投稿者「木原 康明」のアーカイブ

良心を持ったワルになれ!

ワルとは、世間的に、あるいは社会的・組織的に悪者とされる人間という意味で書いた。

世間から見て、あるいは社会的・組織的に見てワルとはどういう人なのか?このワルとは時代や組織によって定義は変わるし、自分が悪いことをしていないと思っていても悪者というっレッテルを貼られることは多々ある。だから、世間的に良い人間でいようなんてことを考えることにあまり意味はない。自分が正しいと思うこと、自分が悪くないと思うことを貫けばいい。その結果ワルとされても、そんなことは気にする必要はない。

もちろん、極悪のワルになってはいけない。良心を持ったワルにならねばいけない。

世の中の決まり・ルールには、明らかにおかしいというものが多々ある。その時に、それはおかしいからと堂々と決まりを破ることができるか。自分が正しいと思うことを貫くためにルールを破ること、それが勇気である。

ルールをきっちりと守る人には二種類ある。それは、良心から守る人、そしてもう一つは自分の保身だけを考えて守る人。

保身を考えて守る人は、単なるイエスマンでしかない。しかし現実には、ルールというものは保身に訴えかけて守らせるものだという側面は大いにある。

ルールを見て、なぜそうしないといけないのか?という奥に潜む意味を考えないといけない。確かにそんなことを考える人は、取り締まる人・支配者には厄介な存在であろう。逆に言うと、ルールに盲目的に従う人は扱いやすい。

規則の表面だけを見て意味を考えない状態は、パブロフの犬状態だと言える。そんなパブロフの犬に自我はない。

自分が正しいと思うことを正しいと主張できる、良心を持った”ワル”になることが大切だ。

核兵器弾道ミサイル迎撃に対する懸念について。

北朝鮮が、弾道ミサイル発射を宣告した。弾道ミサイルは、島根・広島・高知の上空を通過し、グアム周辺に落下するとの詳細な計画まで予告している。これから発射までの約一か月間、日本とアメリカは、防衛計画を煮詰めることになりそうだ。

そこで問題になるのが、北朝鮮の弾道ミサイルに核弾頭が搭載されるのかどうかということであろう。もし核弾頭が搭載されているミサイルを迎撃した場合、どうなるのか?防衛省局長は「迎撃により起爆装置などの機能は喪失する。核爆発による被害は発生しない」(時事通信)との認識を示している。

確かに迎撃により、起爆装置は作動しないかもしれない。起爆するには、核分裂連鎖反応を起こさないといけないが、核分裂連鎖反応は簡単には起きない。だから、防衛省局長の言っていることは全うなことだ。

しかし核爆発と核物質汚染は話が違う。核爆発しなくても、日本上空で迎撃すれば核物質の飛散は免れない。

確かに、核爆発に比べると核物質飛散の被害は小さいかもしれない。ただし、長期的な影響が残る核汚染に対する懸念は大きい。

もちろん、そのような被害がないことを祈るばかりであるが、ただ迎撃すれば完全に安全だという簡単な話でもないように思える。

核廃絶は100%正しい。

今年も広島・長崎での原爆被災日が過ぎた。原爆投下からもう72年を過ぎようとしているが、核兵器廃絶に向ける議論は一向に決着しない。

原爆の原理(あくまで”原理”である)は、アインシュタインによる特殊相対性理論にたどり着く。しかし、特殊相対論は原爆を作るために考え出されたものでは全くない。あくまで自然の真の姿を解明するために”自然科学の理論”として作られたものである。原爆の原理はあくまでも副産物、しかし最悪の副産物であった。

核兵器の責任を科学者にきせるのなら、誰の責任であろうか?間違ってもアインシュタインでは断じてない。原爆開発に向けた核分裂連鎖の技術的課題に取り組んだ科学者に責任の一部がある。しかし最も大きな責任は、科学者ではなく、科学者を利用して原爆を作成させた政治家にある。

そして現在、核兵器廃絶を進める人、あるいはそれを拒む人も政治家である。すなわち、未来への平和の扉の鍵は、政治家が握っている。

そして核兵器廃絶へ向けて科学者ができる事は、兵器への軍事技術の提供を拒むことだ。

しかし悩ましいのは、自国が核兵器を拒んでも、北朝鮮のように暴走して手を付けられない輩がいることだ。本当にやつらはどうしようもない。しかしそれらの源流をたどっていくと、欧米そして中国・ソ連(ロシア)の核開発競争にたどり着く。すなわち、現在の北朝鮮の核問題の責任の多くは、欧米中ソにあると言える。

この世の中に核兵器が存在する限り、人類の安泰はありえない。

核兵器「削減」を目標にして、核兵器の削減を実行するのはほぼ不可能だ。核兵器「廃絶」を目標にしない限り、削減は進まないであろう。

国連の会議(核兵器禁止条約の決議)で、日本は核兵器廃絶に賛成しなかった(正確には出席を拒み議論もしなかった)というニュースが流れている。被爆国日本が核兵器廃絶を拒否するとは、何とも情けない話である。

趣味も極める。

本職を極めるのは当然であるが、最近は趣味も極めたいと思っている。その極めたい趣味とは「釣り」である。とは言うものの、最近は少し事情があって、全く釣りには行っていない。でも今取り組んでいることで目標としていることを成し遂げると、再び釣りにも打ち込みたいと思っている。

なぜ、またまた釣り熱が熱くなってきたか?というと、毎日アップされる釣り動画に触発されたからだ。やっぱし僕は釣りが好きなんだ!魚が好きなんだ!と再確認された。

釣りを再開した時に、どこの海に通おうか?何をどう釣ろうか?と考えると何だかわくわくしてくる。そして釣りを気楽な趣味ではなく「極める趣味」として、ちょっとした釣り職人にでもなろうかと妄想している。

良い論文は、噛めば噛むほど味が出る。

論文に限らず、一般の本にも言えることだが、良い論文、良い本というのは、噛めば噛むほど味が出る。すごく短い論文や短編書籍などでも、良いものは何度も何度も繰り返し読み、さらにその度に新しい発見がある。同じところを繰り返し読んでいるだけなのに不思議だ。

最近、とある数学の論文(非常に偉大な論文である)を熟読している。この論文は数年前にプリントアウトしていたのだが、最近(と言ってもかなり前だが)になって深く読み始め、同じところを何度も何度も繰り返し読むのだが、その度に新しい発見があり、新しいアイデアが出てくる。まさしく噛めば噛むほど味が出る論文だ。

最新の論文をやみくもに読むのも悪くないが、良い論文を繰り返し読むことは、多くの論文を手当たり次第に読むより得るものは大きい。

論文のことについて書いたが、これらのことは普通の本・小説にも当てはまる。多くの本より、一つの良書を繰り返し読むことでしか得られないものがある。座右の書というものを一冊作るのも悪くない。

基礎科学者はアスリートか?

以前、「超対称性はスポーツだ!」(超対称性とは素粒子論に出てくる理論の一つである)という声を聞いたことがある。これはどういうことか?

基礎科学もスポーツも、直接何かの役に立てるためにやっているわけではない。基礎科学者は純粋に、「自然の仕組みを解明したい」という思いから自然を追及している。これはアスリートの「速く走りたい」という気持ちと似ている。

科学と言うと、役に立てるために研究していると思っている人は多いが、基礎科学に関しては役に立てるという目的意識は希薄だ。特に素粒子物理に関しては役に立てるという意識は皆無と言っていいだろう。とは言え、現段階で全く役に立たなくても、何十年後かに大きく役に立つということは歴史が示している。

基礎科学をスポーツだと認識できる人がどれだけいるかわからないが、僕は、「基礎科学者とは頭を使うアスリート」だと思っている。

自分の調子を制御する。

自分の体調、自分の思考の調子、自分では知っているようで意外と把握していないことも多い。

毎日最高の調子で過ごしたいが、調子の波はどうしても避けられない。ならば、波の低い部分をできるだけ抑えて、高い部分はできるだけ高くもっていかなければならない。すなわち、自分の調子を制御するということだ。そのためには、毎日毎日試行錯誤。わかったと思っても、次にはそれが通用しないことも。

調子を制御するためには我慢も必要だ。例えば断酒したり、精神的健康を得るために筋トレなど体から整えることも有用だ。

明日調子よく過ごすために、前日から自分を制御して頭と体を整えておかなければならない。

電気自動車(EV)は、本当に環境に優しいのか?

現在、自動車を取り巻く環境が劇的に変わっている。ガソリン車から電気自動車(EV)へと急激に移行しているのだ。

そもそもの発端は、フォルックスワーゲン(VW)による、ディーゼル排ガス不正問題。もちろん理由はこれだけではなく複合的要因があるが、排ガス不正問題はEVへの口火を切ることになった。

排ガスを出すガソリン車に比べて、EVは排ガスゼロで環境に優しいと言われている。しかしちょっと待て。EVに使用される電気は、もともとは発電所で作られたものではないか。ということは、発電所で排出される排ガスを考慮して比較しなければいけないのではないか?EVを排ガスゼロというのはフェアではない。

最近はガソリン車でも、ハイブリッド(HV)など劇的に燃費の良い車も出てきている。これらの排ガスと、EVで使われる電気の(火力発電所などによる)発電排ガスと比較するとどうなのだろうか?

もちろん、エネルギーは分散して作るより大規模に集中して作る方がエネルギー効率が良いと言われている。なので、EVの方が圧倒的に環境に優しく効率的である可能性は高い。

しかしEVは、

燃料→電気→動力、

と二回変換しているのに対し、ガソリン車は、

燃料→動力、

と一回の変換で済む。変換が少ない方が効率が良いのは明らかだ。

本当にEVは環境に優しいのか?一度数値的な検証をすることが必要ではないか。

安倍改造内閣に想う。

8月3日、安倍首相が内閣改造を行った。メディアの評判は、「目新しさがない」とか「閣僚経験者が多すぎる」など、保守的な姿勢を批判するものが多かった。

しかし僕は、今回の改造は特に悪いものではないと思っている。とは言え、現段階では「良い」とも言えないのが事実だ。

安倍首相は、今回の改造内閣を「仕事人内閣」と呼んでいる。確かにそんな目で見ると、(先入観からか?)仕事人の集まりのように見えなくもない。

都議選での自民惨敗により、にわかに次期自民党総裁・次期首相をめぐる動きが水面下で進んでいる。野田聖子・総務大臣は、次の総裁選出馬に関して前向きに考えているとの発言がある。しかし、何と言っても注目は、石破茂氏であろう。水月会(石破派)を二年前に立ち上げ、入閣要請を拒み虎視眈々と次期総裁の座を狙う姿は、3期目を目指す安倍首相には不気味に映るであろう。

今回の仕事人内閣、安倍氏は「結果本位の」と付け加えている。実際にしっかりと結果を出してもらえば、内閣支持率もしっかりと向上するであろうし、安倍氏の政治手腕には見るべきものがあると常々感じている僕自身も、「結果を出す内閣」になることを期待している。

地球外生命(宇宙人?)を探すのに、地球的惑星にこだわる必要はない。

宇宙人は100%存在する。なぜなら、我々地球人自身が宇宙人であるからである。この意味は、例えば他の星に知的生命体がいれば、その生命体から見れば地球人のことを宇宙人と呼ぶことからわかるであろう。

最近、地球外生命体を探すプロジェクトが盛んだ。では果たして、地球外生命体は存在するのか?科学的思考のできる人間なら、「99%存在する」と答えるであろう。

ところが、この地球外生命体の探索方法に、僕は一つの疑問を抱いている。それは、「地球と似た惑星でないと、生命体は存在しない」という先入観を持っていることだ。だから、生命体の探索の第一段階は、地球と似た惑星を探すことから始まる。

しかし僕は、生命体を探索するにあたって、地球的惑星にこだわる必要はないのではないかと考えている。その理由は、まず地球上の生命を見ても、極限状態で生きている生命が多いことだ。なぜなら、生命は生息状態に適応していくからだ。この様に極限状態で生命が生息していることを考えると、何も地球上と似た環境にこだわる必要はない。

ただ、地球的惑星にこだわる理由もないわけではない。それは「生命誕生の瞬間は、地球的環境でないと起こらないのではないか?」ということである。ただこれも、地球的環境に限定されるものではないかもしれない。

そもそも地球外生命体が、「手が二本、頭に脳があって」などという形を取っている可能性はかなり低い。同様に、「地球的環境でないと存在できない」というのも、地球人の先入観でしかないように思える。

ただし、探査の初段階として、地球的惑星にターゲットを絞るのは有用である。しかし、「極限的惑星にも生命体は十分に存在し得る」ということを念頭に置いた方がいい。