投稿者「木原 康明」のアーカイブ

藩・国連事務総長が中国「抗日戦勝70年式典」に出席

藩・国連事務総長、つまり国連のトップが、中国で今日9月3日に開かれる抗日戦勝70年式典に出席する。これに対して日本国内だけではなく、国連内部でも疑問の声が上がっている。

藩氏は韓国人だ。韓国と言えば今回の中国の式典に日米の静止を振り切って朴大統領が出席するニュースが問題になった。しかし藩氏の場合、これとは質的に問題が違う。藩氏は韓国人である前に国連という国際中立機関のトップだ。したがって藩氏に対しては高度な中立性が求められる。藩氏が特定の国に偏るということは、国連も偏ることを意味する。一説には次期韓国大統領選に向けて、中国と親密な関係を作ろうとしていると言われている。

今回はもちろん終戦70周年を祝うという意味があるが、それと同時に「抗日」というタイトルがついているように日本に対しての非難の意味もある。中国の思惑としては後者の意味の方が強いだろう。

藩氏は現在の重要なポストの肩書から言って、事務総長退任後の韓国大統領就任は非常に現実味のある話だ。現在の韓国の大統領は反日でないと務まらないようになってしまった。これはイ・ミョンパク前大統領の竹島上陸が火をつけてしまったのである。もしかしたら藩氏自身は個人的には反日でない可能性もある。しかも高度な中立性が要求される国連と言う場で組織を動かしている。しかしそうであろうとなかろうと、次期大統領も反日攻勢で日本に当たってくることは容易に想像できる。

次期韓国大統領になるかもしれない藩氏が、中立心を保って日本と接することを切に願うばかりだ。

知る権利と機密を守る義務(クリントン氏の個人メール問題をめぐって)

いつごろからか、知る権利というものが声高に叫ばれるようになった。知る権利自体は国民の重要な権利であることには間違いないが、その一方で機密を守る義務も存在する。これら二つの物は天秤にかけられるような単純なものではなく、国家機密に関して言えば多くの場合、知る権利より機密を守る方が圧倒的に重要だ。もちろん、政治家の政活費のように明らかにオープンにしなければならない公共情報もあるが、国家情報に関しては事によっては国家の存亡にかかわることもある。

最近、アメリカのクリントン氏の個人メールが問題になっている。単純に言えば、国家の機密情報がセキュリティの甘い個人メールでやり取りされていたというものだ。クリントン氏は現在大統領選出馬に向けて活動中だ。しかしアメリカの大統領になろうかという者が、セキュリティの認識に関してこれまでも甘いというのは明らかに問題だ。国家機密が漏れるとどのようになるか、それはハッカー集団アノニマスによる米国家機密のハッキングによって世界が混乱、さらに不信の渦を巻いたことから明らかだ。

これらの話は国家レベルのものだが、個人レベルでも似たようなことが言えるのではないか。個人のプライベートなことは大げさに言えば個人機密である。これが漏れると生活に支障が出る者も多いだろう。他人のプライベートを知る権利などは通常は誰も持っていない。

では、知る権利とは何に関してであろうか。最近はむやみに知る権利という言葉ばかりを主張して、何に関して知る権利があるのかを全く理解していない者が多い。知る権利とは、

「税金などを使って行われている公共性に高いもの、そしてその税金がどのように使われているか透明化しなくてはならないもの、かつ国民の安全を守るために守らなければいけない機密性の高い情報以外のもの」

とでも言えるのではないだろうか。もちろんこれら以外のものにも知る権利が適用されるべきものがあるかもしれない。しかし知る権利を主張するとき、それと同時に必ず秘匿にされなければならない情報も存在することを認識しなければならない。

MRJ(三菱リージョナルジェット)が10月に初飛行

三菱航空機のMRJ(三菱リージョナルジェット)が10月に初飛行することとなった。念願の国産ジェット機初飛行である。厳密にはホンダジェットが先を越しているが、国産中型旅客ジェット機としては初だ。

戦後日本はアメリカから航空機禁止令を発令され、航空機を作ることが禁止されていたが、40年前のプロペラ機開発を経て念願のジェット機だ。飛行機の重要部分は三菱重工業が受け持つが、繊維会社のハイテク機材は見逃せない。この日本のハイテク機材の開発によって日本はボーイングの機体製作に関わり、航空機開発のノウハウを蓄積していった。

受注の方も順調にいっているようだが、計画の遅延により不安の声もきこえなくもない。MRJの開発は半オールジャパンとでも言っていいのではないか。

10月の初飛行は楽しみでもあり、ロケットの打ち上げ時のような緊張感をもたらす。MRJが日本の製造業再興の起爆剤になればと願うばかりである。

マララさんの女学校

最近、ノーベル平和賞を受賞した少女、マララ・ユスフザイさんがシリア難民向けに設立した女学校が話題になっている。マララさんは一貫して女子教育の重要性を主張しており、銃撃され重傷を負いながらも主張を曲げないところには頭が下がる思いだ。

イスラム圏では今でも「女子に教育はいらない」という風潮が強いが、マララさんの運動をきっかけにして女子が男子と対等に扱われる社会に変えようという風が吹き始めたのかもしれない。

それに対して数日前に僕のブログでも述べた鹿児島県知事の「女子にコサインはいらない」発言は、日本人として本当に恥ずかしい思いだ。女子教育は女子に力を与え、国家としても女子が重要な戦力になる原動力となる。また、生活の向上のためには男女に限らず教育は不可欠だ。その証拠に先進国と言われる国家に女子教育を軽視する国家は皆無だ。国家が豊かになるためには女子教育は絶対に必要だ。さらに国民皆が高い知見を持つことは、紛争を未然に防ぐのにも役立つはずだ。

マララさんはこのような言葉を主張している。

「一人の子ども、一人の先生、一冊の本、一本のペンが世界を変える」

この言葉の意味を世界中の人間が理解するとき、国家の枠組みを超えて世界中で高度な文明が共有できるのかもしれない。

専念と雑念

今の僕がこれから人生を続けるためには、とにもかくにも数理物理の研究で博士号を取得しなければはじまらないと感じている。こんな歳になって何が博士だ、と言う声も聞こえそうだが(実際に周りからはそんな目で見られている)、僕にとって数理物理の研究は命の次というより命より大切と言っても過言ではない。

もちろんこんな状況になっても続けているのには、単に数理物理が一番大事だと言う以外にも理由はある。数学的物理学的構想が僕の頭の中でははっきりしているからだ。結果が出ていないのにこんなことを言うのはバカかもしれないが、自信はある。とにかく後は、頭の中の構想を形として表すだけなのだが、最後の一手がなかなか出ない。

もちろん今、博士号を取得したからと言ってどうなるわけではない。しかしこれから僕が人生を続けるためには博士号は必須だ。今は研究に専念すべきなのはわかっている。しかし金銭的な面などを考えると雑念がしばしば頭の中を支配する。そしてハッと我に返る。

回り道はいいけど、回り道ばかりしてしまった。もちろんしようと思ってしたわけではなく、回り道をせざる負えなかったのである。アクシデントの連続である。アクシデントばかりで苦しいが、悲観に思ったことはない。いろいろ考え込むわりにはかなり前向きである。自分に自信があるからかもしれない。もちろんこれで結果を出せなければ単なる勘違い人間と思われるだけだ。

周りの目を気にしていては生きていけない。そして人が指示する道ではなく、自分で考えた道を進んでいく。自分の人生は自分のものだ。自分の進むべき道に専念しながら、たまにいろいろ他の面白い、やりがいのあることもやってみよう。あっ、これは雑念か。

鹿児島県、伊藤知事の「コサインを教えて何になる」発言

8月27日、鹿児島県の総合教育会議で伊藤祐一郎知事が女子教育に関して「高校でサイン・コサイン・タンジェントを教えて何になるのか」と発言したらしい。教育方針を決める場での発言とは思えない発言である。女性蔑視ととらえられるところは許されないが、数学に対しての認識として伊藤知事の思っていることがわからなくはない。

僕はガチガチの理系で数理物理の研究を今でもやっているが、思えば大学時代、嫌いな教科、特に語学をなぜやらないといけないかと疑問に思い、大学1年の若造の頃、フランス語の教授の研究室に押しかけて二人で討論したことがある。その後も語学の授業をいかにサボるかということを考えていた。

フランス語の教授とどんな内容の討論をしたか詳しくは覚えていないが、僕は数学や物理に没頭したいので関係ない授業は迷惑だというような俗なことから、学問についてのアカデミックなことまでいろいろ話したと思う。

大学の最初の二年間は「教養課程」と言うように大学では専門以外の教養も重視され、最高学府である大学(東大が最高学府と勘違いしている人がいるが、最高学府とは特定の大学のことではなく大学そのものをさす)に見合う教養を持った人間であることが要求される。

しかし教養は何も大学の専売特許ではなく、小学・中学・高校から始まっている。文系の人間に対して数学的教養を持つことは大きなアドバンテージとなり、その人の評価は一段上がる。それとともに教養を持つことは人生を豊かにするのである。

このような教養の重要性は大人になってわかってくるものだが、鹿児島の伊藤知事はこの教養というものに対して全く理解していないのだろう。この「コサインを教えて何になる」という発言は、この歳になって教養が身に付いていないということを物語っている。

学問を理系文系に分けるのはおかしなことかもしれないが、理系の人にとっての文系、文系の人にとっての理系の知識は人間としての深さを深めるためには欠かせないものであることを理解しなければいけない。

グレーゾーンを上手く使う

物事を判断するとき、白か黒かはっきりつけることが重要だと思っている人が多い。灰色(グレーゾーン)のままにしておくのは気持ちが悪く、良くないことだと思いがちだ。それが多くの日本人の本音だろう。しかしグレーゾーンというのは白と黒の中間に位置し、白にも黒にも移行することができる。言わばグレーゾーンには柔軟性があるのだ。しかし一度黒と判断してしまえば後から白に変えることは非常に困難だ。それが顕著に表れているのが裁判であろう。

裁判官の仕事は白黒をはっきりつけて量刑を決めることだ。だからグレーゾーンの判決などはほとんどありえない。しかし一度有罪が確定してしまうと無罪に変えることはほとんど不可能だ。冤罪を無罪に変えるには90%の証拠ではダメだ。99%、あるいは100%覆す証拠がなければ無罪には変えられない。それは何万とある判決の中で冤罪が認められた例が数えるほどしかないことからもわかる。

政治の世界ではグレーゾーンと呼ばずに「玉虫色」と表現する。非常に上手い表現だと僕は思う。何色ともとれるわけだ。しかし国民にはこの玉虫色と言う表現のイメージは良くない。どうしても白黒をはっきりせよということだろう。しかし玉虫色で柔軟性を残すべきことは政治の世界では多いはずだ。

このグレーゾーンの利点を一度大きく議論することが必要だと僕は思っている。

憲法をいかにすべきか

最近、コンサルタントの大前研一氏が書かれた2年前の記事を読んだ。その当時は現在のように憲法解釈が今ほど問題になっていなかったと思われるが、大前氏は憲法改正に関して持論を述べられていた。

そこで大前氏が主張していたのが、「フレームワークをしっかり作らなければいけない」ということであった。現在、憲法解釈や憲法第九条の改正の問題が話題になっているが、そもそもそれだけやっても単に正誤表を作るだけであって憲法全体のフレームワークは全く無視されている。憲法全体のバランスが全く取れていないのである。また一部だけいじくることは必ず矛盾を生む。

現在の憲法は戦後間もなく進駐軍が中心となって作られたもので、もう作られてから70年近く経つことになる。世界情勢も当時と今とでは全く異なる。現在集団的自衛権の問題が盛んにおこなわれているが、憲法は何も安全保障のことだけを明示するものではない。とはいえ現在の憲法は、国内の体制、国家と国民・企業との関係も明確に書かれていない。

大前氏は憲法「改正」ではなく、ゼロベースで作り上げなければいけないと主張している。実際ゼロベースで作るとなるととんでもなく膨大な作業になり時間も仕事も増えるだろうが、政治家にはそれくらいの覚悟で憲法問題に取り組んでもらいたい。

「政府の広報は止めろ」、市民団体がNHKを抗議

市民団体がNHKの前で「政府の広報は止めろ」と抗議のデモが起こったみたいだ。確かにNHKは政府に寄り添った報道をやっているように思えるが、それ以上に政府を批判するような報道をしていないと言った方が良い。それに対して民放は、朝日放送「報道ステーション」のように反政府寄りの報道に力を入れており、それと比較すればNHKの政府寄りの報道がよりいっそう鮮明になってくる。

とはいえ、NHKが右に寄りすぎているならば、民放は民放で左に寄りすぎているのではないかという気がしてならない。実際、報道ステーションなどは「政府批判ありき」と思われる放送も少なくない。権力に対して批判精神を持つことはいいことだとは思うが、もう少し中間に位置した、中立的に賛否を判断できるメディアはないものかと思ってしまう。

NHKの異常な政府寄り報道の原因はおそらくNHKの籾井会長に原因があるのではと思う。籾井氏は会長にふさわしいかどうかと言う以前に人間としてどうなのかと思ってしまう。抗議する市民団体も、HNKに対してより籾井氏にターゲットを絞って攻撃したほうが一層効果があると思う。会長一人の人格でここまで媚びるのなら、逆に会長次第で大きく変わる可能性を持っている。

とにかくNHKは改革が必要だ。組織の改革の前に、トップ・経営陣の改革を行わなければならない。

ロシア副首相「はらきりして落ち着くべく」発言

北方領土問題に関して、ロシア副首相が日本に対して「はらきりして落ち着くべき」と発言したことが問題になっている。はっきり言って問題にするに足りないほどのくだらないものなのだが、少し問題にして見る。この「はらきり」つまり「切腹」の用語として国語として全くトンチンカンな使い方をしているが、外国人なので正確な使い方をせよという方が難しい問題だろう。おそらく深い意味はなくて、ただ単に「はらきり」という日本語が思いついたから口にしたというレベルであろう。

しかし日本人としては、切腹について簡単に済まされるのにはやはり簡単に見過ごせない。切腹は単なる自殺方法ではなく、日本の千年以上にわたる武家文化と切り離されない思想である。切腹は自分の名誉を守るための手段でもあった。武士のプライドの究極の姿である。とは言っても、現代の日本人には切腹の思想を全く理解していない人も多いであろう。

新渡戸稲造の著書に「武士道」がある。もともと英語で書かれたのが原著なので「BUSHIDO」というべきかもしれない。この新渡戸の著書によって日本の思想、そして切腹の存在が広く世界に知れ渡ることとなった。武士道の第12章に「自殺および復仇の制度」という章がある。ここで切腹について述べられている。武士道は僕の大好きな本であり、岩波文庫版の本を持ち歩いていることが多いが、武士道を読んで感銘を受けては、記憶力が悪いのですぐに忘れてまた読み返す。

もしかしたら、現在の日本人よりも新渡戸の「BUSHIDO」が広く世に出回った明治時代の外国の方が、日本思想や切腹について詳しいかもしれない。明治時代に新渡戸が世界に「BUSHIDO」を発信したように、いま日本国内に「武士道」を再発信し、もう一度日本人の心に武士道精神を再確認すべきかも知らない。