投稿者「木原 康明」のアーカイブ

精神は自由で、行動には規律?

僕は人間には二つの自由が大事だと考えている。一つは精神の自由、もう一つは行動の自由だ。この二つの自由はそれぞれ独立しているものではなく、精神の自由は行動の自由を確保されてこそ成り立つものだと思う。従って、行動の自由を制限すれば、そこから精神の自由度も低くなってしまうことになる。

しかし、行動の自由を他人から侵されることは極力避けなければならないが、自分で自分の行動を律することはある程度必要だ。そうしないと、お酒を飲みだすと止めどもなく飲んでしまうことになるし、他人にも大きな迷惑を掛けてしまうことになる。そしてその先にあるのは自滅である。信念に基づく自由は大切だが、自由を逆手にとって暴挙に出てしまうことは避けなければならない。そのためには自分の行動にある程度規律を定めることが必要なのである。

ところが、この塩梅が難しい。自由と規律は言葉の意味で言えば相反するものであり、一方を重視すれば他方が軽視される。お酒を飲む自由は欲しいが、お酒に溺れるのは良くない。やはり事を成し遂げるためには、自由と規律を上手くコントロールすることが必要である。

僕自身も出来た人間ではないから、どうしても同じ失敗を繰り返してしまう。多くの失敗をすることは悪い事ではないが、同じ失敗を繰り返すのは考え物だ。しかし同じ失敗を繰り返す中でも、どこまでなら失敗せずに済み、どれ以上すれば失敗してしまうか?という線引きをどこですべきかという事がわかってくる。権利と義務がセットで語られるように、自由と規律もセットで語られるべきものかもしれない。結論を言うと、自由人であり続けるためには、自分を律することが必要だということだ。

基本的思考。

同じ人間の思考・思想がころころと変わることはありえないし、もしそんな人がいれば他人から全く信用されない。人間の基本的思考、すなわちその人の根本的な考えというものは人生を通じて大きくは変わることはないので、言い回しは変わっても言っていることの本質はほとんど変わらない。今日、記事を書こうと思って、何となく過去に書いたことのあるようなタイトルだったので念のためにブログ内検索をしてみると、案の定、過去に同じタイトルで記事を書いていた。同じタイトルでも記事内容は違うものになるのでそれでもいいかとは思ったが、そのタイトルで書くのはやめることにした。

基本的思考なんていう言葉があるのかどうかわからないが、人間にはそれぞれ芯となる部分がある(と思われる)ので、その芯となる部分にあたる思考・思想と言う意味で基本的思考という言葉を書くことにした。僕自身、常に不変な基本的思考というものは強くあり、表面的な所は変わっても、行動原理はその基本的思考にある。なので自分の行動パターンというのもは大概同じものになることが多い。別に意識はしていないが、自分の行動そのものがルーティンのようになっている。

そのようにルーティンというものは基本的思考から出て来るものだとは思うが、逆に意識的にルーティンを作り、思想を固めて行くというのもありだ。自分の目指すところがあるが今の自分にはまだ何か足りないところがある。そのような時、その足りないところを形作るためにルーティンを定め行動原理を作り、自分を高めて行くのだ。それが出来る人間はかなり強いと思う。

ただその場の思い付きや、楽をしたいという考えだけで行動していれば、自分という人間に対して人間性を構築することはできない。信念というものは決して楽をするためにあるのではなく、苦しい思いをすることも多々ある。しかし自分がこうありたいと思う自分があるのならば、まず自分の基本的思考が何なのかということをしっかりと認識してルーティンを確立することが必要だ。

“ものつくり”国家、日本。それが良いのか?悪いのか?

日本は昔から「ものつくり国家」と言われてきた。現在でも高品位なものを作ることに関しては秀でているし、実際「made in japan」というブランドは現在でも広く通用する。これまで日本の「ものつくり」というものに日本人は大きな自信と誇りを感じていたが、現在そのような「ものつくり」に対する大きな自信があらゆることに対して影を落としているように感じる。

ハードとソフトを区別するのならば、ものつくりとはハードである。そして日本はものつくりに絶大な自信を持っているように、ハードに関しては今でも世界でトップレベルである。しかしソフトに関しては日本の一人負けの感がある。ものつくりのハードにこだわるあまり、ソフトに対する力が欠けていたのではないだろうか?

ハードは目の前の机に置いてはっきりと見ることが出来る。しかしソフトは机の上に置くことも出来なければ、現物としてもなかなか認識しづらい。ソフトとはある意味「設計図」である。昔なら紙の上に書かれた図であり、現代ならコンピューター上に書き込まれるプログラミングである。これらの紙やプログラミング画面自体に全く価値はない。価値は紙の上の、あるいはコンピューター上の「情報」にあるのである。これらの重要性を認識するためには、目に見えない価値を感じなければならない。それらの価値を認識するにはものつくりの価値を認識するだけでは足りず、時にはものつくりの価値へのこだわりが情報の価値を見ることに対して盲目的にさせる。今日本に必要なのは、このような目に見えない価値を認識する力ではないだろうか?

ものつくりはそれはそれで素晴らしい。しかしこれからは「もの」と「情報」、すなわち「ハード」と「ソフト」の双方の重要性を認識する必要がある。ものつくり国家から脱却するのではなく、さらにソフトの強みを付け加える必要があるのである。これはコンピューターソフトに対してだけではなく、全ての目に見えない価値を作り上げることであることは言うまでもない。

ブラックホールが直接観測されたようだが。

4月10日、国際的な研究チームが、ブラックホールを直接的に観測することに成功したことが報道された。最近はブラックホールというものが完全に市民権を得て日常的にも話題になることが多いが、これまではブラックホールの存在は間接的にしか観測されておらず、今回の観測が初の直接的観測となったようだ。

ブラックホール存在はアインシュタインの一般相対性理論からの帰結として出て来るが、相対論から初めてブラックホールの存在を導き出したチャンドラセカールのことはあまりよく知られていないように感じる。今回の直接的観測は大きな成果かも知れないが、それは重要性からという以上に、興味の大きさから来るものだと感じないわけではない。重要性という観点で言えば、チャンドラセカールの理論の方が圧倒的に大きい。しかし大理論の常と言うか、チャンドラセカールが理論的にブラックホールを発見した当時は周りの研究者からはほとんど受け入れられなかったという。もちろん、今となってはチャンドラセカールに対する評価は絶大だが。

本質的に重要な成果は、多くの場合すぐには受け入れられない。なので大理論を目指すには、同時に小さな結果を出し続けることが要求される。それが出来ないと自滅することになるかもしれないので、結果が出て評価されるのが先か?自滅するのが先か?という争いになる。

成果の大小は研究費の大きさに必ずしも比例しない。今回のブラックホールの直接観測には多くの研究者と多くの観測施設が関わっていたようだが、おそらくかかったお金も膨大であろう。しかしブラックホールの存在を導き出したチャンドラセカールは、おそらく紙とペンだけでこの重要な結果を出したと思われる。ペンの力は偉大である。そして科学では往々にして、ほとんどお金をかけずにペンだけで大理論が出される。もちろん研究している分野によってかかるお金はまちまちだが、研究結果は必ずしも研究費に比例しないことは認識しておくべきである。もちろん、研究者が生活できるくらいの最低限のお金は必要だが。

数学の基礎の基礎。

「基礎」と言っても、初歩という訳では全くない。「土台」という意味である。数学の土台に当たるところは、数学基礎論(数理論理学)である。数学基礎論が数学の一番の土台である割には、数学科の学生でも基礎論を修得している人は少ないであろう。僕もその修得していない人のうちの一人だが、数学をやっていて基礎をたどって行くとやはり基礎論になるので、最近、基礎論が気になっている。

基礎論の金字塔は何と言っても「ゲーデルの不完全性定理」であろう。これはすごく単純に誤解を恐れずに言えば「数学にはバグがある」ということだが、そもそもここで言う「数学」とは何か?数学の定義とは何か?ということが問題になってくる。ここで言う数学とは通称「ZFC」(ツェルメロ・フランケル体系に選択公理を付け加えたもの)のことだ。ZFCは基礎論や数理論理学をやっている人以外には馴染みのないものだが、ZFCがどのようなものくらいかは知っておいた方が良いかもしれない。

数学基礎論は数理論理学とも言われるように、数学よりも論理学に近いかもしれない。数理論理学者のことを「ロジシャン」と言うらしい。数学はロジックだけでは発展しないが、数理論理学を進めるのは99%ロジックなのかもしれない。

数理物理を研究しようと思うと、当たり前の事だが応用数学だけでなく純粋数学も必要だ。その純粋数学の基礎を突き詰めると数理論理学になる。従って数理論理学を勉強することは数学者にとっても理論物理学者にとっても非常に有益であるに違いない。最近、数理論理学の専門書をチェックしたので注文しようと思う。ゲーデルの論文の日本語訳も手元にあるが、「原論文でも」と思ったが、原論文がドイツ語であるので歯が立たない。まぁ、日本語でも英語でもいい。とにかく原典に当たることが重要だ。研究にも利用できるような気が(少し)する。

数学は非常に広い。しかし本質を知るにつれて既知の数学が少し窮屈になってきた。しかし未知の数学は恐ろしく広いはずだ。その証拠に数学の発展はエンドレスに続いている。既知の数学を勉強して理解するのは難しくないかもしれないが、未知の結果を出すのには骨が折れる。まぁ、何本骨が折れても目標とする結果が出れば良いのだが。

幹は本質だけど、花がないと誰も振り向かない。

本質を掴むことは非常に重要だ。しかし幹となる本質だけ取り出しても、その幹がどれだけ重要かなかなか理解されない。本質となる幹は、花を咲かせてこそ初めて重要性が理解されるのである。

最近、数学に取り組んでいてそのような事を強く感じる。数学の中で幹となるのは三つほどの概念なのである。その三つほどの概念の下に次に重要な概念がいくつか付随する。そしてさらにその下に次に重要な概念が。この様に数学的構造は系統樹的に連なっている。そして言うまでもなくその系統樹を概観して理解することは非常に重要だが、それを概観するだけでは何も生まれない。そこから手を動かして計算することが重要なのである。計算して細部を埋めることによって、系統樹に新たな部分が追加される。

数学的視点はあらゆることに応用できる。それはビジネスであったり、日常生活であったり、人間関係であったり。それらの構造と相互作用の骨格は、かなりの部分が共通する。だからこそ、一つの事を極めてその本質を掴めば、それが他の事に応用できるのである。プロのジェネラリストになる一番の方法は、プロのスペシャリストになることなのである。

プロのスペシャリストになって、そのことに対する本質を掴む。それで良いのだが、それだけでは誰も見向きはしない。そこに花を咲かせること、それが実績になるのである。しかし花を咲かせることだけに気が行って最短コースをたどる事ばかりを考えると、意外に大きな壁にぶつかってゴールにたどり着けない。本質を掴むという作業は一朝一夕では完成しないが、そのように遠回りしてみると意外にゴールまでたどり着けるものかもしれない。

七人敵に回して、三人味方にするくらいが。

誰でも自分の周りの人が味方であった方が良いと思うかもしれない。しかし何に関しても周りの全ての人が味方であるということはほぼありえない。逆に周りの人全てが味方であるといった状況ならば、それはある意味危険信号であると思った方が良い。もちろん全ての人を敵に回す必要はないが、七人敵に回して三人味方にするくらいがちょうどいい。

時には敵というのもありがたい存在である。敵がいるからこそ、自分の欠点、自分に足りないものは何かということに気付くことが多い。もし敵に対して憎しみしかなければ、それは自分には何かが足りないということだ。過去の自分にもそういうことは多々あった。おそらく今でもそういうことはあるのだろうが、しかし敵によって気付かされることも多い。七人の敵によって自分の欠点を補い、三人の味方によって後押しされる。その十人はまさしく自分の周りの世界の縮図である。

周りの人がイエスマンばかりだと、ある意味非常に楽である。しかしそのような状況は全てにおいて危険であり、何の発展ももたらさない。しかし権力を持ってしまうとどうしてもイエスマンばかりになり、また本人もそれを求めてしまう。従って自分で意識しないと理想的な状況は作れない。

敵が七人以上いるとかなりきついし、逆に敵が少なすぎると惰性で動いてしまう。このバランスは非常に難しいところである。そしてそのような環境は自分で作ろうと思って作れるものではなかなかない。しかし確実に自分の人間性が影響するところである。日常では自分の事を考えるだけで精一杯であるかもしれないが、少し余裕が出来たら自分の周りの人間環境にも気を付けてみるのも良いかもしれない。

洒落者。

洒落者とは辞書で引くと、単に「お洒落」というだけではなく、「粋な人」という意味もある。僕の考えるところでは、この洒落者のお洒落とは、「外見がお洒落」であると同時に「内面もお洒落」ということではないだろうか?外見も内面も両方とも洒落ているとは素敵な事ではないか!

お洒落とは流行を取り入れることだと思う人もいるだろうが、僕はむしろ不変的なお洒落を重視している。これは内面に関して言うと、信念だとか芯というものではないだろうか。このような何事にも動じない人間はあらゆることに強さを発揮するし、頼もしさも感じるであろう。人の顔色ばかりをうかがって判断する人に魅力を感じる人はいない。もちろん時にはこのような動じない人は強い批判にさらされることもある。しかしそれが本当に理に適うことならば、時間が経てば多くの人に受け入れられるであろう。

お洒落とは決して自分本位の事ではない。お洒落とは自己満足三割、周りからの目線七割なのである。すなわち周りの人間からの目線を考えられない人は、洒落者にはなれない。とは言え、ここで書いた割合は場合によって変動する。その時々で自己満足の割合と周りからの目線の割合を上手くコントロールすることが重要である。

そして時には自己満足十割を貫くべき時もある。またそれとは逆に周りからの目線十割にすべき時もあるかもしれない。そこでそれを徹底的に決断を下せる者が洒落者である。外見も内面も徹底的に洒落者になれるか?そこに人間としての魅力が詰まっているのだと思う。そう考えると、なぜお洒落な人が魅力的なのかが理解できる。

三歩先を読む。

先を見ることは大事であるが、今を切り抜けなければ先はない。よってどうしても現在の事だけを見て全てを判断してしまう人が多い。もちろん多くの人は先の事も見ているとは思うが、ほとんどの場合先を守ることを考えて、先を挑戦する人は少ないように思える。

三歩先を見る、あるいは三歩先を読むためには当然のことながら、一歩先、二歩先を熟知しなければならない。そしてもちろん、三歩先がやって来るかどうかも分からない。しかしそのやって来るかどうかわからない三歩先を見ることに意義があるのである。そのようなやって来るかどうかわからない三歩先のことなど、ほとんどの人は考えようとはしない。だからこそ、そこで三歩先を読むことによって大きなアドバンテージを得られることになる。

三歩先とはかなり先の未来になる。現代の激変する世の中にあっては、少し先の未来でもどうなるかは想像するのは困難であり、三歩先を読んだところでほとんどの場合その通りにはならないであろう。しかしそれでいいのである。逆に読んだとおりにしかならないのであれば、それは大したことは考えていなかったという証拠である。激動する中で、その場その場で修正を掛けて行けばよいのである。そうすれば元々考えていたことではなかったことかもしれないが、修正を繰り返す中で読みは的中するのである。

三歩先までたどり着くまでに、あらゆることに遭遇するであろう。その中で新たな問題、新たな課題が見つかり、新たな発見があるだろう。問題が増えることは喜ばしいことである。なぜなら、一つの問題だけを解決するより、二つの問題を解決する方がより大きな成果になる。さらに大きな問題を複数保持することによって、あらゆる変化に対応できる。これがダメならこれでどうだと畳み込んで行けばよいのである。

僕の場合、現在大きな問題を二つ保持している。どちらも非常にエキサイティングな問題だ。その問題を解決すべき日々格闘している。もちろん机の前でペンを持って書物や論文と格闘するという、見る人によっては非常に地味な作業に思えるものであるが、これが非常に面白く刺激的でエキサイティングなのである。理論の三歩先を読むことは意外に簡単でも、それを実行して成し遂げるのは非常に骨の折れる作業である。しかしそのような事に取り組む価値は十分あると考えている。

人生の延長線上にある三歩先を見れば、自ずと自分の進むべき道は見えてくる。そして不思議にも自分の人生の全てが意味あるものに思えてくる。いや、そうして進むことによって自分の人生に意味付けをしていくのかもしれない。それができれば人生が非常に豊富になり、そして非常にエキサイティングになって来る。

学問は役に立つのか?立たないのか?

学問は役に立つのか?立たないのか?このような疑問は小学生から大人まで多くの人が一度は疑問に持つことだと思う。そのような問いにどう答えるか?僕ならば一言「役に立たない」と答えるのみだ。しかし僕のその一言の中には非常に深い意味が込められている。

もし学問は役に立たず、学問をする意味がないと本気で考える人がいるならば、その人は学問をする必要はないと僕は思っている。学問が役に立つと思えず、する必要もないと考える人が、嫌々やる事ほど無意味なものはない。それは学問を究極的に究めようと思っている僕だからこそそう思う。

しかし、僕は学問を究める意味は非常に大きいと考えている。そして「役に立たない=する必要もない」という等式が成り立つほど単純な問題ではない。役に立たない、しかしやる意味は大いにあると考えるのである。そして特に、「役に立つ科学は、役に立たない科学から生まれる」ということも忘れてはいけない。役に立たないからやらないという姿勢では、社会は全く発展しない。現代の非常に発達した社会は、役に立たないかもしれないけどやってみようという先人たちの努力がなし得たものである。

僕は「役に立つか?立たないか?」という問いほど無意味なものはないと思っている。価値判断を、役に立つか?立たないか?という視点でしか見れない人の思想は総じて薄っぺらだ。物事の深さは役に立つかどうかとはほぼ無関係だし、それは学問においても同じだ。そしてもし本気で役に立つことをしたいと思うならば、まずは学問に打ち込み自分に人間としての広さと深さを作ることが重要である。もちろん、学問を究めなくても役に立つことはできる。しかし役に立つことの基盤を築くには、学問的思考が必要である。学問的思考がなければ、表面的な事に終始してしまう。

そして僕がここまで言ってきた「学問」という言葉は、何も数学・英語・理科・社会・国語だけではない。人間的哲学だとか経済的な事も含まれる。何も学校で習うことだけが学問ではないのだ。だから学校に行かなくても学問を究めることはできる。逆に大学に行っていても学問が出来ない人は多い。

これらの学問は習うより「ものにする」と言った方が正しいかもしれない。学問をどれだけものにできるか?それは自分の人間としての広さと深さに直結するものである。