投稿者「木原 康明」のアーカイブ

真理を見抜く、本質を見抜く。

僕にとって物事の表面的な事はどうでもいい。いや、時には表面的な美しさにも魅かれることがあるが、それ以上にそれらの奥に潜んでいる本質を見抜くことが重要である。そして本質を見抜くためには、真理を理解しなければならない。

しかし、意外と真理を見抜いている人は少ない。固定観念や常識にとらわれ、真の思考を放棄してしまうのだ。本質の理解は深い思考抜きにはあり得ない。そして一点だけを見ても何も見えないことが多い。複眼的にその周りから受ける相互作用を考慮しなければならない。

ではなぜ真理を、本質を、見抜かなければならないのか?もしかしたら問題を解決するためと答えるかもしれない。しかしそれ以上に重要なのは問題を見つけることだ。もし自分自身で問題を見つけることが出来れば、その問題の解決の70%は出来ていると見て良い。“自分”で問題を見つけることが大事なのである。

21世紀初め、数学者のペレルマン博士によってポアンカレ予想という未解決問題が解かれた。もちろん解いたのはペレルマン博士であるが、その100年前にこの予想を提示したポアンカレはこの問題の本質の70%を掴んでいたと言って良い。だからこそ、ペレルマン博士が解いた後もこの問題はペレルマンの定理とはあまり言われず、“ポアンカレ”予想と言われているのである。

世の中には陳腐な事象が溢れ返っている。その中から少数の本質的なものを選び出さなければならない。しかし、歴史や権威に基づいた“本物”と言われるものに騙されてはいけない。歴史や権威に基づくものを思考停止的に本物だと崇める風潮が見られることに僕は危惧している。本質とは自分自身の頭で徹底的に思考して見出されるものなのである。

歴史学。

学校では歴史を「日本史」と「世界史」に分けて学ぶことになっている。もちろん便利上、日本史と世界史に分けることは大きなメリットがあるだろう。しかし、学校を卒業し大人になった後になっても日本史と世界史の区別にこだわることは賢明ではない。日本という国も地理的には世界の一部であり、日本史も世界史の一部である。なので日本史と世界史を区別するのではなく、日本と世界の歴史の相互作用を考えることが非常に重要になる。

「歴史は何のために学ぶのか?」と問われた時、「歴史から現在に生きる人間の進むべき道を考える。」と答えることが既定路線になっている。あるいは個人としても「自分がどう生きるかということに対するヒントを得る」という答えも定番だ。しかし、歴史そのものが面白くなければ誰も学ばないであろう。それは自然科学と同じである。物理を研究している物理学者は、物理が面白くて仕方がないのだ。数学も然りである。そして、それらが人類の知のレベルを表しているということも無視してはいけない。さらに当然のことながら、それらは人間の役に立つ。学問の効用を一元的に述べることはできない。

そして学んだあとに来るのが「考える」ということである。学問をただ受動的に学ぶだけではなく、自分自身で「論」を考えてみよう。歴史を学べば、そこから新しい論が出て来る。自分自身の説を作るのもいい。それが学界の主流になる訳ではないかもしれないが、自分で出した論、自分で導いてできた説は、人から学んだ百の勉強よりもはるかに価値がある。そのように身に付けたスキルは、あらゆる所、あらゆる分野で役に立つであろう。

学校で習うスタンダードな歴史を修得することはもちろん良いが、そこから自分自身で解釈して、自分なりの歴史観というものを創造することは非常に重要である。よく歴史は暗記科目だと言われるが、そのように言う人は歴史の心の一片も修得できていないのである。

序盤は構想力、中盤は実行力、終盤は勢いで押し込む!

最初に物事に取り組む時には、まず構想をしっかりと立てることが大事だ。特に大きなことに取り組む時には、時間的にも作業的にも長丁場になる。そのような事に対しては途中で何段階ものステージを経ねばならず、それぞれの段階で何を行うのか?そしてそれらをどう組み合わせるのか?という全体の骨格をしっかりと構成しないと、出来上がったものがちぐはぐになってしまう。序盤は構想力の勝負になる。

しっかりとした骨格を構成した後は、その骨格に従いつつ具体的な実行に移ることになる。頭の中だけで終わらせず、まず動く。それは体を使うということかもしれないし、ペンを持つ手を動かすということかもしれない。とにかく行動しない事には始まらない。「考えたら、すぐ実行!」、これは当たり前の事だが、意外とこれが出来ない人が多い。あれこれと妄想するだけで全く動かない人。他人にはいろいろと口出しするが、自分は全くかかわろうとしない人。これらはある意味、自分は安全地帯にいようと考える事から出て来る行動だと言える。しかしこれらの人は、重要な事に気づいていない。それは「安全地帯にいる=現状維持を目指す=没落へと進む」ということだ。現在の安全地帯もいずれは危険地帯に変わる可能性は大いにある。むしろ危険に飛び込む事こそ、後に安全を手に入れられることにつながることもある。人生において新たな事に挑戦しない者は、人生をやり切ってもう何もすることはないという人だけでいい。挑戦しない若者、あるいは何も成し遂げていないのに挑戦しようとしない人は、廃人同然だ。

物事を実行しある程度形が出来上がったら、後は押し込んで仕上げるのみだ。仕上げるのにも実行は不可欠だが、そこまでたどり着いたということはかなり勢いがついている。その勢いに任せて最後の一押しをしよう。その一押しをしないと完成のタイミングを失うことになる。どこで完成させようかと考えるのではなく、今完成させるのである。しっかりと構想をし、積極的に実行していけば、かなりのものが出来ているはずだ。そこまで行けば自信を持っていい。そしてそれを完成させれば、さらに自信が持てる。そしてその自信を次のステージへのスッテップアップの足場とすればいい。

「構想→実行→完成」の一連の流れを頭に入れておけば、途中で迷った時にもすぐにそこから抜け出せる。しかしそれが出来ていなければ、「思い付き→その場だけの取り組み→形にならない」ということの繰り返しになってしまう。起承転結ではないが、物事にはそれぞれのステージでそれぞれの仕事がある。そして人生とはその流れの繰り返しである。しかしその繰り返しは決して退屈なものではなく、非常にエキサイティングなものである。もし人生を面白く感じられないのならば、この流れを掴んでいない可能性が高い。人生のルーティンをしっかりと確立し、自分の形を作ることが非常に大切である。

複数の分野でプロになるべきだ!

大谷翔平はなぜ「投手としても超一流」で、「打者としても超一流」なのか?それは二刀流だからであると僕は考えている。何当たり前の事を言っているんだと言われそうだが、こういうことである。「投手に専念すればもっと良くなる」とか、「打者に専念すればもっと良くなる」とあらゆる人が口をそろえて言っている。しかし僕は、打者と投手の双方をすることによって、その相乗効果によってさらにレベルが上がっているのではないかと考えている。だから一本に絞ればさらに良くなるとは限らないし、一ファンとしても“二刀流”の大谷翔平を見たいと強く感じる。

学問においてプロとは何か?多くの人は一つの分野を極めている人だと言うかもしれない。特に日本社会では「プロ=専門家」という見方をされることが多い。しかし僕は一つの分野の殻の中に留まるべきではないと思う。それならば、「専門以外で趣味として他の学問をすればいい」と思うかもしれないが、僕はそれも甘いと思っている。専門以外の事でも、プロあるいはプロに限りなく近いセミプロになるべきだと思っている。数理物理学者ならば数学と物理だけを極めればよいという訳ではなく、他の学問、例えば哲学、生物学、歴史学、経済学、文学、語学など、あらゆる分野に関しても極めるべきだと思う。「趣味」ではダメなのである。複数の分野を極めることによって視野が広がり、本業においてもより本質を見抜くことが出来るようになる。

目指すは、「何学」のプロではなく、「学問」のプロであるべきだ。確かに生物学を極めると言っても、実験が出来る訳ではない。なので専門外の人間にとっては制限がある。しかし論文を読んで深く思考するくらいのことはしなければならない。しかしこのようなことを実行に移すためには、底なしの興味と好奇心が必要だ。どこまでそのような心を持てるか?という挑戦でもある。

僕自身が以上に書いたようなことを実行できているかと言えば、現在は「否」である。現時点では専門の事に関しても自分の納得できるところまでは行っていない。しかしこれからこのような事をどんどん実行して行こうと考えている。そのためには時間の使い方が一番の問題となる。しかし僕は時間の使い方が極端に下手だ。なので時間の使い方はこれからの僕の大きな課題だ。しかしこれからの進むべき道の広さと豊かさには心が躍る気がする。

完全バランスな社会などあり得ないのか?

社会は刻々と変化している。しかしその変化が進化か?と問われれば必ずしもそうとは思わない。確かに科学技術は確実に進化している。しかし人間自体は数年数十年で進化するわけではなく、モラルが良くなっている訳でもない。もちろん、より良い社会を目指して変化して行くことは必要だ。しかしそれが進化ではなく単なる変化、あるいは時には改悪だと思えることは非常に多い。

ではなぜ進化させようと思っていることが結果的に改悪になっているのか?それは視野の狭さに原因がある。ある事を改良しようとすると、そのことしか見えていないのだ。本来は物事というものはあらゆることが有機的につながって相互作用を起こしている。なので一点だけを見て変えようと思えば他の所で改悪的な影響が出るのは避けられない。生きやすい社会にしようと思って変えたことが、結果的に息苦しい社会を作ることになる。

現在、社会は非常にストレスを抱えていると僕は強く感じる。ネットやスマホにより生活は便利になり、交通は発達し、バリアフリーはいたるところで実践されている。しかし社会のあらゆるところで聞こえるのは、ストレスフルな現状に対する不満だ。ネットやスマホにより確かに便利になっている。しかしその一方、ネットやスマホに対してストレスを感じてはいないだろうか?もちろんそのような事は人それぞれ様々だが、便利さが新たなストレスの種になることはよくある。社会システムや法律を変えたことによって息苦しくなることがよくある。そのようなストレスを感じないためにもある程度の鈍感力は必要だとは思うが、何に関しても鈍感になり切ることなど簡単にできない。

生きやすい社会に変えようと思えば、広い視野であらゆるつながりを考慮しなければならない。一点だけを見て変えることほど危険な事はない。社会はバランスが重要なのである。しかし人間自体完璧でも何でもないので、完全バランスな社会などあり得ない。なのでどうしても生きづらい所やストレスを感じるところは随所に出て来る。そのような社会に中でいかに自分の人間性を発揮するか?そしていかにして広域的に良い社会を作っていくか?簡単な事ではないが、そのような事を思考しながら時代を前に進めて行かなければならない。

数式は大好きだが、数字は嫌いだ!

数学とは字のごとく数字の性質を扱う学問だが、高校までの数学とは違って大学以降の数学では意外と数字自体を扱うことは少ない。もちろん数学である以上、主人公は数字なのだが、その構造や演算の性質を記述する時は数字自体よりも数式で表す方が見通しが良くなり、一般性も高くなる。

タイトルで「数字は嫌いだ」と述べたが、ここで勘違いをしないでほしい。正確に書くと、「規則性のない数字、意味のない数字」が大嫌いだということである。だから数学で出てくる数字が嫌いなわけではない。簿記などのように何の規則性も数学的意味もない数字が大嫌いなのである。実際、数学に出て来る数字は非常に面白い。数学に出て来る数字と数式を縦横無尽に扱い、その性質を暴露することは非常に快感である。しかし簿記に出て来るような数字を見るとめまいがする。

なぜ近代数学は具体的な数字を扱うことが減ったのか?それは数学が高度な抽象理論なったことが原因である。昔は二次方程式の具体的な解を求めることが目的であった。それが「解の公式」という形で一段抽象化され、「5次方程式の解の公式が存在しない」というガロア理論へと高度に抽象化される。もちろん高度に抽象化された理論は難解かもしれないが、非常に豊富な内容を包摂する。そのような実り豊かな数学の世界を垣間見た数学者は、その世界からは抜け出せなくなる。それはいわば「数学中毒」と言えるかもしれない。しかしそのような中毒なら思う存分かかってみたいと思う。

世の中では抽象理論を敵視する風潮がある。抽象理論なんて何の役にも立たず、具体的な事象を示すことが大事だと。確かに社会で生きるためには具体性が最も重要なのかもしれない。しかし社会を高い視点で取りまとめる立場になるほど、抽象理論が威力を発揮する。商売をするには具体的な商品の値段が重要だが、経済政策を取りまとめる政府にとっては抽象理論が軸となる。数学も、身の回りで必要になる計算は具体的な数字の世界であるが、数学の世界の本質をより掘り下げるためには高度に抽象化した理論が必要になる。

物事をどれだけ抽象的に捉えることが出来るかということは、言い換えればその人の思考レベルを表していると言える。もし自分の生きる上でのホームグラウンド、あるいはテリトリーがはっきりしているのならば、そこでどれだけ思考や技術を抽象化できるかということに取り組むことは意味のある事である。さらに、もし自分がその世界のプロであるならば、抽象化の作業は欠かせない。抽象化の度合いはその人のステージなのである。

一般理論と特殊理論。

数学や物理理論は大きく一般理論と特殊理論に分けられる。もちろんその中間的な性質のものもあり、そう厳密に分けられる訳ではないが、大まかにはこのように分けられるであろう。一般理論には一般理論の面白さがあり、特殊理論には特殊理論の面白さがあるので、どちらが面白いかと一概に言える事ではないが、僕はどちらかというと一般理論の方が好きだ。

数学における特殊理論の代表は、特殊関数と言われる部類のものだろう。特殊関数とはある特殊な性質を持つ関数の事だが、僕は以前特殊関数にはほとんど興味がなかった。しかし最近ある事に気づいた。特殊理論と言われるものでも、それをどんどん掘り下げて追究して行くと一般理論にたどり着くのだ。特殊理論とは一般理論という大陸から離れた小島という捉えられ方をされることが多いが、その深い所ではその小島と一般理論大陸は強くつながっているのである。そこに特殊理論の醍醐味がある。最近はパンルヴェ方程式と言われる特殊な方程式が、百年近く経った今になって一般理論と結びつきそうだという研究結果もあるみたいだ。

ところで、“特殊”相対性理論はその名に反して最も“一般的”な物理理論と言える。“一般”相対性理論はそれに比べると少し特殊だ。物理理論においても、特殊な理論をさらに掘り下げると一般理論へと昇華することが多い。しかし数学と比べると、物理理論は一般理論とは言え特殊性が強いように感じる。最近では物理理論をきっかけに新しい数学理論が出来たり、その逆の事が起こったりということが日常茶飯事である。物理の枠組み、あるいは数学の枠組みということにこだわっていれば、数学と物理の間にまたがる本質的な仕事は出来ない時代なのだろうと強く感じる。

ここまで物理と数学における一般理論と特殊理論に関して述べたが、そのような構造は様々な所で見られる。経済でも「マクロ経済」と言われる一般理論のようなものから「ミクロ経済」と言われる特殊理論のようなものがある。ネットビジネスにおいても「プラットフォーマー」という一般的な部類から、プラットフォーマーが作った枠組みの中でどうビジネスを行うかという特殊な部類がある。そのような例を見ても、一般的な部類の方がその適用範囲の広さからより規模の大きい仕事が出来るようである。しかしプラットフォーマーのような一般的な仕事も、元を正せば非常に特殊な仕事から発展していることに気付く。なので一般的な部類で仕事をするにしても、特殊な仕事は無視できない。いかにして一般と特殊の間を行き来してその間の本質的なつながりを見抜くか?そのような本質を見抜いた時、仕事のスケールが飛躍的に大きくなることであろう。

人と違う道を進むのなら。

物事に対して何かの決断をする時、前例やデータを吟味して、マニュアルに則って進めるのが筋なのかもしれない。しかしそのようにするには、前例があり、データがあり、マニュアルがある事が前提となる。そしてそれらに則って行うということは、二番煎じ、三番煎じであるということである。しかし全く新しい所に全く新しい事を構築する時、多くの場合、前例もデータもマニュアルも存在しない。そこで頼るべきは自分の思考力のみである。人と違う道を進むのなら、徹底的に思考しなければならない。

人と違う道を進むということは、孤独である。しかし孤独というものは悪いものではない。孤独を愛せる者が自分独自の道を歩める。何やら社会では孤独ということが大問題になっている。僕には孤独の何が問題なのか全く理解できないが、これほど孤独が問題になるということは、孤独を愛せない人が大多数であるということなのかもしれない。孤独を愛し自分一人で道なき道を進めることは大きな強みである。大多数の人は無難な道を取ろうとする。それは孤独を愛せない事の裏返しである。孤独は悪い事であるどころか、むしろ自分を飛躍させる大チャンスである。多人数で戯れている限り、ブレークスルーは生まれない。

近年、「炎上」が度々話題になる。その内容は様々で、炎上するのももっともだと思える事から、なぜ炎上するのかわからない事もある。僕自身は炎上するのは全然かまわないと思っている。もし自分の信念に基づいて出た行動なら、何も炎上したからと言って謝る必要はない。僕が一番許せないのは、軽い考えを出して炎上して、すぐに謝罪することである。炎上内容以上に、すぐに謝罪するという軽さが許せない。そのような人はその程度の軽い人間なのであろう。自分の信念に基づいて人と違う道を進んでいる人にとって、むしろ二度や三度の炎上は受けるべきである。そのような炎上はむしろ誇りであると僕は思う。

日本では「出る杭は打たれる」とよく言われる。海外の事を詳しく知っている訳ではないが、それでも日本の「人と違う行動をする人を叩く」という風潮は異常に感じる。そのような中で独創性が生まれるわけがない。しかし実際は少ないながらも独創性を発揮する日本人がいる。そのような人間になるためには、相当自分の信念に自信を持ち、荒波の中にでも飛び込めるような人でなければならない。しかし、無難に過ごしながら最大の対価を得るためにはどうすればよいか?と多くの人は考える。一言で言えば「ノーリスク、ハイリターン」を求めていると言える。それが多くの日本人の現状である。

地球船宇宙号?

「宇宙船地球号」とは非常に的を得た命名である。その名前の中には、宇宙と比べた時の人間の存在の小ささが表現されている。しかし現在、情報社会が飛躍的に発達し、コンピューターは極度に高度化し、科学技術の発展も留まるところがない。そしてそれと同時に科学理論も常識では考えられないような展開を見せている。そのような現状の中、宇宙というものをどう捉えるかと考えた時、もしかしたら「地球船宇宙号」なんてこともあり得るのではないかとふと考えてしまう。

もちろん「地球船宇宙号」などというのは、考える僕のおごりかもしれない。いや、そうであってほしいと思う。人間はまだ月までしか到達していないし、あと数十年経っても太陽系の外には出ることはないかもしれない。しかし人間の知識は過去から未来まで宇宙全体を飲み込もうとしている。少なくとも物理理論はそのような領域に達している。宇宙の誕生の原理さえも解明しようと必死になっている。ただこれらの理論は検証することが非常に難しく、正しいかどうかを判定できないところがもどかしい気がする。

一昔前まで、人間が自然(地球)を支配するという思想があった。現在は人間も自然の一部であるという思想が強くなったが、技術的にはかなりコントロールすることが出来る。特に負の支配、つまり環境破壊に関しては、人間の行動を意識的にセーブしなければ一瞬にして地球を破壊できるレベルまで来ている。しかしその逆、つまり破壊したものを作り直すことは非常に難しい事業であり、お金も時間も膨大にかかる。そういう意味では人間が自然(地球)を支配するというのは幻想かもしれない。

しかし人間の知は無限であるような気がする。それは何も人間の知によって全てのことが出来るという意味ではなく、自然法則をエンドレスに理解できるということである。宇宙から素粒子まで、人間の知のスケールは果てしなく大きい。とは言え、まだまだ道半ばと言える。そのような人間の自然科学の知は、科学“技術”へと応用される。そこが面白い所であり、恐い所でもある。

科学技術というものは必ずしも豊かさだけをもたらすわけではなく、負の側面もある。特に現代技術ではそれが顕著だ。最近ではゲノム編集された子供が生まれたということが話題になった。一人の科学者だけなら完全に倫理観を守ることはできるが、科学者が何万といる中ではその中の何人かが倫理観に反した行動を取るともわからない。さらに科学技術者自身は社会の発展のためと思ってしていることでも、それが破滅を招くことも十分にあり得る。科学の発展は進化か?暴走か?それが実際に行ってみないとわからないところが科学技術展望の難しい所である。

背水の陣。

背水の陣とはある意味最後の手段と言えるが、背水の陣だからこその強みは無視できない。確かに後方に陣地がないために手段が限られてくる。現代社会ではいろいろな所で様々なメニューが用意され、市民は色々な選択肢の中から自分の好きな物を選ぶことが出来る。しかしそれが故に迷いが生じ、決断力が欠如してしまう。意外と選択肢が限られている方が目標をはっきりとすることが出来、迷いなくそれに集中することが出来る。背水の陣も同じで、進むべき道は正面しかなく選択肢が限られているために、強力に目標へと推し進めることが出来る。

背水の陣が意味することは、「失敗すると死ぬ」ということだ。実際に日常生活でそこまで追い込まれることはめったにないが、人生を懸けていることに取り組む時にはそのような状況もありえる。むしろ真剣に人生に向き合っている人ほど、そのような状況に遭遇するのかもしれない。なぜならそこには強い覚悟があるからである。覚悟がないということは、背水の陣で臨むということもないということだ。

人間というものは堕落しようと思えばエンドレスに堕落することが出来る。そこには意志も覚悟もない。しかし意志を持ち覚悟を持って生きている人間は、人生常に勝負である。堕落することは一瞬でも、上がることは容易ではない。一段上がるにも時間がかかる。将棋の藤井聡太氏の段はどんどん上がっていくが、それはおそらく普段の精力的な研究の賜物であろう。周りから見ていると簡単に上がっていくように錯覚してしまうが、実際はとんでもなく困難な道を進んでいるのだと思う。

初めは皆、「一歩進んで二歩下がる」というところから始まる。そこから「一歩進んで一歩下がる」、そして「二歩進んで一歩下がる」と少しずつ前進して行くのである。そして排水の陣では下がることはできない。つまり背水の陣ではどうあがいても「前に進む」か「死」という選択肢しかないのだ。確かに危険な橋を渡るようなものだが、そのような選択肢を選ぶ意志と覚悟を持って生きて行きたいと強く思っている。