投稿者「木原 康明」のアーカイブ

ベンチャーヒューマン。

多くの人間は、歳を取るごとにチャレンジ精神が薄れて行くようだ。それはもしかしたら、守るべきものが増えて行き、人生も守りに入るからなのかもしれない。とは言え、守りの人生が悪い訳ではないと思う。時には何かを守ることが攻める事よりも難しいこともある。特に家族などの人間を守ることは大変だ。守るべきものを守る。この当たり前のようなことを当たり前に出来る人間は尊敬に値する。

しかし、守るべきものも特にないのに、人生を守りに入っても仕方がない。そのような時にはやはりとことん攻めるべきだ。企業にベンチャー企業というものがあるように、人間もにもベンチャー精神が必要だ。自分がベンチャーヒューマンだと思うならば、とにかくチャレンジを繰り返し、多くの失敗を経験し、そこから大きな成功を掴まなくてはならない。

もちろん、守るべきものがあってもベンチャー精神を持つことは必要だ。そして時には守るべきものを守るために攻めなければならない時もある。攻めることが出来ない人は、守ることも出来ないと僕は考えている。ベンチャーとは何も若者だけのものではない。例え中年であっても、ベンチャー精神を持つことは大きな力になる。歳を取って死ぬ直前までチャレンジし続ける。そのようなベンチャーヒューマンであり続けたいと僕は考えている。

世の中の人間を見ていると、大きく二極化しているように感じる。失敗を恐れずにチャレンジを繰り返すベンチャーヒューマンと、自分を守る事ばかりに専念する人間とに。人間は何のために生きるのか?そのような事を追究すると、やはり常に挑戦し続けるべきではないか?という結論にたどり着く。少なくとも僕はそう思うのである。

心の余裕。

現代社会はストレス社会とも言われ、心の余裕を持つのは簡単ではないのかもしれない。しかし、心の余裕を持つことによって視野が広がり、そこから創造的な発展へとつながるのではないのかと常々思っている。

頭脳をフル活用して、精神の全てをつぎ込むのは理想的かもしれない。しかし全てをつぎ込んでも、さらに余裕があればなおさら良い。余裕を持つとはある意味オーバースペックを保持することであり、普段は使わないが、いざという時にはさらに有り余る能力があるぞという余裕が非常に重要ではないのではないかと思う。

パソコンでは、ストレージと呼ばれる記憶領域がある。最近は何テラとも言われる大容量のストレージを持つパソコンも多くなったが、日常生活でパソコンを使う限りではそんな大容量のストレージを使うことはほとんどない。しかし、ストレージの余裕があるほど処理能力は速くなる。そういう意味では、オーバースペックというものは能力を最大限に発揮する活力源だとも言える。そしてそのような余裕から来る潜在能力というものは、あらゆる事に対して力を発揮する。

精神的な余裕を持つ男は格好いい。僕もそんな男になりたいと思っているが、細かな事が気になったりもしてなかなかそのようになれない自分がいる。しかし、自分という人間が日々進化しているという実感もある。そのような進化の中、余裕を持てる男に少しずつ近づいているのではないかという実感もある。

今は自分という人間のストレージ(とメモリ)の容量を増やし、余裕領域を広げて行くことに注力している。そしてここぞという時にはそのような能力をフルに生かし、最大限の力を発揮できるようにしなければならない。少ない要領でやり繰りするのではなく、オーバースペックの余裕を持てる人間になろうと日々精進している今日この頃である。

学問と芸術。

学問と芸術、この二つの取り合わせに対してどのような印象を受けるだろうか?もしかしたらほとんどの人は、学問と芸術は全く違う対照的なものと思うかもしれない。しかし学問とは芸術的側面も持ち合わせており、この二つは切っても切り離せない関係であるように僕は思える。

絵画を見る時、「美」という感性は大事だ。もちろん「美」以外にも多くの判断基準があるだろう。しかし「美」はその最も大きな判断基準であるように思える。そして数学や物理においても「美」という判断基準は非常に大事である。ある理論が価値のある理論か?という判断をする時に、数学者や物理学者は美的センスをフルに働かす。さらに理論の方向性を決定する時に、「美しいのはどの方向か?」という事を見抜き、正しい方向へと進むことも多々ある。アインシュタインは理論の美というものを非常に大事にしていたと言われる。実際に、相対性理論は非常に美し理論である。素晴らしい理論には往往として美を備えている。

この様に、学問は芸術的側面を備えている。学者は数学や物理の理論を構築するに際して、芸術作品を創造するような感覚を覚えることがある。このようなレベルになると、芸術と学問を区別することもバカバカしくなる。極論を言うと「学問は芸術である」とでもなるのだろうか?学問が芸術であったとしても、その逆に、芸術が学問なのかは僕にはわからない。もしかしたら学問を追究するように芸術を究める芸術家もいるのかもしれない。

はっきりと言えることは、学問と芸術は相関性があるという事だ。それは学問を究めれば究める程はっきりとしてくる。学問の研究者には芸術に対しての理解が深い人が多いように思える。一つの分野だけの殻に閉じこもっている人の多くは陳腐だ。学問の中にある芸術的側面を捉え、それによって学問研究を遂行する感性を持つことは非常に大事である。

転んでもただでは起きぬ、鋼のメンタル。

転んだり失敗した時にどう思うだろうか?もちろん、転んだらそこから起き上がろうとする。その時どこを目指して起き上がろうとするのか?多くの人は転ぶ前の状態を目指して起き上がろうとするのではないだろうか?もちろん、それでも大きな復活と言えるのかもしれない。しかしそのもう一段上を目指すのも大きな手ではないだろうか?

そのもう一段上とは、転んで復活する時に、転ぶ前よりさらに上を目指すという事である。転ぶ前と同じなら、転ばなかったのとそう大差はない。しかし転ぶことによって学ぶこと、気づくことはいくつかあるはずだ。それらの事を生かすと転ぶ前よりステップアップすることは不可能ではないはずだ。

ただ、そのためには鋼のメンタルが必要だ。僕自身、特に鋼のメンタルを持っている訳ではないが、今鋼のメンタルを持っていないからと言って、そのような事が不可能だとは思っていない。今持っていないのならばこれから身に付ければ良い。もちろそれは簡単な事ではない。しかし不可能ではないはずだ。

転ばないでそのまま行けば、鋼のメンタルを身に付けるきっかけは訪れない。すなわち転んだことは、鋼のメンタルを身に付けるチャンスなのである。もちろん、一回の失敗だけで大きくメンタルを強化することは難しいかもしれない。それなら失敗を繰り返せばいい。失敗を繰り返すことによって、その度メンタルを強化すればよいのである。

失敗は大きなチャンスである。しかし失敗をネガティブな事と捉えている人があまりにも多い。失敗をどう捉えるかによって、その後の人生は大きく変わる。いくつもの失敗を一つの大きな成功へ結びつけるために、失敗を飛躍のきっかけにしたいところである。

失敗ドンと来い!

最初なのに、最後の力を振り絞っているような・・・。

力を振り絞ると言っても、毎日全力で力を出し切れている訳ではない。調子が良い時は大きく前に進むが、調子が良くない時はどうしても停滞してしまう。人生なんて山あり谷ありなので、常に絶好調という訳には行かない。

人間というものは二つに分けられる。これからの人か、これまでの人か。この事に年齢は関係ない。歳を取っていてもこれからの人は少なからずいる。その一方、年齢は若くてもこれまでの人はかなりいるように思える。では、これからの人とこれまでの人は何が違うのか?それは挑戦をしているかどうかという事だと思う。あるいは向上するために努力をしているかどうかだと思う。もちろん、これからの人の未来は明るい。そしてこれまでの人のこれからは余生あるいは惰性なのかもしれない。

人間には寿命があるので、年齢が全く関係ないとは言えない。歳を取っていると、死ぬまでの年月は確実に少なくなっている。しかし死ぬまでの時間が少ないからと言って、未来がないという訳ではない。目標を持ち、それに突き進んでいれば、未来は自ずと明るくなる。もちろん、体力的にも精神的にも苦しいかもしれない。しかし自分の選んだ道を進んでいるのなら、明るい未来が一層明るく見えてくる。

結果を出せれば、そのことについては初めての結果になる。そしてその先もあるのでそれだけでは終われない。しかし何だか最後の力を振り絞っているように思える。ここで力を振り絞って結果を出さなければ、その先には何もない。なので力を振り絞るということ以外の選択肢はない。僕の精神は最近ますます若くなってきているようだ。

最適解と厳密解。

科学を理解するとは、科学には何が出来ないかを理解することである。科学を理解している人は、科学には何が出来ないかを理解している。しかし科学を理解していない人は、科学で何でもできると思っている。これはAIにも言えることであり、AIを理解している人は、AIには何が出来ないかを理解している。しかしAIを理解していない人は、AIで何でもできると思っている。では現在のAIには何が出来て、何が出来ないのだろうか?

数学や物理学は、“厳密解”の学問である。数学者は数個の定義から多くの事を厳密に導いて行く。これは完全論理である。この様な事は人間だからできることであり、AIにはほとんどできない。それはなぜか?それを知るにはAIの仕組みを知らなければならない。しかし難しい事はいらない。僕だってAIの専門家である訳ではない。概要を知るだけでもかなりのことが分かる。

AIを動かすには、まず膨大なビッグデータが必要である。このデータの数が多ければ多いほど精密な結論を導くことが出来る。このような道筋は数学とは対照的である。数学が厳密解の学問であるのに対し、AIはビッグデータから“最適解”を導いているのである。よって、AIに数個の定義を見せても、そこからは何も出来ない。意外とAIは論理に弱いのである。

AIと言えば、最近は将棋AIが話題になる。この将棋AIもやはり最善手と言われる最適解を探しているのである。なので厳密解ではないから、AIだって負けることがある。もちろん、人間の棋士だって厳密解を出せるわけではない。もし厳密解を出せるのなら百戦百勝である。

AIで何でもできると思っている人は、AIの事を何もわかっていない。現在ではむしろ人間の方が万能なのである。人間は物を持ち上げることも出来るし、数学も文学も出来る。そして料理も出来る。まだまだ人間も捨てたものではない!

自分のプラットフォームを持つことが大事!

現在、世界のシステムを支配していると言われるGAFA(Google、Apple、Facebook、Amazon)に共通するのは、この全てがインフラのプラットフォームを握っているという事だ。プラットフォームを握るとは言い換えると、物事の根幹を握るという事だ。根幹とはある意味本質であり、すなわち現代社会の本質を知ろうと思えば、GAFAが何を支配しているかを知らなければならない。GAFAの力が圧倒的に大きくなりすぎた現在の社会システムには大きな批判があるが、このような状況を変えるためにもGAFAの支配するシステムを知り尽くさなければならない。

現代社会のプラットフォームはGAFAであると言えるが、自分という人間に対しても明確なプラットフォームを持つことは重要だ。これはすなわち、自分という人間の根本的枠組みであり、そのような枠組みをはっきりと形成しないと人間性という中身を埋めて行くことはできない。

しかし、このような人間的枠組みというものは、はっきりと認識することが難しい。少なくとも簡単に目で見えるものではない。目で見えないものをどう捉えるか?という事が非常に重要になる。人間的プラットフォームを認識できなければ、どうしても表面的な事に終始してしまうことになる。すなわち根幹ではなく枝葉末節的なことにとらわれてしまうのである。枝葉は根幹から伸ばさなければならない。根幹のない枝葉などはすぐに枯れ落ちてしまう。

根幹をしっかりと形作るか?枝葉などの表面的な事を繕うか?そのどちらを選ぶかは自分自身にかかっている。自分という人間のプラットフォームを構築することが出来ると、中身は自然と埋まって行くはずだ。自分という人間を豊かなものにしたければ、まずは明確な枠組みを構築することから始めなければならない。

山里亮太さん、結婚おめでとう!

お笑い芸人の山里亮太さんと、女優の蒼井優さんが結婚をされた。僕は以前から山里亮太さんが大好きで、テレビで見せる山里亮太さんの多彩な顔にはいつも引き込まれる。山里亮太さんの結婚には、一ファンの僕としても非常に嬉しく、祝福を送りたい。

山里亮太さんは非常に多彩な人だ。お笑い芸人でありながら、硬派な話題にも鋭く対応する。軟派な話題から硬派な話題まで幅広くこなす山里さんの対応力には舌を巻いてしまう。

山里さんは様々なテレビ番組に出演されているが、僕が一番好きな番組は、金曜日の夜中(関西地方)に流されている番組だ。その番組では、山里さんと池上彰さんが生徒と先生のような形で議論するという形式で進められてるが、山里さんが質問する際にも視聴者がその話題の問題点が分かるように話される。山里さんの話は非常に分かりやすいのだ。ただお笑いの話を延々とするのではなく、問題点が非常に整理されている。この様に整理して話せる人はなかなかおらず、山里さんは非常に聡明な方だという印象を強く受ける。

今回の結婚によって山里さんの話術と話の中身のレベルが一層高くなることを楽しみにして、これからの活躍を強く願うばかりである。

強度を上げる。

先ほど、全仏テニス・錦織圭対ナダルの試合を少しだけ観た。そこで解説者が、「ナダルは非常に強度の高い練習をしており、本番より練習の方が入らないくらいだ」と言っていた。これはおそらく、練習で120%の力を出して、本番で100%の力を発揮するためではないかと思う。やはり練習をまともにできない者が、本番で100%の力を発揮することはありえないのだと思う。

調子の良い時は物事がはかどるが、調子の乗らない時はどうしてもはかどらない。はかどる時は徹底的に推し進めて120%の力を出せばいい。しかし調子の乗らない時にどのように取り組むかが問題である。調子の乗らない時でも100%の力を発揮したい。いや、80%でもいい。何もしないよりはましだ。とにかく少しでも前に進めたい。しかしどうしても、調子の悪い時は一度休んで、調子が良くなった時に全力を出せばいいと思ってしまう。しかしそのような考えだと、調子が戻った時も100%の力を出すのは不可能だ。いつも全力で最善を尽くしたい。

その一方、野球の先発投手では常に100%の力を出すことは不可能だ。むしろ平均で70%くらいの力をコンスタントに出すことが求められる。とは言え、ここぞという時は120%の力を出すことが求められる。それが実行できるのが、ヤンキースの田中将大投手であり、巨人の菅野智之投手である。先発投手のように長期戦になるとそのようなペース配分が重要であるが、それはもちろんいつでも120%の力を出せる事が前提だ。

プロスポーツ選手から学び取れることは沢山ある。純粋にスポーツ観戦を楽しむのもよいが、自分の専門をプロとして極めようと思うのならば、同じプロとしてプロスポーツ選手から取り組み方や戦略の立て方を学び取るのも一つの手である。そして何事もそのような視点で物事を見ることが大切であると思う。

川崎の無差別殺傷事件について。

現在、川崎での無差別殺傷事件について広く議論されている。なぜ容疑者はこのような事件を起こしたのか?事件を防ぐ手立てはなかったのか?この事件について考えるべきことは尽きない。

今一番問題になっている意見は「自殺するのなら一人で死ねばいい」というものだ。この意見がどのように問題なのか?これに対する僕の意見を書いてみる。

この事件の容疑者は、事件後自殺をした。従って初めから自分は死ぬつもりで事件を起こしたと思われる。ではそれなら、この容疑者は一人で死ねば問題はなかったのか?それは全く違うし、問題の争点が完全にずれている。なぜならこの事件が起きたのは、この容疑者を自殺にまで追い込んだことにあり、「容疑者の自殺=無差別殺傷事件」という構図が成り立つからである。すなわち事件を防ぐためには、そもそも容疑者の自殺を防ぐことが必要であったのだと考えられる。

ならば、容疑者を自殺へと追い込んだものは何だったのか?家庭の事情、社会的事情、それとも容疑者の人間性なのか?それは今となっては分からない。しかし一つの事情だけでなく、これらの複数の要因が重なって起きたのではないかと考えられる。この中で最も考えなければならないことは、社会的事情であろう。社会の在り方次第では、家庭の事情や人間性の問題も乗り越えられた可能性がある。特に日本は再チャレンジが非常に難しいという固有の事情がある。このことは、多くの人間を追い詰める原因として十分だ。これは言い換えると、たまたま上手く行けば全てが上手く行くが、たまたま上手く行かないことがあると全てが上手く行かない可能性があるという事だ。もちろん人によっては、何度上手く行かなくてもめげずに何度も立ち上がれる人がいる。逆に、些細な失敗が原因で立ち上がれない人もいる。どちらの人間が素晴らしという事ではなくて、これは人間の多様性の問題であり、多様性が存在することは非常に重要な事である。現在は少子化が問題になっており、至る所で子供を産むことが重要だと言われているが、そのような社会の中でも子供を産まずに色々と貢献できる人も社会にとって大事である。さらには社会貢献だけでなく、学問、芸術などで独自の存在感を発揮する人もいる。このような全ての人が大事なのである。

川崎の事件はただ単に容疑者だけの問題でなく、社会の問題だと考えなければならない。「一人で死ねばいい」という世論は、巡り巡って自分の首を絞めることになるのではないかと僕は考えている。容疑者を追い詰めている要因は、社会に生きる全ての人を追い詰める要因である可能性が高い。このような世論は、度々取り上げられる「自己責任」という世論にも通じるものがある。これらの事は自分には関係ないと思うかもしれないが、社会全体を支配する圧力を通じて自分にも影響を与える問題であると認識することが重要ではないだろうか?