投稿者「木原 康明」のアーカイブ

回復したようだ。

ここ三日ほどの不調から回復したようだ。なのでまた明日からは良い記事を書ければと強く思っている。(本当は「今日から」と言わなければならないところだが・・・。)

ところで話は変わるが、どこにお金をかけるかということは、その人の人間性やセンスが非常に表れる。そしてもちろん、どれだけお金を持っているかということによっても大きく変わる。近年は失われた二十年の影響か、いかに節約するか?いかにお金を貯めるか?ということに世間の話題の中心が行っているように感じる。もちろん、無駄な出費を控えてお金を貯めることは重要だ。しかしそれ以上に大事なのは、お金を出すべきところで思い切って出すという事だ。そもそも、お金を貯める目的も、出すべきところで出せるようにするという事である。なので、お金を貯めるスキルを身に付けると同時に、お金を出すセンスというものを身に付けなければならない。

僕自身も無駄な出費は極力控えようと思っているが、出すべきところでは惜しまず出すということを心がけている。その中でも、書籍にかけるお金は極力惜しみなく使っている。贅沢などはお金に余裕が出来てからでいい。その時を楽しみにしている。今は自分の未来に対する投資に集中している。

しかし、ただ単にお金を出して自分に投資すればいいという訳ではない。その投資を最大限活用しなければならない。例えば、書籍に投資をするのならば、投資をした後にその書籍を縦横無尽に生かさなければならない。「お金+努力」が最大の成果を発揮する肝である。

同じ条件でも、どう考え、どう捉えるかによって、その後の進路は大きく変わる。お金も同じで、どこに自己投資すべきか?という判断次第でその後の自分の未来が大きく変わる。お金をただ単に貯めるだけでは非常にもったいない。今使うべきところで使い、それで成果を挙げ未来に回収すればよいだけの話である。お金に対する考えは、本当に人間性が表れるものだ。

毎日書きたい気持ちはあるが・・・。

毎日ブログをアップするのは僕の日々のワークになっている。毎日ブログを書き、毎日アップすることは、日々のリズムを整えるのにも一役買っている。しかし、時には調子が乗らずになかなか記事が書けない時もある。記事のストックもない。そのような時に無理に書いて質の悪い記事を出すのも本意ではない。なので一日くらい記事を書くのを休もうかとも思うが、休めば休んだで何だか気持ちが悪い。ならば少し譲歩して、調子が乗らず記事が書けないこと、それを記事にしようと今記事を書いている。本意ではないが・・・。

まぁ、一時的に調子が乗らなくても大概二、三日すればまた意欲も湧いてくると思うので大丈夫だとは思うが、不安な気持ちも少しある。記事が書けないだけならいいが、数学や物理が出来ないのはかなりつらい。ここは我慢のしどきか・・・。

とは言え、少しでも早く調子を戻すのに越したことはないので、いろいろ試行錯誤してみようと思う。自分の調子をコントロールするのも大きな実力である。これまで調子の悪い時もいろいろと乗り切ってきたので、これくらいのことはすぐに乗り切れるとは思うのだが・・・。

スマホから距離を置こう!

最近、スマホを最新型のiPhoneに変えた。最新型に変えたならそれを思う存分に使いこなしたいと思うところだが、僕はこれを機にスマホから距離を置こうと思っている。そのために毎月のギガ数を少なく抑えることにした。

ところで、最近のスマホは年々性能が飛躍してきている。そのような性能をフルに使おうと思うと、一日中スマホ漬けになってしまう。そのようなスマホ愛用者の言い分は次のようなものであろう。

・最新の動画を観ないともったいない。
→しかし動画を観る事に費やしている時間の方がもったいない。

・最新の機能を使わないともったいない。
→しかし機能を使わなくても何も減らない。

そのような事を思いながら、最近スマホ上からYouTubeアプリを削除した。やはり僕も軽いスマホ中毒にかかっていたようで、YouTubeアプリを削除してから動画視聴時間を削減することに成功した。本当に動画視聴時間は無駄である。特にロングスリーパーである僕にとっては、時間を有効に活用しなければ人以上の事をするのは難しい。

新しいスマホに変えるのをきっかけに、スマホの利用の仕方、そして時間の使い方を一度見直すのも大きな手である。普通の人とは逆行する考えかも知れないが、そのような所から差を付けないと上は目指せないと非常に痛感している。

感情論に傾きすぎてはいけない。

最近、大きな交通事故が立て続けに起きている。別に交通事故だけに限ったことではないが、事故や不祥事が起こった時に世の中全体が感情論に傾きすぎているのではないかと強く感じる。もちろん人間であるからには感情論が出て来るのは自然の成り行きだ。しかし多くの物事では感情論だけでは解決も改善もなされない。そこに論理や倫理が持ち込まれてこそ、社会は前進するのである。

僕自身だって感情論で動くことは多々ある。特に個人的な事では別に感情論が入り込んでもある程度は容認されるものである。しかし社会の事となると話は別だ。社会が法で成り立っているからには、法の論理というものは非常に重要であり、それが無ければまさしく無法地帯になってしまう。さらに不確定の事を確定した事と思い込むのも非常に危険だ。そのような事が極限に達すると、冤罪が起こる。学校内でそのような事になると、教師や生徒によるいじめになったりする。何が確実で何が不確実なのか?そこをしっかりと見極めなければならない。

近年は国家関係においても感情論が問題になっている。特に日韓関係では政府トップまでもが感情論で物事を判断するという非常事態になっている。感情論で動く国家関係は疑心暗鬼しかもたらさない。もしかしたら多くの国民はそのような事を考えていないのかもしれないが、疑心暗鬼になれば身動きが取れず、国家的損害は絶大だ。

自分自身をコントロールするに当たっては、感情のコントロールが一番の課題になるであろう。「感情を制する者は自己を制す」とでも言えば良いだろうか。しかしまた、感情のコントロールほど難しいものはない。なぜなら、感情をコントロールするのはこれまた感情であるからである。そこをいかに論理でコントロールするか?それが実行できれば物事を的確に判断し対処することが出来るであろう。

無理をすること。

最近は無理をしすぎないことが何に対しても大事だとよく言われる。確かに無理をして心身の調子を崩してしまえば元も子もないし、無理をせずにコンスタントに継続することが何より大事である。しかし、ここぞという時には無理をして力を最大限に発揮することも大事である。コンスタントに継続する中でも波がある。無理をしなければならない時と、力を抜いて休止すべき時、それらの緩急を上手くつけてこそ物事というものは前に進むものである。

とは言え、無理をし続けることは避けなければならない。無理をし続けることはパフォーマンスの効率を落とし、結果的にはマイナスになる。もちろん休んでばかりでもいけない。力の緩急を上手く付けるためにはそれなりのスキルが必要であるが、生きていく上では絶対に必要なスキルである。そのようなスキルは経験と思考によって獲得するしかない。思考無き努力は何の前進ももたらさない。

僕自身も試行錯誤によって考察する毎日である。無理をし続けることは良くないが、一時的にでも無理が出来るというのはある意味健康な証拠である。無理をしなければならない時に無理が出来ないのは非常に苦しいものである。少しずつコンディションを高めて行って、少しでも無理を継続できる頑丈な身体と精神を構築することが、今の僕の大きな目標である。

好不調の波をどう抑えるか。

僕はかなり好不調の波が激しい。しかし事を成し遂げようと思うと、ただ単に努力するだけではなく自分の調子も高いレベルで維持しなければならない。そのためには、自分の体と心を十分に知り尽くしていなければならない。

調子を整える努力はいろいろとしている。その中でも、お酒とコーヒーを出来るだけ控えることには細心の注意を払っている。お酒が調子を左右することは分かりやすいが、僕の場合コーヒーもかなり調子を左右することに最近気づいた。しかし僕は大のコーヒー党なのでそう簡単にはやめられない。なので、一日一杯だけと決めて何とか抑えている。

やはり歳を重ねると、自分の心身をコントロールすることが難しくなってくる。なので、どれだけ自分をコントロールできるかがこれからの人生の鍵となる。もし自分をコントロールできないのならば、それには三つの理由が考えられる。一つ目はそもそも自分の心身が故障がちであるということ、二つ目は力が溢れすぎて暴れ馬のようにコントロールが難しいということ、三つ目は操縦者つまり自分の意志に問題があるということ。僕の場合は全部当てはまるような気がする。何とも難しい人間である。しかし現在は自分をコントロールしきれる自信はある。何とかコントロールして現在の難しい局面を乗り切って行こう。

数学者・志村五郎の死。

5月3日、数学者の志村五郎プリンストン大学名誉教授が亡くなられたというニュースが流れた。志村五郎と言えば、フェルマーの大定理の証明においてもキーになった「谷山・志村予想」が有名であり、数学を学んだことのある学生ならその名を一度くらいは聞いたことがあるはずだ。

しかし、今回驚かされたことは、志村氏の死去のニュースがヤフーニュースで流れていたことだ。僕もヤフーニュースで志村氏の死を知った。いくら数学関係者の中で有名だったとは言え、ヤフーニュースで流れる程世間の注目を浴びているとは考えもしなかった。ヤフーニュースでこのニュースを見た人のうちどれくらいの人が興味を持ったのかはわからないが、数学研究というものが少しでも市民権を得られればと強く思う。ちなみに、谷山・志村予想のもう一人、谷山豊氏は、若くして自死をされている。

本屋の数学書コーナーに行くと、谷山豊全集というものが並んでいる。数学関係の全集とは一般の人にはなじみがないかもしれないが、全集が出されるほど谷山氏は偉大な数学者であった。そして志村氏も同様に偉大な数学者である。偉大な数学者や物理学者の研究に対しては、コレクテッドペーパーやコレクテッドワークスと言われる論文集が出されることがある。これらの論文集は偉大な学者の研究が一望できる非常に便利なものである。もしかしたら、これから志村氏の論文集も出るのかもしれない。と思ってAmazonで確認してみると、既に志村氏のcollected papersが出版されていた。やはり偉大だ。

小さな損を取って、大きな益を取る。

目の前の事しか見ていないと、物事の大局観が付かない。では大局観を付けるにはどうすればいいか?それは回り道をすることである。そして多くの失敗を繰り返すこと。どうしても失敗をしないで最短距離を取りたくなるものかもしれないが、失敗をしない最短距離というものは多くの場合既定路線であると言える。一度既定路線から脱線して冒険や挑戦を繰り返すことによって広い視野、すなわち大局観が身に付く。

では、大局観を身に付ける一番の目的は何か?それは「小さな損を取って、大きな益を取る」ことである。小さな益というものは、近視眼的に見えるものである。すなわち、大局観がなければ大きな益が見えない。そしてしばしば、大きな益を取るためにはそれまでに小さな損を取り続けることが要求される。小さな損を取るとは、ある意味投資であるとも言える。もちろん時には大きな投資をしなければならない時もあるが、自分の人間としての発展を目指すのならば自己投資は避けて通れない。

僕が一番重要視している自己投資は、書物に対するものである。はっきり言って現在余裕がある訳ではないが、書物や論文に対しては湯水のように投資している。そしてそれらの書物を効果的に使っているかと言えばそうではない。しかし書物がマイナスになることはない。小さくてもプラスか、最悪でもゼロである。もちろん、その前提には日々の書物との格闘がある。結果を出すべく、日々数式との格闘である。

最近、努力がネガティブに捉えられているように思えてならない。努力をしても成功する保証はないのに、なぜするんだ!というものから、努力というものをブラックに捉えられることさえある。確かに現在の社会においては、努力を無理に強要すべきではないかもしれない。努力をするもしないも個々の自由である。しかし大きな成功者の99%は努力している。学問に関しては100%だ。自発的な努力と強要を混同してはいけない。強要されてするのは努力とは言えない。僕自身も努力を他人に強要しようとは全く思わないが、自分が努力する自由は確保しなければならい。

記憶ではなく、思考を!

学問と言っても記憶力がものを言う学問から思考力がものを言う学問までいろいろあるが、数学や物理は、記憶力の学問ではなく完全に思考の学問である。とは言え、もちろん記憶力があるに越したことはない。しかし記憶力がなくても最高の結果を残すことは可能だ。記憶力が重要になる学問もある事はあるが、それでも思考力がいらない学問はおそらくない。学問とは思考してナンボの世界である。

日常生活においては、あるいは仕事の世界においても、記憶力だけで乗り切れる分野はあると思う。確かに記憶力が日本の誰よりも優れているというレベルであったら、それだけで飯が食って行けるし、ある分野ではトップに行けるかもしれない。しかしそのような日本トップレベルの記憶力の持ち主でない限り、必ず思考力は求められる。しかし、記憶力というものはすぐに分かるような明確な指標があるが、思考力というものは非常に多様なものであるので一目でその能力を感じ取ることは難しいかもしれない。もちろん見る人が見れば、思考力があるかどうかは一発でわかる。しかしそれでも見落とされている思考力がある可能性は否定できない。例えば文章力がなくても数理的思考力は優れているかもしれない。そしてそのような多様性がまた面白い所である。

世の中では、賢い生き方をすることが良いという風潮がある。しかし僕はこのような風潮は非常に危険だと思っている。なぜなら、思考して生きる事と、賢い生き方をするという事は全く別問題だからである。賢い生き方とは、型にはまった生き方である可能性がある。あるいは皆と同じことをしてはみ出したりしないか、ということである。そしてそこには思考が存在しない可能性がある。もちろん、思考して賢い生き方をすれば良いのかもしれないが、僕は思考するバカになりたいと思っている。思考するバカは面白いと信じているからだ。

とは言え、現在、そして死ぬまで数学や物理の研究に取り組むことはやめないだろう。なぜなら、そこには思考する面白さが凝縮されているからだ。数学や物理の研究は究極的な思考である。物事に取り組むならば、究極を目指すべきだと思う。しかし現実は、多くの人が普通の中の普通、つまり現状維持に苦心している。それらの違いは価値観の違いによるものなのかもしれないが、どうせ生きるのなら最高の結果を残したいと思うのは僕だけだろうか?

強い!

僕は強い人間になることの重要性を非常に感じている。では、強いとはどういう事か?もちろん、腕の力が強いとかいう問題ではない。人間的、精神的な強さだ。もちろん、体力的に強ければそれはそれでいい。体力的に弱いよりも強い方が良いに決まっている。体力的な強さはトレーニング機器でも使って厳密に測定できるが、精神的強さはそんなに簡単に測定できるものではない。さらに精神的強さは、非常に多様的な側面がある。ある一つの事に強さを発揮しても、他の事に関しては弱いかもしれない。しかしそのような精神的多様性にこそ、人間の面白さが詰まっていると言える。

僕自身はお世辞にも強い人間だとは言えない。しかしある特定のことに関しては、誰よりも強いという自負はある。自分が成し遂げようとすることに対しての信念や意志の強さ、そのような事に関しては誰にも負けない。しかしこの世の中、結果を出してナンボの世界である。思うだけなら誰にでもできる。重要なのは、決心して、そしてそれを行動に移して、そして結果を出すことである。口で説明するより、結果を出して示した方が明らかだ。結果を出せば説得力も違う。ある意味、結果を出す人間が強いと言えるのかもしれない。

現在の僕の強さは、まだ主観的なものだ。それを客観的強さに変えなければならない。今、非常に面白い問題に取り組んでいる。そしてその問題を解決する糸口は自分なりには見えている。しかし、そこまでたどり着く環境は決してやさしいものではない。色々な所に抵抗勢力がある。抵抗勢力がなければとも思うが、何に取り組むに当たっても抵抗勢力というものはあるのかもしれない。皆、抵抗勢力にぶつかって戦っている。しかし、このような無駄な抵抗勢力はどうかならないものかとも思う。しかし、それを含めて社会というものかもしれない。

物事を成し遂げるためには、頭脳、体力、そして精神力が必要だ。そのどれが欠けても最高地点には到達できない。それは学問に対しても同じだ。ただ単に考えているだけでは思うような結果は出せない。なぜなら、研究者自身も人間の一人であり、社会に生きている人間の一人であるからである。しかし、世の中というものは非常に疲れるものである。精神的にもかなりきつい。しかし、そのような事を嘆いてばかりでは何も進まない。今、自分が置かれている現状の中でいかに乗り切るか。乗り切った先にあるのは何かまだわからないけど、すごく面白い世界、そして人生が待ち受けているように思えてならない。