投稿者「木原 康明」のアーカイブ

産経新聞韓国支局長、解放

つい数日前、産経新聞の加藤前韓国支局長が解放された。約8か月間韓国国外に出国できずに事実上の拘束状態だった。韓国といういびつな権力構造・病理が垣間見られた一件だった。

加藤氏は朴に対する私的な交際報道をめぐって、それは虚偽だと訴えられて拘束された。この報道が事実かどうかは定かではないが、それにより権力側が訴えるというのは対抗手段として間違っている。

朴は大統領であり、公人中の公人だ。国のトップである公人に対する交際報道は公的情報である。大統領ともあれば、あることないこと書かれるのは普通のことだ。もし間違ったことを書かれれば、報道機関を通して反論し本当のことを主張すればいいだけの話だ。しかも今回の話はセウォル号沈没事件発生時という緊急的事態の真っただ中での話で、朴は記事の真偽にかかわらず説明責任があったはずだ。

しかし説明責任などどこ吹く風、日本に対する個人的な恨みからか、権力により強引に処分しようとしてしまった。韓国には報道の自由などないと世界に訴えかけているようなものだ。

しかし救いだったのが、加藤氏の対応、産経新聞の対応、日本国政府の対応が非常に大人だったことだ。加藤氏には非常に災難な出来事であったが、今回の出来事を全体的に見れば日本にとって非常にプラスであったと思う。少なくとも世界はそう見ているはずだ。

日本は今まで大人すぎるところがあり、自国のことを非難されてもあえて反論しないことが多かった。それが日本の美徳であった。今回の件に対する対応はその大人的な面がプラスに働いたと思う。しかしこれからは世界標準として反論すべきところは反論しなければいけない。今、安倍総理はそのような方向に強気に持っていこうとしている。日本の国益のためにもそのような方向性は維持していかなければならない。

命の選別

新型出生前診断で胎児に異常の見つかった妊婦のうち、83%の妊婦が中絶を選んだらしい。この出生前診断はいろいろな問題・課題を抱えている。一言でそれがいいとか悪いとか言えない。

出生前に診断で産むか中絶するかを決めるのは、いわゆる「命の選別」にあたる。遺伝子に異常のある胎児は生まれる資格がないのか?現在、社会で障がい者を健常者と同じように接しようという流れの中で、この命の選別はそれに逆らうものではないのか?しかし育てる自信のない親に対して強制的に産めとは言えない。

ではそもそも異常のある新生児を育てるのは不可能なのか?まずこの問題に取り組むには社会がこの問題に対して積極的関心を持たなければならない。ダウン症の人たちには症状の重い人から健常者に近い人まで様々いる。しかしそれは健常者でも同じで健常者でも育てるのは難しい人はいるし、健常者もいつ重病にかかるかわからない。

ダウン症の人たちに一つの光を当てる人がいる。金澤翔子さんだ。今では有名なので知っている人も多いとは思うが、彼女はダウン症でありながら書道家として書道の道を極め、2年前のNHK大河ドラマ「平清盛」の題字を書かれた人だ。確かに見かけや話し方などの外見はダウン症を感じさせるが、書道に対しては日本を代表する書家になるなど輝くものもあるし、話す内容も非常にしっかりした信念を持って話されている。

確かにすべての障がい者がこのように輝けるとは思わない。健常者でも輝いている人は少ないのだから。

しかしきついことを言うようだが、中絶は殺人行為である。生まれる前だから殺人ではないなどとは決して言えない。ただ法的に殺人ではないだけであって、倫理的には殺人だ。しかしだからといって中絶者を一方的を責めることはできない。おそらく中絶する妊婦さんも非常につらく苦しいのだと思う。

これは答えのない問題と思う。したがってどれだけ時間がたっても結論は出せない。しかし命の選別行為は決してよくないことは確かだ。

公開訓練中にスクランブル発進

那覇空港での戦闘機一般公開訓練中に本番スクランブル発進したそうだ。那覇空港からのスクランブル発進は年に800回にのぼるらしい。ほとんどは対中国機だ。

沖縄米軍基地問題など自衛問題で国内はもめているが、実際にこのような日々の緊張感の中で自国領土は守られている。訓練中のスクランブル発進はこのような絶え間ない緊迫感を感じさせるものだ。

自衛官は24時間常に緊張感の中にいる。空白は決して作ってはならないのだ。空白ができた途端、我が国は奪われる。

自衛官の役割は多々にのぼる。東日本大震災時の自衛官の活躍は記憶に新しい。国を守るのは自衛官だけではなく、海上保安庁なども24時間体制で監視している。

軍事関連のことにアレルギーのある人も多く、軍事、あるいは自衛のことになると無条件に批判する人がいる。確かにこんな物騒なことはないに越したことはない。しかし現実問題として、これらの24時間体制での監視のもとに我が国は守られている。

我々の平穏な日常は、自衛官・保安官などの24時間体制の緊迫感のもとに成り立っていることを忘れてはならない。

選挙開票を見て

選挙があるたびに毎度思うことだが、なぜ諸派がここまで弱いのか。おそらく無所属よりも諸派の方が当選率は低い。宗教系諸派は好き嫌いが激しいが、市民団体系の諸派もなかなか受け入れてもらえないような気がする。

僕も諸派に投票したわけではないので人のことは言えないが、特に市民団体系の諸派にはもう少し躍進してもらいたかったと思う。ポスターと公約次第では僕も市民団体系諸派に投票していたかもしれない。

地方議会選挙は大選挙区ともいえる戦いで、一つの選挙区から多数の当選者が出てくる。衆議院のような小選挙区では一番人気の政党の圧倒的勝利はお決まりだが、大選挙区では小政党が食い込んでくる余地があるのも見逃せない。

首長選挙も多数あったが、やはり定数一(当たり前だけど)ということもあって一番人気政党が圧倒的強さを誇る。しかし地方によって政党人気にばらつきがあり、また候補者個人の魅力なども加味して第一党が勝つとは限らない。

皆さんは投票所に足を運びましたでしょうか?投票した候補者は健闘してくれたでしょうか?投票すると、その夜の選挙開票が十倍面白くなる。今の青少年が大人になって政治に興味を持ってもらうためにも、大人が投票所に足を運び、行動で示さなければならない。

統一地方選挙です

今日、12日(日曜日)は統一地方選挙です。選挙は他人ごとではありません。特に若い人にとっては。

最近の選挙は老高若低の状態が続いている。高齢の人の投票率が高く、若い人の投票率が低いのだ。そのことは何を意味するか。高齢者の票数が多くなるわけだから、候補者は高齢者の興味を惹こうと高齢者優遇の政策を打ち出す。一方若者軽視の傾向がより一層強まることになる。

最近、保育所待機児童問題をはじめ、若者に対する環境は厳しくなる一方だ。その一方高齢者は自分たちの福祉政策の充実を求め、政府・自治体もその対策を矢継ぎ早に打ち出すことになる。それももとをただせば選挙にたどり着く。若者が声を上げて選挙に行けば、若者に対する政策も必ず変わるはずだ。選挙を他人ごとと思わず投票所に足を運ぶことが社会を変える一歩になる。

自分達のためにも、今日は老若男女問わず、投票所に足を運んで一票を投じよう!有権者は全て政治に参画する権利があるのだから!

子供が生き生きできる社会へ

最近、一つの最高裁判決が出た。校庭で小学生が蹴ったサッカーボールがバイクに乗った老人に当たって骨折し、一年半後に死んだという話だ。一審・二審では約1000万円の賠償金命令が出された。そして今回の最高裁審判では判決が覆され賠償金命令が取り消された。

学校でボールを蹴って1000万の賠償金判決が出る国は(最高裁で覆されたとはいえ)異常ではないかと思う。最近は保育園にはうるさいから迷惑だと近隣住民の数百名の署名が集まり、公園では「サッカーをすると警察へ通報する」という看板が設置されているという。

日本はいつからこんなにも子供が肩身を狭くしないといけない世の中になったのだろうか?

今の大人も昔は子供だったはずだ。子供の頃公園でサッカーをした、キャッチボールをしたという大人は多いはずである。その大人が現在の子供に対して因縁をつけているのである。はっきり言ってそういう大人の方が大人ではない。

子供は未来の宝だ。社会で一番大切にされなければいけないのは、金持ちではなく子供だ。絶対的に子供は大事にされなければいけない。最近は老人問題、高齢化社会ばかりが話題になるが、本当に話題にしなければいけないのは、いかにして子供が過ごしやすい街にするか、いかにして子育てのしやすい街にするかということである。

誤解を恐れずに言うと、今の日本は老人が大切にされすぎだ。老人が優遇されすぎだ。なにも老人を大切にするなとは言わない。しかしその老人優遇の対価として子供が犠牲になっているのである。これには二つ理由がある。一つは昔からある儒教思想。中国の儒教の風潮が残る日本では老人こそが一番大切にされる存在なのである。もう一つは選挙。老人の数が多く、高齢者の投票率が高いようでは、政治家は高齢者優遇の政策をとってしまう。

子供を排除しようとする大人、そのような大人の方がはるかに目障りだ。子供が元気に走り回り、ボールを蹴ることは日常の一部としてとらえなければいけない。しかしそれが今、非日常になろうとしている。子供を目の敵にするモンスター大人、モンスター老人の問題は、人々の意識から変えていくしかない。

科学と科学技術

日本では特に、科学(サイエンス)と技術(テクノロジー)をひとまとめにして「科学技術」と言われることが多い。技術は科学に基づいているとはいえ、科学と技術は区別しなければならない。

技術は社会への応用・人の役に立つものという色彩が強い。しかし科学(サイエンス)は純粋に自然への探求心に基づくものであって、本来は人に役立てるためにするものではない。結果論として人の役に立つことが往々にあるということである。

しかしこの科学と技術を科学技術とひとまとめにすることによって、科学(サイエンス)自身が役に立つものとみられ、役に立たない科学は価値がないと思われるようになる。

科学(サイエンス)をやっていると言うと、「何の役に立つのですか?」と聞かれることが多いが、僕ははっきり「役に立ちません」と答えることにしている。うやむやにごまかして役に立つこともあるなんていうことはいわない。

しかしこの役に立たない科学は、長い目で見ると大きく役に立つことが多い。ただ現時点では何に役に立つのかわからないだけなのである。何かに役に立つように研究されていものより、むしろ何に役に立つかわからない基礎研究の方が後々大きく役に立つことが多いのである。

科学の価値を判断するときに、役に立つかという論点は一つの目安かもしれないが、純粋に科学的価値を判断することも忘れてはならない。

イスラムの問題か、解釈の問題か

中東周辺の対立がもう何十年も(何百年も?)続いたままである。つい数年前までは中東の問題と言えばイスラエルとアラブ諸国との対立が中心だったが、今ではもっぱらISIL(イスラム国)の問題が中心だ。

なぜ中東ではこうも争いが続くのだろう。イスラムの教えに問題があるのか?しかしイスラムを信仰しているイスラム市民にも善良な市民はたくさんいるはずだ。イスラム教の教義が悪いわけではない。問題はその解釈にあるのだろう。いわゆる原理主義とか過激派とかいわれる組織だ。イスラムの教えを自分達に都合のいいように捻じ曲げて、人々を傷殺する奴らだ。奴らはイスラムを掲げているが、真のイスラムではない。今のイスラム国だってイスラムという看板を掲げて傷殺行為に走っているだけだ。

読売新聞に面白いことが書いてあった。イスラム国の問題は一文明圏の問題を二文明圏の対立の問題にすり替えていると。確かにISILは異常に欧米など対民主主義圏の構図に持っていこうとする。それでいながらイスラム市民に対してさえ殺りく行為を行っている。彼らは自分たちを誇示したいだけだ。

ISILはイスラムという看板を掲げながらイスラム内でも対立している。イスラム教のことに詳しいわけでもなんでもないが、イスラムの教えとはそんなにもあらゆる解釈を導くものなのか、それとも過激派が自分たちの都合のいいことをでっち上げているだけなのか、僕にははっきりわからないが・・・

ギリシャが独に36兆円の賠償請求

ギリシャがドイツに36兆円の賠償金請求をしたそうだ。先の第二次世界大戦での賠償だ。なぜ終戦してから70年もたってそんなことを言いだすのだろうかと思うのだが。

ギリシャはここ数年の金融破綻的状態で、金融事情が非常に厳しい状態だった。そこでギリシャ政府は緊縮政策(すなわち倹約)を行ってきた。ところが国民がこの緊縮政策に嫌気がさして政権を否定し、緊縮政策反対を叫ぶ政権が発足した。

もちろん金融破綻状態のギリシャにお金に余裕があるはずがない。でも倹約は嫌だというのである。そこで他の国からお金を奪えとドイツに目をつけ、いわれのない因縁をつけたのである。

これによく似た国が日本の隣にもある。その国の因縁にはもう日本人は慣れてしまった感があるが、ギリシャのしていることを見ると上には上がいるものだなと変に感心してしまう。世界を見渡せばこのようなならず者国家は地方に一国二国くらいは存在するのかとも思ってしまう。

日本は戦後、非常に困窮した時期があった。レベルは違うが最近でも数年前までデフレ不況と言われていた。そこで日本国民は何とか頑張って乗り越えようと必死にもがいた。しかしギリシャ、そして我々の隣国は発想から違うのである。お金がないなら奪ってしまえという発想なのである。

日独がというより、真面目に頑張って発展しようとしている発展途上国・新興国に失礼な話である。この真面目にのし上がっていこうとしている途上国には我々も惜しみない援助をしていかなければならない。少なくともならず者の隣国にまわすお金があれば、途上国援助に少しでもまわしたほうがいい。

歴史認識問題卒業

福田康夫元首相が講演で、そろそろ歴史認識問題を卒業しなければいけないと発言したらしい。もっともである。戦後70年目で70年経っても隣国から70年前の歴史がどうこうと言われるのは異常である。日本人なら誰もが気付いていることだが、これは嫌がらせ以外の何物でもない。

ではなぜこんなにもしつこく嫌がらせを続けてくるのか。もちろんそれは韓国・中国にとってそうすることが都合がいいからであって、政治道具の常とう手段になっているからである。特に韓国では大統領支持率が下がったとき、必ず反日を煽って国民から受けようとする。もう考えが単細胞レベルである。

中国も韓国もわかっている。70年が意味することを。しかし一度やるとやめられないのである。逆にそれをやめてしまうと国民の方からバッシングされる。

日韓の間の信頼関係は完全に失ってしまった。それは政府文書にも明白に表示されるに至ったことでもわかる。韓国はアメリカとの関係でも最近こじれ始めてきている。頼るは中国だ。韓国はこれからアメリカの傘から外れて中国の傘に入ろうとしている。それに伴って日米関係はより一層重要な意味を持つことになるだろう。

韓国の政治は利害ではなく感情で動く。今の韓国は完全に「反日」という感情で動いている。これからは韓国は中国の属国的役割を果たすようになる。韓国を独立国として見るより、中国の一地方と見る方がすべてがわかりやすくなり理解できるであろう。

日本としては、中国との前線が38度線から日本海まで下りてくるわけだから、安全保障上のリスクはかなり高くなるだろう。以前の日米韓の防衛圏から日米二か国の防衛圏へと変わる。それに伴って日本国民の防衛上の負担は増すであろうが、東アジア情勢がこうなった今ではそこは覚悟しなければならない。