投稿者「木原 康明」のアーカイブ

プライド。

プライドの是非については意見が分かれるところだ。プライドにこだわる人もいれば、プライドなどいらないという人もいる。確かに平穏に生きるためには、プライドなどはない方が良いのかもしれない。特にくだらないプライドは絶対に持つべきではない。しかし自分が自分らしく生きるために、さらに人間らしく生きるためには、必要なプライドも必ずあると僕は考えている。

自分が人間らしく生きることを放棄するならば、さらに言えばアメーバとして生きるのならば、プライドなどは一切持つ必要はない。そもそもアメーバに思考能力はないのだから、プライドなどはできるはずがない。プライドを持っているとはある意味人間である証拠である。しかし繰り返すようだが、不必要なプライドは持つべきではない。持つべきプライドを持つということが重要なのである。

持つべきプライドを持つということは、かなり強い意志が必要である。意志と持つべきプライドは直結する。そして意志は行動に直結するものだから、プライドは意志を介して行動に表れる。すなわち、プライドが全くなければ、それも行動に表れる。だからその人がどのような意志を持ち、どのようなプライドを持っているかは、行動を見れば瞬時に判断できる。意志も持つべきプライドもない人は、アメーバのような動きをしているはずだ。

僕には明確な意志がある。そして強いプライドもある。ただ必要なプライドだけを持っているかと言われれば、無駄なプライドもたくさん持ってしまっていることも事実だ。だから完全な人間からは程遠い。もちろん完全な人間になろうとは寸分も思っていないが、自分が目指そうと思っている人間像はある。そのような人間に近づくためには、無駄なプライドを捨てなければならないと感じている。そして持つべきプライドは死守する。

完全な人間にはならないし、なれもしないが、いろいろな意味でとことん面白い人間にはなりたいものである。

細部は忘れても、骨格は忘れるな!

これはある意味、僕の言い訳である。僕は記憶力が悪い。少し前に書いた記事、少し前に勉強したことをすぐに忘れてしまう。しかし物事には、忘れてもいいことと忘れてはならないことがある。例えば理論を構築する作業をしている人にとっては、細部は忘れていいが、骨格は忘れてはならない。もちろん細部も忘れないでいればそれに越したことはないが、細部というものは書物を見るなり何なりしてすぐに確認できる。しかし骨格というものは自分の頭の中で構築されるものなので、これはしっかりと頭の中に留めておかなければならない。

しかし僕は骨格までも忘れてしまいそうになることがある。そのような時は、過去にメモしたノートなどを見て記憶に留めるようにしている。また同じものを見ても、人によってそこからできる骨格は皆違ってくる。そういう意味で、出来上がった骨格というものはそれを作り出した人の個性だと言える。

細部だけを煮詰めても、そこから骨格は出来上がらない。骨格から細部を煮詰めるのである。骨格がなければ、ただ単に細部の寄せ集めになってしまう。そのような情報の寄せ集めなどは人間がしなくてもコンピューターにでもさせておけばよい。人間は人間にしかできないことをすべきなのである。

書物を読んでも何も出来上がらない。書物を読んで得られるのは基本的には情報だけなのである。大事なのは書物を読み進めながら、それを基に骨格を構築することなのである。それができない人は、情報蓄積人間でしかない。しかも情報の蓄積だけなら、人間はコンピューターに圧倒的に劣る。人間にしかできなくて、人間がすべきことは何か?そのような事を考えて進まないと、10年後には何のスキルもない人間になってしまう。

急がば回れ!周りから整えていく。

「急がば回れ!」とはよく聞く言葉だが、これがなかなか簡単にできない。どうしてもすぐに本題に取り組みたくなる。しかしそのような誘惑に勝って、周りから攻めて行くことも重要である。

スポーツ選手なら、どうしても技術的な事の修得に全力で取り組みたくなる。それはある意味間違ってはいない。しかしスポーツをするためにはそのための強靭な体が必要なので、体調管理、栄養管理などをしっかりと行い、さらに最近よく話題になる体幹なども鍛えなければならない。そのように周辺(しかし本質的な部分である)から整えて行き、核心に迫ることが重要である。僕自身も最近はあらゆるコンディションを整えることに気を使っている。やはり何事も人間が行う以上、精神と体力のコンディションを高いレベルで保つことが大事である。

数学や物理をやる上で、英語論文を読むことは避けられない。従ってまずは英語力を身に付ける必要がある。英語力がしっかりとしていないと論文の内容を100%掴むことは難しい。しかし僕は英語が非常に苦手である。なので英語論文を読む以前に英語力を身に付けないといけないと思っている。しかしそのような事になかなか取り組むことが出来ない。どうしても英語論文に書かれている数学的、物理的内容に手が伸びてしまうのだ。もちろん英語論文に書かれている英文法などはたかが知れている。なので読むことはそれなりにできる。しかし英語力に問題があると常々感じている。急がば回れと英語の勉強をするべきだが、なかなかそれができない。近道をしているようで、本当はそれが遠回りになっているのである。

何か一つの事に取り組む時、それだけをやれば良いという訳ではない。その周りにやるべき関連する事柄はたくさんあるのである。数学を研究するには英語力が必要なように、一見関係ないことも本当は本質的に関わっている。今、何かに対して打開できずにいるのならば、少し目線を変えてその周辺のことを整えるのも一つの手である。急がば回れ!とあらゆる道を視野に入れて攻めて行こう。

羽生善治九段は何を見ているのか?

前年末の竜王位陥落によって、羽生善治氏は無冠になった。とは言え、無冠になったから羽生氏は衰えたのかというと、決してそうではない。無冠になった今でも羽生氏は最高位の棋士の一人であることは間違いない。

最近、羽生善治氏のことが書かれた記事をいろいろ見て、少し思うところがあった。それは「羽生善治氏は将棋に何を見ているか?」ということだ。普通の棋士だと対局に勝つことに最大限の気力を注ぐだろう。それは羽生氏だって例外ではないと思う。しかし羽生氏は必ずしも勝利だけを見ているようではない。将棋の盤上に何かの世界を見ようとしているように思えてならないのだ。

将棋には最善手という概念がある。言葉通り、最も有利になる手の事である。当たり前の事であるが、最善手を指し続けることにより勝利が見えてくる。逆にミスは命取りになる。しかし羽生氏は最善手ではなく“実験手”を打つことがあるという。将来の可能性を探り広げるために、実験手を打ち新たな道を開拓するのだ。とは言え、実験手は確率的に言えば最善手ではないのかもしれないが、将来の可能性まで考えると羽生氏における、あるいは将棋界における最善手なのかもしれない。

話しを、羽生氏は何を見ているかということに戻そう。なぜ僕が羽生氏の見ている世界に興味があるのか?それは世界を見るということは、あらゆるプロ分野において言えることではないかと感じるからである。物理や数学においても、ただ計算しているだけではなく、構想と一連の計算による構築によってその人独自の世界が見えてくるからである。それは視覚的に見えるという意味もあるし、精神的に見えるという意味もある。そうだからこそ、トップ棋士の羽生氏には盤上にどのような世界が見えているのかが気になるのである。

もしかしたら、プロとアマチュアの違いは、そのような世界が見えるかどうかということなのかもしれない。おそらく世の中にあるほとんどのプロには、“視覚的”に世界が見えているのである。世界が見えると哲学が生まれ、ただ勝利する、あるいは結果を出すというだけでなく、その先にある広大な大地を切り開くことが出来るのであろう。

万人に理解されようとするな!

万人に理解されるような人生ほど薄っぺらくて退屈な人生はない。万人に理解されるということは、当たり障りのない事しかしていないということであり、現状維持だと言える。しかも現状維持を掲げて現状維持できることはほとんどない。飛躍を起こそうと思えば、万人の理解を超えることに挑戦しなければならない。

山中伸弥教授がiPS細胞誕生以前に、「皮膚細胞から万能細胞を作る」などと言ったら万人から鼻で笑われたであろう。そのような万人から理解されない状態から山中教授はiPS細胞作製という偉業を成し遂げた。もちろん人から理解されないことをすれば大きな成功を成し遂げられるかと言えばそうではない。むしろ失敗する確率の方が圧倒的に高いと言える。問題はそのような失敗をどう捉えるかだ。失敗を絶望と捉えるか?次への希望と捉えるか?それによってその後が大きく変わる。

実は人生なんて、本質的な部分では皆そうは変わらない。しかし現実は人によって天と地ほど違うように見える。その理由はいくつかあるかもしれないが、最も大きな部分は精神的な部分だ。とは言っても精神論を持ち出すわけではない。もっと単純に楽観的か悲観的かという類のことである。

頭脳の仕組みなんて、皆大きく変わらない。アインシュタインの脳が現存しているそうだが、どこを調べても大きく変わるところはないという。例え計算力が圧倒的に高くても、それだけで数学の研究ができるわけではない。結局は人生をどう捉えているかとかいう部分にたどり着く。人生をどう捉えるかということと数学の研究がどう結び付くか?多くの人はピンと来ないかもしれないが、そのような人生に対する精神的なモチベーションが学問の研究には大きく関わってくる。

万人に理解される生き方の方が圧倒的に楽かもしれない。しかしそれは何ももたらさない。人の理解からはみ出たところからイノベーションは生まれるのである。そこを理解しないと、何に対しても当たり障りのない現状維持に終始してしまう。そしてその先にあるのは没落である。

知の爆発。

芸術家の岡本太郎が「芸術は爆発だ!」と言ったことは有名だ。僕には芸術がどう爆発するのか理解できないが、一流芸術家の岡本太郎がそう叫んだのなら、そういうこともあるのだろう。

芸術とは違うが、知も爆発する。それは個人レベルでもそうだし、社会レベルでもそうだ。しかし何もないところに知が爆発することはない。爆発するまでに知の蓄積が脈々と受け継がれて積み重なった所にしか知の爆発は起きない。だから何か爆発的な結果を出すためには地道に努力するしかないし、社会においても知を寛容に受け入れないと知の爆発は起きない。

物理学における知の爆発と言えば、誰もが20世紀初めの量子論・相対論革命を思い出すだろう。しかし量子論も相対論も、何もない所に降って湧いた訳ではない。それらが誕生するための基盤が着々と固められていたのである。そこにハイゼンベルグだとかシュレーディンガー、そしてアインシュタインがとどめを刺したということだ。

知の爆発はそんなに頻繁に起こる訳ではない。しかし常に知の爆発を起こすための努力はし続けるべきである。そしてそのためには、山中伸弥教授の言うVW(ビジョン&ハードワーク)が必要なのは言うまでもない、努力は必要だが、それだけでは生まれない。ビジョンが必要不可欠なのだ。日本人はハードワークは得意だがビジョンがないと言われ続けてきた。そして今ではそのハードワークまでもが失われつつある。そのような時代なのだと言われればそれまでであるが、個人が自分の立てた目標を成し遂げようとするときにはハードワークは必要だ。もちろんハードワークをしない自由もある。それはすべて自己責任と言える。

知の爆発を起こすべく、個人も社会もVWを掲げたいところだが、片一方が出来る人はそれなりにいても両方が出来る人はそうはいないのかもしれない。山中教授はiPS細胞という知の爆発を起こすことに成功した。そして生命科学の分野ではゲノム編集などの知の爆発が立て続けに起きている。他分野の人間はそれらを指をくわえて見るのではなく、周りの人に指をくわえさせるような知の爆発を起こさなければならない。

なぜバカな生き方を求めるのか?

僕は賢い生き方はしないと心がけている?バカな生き方をしようと思っている。ただ間違ってはならないのは、何も考えないでバカな生き方をするのと、考え抜いてバカな生き方をするのとは、意味が180度違うということである。バカな生き方をするのなら、賢い生き方をするのより何倍も考え抜いて生きなければならない。

では、なぜバカな生き方をしようとするのか?それは「生きるために生きる」ということをしないためだ。生きる事には意味がある。その意味を常に考え抜かなければならない。自分の生きる意味は何か?何のために生きるのか?そのことを考えて実行することによって、生きることに哲学が生まれる。

確かにお金は大事だ。しかし最近社会で話題になるのは、老後資金を蓄えるとか、“賢い”貯蓄の仕方、そしていかに効率良く“賢く”お金を儲けるかだ。そのような“賢い”生き方は何をもたらすのか?もちろんそれによって人生が有意義に意味のあるものになるのであれば言うことはない。しかしそれらの“賢い”生き方が「生命の浪費」というだけになってはないだろうか?

人間が生きるとは多様性の追求だと言える。そうならば多様な意味、多様な可能性も求めるべきではないだろうか?そのためにたどり着いた一つの結果が「バカな生き方をする」ということである。

一般的に言われる“賢い”とは、決して“知的”という意味ではない。本当の知性とは、生きる意味を明確に認識して、その人生の意味を最大限に発揮するために生きるということである。そのような事を考えると、今の社会はあらゆる意味で迷走しているのではないだろうか?

装飾とは?

「インスタ映え」という言葉が流行って久しい。インスタ映えを求めるということは一種の装飾と言えるが、人間の装飾は何かと言えば、その代表例はもちろん服装である。また、持ち物で装飾したり、人間関係で装飾したりといろいろあるが、何で装飾するかはその人の人間性が最も表れるところである。

目に見えるもので装飾することは全然悪い事ではないが、それ以上に大切なのは目に見えない装飾である。例えば人間そのものが醸し出す装飾や生き方から感じられる装飾、そして主義主張から感じられる装飾などである。それらの装飾は人間そのものであると言え、これらの人間性による装飾がないと、服装などの外見装飾は張りぼてになる。逆に言うと、魅力的な人間装飾が存分にあれば、外見装飾はそれをより一層輝かせることが出来る。

外見装飾とは副次的なものと捉える人もいるが、時には外見装飾が主役になることもある。世の中には装飾がないと成り立たないことも多い。多くの人間は外見装飾に行動を左右されるのはその表れである。しかしそれらの外見装飾に気を取られて人間装飾を磨くことを怠っては本末転倒だ。

結局は人間性から醸し出される装飾と外見装飾をバランスよく保つことが、人間をより魅力的に魅せるには重要であろう。もちろん外見装飾などに見向きもせずに人間装飾を圧倒的に輝かせるのは圧倒的に魅力的である。そのような人物には尊敬もするし、憧れもする。その一方、外見装飾も豊かにし、わかりやすい魅力も発揮したいという欲望にもかられる。しかし人間としての本質をしっかりと心得ていれば、そのように外見装飾にそれなりに力を入れるのも悪くない。

コーヒーとの付き合い方。

飲食との付き合い方は体や頭のコンディションを左右し、極論を言えば人生を左右する。飲食との付き合いのうちで一番重要なのは、アルコールとの付き合い方だろう。以前は適量のお酒は薬になるとよく言われていたが、最近の研究結果によるとお酒は微量でも悪くなることはあれ、良いことはないということがわかったらしい。確かに依存レベルになると誰が見ても問題があるとは思うが、たまに適量を飲むことによりストレスが解消されるのならそれも良いとは思うのだが、実際はかなり意識していないとアルコールの量が増えて行ってしまう。

プロスポーツ選手は食べ物の栄養にこだわっているという話はよく聞く。僕はアスリートではないので、食事がどれくらいアスリートのコンディションを左右するのかはよくわからないが、そのような食事に対する意識はある意味プロ意識の表れだと言えるだろう。

飲食の体に対する影響は分かりやすい話だが、体だけではなく頭脳への影響も非常に重要な話である。頭脳へのアルコールの影響は言うまでもないが、僕は最近コーヒーの影響に敏感になっている。コーヒーにはカフェインが入っており、適量のカフェインなら頭脳を覚醒させると言われるが、やはり度が過ぎると良くないようだ。もちろん人によって適量は変わってくるであろうが、何事も適量に抑えることが重要になる。

頭脳を最高のコンディションに保つためにはどうすれば良いか?適量のコーヒーと、適量のチョコレート(糖分)、そして適切な睡眠であろう。そうは頭では認識していても、これら三つを上手くまとめるのは意外に難しい。過度に気を使って疲れてはどうしようもないが、ある程度の健康マニアになることはメリットが多いのではないだろうか?

自己マインドコントロール。

マインドコントロールと言えば、日本では某大事件により非常にネガティブなイメージで捉えられているが、自分をマインドコントロールすることは非常に大切な事である。自分をマインドコントロールする、すなわち自分で自分を操れないと、目標へ近づくことはできない。

逆に自己をマインドコントロールできない状態は非常に危険である。自己マインドコントロールできないと、周りからマインドコントロールされる危険性が増える。他者からのマインドコントロールが危険な事は、過去の某大事件からも明らかだ。他者からマインドコントロールされないためにも、自己マインドコントロールをしっかりとすることが必要だ。

各分野でプロと言われるくらいのトップアスリートは、おそらく自己マインドコントロールが高度なレベルで取れている。そしてスポーツ選手だけでなく、あらゆる職業でも同じことが言えるだろう。欲望は時には必要だが、打ち込むべき事に打ち込む時は、欲望に流れるのではなく自己マインドコントロールによって統制されていなければならない。もちろん時には爆発することも必要かもしれない。しかし自己マインドコントロールされているかいないかで、爆発する質も方向も180度変わってしまう。

自分の掲げる高い目標に到達するためには、まずは自己マインドコントロールによって自己を統制することが必要であることに気付く。自己マインドコントロールができる状態は、人間性を高度に保った状態だと言える。自分が人間らしく、そして自分らしく個性を出すためにも、自己マインドコントロールは非常に重要である。