投稿者「木原 康明」のアーカイブ

ミクロの世界とマクロの世界。

最近、少しだけ経済学をかじっている。(勉強したというほどでもない。)よく知られているように、経済学にはミクロ経済とマクロ経済がある。ミクロ経済は個人や個々の企業の動きを基に解析する学問で、マクロ経済は国家間などの大きなレベルでの経済を解析する学問である。

経済学にミクロとマクロがあるように、あらゆる学問でもミクロ的分野とマクロ的分野がある。その最たる例が物理学であろう。物理学ではミクロの世界を扱う量子論から、宇宙的スケールを扱う一般相対性理論まである。もちろんほとんどの物理学者は専門を定めて研究を行っているが、量子論と一般相対性理論の両方の素養があることは必要不可欠である。

物事を追究するにはミクロかマクロのどちらかに特化して細分化していけばいいが、本質を掴むためにはミクロとマクロの双方から物事を俯瞰することが重要になる。これは学問だけに限らず、あらゆることに言えることだ。

しかし近年は物事を扱うスケールが巨大化し、全てを俯瞰することは現実として不可能になってきている。しかし物事を広く見渡す視点は今でも重要である。しかも、「広く浅く」ではダメだ。重要なのは「広く、そしてある程度深く」である。さらにもちろんそれだけではダメで、「かつ専門は徹底的に深く」ということを付け加えなければならない。

専門を深く追究することを軸とし、世界のことを幅広くある程度深く理解する。そのような素養を身に付けると、ミクロの世界を覗く顕微鏡とマクロの世界を見渡す望遠鏡を上手く使い分けることにより、物事の本質がより鮮明に見ることができるであろう。

勝負をかける時はとことん前に出る!

物事には「ここぞ!」という瞬間が必ず存在する。その瞬間を逃すとしばらくは勝機は訪れない。そのような瞬間を感じた時は、とことん前に出ることが大事だ。間違っても中途半端な姿勢を取り、勝機を逃してはならない。

勝機だと感じた瞬間には、時間とお金もとことんつぎ込むべきだ。確かに時間とお金を全てつぎ込むのはリスクであり賭けである。しかしとことんリスクを取ることでしかそれ以上の成果を得ることはできない。

理論の研究にかかるお金などはたかが知れている。専門書も高額だといっても、せいぜい一冊一万円前後だ。実験系の研究だと数千万円かかる研究も世の中には多く存在する。

僕は最近、連日高額な専門書を購入している。和書はジュンク堂で、洋書はアマゾンで購入しているが、たかがとは言え、やはり一冊一万円前後する専門書を購入するのには少々迷う。しかし結局は毎回購入するというパターンになる。やはり勝負の時にたかが本などの購入に迷ってはいられない。今、勝機を見出している。

専門書は平均して300ページ程あるものが多い。しかし間違っても300ページ全てをガッツリ身に付けようと思ってはいけない。必要なのはどの部分かということを見抜いて、ポイントを押さえることが必要である。最初から最後まで理解しようというのは勉強である。研究は300ページの中の1ページでも役に立てば御の字なのである。

先ほど、羽生結弦選手のスケートをテレビで観た。今季世界最高得点で優勝を果たしたが、やはり羽生選手の勝負強さは半端ではない。研究者とスポーツ選手の勝負は見かけは全く違うのかもしれないが、共通するところも多くあるのではないかと思っている。

勝機を見出した時に勝負をかけてとことん前に出る。その先の世界がどう広がるのか?非常に楽しみである。

解釈の自由度。

良い思想、良い哲学というものには解釈の自由度がある。そのような思想哲学は書いた人の意志だけではなく、受け取る人間の意志によっても意味は大きく変わってくる。すなわち受け取る人は、その意志によってさらに新たな思想や哲学を構築して行くことができる。

一見画一的に見える数学や物理の理論にも、解釈の自由度は大きく存在する。同じ理論を見ても、考える人によって見える世界が大きく違う。数学や物理理論というものは思っている以上に自由な世界なのである。

解釈の自由度があるということは、受け取る人の力量が大きく問われるということである。受け取る人の思考力がなければ、解釈の自由度は逆に焦点が全く定まらないぼやけた世界にしか映らない。逆に受け取る人の哲学的基盤がしっかりとしていれば、そこから自分的な明確な解釈が可能になる。

解釈の自由度がない世界というものは、ある意味レベルの低い世界と言える。そしてそのような世界は総じて硬直的である。解釈の自由度は思考や人間性に豊かさをもたらす。優れた数学理論や物理理論に魅了されるのは、その世界の景色が美しく豊かであるが故である。

今自分が何かに打ち込んでいるのならば、そこに潜むより深い解釈を追求することが自分に人間性の高さと豊かさをもたらすことになるだろう。

自由人とは?

自由人とは好きな事を好き勝手にやっているだけの人ではない。だから好き勝手に遊んでいる人などはとても自由人とは呼べない。では自由人の“自由”とは何に対しての自由なのか?それは思考や発想、そして行動の自由である。自由に行動するためにはその根底に自由な発想がなければならない。だからこれらの自由はセットであると考えた方が良い。

自分がその道で自由人であるためには、行動の自由と精神の自由を確保しなければならない。このことは一見簡単なように思えるが、実はこれが簡単にできない。何らかの束縛を受け、自分で自分を束縛してしまうのである。もちろん中には簡単に自由人であることを成し遂げてしまう人もいる。そのような人は自由人としての才能がある人なのかもしれない。しかし我々のような人は、常に「自由であるとはどういうことか?自由であるためにはどうすればいいか?」ということを自問自答しなければならない。

自由人とは、「リスクを取り、それ以上のメリットを得る生き方」だと僕は思っている。人生は一度しかないのだから、常に瞬間を悔いなく生きなければならない。しかし“悔いのない選択”を行うということは、多くの場合リスクを取ることである。そしてそのリスクがメリットに変わった時、人間は自由になれるのである。

このような行動的及び精神的自由人になるためには、生きる意味を常に意識して目標に向かわなければならない。簡単な生き方ではないが、それでも考え抜いてそのような自由を手に入れる価値はある。

批判されてナンボ。

自分の意見や行動に対して、100%の人から賛成されるということはほとんどない。もし誰からも批判や反対がなければ、それは何もしていないか当たり障りのない事しかしていないかのどちらかだ。そういう意味でも批判を受けるということは肯定的な意味合いもある。

人が歩んだことのない道を開拓する時には、反対意見は必ず生じる。100%賛成されることはなくても、100%反対されることはあり得る。もちろんそれが無謀な暴挙ならば言語道断だが、明確なビジョンを持って自分に勝算があると判断したのならば反対を押し切って踏み出るのも手だ。

物事を判断する時に、好き嫌いでは判断してはいけないとよく言われる。確かに論理的な判断を下すに当たっては好き嫌いは持ち込むべきではない。ただ好き嫌いという判断にも一理はある。それが自分の進むべき道に対しての判断ならば、好き嫌いという要素は非常に重要である。それによって自分自身のパフォーマンスが大きく変わるからだ。

最近の世の中は、批判に対して過敏になりすぎているように思える。もし自分が正しいと思って取った道ならば、少々の批判などに左右されてはいけない。また、それだけ批判を浴びているということは、それだけ注目を浴びているということである。逆にその注目を逆手にとって利用してやろうというくらいの手段を取った方が良い。

「批判どんと来い!」くらいの心構えを持って、周りからの批判の圧を逆に利用するくらいの重みを自分の中に作るために、どんどんと心臓に毛を生やしていきたいものである。

職人であること。

人間としてどうあるべきか?その答えはいくつかあると思うが、その中でも「職人であること」は非常に重要だ。職人と言えばマニアックな手仕事を思い浮かべるかもしれないが、プロスポーツ選手も職人であるし、学者も職人と言える。またこのようなプロ職以外にも、自分の仕事や打ち込んでいることにプロ意識を持って取り組んでいる人も職人と言えるかもしれない。

では、なぜ職人であることが重要なのか?それは職人であることから来る知恵や見識を持つことがあらゆるところで不可欠であるからである。さらにその人独自の技術も持ち合わせていることだろう。テレビなどを見ていると、畑違いの人が他の事に対して意見を言っていることがある。それは例え畑違いであっても、その人が持っているプロ職人としての知見を軸にして、あらゆることにその知見が対応できるからだ。職人としての知見は、専門分野以外でも大きく発揮できる。

逆に、職人でなく幅広い“知識”(知恵ではない)を持っている人の意見や考えは総じて陳腐だ。そのような人の多くの知識は、職人の一つの知恵にもかなわない。

高校までの授業とは違って、大学では学部学科が専門的に分かれている。その中で専門外の事も学びながら専門の知識や技術を身に付けていく。これらの事は専門職人としての知見を身に付ける上では大きな力になる。そして大学を卒業した後は多くの人が大学の専門とはほとんど関係のない職に就くとは思うが、大学で学んだ専門知識と教養を軸としてあらゆることに対応することができるだろう。しかし大学を就職するための肩書としてしか考えてないのならば、大学などには行かずに就職予備校に行ったほうが良い。

プロ職人になるためには、何より実践が大事である。理論や技術を学びそれを適用して実践してみる。職人として極めるためにはそれしかない。しかしそれ以外の教養的知識があれば、それも大きな助けになるであろう。

火の鳥。

僕が昔読んだ漫画の中で非常に好きだったのは、ドラゴンボール、のだめカンタービレ、そして手塚治虫の火の鳥だ。火の鳥は生命の象徴であり、死んでも再びよみがえる。そして火の鳥の生血を飲んだ者は永遠の命を手に入れられるというものだ。

人間には寿命というものがある。それは絶対に逆らえない自然の原理だ。しかし生物学的な命と共に、精神的な生命というものがあると僕は考えている。人間は生物学的に生きている間は、その精神は絶対に死んではならないと僕は思っている。

僕自身、精神が死にかけたことは何度かある。しかしその度に僕の精神はよみがえってきた。僕の精神は火の鳥だと思っている。ではなぜ死にかけた精神をよみがえらせることができたのか?それは人生の明確な意味と目標を常に持っているからだ。そういう意味で僕にとって数学と物理は命を与えてくれるものだ。

人間はよく二元論で語られる。物理的な身体と精神的な思想だ。このどちらがなくなっても人間は生きることができない。身体が生きていても精神が死んでいる状態は、僕は人間としては死んでいると考えている。体の健康は多くの人が気に留めているが、精神的な生命の健康をどれだけの人が気に留めているだろうか?それは精神が死にかけてよみがえってきた人にしかわからない。

火の鳥の生命、そして永遠の命とは、多くの人は生物学的な命だと捉えているかもしれない。しかし僕は火の鳥の生命とは精神の生命だと考えている。そういう意味で、人間は寿命をまっとうするまで火の鳥でいなければならないと僕は強く思っている。

好きな事の中にも苦行はある。

何に人生を懸けるか?多くの人は好きな事に人生を懸けるであろう。好きな事をやるのは楽しいが、人生を懸けるとなると必ずしも楽しいことばかりではない。趣味であれば楽しいことだけをして苦しいことは避けるということもできるが、人生を懸けていることに打ち込み目標を達成するためには、避けては通れない苦行も多く存在する。

しかし、そのような苦行が嫌なわけではない。苦しい事ではあるが大きなやりがいを感じ、快感でもあるのである。そして何よりもその原動力となるのは、目標を成し遂げた後の自分を想像することである。それを成し遂げた後に自分はどう変わるか?実際は自分の身の周りの事は特に変わることもないのかもしれないが、自分の中の世界観は大きく変わる可能性はある。

好きな事に打ち込むに当たって苦しいことに突き当たるのは、それは大きく深い目標を持っているからである。もし陳腐な目標であれば、苦しい事にも遭うことなくすぐにやり切ってしまうであろう。とは言え、もちろん大きな目標に向かい、楽しみながら達成してしまう人は素晴らしい。世界でトップレベルのスポーツ選手は総じて「プレーを楽しむことができた」と発言している。しかしその言葉は苦しいことはなかったということとは全く違う。苦しさもやりがいに感じる力が必要だということだ。ただこのような事は自分を高めるために必要なステップであって、他人に強要することではないことに注意しなければならない。

楽しんでプレーしているはずの錦織圭選手も、時にはイライラしてラケットを投げつけるのを見ると、最高のスポーツ選手も人間なのだと安心してしまう。人間というものは、100%よりも90%くらいがちょうど良い。

しばらくは苦行を楽しみつつ、それ以上の喜びを味わうために精進していこうと思う。

量的な判断と、質的な考察。

物事は量的な判断と質的な考察の両方から行うことが重要だ。量的な判断は、数値で厳密に表現され、視覚的にもわかりやすい。しかし量的な判断ばかりにこだわり質的な側面を見落とすと、物事の本質を見誤ってしまう。

もし量的な側面だけで判断するのならば、何も人間がしなくてもコンピューターに任せておけばいい。量的な判断はコンピューターの最も得意とする分野で、瞬時に膨大な量の事に対して正確な判断ができる。

「質」はある程度数値化できるが、個々の感覚によるところが大きい。そしてそれは数学や物理という一見数値的に見えるような事柄においても非常に重要な役割をする。そして質的な判断は、目に見えないものを見る技術とも言える。先を見通すためにはこのような技術が必要不可欠である。

「量的判断にこだわる人は、数値に溺れる」と僕は思っている。量的判断に基づくことでも、最終的な決定は質的判断に委ねられる。質的考察なしには本質に迫ることはできない。

構造論と反応論。

物事を考察する時には、構造的側面と反応的側面の両方を考えることが重要である。これは多くの学問にも言える。原子核物理は大きく構造論と反応論に分類することができ、経済学においても世の中の構造とその間で行われる動的な仕組みを知ることが必要である。構造論と反応論は、空間的軸で考えるか、時間軸で考えるかということだと言える。

構造論と反応論は多くの場合補完的である。もちろん最近は多くの事に関して細分化されており、巨大な対象の隅を突くような視野の狭い研究が多くの事に対して見られることに危惧を感じているが、ミクロの目とマクロの目の両方を上手く利用しながら本質を明らかにしていくことが必要である。

あらゆる研究において、多くの場合構造論が先行し、その後に反応論が続くという形態を取ることが多い。構造論は静的であり単純化しやすい。しかし反応論は動的であるがゆえにその反応をモデル化することは困難を極める。もちろんこの逆もあり、反応を解析することによって新たな構造が見えてくることもある。しかし繰り返すように、この二つは単純に分離できるものではなく、それぞれ補完的に、あるいは融合的に行うことによって物事の真の姿が見えてくる。

構造の解析からは物事の外見の本質を知ることができ、視覚的に非常に面白いものである。そして反応の解析からは物事の変化の様子を知ることができ、始点から始まる変化のすそ野がどのように広がっていくかという壮大な物語を知ることができる。そしてこの二つを融合することによって、初めて物事の全体像が見えてくるのである。