投稿者「木原 康明」のアーカイブ

姓名の順。

河野太郎外相が各国報道機関に対して、日本人の人名を「姓→名」の順番に表記するように要請した。この姓名の順番に対しては賛否両論あると思うが、僕はこの「姓→名」の順番にすることは大賛成だ。僕は元々この順番ですべきだと昔から思っていた。もちろん海外では「名→姓」の順が標準的だが、日本人の名に関しては「姓→名」の順にするのが筋だと思う。

外国人が日本に来て、名前を「姓→名」に変える人など一人もいない。阪神ファンなら誰でも「ランディー・バース」と呼ぶはずだ。誰も「バース・ランディー」とはよばない。(ちなみにバースは正式には「バス」という名前らしいが、いろいろあって球団登録名はバースになったらしい。)それなら日本人も海外では「Kihara Yasuaki」と表記すべきだ。

そしてもう一つの理由は、実はこちらの理由の方が圧倒的に重要だと思うのだが、日本においては「姓→名」だと主張することが、日本の文化を海外に広めるのに大きく影響していると考えるからだ。この「姓→名」の順番が、日本の一つの文化・風習を表している。日本の文化を世界に広めようという機運が高まる中、名前を海外の風習に合わせるのは非常におかしな話である。さらにおかしなことに、メジャーリーグで活躍する大谷翔平選手のことを、日本のメディアは「ショーヘイ・オータニ」と記述している。何とも自虐的な話である。

僕のブログは「(Kihara,Yasuaki)のブログ」とタイトルを付けている。これには以上書いたような姓名順に対する僕の想いを込めて付けている。確かに世界標準という概念はあるが、何でも海外の風習に合わせれば良いというものではない。主張すべきところは主張しなければならない。今回の新たな、しかし本来の姓名順が海外でも定着することを祈るばかりである。

この後十年に懸けている。

現在の日本の平均寿命は約80年。人生100年時代とも言われている。人間の平均寿命が伸びる事は良いことかもしれない。しかし人生が長くなるにつれて、1年1年の濃さが薄くなっているのならそれはそれで考え物だ。濃い人生を持続することは簡単な事ではない。それを1年10年と続けることは、半端な気持ちでは成し遂げる事は出来ない。80年の人生は非常に長いが、油断をすれば数年数十年などあっという間に過ぎ去ってしまう。

近年、若者の間でキャリア形成という考えが流行っている。人生80年の中でどうキャリアを築いて行くか?そのような事は悪い事ではないと思う。しかし人間である以上、自分がいつ死ぬかもわからない。それは50年後かもしれないし、明日かもしれない。そう考えると、数十年単位で人生を考えると同時に、今日全力で生きることも忘れてはいけない。

僕自身、長生きしようとは考えていない。もちろん長生きできればそれはそれでいいのだが、まずは今生きることに全精力をつぎ込もうと思っている。特にこの後十年に僕の全てを懸けようと思っている。現在僕が取り組んでいる問題は、一日二日で成し遂げられるものではない。しかし十年あればその根幹となる部分は達成できると思っている。まずは確実に十年生きて、確実にその根幹部分を構築して行こうと思っている。もちろん、それは簡単な事ではない。なのでその他の事を我慢しなければならないこともあろうし、時間の使い方も考えなければならない。もし我慢できないことがあれば、今取り組んでいる問題の解決に成功してからで良いと思っている。成功すれば色々な意味ではじけることが出来るであろう。

十年というスパンはちょうどいい。長すぎず、短すぎず。一つの問題に取り組むには良い時間的指標になる。この十年に懸けているという事は、この十年で成し遂げられなければ自分の人生はないという事だ。人間、一つぐらいそれくらいの覚悟を持って取り組むことがあってもよい。そのような覚悟が自分の人生の密度を濃くしてくれる。これからの人生は非常に面白くなりそうだ!

死刑とは、教育の無力な一側面を表している。

中学生殺害の犯人の控訴取り下げによって、被告の死刑が確定した。死刑の是非に関しては現在世界的に議論の的になっているが、今回の被告の死刑確定に関しても、いろいろと考えることはあるのではないだろうか?

教育とは、人間の育成である。さらに、教育が国を支えていると言っても過言ではない。現在の日本は小学校から中学校までは義務教育となっており、おそらくほぼすべての市民がこれらの教育を受けている。これらの義務教育の年限は9年と非常に長い。9年あれば色々なことが出来る。人によってはとてつもなく大きな飛躍をすることも可能であろう。

しかしその一方、今回の被告のような人間が現れるのも現実である。この被告もおそらく最低でも9年の義務教育を受けたことであろう。もしかしたら高校にも行っていたのかもしれない。それならば合計12年である。そのような9年、もしくは12年の教育を受けた者が、結果として何の落ち度もない将来のある二人の中学生を殺害したことになる。この者が受けた長年の教育とはいったいなんだったのだろうか?

もちろん、ほとんどの者は殺人など犯さない。なのでこの殺人犯の例は非常に特殊だといえる。しかしその殺人犯が9年以上の教育を受けていたことも事実である。もちろん、算数・理科・国語・社会の授業が直接良い影響を与えるとは思わない。しかし間接的には人間形成に非常に大きな影響を与えると思う。なぜなら、算数などの勉強は、ただ単に計算技術を身に付けるだけのものではなく、大きな世界観を形成することに役立つからである。数学に打ち込む者の世界観は非常に豊富だ。これは間違いないであろう。そしておそらく、国語や社会だって世界観の形成に大きく影響を与えるであろう。本当に数学が出来る人間に、数学は出来るけど人間が出来ていないなんてことは基本ありえない。もしそういう人がいたら、その人の数学は単なる張りぼてであると思って良い。学問とはそういうものである。

なぜ、今回の殺人事件の被告には教育が無力だったのか?これは非常に深い問題であり、真剣に深く考えなければならない。そしてこの問いを考えることは、日本で教育を受ける全ての人に大きな影響を与える。ただ単に被告の死刑が確定したという事実を伝えるだけでは駄目だ。この事に対して深く考証して教育現場にフィードバックして行かなければならない。

自分改革。

人間というものは、その気になれば変われるものなのかもしれない。ただし、周りが変えようとしても自分が変わろうと思わなければ何も変わらない。もちろん、長年続けてきた自分というものは簡単に変えられないが、強い信念に基づいて実行すれば何とか変われるものである。

僕は今、自分改革をしようとしている。なぜそのような事をしようと思ったかというと、今までの自分のままでは限界があると感じたからだ。もちろん、簡単に変えられるとは思っていない。まずは自分で自分を変えようという強い意志が必要だし、そしてただ単に思うだけではなく行動しなければならない。しかしこの行動というものが非常に難しい。これまで意識的にも無意識的にも避けていたことに取り組まないと前には進まない。しかし最近、ようやくこのような事を実行できるようになった。実行するまでは非常に大きな障壁があるように感じていたが、その壁を乗り越えると後は何とか進めそうだ。

しかし油断すると、すぐに元に戻ってしまう。意識的に取り組み続けることが重要だ。そもそも「改革」というものは非常に大きなものである。「変更」は出来ても「改革」まではなかなか成し遂げられない。自分を変えるだけなのに、それが非常に難しい。しかしこれからの事を考えると、改革する価値は非常に大きい。自分が何を成し遂げようとしているのか?そしてそれを成し遂げるためにはどうすれば良いのか?そう考えた時、自分を改革することは必要不可欠だと考えるようになった。

改革とは非常に大きなものに思えるが、胆は根幹となる一つの事を変えることだ。その根幹部分を変えることが出来れば、後は芋づる式に解決して行く。そして全てが良い方向へと進む。今、僕が取り組んでいる問題を解決するために、まずは自分を変えて効果的に取り組んで行く必要があると強く思っている。それが今の僕の自分改革の原動力だ。

人に迷惑をかけていいという発想。

日本人は、いや、日本人だけではないかもしれないが、人に迷惑をかけてはいけないという意識が強いように感じる。もちろん、迷惑をかけないに越したことはない。そして出来るだけ人に迷惑をかけないで生きるぞと思うことは非常にいいことだ。しかし、そのような「人に迷惑をかけてはいけない」という意識を他人に過度に押し付けるのは問題であるように思う。迷惑をかけてはいけないという意識の押し付けが、その人を追い詰めることがあるからだ。結論から言うと、ある程度の迷惑はかけても良いと思う。それぐらいの社会的ゆとりは許さなければならない。

なぜある程度の迷惑はかけてもよいのか?それは多少迷惑をかけても良いという意識が、それ以上のメリットをもたらすからだ。特に創造的な活動を行っている人は、どうしてもある程度の迷惑をかけることは避けられない。そこで絶対に迷惑をかけてはならないと制約を付けてしまうと、何の結果も出せなくなってしまう。小さな正義にこだわる人は、大きな正義が見えないのだ。結局、人に迷惑をかけてはならないと押し付けることが、周り巡って自分にダメージとして帰ってくる。物事とは大局的に捉えることが重要なのである。

自分本位の考えではなく、もっと幅広く思考してみることが大事だ。そうしてみると、ある程度の迷惑はかけてもよいのではと思えてくる。自分も少しくらい迷惑をかけられてもよい。人に絶対に迷惑をかけてはならないという思考は、自分には絶対に迷惑をかけるなという思考の裏返しなのである。従って、絶対に迷惑をかけてはならないという思考は、非常に自分本位な思考なのである。この様な考えをしていると、何でも自分のためと思考が進み、他人を助けることが出来なくなる。

最近、人が困っていても助けないという人が多くなったとよく聞く。そこで助けないとは、そのことに関わらないということである。関わらなければ、そこで責任は生じない。従って、自分がその人に迷惑をかけていないという事になる。果たしてそれで良いのか?このように考えると、多少の迷惑をかけても良いという意識が社会の中にある方が、世の中ははるかに良くなるのではないかと思えてくるのだが・・・。

スランプから脱出か?

僕はここ半年ほど、スランプに陥っていた。原因はストレスだ。苦しい事はそんなに気にはしないが、ストレスによってパフォーマンスが低下するのなら、それは絶対に避けたい。この半年ほど、スランプからどう脱出するか試行錯誤しもがき苦しんだが、今になってやっと脱出する見通しが立ってきた。

ストレスは百害あって一利なしだ。なのでストレスは何が何でも絶対に避けなければならない。僕自身、ストレス耐性は非常に弱い方だ。それはどうやら意志の強さとは関係ないようだ。自分がどのような場面でストレスを受けやすいか?そのような事を考えながら未来の行動を予測して実行することが重要かもしれない。

しかし、現代社会ではストレスを100%避けることは不可能だ。なので最低限のストレスで抑えることが重要だ。それと同時にストレス耐性を上げる事も重要かもしれないが、僕はどうすればストレス耐性を上げられるか、全くわからない。

とは言え、現在スランプから脱出できそう(できた?)なので、この調子を持続しつつ今取り組んでいることをしっかりと仕上げたい。僕が今取り組んでいることは非常に大きく難しい事ではあるが、スランプを脱出したことによって成功確率が60%から90%に上がったと思っている。後は細部を埋めるべく努力するだけだ!

保険・保証中毒。

世の中には保険・保証が溢れている。保険・保証があるから安心して物事に取り組んだりすることが出来る。社会において、保険や保証は非常に大事なものだ。

しかし、この保険や保証がある事が当たり前になった社会において、世の中の人は保険・保証中毒になってはいないだろうか?保険や保証がないと動かない。保険や保証がないと安心できない。確かに保険や保証は安心をもたらすであろう。しかし時には保険がなくても前に進めなければならない時がある。さらに言えば、人生に対して常に保険を求めていればチャレンジなど全くできない。もちろん、保険がないと動かないというのも一つの手かもしれない。しかしそのような人が、チャレンジする人間に対して言及する権利は全くない。保険を求めている人に、チャレンジする人間の意志など理解できるはずはないのだから。

チャレンジというものは、時には命さえも懸けなければならないことがある。チャレンジとは危険地帯に出向くことであるとも言える。保険を求めることは安全地帯に留まる事である。危険地帯に出向く人と安全地帯に留まる人を同列に扱うことはできない。

もちろん、どうでもいい事に対してまで危険にさらす必要はない。そのような事に対しては保険を掛ければ良い。しかし、何事に対しても保険がないと動けないのは人間の精神的には健全ではないと僕は思っている。しかし近年の世の中には保険を掛けないと動けない人があまりにも多い。あまりにも多いがために社会システムまでもが保険を前提とした仕組みになって来ている。これは社会の在り方として正常なのか?病んでいるのか?どちらにしても、チャレンジする人をもう少しサポートするような仕組みが出来てもよいのではないだろうか。

数学とは本質を抽出して行く作業だ!

数学というものに対する認識は人それぞれ違うと思う。しかし人それぞれ違うとは言え、それぞれが数学というものに対してどのようなものかという認識を持つことは大切だ。もしかしたら人によっては、レジで計算するために必要なものだというくらいの軽い認識かも知れない。しかしそのような認識でも何も持たないよりかははるかにましだ。

研究レベルの数学に対しても、数学者の数学に対する認識はそれぞれ違うと思う。しかしそのような違いがあるからこそ、多様性のある数学の世界というものが出来上がる。そして一人の研究者にとっても、数学というものに対する解釈の仕方は複数あるかもしれない。僕自身もいくつかの解釈を持っている。なので表題の「数学とは本質を抽出して行く作業だ」というものは、その一つと捉えてもらいたい。

数学というものに取り組む時、「本質は何か?」という問いは非常に重要である。数学の深化とは、本質を切り出していく方向へ進むことである。もちろん数学の中にも純粋数学や応用数学と言われるそれぞれ毛並みの違う分野がある。特に応用数学に関しては、純粋数学によって切り出された本質を具象化する方向へ進むものである。とは言え、数学の本質を抽出して行く作業はどのようなものでも必要不可欠な作業だ。なので、数学を「本質を抽出して行く作業」だと捉える事は的外れなものではないと思う。

近年、学問がますます実用重視になって来ているように思う。お金に結び付く応用研究に重点が置かれ、すぐには実用化されない基礎研究が軽視されている。その基礎研究の究極が数学である。しかし、応用研究というものは、基礎研究の成果の上に成り立っている。従って、現在の基礎研究軽視は将来の応用研究から出る実用化にも大きく影響してくる。もちろん企業の開発現場であればそのような事もわからない訳ではないが、教育現場での基礎学問軽視は非常に問題があるように思える。

現在の社会の中には、「役に立つものを出せ!役に立たないものはいらない!」という圧力があるように強く感じる。学校現場でもそうである。社会に直接役に立つものか、受験に利用できる事に重点が置かれているのではないだろうか?そのような社会や教育現場の短絡的な風潮に危機感を感じているのは僕だけではないはずだ。

倫理に敏感になりすぎた社会。

倫理というものは社会の規範に依存する。従って、絶対的な倫理観というものがあらかじめある訳ではなく、社会、すなわち人々の意識の持ちようによって倫理は変化して行く。もちろん、誰が考えても絶対的に正しい倫理、間違っている倫理というものはあるのかもしれない。しかし多くの倫理は大衆迎合的であり、多くの人の意見、多くの人の意識に迎合する方向へ変化して行く。

倫理は非常に大事だが、日々の生活の中であまりにも倫理に過敏になりすぎるのは非常に問題である。そのような過敏な倫理観そのものが、人々を社会で生きにくくするためだ。倫理にはある程度の曖昧さ、ゆとりを持たせなければならない。そのようなあいまいさを持たせられなければ、人々に対してどのように行動すべきだと絶対化し、皆無難で画一的な行動を即すことになる。

人間の生き方、そして人間性は非常に多様性のあるものだ。しかしそれを否定し画一化すると、それはもう人間と呼べない。行動の自由が限定化され、思想の自由が全くなくなってしまう。思想は人間の人間であるが故の源泉であり、思想が無くなれば人間的活動をすることが厳しくなる。この事はこれからのAI社会においては真剣に議論すべきことである。人間は決してAIではない。だからこそ、人間が人間であるためにはどうすれば良いかということをそれぞれが深く考えることが必要である。

今、スマホ一台で何でもできる世の中になって来ている。だからこそ、何も考えないで軽く生きていると、スマホに人生を操られることになる。スマホはあくまで自分の人生における便利ツールであり、人生そのものではない。しかし現実は人間がスマホに合わせて生きていると言う事が起きている。何もスマホの存在を否定するつもりはない。僕だってスマホをかなり活用している。しかし以前のブログで書いたように、YouTubeアプリをあえて削除するなどして自分の生活を自分でコントロールすることが必要だ。これからの社会は、自分をコントロールできる人間と自分をコントロールできない人間の二分にされるのではないだろうか?それによって社会の構造も恐らく大きく二分化されるであろう。どちらの世界に入るかは、それぞれの人間の意志にかかっている。

IT社会の今、日本はどのように舵を取れば良いのだろうか?

近年、社会におけるプログラミングの重要性がますます高まっている。それに伴って、学校教育においても、小学校からプログラミング教育が導入されることが決定されている。初めは試行錯誤で手探りの教育になることが予想されるが、それらが洗練されるのにはおそらく二十年はかかるものと思われる。

日本でプログラミングの重要性が議論される時、ほとんどの場合GAFA(Google、Apple、Facebook、Amazon)の話が持ち出される。もちろん、これらの企業に共通するのはITであり、つまりプログラミングであるので、これらの事例を見てプログラミングの重要性へと話が進むのは分からない事ではないが、ただプログラミングの技術だけを高めればITで覇権が取れると思い込むのは早とちりではないだろうか?なぜなら、AppleにしてもFacebookにしても、そしてMicrosoftにしても、それぞれ世界で一、二を争う企業ではあるが、ジョブズが、ザッカーバーグが、そしてビルゲイツが世界で一、二を争うプログラマーである訳ではない。ジョブズやザッカーバーグ、ビルゲイツはもちろんIT技術は高いものを持っているだろうが、彼らが世界トップの企業を作るのに成功したのは、確実壮大で未来を見据えたビジョンを持っていたからではないだろうか?今、日本に一番欠けているのは、技術そのものではなく、むしろビジョンの方である。技術を高めるのは短期間である程度出来るであろうが、ビジョンを持てる人材を養成するのは一朝一夕では出来ない。日本ではこちらの方の教育が完全に欠けている。

なぜ日本の教育はビジョン構想には向かないのか?それは一番に受験システムに問題があると僕は考えている。そもそも学校は、大学は、何のためにあるのか?それはもちろんそこでの教育を通じて教養や技術、知識を身に付けるためである。しかし現在の教育システムでは、受験そのものが最大の目的になっている。受験技術をどれだけ身に付けるかという教育を推進する限り、ビジョンを持てる人間を養成するのは非常に難しい。学校に入ること自体が目的ではなく、入ってから研鑽することが重要なのである。

今、日本の教育の方向性は本当に正しいのか?この問いに絶対的な答えがないのは明らかだが、ただ正しい方向へ進んでいるとは思えない。もちろん、現場の教育者だけの責任ではなく、国を動かす政治家にも問題がある訳だが、そのような国の舵取りをする人たちの示す方向性が間違えば、数十年単位で致命的な問題になる。しかしだからと言って、政治家だけに問題を押し付けるのも間違っている。我々市民がこれらの問題を自己の問題だと捉え、積極的に発言し行動しなければならない。ではどのように考えれば良いか?それは今現在の問題だけを考えるのではなく、次世代、次々世代の事まで考え、長いスパンで物事を捉えることが必要である。現役世代至上主義で物事を考えることは、次世代の人間だけでなく現役世代に対してもデメリットは大きいのではないだろうか?