投稿者「木原 康明」のアーカイブ

物事を確率で考える。

物事を考える時、成功するか?失敗するか?あるいは良いか?悪いか?と二者択一で考えてしまうことが多い。しかし多くの物事は二者択一で考えられるほど単純ではないし、黒か?白か?ということに対してはほとんどの場合グレーである。しかし、グレーと言っても、白に近いグレーから黒に近いグレーまで色の濃さは様々である。ではグレー領域を判断するにはどうすれば良いか?それは正確に確率を読むことである。

金融の世界では、商品が上がるか?下がるか?という判断は確率によってされる。金融に携わる人にとっては確率論は必須の知識であるし、金融の世界で判断する際には確率微分方程式が使われると言われている。(アメリカの金融街、ウォールストリートで一番有名な日本人は、数学者(確率論)の伊藤清だと言われている。)

単純に考えれば、実行するかしないかの判断の分かれ目は、50%ラインにあると考えられる。しかしそれはあくまで非常に単純に考えた時の話で、成功率が99%でないとしてはならないこともあれば、1%に賭けるべき時もある。しかしどちらにしろ、確率を正確に読まなければならないことには変わりはない。

もちろん、日々の生活の中で全ての事に対して確率で判断して行動すべきだとは思わないが、物事を思考する時に確率的な考察を取り入れる事は多くの場合有用だと考えられる。と言う僕は、意外と確率的な判断はあまりしないような気がする・・・・。

確率論とは数学の一分野であり、数学的理解なしには確率的考察は出来ない。もちろん、専門的なルベーグ積分を使って、とまでは言わないが、日常で数学的思考が有用であることはこのような事からも理解できるであろう。

リスクの取り方。

リスクとは一言で言うと危険ということかもしれない。しかしリスクという危険には、それを乗り越えた時に大きなメリットがある。人間にはリスクを取れる人とリスクを取れない人の二通り人がいる。僕は圧倒的にリスクを取る人間である。とは言っても、投資などの金銭的なリスクを取る訳ではない。もちろん広く考えると金銭的なリスクも取っているのだが、それ以上に人生のリスクを取ることを心がけている。

何に対してリスクを取るのか?それは人それぞれ様々であろう。仕事でのリスク、日常生活や人付き合いでのリスク、あるいは恋愛でのリスクかもしれない。もちろん、普段から常にリスクを取り続ける必要はないかもしれない。しかしここぞという時にリスクを取れるかという事は、自分の人生を確立するためにも必要である。

ではリスクを取らなかったら失敗しないか?と言えばそうではない。実はリスクを取らないという事は、大きなリスクになりうる。それならば同じ危険性を背負うのならばリスクを取って挑戦したほうが良い。挑戦して仮に失敗しても、悔いは残らないであろう。

リスクを取る時、躊躇をすることは多々ある。しかし中途半端にリスクを取ってしまえば、危険を背負いながら失敗するという最悪な結果になってしまう。リスクを取る時には全力で取り組むことが必要である。そのためには、念入りな準備が必要だ。リスクを取るからには、何が何でも成功をしなければならない。そのための努力を惜しんでは絶対にダメだ。

リスクといった事を考える時には、どうしても負の側面を考えがちだ。しかし現在自分が置かれている立場を脱却するためには、リスクを取ることが不可欠な事もありうる。それは人生を進めるにおいてかもしれないし、金銭的な事かもしれない。そのような人生の危機において、悲観的になるばかりではなく、ある程度楽観することが必要だ。そして人生を楽しむ事、自分が取り組んでいる事、自分が懸けていることを楽しむ事、これが重要である。しかし楽しむ事というのは決して楽な事ではない。時には楽しむためにその何倍も苦しむこともある。しかしその上で掴んだ自分の人生は格別なものである。その格別な人生を手に入れるため、今苦しんで努力すればいいと考えている。

分析だけでは解決しない。

勝負に敗れた時、その敗因を分析しようとする。分析することは確かに重要だ。しかし分析をどれだけしても解決しないこともある。例えばスポーツで敗れた時にもその原因を分析しようとするであろう。しかし自分の力を強くしないと根本的解決にはならない。分析三割、実行七割というのが原則であろう。

21日、統一地方選挙及び衆院補選があった。衆院の二つの補選では両方で自民党が敗れることになった。安倍政権の下で圧倒的な強さを誇った自民党であったが、今回の敗戦にはそのほころびが見える。二階幹事長は「敗因分析を急ぐ」と言っているそうだが、僕にはこの敗戦が分析によって解決するかといえば疑問に思う。なぜなら、分析によって解決するのは下層部への問題であって、より上部の問題に対しては分析だけで簡単に解決できるものではないからだ。

敗因分析以上の効果をもたらすのは、根本的理念の変革、及び根本的制度の変革である。しかしこれらの改革は大きな効果をもたらす可能性がある一方、大打撃を与える可能性もある。諸刃の剣である。理念に関してはそう簡単に変えるべきものではないし、その理念を貫き通すことによって信用も生まれる。今回の敗戦に関しても、理念の変更が大きな原因になったとは僕は考えてはいない。むしろ根本的制度の改革が裏目に出たのではと考えている。もちろん、社会的制度の変革などもあるが、一番大きなのは自民党総裁任期の変更であろう。もちろん、これ以外にもいろいろと原因はあるかもしれない。しかし次期参院選までに立て直すのは至難の業であろう。さらに分析だけで乗り切ろうと思えば、これは不可能だと言わざるを得ない。

自民党が次期参院選で立て直すには、分析以外の取り組みが鍵になって来る。特にインパクトのある標語的な政策を打ち出すのなら、それは次期参院選では効果的かもしれないが、持続性という観点で見れば賢い策とは思えない。もちろん、外的要因によって情勢が大きく変わる可能性もなくはない。これから政府与党がどのような動きに出るのか、注目してみたい。

判断に必要な「勘」とは?

勘で物事を判断することはよくある事だ。しかし一言で「勘」と言っても、それには色々な種類がある。勘と言えばもちろん直感に基づくものだが、しかしそれは決していい加減な判断ではない。もちろん、何の根拠もなく判断するようなことを「山勘」と呼ぶが、重要なのはそのような根拠のない勘ではなく、論理と計算に基づく勘だ。

論理と勘とは一見相反するようなことに思えるかもしれないが、優れた勘とは経験と論理に基づいていることが多い。論理による緻密な計算が、勘をより冴えたものにする。勘で判断する前までは、綿密な論理と計算によるシミュレーションが必要だ。最終判断をする際に総合的に判断する根拠を勘と言うのである。従って、最終判断の場面だけを見ればその判断の根拠が見えず、一見何の根拠もないいい加減な勘に見えるかもしれない。しかしそれは傍から目線であり、判断をする本人にとっては決してそのようないい加減な勘であってはならない。

数学や物理においても、勘が重要な判断基準になることがよくある。右に行くべきか、左に行くべきか?学問においてはそのような事は論理で決定されそうに思えるが、意外と研究者は鋭敏な勘を働かして判断をしている。もちろん、研究者の勘は根拠の塊からできている。何十年という論理的訓練の末に出来上がるのが、研究者の鋭敏な勘というものだ。もちろん、それが100%正しいとは限らないが、そのような鋭敏な勘の連続が最終地点までの重要な道標になることが多い。

数学や物理において、勘というものに非常に近い感覚が「美的感覚」である。数学理論、物理理論にも美しいという判断基準がある。美しい理論は大概真理を物語っている。よく美しい理論の代表として取り上げられるのが、相対性理論だ。アインシュタインの美的感覚は非常に鋭いものがある。美しいかどうかという判断に基づいて理論を構築することは決して不可能ではない。もちろん、細部を埋める計算は泥臭いものになるが、完成品は美的な光にあふれている。一般相対性理論のアインシュタイン方程式は、シンプルで力強く、そして非常に美しい。

勘を磨くことは決して容易な道ではない。計算も経験も必要であり、感覚も研ぎ澄まさなければならない。そしてある程度天性のものもあるかもしれない。しかし、物事を極めようとすると、そのような勘を磨くことは避けて通れない道である。そしてそのためには、徹底的に論理と計算を究めなければならない。

徹底的に構造論。

物事を考える時には、いろいろなアプローチがある。例えば物理理論では現象論だとか反応論などというものがあるが、自分がどのアプローチを取るかという事は重要であるし、それでいて一つのアプローチにこだわらずに広い視点を持つことが重要である。

僕が最近重点的に取り組んでいるのは、構造論的アプローチだ。物事の構造に焦点を当てたアプローチだが、ただ構造論と言っても分野ごとに内容は大きく異なる。20世紀の数学では、フランスを中心とした数学者集団ブルバキによって構造主義というものが推し進められたが、別にブルバキを意識したものではない。結果的に重なる所はあるかもしれないが、抽象代数学などに取り組めば構造論・構造主義という考えは自然と出て来る思想である。

目の前の問題しか眼中になく場当たりに取り組んで行くのは、構造主義とは対照的なアプローチであろう。一つの問題に取り組むに当たっても、構造論的に取り組めばより深い真理が見えてくるし、問題をより広く捉えることが出来る。構造論的なアプローチを徹底的に推し進めるのは、ある意味プロとしての本流であろう。それは何も学問に対してだけではなく、スポーツでもビジネスでも同じだと思う。場当たり的に対処すれば、その時には小さな解決に成功するかもしれないが、持続的な発展は望めない。

構造論を究めるためには、物事を論理的に捉える事が不可欠である。数学はそのような場の究極である。ブルバキ主義が意識されなくなった現代においても、ブルバキ的な構造主義は脈々と続いている。社会的な事においても、構造論的な視点から見てみると物事を大局的に捉えることが出来る。今何かに取り組んでいるのならば、構造論的な視点で見て基礎から構築して行くことは長い目で見れば得るところは非常に大きいと思われる。

空気を読みすぎない。

ある程度空気を読むことは物事を円滑に進める上で必要だが、過度に空気を読み過ぎるのはどうかと強く感じる。日本では空気を読むことはある程度素養として見られるところがあり、空気を読まない人は「空気を読めない奴」と言って非難の対象になる。空気を読み続けることによって大きなミスをなくすことはできるかもしれないが、その一方、それは大きな変革を起こさなければならない時には大きな妨げになる。

空気を読むことは、現状維持を目指すうえでは必要であるように思える。しかし、現状維持を目指して現状維持ができることはほとんどなく、現状維持の行きつく先はほとんどの場合没落である。そのような没落への道を避けるためにも、空気を破って現状打破をすることが必要である。

物事にはバランスが必要である。空気を読むことは一種のバランス構築技術と思うかもしれないが、空気を読み過ぎるというのもそれはそれで非常にバランスに欠ける事である。片方に偏り続けた一種の偏重バランスを崩すためには、空気を破ることが必要である。もし、現在何かに行き詰っているのならば、そこでこれまでの空気を読まずに破ることが必要である。

空気を読むことは一つのスキルと言える。しかし空気を読み過ぎないというのはさらに高度なスキルである。空気を破るべきところで破れるか?それは人間の度量に大きく関わってくることだと思う。没落への道を避けるためにも、時には空気を読まないという事が必要であり、覚悟を持って空気を破る必要がある。確かにこれまで空気を読み続けて切り抜けてきた人にとっては簡単な事ではない。しかしこれまで空気を読むスキルを身に付けて来て、そこにさらに空気を破る技術と覚悟を持つことが出来れば、人間としてもさらに一段上に上がれるはずだ。

感覚と論理。

感覚的な事と論理的な事は相反することのように思っている人もいるかもしれないが、感覚と論理はむしろ相補的、すなわち相補うような存在であると僕は考えている。物事を論理的に考えることは重要であるが、論理ばかりに目が行ってしまっていれば物事の本質を見失うことがある。重要なのは、論理からいかに感覚を掴むかということである。

ここで例を取り上げる。物理理論である電磁気学では、最も基礎となるマクスウェルの方程式と呼ばれる四つの方程式がある。そこではdiv、grad、rot、という三つの記号が出て来る。これらの記号は偏微分を使って数学的に厳密に表現することが出来る。しかしこれらの数式を覚えるだけではマクスウェル方程式の本質は掴めない。重要なのは、div(ダイバージェンス)を「発散」、grad(グラディエント)を「傾き」、rot(ローテーション)を「回転」と感覚的に捉える事である。この様に感覚的に捉えることが出来れば、後はそれらの感覚を基に容易に式変形が出来る。

日常では感覚は五感で捉えられることが多いが、数学や科学においては論理によって感覚を捉えるのである。論理と感覚を縦横無尽に使うことが出来れば、日常においても大きなスキルになるし、学問においては真の理解に結び付けることが出来、さらにそこから新し理論を構築することが出来るであろう。

地震学は真の科学になりえるか?

熊本地震から3年が経った。科学が発達した現在においても、大地震が発生するたびに毎度発せられるのが「想定外」という言葉だ。どこで地震が発生するのか全く予測がつかないのならいっそのこと地震予知など止めてしまえばとも思うが、その一方、地震予知への取り組みは地震学に対する最大の原動力にもなっているのでそう簡単な話ではない。

地震学は一応科学の一分野という事になっている。しかしどう考えても科学とは思えないような研究も存在する。というより、大地震が発生するたびに述べられる地震学者の見解は、どう考えても科学的とは思えないものが多い。その典型的な例が、「前回の地震から何十年経っているから、そろそろ起きる頃だ」というものだ。この様な見解は全く科学になっていない。これは科学ではなく、むしろ史学だ。このような史学的研究者は、百歩譲って地震学者だとしても、科学者とは名乗るべきではない。科学者から見ると、これは予測ではなくほとんど妄想と言って良い。もし本気で地震予知に力を入れるのならば、このような史学的な研究でなく、科学的メカニズムに則った研究に重点を置くべきだ。

もちろん、科学的に地震研究を行っている地震学者はたくさんいると思う。しかしメディアで取り上げられる地震学者の約半分は史学的だ。これにはメディア側にも責任があるのかもしれないが、一般市民ももっと科学的な地震学に興味を示すべきである。このような地震学に対する科学的理解があれば、防災効果は相乗効果で飛躍的に上がるはずだ。

僕は科学とは必ずしも日常に役立てるだけのものではないと思っているが、もし地震学を日常的に役立てたいと思うのならば、ただ単に起こるのかどうかという興味だけではなく、科学的な所からの根本的理解が必要だと思う。科学に対する実用的価値を過度に求めている割には、完全に重要な所が抜けているように思えてならない。

死なない事。

誰だって死にたくはないはずだ。しかし誰だって必ず死は訪れる。それが早いか遅いかというだけだ。そして死には二つある。「肉体の死」、そして「精神の死」だ。肉体の死は自分ではコントロールできない部分も多々ある。もちろん昨今は医療が非常に発達し、ちょっとやそっとでは死なないかもしれない。日本人の平均寿命も非常に高いレベルにある。なので普段はあまり(肉体の)死を意識することも少ないかもしれない。

問題は「精神の死」だ。精神の死はかなり自分でコントロールできる。しかし若くても精神が死んでいる人もいるし、年老いても精神が生き生きしている人もいる。何を持って精神の死と言うかは難しいが、精神が活発に生きているとはどういう事かとはいくつか言えることがある。一つは「挑戦し続けているか?」ということだ。全く挑戦することもなく保身の事ばかり考えている人は、完全に精神は死んでいる。人が100の窮地に立たされているのに、自分の1の利益を守るためにその人を助けない。そのような人はもう精神が死んでいるとさえ言えない。

その場では自分の利益を確保していると思っていても、人の犠牲の上に成り立つ利益は長く続かない。なぜなら周りの人はそれを見ているからだ。世間では「いかにリスクを取らずに利益を上げるか?」という事ばかり注視されいるが、ローリスクとは意外と割に合わないものだ。ローリスク・ローリターン、人生においてそれでいいと思う人はそれでいいが、人生とはリスクを取り続けて成長して行くものだと思う。すなわち、人生においてリスクを全く取らない人というのも精神が死んでいると言える。

精神的に生き続けて成長して行くためにも、絶対に肉体は死んではいけない。肉体的に生き続け、人間的にも成長し発展し続ける。死の直前まで精神的に発展し続ける人間になれるか?これは一人の人間として大きな挑戦だと思う。

安っぽい個性はいらない!

近年、日本でも徐々に集団主義から個人主義に変わって来ており、それに伴って「個性」と言う言葉が氾濫しつつある。それぞれが一人の人間として個性を出すことは非常に大事である。しかし世の中の多くの人は個性というものを履き違えているように思えてならない。

個性を出すと言えば、真っ先に服装の話が出てくる。確かに服装は一番目に映る所であり、ちょっとした変化でもわかりやすい。なので個性を出そうと思うと、服装で個性を出そうという人が多く出て来る。そこで奇抜な服装をしたり、派手なアクセサリーを付けたがるが、僕はそれが果たして個性なのか?と非常に疑問に思う。僕自身はこのような見かけだけの変化は個性でも何でもなく、例え個性だとしても非常に安っぽい個性に思えてならない。

僕が個性とはこうあるべきだと思うものを一文で表現するとこうだ。男なら「ビシッとジャストサイズのスーツを着て、人間の中身から深い個性を出す」、これぞ男の個性だと思う。女性なら、それは女性に考えてもらおう。個性とは外見から出すものではなく、人間の中身からにじみ出るものなのである。もちろん、身なりはきちんとしていた方が良い。そういう意味でビシッとジャストサイズのスーツを着るべきだ。もちろんスーツでなくても良い。仕事着ならそれでもいいし、ソフトカジュアルな服でもいいと思う。服装によってマイナスイメージが付くのは良くないが、服装は引き算で考えた方が良い。

そのようにビシッとスーツを着れば、後は自分の人間性の勝負である。それはただ単に性格的なものだけではない。仕事や人生において打ち込むべきにものに真剣に打ち込む姿、大きな飛躍を得るためにリスクを取る覚悟、楽な方に逃げないで厳しい選択肢を選択する判断、そのような人間性における総合力が個性となって表れるのである。

もちろん、外見で個性を出すことを否定するつもりはない。ただ外見で個性を出す場合、それなりのセンスが必要である。ただこれが簡単なものではない。方向性を間違ってしまうと安っぽい個性になってしまうのだ。

安っぽい個性しか出せない人は、安っぽい人間だと思われてしまう。個性の「個」は個人という意味である。すなわち個性とは人間に由来するものであって、物に由来するものではない。人間としての総合力を上げて強烈な個性を出すべきである。しかしこのような個性は一朝一夕では出来上がらない。これまで自分がどのように人生を歩んで来たかが魅力的な個性を身に付けられるかどうかに大きく関わってくる。