投稿者「木原 康明」のアーカイブ

経験から学ぶこと。

僕自身ははっきり言って経験豊富とは言えない。しかし最近、これまではあまりしなかったことを経験し、やはり経験は大事だなと実感している。

しかし経験はそれだけでは、単なる経験でしかない。経験を基に学び、考えることが重要なのである。それは仕事でも学問でも同じだ。考えることによって経験が昇華するのである。

苦しいことを避けるのは誰にでも出来るが、そこをあえて自分から買って出るのも手だ。自分から買って出ることによって、それだけ経験が増える。僕は最近はあえて苦しいこと、力のいることを買って出ることを心がけている。

自分の専門とは全く違う他分野の事において様々な経験をすることによって、それらの経験は専門分野でも生きてくる。特に他分野において苦しく忍耐のいることを経験した後では、精神力も強くなり、専門分野においても力を発揮することができる。

今僕は、数理物理の研究に力を注ぎこんでいる。とは言え、僕の精神力はあまり強くないということも認識している。少しでも強くなり、研究においても全力で力を発揮するためにはどうすればよいか?今はいろいろと試行錯誤している途上である。

正しいことを、正しいと言うために。

正しいことを、正しいと言うのはなかなか難しい。世の中の風潮や常識にとらわれて、ついそれに沿うように話を進めてしまう。世の中の常識には、正しいものはもちろんたくさんあるが、おかしなものもたくさんある。それらに対して自分の思考によって、正しいか間違っているかを判断することが大事である。

僕も、本当は間違っていると思うことを相手に合わして流してしまうこともある。正しいことを正しいと言うことは、エネルギーもいるし、勇気もいる。当たり前のことでさえ正直に言えない。

相手の言うことが正しい時、素直に正しいと言える心も大事である。つい意地になって、相手の言うことに対して反抗したくなる時がある。自分が主張すべきことは主張して、相手を認めるべきことは認めるという、正確な評価が重要である。

ある事柄が正しいか間違っているかを判断する時、当たり前ではあるが自分で考えて判断することが重要である。しかし、この当たり前のことができない人が多すぎる。特にネット社会になった現代において、それらの判断をネット検索に頼って調べるということが頻繁に起きている。それらの人は、人間を信じずにネットを信じているのである。しかしネットに載っている事柄も元はと言えば人間が書き込んだものである。しかしネットを完全に信じている人は、人間を見ずにコンピューターが絶対だと信じ込んでいる。コンピューターの先にある人間の姿まで見えていないのである。

正しいことを正しいと言えるかどうかは、学生時代の学校での生き方に強く表れているように思う。学生時代に、自分で物事を判断せずに学校の校則を絶対だと思い、教師には完全に従う。そのような生き方を経てきた人たちには自分で物事を考えるということは難しいのではないかと感じる。

しかし、物事を考えることに遅いということは全くない。大人になってからでも自分で物事を考えるという習慣を身に付けることは非常に意義のあることだと思う。

上を向いて笑おう!

物事に対して、楽観過ぎるのは良くないし、悲観過ぎるのも良くない。大事なのは物事を正確に評価することだ。しかしあえて言うと多少楽観的な方が良いかもしれない。

物事を正確に評価するというのはなかなか難しい。悲観的に物事を捉えてしまうと保険を掛けることに走ってしまう。そのように保険を掛け過ぎると身動きが取れなくなる。そして結果的に自由を失うことになってしまう。

物事を創造的にとらえるためには、精神的に自由であることと、行動的に自由であることが重要になる。自由な精神で作り上げた発想を、行動の自由で創造していく。このことは科学の研究に対しても言える。

そのような自由な精神と行動を作り上げるためにはどうすればいいか?それはある程度の楽観性と人間的な明るさを持つことである。確かに精神的に追い込み、苦しくなる時もあると思う。しかし基本は楽観的で明るくないといけない。悲観的であることは自分に対しても周りの人に対しても良くないし、得なことはあまりない。

ビジネスなどにおいては、最悪のケースを想定して、それに対して対策を立てることが重要だとよく言われる。それは確かに間違ってはいないが、そのような世界であっても、人間的には楽観的に明るくないといけないと思う。矛盾するようだが、楽観的でないと最悪のケースに備えることはできない。

もし自分が悲観的になりすぎていると感じているときは、一歩前へ進んで上を向いて笑うことを心がけてみよう。

(科学に対する)思想はあるから、技術を付ける。

人間が生きていくにあたって、思想を持つことは重要だ。しかし思想だけでは物事は動かない。具体的な技術を身に付けることが必要である。

世界の多くの人は、世界が平和になることを望んでいる。それも一種の思想と言える。しかし思っているだけでは世の中は動かない。一人一人がアクションを起こすことが求められるのである。確かに市民一人のアクションの割合は、全世界人口から考えれば小さいかもしれない。しかし民主主義社会では選挙というアクションを通じて市民が意思表示をすることができる。大きな波も小さな部分から成り立っていることを忘れてはならない。

もちろん、首相や大統領には大きな権力がある。だからこそそれらの人物には、思想だけではなく強く巧みな技術で世の中を動かすことが求められる。

かのアインシュタインが相対性理論を発見した時に、ある哲学者は「自分は相対主義者だから、自分に数学的知識があれば自分が相対性理論を発見したであろう」と言ったという。しかしその哲学者は何も生み出していない。相対主義者などということは相対論を生み出す思想でも何でもないが、百歩譲ってそれが思想だと認めるとしても、肝心な技術(数学)が全くなかったわけである。科学を含め、物事を生み出すには思想と技術は双璧なのである。

僕は今、数理物理の研究において成し遂げようとしていることがある。それに対してのフレームワーク(思想から導き出される物理学的骨格)はほぼ明確に出来上がっている。そのフレームワークに肉付けするための技術(数学)を埋めていかなければならない。自然(科学)を理解するためにも思想と技術は重要なのである。

もし自分に思想があるというのならば技術を身に付けなければならないし、逆に技術があるのならば思想という大局観を身に付けなければならない。そして思想という大局観と具体的技術の双方を極めた時、目標とする構築物を完成させることができる。

世界標準にする必要はない。

現在は、ビジネスにおいても技術においても、世界標準へという覇権争いが熾烈になっている。もしかしたら文化もそうかもしれない。とにかくスケールがものを言う世界になっている。

しかし、日本という国は決して大きくない。もちろんネットで全世界がつながっている現在、日本に居ながら世界スケールで物事を進めることも可能になっている。しかしそのような現代だからこそ、スケール以外の価値観を見つけることが重要になってきているのではないかと感じる。

現在、資本主義的価値観は行き詰っているように思える。一昔前までなら、経済的裕福が人生の裕福に直接つながっていた。もちろん現在でも金銭的に不自由なく暮らすことは、幸福を実感するためには重要だ。しかし、金銭イコール裕福とは言えなくなってきていることを多くの人が感じている。

例えば人間関係というものは、金銭だけでは作れない側面がある。もちろん金銭で作れる人間関係も根強く存在するが、金銭的側面からの関係と人間性からの関係をバランスよく保つことが重要である。

そのような事と同じことは、ビジネス、技術、科学、文化にも言えるのではないだろうか?もちろん金銭的な重要性はいつの時代でも消えないだろう。しかし金銭的価値観がせめる割合は時代によって変わるものだ。今、過去の経済万能主義の社会からITの覇権を経て、その割合は揺れ戻している。そのことを一部の人は感じている。

「もの」から「こと」へ価値観が変化している現在、世界標準という一つの究極的な目標から、多様性を広げるというもう一つの究極的な目標へと世の中が変化していることを感じ取ることが求められているのではないだろうか?

意志・見解をはっきりさせる。

最近、情報や報道について考えることが多くなった。報道とは新聞、テレビなどをはじめ、最近ではネットメディアなども報道の一翼を担っていると考えられる。

報道をするに当たって、情報をどのように発信すべきか?情報を公式発表だけに頼って垂れ流しするだけなら、メディアなどはいらないはずだ。情報は受け取るだけではなく、探して入手することが重要である。そして入手した情報を基に、どのような意思・見解を表明するか?そこにメディアの本質があるのだと思う。

意志・見解は、人によってそれぞれ異なる。しかしそのような多様性が非常に重要なのである。賛成の意見があれば、反対の意見がある。政府寄りの意見があれば、反政府寄りの意見がある。最も怖いのは、意志・見解の内容ではなく、一方の意見を抹殺してしまうことだ。

意志・見解を示すことは、メディアだけではなく、個人にとっても非常に重要である。意志・見解を示すことによって、自分が何者かということが示される。それを保証するために言論の自由があるのである。

ただし、ネットなどで誹謗・中傷する自由があると言っているわけではない。反対することは自由であるが、誹謗・中傷は小学生レベルのいじめと変わらない低レベルの行為である。

世の中の荒波の中で「個」を示すためには、ある程度の大きな声を発することが必要だ。しかしそのような意思・見解という声を発することによって「個」が確立され、社会の中での自分のポジションが明確になるのである。

「好き」というだけでは乗り越えられない壁がある。

プロ野球選手のほとんどはおそらく野球が大好きで打ち込んでいるのだろうし、数学者や物理学者のほぼすべての人は数学や物理が大好きで研究に打ち込んでいる。その道を極めるためには、「好き」という思いは欠かせない。

しかし、その道を極めようとした時、「好き」という気持ちだけでは乗り越えられない壁に直面する。その壁を乗り越えるためには、忍耐もいるし、苦しい状況にも遭遇する。その壁を乗り越えられるかどうかが、プロとアマチュアの分け目になるのだと思う。

その壁を乗り越えるために必要なものの一つが「プロ意識」だろう。ここで言う「プロ意識」とは、何もお金をもらっているかどうかという意味ではない。何が何でもプロになってやるという覚悟とプライドだ。

プロを目指す人にとっての一つの目標は、その道でお金を稼ぐということだろう。もちろん、専門的な目標は人それぞれあるだろう。しかしプロとしての共通目標は、お金を稼ぐということだと思う。

一番大きな壁に直面するのは、プロになる直前、すなわちお金を稼げるようになる直前であることが多い。それまで「好き」という気持ちだけで進んで来たが、最後の壁を乗り越えようとするときにそれだけでは乗り越えられないことに気付く。しかし、そのことに気付いているということは、プロになる素養があるということだ。プロになれない人はそれにも気付かない。

人によっては、その壁を易々と乗り越えられるのかもしれない。しかしプロを目指す多くの人にとっては、それまでに身に付けてきた技術、知識、知恵の全てを投入してその壁を乗り越えるという課題を解決することになるだろう。

今、強くなりつつある。

今、僕は強くなりつつあることを実感している。僕には大きな目標があるし、その目標に近づきつつある。しかしその目標を達成するためには、自分が強く成り切らなければならない。

何を強くするのか?精神力、体力、知力など様々あるが、どれかという訳ではなく、全てにおいて強くならなければならない。そのためには、数理物理の研究、他分野の事について書かれた本の読書、そして筋トレ、あらゆることに当たって強くなることが必要だ。

好きなことに全力で取り組み、苦しいことにも全力で取り組む。役に立つものを吸収し、役に立たないものにも接触してみる。意外と役に立たないものが、後になって役に立つことがよくある。従って、近道ばかりしようとは思わず、遠回りして道草を食うことも必要である。

お金をむやみに使う必要はないが、ここぞと思う時には思い切ってお金を使うことも重要である。自分への投資は、最も意義のあるお金の使い方だ。

そして、貪欲さと禁欲さの両方を併せ持つことも重要だ。進むべき道へ貪欲に突き進む。そしてそのために抑えなければならないことには少し頑張って禁欲になる。貪欲と禁欲は相反することのように思えるが、実は相補的であったりする。

そのような事を続けて行くうちに、少しずつ進化し強くなっていくことを実感できるだろう。

僕は今は、強くなりつつある途中だが、近い将来に「強くなった」と胸を張って言える自分になることを目指しているし、なれると強く確信している。

八百万の神。

欧米と日本の宗教観の決定的な違いは、一神教か八百万(やおろず)の神かということだろう。欧米ではキリスト教ならキリストが唯一の神であり、その他の神が存在することを許さない。イスラム教もアラーが唯一の神である。しかし日本にはあらゆる神があらゆるところに存在する。例えば山に神が存在したり、木に神が宿っていたりする。あるいは今僕が使っている椅子や机にも神が宿っているのかもしれない。

これらの宗教観はあらゆるところに反映されている。それはサイエンスだって例外ではない。

ガリレオ・ガリレイは地動説を唱えて宗教裁判にかけられたという話は有名だ。そのような宗教観の下、それを覆すような斬新な科学理論を唱えるのには知能だけではなく強い覚悟もいる。そのような覚悟を持ちサイエンスを進化させたガリレイやニュートンには敬服の念を抱く。しかしそのような抑制下において強い信念の下に研究を進めたからこそ、革命的な科学理論を唱えることができたのかもしれない。

それに比べて、八百万の神の国の日本ではサイエンスに対する抑制は軽いように思われる。だからこそ欧米の進歩したサイエンスを何の疑いもなく受け入れ、崇めたのかもしれない。しかし何の批判もなく科学の新論を崇めることは危険に思える。どうやら日本には、欧米のような批判の文化は根付いていないようだ。欧米哲学、特にドイツ哲学を見れば、その基盤は全て批判することにあることがわかる。

近年では日本ではiPS細胞が大きな話題となっている。もちろんそれは悪いことではないし、山中伸弥教授が発見した日本発の技術を盛り上げることは、日本にとって意味のあることである。しかしサイエンスでは流行から流行は生まれないと僕は思っている。流行に乗っている限り、次の世代の流行を生み出せない。すなわち、現在の流行に乗ることではなく、次の世代の流行を作ることが重要である。そのためにはいかにして本質を見抜くかということが重要である。

話しは初めに戻るが、一神教の欧米ではなく、八百万の神の日本だからできるサイエンスがあるはずだ。例えばiPS細胞やES細胞など多能性幹細胞の研究では倫理観が強い影響を与える。そして自然界の最も基礎的な理解を与える素粒子論などの基礎物理学もそうである。これから日本がサイエンスの研究において突き抜けることができる事があるとすれば、そのような思想が強く影響するところではないかと強く感じる。

確率的思考。

例えば、企業が人材を採用する時に行う面接では、優秀と思われる人、あるいは人間関係を円滑に行い企業の利益に寄与できると思われる人を採用する。しかしあくまでも「思われる人」であり、確率的にその人の方が良いだろうと判断して採用することになる。しかし確率はあくまで確率であり、さらに言えば面接官の独断と偏見に基づくものであり、その確率自体も怪しいものである。

面接に限らず、世の中の判断というものは確率で決定されることが多い。それは民主主義とも密接な関係があるのだが、その一方、世の中の確率的判断の間をすり落ち、真の才能が埋もれてしまうことも多々あるだろう。

もちろん、そのような確率的判断が間違っているわけではない。確率とは多くの母数に対してコンスタントに威力を発揮するものなので、全体を見ればそのような確率的判断はかなりの利益を組織にもたらすであろう。

とは言え、現在の日本の気質から言えば、異端者すなわち出る杭は、打たれることが多い。皆と異質な部分があればそれを排除しようとするような気質がある。もちろんそのような気質も昔と比べればマシになったと思うが、それでもそのような気質は強く残っている。

日本での確率的思考とは、平均を算出することに全てを費やしているように思える。しかし本当にすべき確率的思考は、いかに確率良く最高のパフォーマンスを発揮するかということではないだろうか?しかし現在のような異質を排除するような気質の下では、それを実現するようなことはかなり厳しいと思われる。