投稿者「木原 康明」のアーカイブ

岸田氏への評価は(僕の中では)まだ固まっていない。

10月31日、衆議院議員総選挙が行われた。さらに僕の住んでいるところでは市長選挙も行われた。現在この記事を書いている時点ではまだ集計が完全に終わっていないが、自民は一応過半数を得るだろうと言う見通しがされている。この総選挙は岸田政権発足直後と言う事もあって、まだ何も行っていない岸田氏への信任を問う選挙だとは僕は考えていない。あくまで有権者は岸田氏に対してはまだイメージでしか判断できない段階だと僕は思っている。

そういうこともあって、この選挙の結果がどうであれ、僕はまだ岸田氏を評価するには早すぎると思っている。正直言って僕自身、岸田氏の事を完全に理解していない状況だ。前菅政権が発足した直後、世間が、そしてメディアが菅氏を持ち上げて大歓迎し、支持率が爆上がりの中、僕は即座に「菅政権は必ず短命に終わる」と言う記事を書いて批判した。なぜその時はそのように菅政権発足直後に菅氏を否定的に判断したかと言うと、それは官房長官時代の菅氏の仕事内容、そして振る舞いを見続けて来たからだ。しかし岸田氏に対しては僕の不勉強もあって、岸田氏の手腕、そして人柄を判断できる状態ではない。このようにまだ肯定も否定もできない状況なので、これからの岸田氏の仕事ぶりをしっかりと見て判断していきたいと思っている。

とは言え、現時点では僕は岸田政権にはかなり期待している。わからないからこそ期待しているのである。確かに今の自民には課題は山積である。僕自身も不信感を抱いていることは沢山ある。なので岸田氏がそのような不信感を払拭できるか、そして何よりコロナ禍を上手く乗り越え、コロナ対策と経済対策と言う相反するように見える課題を克服できるかと言うことにかかっていると僕は考えている。

人間をイメージだけで判断するのは良くない。それは政治家に対しても同じだ。なのでこれから岸田氏の政治をしっかりと見ながら、はたして信用に値する政治家かどうかと言う事を判断していきたい。もちろん希望的観測としては、上手く政治的課題を乗り越え国民に信用される総理に成長してくれることを強く願っている。

70%主義。

日本と言う国は何かとゼロリスクにこだわる。確かにゼロリスクなら前総理がよく口にしていたように「安心・安全」であろうが、しかし実際はほぼ全ての事についてゼロリスクなどありえないし、さらに多くの人が言っているように「リスクを取らないことが最大のリスク」であることは明らかだ。とは言え、同じ確率のリスクでも、3%の確率で風邪になるのと、3%の確率で死ぬのではリスクの大きさは全く違ってくる。なので一概に「何%のリスクを背負えば良いか?」とは言えないが、僕は基本的に70%主義を基準に行動している。

僕の70%主義とは、「70%成功する確率があるのなら実行する」と言うものだ。逆に言うと、30%の失敗のリスクは負う覚悟であると言える。この30%のリスクも「どのようなリスクか?」と言うものによって大きく意味が変わって来るが、僕は究極的に、30%死ぬとしても70%生き残れるのなら実行しようと強く思っている。それくらいの覚悟で僕は生きている。とは言え、無駄なリスクを取るつもりは全くないのだが。

今僕が取り組んでいる数理物理(数学・物理)の研究において、僕は70%の確率で成功すると考えている。そしてもしそれが成功すれば非常に大きな成果になると思うし、その先がさらに続いてくる。周りの人から見れば、「1%もないだろ!」と思うかもしれないが、自分の事は自分が一番よくわかっている。自分の体調も自分の脳の調子も自分が一番よくわかっているのである。そして今の僕は過去の僕とは全く違う。なぜ違うかと言うと、僕は常に人生の坂を上ることを自分に課しており、常に進化しようと進んでいるからである。常識的に考えれば、30歳を過ぎれば後は老化していくのみである。たしかにそれは常識であるかもしれない。しかし常識がそうだからと言って、何も自分までそれに従う必要はない。確かに体は、そして細胞は老化しているかもしれない。しかし精神的な思考は自分次第では常に進化し続けることができると僕は強く考えているのである。そして実際僕は進化し続けている。

そして常に進化し続けるためには何が必用なのか?それはリスクを取ることだと僕は考えている。なので僕は常に30%のリスクを取ろうと考えているのである。おそらくゼロリスクにこだわり続けている人は、例え若くても退化するのみだと思う。そしてリスクとは金銭的なリスクだけではない。人生における全てのリスクの事である。自分が安全志向になっている時は、「今自分はリスクを取っているか?」と自問する。時には変なゼロリスク志向にとらわれている時もある。そのような時はリスクを増やすように修正するのである。そしてその最も理想的なリスク志向は70%主義であると僕は定めている。

出来る限り無理をしながら・・・。

イチローが大谷翔平にかけた言葉だ。イチローさんはシーズンを終えた大谷翔平選手に、「出来る限り無理をしながら翔平にしか描けない時代を築いていって欲しい」と述べたと言う。いかにもイチローさんらしい言葉だ。普通なら「無理をしないで」と言うところであろう。しかしイチローさんは無理をする事の重要性を知り尽くしている。無理をすべきところで無理をしてきたからこそ、あれだけの実績を残せたのであろう。

無理をするために必要なものは、強靭な身体と強靭な精神力だ。それはスポーツ選手に限ったことではない。学問の研究者だって同じだ。もちろん僕も出来る限り無理をしていきたい。しかしそれだけの強靭な心身を備えていないと、無理をし過ぎて自滅してしまう。無理をすることができると言うのも、それは立派な才能だ。無理をして継続することは誰もができることではない。だからこそ無理をして継続できる力を身に付けたいと思っている。

僕は常々、研究者に必要なのは「一に体力、二に体力、三四がなくて、五に知力」と言っている。頭を駆使する数学者であっても、最も重要なのは強靭な体力なのである。とは言っても、アスリートのような身体能力ではない。継続して無理ができるような強靭な心身なのである。それはおそらく全ての研究者が一致する見解であろう。

来シーズン、大谷選手の活躍が非常に楽しみだ。イチローさんが以前言っていたように、来シーズンはホームラン王とサイヤング賞を同時に獲得するかもしれない。そんなことを言うと「それはさすがに無理だ」と言う人もいるであろう。しかしそれは一般的な常識しか持ち合わせていない人の意見であって、規格外とはそういう事なのである。そして来年は大谷翔平だけのためにあるのではない。これから生きて行く全ての人に来年はやってくる。なので大谷選手だけでなく全ての人が「来年は自分のためのシーズンにしてやる!」と思うことが重要だ。もちろん僕も強くそう思っている。そのためには強靭な心身を築き上げて、継続して出来る限り無理をし続ける人間にならなければならない。

解放感!

10月1日、ついに全国で緊急事態宣言、及びまん延防止措置が全面解除になった。それと同時に僕自身も、コロナワクチン(モデルナ)二回目接種からほぼ二週間たち、気分的にもかなり楽になった。もちろんワクチンを接種したからと言って完全に安全になったわけではないが、これからは感染対策をしつつも積極的に行動し様々なところに出歩こうと思っている。そこでさっそく三宮の街をぶらついてみたが、以前よりも人通りが多く、人々も活気に溢れているように感じた。ニュースでも「堂々と飲みに行ける」と言う街の声が流れてくる。何だか一気に解放感が溢れだしたようだ。

僕は一か月ほど前にブログで、「これからコロナ禍はさらに悪化するだろう」と言う見解を書いたが、それは良い方向へ裏切られることとなった。この一か月間の感染者数の減少は急激であり、専門家の見解も「このような急激な減少は予測できなかった」と言うものであるようだ。なぜここまで急激に減少したのか?それはもちろんワクチンの普及が最も大きな要因であろう。しかしここまでの急激な減少はワクチンだけでは説明できない。今でも謎な部分は多いが、単に「結果的に良くなったからそれでいいではないか」ではなく、この感染者減少の要因をしっかりと分析して解明しないと、次の波が来た時の対策に応用することができないのでそこはしっかりと明らかにしなければならない。

これからの予測を楽観的に考えるか?悲観的に考えるか?それによってこれからの状況は大きく変わる。ただ極度に悲観的にならずとも、次の波がまたやって来る事は十分に考えられる。そして今大きな解放感に溢れ人々が急激に行動し始めたことによって、半月後からまた状況が悪化しだすことは十分に考えられる。もちろんそのような予測が外れれば良いのだが・・・。

とにかく現時点での状況がいい事は明らかだ。そして僕の心もかなり明るく楽になった。とは言え、感染のリスクを下げることはこれからも重要である。なので最低限の事には気を付けつつ、積極的に前へ進んで行こうと考えている。

死ぬまで上り続ける!

最近、FIREと言う言葉がはやっている。FIREとは「早期リタイヤ」のことだ。つまり若くしてそれなりのお金を稼ぎ、早期リタイヤしてその後は貯金や資産運用で余生を過ごすと言うものだ。確かにそのような生活は多くの人が憧れるものかもしれないが、これほど僕に不似合いな言葉もないと自分でも思えてくる。そもそも僕は若い頃は(今でも若いと思っているが)いろいろあって思うように活躍できなかった。なのでこれからは死ぬその時まで現役で活躍し続けたいと思っている。死ぬまで坂を上り続ける、そのような生き方を貫きたいと思っているのだ。

司馬遼太郎の小説に「坂の上の雲」と言うものがある。日露戦争時の将校であった秋山兄弟、そしてその友である正岡子規の物語だ。NHKでもドラマ化されていた。僕は最近は小説を読むことはほとんどなくなったが、当時はそれなりに小説も読んでおり、坂の上の雲はお気に入りの小説の一つだった。「坂の上の雲」をどう解釈するかは人それぞれだが、僕は空高く存在する雲に近づくべく、坂を上り続けたいのである。

人間は何かと楽をしたいと言う気持ちがあるのかもしれない。おそらくFIREもそのような「いつかは楽をして暮らしたい」と言う気持ちから来ているのだろう。そして若い時に必死に働いてFIREするのも、それはそれで良い生き方だと思う。しかし僕は楽をしたいと言う気持ちがあまりない。もちろん辛いことをしたいとは全く思っていないのだが、自分が目標とするところへ近づくためなら、「苦労どんと来い!」と言う気持ちで常にいる。努力も惜しまないが、実は努力ができると言う事は幸せな事であると思っている。調子の良くない時と言うのは、努力さえもできない。なので努力できると言う事に対して僕は非常に感謝している。

現在はコロナ禍であり、何かと余計なストレスのかかる時代である。そのようなストレスを軽減させるためにもワクチンを接種することは重要であると考えている。もちろんワクチンなんて関係ないと思っている人もいるだろうが、ワクチンを接種することによって行動の自由も広がり、ストレスも軽減されていく。今のコロナ禍にあって、ワクチンは自己実現のための一つの武器だと思っている。そして先日、ワクチン二回目接種を終えた。それを合図に、これから再び人生をどんどん攻めて行きたいと思っている。どんな急坂でも登り切ってやると思っている。そしてこれから何年、何十年と、死ぬまで坂を上り続けて行こうと思っている。そのためにも、健康には最大限の注意を払って、さらに筋トレやジョギングなどをして体と脳を鍛えながら上り続けて行こう!

ワクチン・副反応で感じたこと。

僕は先日(9月19日)、新型コロナワクチン(モデルナ)二回目接種を受けて来た。一回目の接種では腕が痛くなるくらいしか副反応が出なかったが、二回目の今回は38度の熱が二日続くなど、かなりしんどい副反応を受けることになった。これまで僕は、コロナを防ぐことができるのならそれくらいの副反応は何てことないと思っており、実際現在のようにコロナが蔓延し、命や後遺症の危機を避けられるのならそれくらいの副反応は何てことないと今でも思っている。しかしコロナ禍は今年来年限りで終わるわけではなく、おそらく今後数年、もしかしたら数十年人類はコロナと共存しなければならないかもしれない。そうなると、ワクチンも今後数年にわたって半年に一度定期的に接種することになるであろう。

もしそうなると、ワクチンの副反応も半年に一度感じなければならなくなる。そうなると、今回だけの副反応だけなら「かなり疲れた」と感じて終わることだが、毎年二回となると精神的にもかなりきついことになることが予想される。そしてワクチン接種の副反応による精神的疲れが、今後のワクチンの接種率低下につながることになる。

そこで今後のワクチン開発において、副反応をいかにして軽減させるかと言う事が重要な課題になる。もちろんコロナの発症率を抑えるとか感染を防ぐと言う事は言うまでもなく重要だが、副反応の低減はそれと同じくらい重要である。しかしコロナを抑える効果は意図して設計するのに対して、副反応は意図せずに起こるものなので、これを低減させることはコロナを抑える効果以上に難しいかもしれない。しかしこれは避けて通れない道だ。

ワクチン開発は、アメリカやヨーロッパが二歩も三歩もリードしている。それに対して日本メーカーが存在感を示すことは容易ではない。もし同じだけの効果があるのなら、実績のあるファイザー・モデルナ・アストラゼネカが選ばれるのが通常である。そこから日本メーカーが追いつくためには、コロナ抑制効果だけではなく、副作用の軽減を示すことができるかがポイントになる。ワクチン接種圧倒的支持の僕ですらこのように感じるのだから、多くの人にとってはなおさら強く感じるに違いない。

火力か?原子力か?

現在、火力発電に頼るべきか?原子力発電に頼るべきか?と言う論争が様々なところでなされている。それぞれ言い分はあるが、全体を見渡すと完全に二分されているように思える。しかし大まかには、現実派には原子力派が多く、理想派には火力派(と言うよりも脱原発派)が多いように感じる。

では火力の問題点は何か?それは言うまでもなく、CO2(二酸化炭素)排出問題であり、化石燃料問題であろう。確かにそれらの問題は深刻だ。場合によっては人類の存亡にもかかわる。善か?悪か?と問われれば間違いなく悪だ。しかし火力が悪だからと言って、原子力にすればよいか、と言うとそんな単純な問題ではない。しかし世間では、「火力が悪だから、現実的に原子力を続けるべきだ」と言う意見が多々聞かれる。しかし悪の対極は善とは限らない。僕がこれまで何度も言った来たように、「善か?悪か?」ではなく、「悪か?最悪か?」と言う問題なのである。僕自身も、火力が悪だとしたら、原子力は最悪だと考えている。

なぜ原子力は最悪なのか?それはよく言われているように、事故の危険性があまりにも高く致命的だからだ。それは福島第一原発事故を見ても明らかだ。よく原発事故が起こる確率は限りなく低いと言われている。しかし、1%の確率で風邪をひくのと1%の確率でガンになるのでは深刻度は全く異なる。それと同じで、例え原発事故の起こる可能性が1%以下だとしても、その1%が限りなく致命的なのである。

そしてもう一つ重要な問題は、核廃棄物の処分問題だ。すなわち発電したのは良いが、それによって出たゴミを処分するところがない(あるいは大幅に不足している)。家庭ごみならば燃やすなり埋めるなり対処の仕方はいろいろあるが、核廃棄物はその性質上、問題なく処分することは限りなく困難だ。そしてそのつけは未来の世代に回ってくる。なので、我々の世代だけ生き延びればいいのならほとんど問題はないが、後世の人達にとっては甚だ迷惑であるだけでなく死活問題である。

結論を言うと、これから二十年、三十年乗り切るだけなら明らかに原発の方がメリットが大きい。しかし未来の世代の事を考えると、原子力と言う選択肢はないはずだ。やはりここでも、「悪か?最悪か?」と決断を迫られたときに迷わず「悪」を選択する事が求められている。

最後まで国民と向き合わない総理だった。

9月3日、菅氏が総裁選に出馬しないことを表明した。これまで散々菅氏を非難してきた僕であったが、もう辞任するのが決定したのだからこれ以上非難するのは止めようとも思ったが、菅氏の会見を見てそんな気も吹っ飛んでしまった。なぜならこのような重要な会見でさえも、二分間一方的に話して終わりと言う、なんとも自分本位な、そして国民と全く向き合う気がないものであったからだ。

菅氏が総理に就任した直後、世間やメディアは「菅氏はイチゴ農家の息子で苦労人だからいい人だ」と浮かれていたが、僕はその時から菅氏を批判し「菅政権は必ず短命に終わる」と言い切っていた。そして菅政権が終わろうとする今、確実に言えることは、「菅氏は最後まで国民と向き合うことはなかった」と言う事だ。菅政権時代の約一年間、確かにコロナ禍の下での政治と言う非常に難しい局面であったが、多くの人が「誰がなっても同じだった」と言っている事には僕は違うと言いたい。菅総理に決定的に欠けていたことは、「自分の言葉で国民に語り掛ける」と言う事だ。すなわちそれができていないと言う事は、国民と向き合っていないと言う事でもある。そして多くの人の目には、「自分の政治生命を守ることしか考えていない自分本位な総理」と映っていたはずだ。

では「誰が総理になっても同じだったか?」と言う問題であるが、もしドイツのメルケル首相のような、自分の言葉で真剣に国民に語り掛けることができる総理なら、少なくとも多くの国民は「総理の言うように、もう少し自粛して我慢しよう」と言う気になったはずだ。しかし現実は皆の知るとおりである。総理が語りかけ、より多くの人がそれに共感したのならば、コロナ禍の状況も今よりましな状況であっただろう。

そして特にコロナ禍のような難しい状況下で言えることだが、政治的判断は「善か?悪か?」ではなく「悪か?最悪か?」と言う事が問われている。そのような時、迷わず「悪」を取れるリーダーでなければならない。しかし菅氏は自分の保身に固執するあまり、「善」を取ろうとして、結局「最悪」になってしまった。ほぼ全ての判断がそうだった。そしてGoToキャンペーンを行い、五輪を行った。もちろん五輪に出ているアスリートは全く悪くない。そして僕も五輪を行ったことを全否定しようとは思わない。しかし菅氏は五輪を行うことに対して、「なぜすべきなのか?」と言う事を自分の言葉で全く語り掛けようとしなかった。「安心・安全」とオウムのように繰り返すだけで、そこには五輪によって支持率を上げようとする自分本位の考えしか見えない。そして菅氏にとっても「善」を取ったつもりが「最悪」になってしまった。

最後に次期総裁選に話を移すが、現在数人の政治家が立候補を取り沙汰されている。その中でも僕にとってうれしいのは、石破氏と河野氏が有力だと言われていることだ。石破氏には二階氏が支持して裏で操るのでは?と言う声も聞かれているが、僕はそんなことは全く心配していない。例え二階氏の支持で総理になったとしても、石破氏は操り人形になるような政治家ではないからだ。これからの政治において最も困難かつ重要になってくるのは、コロナ対策と並び中国問題だ。その点、石破氏と河野氏は断固とした態度を持って対応してくれると確信している。二人ともそのような信念のある政治家だ。小泉進次郎氏の名前も出ている。小泉氏はまだ未知数なところが多いが、それは逆に言うと未知なところに期待が持てるとも言える。岸田氏や高市氏の名前も出ている。前の首相(菅氏)があのような政治家だったこともあり、どの候補もかなり期待が持てるように感じてしまう。僕は新生自民党にかなり期待している。

コロナ禍は第五波で終わる。ただし・・・

現在、コロナ禍は第五波の真っただ中で、特に変異株「デルタ株」が猛威を振るっている。そのような中、多くの人は「第六波」「第七波」がこの後に襲ってくるのではと考えているのではないだろうか?しかし僕は大きな波は「第五波」が最終のものになるのではと考えている。その理由は後に述べるが、ただ勘違いしてはならないのは、現在(8月23日)くらいをピークに収まっていくと言っているのでは決してない。現在急増している感染者数がこれからさらに急激になり、感染者爆発を起こすのではと考えているのである。すなわち現在感染者爆発していると考えられているのは序章で、これから現在の何倍、いやもしかしたら十倍以上の感染者を出す可能性も十分にあると考えている。そしてこの第五波は、これから二か月以上続くのではと考えている。

その理由は、もちろんデルタ株の存在だ。デルタ株は従来の株に比べて感染力が増し、重症化率も高くなってきていると言われている。その一方、無症状の人達もたくさんいると言われている。それはクラスターが起きた場所でPCR検査をすると大量の感染者が明らかになることからもわかる。そしてもう一つ爆発の要因になるのが、9月に学校が新学期を迎えることだ。確かに去年の夏休み明けは爆発することはなかった。しかし今年は違う。コロナウイルスのほとんどが感染力の高いデルタ株に置き換わっているからだ。そしてデルタ株は年少者でも容易に感染することが言われており、学校と言う集団生活の中で感染が一気に広まることは十分に想定できる。なのでその対策として新学期を一か月ずらし、その一か月の間にワクチンを若者の間にも浸透させることが有効だ。もちろん全ての若者にワクチンを行き渡らせるのは困難な状況だが、しかしこの一か月の猶予は非常に大きいと考えている。もちろん可能なら一か月ロックダウンするのが最善の策だが・・・。

次にこの先、第五波が最終になる理由を述べる。それは言うまでもなくワクチンの接種の浸透だ。ワクチン接種が行き渡ると収束させられる可能性は高くなる。しかし以前は60%で集団免疫が付くと言われていたが、感染力が高いデルタ株に置き換わった現在、おそらくそのラインはさらに高くなる。70%、もしかしたら80%とかになるのではないか。しかし収束しないシナリオも当然考えられる。その最大の要因は「新たな変異株」が現れることだ。そうなるとワクチン政策も振出しに戻る可能性もある。もちろんそのような変異株が現れないことを望むが、変異は一定の確率で起こるので、感染者数が多くなるとそれに比例して変異株の出現率も高くなる。実際デルタ株が現れたのも、感染が大爆発したインドが震源と言われている。

長い目で対策を練るのも大切だが、おそらく今が一番厳しい時だと僕は考えている。なのでまずは今を生き延びる事が大事だ。そのような対策としてはいろいろ考えられる。まずはワクチンを接種するのが最強であろう。しかし今ワクチン(例えばモデルナ)を接種しても、その効果が発揮されるまでには6週間かかる(二度目までの間隔4週間+二度目接種後2週間)。しかし打たないより打つ方が圧倒的にリスクを下げられる。日本では接種するかどうかは本人の判断に任されているので、正確な情報を基に的確な判断を下してもらいたい。そしてもちろん、学校が再開されたのに登校を避けると言う判断はし辛い。なのでそこは政府が的確な判断を下すべきだ。とにかくこの第五波は非常に厳しい波になるであろう。

数学書一冊で千杯飯が食える!

もし本を一冊しか買えないとしたら、どのような本を買うだろうか?多くの人は小説だとか雑誌を買うかもしれない。あるいはサイエンスの解説書だろうか?ではその一冊の本でどれだけの時間を楽しめるだろうか?雑誌だとせいぜい三十分もあれば読み切れてしまう。文字の多い小説であっても五時間もあればだいたい読み切れてしまうだろう。すなわち小説を買ったとしても、たった五時間しか楽しめないのだ。

しかし数学書ならどうだろう。それも単なる解説書ではなく、ある程度本格的な数学書、あるいは大学レベルの数学の教科書でもいい。そのような数学書ならそれだけで確実に飯が千杯食える。すなわち一年間はその一冊で過ごせるのだ。これほどコストパフォーマンスに優れたエンターテイメントは他にない。数千円出してディズニーランドに入園しても、10時間もすれば終わってしまう。しかし一冊の数学書を数千円で買って数学エンターテイメントに入り込めば、一年間遊び放題なのだ。

僕はかなりのお金を書籍につぎ込んでいる。そのほとんどは数学書、あるいは物理学書だ。本棚には(おそらく)千冊くらいの本が並んでいる。そのように本を買いまくるのには理由があるが、ただ単に一年間遊び続けたいだけなら数学書一冊で物足りるのだ。しかし本格的な数学書を買う人は多くはない。数学や科学の本を買うにしてもなぜかお手軽な雑誌などに行ってしまう。確かに中学生くらいならそれでいいかもしれない。しかし高校まで数学を学んだのなら、本格的な大学レベルの数学の教科書を読まなければもったいない。何のために数学(算数)を12年間学んできたのか?その答えが数学書に取り組むことによって見つかる。

まずは解析学の教科書でも買って、数式と格闘してみよう。そうすれば少しだけ物事の本質が見え、これまでとは少し違った価値観に目覚めるはずだ!