投稿者「木原 康明」のアーカイブ

なぜ努力すべきなのか?

なぜ努力すべきなのか?その答えに回答できる権利があるほど僕は努力をしていない。努力をしようと思っても、なかなか努力が続かない。しかし努力しようという気持ちは常に持ち続けているし、自分のできる限りの努力はしているつもりだ。

努力したからと言って、必ず成功するとは限らない。努力が報われるとは限らない。しかしそれは努力をしないことの理由にはならない。どうしても努力をしたくない人、常に楽して生きようと考えている人に対して努力を強制しようとは思わない。まあ、そういう生き方もあるのだなと思っている。

しかし僕は努力をしたいのだ。非常に努力をしたいのだ。しかし努力をしたくてもできない時がしばしばある。そういう時には非常に悔しいし、ふがいない自分が情けない。

もちろん努力する理由は、自分の目標としていることを達成するため、そして自分が目標としている人間になるためである。

繰り返し言うが、努力したからと言って必ず成功するとは限らない。しかしその逆、つまり成功した人は絶対に努力した人だと思っている。もちろん例外もいるだろうが、そんな努力をしないで成功した人のような例外を見て、どうこうしようとは思わない。

努力というものは苦しいものと思っている人が多いかもしれない。確かにほぼ例外なく苦しい。しかし努力は苦しいだけではない。努力にやりがいを感じたり、達成感を感じたり、喜びを感じたりすることもしばしばあるのだ。だから努力にはまればやめられないのである。

しかし何の分野にしてもプロとしてやっていくためには結果を出さなければいけない。プロの世界は結果が100%なのだ。結果を出した人に対して努力が評価される。結果を出していない人の努力など、プロの世界では何の評価もされないのだ。

しかし努力をする価値は非常に大きい。一人でも多くの人たちに努力の快感を味わってほしい。努力は絶対にするに値するものだ。

初めはみんな初心者だ。スキーバス事故で

ここ数日、長野でのスキーバス事故のニュースが大きく扱われている。最近この事故について様々なことが明らかになり、ずさんな管理体制が浮き彫りになってきた。

その中の一つに、今回のバスを運転していた運転手が大型バスの運転に関して初心者だったということが問題になっている。確かに初心者と聞けば不安になるのも仕方がない。しかしどんなベテランの運転手も初めはみんな初心者だ。僕も免許を取ってかなりなるが、免許取りたての頃に初心者だからと言って運転させてもらえなかったことは一度もない。今回のバスの運転手は中型バスメインの運転手で、大型バスの経験は少なかったという。しかし経験を付けるには実際に運転するしか方法がない。初心者だから運転禁止と言えば、この国から大型バスの運転手はいなくなる。

今回の事故はいろいろな要因はあるもの、運転手が初心者だったという点に限っては不運だったとしか言いようがない。このことを過剰に反応すればますます運転者不足に拍車がかかり、さらに危険な状況が増していく。

今回の事故原因は複合的なもので、これから一つ一つ解決しいかなければいけないが、運転手の経験に関しては過剰に問題視するのはやめてほしいものだ。

僕が現在取り組んでいる研究(勉強?)の報告

「ブレークスルーを作り出せ!」僕が15年ほど前に読んだ本に書いてあった、2014年ノーベル賞物理学者・中村修二博士の言葉だ。中村博士と言えば、青色発光ダイオードの研究で量産化に成功し、裁判では中村博士に対する発明対価は600億円というとてつもない判決を勝ち取った男だ。

研究と言ってもさまざまである。大きいものから小さいもの、基礎から応用、そして物理・化学・数学のような様々な分野がある。僕は物理・数学関係の基礎理論に興味がある。実用的なものにはあまり興味はない。こう言うとヘンコツとでも言われそうだが、数学を研究している人に実用を視野に入れている人はほとんどいない。

数学的な物理ということでしばしば「数理物理」と言われるが、この数理物理学という言葉が僕は大好きなのである。数理物理学とは分野の名前というより手法の名前であり、同じ数理物理研究者同士でも全く違う研究をしている人も多い。

現在取り組んでいる武器に「リッチフロー」というものがある。時間と空間の曲率の変化を表す方程式である。リッチフローはポアンカレ予想の解決時に大きく活躍した。多くの数学者が位相幾何学で解決しようというところに、ペレルマンはリッチフローという微分幾何学の手法で解決させ数学界を驚かせた。

そしてもう一つの武器として情報理論、特に「エンタングルメントエントロピー」という概念を習得しようとしている。これは時間の概念を理論的に明らかにするために有用だと僕は考えている。

おおざっぱに言えば、僕は幾何学の人間だ。しかし現在は分野の境界もあいまいになり、多くの研究者は幅広く深い理論を駆使して研究を行っている。

最近、世界の大学ランキングなどという非常にくだらないものが出回っており、そのランキングでは東大・京大という日本の大学のランキングは非常に低い。しかし数学・物理に限ると、東大・京大共に10位以内には確実に入ると言われている。さらに最近は名古屋大学からノーベル賞学者が何人も出ているのは有名な話だ。しかしはっきり言うと、大学名とノーベル賞は関係ないものと僕は思っている。東大に行ったからと言って、本来取れない人が取れるようになるわけでもない。

さあ、僕もナンバー1を目指して頑張るとするか。

1.17 歴史的記憶へと移りゆく阪神・淡路大震災

今日2016年1月17日は阪神・淡路大震災が起きてからちょうど21年目にあたる。毎年この日には大震災関連のイベントが行われるが、年々その扱いは小さくなってきているように思う。もちろんその一番の原因は、5年前に起きた東日本大震災という未曽有の大災害が起きたことであることは言うまでもないが、それと同時に21年という月日が阪神・淡路大震災を歴史へと追いやったことも一因かもしれない。しかしこれは、阪神・淡路大震災は「歴史」の一部となるほどの大災害であったことを物語っている。

今の十代の日本人はすでに誰一人として阪神・淡路大震災を体験していない。何とも不思議な感覚である。21年前の大震災がついこの間の出来事のように思えるのだが。もちろん阪神・淡路より東日本の方が時間的に近いし、災害規模も桁違い、それに加えて震災に誘発されて起きた福島第一原発事故問題は現在も進行形である。

僕は神戸の実家のベットの中で大震災を体験した。あの日のことを鮮明に覚えている。そういえば昨日・今日(16日・17日)は、大学入試センター試験が行われている。大震災の時、僕はセンター試験が終わり、一息ついたところだった。センターが終わり、二次試験に向けて頑張るぞ!という時に震災は起きた。

大学受験に向かう道程で、電車が寸断された区間は歩いて次の駅を目指した。途中、焼け野原になった須磨区と長田区の境目あたりは、木の板が立てられ、その板にはそこにあったであろう家の住民の安否が書かれてあった。三宮では代替バスに乗るため、おそらく千人以上であろう人たちが数時間も並んでバスを待っていた。そして代替バスは倒れた高速道路のすぐ下の道を、渋滞でのろのろと走っていた。

今、日本は大災害時代に入ったと言われている。東日本大震災は桁違いとしても、土砂災害・洪水災害・地震災害・火山噴火災害と次々と災害が起きている。そして「想定外」を想定することが当たり前になってきた。もちろん想定外を認識するきっかけになったのは東日本大震災だ。

今年はまだ17日しかたっていない。あと348日残っている。この348日を日本人は無事切り抜けられるか、その保証はもちろんない。世界ではISの地獄の嵐が吹いている。この国外からの脅威と、国内の災害、今年の日本はこの外に対する目と内に対する目を気にしながら対処していかなければならない。

なぜフリージャーナリストは危険地帯に赴くのか

フリージャーナリストの後藤健二さんがISに拉致・殺害されて1年が経つ。後藤さんのようなフリージャーナリストが犠牲になった後も、危険地帯に自ら赴くフリージャーナリストは後を絶たない。それに対して日本国内でも批判の声は大きい。たしかにその批判はわからなくもない。もしフリージャーナリストが拉致でもされれば、日本国首相や政府をはじめ、救出のために多くの人が動かざる負えなくなる。それだけではない。身代金も何十億という桁違いの金額だ。

しかしフリージャーナリストは日本人にとってはた迷惑な存在なのだろうか?フリージャーナリストの意義を考えるときに、テレビ・新聞社などの組織ジャーナリストとの対比抜きには語れない。このフリージャーナリストと組織ジャーナリストはお互い補完し合う存在なのだ。例えばフリージャーナリストにオバマ大統領などの指導者を取材することはほぼ不可能だ。オバマ氏を取材するには組織ジャーナリストの力が不可欠だ。

では組織ジャーナリストが万能かというとそうではない。組織ジャーナリストにはできなくて、フリージャーナリストにしかできないことがあるのだ。その典型が後藤健二さんであった。

組織ジャーナリストには組織の責任が伴う。そのため、シリアなどの超危険地帯には組織ジャーナリストは踏み込めないのである。そこで活躍するのがフリージャーナリストなのである。フリージャーナリストは小回りが利く上に、自己の責任の上で取材を進める。戦場の最前線、そして現地の社会を取材するにはフリージャーナリストの存在は欠かせないのである。そういう意味で組織ジャーナリストとフリージャーナリストは補完し合う関係なのである。

とは言え、日本人の中には、そんな危険な所のニュースなど関係ないよ、という人は多いかもしれない。しかし現地の生の情報がなければ、そのことを議論しても空論で終わってしまう。ドラマ・映画の「踊る大捜査線」風に言うと、「戦争は会議室で起きているんじゃない。現場で起きているんだ!」ということなのである。その現場の真の姿を伝えてくれるのがフリージャーナリストなのである。

確かにフリージャーナリストの危険に対する対価は大きい。しかしフリージャーナリストの情報は、現代社会を生きる我々には不可欠なのである。その情報を得るため、フリージャーナリストは命をかけて日々行動している。

北朝鮮の日本人拉致問題と、南北が主張する慰安婦問題の違いは何か

先月、韓国の慰安婦問題に対して日韓合意がなされた。南北朝鮮では慰安婦問題を日本に対する南北共闘と位置付けており、現在まで慰安婦問題に対する保証と謝罪を迫ってきた。そして日本は北朝鮮に対して日本人拉致問題の解決を迫っている。一方は南北朝鮮から日本に突きつける問題として、もう一方は日本から北朝鮮に突き付ける問題として、現在まで様々なこじれを生んできた。

しかしこの両者には決定的な違いがある。慰安婦問題が第二次世界大戦中に起きた問題であるのに対し、拉致問題は現在進行形の問題である。したがって両者には質的な違いがあるのだ。日本が拉致問題解決に対して時間的に差し迫っているのはこの問題が現在進行形だからである。今現在起きている問題なのである。これは逆に言うと、拉致被害者が全員帰還できると完全解決になる。おそらく日本は北朝鮮に対して金銭的な保障などは求めないだろう。

しかし南北朝鮮にとって慰安婦問題は外交カードである。そしておそらくこのカードは100年後も切ってくるであろう。したがって日本がどれだけ保障しようと、南北朝鮮は繰り返しカードを切ってきて、その度に保障と謝罪を求めてくるだろう。

元自衛隊航空幕僚長の田母神俊雄氏は、慰安婦問題は再びぶり返してくるだろうと述べている。その理由は単純で、相手が韓国だからである。これは非常に単純明白な話であるが、一方慰安婦問題の一番の本質をついているとも言える。

おそらく韓国大統領が交代する数年後、また慰安婦問題はぶり返すであろう。三度目になると、さすがの日本もこの相手には論理も何も通じないことに気付く。しかし今回の日韓合意は世界が注目し、コメントを寄せている。また問題をぶり返せば、さすがの世界も韓国がならずもの国家であることに気付くであろう。

とは言え、慰安婦問題はデリケートな女性の問題であり、現在の強いフェミニスト指向な世の中では、無条件に慰安婦問題を過剰に擁護する勢力がいることは確かだ。フェミニストには慰安婦問題がどれだけ本当であり、どれだけウソであるかなどは関係ない。とにかく慰安婦問題を非難のきっかけにしたいのである。しかしまたそんな状況が訪れた時には、日本の指導者たちは一歩も引く姿勢を見せず、かつ世界を上手く納得させなければならない。たしかにこのことを示すには指導者の高い手腕が問われることであるが。

安倍首相、かみ合わない国会答弁

最近、安倍首相の国会での発言に対して疑問視する声が多い。僕自身、これまで安倍首相を支持し、個人的には応援してきたが、このような発言をされると安倍首相の現状認識に対して疑問を抱かざる負えない。

一つ目は女性のバートに対する発言。これは就業者一人当たりの収入が下がっているという議題。世帯主が50万円稼いでいたところに主婦がパートで25万円稼げば、就業者一人当たりの収入は50万から37万5千円に下がる。すなわち就業者一人当たりの収入が減ったのは就業者が増えたからであって、総額で言えば増えている、というものだ。

ここで野党は「パートで25万円も稼げるなんてありえない。総理はどういう感覚をしているのか?」と突っ込んだ。この突っ込みは議題のすり替えともとれるが、重要な疑念である。首相が政策をリードする以上、一般市民の感覚を的確につかむことは非常に重要だ。パートをすれば25万円稼げる、このような認識は確実に浮世離れしている。このような認識で実態に沿った政策を打てるかというと疑問に思わざる負えない。

そして二つ目は、保育園待機児童が増えたことに関して首相が「女性の就業者が増えたことによる減少で、これはうれしい嘆きだ」と発言したことに対してだ。これに対して野党側は「女性の就業者の増加の主な理由は65歳以上の女性によるもので、20代~35歳の女性に対しては逆に20%以上減少している」と突っ込んだ。この野党議員の主張が本当ならば、首相の発言は勘違いが甚だしい。首相は「そのような突っ込みは枝葉末節的な事だ」と反論したが、この問題は枝葉末節どころか問題の本質である。若者女性の就業者が減少して、さらに待機児童が増加しているとなれば、状況は非常に悪化しているということになる。

さらに首相は女性就業者が増えたことに対して「景気が良くなって賃金が上がったので、働こうという女性が増えた」と発言している。これには僕も怒り心頭になった。働くのは家計が苦しいからで、余裕があれば、働こうという主婦は少ないはずだ。

本当に安倍首相の市民感覚はどこまでずれているのであろうか。この様な感覚で政策の実行を続けていると、行く末が不安になるばかりである。政治エリート一家に生まれた安倍首相と、森永製菓社長令嬢の昭恵夫人には、一般市民の感覚が伝わらないのも無理のない話かもしれないが・・・

これはもう、公権力による犯罪だ!鹿児島強姦冤罪事件

報道ステーションで、鹿児島で起きた17歳の少女に対する強姦事件で捕まった、20代前半の若者に対する判決で、冤罪が認められ無罪となったニュースが流れた。ここ数年、DNA判定などで袴田事件をはじめとする冤罪が発覚することが珍しくなくなった。しかし今回の鹿児島の強姦冤罪事件は、そのDNA判定を逆手に取った、警察・検察側による非常に卑劣な捜査による冤罪であった、

この事件では、初めにDNA鑑定によって元被告が犯人だと裏付けられ、懲役の実刑判決を受けた。もちろん少女に強姦を犯した犯人は非常に卑劣であり、法の裁きを受けるのは当然だ。しかし警察・検察の取り調べを進めるうちにこの事件の捜査は狂っていく。唾液のDNA判定では、被告と違う結果が出たにもかかわらずその事実を隠し、後に検査とはとても言えないずさんな判定で唾液のDANは元被告のものと断定される。精液のDNA判定では、微量であり判定不能であると主張された。

ところが後に弁護側が行った大学の権威によるDNA判定では、検察側が判定不能と主張した精液検査があっさりと成功したのである。しかも驚くことに、その結果は元被告のものではないという結果であった。

警察・検察側は、自分たちの描いたストーリーに合うように都合よく偽装していたのである。これはもう誤捜査というレベルではなく、公権力による犯罪行為だ。無実の人間が突然犯罪者に仕立て上げられる、これはある意味、犯罪に遭うよりも恐ろしいことである。この様なことが起こる社会はとても法治国家とは言えない。しかも検察側は、今回の無罪判決に対して「遺憾である」とコメントしている。とてもじゃないが、検察がそのようなコメントを残すような立場ではなく、検察側が裁かれるべき事態である。検察側の罪が問われないことの方が「遺憾」である。

DNA判定の精度は数兆分の一と言われている。しかし報ステの解説者が発言していたように、精度がこれ以上上がっても、そんなものは意味がない。検察が偽証すれば精度などは何の意味を持たなくなる。もちろん検察側もミスをすることもあるだろう。しかし今回のように意図的に自分たちの都合のいいように偽証し、無実の人間を犯罪者に仕立て上げるようなことは完全に検察による犯罪行為であり、検察が裁かれなければならない。

依存症の怖さを知らない日本人が多すぎる

ある記事で、依存症の怖さを指摘しているものを見て、いろいろ考えるところがあった。

ここ十年程であろうか、日本でも依存症の害悪を広く指摘され始め、依存症からの脱却をサポートする施設もできてきだした。

依存症と言っても、様々なものがある。アルコール依存・タバコ依存・ギャンブル依存、さらには最近はネット依存なども注目浴びている。これらの依存症に一番怖いところは、自然治癒がほぼ不可能だということだ。依存に無意識でいると、必ず依存はエスカレートする。しかも重症になるのに時間はかからない。

「無意識に」と書いたが、意識したところで必ず治るという保証はない。日本では依存症になるのは意志が弱いからだとよく言われる。依存症に対してそれほど軽い認識しかないのだ。しかし(記事で書いていたことであるが)高血圧だという診断が出たら多くの人が真っ先に治療に取り組むだろう。しかし依存症だという診断が出て真っ先に治療に取り組む人は非常に少ない。高血圧から脳卒中などの重大病になる人はほぼ1割くらいだという。それに比べて、依存症から重大病につながる人ははるかに多い。しかし「依存症」という名前からの印象か、意志が弱い人がなるものだという意識しかない。

しかしアメリカでは依存症は立派な病気とみなされ、依存症患者に対する治療を行う施設も非常に充実しているらしい。

そして一番の問題は、依存症への認識の軽さのせいか、テレビでは酒・たばこ・パチンコのCMがバンバン流され、少し歩けば24時間営業のコンビニでお酒が買える。言わば日本は依存症に落ちるための環境がこれでもかというくらい整っているのである。この様な国は世界でも日本だけである。

これに関連して僕が思っている疑問の一つにカジノがある。これだけギャンブルが問題になり、現行法ではギャンブルは限りなくクロに近いグレーであるにも関わらず、経済活性化を主張し大型ギャンブル施設であるカジノを建設しようとしている。全く理解不能である。

僕自身はアルコールは適度に飲むが、タバコ・ギャンブルは全くしない。二日続けて缶ビールを飲むと、三日目もビールが欲しくなる。その時に依存症の怖さを実感する。アルコールを完全に断つわけではないが、非常に意識して制御している。

アルコールも飲まなければ飲まないに越したことはない。もし仮に軽い依存症かなと思った時には、「たかが依存症」と思わずに、「病気である」と思い、医者にかかる方がいいかもしれない。医者に気軽にかかれる環境を作るためにも、依存症が「病気」であるという認識を国民全体で持たなければならない。

危ない、宗教に対する盲目

フィリピンで行われたキリスト教カトリック教徒の祭りで、大量に信者が押し寄せ、死者が出たという。そこまで信者が押し寄せた原因は、奇跡を起こすと信じられている黒いキリスト像が原因らしい。おそらく想像するには、黒いキリスト像に奇跡を求めて、信者が盲目状態になったものと考えられる。

宗教はしばしば人間を盲目にさせる。普段は論理的に考える人間でも、いったん盲目になると理性を失う。過去には盲目になった信者が起こした社会問題が無数に存在する。

近代日本で一番問題になった宗教問題は間違いなくオウム真理教事件であろう。オウムの幹部信者の中には、東大理系卒の学歴エリートが何人もいたという。もちろん東大卒の人間が全て理性的に物事を判断できる人間ばかりではない。しかしそのような、まともで高度な教育を受けてきたエリートが、何人も麻原のとりこになり、盲目に殺人行為に手を染めていった。このことに対して、これはオウムが特殊だったという人がいるかもしれないが、このことはオウムに限らずあらゆる宗教でみられる現象だ。現在まっとうな宗教と見られているキリスト教でさえ、昔は魔女裁判などで虐殺を行い、科学的主張をした科学者ガリレオ・ガリレイは宗教裁判にかけられた。

宗教に対して一番大切なのは、宗教に対する距離の置き方だ。宗教に対して全てをゆだねると、考えることを放棄してしまう。これはプチ・オウム状態とも言える。しかし宗教は多くの人にとって生きていくうえで必要なものだ。宗教が心の支えになっている人も多いだろう。しかし宗教に対する距離感を間違えると、人生の破滅につながることも多々ある。

僕が言いたいのは宗教に対する批判ではない。問題は宗教を信じる人間の方にある。どんな時も相手に丸投げせずに、考えることを放棄せずに、常に自分の頭で考えることを心がけることが大事なのである。