することにした。

学問をするにおいて、文献の把握は最も重要だ。実験系の科学だと言うまでもなく実験が最も重要だが、文献の把握はその次に重要だと言える。さらに理論系の学問においては言うまでもない。

論文や専門書を見る時、初めにリファレンス(引用文献や参考文献)をチェックすることが多い。リファレンスの一覧を見てその論文はどのような内容なのかをある程度把握できるし、リファレンスからリファレンスへとたどって行くこともよくある。特にその研究に関するオリジナルな文献に当たることは最も重要な作業である。

学問の研究をしていると、手元には膨大な文献が蓄積されていく。他の人が見たらどこに何の書物が置いているか全くわからないのではと思われるかもしれないが、研究者自身は数百冊ある専門書や論文などの文献の在り処は全て把握しており、瞬時に目当ての文献を手にすることが出来る。どの書物がどこに置いているかわからないというようでは全く話にならない。

研究者の中には書物をほとんど所有せずオリジナリティーの高い研究を行う人もいる。そのような人は相当独創的な人なのだろう。僕にはそのような真似は絶対にできないし、そのような研究者は非常に尊敬している。昔読んだ本に、大数学者である岩澤健吉博士に関する記事が載っていたが、その記事によると岩澤博士の本棚には数冊の書物しかなかったという。まさに驚異的である。

学問を研究するに当たって、研究スタイルは人それぞれだと思う。しかし岩澤博士のような驚異的な例外を除いては文献収集は必要不可欠な作業だ。目当ての文献を入手できるかどうかが結果に直結してくる。まさに「文献を制する者は、研究を制す」と言ってもいいだろう。文献を入手するための金銭と労力は絶対に惜しむべきではない。

同調圧力の中の相互監視社会。

日本は「絆」とか「力を合わせて」という美徳を持ち合わせている。と言いたいところだが、これは本当に美徳だろうか?震災が起きた時に協力し合う絆は確かに美徳であろう。しかし力を合わせて助け合うという一方、力を合わせていじめるということも至る所で見られる。自分と同じような人とは助け合う一方、異質なものを排除するという側面もある。良くも悪くもこれらは同調圧力のもたらす力だと言える。

今日本社会で最も怖いのが「相互監視」だ。犯罪者を監視するということにとどまらず、周りの人が人と違うことをしていないかということを常にチェックしている。またそれらの同調圧力の結果、「自分は皆と同じ振る舞いをしているか?」ということを常に気にし続けている。話す言葉はすべて当たり障りのない言葉だ。

なぜノーベル賞受賞者はノーベル賞を取れるのか?それは一言で言うと、皆と違うことをしているからだ。同調圧力の下では独創的結果などは100%生まれない。日本において独創性を発揮しようとすれば、何をやるかという以前にまずは同調圧力を跳ね飛ばすというところから始めなければならない。そのような精神力を持つことは決して容易ではない。しかし残念な事に、まずはそのような精神力から話を始めないといけない。それが現在の(昔からか?)日本の現状である。日本では確実に出る杭は打たれる。従って出すぎた杭になれるような飛び抜けた結果を出すか、皆と同じ普通の結果しか出さないかのどちらかしか生き残れない。

努力しないのが普通である集団の中では、努力する人が叩かれるという何とも悲惨な状況も存在している。皆がお互いに可能性の芽を潰しあっている。この様な社会に未来はあるのかと言えば、確実に未来はない。今まで上手く行ったからといって、これからも上手く行くとは限らない。同調圧力の中にある相互監視社会が何をもたらすか?そのことに対してもう少し想像力をたくましくしなければならない。