投稿者「木原 康明」のアーカイブ

大臣の歴史・そして新しくできた一億総活躍の政策

自民党・二階俊博総務会長が講演会で

「文部大臣は日本国ができた時からずっとある。1億総活躍大臣なんてこのあいだできたばかりでたいしたことない」

と発言したらしい。二階氏に対してどうというわけではないが、大臣の重要性を歴史という一視点だけで判断するのは果たしてどうかと思う。

もちろん文部科学大臣は文部大臣という名前の頃から非常に長い歴史がある。立派な庁舎も存在する。文部科学省・文部科学大臣の重要性は今さら言うまでもない。単純に考えても現在のところ、一億総活躍大臣よりも文部科学大臣の方が圧倒的に重要だと感じる国民の方が大多数だろう。

しかし今、安倍総理が誰もが考えなかった一億総活躍大臣というものを作ったことは、これが安倍総理の肝入りで作られたのだろうと推測できる。この一億総活躍大臣が重要になるかそうならないかは安倍総理の動き次第だ。安倍総理は一億総活躍大臣に対して何かしら重要な役割を持たせてくるであろう。

一億総活躍が重要かそうでないか、それは数年のスパンで判断すべきことではないかと思う。「一億総活躍」という響きはいい。しかしこれを形だけで終わらさないためにも、一億総活躍に向けての具体的政策を打ち出し、国民にアピールしていかなければならない。もし安倍総理の任期終了と一億総活躍大臣の終焉が同時ならば、一億総活躍の政策は安倍総理の失敗と言わざる負えない。

これからの日本を活気のある明るいものにするためにも、一億総活躍の政策が成功することを祈る。

世界で一番貧しい大統領、ウルグアイのムヒカ氏(フジテレビ・Mr.サンデーより)

10月11日、フジテレビの「Mr.サンデー」で、ウルグアイの大統領を5年務め、2015年2月に退任した、ホセ・ムヒカ氏の特集をやっていた。ムヒカ氏は「世界で一番貧しい大統領」と言われた男だ。彼のインタビューを観た日本人の中には、彼の考えに共感した人は多かったのではないかと思う。一番「貧しい」という言葉は彼に失礼かもしれない。確かに貧乏ではあるが、彼の心は決して貧しくはなく、温かく輝いていた。

ムヒカ氏はなぜ貧乏なのか。もちろん大統領にまでなった男だ。お金を得ようと思えば得られたはずだ。しかし彼はそれを選ばなかった。大統領時代の給料の9割を寄付していたのだ。なぜ彼はそのような行動をとったのか。それは「大統領は多数派に選ばれた者だから、生活水準も多数派の平均の生活をしなければいけない」という信念からである。ウルグアイは決して経済的に豊かな国ではない。したがって彼の信念に従えば豊かな生活はできなかったのである。

彼は日本に関して非常に深い理解を持った人物だ。そして彼は、江戸末期の開国前の日本を非常に称賛し、現在の日本を批判している。なぜ彼は現在の日本を批判しているのか。彼はもともと「消費社会」そして「西洋文化」を否定している。お金があれば欲しいものが買えるが、それよりもっと大切なのは豊かな心だ。そして心は生き物からしか得られない。生き物とは人間、犬、そして草花も例外ではない。彼はそのようなあらゆる生き物を大切にする。物質などは必要最小限あればいいのだと彼は言う。

彼の言葉に日本人は非常に反省する。本当に大切なものは何なのか。高級な車、立派な家、豪華な家具、そしてあらゆる物質的豊かさ。今の日本人はそのようなものを追いかけているのではないだろうか。もちろんムヒカ氏の思想がすべてではない。物質的豊かさに満足するのもそれはそれでいいのかもしれない。しかし物質と心がどちらが大切かと問うた時に、もし物質を選んでしまったら少し心が病んでいるのかもしれない。

最近の僕も何かしら物質的なものを追い求めていたかもしれない。お金は天使でもあり魔物でもある。お金を得た人間の人間性によって姿を変える。お金に、そして物質に飲み込まれてはいけない。ムヒカ氏はそのようなことも訴えたかったのかもしれないと僕は感じた。

僕にとって大事なのは何か。心も物質も大事だ。しかし僕にとって一番大事なのは物理・数学の研究だ。それが心も満たしてくれる。それはムヒカ氏が大事だと主張しているものとは少し違うかもしれない。しかし僕にとってそれが一番大事で生きる原動力になっているのである。数学・物理の心とでも言うべきだろうか。

ノーベル「政治学」賞

最近に始まったことではないが、多くの人がノーベル平和賞、そしてノーベル文学賞が「政治化」していると感じているのではないだろうか。平和賞が政治的色彩を帯びるのはまだ理解できるが、最近は文学賞がさながら「政治学賞」となっている状態に反発を覚える人も多いのではないだろうか。

今年のノーベル文学賞受賞者も非常に政治色が濃い人物だ。そして日本で毎年注目を浴びている村上春樹氏も、作品自体が政治色のあるものだとは言わないが、赴いた場所で、そして賞の授賞式で政治的発言をする。以前ノーベル文学賞を受賞した大江健三郎氏の受賞の決定となった作品は、広島の原爆の悲惨さを書いた「広島ノート」だ。べつに大江健三郎氏の書いていることを否定しようという思いは毛頭ない。しかし大江氏の文学的価値があまり注目されない中での受賞は疑問に思う。もういっそうの事「ノーベル政治学賞」でも作ったらどうだという気持ちになる。

大江氏の前の日本人ノーベル文学賞となると、日本人なら誰もが知る川端康成氏だ。川端氏は純文学的要素・日本的な繊細な文学的表現が評価され受賞された。最近は政治色の濃い文学賞に世界の人々ももう飽きているのではないだろうか。そろそろ純文学的に評価されたノーベル文学賞の報を聞きたいところである。

一億総活躍を達成するためには。一億総活躍大臣設置について

先日の内閣改造で、一億総活躍担当大臣なるポストができた。「一億総活躍」なる言葉の響きは非常にいいが、具体的に一億人がどう活躍するのか、具体性に乏しい。一部では「女性の活躍推進さえまだ不十分なのに、一億総活躍なんて」という声も出ているが、それはそれでもっともな意見だろう。ちなみに一億総活躍担当相は女性活躍担当相も兼任している。安倍総理にしてみれば、女性活躍の発展版として一億総活躍を設置したのかもしれない。

一億総活躍を達成するためには具体的にどうすればいいか。もちろん人口の半分をせめる女性が活躍できる社会にしなければならないことはもっともであろう。そして今ひそかに深刻な問題となっているのが、40代・50台の社会戦力である。日本という国の労働事情は、人生の、具体的には職業の空白に非常に厳しい。履歴書に空白があれば人事はそこを徹底的に追及し、なかなか受け入れようとしない。20代・30代前半の若者に対しては積極的に就職支援をしようとする公共団体も、40代などの中年社会戦力に対してはほとんど手薄だ。実際にはそのような支援も存在するが、中年戦力に対する支援は形骸化している。一度履歴書の空白期間に入ればそこからなかなか脱出できない。国が一億総活躍を目指すならそこにも手を入れるべきであろう。

一億総活躍が言葉だけの形骸化したものにならないためにも、あらゆる構造的問題、そしてこれまで光が当たらなかった見落とされていた問題にも、安倍政権は積極的に能動的に問題を探す姿勢を取りながら社会の構造改革を進めなければいけない。

追いつめられても絶対に倒れない。最近の近況

ここ最近のブログでは、社会・時事問題、そしてここ数日はノーベル賞関連の記事を書いていたが、少し一服として僕の近況を書いてみたい。

今日の午後、友人と年末年始にあるお笑いのR-1ぐらんぷりの予選に向けてネタを練っていた。しかし夕方になって一つ気になることがあった。この年末年始、またR-1は開催されるのか?確か去年の今頃は大会要領は発表されていたはずだ。そこで気になって主催者の吉本に電話をかけて聞いてみた。すると現在プロジェクトはないということなのである。(汗)。どうやらスポンサーが集まらないらしい。このことは去年から気になっていた。前々回は「東洋水産」という冠スポンサーがついて、正式名称は「東洋水産R-1ぐらんぷり」だった。しかし僕が予選に初参戦した前回はこの「東洋水産」が抜けていたのである。なのでその時から少し嫌な気配がしていた。とはいえまだ未定ということなのでわずかな可能性に期待しよう。

実は本当は今年から復活するM-1グランプリに出場したいのであるが、相方が人前に立ちたくないということでOKが出ない(汗・汗・汗)。M-1に出るのは僕の悲願でもあり、前回のR-1は出場自体が目標だったが、次にお笑い賞レースに出場するときは本気で勝ちに行きたい。勝てる見込みがなければ出ないつもりだ。

数理物理の研究や仕事のことで崖っぷちに立たされているが、どんなに極限状態でも絶対に挫折しないのが僕の取り柄である。失敗はしても挫折はしない。はっきり言って精神的にはいろいろきつい状態ではある。僕自身いろいろ悩むたちではあるが、挫折は死ぬまでしないつもりである。

今年もあと三か月弱、人生何が起きるかわからない。転機は突然やってくる。その時にしっかりチャンスをつかむためにも、日々コツコツと継続して努力することが大切である。

欧米を追いかける研究と、追いかけない研究のバランス

ノーベル賞、化学賞も日本人、とはいかなかったが、連日の医学・生理学賞と物理学賞の受賞に日本がわいた。

ところで今回のお二方の研究は、研究結果の重要性はもとより、日本独自のオリジナリティが大きな評価の対象になったのではないかと感じた。物理学賞の梶田氏の研究は、岐阜県神岡鉱山跡にある「スーパーカミオカンデ」という実験施設が舞台になった。世界の物理界では巨大な加速器の建設競争が過熱し、加速器物理こそ欧米の研究の中心の一つともいえる。ところがスーパーカミオカンデは、地下に大量の純水を貯め、宇宙線粒子と反応した水が発生した微弱な光を検出するという非常に地味な実験施設だ。この様な施設は日本以外では(少なくとも僕は)聞いたことがなく、おそらくあまりにも地味すぎて外国では興味を持つ人がいなくて作られなかったのではないかと思われる。それに対して加速器物理は素粒子物理の華である。

とはいえこの地味に思えるスーパーカミオカンデは最先端の科学技術も取り入れられている。巨大な光電子倍増菅だ。純水貯蔵施設の壁にぎっしりと取り付けられている。この巨大光電子倍増菅は静岡にある浜松ホトニクスという企業の専売特許である。2002年の小柴氏の受賞時にも話題になった。

このカミオカンデのように外国が注目しない実験施設を作り、日本独自の研究を行ったことがオリジナリティの高さにつながり受賞に結び付いたのだろう。まさしく欧米を追いかけない研究の典型だ。

欧米中心の研究に取り組むことが悪いのではない。ただしそのような研究に取り組むならば後追いではなく先駆者にならなければ、単なるハイエナと呼ばれることになる。

連日のノーベル賞受賞、梶田隆章氏。昨日の大村氏とは思想の違う研究で。

前日の大村智氏のノーベル医学・生理学賞受賞に続き、10月6日、梶田隆章東京大学宇宙線研究所所長がノーベル物理学賞を受賞された。前日の大村氏に続き、梶田氏にも一国民としておめでとうという気持ちを送りたい。

ところで前日の僕のブログで、医学・生理学賞の大村氏の研究思想に対して、科学研究には大村氏とは異なった思想・視点も大事だと述べた。そして今日の梶田氏の物理学賞の受賞、そこで梶田氏は前日僕が述べたことをそのまま表現してくれた。現在の僕がいくら主張しても全然影響力はないが、ノーベル賞を受賞された梶田氏が発言すると非常に説得力があるだろう。

具体的には、科学は役に立つものだけではなく、役に立たないもの、実学ではないものに真の科学的価値があるということだ。そしてまさしく梶田氏の研究がそれにあたる。梶田氏の研究は、宇宙線の研究によりニュートリノ振動という現象を観測され、ニュートリノに質量が発見されたというものだ。分野としては素粒子物理学にあたるが、2008年の南部・小林・益川氏らの「素粒子論」に対し、今回の梶田氏は2002年の小柴氏の流れをくむ「素粒子実験」である。

今回の梶田氏の受賞に際しての発言は、僕自身も非常にうれしいものであった。梶田氏は

「すぐに役に立つ研究ではなく、知の地平線を広げるような研究だ」

ということを話されていた。僕が前日のブログで述べたことはまさしくこのことである。梶田氏の発言によって少しでもそのような科学思想の重要性が国民に浸透すれば非常にうれしい。

二日続けてのノーベル賞日本人受賞、気は早いが次の化学賞で「三日続けて」となるかどうかが楽しみである。そして文学賞では村上春樹氏が有力候補とされている。この時期は日本人にとって恒例の楽しみな季節となりつつある。

大村智氏、ノーベル賞受賞。大村氏の信念は素晴らしいが、科学には別の視点も必要だ

10月5日、ノーベル医学・生理学賞が発表され、北里大学の大村智特別栄誉教授が受賞された。何はともあれ、一国民としておめでとうという気持ちを送りたい。

大村氏の科学に対する信念は非常に素晴らしい。大村氏は、科学は人の役に立てなければいけない、実学でなければいけないということを非常に強調されていた。それはそれでもっともかもしれない。しかし変人である僕はその信念に反発を感じるのである。

僕は数理物理と言う分野を研究してきたが、なぜ数理物理を選んだのか?それは一番は興味があり面白さを感じたからであることは言うまでもないが、それとは別に「役に立たないから、そして実学からはほど遠いから」だ。しかしこのような思想はほとんどの人に理解されない。役に立つ素晴らしさを理解するのは簡単だが、役に立たないものの素晴らしさは説明をしないと理解してもらえない。説明をしても理解されないかもしれない。

400年ほど前のニュートンの時代、当時、万有引力の法則が役に立つなどと理解した人はどれだけいるであろうか。20世紀の初めの量子論、そして相対性理論が人の助けになると想像した人がどれだけいるだろうか。おそらく全くと言っていいほどいないだろう。しかし万有引力の法則も、量子論も、相対論も科学史に輝く金字塔だ。なぜ役に立たない(と当時思われていた)これらの理論がそんなにも偉大なのか?それは役に立たないからである。もう少し詳しく言えば、役に立たないのに取り組むべき価値のあるほど重要な理論なのである。分野にもよるだろうが、数学や物理では役に立てるために発明したものよりも、役に立つかどうかということを度外視して打ち立てた理論の方が圧倒的に重要なことが多い。

とはいえ、当時役立てることからはほど遠かった量子論は、現在の科学技術、人々の周りで最も中心的な役割を担っている。現在最も役立っている理論は量子論だといっても過言ではない。相対論も現在ではカーナビなどの技術に取り入れられている。

役立てるための短期的な科学技術ももちろん大事だが、役立つかどうかなどを度外視して真に重要な理論を研究している科学者たちに対しても、周りの人は見守ってほしいものである。それが結果的に科学立国として大国になるために必要な資質である。

津波の原因は地震だけではなかった。想定外災害時代に突入した日本

10月4日(日)、NHKで「巨大災害」という番組を観た。いま注目されている災害の一つに、「カルデラ噴火」がある。カルデラ噴火は普通の噴火とは規模も質も全く違い、桁違いの巨大災害をもたらす。鹿児島の桜島では、普通の噴火は桜島の火口から噴火するが、カルデラ噴火では桜島が浮かんでいる鹿児島湾全体が噴火口となる。

カルデラ噴火は鹿児島湾だけでない。阿蘇山などをはじめ、北海道から鹿児島まで日本にはカルデラが多数存在する。日本でカルデラ噴火が起きる頻度は平均すると6500年に一度だそうだ。

そしてこのブログのタイトルでもある津波についてだが、津波は地震の専売特許ではないという。驚くことに火山の噴火でも津波は起こることがわかっている。厳密に言うと、海底噴火が原因の津波である。鹿児島湾では地上にある桜島だけではなく、鹿児島湾内の海底でも噴火が起きるという。そうなれば鹿児島湾沿岸では10メートルにもなる巨大津波が襲ってくる。

日本に住んでいる限り、巨大自然災害からは縁が切れないといっても過言ではない。そして東日本大震災から学んだこと、「想定外」はもう許されない。想定外はいつ起こってもおかしくないのである。従来ならカルデラ噴火などは想定外だったかもしれない。海底噴火による津波が起これば想定外と言われたかもしれない。しかし想定外が当たり前になった現在、もう想定外は存在しない。

日本人には自然災害に対してもう想定外と口にすることはできなくなってしまった。頭の片隅に、そのような想定しえないことが起きる可能性というものについて気を留めておく必要がある。

ラグビー、サモアに快勝!スポーツに興味を持つためには。

先ほどまで行われていたラグビーワールドカップ・サモア戦に日本代表が圧勝!テレビを観ながら観戦するも、手に汗握るというよりかは安心して観ていた。後半戦には期待はいかに4つのトライを奪って勝ち点プラス1点を追加できるかに変わっていた。プラス1点は惜しくも逃したが、日本人として非常に気持ちのいいスポーツ観戦ができた。

ところで本当のところを告白すると、僕は南アフリカ戦に勝利するまではラグビーにはほとんど興味がなく、超にわかミーハーなラグビーファンである。僕がラグビーのことを書けば、以前からのラグビーファンに怒られるかもしれない。しかし今回のラグビーをテレビ観戦して(まだ2戦しか観戦していないが)思ったことは、興味がない一番の原因はその競技が面白くないというよりも、そもそもその競技のルールを知らないというのが一番の原因だと感じた。

僕は南ア戦の勝利で盛り上がった後のスコットランド戦で初めて真面目にラグビーを観戦したが、まず一番気にしたのはそもそもラグビーのルールとはどうなっているのかということだった。幸いテレビの右端に非常に丁寧にルール解説が随時なされており、反則があった場合はどういうプレーが反則の対象だったかということが表示されていた。そのおかげで必死にルールを理解しようと思えば一戦80分を観戦するだけでも大筋は理解することができた。そしてルールの理解が深まるにつれゲームが非常に面白く感じるようになった。正直言ってラグビーがこんなに面白いスポーツだったとは自分でもびっくりだ。

結局、スポーツに興味を持つ一番の近道はルールを覚えることだと感じた。そして日本人選手、日本代表が強くなれば、その競技に興味を持つきっかけになる。グループリーグはあと一戦(アメリカ戦)残っているが、その一戦が今から非常に楽しみである。人気者になった五郎丸選手、そして日本代表全ての選手の健闘を祈りたいと思います。