投稿者「木原 康明」のアーカイブ

氷山の一角から、その下を暴き出す。

社会においても学問においても、目に見えている部分は氷山の一角だ。研究者はその氷山の一角を見て、その下はどうなっているかという事を追究するのが仕事だ。もちろん氷山と同じで、その下の見えない部分の方が圧倒的に大きい。しかし水面に出ている1割から水面下の9割をどう暴き出すか?そこが研究者の腕の見せ所である。

高校までの数学は、水面に出ている1割に過ぎない。なので本格的に数学を追究しようと思えば、大学レベルの数学を勉強することは必須だ。その中でも、大学一年で学ぶ線形代数と微積分はそれらの全ての土台となる。そしてそれらを縦横無尽に使いこなして水面下へと迫ることになる。

水面下の氷山はどのようになっているか?多くの場合、それは驚くべき形態を取っている。水面上とはまるで違う表情をしているのだ。ただはっきりと言えることは、違う形態を取っているとは言え、水面上の見える部分とは連続的に繋がっている。これは数学に限らず、全ての学問に言える。もしそこが繋がっていなければ、水面下を追究すべき手が無くなってしまう。しかし必ず何らかの形で繋がっているのだ。

現在、人間が認識している数学は果たして全数学のうち何割か?1割なのか?1%なのか?もし数学に無限の広がりがあるのならば0%という事になる。これらの事は答えようのない問いである。何に取り組んでいても、水面に見えるところだけを見ていては本質は掴めない。本質を掴むためにどこまで水面下に迫れるか?学問とはそういうものであると僕は考えている。

微妙に現実的なラインを突いてくるほど、くだらないものはない!

何かを求める時に、そのラインは現実的かどうか?そのような事を考えることは重要である。現実的ではない、絶対に無理な所にラインを設定しても、目標にも何にもならない。しかし世の中を見ていると、そのような事があまりにも多い。そして高い所にラインを設定するのにも、“他人”から見て現実的な所に落とすのも非常にくだらないと思っている。とは言っても、やみくもに非現実的な所を目指せと言っているのではない。重要なのは“他人”から見て非現実的な事が、“自分”にとって必ずしも非現実とは限らないという事だ。

僕は何を言いたいのか?それは「他人が非現実的だと思うような事でも、本気で成し遂げようと思い、そして実際に成し遂げる事が重要だ」ということだ。例えば自分の年収や結婚相手に対する希望年収を「微妙に現実的なライン」に置いてはないだろうか?例えば、「500万は少し少ない。しかし1億は絶対に無理だ。非現実的だ。だから1000万を求めよう」と。僕自身、収入に特にこだわりがある訳ではない。しかしそのような中途半端なこだわりや希望は非常にくだらないと思っているのである。

なぜこのようなことを書いたのか?別にお金の事を言いたいのではない。自分が人生を懸けている目標について言いたいのだ。中途半端な目標を持つのは非常にくだらない。他人が非現実的だと言うくらいのレベルの事を成し遂げる事に価値があるのだ。他人が非現実的だと言うのならば、それは非常に価値がある事に取り組んでいるのだろう。もちろん、それが自分にとっては現実的であることが重要だ。

今僕は面白い問題に取り組んでいる。数理物理の大きな問題だ。他人は非現実的だと思うかもしれない。しかし僕には解決への道のりが見えている(と自分では確信している)。苦しいが楽しい道のりである。日々ペンと紙で格闘し続け、非現実を現実に仕上げなければならないと思っている。

結果を出すまでは飲まなくてもいい!

僕はお酒は結構好きな方だ。しかもかなり強い。なので飲もうと思えばかなり飲める。しかしお酒などは飲まないに越したことはないと考えている。なので、最近はたまに飲むくらいに留めている。しかし、このたまに飲むのが厄介者だ。最近は体質的に依存傾向が強く、二日連続で飲んだだけで苦しくなる。量的にはそんなに飲んでいない。缶ビール一本とかそのくらいだ。

体質的にこのようになったからには、お酒との付き合い方も考えなければならない。一週間に一回だけでも、数日間は苦しい。なので、思い切って断酒することにした。幸い、現在は依存症でも体の病気でも何でもない。はっきり言って最近はかなり健康だ。そのような健康なうちに、断酒を決行すべきだと考えた。

もちろん、体への影響だけを考えてのものではない。今やるべきことは、数理物理の研究で結果を出すことだ。そのためにまず改善すべきことは何か?と考えると、今はお酒は飲むべきでないという結論にたどり着く。少なくとも、結果を出すまでは一滴も飲まないと決めた。もしお酒を飲みたいのならば、結果を出してから飲めばよい。極めて簡単な論理である。

お酒を飲んでいる時間は楽しい。しかしお酒を飲むことによって犠牲にしていることがあるのならば、そこは考え直した方が良い。お酒を飲むことによるメリットとデメリットを秤にかけ、メリットが大きい方を取るべきだ。そしてメリットが大きい方は、お酒を飲まない方だと僕は結論を出した。

とにかく少しでも早く今取り組んでいることで結果を出して、その時、高級ワインの一本でも開けよう!

組織を眺める。

僕は組織に属しようとは思わないが、組織を眺めるのは大好きだ。巨大組織の代表と言えば、防衛省や警察組織であろう。なぜ防衛省や警察組織を巨大組織の代表と置いたのか?それは単に巨大であるというだけではなく、組織の縦関係が明確にされているからだ。

特に警察組織は面白い。一番下部に当たる巡査から頂点の警察庁長官・警視総監まで、その組織のピラミッド構造は壮大だ。警察組織の最高ポストは言うまでもなく警察庁長官であるが、実は警察庁長官は階級外にあるポストである。従って警察組織の最高階級は警視総監になる。ちなみに、巡査長というものもあるが、これも正式な階級ではなく、巡査部長になっていないベテランの巡査に与えられる称号であるようだ。

防衛や警察の組織にはなぜ厳格な上下関係があるのか?これには明確な理由がある。それは指示系統を明確にするためだ。例えば、軍が戦っている時に、上部から二つの命令が同時に来たとしよう。その時にどちらの命令に従うか?現場でそのような事を迷っていれば、その間に命を落とすことになりかねない。そのような時には、より地位が高い将校の命令に従うと原則決まっている。そのようにある意味命令指示系統をマニュアル化することにより、素早い判断と実行が可能になる。防衛や警察組織の厳格な上下関係は、組織の統率を図るためには必要不可欠なものなのである。

現在、社会的には全ての人がフラットになるように図られる方向に進んでいるように感じる。しかし社会格差は広がる一方である。格差自体は悪いものではないと僕は感じている。しかしその格差のあり様が非常に問題なのである。例えば機会の平等は非常に重要である。しかしそれは結果の平等まで保証するものではない。結果にまで平等を求めてしまえば、それは社会主義や共産主義のようになってしまう。

しかし、多くの組織はある程度、社会主義や共産主義的な所があるように感じている。特に日本社会では、日本という国が資本主義・民主主義であるにもかかわらず、そこにある民間組織、公的組織は非常に共産主義的である。ある中国人はこんなことを言ったという。「日本に来て、初めて真の共産主義を見た」と。

最近、警察の元幹部が「日本の警察組織では、無能な者が出世することはありえない」ということを書いていた。もしかしたら警察組織は本当にそうなのかもしれない。しかし多くの組織は必ずしもそのようにはなっていない。現在、社会全体が資本主義というものに懐疑的になり、資本主義を見直そうという動きがある。しかし問題の本質は、資本主義・民主主義が徹底されていない所にあるのではないだろうか。すなわち、民主主義・資本主義国家の中にある共産主義的な慣習が問題の本質だと僕は考えている。

スポーツと学問。

現在、テニスの全仏オープンが行われている。僕はスポーツを見るのが大好きなのでスポーツのテレビ観戦をよくするが、先ほども錦織圭選手の試合をテレビで観戦していた。

スポーツと学問は全く違うものと捉えている人も多いかもしれないが。僕は学問とスポーツは非常に近親的なものだと感じている。学問の研究をスポーツ的な感覚で打ち込んでいる人も多いし、もしかしたらスポーツを学問的な追究だと捉えている選手もいるのかもしれない。学問とは一種のゲームと捉えることが出来るので、そういう意味ではスポーツと学問は類似する部分は多いのかもしれない。

僕はこのように、学問をスポーツやゲームのように捉える事は非常に大事な事だと考えている。学問とは山に籠って仙人のように打ち込むだけのものではない。学問と言えども社会的に交流された中に存在するのである。昔、「超対称性はスポーツである」と誰かが言ったと聞いたことがある。超対称性とは、素粒子論などに関係する物理学である。確かに超対称性はまだ実験的にははっきりと確証が得られていないところがあり、ある意味スポーツやゲームと捉えないと進めない部分がある。そう考えれば、数学なども将棋と同じように、ルールに則ったゲームと捉えないと進めない部分がある。

しかし、ゲームというものは100%ルールに従わなければならないが、学問は往々にしてルールから外れることがある。そしてそのようなルールから外れたところに学問の面白さや大きな飛躍が存在する。数学をルールと論理に則ったゲームだと思っている人も多いかもしれないが、数学的定義などは非常に自由なものであり、定義をどう定めるかというところに数学的センスが大きく表れる。

学問もスポーツも、一種の自己表現であると僕は考えている。おそらく錦織圭選手もテニスを通じてどこまで自己を表現できるかという事に挑戦しているのだと思う。僕も数理物理を通じてどこまで自己を極めることが出来るかということに挑戦し続け、自己を表現して行きたいと思っている。

自分の限界の少し超えたところ。

人間である以上、何事も限界というものがある。限界を超えた状態を続けると過労死などの問題が起こるが、自分をどれくらいの状態で維持しどこを目指すかといった時、僕は自分の限界の少し超えたところを目安に持って行きたいと思っている。とは言え、そのような高レベルな所で維持することは難しい。なのでそれくらいの所に目標を置くと、ちょうどいい所に落ち着く。

自分の限界を上げることは永遠の命題である。油断をすればすぐに限界が下がってしまう。下がるのはすぐだが、上げるのは難しい。そこを根気良く挑戦し続けて、少しずつ上げて行かなければならない。

自分の限界を上げることが出来ると、より高い所から物事を俯瞰することが出来る。そして自分に何が足りないかという事がはっきりする。そのような事がどんどんわかって来るので、やるべきこともどんどん増えてくる。物事というものは、進めば進むほどやるべきことが増えるものだ。ある意味エンドレスである。そこをどのようにエンドへ持ってくるか?これは非常に重要な問題である。中間地点で一時的なエンドを作るか?全てをやり切って真のエンドを作るか?あるいは諦めてエンドにするか?この様に選択肢はいろいろあるが、果たしてどのエンドを選ぶのであろうか?

僕は今、一時的なエンドの置きどころを探っている。とは言え、妥協はしたくない。なので高い所でエンドを置こうと思っているので、そこへ行く準備だけでも膨大な量になる。しかしビジョンがはっきりとしているのでモチベーションを維持することが出来ている。現在かなりきつい状況に置かれているが、成し遂げる自信は大いにある。なので今は一歩一歩、いや、三歩三歩くらいで少し急ぎながら前進しようと思う。

受験勉強は役に立つ?立たない?

受験勉強は本当に役に立つのか?多くの人が考える問題であろう。この問いに対して僕は「役に立つ」とも「役に立たない」とも断言できない。その理由を書こうと思う。

「役に立つものもあれば、役に立たないものもある」と言えば当たり前の事になる。では「役に立つ」とはどういう事か?それを考えなければならない。高校以下の学校での勉強は、実用から要請されたものというより、人間観を養成して基礎的思考力を身に付けることが目的だと言ったほうが良いであろう。すなわち、勉強によって視野が広がったならば、勉強が役に立ったと言える。では具体的に勉強の何が、どの教科が役に立つのか?と考えた時に、それは教科の内容よりも、学ぶ者の意識に関わることであることが分かる。同じことを学んでも、それが役に立つ人と役に立たない人がいる。すなわち、どのような意識を持って学ぶか?という事が重要なのである。

受験勉強も同じである。全く役に立たないことをわざわざ勉強させることなどあり得ない。何らかの役に立つから勉強をさせるのである。しかし実際は、勉強が全く役に立っていない人もいる。これはやはり意識の問題である。受験勉強に関しても、ただ単に学校に合格するためだけにやっているのでは、学校に入った後は全く役に立たないことになる。「受験勉強」をするのではなく「学問を修める」ことが重要なのである。学生にこのような意識を持たせることは非常に重要である。しかし一部の学校では相変わらず「受験に合格させる」ためだけに勉強をさせている。そのような教育こそ不毛以外の何物でもない。それは「学生のため」の勉強ではなく「学校のため」の勉強と言える。

受験勉強を、「受験が終わったからもう関係ない」と捨て去るのは、人生を捨て去るも同然だ。勉強は、受験が終わってから、あるいは社会に出てからが勝負なのである。受験勉強を有益にするのも無駄にするのも自分次第、自分の意識の持ちようにかかっている。そして学校の教師は、勉強を教える前にこのような事を教えなければならない。しかしこのような視点で受験勉強を捉える事は、まだまだ社会的には欠けているように思える。

明日の事を考えずに、今日の事と明後日の事を考える。

僕は物事や人生の事を考える時、短期的展望と長期的展望を重視している。その一方、中期的展望はそんなに重視していない。もちろん、短期的展望、中期的展望、長期的展望の全てを考えることが大事なのかもしれないが、優先順位から言うと、長期的展望を最重視し、中期的展望を後回しにしている。これが本当に正しいかどうかは分からないが、現在の僕の思考はこのようになっている。

なぜ中期的展望を考えないか?それは、初めから中期的展望を考えるのではなく、長期的展望を前倒しにして中期的展望へと持っていくことが理想だと考えているからだ。しかし実際は、短期的展望でさえ時間がかかり、長期的展望になることも多々ある。なかなか計画通りには行かないものである。

しかし、短期とか長期とかの区別はどうでもいい。重要なのは何事も展望、つまりビジョンを持つことが大事なのだ。しかし現実は、目の前の事しか見えず、展望を全く持てない人が多い。iPS細胞の山中伸弥教授は「VW」、つまり「ビジョン&ワークハード」が大事だとよく言われている。どうやら日本人は、ワークハードは得意でもビジョンを持つことが得意でないみたいだ。何事も一方だけから見るのではなく、多角的に物事や人生を考えることが大事なのである。

僕自身、ワークハードが決定的に欠けていると自覚している。ワークハードをしようと思えば、心身のコンディションを高いレベルで維持することが大事である。最近、僕のコンディションも高いレベルで維持できつつあると感じている。そのようなコンディションをフルに生かすべく日々試行錯誤している。それが実行できれば、後は結果を出すのみである。一日でも早く結果を出すべくワークハードをこなしたいと考えている。

人生、楽しんだもん勝ちだ!

同じ生きるなら、苦しむより楽しんだ方がはるかに良い。しかし常に楽しんで暮らせるわけではない。時には死ぬほど苦しい時もあるし、我慢しなければならない時もある。しかしそうでない時は出来るだけ楽しんで暮らした方が良い。

楽しめないのには二つの理由がある。一つは、今取り組まなければならないことが苦である事、もう一つは精神的に楽しめない状況になっていることだ。今取り組んでいることが苦しい場合は、それを乗り越えることが出来れば楽しいことが待っていることが多い。将来の成功のための修行といった場合だ。実はこのような苦しみにはもう一つの気持ちが伴う。それは「やりがい」だ。やりがいがあれば苦しい事も乗り越えられることが多い。従って、何をするかとなった場合、やりがいを感じられることに取り組むことが重要だ。やりがいもなく、ただ単に苦しいだけならストレスがたまり自滅してしまう。やりがいを感じられれば、体力的・精神的に苦しくても、それと同時に楽しむ事も出来る。

精神的に楽しめない状況になっている場合は、自分を変える必要がある。自分が何にストレスを感じ、何をすれば実力を発揮できるか?そのように自分を見極め試行錯誤することが必要だ。とにかく自分を徹底的に調べ尽くさなければならない。しかしこれはすぐに成果が上がるものではない。長ければ数年以上かかることもある。僕も数年、いやそれ以上に徹底的に自分に対して試行錯誤をしてきた。そのようなことが出来たのは、自分に大きく絶対的な目標があったからだ。この目標がなければ大きな壁を乗り越えることが出来なかっただろう。僕自身、ストレス耐性は低いとは言え、精神的にはかなり強くなったと思う。

人生とは楽しんだもん勝ちだ。しかし、「楽しむ」という事と「楽をする」という事は全然違う。楽しむためには大きな苦しみを伴うことが少なくない。しかしそのような楽しむための苦しみは「やりがい」と感じられる。時にはやりたくないことをやらざるを得ないことも多々あるだろう。例えば、何かやりたいことがあるが、それをやるにはお金がいる。そのお金を稼ぐために全くやりがいのない事をやらざるを得ないことがある。しかしそこで稼いだお金は自分のやりたいことにつながるではないか!それならば、やりたくないことでお金を稼ぐことも全く無駄ではない。そしてその先に、やりたいことでお金を稼ぐ道があれば最高ではないか!

この様に、人生における全てのものは時系列的につながっている。無駄だと思ったことが後になって無駄ではなかったことに気付く。苦しんで壁を乗り越えたことは必ず財産になる。人生を究極的に楽しむためにも、無駄なように見えて決して無駄ではないことをこなし、本当成し遂げたいことを成し遂げようではないか!

一つの失敗で、その人を全否定する日本。

「日本」と書いたが、多かれ少なかれどこの国でもそのようなところあると思う。しかし日本ではそのような傾向が強いように感じる。アメリカでは四度の破産を繰り返した者が大統領にまで上り詰めている。日本ではとても考えられない事だ。何度失敗しても立ち上がり上を目指す。そのような者に非常に寛容なのがアメリカという国なのかもしれない。それに対して日本は、可もなく不可もなく、失敗はしていないが特に大きな結果も残していない、そのような者が生き残る社会になっている。その結果、誰もが挑戦を避けるように生きている。挑戦するというリスクを避け、何もしないという無リスクを選ぶ。そして権利だけを主張する。何ともおかしな話である。

そのような日本社会の中で、逆境に立ち向かっている者の象徴がホリエモンだと思う。ホリエモンは失敗を恐れずに、考えたらすぐに行動を起こす人だ。確かに失敗も犯すかもしれない。過去には逮捕までされ刑務所にも入れられていた。しかし出獄して再出発したホリエモンは、再び成功を掴んでいる。そのようなホリエモンに対し、僻みの眼で見る人は少なくない。しかし、挑戦もせず、リスクも取らず、可もなく不可もなくという人間がホリエモンの成功に対してとやかく言う権利はない。ホリエモンこそ自らの力で成功を手にした人物なのである。それに対して、可もなく不可もなくという人ほど組織や肩書だけで物事を通そうとする。すなわち自力というものが全くないと言える。まさしく他力本願である。

成功を成し遂げるためには、幾たびの失敗を繰り返すことは必須である。しかし日本の社会はその失敗というものを容認しようとしない。そのような国に大きな成功が成し遂げられるはずはない。それでも日本の世の中には成功はいくつかある。しかしそれは、ホリエモンのように、強い向かい風を正面から受け止め、逆境から立ち上がった少数の人間によるものである。

集団の力や組織の力は確かに無視できない。日本では「力を合わせて」という言葉がよく使われる。しかし実際は、挑戦する個人の力が圧倒的なのである。失敗すれば個人のせい、成功すれば皆の力によるもの。そのように解釈される日本社会は挑戦者には全く割に合わないものであるし、生きにくくもある。しかしそのような事を、出来ない理由にしてもしょうがない。日本であってもアメリカであっても、後退するという選択肢はなく、前に進むしかないのだから。