投稿者「木原 康明」のアーカイブ

日本は自分で自分の足を引っ張っていないか?

最近、日本の社会を見て強く思うことがある。別に海外の事に熟知している訳ではないので日本の事だけとは断言できないが、少なくとも日本の社会については明らかにおかしいと思うことがいくつかある。そしてそれらの事によって、日本は自分で自分の足を引っ張っているのではないかと強く感じる。

一つ目は、日本社会の常識や習わしから来ること。もう一つは法整備から来ることだ。そのどちらにもかかわることだが、日本は先端的、前衛的な取り組みに対しては非常に冷たい。そして時にはそのような前衛的な取り組みをしている人を犯罪者扱いをする。例えば、ファイル共有ソフトWinnyを開発した東大の研究者がその最たる例であろう。Winnyは確かに問題を抱えたソフトであるが、それらの基幹技術は現在、仮想通貨にも共通するところがあると言われている。Winny開発者の逮捕は日本のITの進歩を遅らせた可能性があるし、現在GAFAに大きく遅れている現状はこのような最先端技術者を逮捕してしまうような日本の社会的意識に帰着するのではないかと感じる。

ITで覇権を握りたいという日本の願望は分かるが、社会的意識や行動を見るとこれと逆行するような動きをしていることが分かる。ITで覇権を握りたいと本気で思っているのならば、プログラミング教育などのような小手先の手段だけを変えるのではなく、まずはその背後にある社会的意識を変えることが必要である。(もちろん、プログラミング教育を否定する気は毛頭ない。)

今の日本はぶれ過ぎている。理念がはっきりとしていない。ただ単に「経済を発展させたい」それだけである。そのためにITを高めよう、プログラミングに力を入れよう、ということでは、一時的な表面的変化は起こせるが、根本的発展は望めない。それこそ小手先の手段で、目の前の事しか見ていない。もちろん、政界も財界も長期的視野で物事を考えたいとは思っているのだろう。しかし現実はそれが出来ていない。そのような長期的な発展を考えるのならば、まずは私利私欲、会社利会社欲、更には国益を度外視した視点で物事を考えなければならない。自分の事、自分たちの事だけを考えていては、自分達さえも持続的発展をさせることが出来ないだろう。

人間を見たい!

近年、AIが発達しており、人間に変わってAIが活動することも一部の分野で見られている。特に将棋AIが話題になっているが、AIが強いかどうかということと、それに魅力を感じるかということは全く別問題である。今若くしてトップ棋士にまで上り詰めた藤井聡太七段は確かに強いが、将棋AIと藤井七段のどちらが強いかと言えば、どうやら将棋AIの方が強いみたいだ。しかし魅力という点では、おそらくほとんどの人が藤井七段の方に感じるだろう。将棋に関しても、「人間」がプレーするということに魅力を感じるのである。

しかし逆に言えば、人間がすることに魅力を感じない分野においては、おそらく全てコンピューターや機械に取って代われると言うことが出来る。すなわち、これからの時代を生き抜くには二つの方法がある。一つはコンピューターよりも高いパフォーマンスを発揮すること。もう一つはコンピューターにない人間的魅力を発揮することだ。この二つのどちらかを実行することが出来れば、これからの時代を生き抜けることが出来るだろう。

今、コンピューター全盛期の時代にあって、人間の価値というものが再認識されているのではないだろうか。AIなどのコンピューターの性能が飛躍的に上がった現在にあって、人間はどうあるべきか?何をすべきか?さらにはどう生きるべきか?と言う事を深く考えることが求められている。逆に言えば、何も考えずにその場しのぎの軽い生き方をしていれば、次世代を乗り切れないと言える。

これらのことから、AIが発達して便利になると言われている次代は、人間にとって普通に生きる事さえ厳しい時代になると言える。しかし深く考えて生きれば、必ず乗り越えられる。これからの時代、それぞれの人間がどう生きているかという事が深く問われることになるだろう。

区切りを上手く利用する。

平成大晦日から令和初日にかけて、風邪を引いて少し寝込んでしまった。この平成と令和の区切りを利用して気持ちを整理しようと思っていたが、不発に終わることになった。

一年の中には区切りとなる日が何日かある。とは言っても、区切りの日だからと言って特別何か大きな変化がある訳ではない。しかしそのような区切りの日を逆手にとって、自分の気持ちを入れ替えるのは大きな手だ。そのような日を利用して気分転換が出来るのなら、それは非常に大きなスキルになる。この平成と令和の区切りの日をただ単に騒ぐだけではなく、令和において何を成し遂げるかという事を心に決めることが出来れば非常に前向きに生きて行くことが出来る。

僕自身も、この令和元年の間に成し遂げようと思っていることがある。非常に大きなことなので決して簡単ではないが、自分の努力次第で何とか成し遂げられると手ごたえをつかんでいるのでコツコツと積み上げて行こうと思う。

この様な自分の節目の年になりそうなときに、ちょうど令和に変わったのも何かの縁だ。僕のために令和に変わった訳では全くないが、そこは自分の都合良くとらえて、令和に変わったのは僕自身に変化をもたらすためだと勝手に思いたい。

自分の気持ちや思考をコントロールすることは非常に大事である。しかし人間の思考というものは大概世間の常識にとらわれている。もちろん世間の常識というものは無意味なものではないが、そこに自分の自由な思考を取り入れないと自分の人間性を反映したオリジナルなものは出来ない。そのようなオリジナルな表現を目指して、時代の区切りを上手く利用したいものである。

令和の始まりへ。

2019年5月1日、令和が幕を開けた。新たな象徴天皇のもとでのスタートだが、自分自身、そして国も社会も、さらには世界が良くなっていくことを願ってやまない。

僕の生き方は、令和になっても大きく変わらないだろう。しかし社会は確実に変わる。そこで、自分が時代に合わせて変えるべき事と変えるべきでないことをはっきりとさせなければならない。

人間というものは、一番大切なものを持ち続けていれば何とか生きることが出来る。もちろん現実はそれ一つだけで生きることはできないが、逆にたくさんのものを持っていても、一番大事なものが何かという事を認識できなければ苦しくなる。

では、令和の日本にとって一番大切なものは何か?もちろんそのような質問に対して簡単に答えが出るものではない。そのような答えが分かっていれば何も苦労しないだろう。さらに、政治的な事か?経済的な事か?あるいはエンターテイメント的な事か?ということによって答えは変わってくる。

近年は何かとITに関することが注目を浴びている。それは科学技術的にも、経済的にも、さらにはエンターテイメント的にも。しかしそのような視点はあくまで現時点での視点だ。三十年後はどうなっているのかわからないので、現時点だけでの視点で物事を考えるのは長期的視点で見れば危険だ。短期的視点、中期的視点、長期的視点での三本立てで考えなければならない

人間個人にとってもそれは同じだ。三本立てで考えないと人生を通じて最高のパフォーマンスは発揮できない。しかし一発屋になるのも、それはそれで一つの手であり一つの生き方だ。いや、むしろ一発でも大きいものを当てればそれは人生において大きな成果だと言える。

ただ、平成が終わって令和の時代になったからには令和の人間にならなければならない。平成の人間のまま過去の自分にとらわれてはならない。しかしいわゆる昭和の古い人間にとって、令和の人間になることはそう簡単ではない。特に過去の栄光がある人間にとってはなおさらだ。しかし過去の栄光にとらわれない人間にとっては大きなチャンスである。栄光は過去に見るのではなく、未来に見なければならない。

令和の人間として生きるために。

2019年4月30日、平成最後の日だ。明日から始まる令和という時代にどう生きるか?そのような事を考える一つの区切りになる。もちろん、令和になったからと言って自分自身や世の中が突然変わるわけではない。しかし、平成という時代に思うように生きることが出来なかった自分にとっては、明日から始まる令和という時代の中に自分の存在する場所見つけ、しっかりとした足取りで一歩一歩進んで行かなければならないと思っている。

平成と令和という時代の変わり目は、ちょうど僕の人生の変わり目に一致していると思っている。偶然か?と言えば完全に偶然である。しかし偶然と言えども、ちょうどその変わり目が一致したことは事実だ。いや、そのような事実にしなければならない。時代が変わるのと同じように、僕の人生も変えなければならない。そしてそのように変える自信がある。

平成から令和に変わるというこの区切りを、全ての日本人は前向きに捉えるべきだと思う。平成を思うように生きれなかった人は、令和こそは自分のものにするぞ!そして平成が自分にとって輝かしい時代であった人は、令和にはもっと輝くぞ!と。幸運な事に、今回の改元は祝福ムードの中で行われる。皆明るい気持ちで新しい時代を迎えることが出来るのだ。令和の時代は、平成の時代より明るい時代にならなければならない。世の中も、自分自身も。

僕は心に決めていることがある。それは、僕は昭和に生きる人でも平成に生きる人でもなく、令和に生きる人になるという事だ。自分の生命が終わる時、胸を張って令和を全力で生きたと言いたい。令和は絶対に良い時代になる。僕はそう信じている。そしてそのような令和という良い時代の人間になるためには、まずは積極的に人生を前に進める必要がある。時間は自動的に勝手に進む。しかし自分の人生というものは、自分で能動的に進めないと全く進まない。まずは平成から令和へと人生を前に進めなければならない。

自分の取り組む分野の当事者としてどうあるべきか?

ここ2年程、将棋界では藤井聡太七段の活躍に沸いている。僕自身は将棋界の当事者でも何でもないので、一観衆として藤井七段の活躍を楽しんでいるが、プロ棋士にとっては他人事ではない。谷川浩司九段は若手に対して「君たちは悔しくないのか」と発破をかけているが、藤井七段以外のプロ棋士にとっては屈辱以外の何物でもないはずだ。藤井七段のような凄い棋士が出てきたと喜んでいるプロ棋士はいないはずだ。

多くの人は何かしらの専門分野に取り組んでいる。そしてその中の一部はプロと言われる人であろう。そのような自分の取り組んでいる専門分野のプロにとっては、凄い同業者に対して手放しで褒め称えて良いはずがない。凄い同業者がいれば、それを超えるために腕を磨くことに専念しなければならない。

僕自身も、学生時代までは同じ分野を専門とする一流学者に対して憧れを持っていたことがある。そして過去の偉人に対して尊敬の念を抱いていた。しかし今は違う。同じ専門分野に憧れの人などいない。凄い人がいれば、それを越えなければならないと思っている。学問は決して順位を争うものではない。しかしだからと言って現在の地位に甘んじていいはずがない。やはりその分野に打ち込むからには、どのような分野であっても頂点を目指すべきだ。

ここ数年、僕はこのような意識が強くなってきている。普通は歳を取ればそのような意識がなくなっていくものかもしれない。しかし僕は以前、調子を壊したりして思うように打ち込むことが出来なかった。しかし今は万全の状態に近づいている。そして今なら自分の目指す所へ届くことが出来ると思っている。だからこそ、今は同じ分野に憧れの人などいない。もちろん、他分野には尊敬している人はたくさんいる。山中伸弥教授や大谷翔平選手、そして大坂なおみ選手などだ。そして自分の打ち込んでいる分野でそれらの人に引けを取らないくらいのプレーヤーにならなければならないと思っている。こんなことを言うとバカにされるかもしれないが、僕は本気だ。

もちろん、頂点を目指したからと言って、全ての人が頂点に立てるわけではない。トップに行けるのは一握りの人だけだ。しかし初めからそんなのは無理だと思っていれば、100%達成できない。しかしバカになって本気でそこを目指せば0.1%くらいは可能性が開けるかもしれない。この0.1%を高いと見るか?低いと見るか?その見方次第で後の人生が大きく変わる。0.1%を1%に、そして10%、50%と上げて行くために努力を続ける。そのような先の見えない努力が出来るバカであることが、目標を達成するための一番の資質だと思っている。

本屋を巡る。

僕は本屋巡りをほぼ毎日の日課としている。専門書や洋書は大型書店やAmazonで購入するので、近所の本屋さんでは新書や文庫本、雑誌などをメインに立ち読みしたり購入したりしている。最近は新書の購入が多いが、新刊本をチェックしたり掘り出し物を見つけるのは日常のささやかな楽しみである。

人間の興味などは突然変わるものではないので、本屋に行くと大体毎回同じコーナーに陣取る事になる。それはそれでいいのだが、少し気分を変えて普段自分が足を運ばないようなコーナーに行くのも非常に良い。意外とそういう所に新しい発見があったりして、新しい世界が広がることがある。僕ならば最近は経済書コーナーや法学書コーナーに足を運ぶことがあるが、以前はそのようなコーナーは無視していたところであり、そこに足を運ぶことにより新しい見地を得られることになった。興味のレパートリーを増やすと抱えるものが多くなり大変であるが、その重さは自分の人間性の幅に比例するものであり、それを抱え続けることにより知的基礎体力が付いていくことになる。

気になった本は、お金が許す限りどんどん買えば良いと思っている。僕もこれまで相当な量の本を買い、本棚には専門書をはじめ様々な本が並んでいるが、例えそれらの本を全て読まなくても、背後の本棚に広がる本たちは自分の知性のバックグラウンドだと思っている。本棚を見ると、大体その人の興味や嗜好、知性がうかがえる。そしてそれらの本は、いざという時に自分の窮地を救ってくれる相棒でもある。

近年は極度の出版不況であると言われている。出版不況という事はそれだけ人々が本を買っていないという事であり、それは国全体の知性の低下につながってくると考えられる。お金がない時に何を節約するか?それは人それぞれ様々であろうが、もしかしたら多くの人はそのような時に本代を節約するのかもしれない。しかし自分の人間性の立脚する基礎となるものは書物であり、本代は決して無駄にはならないと考えている。節約する中でも、本代は何が何でも死守したいものである。

加点法か?減点法か?

評価の仕方には大きく分けて加点法と減点法がある。それに伴って、加点法の世界で評価される人間と減点法の世界で評価される人間は全く違うと言っていい。どちらが良いかという話ではないかもしれないが、僕自身は加点法の世界で身を立てようと思っている人間であって、減点法の世界では全く生きることが出来ないと思っている。

減点法の世界の代表は、何と言っても公務員であろう。公務員の世界ではどれだけ失敗をしないかが評価の対象になる。キャリア官僚の世界の出世競争は熾烈だが、トップに君臨する事務次官がどのような実績を残したかわからない人がほとんどだ。極論を言うと、公務員に大きな実績は求められていない。どれだけそつなくこなすか?それが出来る人が公務員として有能な職員だと言えるだろう。

数学や理論物理の研究の世界は、圧倒的に加点法の世界だと僕は思っている。とは言え、研究ポストなどの選考では減点法が幅を利かせているようにも感じるが、研究者としての研究能力の評価は100%加点法だと思っている。ただ、加点法によって評価されようと思っているのならば、中途半端な成果では話にならない。圧倒的な成果を上げないと加点法によって圧倒的な評価を勝ち取ることはできない。平均的な研究レベルの研究者に対しては、むしろ減点法で評価されているように感じる。

加点法の一番の魅力は、ホームランが可能な事、再チャレンジが可能な事だ。減点法の世界にホームランも再チャレンジもない。しかし日本の社会は広く減点主義が取られているように感じる。大した実績がなくても、失敗をしない人が大きな顔をして道の真ん中を歩いている国だ。そのような現状を見て、大人から若者まで如何にして失敗しないで乗り切るかという事ばかり考えている。それは逆に言うと、大きな挑戦を全くしないという事である。もちろん、日本でも大きな挑戦に挑む若者は少なからずいる。しかしそれらの人は、その大きな実績を挙げるまで全く見向きもされないことが多い。支援もない。孤軍奮闘である。

日本において加点法で生きて行こうと思えば、相当の覚悟がいる。しかし加点法で生きて行こうと思っている人は、何とか苦しい中間地点を乗り切ってその先にある風景を目にしなければならない。それは生きるか死ぬかの究極の勝負である。しかし、そんな極限状況であっても、それが刺激的でやめられないのが加点法の世界でホームランを打とうと打ち込む挑戦的人間ではないだろうか?

得るために捨てるもの。

人間は全てのものを得ることはできない。時には二つのものを得ることも許されず、一つのものを得るために捨てなければならないものがある。そのような時、どちらを取ろうか迷うこともあるかもしれないが、自分にとって一番大事なものが何かをしっかりと認識していれば、それに迷うこともない。

得るべきものを得るには、時間も労力もかかる。しかしそのような時間と労力も含めて財産になるのだ。それを認識していないと、なぜこんなに苦労をしなければいけないのかと悩むことになる。

得るべきものを得るための過程は、苦しくて楽しいものである。時には脇見をして周りの人間をうらやましく思うこともあるかもしれないが、自分が一番大切だと思ったことに進んでいるのなら、その大切なものを得た暁にはそれ以上のものが待ち受けている可能性がある。そう思うと、今の苦しくて楽しい道のりが快感にもなる。結果を楽しみにするのも大切だが、できれば道のりも楽しみたいものである。

人生とはある意味投資である。将来の成功、将来に得るべきものを得るために、時間、労力、お金を投資する。そして得るために捨てるものも投資だと言える。投資とは、自分が目指す未来の自分になるためにつぎ込むものであり、そして投資であるからにはつぎ込んだもの以上のリターンを得なければならない。全てが上手く行くとは限らないが、失敗さえも次の成功へと結びつけるたくましさが必要である。

得るために捨てるべきものを捨てることが大事だが、もし二兎追うべきだと判断したのならばそれもありだと思うし、それは非常に挑戦的な取り組みだ。大谷翔平選手のように二兎追って二兎得ることは非常に困難な挑戦だが、長い人生的スパンで考えれば三兎でも百兎でも追えばいいと思っている。

大問題に取り組んで見えること。

学問においては、問題に取り組み解決することが一つの目標になる。問題には大きなものから小さなものまで様々あるが、大問題に取り組むことは大きな覚悟がいる。大きな問題であるほど難しい問題であることが多く、したがって簡単には解決できない。もし解決できたとしても、それまでの道のりは長く時間もかかる。問題によっては人生を懸けるというくらいの覚悟がないと立ち向かえないものも少なくないであろう。

しかし当たり前の事であるが、大きな問題であるほど、解決した時の評価や実績は大きくなる。もちろん、大問題に立ち向かいながら小さな問題に取り組むことも出来るし、また大問題を解くに当たってもその過程は小さな問題の解決の積み重ねである事も多い。フェルマーの大定理を証明したワイルズも、それに取り掛かるに当たっては相当な覚悟があったと何かで見たことがある。大問題に取り組めるかどうかは、才能云々というよりも、覚悟だとか楽観性だとかいう人間性に大きく関わってくるものだと強く感じる。

大問題に取り組んでみると、それまでとは全く違った世界が見えてくる。それは学問的な事であったり、日常において見える景色、そして人生観の変革といったものだ。問題が解決した時、景色がどれだけ変わるかは解決してみないとわからないが、取り組むだけでもあらゆるものの見方が変わってくる。それに伴って人生も変わる。自分がどのように生きて行くべきか?そのような人生目標も明確に見えてくる。大問題なんて難しくて解けるわけがないと取り組む前からあきらめるのではなく、まずは問題に取り組まないと何もわからないし何も見えてこない。問題に真剣に向き合えば、解決への道筋が見えてくることもある。取り組むかどうか考える前に、まずは実行してみることが大事である。

もし何に取り組むか迷っているのならば、そこは迷わず難しい方を選ぶのも手だ。なぜなら難しい問題であればあるほど、見えてくる景色や世界観が広くなるからだ。もちろん、難しいか?という以前に、重要な問題である必要はある。難しく重要である問題に秘められている世界は、底なしに深いものである。どこまで深く迫れるか?それは非常にエキサイティングな挑戦であり、人生を懸けるに値する問題である。